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2022年3月1日 (火) 18:22時点における版
満洲 | |||||||||||
中国語 | |||||||||||
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繁体字 | 滿洲 | ||||||||||
簡体字 | 满洲 | ||||||||||
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ロシア語 | |||||||||||
ロシア語 | Маньчжурия |
満洲(まんしゅう、拼音:Mǎnzhōu、英語: Manchuria)は、黒竜江(アムール川)・松花江流域を中心とするユーラシア東北部[1]、今日の中国東北地方からロシア沿海地方、歴史的にツングース系諸集団の活動空間であり、ヨーロッパ人が「東のタルタリ (la Tartarie orientale)」と呼び、日本語で東韃と訳され、満洲族の台頭とともに「満洲族の地 (terres des Mantchoux)」とも言われた[2]。19世紀以降、日本や欧米では地域名として一般的に用いられるようになり、ロシア沿海地方も含まれていたが、1860年の北京条約により沿海地方を清がロシア帝国へ割譲して以降、日本や欧米では「満洲」とは「東三省」地方を意味するようになった[3]。漢字表記は「満洲」が正式である[4]。
「満洲」という言葉は、もともとは17世紀にはおもに民族名を指していたが、地域名に転用されたものである。19世紀以降の日本では満洲・満洲国とは地域をさし、民族は「満洲族」と呼ぶようになった。
満洲の範囲
おおむね北辺はスタノヴォイ山脈、南辺は長城、西辺は大興安嶺、東辺は鴨緑江・図們江(豆満江)の内側を想定している。しかしながら、マンチュリアの範囲は歴史的変化に伴い、その範囲は伸縮していた[5]。
日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。[要出典]
この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)・ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。[要出典]
広義の満洲としては、モンゴル民族の居住地域であるが満洲国に属していた内モンゴル自治区の東部、「東四盟」と呼ばれる赤峰市(旧ジョーオダ盟)・通遼市(旧ジェリム盟)・フルンボイル市(旧フルンボイル盟)・ヒンガン盟が含まれることが多い。[要出典]
また、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南、黒竜江以北、ウスリー川以東のロシア領の地域を外満洲と呼び、場合によってはこの地域をも含むことがある。外満洲は満洲と同様に、ネルチンスク条約(1689年)で清朝領とされたが、その後のアイグン条約(1858年)・北京条約(1860年)によりロシアに割譲された。外満洲を含めた面積は、約1,550,000km2に及ぶ。[要出典]
満洲の歴史 | |||||||||||||
箕子朝鮮 | 東胡 | 濊貊 沃沮 |
粛慎 | ||||||||||
燕 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
秦 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
前漢 | 遼西郡 | 遼東郡 | 衛氏朝鮮 | 匈奴 | |||||||||
漢四郡 | 夫余 | ||||||||||||
後漢 | 遼西郡 | 烏桓 | 鮮卑 | 挹婁 | |||||||||
遼東郡 | 高句麗 | ||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
魏 | 昌黎郡 | 公孫度 | |||||||||||
遼東郡 | |||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
西晋 | 平州 | ||||||||||||
慕容部 | 宇文部 | ||||||||||||
前燕 | 平州 | ||||||||||||
前秦 | 平州 | ||||||||||||
後燕 | 平州 | ||||||||||||
北燕 | |||||||||||||
北魏 | 営州 | 契丹 | 庫莫奚 | 室韋 | |||||||||
東魏 | 営州 | 勿吉 | |||||||||||
北斉 | 営州 | ||||||||||||
北周 | 営州 | ||||||||||||
隋 | 柳城郡 | 靺鞨 | |||||||||||
燕郡 | |||||||||||||
遼西郡 | |||||||||||||
唐 | 営州 | 松漠都督府 | 饒楽都督府 | 室韋都督府 | 安東都護府 | 渤海国 | 黒水都督府 | 靺鞨 | |||||
五代十国 | 営州 | 契丹 | 渤海国 | 靺鞨 | |||||||||
遼 | 上京道 | 東丹 | 女真 | ||||||||||
中京道 | 定安 | ||||||||||||
