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「能美 (海防艦)」の版間の差分

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12月4日から11日まで[[佐世保海軍工廠]]で整備、磁差修正等を行う。整備中の10日、第一海上護衛隊は[[海上護衛隊#第一護衛艦隊|第一護衛艦隊]](司令長官[[岸福治]]中将)に改編された{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=624}}{{Sfn|日本海防艦戦史|1994|pp=129-130|ps=第一護衛隊、第一護衛艦隊に昇格}}。
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2022年2月6日 (日) 13:42時点における版

能美
能美(1944年2月 大阪湾)
能美(1944年2月 大阪湾)
基本情報
建造所 日立造船桜島造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 海防艦
級名 御蔵型海防艦
建造費 5,112,000円(予算成立時の価格)[注 1]
艦歴
計画 マル急計画
起工 1943年8月10日
進水 1943年12月3日
竣工 1944年2月28日
最期 1945年4月14日被雷沈没
除籍 1945年5月25日
要目(竣工時)
基準排水量 940トン
全長 78.77m
最大幅 9.10m
吃水 3.05m
主機 艦本式22号10型ディーゼル2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.5ノット
燃料 重油 120トン
航続距離 16ノットで5,000カイリ
乗員 定員149名[注 2]
兵装 45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
25mm機銃 連装2基
九四式爆雷投射機2基
爆雷120個
単艦式大掃海具1組
搭載艇 短艇3隻
レーダー 22号電探1基
ソナー 九三式水中聴音機1基
九三式水中探信儀1基[1]
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能美(のうみ)は[2]日本海軍海防艦[3]御蔵型海防艦の4番艦[4]。艦名は広島県能美島にちなむ。

艦歴

計画-竣工-練成

マル急計画の海防艦甲、第310号艦型の17番艦[注 3]、仮称艦名第326号艦として計画。1942年2月14日、海防艦乙の基本計画(基本計画番号E20)が決定したため、それに従って建造されることとなった。当初は第322号艦型となっていたが、後に予定を繰り上げて第320号艦を第1艦とした第320号艦型に改められた。

1943年(昭和18年)8月10日、日立造船株式会社桜島造船所で起工[5]。12月3日、進水。22日、能美(ノウミ)と命名される[2]。本籍を横須賀鎮守府と仮定し、御蔵型海防艦の4番艦に定められる[4][注 4]

1944年(昭和19年)2月28日、能美は竣工した[5][8]。本籍を横須賀鎮守府に、役務を横須賀鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められる[9]。 同日付で能美は呉鎮守府隷下の呉防備戦隊に編入され[10][11][12][注 5]、基礎術力練成教育に従事。

1944年3月-6月 第二海上護衛隊(東松船団護衛)

1944年(昭和19年)3月15日、能美は呉防備戦隊からのぞかれる[13][14]。同日付で、海上護衛総司令部隷下の第二海上護衛隊に編入された[13][15][注 6]。 3月16日、足摺岬沖合で雷撃され、爆雷攻撃をおこなう[16]。その後、能美は松輸送に投入された[5]

22日、第一護衛船団司令官伊集院松治少将[17](旗艦:軽巡洋艦夕張[18]の指揮下、能美や平戸などは東松三号船団[19](10隻[注 7])を護衛して東京湾館山沖合を出発する[20]。能美はパラオ行き船団の護衛に割り当てられ、28日に船団が分割されてからはパラオへ向かったが、30日に発生したパラオ大空襲[21]のためサイパンに退避した。その後出港しなおして4月中旬、パラオ着[22]。4月下旬、東京湾に戻った。

4月28日、第五護衛船団司令官吉富説三少将[23]が率いる東松7号船団(15隻[注 8])を護衛して東京湾を出発する。5月6日、東松7号船団はサイパンに到着した[24][注 9]。 5月7日から8日にかけて船団を護衛し、サイパンとグアムを往復[28]。9日から11日にかけて東松六号船団を護衛。14日から15日にかけてグアム沖で対潜掃蕩に従事。16日から20日にかけて船団を護衛し、グアムとサイパンを往復。20日、4520甲船団(旗艦能美)を護衛して横須賀へ向けサイパン発[29]。26日、横須賀に帰投[28]

6月3日、第三護衛船団司令官門前鼎少将(旗艦松風)が指揮する3606船団(13隻)を、能美、隠岐らと護衛して東京湾館山沖を出発する[30]。6日に横浜沖を出発、小笠原諸島父島沖を航行中の9日朝に松風(船団旗艦)がアメリカ潜水艦ソードフィッシュの雷撃で轟沈[31]、門前少将も戦死した[32][33]。 第3606船団部隊はサイパン行きを中止し、同日父島に入港した[33]。 能美は東京へ引き返し、14日美保丸船団(4隻)を護衛して東京発。17日、軍隊区分戊直接護衛部隊編入を解かれ、甲直接護衛部隊に編入。

6月23日、能美は横須賀鎮守府作戦指揮を解かれ、横須賀海上護衛部隊より除かれる[34][35]。同23日付で大湊警備府(司令長官井上保雄中将)作戦指揮下、軍隊区分海上護衛部隊に編入される[34][36][37]。宗谷防備部隊に所属[38][39]

27日、能美は青森県大湊に到着した[37][40]。28日、第15号駆潜艇とともに宗谷防備部隊(指揮官は宗谷防備戦隊司令千葉次雄大佐)に編入される[39][41]。6月30日、北海道北端稚内に到着する[37]。 以後、能美は北東方面艦隊に協力し、樺太千島列島北海道方面での船団護衛、哨戒、救難に従事した[41][42]。なお能美が所属していた第二海上護衛隊はサイパン島に司令部があったためサイパン島地上戦玉砕し、7月18日付で解隊された[43]

1944年7月-10月 大湊警備府

1944年(昭和19年)7月2日、能美はキ203船団[注 10]を護衛して稚内を出発した[45]。5日、得撫島着。6日、引き続き同復航船団を護衛して得撫島発。8日、稚内に帰着[45]。同日、大湊へ回航し翌9日に到着[45]。16日、能美は大発を曳航して大湊発。17日、稚内着[45]

7月18日、第二海上護衛隊は解隊される[43]。これにともない横須賀鎮守府在籍の海防艦福江天草、能美の3隻のうち、能美と福江は大湊警備府の警備海防艦に定められる[43][46][注 11]。翌19日、福江も宗谷防備部隊の指揮下にはいる[49]。 能美と福江は、当時の大湊警備府に2隻だけ配備された海防艦として[50]千島列島での船団護衛任務に従事した[51][52]

20日、キ102船団[注 12]を護衛して稚内発[45]。25日、同船団を護衛して稚内に帰着[45]。その後大泊へ回航[45]。 24日、軍隊区分大湊警備府海上護衛部隊に配置[55]。 27日午後、第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)麾下の第7駆逐隊([注 13]は船団護衛中に敵潜水艦発見を報告した[57][58]。 能美は急遽大泊を出動し、対潜掃蕩をおこなう[45][59]。しばらくして誤認と判定され、警戒態勢は解除された[60]。 また第7駆逐隊が護衛していた利山丸が機関故障をおこして単独で小樽に引き返すことになり[58]、能美は潮から利山丸護衛を引き継ぐ手筈であった[61]。高速の駆逐艦にとって、低速の輸送船護衛はやりにくい任務であった[62][63]

