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2022年2月14日 (月) 00:26時点における版
スペンサー・ホレーショ・ウォルポール Spencer Horatio Walpole | |
---|---|
1860年代のウォルポール | |
生年月日 | 1806年9月11日 |
没年月日 | 1898年5月22日 (満91歳没) |
死没地 | イギリス、ロンドン、イーリング |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)、勅選弁護士(QC) |
親族 |
初代ウォルポール男爵(曾祖父) 第2代エグモント伯爵(祖父) スペンサー・パーシヴァル(叔父) |
内閣 |
第1次ダービー伯爵内閣 第2次ダービー伯爵内閣 第3次ダービー伯爵内閣 |
在任期間 |
1852年2月27日 - 1852年12月19日 1858年2月25日 - 1859年2月[1] 1866年7月6日 - 1867年5月17日[1] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
ミッドハースト選挙区 ケンブリッジ大学選挙区[2] |
在任期間 |
1846年1月30日 - 1856年 1856年2月11日 - 1882年[2] |
スペンサー・ホレーショ・ウォルポール(英語: Spencer Horatio Walpole, PC, FRS, QC、1806年9月11日 - 1898年5月22日)は、イギリスの弁護士、政治家。
ヴィクトリア朝の保守党政権下で内務大臣を3度にわたって務めた。
経歴
1806年9月11日にスタグベリーに居を構えるトマス・ウォルポールとその妻マーガレット(第2代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァルの娘)の次男として生まれる[3][4][5]。
曽祖父の初代ウォルポール男爵ホレーショ・ウォルポールは、イギリス初代首相である初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールの弟にあたる[6]。またイギリス首相スペンサー・パーシヴァルは母方の叔父にあたり、ファーストネームの「スペンサー」は彼に由来する[3]。
イートン・カレッジを経て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学し、1828年にバチェラー・オブ・アーツ(BA)、1831年にマスター・オブ・アーツ(MA)の学位を取得。1827年にリンカーン法曹院に入学し、1831年には弁護士資格を取得[4]。裁判長サー・ジョン・ロミリーの信任を得て、1852年の弁護士業引退までその法廷の重大事件ほぼすべてに関与した。1846年には勅選弁護士に選ばれる[3]。
1846年1月30日に母方のエグモント伯爵家が影響力を持つミッドハースト選挙区から当選して保守党所属の庶民院議員となる。1856年にはケンブリッジ大学選挙区に転じており、以降1882年の政界引退までここから当選した[3]。
1852年2月から12月にかけては第1次ダービー伯爵内閣に内務大臣として入閣し[7]、民兵の再編成を主導した[3]。
1858年2月に第2次ダービー伯爵内閣が成立すると再度内務大臣として入閣したが[8]、同内閣で検討された選挙法改正法案をめぐってウォルポールは通商長官J・W・ヘンリーとともにバラとカウンティの選挙区の選挙資格を同一にすることに反対し[9]、1859年1月に職を辞した[3]。
1866年に第3次ダービー伯爵内閣が成立すると三度内務大臣として入閣[10]。前ラッセル伯爵政権の選挙法改正法案挫折で民衆の選挙法改正運動が激しくなっている時期であり、ウォルポールはハイド・パークでの集会許可をめぐって選挙法改正連盟と対立を深め、民衆の憎悪の対象となった[3]。1867年5月、ハイド・パークでの暴動を機に内務大臣を辞したが、第3次ダービー伯爵内閣が総辞職する1868年2月まで無任所大臣として内閣に留まった[3]。
栄典
- 1852年、枢密顧問官(PC)[11]
- 1853年、名誉民事法学博士号(DCL)(オックスフォード大学名誉学位)[3][4]
- 1860年、名誉法学博士号(LLD)(ケンブリッジ大学名誉学位)[3][4]
- 1860年、王立協会フェロー(FRS)[12]
家族
1835年に母方の叔父にあたるイギリス首相スペンサー・パーシヴァルの娘イザベラ(従姉弟)と結婚し、彼女との間に2男1女を儲けた。長男スペンサー・ウォルポールは郵便局長を務め、次男ホレーショ・ジョージ・ウォルポールはインド担当副大臣の補佐官を務めた[3]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 秦(2001) p.509
- ^ a b UK Parliament. “Mr Spencer Walpole” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年8月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l Walpole, Spencer [in 英語] (1899). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 59. London: Smith, Elder & Co. pp. 209–211.
- ^ a b c d "WALPOLE, SPENCER HORATIO (WLPL824SH)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ Lundy, Darryl. “Rt. Hon. Spencer Horatio Walpole” (英語). thepeerage.com. 2014年8月19日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Robert Walpole” (英語). thepeerage.com. 2014年8月19日閲覧。
- ^ "No. 21296". The London Gazette (英語). 27 February 1852. p. 634. 2015年4月29日閲覧。
- ^ "No. 22103". The London Gazette (英語). 26 February 1858. p. 1019. 2015年4月29日閲覧。
- ^ 横越(1960) p.341
- ^ "No. 23134". The London Gazette (英語). 6 July 1866. p. 3869. 2015年4月29日閲覧。
- ^ "No. 21296". The London Gazette (英語). 27 February 1852. p. 633. 2015年4月29日閲覧。
- ^ "Walpole; Spencer Horatio (1806 - 1898)". Record (英語). The Royal Society. 2015年4月29日閲覧。
参考文献
- 横越英一『近代政党史研究』勁草書房、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAPE20。
- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Spencer Walpole
- "スペンサー・ホレーショ・ウォルポールの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- Spencer Horatio Walpole (1806-1898) - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- Spencer Walpole - Find a Grave
公職 | ||
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先代 サー・ジョージ・グレイ准男爵 |
内務大臣 1852年 |
次代 第3代パーマストン子爵 |
先代 サー・ジョージ・グレイ准男爵 |
内務大臣 1858年 - 1859年 |
次代 トマス・ソセロン=イーストコート |
先代 サー・ジョージ・グレイ准男爵 |
内務大臣 1866年 - 1867年 |
次代 ギャソーン・ハーディ |
先代 無し |
無任所大臣 1867年 - 1868年 |
次代 無し |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
先代 サー・ホレス・シーモア |
ミッドハースト選挙区選出庶民院議員 1846年 - 1856年 |
次代 サミュエル・ウォーレン |
先代 ヘンリー・ゴールバーン ロフタス・トッテンハム・ウィグラム |
ケンブリッジ大学選挙区選出庶民院議員 1856年 - 1882年 同一選挙区同時当選者 ロフタス・トッテンハム・ウィグラム(1856-1859) チャールズ・ジェスパー・セルウィン(1859-1868) アレクサンダー・ベレスフォード・ホープ(1868-1882) |
次代 アレクサンダー・ベレスフォード・ホープ ヘンリー・セシル・レイクス |