東京道 | |||||||||||||
金 | 東京路 | ||||||||||||
上京路 | |||||||||||||
東遼 | 大真国 | ||||||||||||
元 | 遼陽行省 | ||||||||||||
明 | 遼東都司 | 奴児干都指揮使司 | |||||||||||
建州女真 | 海西女真 | 野人女真 | |||||||||||
清 | 満洲 | ||||||||||||
東三省 |
ロマノフ朝 (沿海州/緑ウクライナ/江東六十四屯) | ||||||||||||
中華民国 (東三省) |
極東共和国 ソ連 (極東) | ||||||||||||
満洲国 | |||||||||||||
ソ連占領下の満洲 | |||||||||||||
中華人民共和国 (中国東北部) |
ロシア連邦 (極東連邦管区/極東ロシア) |
北朝鮮 (薪島郡) | |||||||||||
中国朝鮮関係史 | |||||||||||||
Portal:中国 |
満洲は本来、地名ではなく民族名である。漢字表記では五行説の「水」徳を意識して、民族名および王朝名である「満」「洲」「清」いずれもさんずいの字が選ばれた。
民族名の「マンジュ」(Manchu、manju、満洲民族)は、のちに清朝の太祖の廟号と与えられるヌルハチの支配領域をマンジュ・グルン(manju gurun、満洲国)と呼び、清の創始者であるホンタイジが、1634年に元の玉璽を入手した際にそれまでの呼称ジュシェン族(女真・女直)が「属民」を意味したため、これを禁止し、この呼称に統一したという。
由来については諸説あり、一般には民族信仰であった仏教のマンジュシリ(文殊菩薩。曼殊・満殊などとも書く)によるといわれることが多い。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、チベット仏教由来説を否定する説も提出されている。
「満洲」が地名の意味を持ったきっかけは、この地域が清の支配民族の満洲民族の居住地域であったことから、西欧語で「マンチュリア」(Manchuria)と呼ばれるようになったからである。これに対応して漢字文化圏でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。その説では高橋景保の「日本辺疆略図」(1809年)・「新訂万国全図」(1810年)が初出とされる。この地図ではネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという。
シドニー・ギューリックは『日本へ寄せる書』において、「支那における排日運動は極めて徹底したものである。一般民衆に排日思想をふき込む許りでなく子供の排日教育にも力を注ぎ、このためには歴史上の事実さへも歪め、虚偽の歴史を教えて子供の敵愾心をそそり、憎悪の念を植え付けていった」「例えば満洲は支那本土の一部であるにもかかわらず日本がそれを奪ったと教える。しかし歴史上満洲が支那の一部であった事実は未だ一度もなく、逆に支那本土が満洲の属国であった歴史上の事実がある位である。これなどは全然逆な事実を教えるものであるが、その目的は一に満洲から日本の勢力を駆逐しようとするところにあったわけである」と述べている[6]。
現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」が使われる。これは中国における歴史に対する公式見解で、満洲国の存在を認めず、また満洲の地を太古から不可分の中国人固有の地としているためである。今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲を詐称しているとして、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。ただし現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われている。民族名として「満族」と呼称しており、「満洲」の語を使うことを禁止している[要出典]。また、かつては中国共産党は、中国共産党満洲省委員会をハルビンに設置するなど、「偽」という言葉を用いないで満洲という言葉を使用した例はあった。
満洲語
満洲語(まんしゅうご)は満洲族が話す言語。清朝では公用語。満洲語の話者は中国政府の同化政策により満洲族の間でも現在では極めて少なくなり、消滅の危機に瀕する言語の一つである。詳しくは満洲語を参照。
満洲略史
歴史的にこの地域は、古くは遼河文明が栄え、その後は主にツングース系諸民族や濊貊族などの北方諸民族の興亡の場であった。北方民族のみならず、西部からはモンゴル系、東部からは朝鮮系の民族が勢力を張る事もあり、南部からは記録上周王朝に周に属する燕が勢力を伸ばし、後に遼東郡・遼西郡などが置かれていた。この頃の万里の長城は現在より北に位置し遼西・遼東をも囲んでいた。三国時代には公孫氏の地盤となり、公孫瓚が群雄の一人として勢力を張り、公孫淵が自立を図るなどしている。周王朝の時代から粛慎が遊牧しており、時代と共に挹婁・勿吉・靺鞨へと古代中国側から見た名称は変遷した。