7月29日、能美は樺太オハ油田を目指すオハ行船団を護衛して大泊を出撃した[45]。 8月1日、オハを出港した海軍配当船柏栄丸は能美船団と合流予定だったが、同船は濃霧により北知床岬付近で座礁した[64]。宗谷防備隊からは海防艦福江が派遣される[65]。能美は船団護衛を続行し、一旦稚内に回航した。5日夜、能美は海軍徴傭船那須丸(救難船)と同金津丸(給油船)を護衛して遭難現場へ向かう[66]。能美艦長は柏栄丸救難の指揮官に指定された[67]。 10日、柏榮丸から金津丸への重油移載が終了[68]。 13日、前日深夜に敵潜水艦を探知したため能美は対潜掃蕩をおこない[69]、救難部隊は一旦退避した[70]。作業再開後の14日、柏榮丸の船体切断後に後部のみ浮揚した[71]。これを派遣された曳船2隻に曳航させ愛郎湾まで護衛、17日に愛郎湾で柏榮丸を第五十二掃海隊に引渡した[72][注 14]。 能美は補給のため大泊へ移動した。21日、オハへ向かった金津丸を護衛するため、大泊発[75]。23日、オハ沖に到着し、金津丸を護衛し南下[76]。 27日より、能美と福江は宗谷防備部隊直率部隊より除かれる[77]。能美と福江は北東方面艦隊に協力し、北方輸送に従事した[42][78]。 千島方面輸送を担当する千島方面根拠地隊には、第1駆逐隊(野風、波風、神風)や海防艦2隻(国後八丈[50]等が所属していた[79][注 15]

9月5日、能美と駆逐艦波風(第1駆逐隊)は、キ505船団を護衛して小樽[81]。8日夜、僚艦波風はアメリカ潜水艦シールに雷撃され[82]、船体を切断されて航行不能になった[83][84]。 能美は波風の周囲を警戒し対潜制圧をおこなう[85][86]。 大湊警備府は波風救援に駆逐艦野風などを、キ505船団護衛に海防艦国後を、それぞれ派遣した[87]。だがこの間、キ505船団は無防備になっていた[88]。 その後、波風は駆逐艦神風(艦長春日均少佐)に曳航され[89]、駆逐艦野風や海防艦八丈および福江(途中から護衛に協力)等に護衛され[90][91]、小樽に帰投した。

翌9月9日朝、シールはキ505船団を襲撃し、被雷した昭南丸は沈没した[86][92]。 10日朝、能美は昭南丸遭難現場を通過したが、生存者を発見できなかった[93]。 護衛のなくなったキ505船団4隻は樺太敷香に退避していたので[94]、能美と国後は同地に移動する[95]。能美は、大発動艇で脱出していた昭南丸生存者を収容した[96]。 15日、能美と国後は引き続きキ505船団を護衛して敷香発。22日、幌筵島片岡湾着。24日、ヲ403船団を護衛して片岡湾発。国後と能美には、便乗者18名および捕虜4名と警戒員5名が分乗した[97]。同方面にはアメリカ潜水艦シーレイヴンが行動しており、すでに輸送船利山丸を撃沈していた[注 16]

26日朝、国後と能美が護衛していたヲ403船団は北緯47度7分 東経151度35分 / 北緯47.117度 東経151.583度 / 47.117; 151.583地点において濃霧により分散してしまった[100][注 17]。 能美は行方不明になった船団の捜索をおこなう[101]。同26日深夜から27日未明、能美は択捉島北方北緯45度44分 東経148度41分 / 北緯45.733度 東経148.683度 / 45.733; 148.683地点で敵潜水艦と交戦、戦死者7名、重軽傷16名を出した[102][103]。 多数の被弾により、応急修理の上で大湊に回航されることになった[104]。 29日、小樽着[105][106] 10月1日、大湊へ回航のため小樽発[107]。2日、大湊着[107]。同日より大湊で修理をおこなった[5]

1944年10月-1945年1月 第一海上護衛隊/第一護衛艦隊

1944年(昭和19年)10月21日、能美は大湊警備府部隊より除かれ[107]、宗谷防備部隊からの作戦指揮を解かれた[108]。 同21日付で、第一海上護衛隊作戦指揮下に編入される[109][110][111]。能美は内地~シンガポール間の護衛任務に従事することとなった[5]。22日、門司へ回航のため、能美は大湊を出発する[112]。24日、門司[112]。ヒ79船団を護衛することになった[112]

第五護衛船団司令官吉富説三少将(旗艦香椎)が指揮するヒ79船団部隊(練習巡洋艦香椎、海防艦鵜来、能美、第十七号海防艦、敷設艇新井埼、掃海艇21号、加入船舶6隻)は[注 18]、26日に門司を出発する[114]。立ち寄った台湾高雄で、海防艦満珠とタンカー2隻(黒潮丸、良栄丸)が加入する[113]。かわりに、めるぼるん丸[115]と3隻(間宮、香久丸、掃海艇21号)[116]が分離した[117]。11月9日、ヒ79船団部隊はシンガポールに到着した[117]

能美がシンガポールへ向け航行中の11月1日、本艦は第一海上護衛隊に編入されていた[118][119]。シンガポール滞在中の11月15日、第101戦隊[120](司令官渋谷紫郎少将)が新編され、香椎は同戦隊の旗艦となった[注 19]。だが渋谷司令官は香椎に着任できず、ひきつづき第五護衛船団司令官(吉富少将)が香椎より復航のヒ80船団を指揮する[121]。 11月17日、ヒ80船団部隊(護衛隊〈香椎、鵜来、笠戸、能美、満珠、三宅、十七号、新井埼〉、加入船舶8隻)はシンガポールを出港した[122][注 20]サンジャック行の第17号海防艦が分離したあと、同地より第23号海防艦と第51号海防艦が合流する[123][124]。 また台湾行の3隻(新井埼、良栄丸、有馬山丸)を分離したあと[125][126]、ヒ80船団部隊は被害なく12月4日佐世保に到着した[127]

12月4日から11日まで佐世保海軍工廠で整備、磁差修正等を行う。整備中の10日、第一海上護衛隊は第一護衛艦隊(司令長官岸福治中将)に改編された[127][128]。 12日、モタ28船団部隊(護衛隊〈能美、三宅、第20号海防艦、第112号、第138号、ほか2隻〉、加入船舶不明)は佐世保を出発した[129]。22日、モタ28船団部隊は台湾高雄に到着した[129]。25日、ヒ85船団部隊(司令官渋谷紫郎少将)が高雄に到着し、両船団の再編が行われた[注 21]。 26日0900、タマ38船団部隊(護衛隊〈三宅、能美、第20号、第39号、第112号、第138号〉[注 22]、陸軍特殊船〈神州丸吉備津丸青葉山丸日向丸〉)は高雄を出撃した[132]。29日1700、タマ38船団部隊はルソン島サンフェルナンドに到着した[133]。30日の対空戦闘で青葉山丸と第20号海防艦が沈没したが、揚陸はおおむね成功した[134]

1945年(昭和20年)1月1日午前8時、マタ38A船団を護衛していた海防艦干珠生名を加え[135]、マタ40船団部隊(護衛隊〈三宅、干珠、能美、生名、第39号、第112号〉、陸軍特殊船〈神州丸、吉備津山丸、日向丸〉)は高雄にむけサンフェルナンドを出発した[136]。3日早朝、高雄港外に到着した[137]。ここで米軍機動部隊(第38任務部隊)の空襲をうけ神州丸が沈没[注 23]、吉備津山丸が大破、日向丸も小破[139]、海防艦にも損傷艦が出た[140]。4日、能美はタモ35船団と合同のため高雄発、同船団を南澳島まで護衛し、7日高雄に帰着した。

10日、三宅と能美はヒ87船団に加入してシンガポールに向かうことになった[141]。高雄出発時のヒ87船団部隊は、護衛隊(駆逐艦時雨、海防艦干珠〈第七護衛船団司令官駒沢克己少将旗艦〉[142]、三宅、能美、倉橋新南屋久、第13号、第41号、第205号)[143]と特務艦神威ふくめ油槽船6隻となっていた[141]。13日午後、ヒ87船団部隊は香港に到着した[144]。香港在泊中の15日と16日、米軍機動部隊艦上機の空襲でヒ87船団部隊は大打撃をうけ、神威等の沈没や擱座により健在のタンカーはさらわく丸1隻となった[145][146]。護衛隊も次々に損傷し、能美では後部高角砲が破損、戦死者7名であった[147]。17日、ヒ87船団先遣部隊として香港発。22日、サンジャック着。28日、ヒ88B船団(2隻)を護衛してサンジャック発。29日、パンフォン湾に入港。30日、パンフォン湾を発し対潜掃蕩を行ったが、31日に輸送船が2隻とも撃沈された。能美は単艦でサイゴンへ回航。2月3日、サイゴン着。

1945年2月以降 第一海防隊-沈没

1945年(昭和20年)2月4日、船団を護衛しサイゴン発。5日、第一護衛艦隊隷下の第一海防隊に編入される。6日、シンガポール着。11日、ヒ88F船団(2隻)を護衛してシンガポール発。途中、キノン湾とツーランを経由し、船団は能美の修理のため24日に香港に寄港する。26日、能美の修理が終わり船団は香港発。3月8日、門司着。同日呉へ回航し、呉海軍工廠で兵器換装を含む修理と整備を行った。『第一海防隊(海防艦能美)戦時日誌』の記述では、呉での修理中に九四式爆雷投射機を撤去して三式爆雷投射機とし、水中探信儀を仮称三式水中探信儀改二に換装、さらに一号電波探信儀三型改一を装備したとある。

呉で修理中の3月20日に第一海防隊司令海防艦に指定され、海防隊司令池田暎大佐が乗艦した[148][注 24]。 4月2日、修理が終わり出渠。8日まで整備と試運転を行い、9日門司へ回航された。11日、護衛隊(能美、三宅、第31号海防艦)はモシ02船団(特設運送船壽山丸、3,943トン、便乗者約400名)を護衛して門司を出発した[150][注 25]。 13日午後、モシ02船団部隊は済州島飛揚島の泊地に到着し、護衛3隻(能美、海31、三宅)は交替で哨戒することになった[152]。14日未明、泊地に侵入してきたアメリカ潜水艦ティランテの魚雷攻撃により、壽山丸が大爆発を起こして沈没した[153](戦死者約360名)[154]。能美はティランテを追跡したが、ティランテが発射した魚雷2本のうち1本が能美の艦橋直下に命中した[153]。能美はその衝撃で弾薬庫が誘爆、艦体を両断され轟沈した[154][8]。第一海防隊司令池田映大佐、海防艦長の箟源三郎少佐以下約130名余の乗組員が戦死した[注 26]。 なお追跡してきた第31号海防艦に対し、ティランテは最後の魚雷を発射した[153]。命中した魚雷は不発であったが、衝撃で第31号海防艦の爆雷が誘爆、同艦は転覆して沈没した(戦死者39名)[153]。唯一生き残った三宅は、応援の海防艦粟国第39号海防艦とともに対潜掃討をおこなうが、ティランテを捕捉できなかった[155][156]

5月25日[8]、能美は第一海防隊と御蔵型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。

海防艦長

艤装員長
  1. 箟源三郎 少佐:1944年1月10日 - 1944年2月28日
海防艦長
  1. 箟源三郎 少佐:1944年2月28日 - 1945年4月14日 戦死、同日付任海軍中佐

出典

  1. ^ これは第310号艦型の価格であり、基本計画番号E20としての価格ではない。
  2. ^ この数字は特修兵、その他臨時増置された人員を含まない。
  3. ^ マル急計画の当初計画での番数。
  4. ^ 1943年(昭和18年)8月31日付の内令第1778号で、御蔵型海防艦に「淡路倉橋千振」が登録された[6]。能美の登録により、能美が通算で4番艦に、倉橋が通算で5番艦となった[7]
  5. ^ 一部の二次資料では、竣工と共に2月28日付で第一海上護衛隊に編入とする[8]
  6. ^ 1944年3月から6月までの間に横須賀鎮守府作戦指揮下、軍隊区分戊直接護衛部隊に編入されたが、該当期間の第二海上護衛隊戦時日誌および横須賀防備戦隊戦時日誌が公開されていないため、日付の詳細は不明。
  7. ^ サイパン止4隻、パラオ行き6隻。
  8. ^ 父島行き1隻、サイパン行き9隻、パラオ行き3隻、ヤップ行き2隻。
  9. ^ 復航の東松7号船団と第3505船団は5月17日にサイパンを出発したが[25]、22日にアメリカ潜水艦ポラック[26]の雷撃で旗艦朝凪が沈没した[27]
  10. ^ 護衛艦(能美、第七福栄丸、第24号掃海艇)、船団(紅海丸、第十一星丸、三穂丸)[44]
  11. ^ 択捉型海防艦福江は7月9日付で大湊警備府に編入され[47]、同府の作戦指揮下にはいっていた[48]
  12. ^ 護衛艦(能美、掃海艇23号)[53]、船団(第二高運丸、第十一星丸)[44][54]
  13. ^ 開戦時の第7駆逐隊は3隻(潮、曙、漣)編制だったが、昭和19年1月14日にアメリカ潜水艦アルバコアの雷撃でが沈没[56]、2隻編制になっていた。
  14. ^ 柏榮丸は8月23日0000時に稚内入港[66][73]。その後、函館にむけ稚内を出発した[66][74]
  15. ^ 千島方面根拠地隊には海防艦石垣がいたが、5月31日に松輪島でアメリカ潜水艦ヘリングにより撃沈されていた[80]
  16. ^ 利山丸は9月21日に雷撃されて沈没したが、当初は遭難と判断していた[98]。護衛の駆逐艦神風は24日になって「雷撃された可能性あり」と報告した[99]
  17. ^ 行方不明になった八郎潟丸は、9月27日にアメリカ潜水艦アポゴンにより撃沈された。
  18. ^ ヒ79船団加入船舶は[113]、タンカー2隻(天栄丸、松島丸)、貨物船3隻(香久丸、めるぼるん丸、有馬山丸)、給糧艦間宮
  19. ^ 第101戦隊の編制は[117]、練習巡洋艦艦香椎、海防艦対馬大東鵜来第二十三号海防艦第二十七号海防艦第五十一号海防艦
  20. ^ ヒ80船団加入船舶は[121]、タンカー(天栄丸、松島丸、良栄丸、黒潮丸、日南丸、海邦丸、宗像丸)、貨物船(有馬山丸)。
  21. ^ 第101戦隊司令官が指揮するヒ85船団部隊は12月19日に門司を出発[127]、護衛隊(香椎、対馬、鵜来、大東、ほかに海防艦数隻)[130]、加入船舶(せりあ丸、神裕丸、神州丸、日向丸、吉備津丸、青葉山丸)であった。
  22. ^ 木俣滋郎『日本空母戦史』824ページ「タマ38船団編成表」では、護衛隊(三宅、能美、笠戸、20号、112号、ほか4隻)と記述する[131]
  23. ^ 神州丸は空襲により大破、放棄されたあと漂流中にアメリカ潜水艦アスプロの雷撃で沈没した[138]
  24. ^ 第1海防隊(千振、第17号海防艦、第19号海防艦)はヒ86船団の巻き添えとなり、1月12日に3隻とも撃沈されていた[149]
  25. ^ 木俣滋郎『日本海防艦戦史』196ページでは、第213号海防艦も護衛に加わっていたと記述する[151]
  26. ^ 『海防艦三宅戦記』では戦死者139名とする[155]。『日本海防艦戦史』では戦死者134名とする[153]