満洲の南部には濊貊族が建てた夫余(前1世紀から5世紀)、夫余の王族が建てたとされる高句麗(前1世紀から7世紀)、靺鞨族の建てた渤海(698年から926年)など、モンゴル系とされる鮮卑の前燕・後燕などや契丹の遼(916年から1125年)なども存在した。チベット系の氐族の立てた前秦(351年から394年)の支配が一部及んだ事もある。12世紀には靺鞨の子孫とされる女真族が金を建国、遼と北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。
金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元朝)に滅ぼされ、この地は元朝の支配下に入る。次いで元朝は漢民族の明朝に倒され、一時は明朝の支配下となり、明朝に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれた。後に女真族等、現住氏族居住域は冊封による間接統治に改められたが、撫順などの拠点は残されており、遼西・遼東の地は万里の長城の支線が囲っており、明の支配下にあった。
17世紀に女真族から名称変更した満洲族が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明朝に代わり、満洲地域及び中国内地全体が満洲民族の支配下に入る。清朝は建国の故地で後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。後には奉天府を改めて東三省総督を置き、東省または東三省(奉天・吉林及び黒竜江の3省)と呼んだ。
当初は「遼東招民開墾例」(1644年)をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し、漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた(清露国境紛争)。ヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなど、ロシア人の探検隊が黒竜江流域に南下・侵入し、村落を焼いたり捕虜をとったり毛皮を取り立てたりして植民地化の動きを見せたため、これを追い出し国境を定める必要が生じた。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。この民族移動のことを「闖関東」という。1860年の満洲(遼寧・吉林・黒龍江の東三省)の人口は320-370万人ほどと見積もられており、それが、1908年には1583万あるいは1734万人、1931年の満洲事変前には3000万人、1945年の満洲国崩壊前には熱河省も含めて4500万人まで増加している。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増したとも言われるが、清朝崩壊以前から人口増加率に大きな違いは無い。
1900年には義和団の乱に乗じてロシアが満洲を軍事占領した(満洲還付条約)。ロシア軍によってブラゴヴェシチェンスクで清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きる。
1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていたロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。翌1912年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言し、袁世凱の勢力圏であった満洲も中華民国政府の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から、中華民国は各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、満洲でも張作霖の軍閥が台頭しその支配下となる。
1905年に欧米視察旅行をおこなった白鳥庫吉は、日本のアジア研究の遅れを痛感し、後藤新平に「満洲の歴史編纂の急務」と題する書簡を送り、「満洲の地は漢人種と北方諸民族と韓民族との会合点にあり、此の地に勢を得しもの常に四隣を脅かして東亜の形勢を変動せしめ、韓半島は其の南下の衝に当りて常に之に圧服せられ、我が国また之によって至大の影響をうくというにあり」という認識にたち、満洲研究が最も緊切必要であることを説いている[7]。
北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、一次大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。
ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの権益の武力による略奪を行おうとした。これに対しソ連は権益地を有する北満洲に侵功、占領し、中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。