脚注

  1. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(6) p.55|二十九日一七三二 能美|二十九日一九二〇 大工部長(宗防Bシキ)|機密第二九一七三二番電 本艦現用ノ九三式探信儀送波器三型不良ニ付至急新品稚内防備隊宛送付ヲ得度|無電|
  2. ^ a b #達昭和18年12月(1) pp.38-41〔 達第三百十九號 昭和十七年度及昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦七隻、海防艦十九隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス  昭和十八年十二月二十二日 海軍大臣 嶋田繁太郎 舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 松(マツ)(中略)日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 能美(ノウミ)(以下略) 〕
  3. ^ 写真日本の軍艦(7)重巡(III) 1990, p. 234a1海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇能美(のうみ)◇
  4. ^ a b #内令昭和18年12月(4) p.24〔 内令第二千七百七十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十八年十二月二十二日 海軍大臣 嶋田繁太郎/軍艦、航空母艦雲龍型ノ項中「天城」ノ下ニ「、葛城」ヲ加フ/驅逐艦、一等ノ部中末尾ニ左ノ一項ヲ加フ | |松型|/(中略)海防艦、御藏型ノ項中「淡路」ノ下ニ「、能美」ヲ加ヘ同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第一號型|第一號、第三號、第五號、第七號、第九號、第十一號|/|第二號型|第二號、第四號、第六號、第八號、第十號、第十二號、第十四號、第十六號、第十八號、第二十號、第二十二號、第二十四號|(以下略) 〕
  5. ^ a b c d e 海防艦激闘記 2017, p. 231能美(のうみ)
  6. ^ #内令昭和18年8月(5) p.15〔 内令第千七百七十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十八年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「早霜」ノ下ニ「、秋霜、清霜」ヲ加フ/海防艦、占守型ノ項中「干珠」ノ下ニ「、笠戸」ヲ、同御藏型ノ項中「三宅」ノ下ニ「、淡路、倉橋、千振」ヲ加フ(以下略) 〕
  7. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 232倉橋(くらはし)
  8. ^ a b c d 写真日本の軍艦(7)重巡(III) 1990, p. 234a2能美年表
  9. ^ #内令昭和19年2月(2) p.50〔 内令第三百六十四號 海防艦 能美 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト定メラル/横須賀鎭守府在籍 海防艦 能美 第二號海防艦  右警備海防艦ト定メラル/昭和十九年二月二十八日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕
  10. ^ #S19.01呉鎮日誌(2) p.7〔(ロ)我軍ノ情況 任務、編成、配備(中略)二十八日附 能美(新造)ヲ呉防備戰隊ニ編入 〕、同戦時日誌 p.14〔(二)麾下艦船(特設ヲ含ム)ノ行動 〕(昭和19年2月)
  11. ^ #S19.01呉鎮日誌(2) p.46〔 廿八日二〇三二 總長(宛略)軍令部機密第二八二〇三二番電 帝國海軍戰時編制中左ノ通改定セラル 二月二十八日附 能美ヲ呉防備戰隊ニ編入 〕、同戦時日誌 p.62(経過概要、昭和19年2月28日項)(天候略)|戰時編制一部改定能美ヲ呉防備戰隊ニ編入|
  12. ^ #S19.01呉鎮日誌(2) p.71〔 (別紙第九)機密呉鎭守府命令作第一五號 昭和十九年二月二十八日 呉鎭守府司令長官 野村直邦  呉鎭守府命令 機密呉鎭守府命令作第七八號別表兵力部署中海防防備部隊、呉防備戰隊ノ項「笠戸、」ノ下ニ「能美、」ヲ加フ(終) 〕
  13. ^ a b #S19.01呉鎮日誌(3) pp.30-31〔 十五日〇〇〇三 總長|(宛略)|軍令部機密第一五〇〇〇三番電(中略)(内報抄録)一、第六號海防艦、第十一號海防艦ヲ呉防備戰隊ニ編入ス/二、能美ヲ呉防備戰隊ヨリ除キ第二海上護衛隊ニ編入ス|無電 〕、同戦時日誌 pp.48-49(経過概要、昭和19年3月15日項)
  14. ^ #S19.01呉鎮日誌(3) p.7〔(二)麾下艦船(特設ヲ含ム)ノ行動 〕(昭和19年3月)
  15. ^ #S18.11海護総司令部(2) p.19|一五|(略)|南西諸島對潜強化ニ關スル打合|海防艦能美第二海上護衛隊ニ編入サル|
  16. ^ #S19.01呉鎮日誌(3) p.31〔 十六日〇五〇五 呉防戰|(宛略)|呉防戰機密第一六〇五〇五番電 電令作第四六三號 能美十五日二一一五足摺埼ノ南五浬ニテ雷撃ヲ受ク目下敵ヲ制壓中 一、伯空司令九三一司令ハ速ニ飛行機ヲ以テ之ガ攻撃撃滅ニ任ズベシ/二、三十四掃司令及佐伯防司令ハ掃蕩隊ノ全力ヲゲ敵攻撃撃滅スベシ/三、三十四掃司令ハ對潜掃討ニ關シ伯防掃蕩隊ヲ指揮スベシ|無電 〕
  17. ^ #S18.11海護総司令部(2) p.26〔 東松船團運航實蹟表(往航)(三月中) 〕
  18. ^ #S18.11海護総司令部(2) p.18|一一|第十一水雷戰隊(龍田)東松二號船團ヲ率ヰ東京湾發|夕張ヲ東松三號船團護衛任務期間中横須賀鎭守府司令長官ノ作戰指揮下ニ入ル|
  19. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 42–43松輸送の海防艦
  20. ^ #S18.11海護総司令部(2) p.21|二〇|(略)|東松三號船團〇二〇〇館山發|海防艦干珠ヲ第一海上護衛隊ヨリ除キ聯合艦隊附属ニ編入サル|
  21. ^ #S18.11海護総司令部(2) p.25|三一|(略)|敵機動部隊「パラオ」「ヤップ」方面來襲|(空欄)|
  22. ^ #S18.11海護総司令部(2) p.46|一三|東松四號支隊一六〇〇「パラオ」着| |
  23. ^ #S18.11海護総司令部(2) p.50〔 東松船團運航實蹟表(往航)(四月中) 〕
  24. ^ #S18.11海護総司令部(3) p.12|六|(略)|東松七號船團本隊一二二五サイパン着|第十七號海防艦 第一海上護衛隊ニ編入セラル|
  25. ^ #S18.11海護総司令部(3) p.15|一七|(略)|「三五〇五」及東松七號船團(復航)(旗艦朝凪)〇四三〇「サイパン」發| |
  26. ^ 陽炎型(光人社) 2014, pp. 266–267朝凪(あさなぎ)
  27. ^ #S18.11海護総司令部(3) p.16(昭和19年5月22日項、朝凪沈没状況)
  28. ^ a b 1944年4月28日から5月26日までの行動は、海防艦顕彰会『海防艦戦記』p. 206。による。
  29. ^ #S18.11海護総司令部(3) p.16|二〇|(略)|「ヒ六三」(旗艦壹岐)船團〇五〇〇「マニラ」發/「四五二〇」船團(旗艦能美)一七五〇横須賀ニ向ケ「サイパン」發/竹船團部隊二一〇〇「マニラ」着|(中略)|
  30. ^ #S18.11海護総司令部(3) p.32|三|(略)|第三六〇六船團(第三護衛船團司令官旗艦松風)〇五〇〇館山出撃|海防艦屋代 第一海上護衛隊ニ編入|
  31. ^ 陽炎型(光人社) 2014, pp. 263–264松風(まつかぜ)
  32. ^ #S18.11海護総司令部(3) p.34|九|(略)| |驅逐艦松風(第三護衛船團司令官旗艦)第三六〇六船團護衛航行中〇四一七北緯二七度一四分東經一四二度五五分ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ大爆發ヲ起シ沈没|
  33. ^ a b 昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C16120642900 (19-6)|9|0400頃|第三護衛船団司令官ノ指揮スル残四隻(護衛艦五隻内一隻ハ特掃)ハ南下中父島ノNE40′附近ニテ旗艦松風雷撃ヲ受ク|太平洋|松風 大爆發 沈没/護衛艦ニテ敵(潜水艦)攻撃効果不明/生存者 准士官以上一名 下士官兵七名/船団ハ一應父島ニ避泊スル如ク行動|
  34. ^ a b #S18.12大湊警備府日誌(6) p.37(6月23日)|能美 横須賀海上護衛部隊ヨリ除カレ大湊警備府海上護衛部隊ニ編入|(空欄)|(空欄)|北千島敵機來襲|
  35. ^ #S18.11海護総司令部(3) p.29〔(十一)二十三日附能美ヲ横鎭護衛部隊ヨリ除キ大湊鎭守府護衛部隊ニ編入ス 〕
  36. ^ #S18.12大湊警備府日誌(6) p.30|二十四日一〇五一 GKEg|(宛略)|GEB電令作第一九一號 二十三日附 能美ヲ横須賀鎭守府海上護衛隊部隊ヨリ除キ大湊警備府海上護衛部隊ニ編入|無電|、#S18.11海護総司令部(3) p.38|二四|(略)| |海防艦能美ヲ横須賀海上護衛部隊ヨリ除キ大湊警備府海上護衛部隊ニ入ル(以下略)|
  37. ^ a b c #S19.04宗谷防備隊日誌(4) pp.15-16(宗谷防19-6)〔 附表第二 麾下艦艇ノ行動 〕
  38. ^ #S18.12大湊警備府日誌(6) p.32(大湊機密第281754番電 大警電令作第5号)
  39. ^ a b #S19.04宗谷防備隊日誌(4) p.13(経過概要6月28日項)〔 大警電令作第五號ニ依リ能美及第十五號駆潜艇当部隊指揮下ニ編入 〕
  40. ^ #S18.12大湊警備府日誌(6) p.8(大警19-6)〔 (ホ)麾下艦船部隊(特設ヲ含ム)ノ行動 〕
  41. ^ a b #S18.12大湊警備府日誌(6) pp.38-39(6月28日)|一、能美及第十五號駆潜艇ヲ宗谷防備部隊ニ編入ス/一、宗谷防備部隊指揮官ヲシテ「オハ」行竝ニ北方輸送ノ護衛ニ北東方面艦隊ニ協力セシム(以下略)|
  42. ^ a b #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.15(経過概要8月27日)〔 一、大警電令作第十一號ニヨリ 當部隊指揮官ハ能美、福江ヲ小樽基地トシ北方輸送ニ関シ北東方面艦隊ニ協力セシメ千島方面行動中ハ千根司令官ノ命ヲ受ケシム(以下略) 〕
  43. ^ a b c #S18.11海護総司令部(3) p.54|一八|(略)| |本日附第二海上護衛隊解隊トナル/第二十一掃海隊ヲ高警部隊ヨリ除キ第一海上護衛隊ニ編入ス|
  44. ^ a b #S19.04宗谷防備隊日誌(6) p.22(宗谷防19-7)〔 附表第二ノ三 海上交通保護経過概要 〕
  45. ^ a b c d e f g h i #S19.04宗谷防備隊日誌(6) pp.15-16(宗谷防19-7)〔 附表第二 麾下艦艇ノ行動 〕
  46. ^ #内令昭和19年7月 p.23〔 内令第八七六號 横須賀鎭守府豫備海防艦 海防艦 福江 海防艦 天草 海防艦 能美/呉鎭守府豫備海防艦 第十二號海防艦/佐世保鎭守府豫備海防艦 海防艦 隠岐  右警備海防艦ト定メラル 昭和十九年七月十八日 海軍大臣 〕
  47. ^ #S18.12大湊警備府日誌(7) p.27|九|(略)|一、曙、潮 攻撃ス(大平丸被雷撃)/二、尻矢隊N四一度一七分E一四一度三分ノ敵潜掃討| | |一、陸軍船大平丸被雷沈没ス/二、海防艦福江本府ニ編入サル|
  48. ^ #S18.12大湊警備府日誌(7) p.4〔 (二)九日 海防艦福江 本府長官ノ作戰指揮下ニ入ル 〕、#S18.11海護総司令部(3) p.52|九|(略)| |「ヒ六七」船團部隊一七三〇昭南着|海防艦福江ヲ第一海上護衛隊ヨリ除キ大湊護衛部隊ニ編入ス|
  49. ^ #S18.12大湊警備府日誌(7) p.4〔 (四)十九日 福江ヲ宗谷防備部隊指揮官ノ指揮ニ入レ「オハ」重油搬出ノ護衛ニ任ゼシム 〕、同戦時日誌 p.29|一九|(略)|福江ヲ宗防指揮官ノ指揮下ニ入ラシム|
  50. ^ a b 日本海防艦戦史 1994, p. 134〈各地方部隊の海防艦〉(昭和19年8月)
  51. ^ #S18.12大湊警備府日誌(7) p.6(大湊警備府麾下艦船部隊行動)(昭和19年7月分)
  52. ^ #S18.12大湊警備府日誌(7) p.38〔(ホ)麾下艦船部隊(特設ヲ含ム)ノ行動 〕(大警19-8)
  53. ^ #S19.04一水戦日誌(4) p.8(船団護衛表)|十六|美寧 得撫|(能美 掃二三|第二高運丸(海) 第十一星丸(陸)|稚内経由 二十一日稚内発|
  54. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(6) p.43(宗谷Bシキ、機密第201410番電、「キ一〇二」船団(十一星丸、第二高運丸)護衛艦 能美 掃二三 行動予定)
  55. ^ 大湊警備府戦時日誌(昭和19年7月1日-31日)。
  56. ^ 陽炎型(光人社) 2014, p. 282漣(さざなみ)
  57. ^ #S19.04一水戦日誌(4) p.38|二十七日一三四〇(司令)7dg|(宛略)|機密第二七一三四〇番電 四五度二七分北 一四二度三二分東 敵潜ラシキモノヲ探知ス 我攻撃中|
  58. ^ a b #S19.04一水戦日誌(4) p.8(船団護衛表)|二十六|北千島|七駆(曙 潮)|信濃丸(民) 利山丸(陸) 長和丸(海)|利山丸機関故障ノ爲小樽ニ皈投セシム|
  59. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(6) p.50|二十七日一五二六 宗谷Bシキ|二十七日一五五五 能美 掃二四 七駆 宗防B|機密第二七一五二六番電 宗谷B電令第六二號 能美ハ現場ニ急行 七駆逐隊ニ協力掃討攻撃スベシ 掃二四ハ第二哨戒線ニ就ケ|無電|、#S19.04一水戦日誌(4) p.39(宗谷防備部隊指揮官→能美、掃二四(宗防、7dg)機密第271526番電)
  60. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(6) p.51(宗谷防備隊、機密第271635番電)
  61. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(6) pp.51-52(七駆逐機密第271645番電関連)、#S19.04一水戦日誌(4) pp.40-41|二十七日二〇一〇(司令官)1Sd|二十七日二一三五 宗防司令(千根司令官、能美、7dg)|機密二七二〇一〇番電 一、能美ヲシテ七駆機密第二七一六四五番電ノ如ク行動セシメ稚内着後 利山丸ハ獨航小樽ニ帰投セシメラレ度/二、潮ハ護衛引継後速ニ船團ニ合同スベシ|無電|
  62. ^ #S19.04一水戦日誌(4) p.52〔(ロ)劣速ニシテ小型(五〇〇乃至七〇〇噸ノモノアリ)船ノ護衛ヲ大型駆逐艦ヲ以テ行フ如キ徒ラニ駆逐艦ノ優速ヲ殺シテ敵潜ニ好目標ヲ提示シアル事實アリ 〕
  63. ^ 1944年7月の行動は、特に脚注を付したものを除き海防艦顕彰会『海防艦戦記』p. 207による。
  64. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) pp.28-29(能美機密第011135番電、宗谷防備部隊機密第011630番電、同部隊機密第011637番電など)