1931年に日本(大日本帝国)は自ら起した柳条湖事件を契機に、権益地が含まれる南満洲のみならず満洲全域を侵攻、占領し、翌1932年に満洲国を建国した(満洲事変)。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。これは清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀の退位後の仕事として、日本軍から半ば強制的に割り当てられたものであった。満洲国は事実上日本の支配下となり、傀儡政権と呼ばれることになった。日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて産業投資を行い、品種改良で寒さに強い品種を植えることで不毛の地ばかりだった満洲に農地が多数開墾され、荒野には工場を建設して開発した。満洲で治安が良くなり、交通が開け、貨幣が統一された。満洲国建国以前の満洲では、軍閥が独自紙幣を発行し、奥地になるほど治安が悪く、農民は安心して耕作ができなかった。満洲国は統一した通貨を発行して、満洲各地で流通させたことで信頼のある貨幣経済が成立した。奥地にまで道路や鉄道が建設され、治安が良くなると農民も農作物を市場に出して稼ぐようになった。電話線など通信網も張り巡らせ、奥地など満洲の地方にも病院や工場、また初等教育への進学率低かった対策に学校も設立した。日本による投資を受けて経済的に豊かになり、群雄割拠状態で乱れていた中華民国時代からの突然の経済発展を受けて、中国民国側から豊かさを求めて多くの移民が流入した。そのため、満洲国地域における日本人以外の人口は満洲国建国以前よりも増加した。背景にはインフラがほとんどなかったが投資・開発を受けて居住可能地域が増加したこと、日本から持ち込まれた品種からも農耕作可能地域が増加したことにある。満洲国が成立した1932年には約3000万人だったが終戦までには約4500万人に増加した。3万人の小さな町が近代都市に発展して、約13年間で300万人に膨れ上がっている[8]。ただし、人口増加率で見ると満洲建国前と大差はない。
1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊し、ソ連は満洲を占領して中華民国への返還を遅らせた(東北問題)。その後、中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。暫くはソ連との結びつきの強い高崗が独自の地方運営を行っていたが[9]、後に毛沢東に粛清された。満洲地域は満洲国時代のインフラ整備・開発政策の成果が残っていたため、共産主義体制下の中華人民共和国でも豊かな土地であった。しかし、1990年代以降の改革開放政策により、上海や深圳市など華東・華南の経済特区の経済成長が著しくなる一方、満洲国時代のインフラのままだったことで、逆に経済的には立ち遅れた地域となった[10]。中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定した。
満洲に存在した日本の株式会社
- 南満洲鉄道株式会社
- 満洲重工業株式会社
- 満洲航空株式会社
- 満洲海運株式会社
- 株式会社満洲映画協会
- 満殖公社
- 満洲電信電話株式会社
- 株式会社昭和製鋼所(後の満洲製鉄株式会社)
- 日満商事株式会社
- 株式会社辰村組
脚注
- ^ 杉山清彦「大清帝国のマンチュリア統治と帝国統合の構造」左近幸村編『近代東北アジアの誕生—跨境史への試み—北海道大学スラブ研究センター スラブ・ユーラシア叢書4』北海道大学出版会、2008年12月25日 第1刷発行、ISBN 978-4-8329-6700-7、238頁。
- ^ 中見立夫「二〇世紀における「満洲/Manchuria」とは?」貴志俊彦・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史辞典』吉川弘文館、二〇一二年 (平成二十四年) 十二月十日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-01469-4、解説2頁。
- ^ 中見 (2012)、解説4頁。
- ^ “読むページ | 生活の中の仏教用語 | 満洲”. www.otani.ac.jp. 大谷大学. 2021年1月14日閲覧。
- ^ 塚瀬進『マンチュリア史研究 「満洲」六〇〇年の社会変容』吉川弘文館、二〇一四年(平成二十六)十一月一日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-03837-9、一頁。
- ^ 拳骨拓史『「反日思想」歴史の真実』扶桑社〈扶桑社新書〉、2013年6月1日、17頁。ISBN 978-4594068202 。
- ^ 酒寄雅志『渤海史研究と近代日本』明治大学史学地理学会〈駿台史学 (108)〉、1999年12月、7頁 。
- ^ 黄文雄 (2006). 今こそ中国人に突きつける 日中戦争真実の歴史 p56. 徳間書店
- ^ 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』(講談社、2004年)、117ページ
- ^ 黄文雄 (2006). 今こそ中国人に突きつける 日中戦争真実の歴史 p143. 徳間書店
関連文献
- 貴志俊彦・松重充浩・松村史紀編『二〇世紀満洲歴史事典』吉川弘文館、2012年12月、総840頁
- 『世界各国史』山川出版社
- 『民族の世界史』山川出版社
- 『満洲の誕生』丸善ライブラリー