  65. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.3(経過概要8月1日)〔 〇四五四 柏榮丸 北知床半島キドロ沖合デ坐礁ニヨリ福江ヲシテ現場ニ急行調査及護衛ノ任ニ當ラシム 〕
  66. ^ a b c #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.23(宗谷防19-8)〔 附表第二ノ三 海上交通保護経過概要 〕
  67. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.5(経過概要8月6日)〔 一、柏榮丸救難指揮官ヲ能美艦長ニ指定シ稚内ニ皈投補給セシム/二、〇四〇〇葦埼、掃特一八、五〇〇屯重油船現地ニ向ハセシム 〕
  68. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.41(能美機密第101155番電)
  69. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.44(能美機密第122245番電)
  70. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.13(経過概要8月13日)〔 一、敵潜制圧後能美艦長ハ救難隊(那須丸、眞金丸)ヲ多乗加湾ニ避退セシム(以下略) 〕
  71. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.46(能美機密第141135番電)、同戦時日誌 p.49(能美機密第160625番電)
  72. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.51(宗谷防備部隊機密第170340番電)
  73. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.13(経過概要8月22日)〔 一、柏榮丸救難船(眞金丸、那須丸)掃二四、掃二三 稚内入港/二、一三〇〇満珠丸、幸照丸 宗谷岬通過 〕
  74. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.14(経過概要8月23日)〔 一、〇二〇〇柏榮丸(曳船那須丸、眞金丸)函館ニ向ケ稚内港発(以下略) 〕
  75. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.53(能美機密第210410番電)
  76. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) p.57(能美機密第231305番電)
  77. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(8) pp.20-21(宗谷防19-8)〔 附表第二 麾下艦艇ノ行動 〕〔 機密宗谷防備部隊命令作第九號ニ依リ直率部隊ヨリ「福江、能美」ヲ除ク 〕
  78. ^ #S18.12大湊警備府日誌(7) p.37〔(一〇)二十七日 能美 福江ヲシテ北方輸送ニ關シHTFニ協力セシム 〕
  79. ^ #S18.05北東方面艦隊(4) pp.40-41〔 (ニ)艦隊區分 〕
  80. ^ 海防艦激闘記 2017, pp. 224–225石垣(いしがき)
  81. ^ #S19.09大湊警備府日誌(1) p.5〔(ホ)麾下艦船部隊(特設ヲ含)ノ行動 〕(大警19-9)
  82. ^ 陽炎型(光人社) 2014, p. 261波風(なみかぜ)
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  84. ^ #S19.09大湊警備府日誌(1) p.3〔(三)敵潜水艦ハ前月中旬以後其ノ跳梁情況一時緩和シタルヤニ見受ケラルルモ尚「オホツク」海方面ニ於テ波風(航行不能) A船昭南丸 A船利山丸(地點日時内容)被雷沈没ノ被害アリ 〕、同戦時日誌 p.15(波風機密第082130番電)
  85. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) pp.5-6(経過概要9月8日)〔(一)「キ五〇五」船団護衛中能美ヨリ一九五〇北緯四七度二六分東経一四八度二四分 波風敵潜雷撃(一)ヲ受ク我周圍警戒中ノ電アリ/(二)駆潜一五及五二掃(掃二三缺)ヲ派遣ス 〕
  86. ^ a b #S19.09大湊警備府日誌(1) p.23(昭和19年9月9日項)
  87. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.24|九日〇〇三六 大警|(宛略)|(中略)野風 國後ハ準備出來次第出港野風ハ能美ト共ニ波風ノ救難ニ國後ハ「キ五〇五」船団ノ直接護衛ニ任ゼヨ|
  88. ^ #S19.09大湊警備府日誌(1) p.16|能美|(宛略)|機密第〇八二一〇五番電 一九五〇N四七度二六分 E一四八度二四分 ニ於テ波風雷撃(一)ヲ受ケ曳航ヲ要ス 我周囲ヲ警戒中 船団ハ護衛艦ナシ豫定航路上進行中|無電|
  89. ^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 336.
  90. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.27(五三掃司令、機密第100927番電)〔 神風波風曳航(護衛艦 掃二四 八丈 駆潜一五 野風)〇八〇〇現場発針路一八五度擇捉島留別ヨリ接岸宗谷海峡ニ向フ実速半節 〕
  91. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.6(経過概要9月11日)〔一、波風ハ五二掃司令指揮下ニ神風曳航、掃二四、駆潜一五、野風護衛稚内ニ向ケ現地発(以下略) 〕、同戦時日誌 p.7(経過概要9月12日)〔 一、波風ノ護衛ノタメ福江ヲ稚内ヨリ小樽迄同航セシム(以下略) 〕
  92. ^ #S19.09大湊警備府日誌(1) p.16|昭南丸|九日〇三三〇|機密第〇九二三〇|敵潜水艦ノ攻撃ヲ受ク一本 敵潜ト交戰中 N四七度五七分 E一四八度一五分|無電|および|昭南丸|九日〇七〇〇|機密〇九五二五番電 本船沈没免レズ 部隊ハ高倉山丸及山東丸ニ収容以後各船ノ行動知ラサレタシ|無電|
  93. ^ #S19.09大湊警備府日誌(1) p.17|能美|(宛略)|機密第一〇一六五五番電 (一)〇九〇〇頃昭南丸遭難地點通過セルモ浮流物多數及救命艇二隻アリ乗員ナシ/(二)キ五〇五船団ト會合出來ズ明朝ヨリ樺太東岸附近ヨリ多來加灣内ヲ捜索スル予定|無電|
  94. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.56〔 四、参考(一)戰訓並ニ所見(其ノ一)自昭和十九年九月八日至仝年九月九日オホーツク海南方海面戰斗( 能美 )(中略)(二)敵ハ護衛艦襲撃ニ主力ヲ注ギタル為船団ハ昭南丸ノミ被害アリテ他四隻ハ敷香ニ避難セリ(以下略)
  95. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) pp.27-28(小樽在武官、機密第10632番電)〔 陸軍ヨリノ情報ニ依レバ「キ五〇五」船団(昭南丸欠)敷香ニ避泊シツツアリ 〕(千島根拠地隊、機密第101907番電)〔(略)二、能美及國後ハ敷香ニ回航右ノ護衛ニ任ズベシ 〕
  96. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.29(能美機密第111605番電)
  97. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.54|二十九日一一三八 宗防Bシキ|二十九日一三三二 北東方面艦隊サチ〔大警サチ 千根(指揮官)〕|機密第二九一一二八番電 國後、能美便乗ノ俘虜四名(当隊警戒員五名)及北千島ヨリノ便乗者一八名 二十九日二〇〇〇稚内発列車ニテ出発、三十日一〇四〇千歳着ノ予定|
  98. ^ 本邦船舶遭難関係雑件(英国汽船南昌号遭難関係)第四巻(F-1-8-0-2_004)(外務省外交史料館)昭和19年/2.利山丸 」 アジア歴史資料センター Ref.B10074493900 
  99. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.11(経過概要9月24日)〔 二十一日二〇三〇頃利山丸雷撃ヲ受ケタル疑アリ 五二掃ヲシテ掃蕩並ニ捜索ノ任ニ当ラシム 〕、同戦時日誌 p.43(神風機密第240837番電)
  100. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.51|二十八日〇八三五 國後|二十八日一〇〇八 千歳北西航路着艦|機密第二八〇八三五番電 一、「ヲ四〇三」舩団二十六日〇七〇〇頃 四七度七分北 一五一度三五分東 ニ於テ霧中離散シ八郎潟丸ハ單独トナレリ(二〇〇〇頃武魯毛ノ北五浬ニ於テ同舩ラシキ霧中信號聞ヱタリト博愛丸報ズ)(以下略)|
  101. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.56〔 四、参考(一)戰訓並ニ所(其ノ二)至昭和十九年九月二十七日擇捉島北西海面戰斗( 能美 )/(一)會敵場所ハ陸軍基地ノ附近ニシテ小型舩ノ通行頻繁ナリ且捜索セル舩団モ附近ニアリ濃霧ノ爲敵潜水艦ノ確認ニ甚ダ困難ナリ加フルニ本艦ノ水測兵器、電波探信儀故障ノ爲攻撃力大イニ減少シ被害大ナリ(以下略) 〕
  102. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.52|二十八日一七一〇 能美|(宛略)|機密第二八一七一〇番電 戰斗概報二十七日〇〇一五 N四五度四四分 E一四八度四一分ニ於テ敵潜水艦ト交戰投射爆雷數二四効果不明/我方損害外鈑ノ破口大小六〇個所機械室第二兵員室、電波探信号儀、信号通信兵器其ノ他電路破損、戰死七名重軽傷十六名
  103. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.11(経過概要9月27日)〔 (中略)三、ヲ船団護衛中ノ能美〇〇一五 N四五度四四分 E一四八度四一分ニ於テ敵潜水艦ト交戰(戰訓一) 〕
  104. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) pp.52-53|二十八日一八三五 宗谷Bシキ|(宛略)|機密第二八一三五番電 一、能美損傷状況 (イ)舟左体被彈破口水線附近五個水線上五〇個小破口多数/(ロ)舩後部用動力及照明用主電路全部切断/(ハ)無線送信儀一部各種通信装置及電波探信儀故障/(ニ)探照灯破壞/(ホ)舟左機排気管其ノ他五ヶ所破壞/二、應急修理ノ上大湊ニ囘航セシム修理ニ関シ然ルベク手配相成度|無線|
  105. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(10) p.13(経過概要9月29日)〔一、國後、能美便乗者俘虜四名當隊ヨリ警戒員(准士官一 下士官兵四)二〇〇〇稚内発列車ニテ千歳航空隊ニ向ハシム(以下略) 〕
  106. ^ 1944年9月5日から10月2日までの行動は、特に脚注を付したものを除き海防艦顕彰会『海防艦戦記』p. 207による。
  107. ^ a b c #S19.09大湊警備府日誌(2) p.6〔 ホ 麾下艦船部隊(特設ヲ含ム)ノ行動 〕(大警19-10)
  108. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(12) p.8(経過概要10月21日項)〔 能美 大警電令作第十七號ニヨリ当部隊作戰指揮ヨリ解カル 〕、#S19.09大湊警備府日誌(2) pp.20-21|(長官)GEB|(宛略)|機密第二一一三三番電 GEB電令作第二七九號 大湊警備府司令長官ハ能美ヲシテ速ニ門司ニ進出爾后作戰ニ関シ第一海上護衛隊司令官ノ指揮ヲ承ケシムベシ|無電|および|(長官)大警|(宛略)|機密第二一七二三番電 大警電令作第十七號 宗谷防備部隊指揮官ノ能美ニ對スル作戰指揮ヲ解ク 能美ハ速ニ門司ニ囘航作戰ニ関シ第一海上護衛隊司令官ノ指揮ヲ承クベシ|無電|
  109. ^ #S19.09大湊警備府日誌(2) p.4〔(五)二十一日 能美ヲ第一海上護衛隊指揮下ニ入ラシム 〕
  110. ^ #S19.08第1海上護衛隊(3) p.5〔(ロ)艦艇編入(出)概要(中略)|(十月)二十一日|能美當隊作戰指揮ニ編入 〕
  111. ^ #S19.04宗谷防備隊日誌(12) p.30(大海第一部長、機密第二一一七二三番電)
  112. ^ a b c #S19.08第1海上護衛隊(3) pp.27-29(昭和19年10月)〔(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ二) 〕
  113. ^ a b 日本軽巡戦史 1989, p. 621.
  114. ^ #S19.08第1海上護衛隊(3) pp.27-29(昭和19年10月)〔(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ二) 〕
  115. ^ #S19.08鵜来日誌(2)、p.7(10月29日項)(天候略)|一九三〇めるぼるん丸護衛基隆港口ニ向フ/二二三〇護衛ヲ止メ反転船団合同ニ向フ|二〇〇〇船団ト分離/二一四〇 一七号海防艦分離/船団合同ニ向フ|
  116. ^ #S19.08鵜来日誌(2)、p.8(10月30日、31日項)(天候略)|一五四〇出航|間宮 香久丸 二一号掃海艇分離/黒潮丸 良栄丸 満珠 船団ニ加フ|
  117. ^ a b c 日本軽巡戦史 1989, p. 622.
  118. ^ #S19.08第1海上護衛隊(4) p.5〔(ロ)艦艇編入(出)概要|十一月一日|久米、能美、第五十二号海防艦 當隊編入 〕
  119. ^ #S19.08第1海上護衛隊(4) pp.20-22(昭和19年11月)〔(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一) 〕
  120. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 127–129一〇一戦隊らの設立
  121. ^ a b 日本軽巡戦史 1989, p. 623.
  122. ^ #S19.08第1海上護衛隊(4) p.52(馬來直行航路)〔 別表第三 舩団護衛状況 昭和十九年十一月 第一海上護衛隊 〕
  123. ^ #S19.08第1海上護衛隊(4) pp.24-26(昭和19年11月)〔(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ二) 〕
  124. ^ #S19.08鵜来日誌(2)p.34(11月17日項)(天候略)|一四〇〇東港ニ回航ノ爲出港 一五五五東港入港/一七一〇門司ニ向ケ昭南出航|ヒ八〇船團護衛艦 香椎 新井崎 海一七 鵜来 笠戸 能美 満珠 三宅 船團 天榮丸 松島丸 良榮丸 宗像丸 有馬山丸 黒潮丸 日南丸 海邦丸|、同戦時日誌p.45(11月15日1849 一海護司令官)(宛略)|機密第15155番電 護衛區分左ノ通リ定ム ヒ八〇(十六日昭南發)第五護衛船團司令部 香椎 能美 鵜來 三一海 四三海 満珠 三宅 笠戸 一七海(サンヂヤック迄) 新井崎(高雄迄) 海二三(サンヂヤックヨリ) 海五一(サンヂヤックヨリ)|無電|
  125. ^ #S19.08第1海上護衛隊(4) pp.32-34(昭和19年11月)〔(五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ四) 〕
  126. ^ #S19.08鵜来日誌(2)p.37(11月28日項)(天候略)|〇九三〇 新井崎、良榮丸、有馬山丸 解列高雄ニ向フ|、同戦時日誌p.45〔 十一月二十七日〇七五〇第五船團司令官|船團一般|タナ四五番信令一二號 一、新井崎 良榮丸 有馬山丸、令ニ依リ解列高雄ニ回航(以下略)|無電 〕
  127. ^ a b c 日本軽巡戦史 1989, p. 624.
  128. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 129–130第一護衛隊、第一護衛艦隊に昇格
  129. ^ a b 三宅戦記 2013, p. 118.
  130. ^ #1908鵜来日誌(3)、p.6(12月19日項)(天候略)|一二〇〇転錨ノタメ門司出航/一二四五六連沖仮泊/一三三〇昭南ニ向ケ出航|ヒ八五船団護衛 護衛艦・香椎・対馬・鵜来・大東・海二七・海二三・海五一・駆潜六(高雄迄)船團、神州丸・吉備津丸・青葉山丸・日向丸・せりや丸|
  131. ^ 日本空母戦史 1977, p. 824.
  132. ^ 三宅戦記 2013, p. 119.
  133. ^ 三宅戦記 2013, p. 122.
  134. ^ 日本空母戦史 1977, p. 825.
  135. ^ 三宅戦記 2013, p. 126.
  136. ^ #生名戦闘詳報 pp.3-4〔 二、計画 本艦ハマタ四十船團ヲ護衛一月一日〇三〇〇サンフェルナンドヲ出航二日二三〇〇頃安平沖ニ到着投錨假泊翌三日〇七〇〇抜錨高雄港ニ向ケ回航セントシツヽアリ 交戰時ノ隊形次ノ如シ 〕
  137. ^ 三宅戦記 2013, p. 127.
  138. ^ 日本空母戦史 1977, p. 826.
  139. ^ #生名戦闘詳報 p.11〔 五、戰果及被害 〕
  140. ^ 三宅戦記 2013, pp. 132–133.
  141. ^ a b 三宅戦記 2013, p. 137.
  142. ^ 日本海防艦戦史 1994, p. 150.
  143. ^ 海防艦205号海戦記 2014, p. 87.
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  147. ^ 日本海防艦戦史 1994, p. 151〈各海防艦の状況〉
  148. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 196a-199泊地を奇襲された第1海防隊(四月)
  149. ^ 日本海防艦戦史 1994, pp. 147–149第1海防隊も全滅
  150. ^ 三宅戦記 2013, p. 164.
  151. ^ 日本海防艦戦史 1994, p. 196a.
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    • 『昭和19年9月1日~昭和20年5月31日 大湊警備府戦時日誌(1)』。Ref.C08030507800。 
    • 『昭和19年9月1日~昭和20年5月31日 大湊警備府戦時日誌(2)』。Ref.C08030507900。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030454400。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030454500。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030454600。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(7)』。Ref.C08030454700。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(8)』。Ref.C08030454800。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(9)』。Ref.C08030454900。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(10)』。Ref.C08030455000。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(11)』。Ref.C08030455100。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 宗谷防備隊戦時日誌(12)』。Ref.C08030455200。 
    • 『昭和18年5月18日~昭和20年6月30日 第12航空艦隊戦時日誌 北東方面艦隊(4)』。Ref.C08030025400。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030086700。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030086800。 (沖縄方面ろ号輸送作戦)
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030086900。 
    • 『昭和19年8月1日〜昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030141600。 
    • 『昭和19年8月1日〜昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030141700。 
    • 『昭和19年8月1日〜昭和20年3月31日 海防艦鵜来戦時日誌(2)』。Ref.C08030595800。 
    • 『昭和19年8月1日〜昭和20年3月31日 海防艦鵜来戦時日誌(3)』。Ref.C08030595900。 
    • 『昭和19年8月1日〜昭和20年3月31日 海防艦鵜来戦時日誌(4)』。Ref.C08030596000。 
    • 『昭和20年1月5日〜昭和20年1月6日 海防艦生名戦闘詳報』。Ref.C08030596700。 
    • 『昭和19年1月1日〜昭和20年1月31日 海防艦新南戦時日誌』。Ref.C08030596600。 
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年6月30日 第1海防隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030151100。 
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年6月30日 第1海防隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030151200。 
  • 海軍省
    • 法令、令達
      • 昭和18年12月22日付 達第319号、内令第2776号、内令第2778号、内令第2780号。
      • 昭和19年2月28日付 内令第364号。
      • 昭和19年7月18日付 内令第876号。
      • 昭和20年2月5日付 内令第99号。
      • 昭和20年5月25日付 内令第466号、内令第470号、内令第472号、内令員第1001号、内令員第1002号。
    • 人事発令
      • 昭和19年1月10日付 海軍辞令公報(部内限)第1296号。
      • 昭和19年2月28日付 海軍辞令公報(部内限)第1348号。
      • 昭和20年11月12日付 海軍辞令公報 甲 第1979号。
    • 戦時日誌、任務報告
      • 呉防備戦隊戦時日誌。
      • 横須賀防備戦隊戦時日誌。
      • 大湊警備府戦時日誌。
      • 宗谷防備部隊戦時日誌。
      • 第一海上護衛隊戦時日誌。
      • 第一護衛艦隊戦時日誌。
      • 海防艦能美戦時日誌。
      • 第一海防隊(海防艦能美)戦時日誌。

関連項目