「ABDA司令部」の版間の差分
会議画像 |
m編集の要約なし |
||
(11人の利用者による、間の15版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:ABDACOM Conference.jpg|thumb|350px|ABDA司令部の[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|アーチボルド・ウェーヴェル]]総司令官以下の初会議。列席者は左からレイトン、[[コンラッド・ヘルフリッヒ]](蘭海軍)、[[トーマス・C・ハート]](米海軍)、[[ハイン・テル・ポールテン]](蘭陸軍)、ケンゲン、ウェーヴェル、[[ジョージ・ブレット]](米陸空軍)、[[ルイス・ブレリートン]](米陸空軍)らが居る。]] |
[[ファイル:ABDACOM Conference.jpg|thumb|350px|ABDA司令部の[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|アーチボルド・ウェーヴェル]]総司令官以下の初会議。列席者は左から[[:en:Geoffrey_Layton|レイトン]]、[[コンラッド・ヘルフリッヒ]](蘭海軍)、[[トーマス・C・ハート]](米海軍)、[[ハイン・テル・ポールテン]](蘭陸軍)、ケンゲン、ウェーヴェル、[[ジョージ・ブレット]](米陸空軍)、[[:en:Lewis_H._Brereton|ルイス・ブレリートン]](米陸空軍)らが居る。]] |
||
'''ABDA司令部'''(ABDAしれいぶ, American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command, '''ABDACOM''')あるいは'''米英蘭豪司令部'''(べいえいらんごうしれいぶ)とは、[[太平洋戦争]]初期において、[[アメリカ合衆国]]('''A''' |
'''ABDA司令部'''(ABDAしれいぶ, {{lang|en|American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command}}, '''{{lang|en|ABDACOM}}''')あるいは'''米英蘭豪司令部'''(べいえいらんごうしれいぶ)とは、[[第二次世界大戦]]の[[太平洋戦争]]初期において、[[アメリカ合衆国]]({{lang|en|'''A'''merica}})・[[イギリス]]({{lang|en|'''B'''ritish}})・[[オランダ]]({{lang|en|'''D'''utch}})・[[オーストラリア]]({{lang|en|'''A'''ustralia}})が[[東南アジア]]での対[[大日本帝国|日本]]軍事作戦指揮のため設置した多国籍[[コマンド (部隊編成)|コマンド]]{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|pp=286-296|ps=連合国の軍の統一指揮が必要だ}}。 |
||
== 概要 == |
|||
'''ABDA司令部'''(ABDAしれいぶ、'''{{lang|en|ABDACOM}}''')は、[[太平洋戦争]]初期の[[アルカディア会談]]で設置が決まった[[多国籍軍]]で、日本軍の[[南方作戦]]から[[アジア太平洋|西太平洋地域]]を防衛するために設立された。ABDA司令部の最高司令官は[[イギリス陸軍]]の[[アーチボルド・ウェーヴェル_(初代ウェーヴェル伯爵)|ウェーヴェル]]大将であった{{Sfn|不吉な黄昏|1995|p=142}}{{Efn|ABDA司令部の隷下に、ABDA陸軍部隊、ABDA空軍部隊がある。ABDA海軍部隊 ({{lang|en|ABDAFLOAT}}) 司令官は、[[:en:United_States_Asiatic_Fleet|合衆国アジア太平洋艦隊]]長官の[[トーマス・C・ハート]]大将で{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=13}}、ハート提督のアメリカ帰国にともない[[オランダ海軍]]の[[コンラッド・ヘルフリッヒ]]中将に交代した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=35}}。}}。 |
|||
[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]にとって、[[極東]]防衛の要は[[イギリス軍]]と[[:en:Singapore_Naval_Base|シンガポール海軍基地]]であった{{Sfn|グレンフェル|2008|p=67}}{{Efn|アメリカは独力で[[フィリピン]]を防衛できるように[[アメリカ極東陸軍]]と[[:en:United_States_Asiatic_Fleet|アジア太平洋艦隊]]を増強したが、その目途がたつのは1942年春とされた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=15}}([[オレンジ計画]])。}}。ところが太平洋戦争開戦直後の[[フィリピンの戦い_(1941-1942年)|比島攻略戦]]で[[:en:Far_East_Air_Force_(United_States)|アメリカ極東空軍]]が日本軍により壊滅し{{Sfn|ニミッツ|1962|p=28}}{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|pp=100-105|ps=フィリピン、マレー半島でも敗退}}、[[マレー沖海戦]]で[[東洋艦隊 (イギリス)|イギリス東洋艦隊]]の[[:en:Force_Z|主力部隊]]を失い{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|pp=108-114|ps=英国Z部隊壊滅の意味}}、想定が崩れる。[[アルカディア会談]]で'''ABDA司令部'''の設置を決定したものの{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=291}}、アジア方面には最初から[[大日本帝国海軍|日本海軍]]に対抗できる戦力がなかったし、ABDA部隊の役割が「時間稼ぎ」に過ぎないことを最高指導者たちは理解していた{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|pp=277-286|ps=ドイツをまず全力で叩く方針を確認}}。さらに各国の戦略も統一できず、日本軍の[[南方作戦]]([[マレー作戦]]、[[蘭印作戦]])を阻止できなかった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=32}}。 |
|||
1942年1月5日にABDA総司令官が任命され、間もなく[[ジャワ島]]で作戦を開始したものの、[[連合参謀本部]]の下令により2月25日をもって解消した{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=35}}。残存部隊は[[オランダ領東インド|蘭印]]を防衛するためオランダ軍を中核として最後の抵抗をみせたが{{Sfn|ニミッツ|1962|p=36}}、ABDA艦隊([[カレル・ドールマン|ドールマン]]提督)は[[スラバヤ沖海戦]]で壊滅し{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|pp=38-44|ps=オランダ人提督ドールマンと艦隊の最期}}{{Efn|name="ABDA艦隊"|ABDA攻撃部隊{{Sfn|ニミッツ|1962|p=34}}、もしくは連合打撃部隊は、日本において'''ABDA艦隊'''と呼称されている{{Sfn|一式陸攻戦史|2019|pp=148-150|ps=ABDA艦隊、編成さる}}。}}、陸軍部隊も[[:en:Battle_of_Java_(1942)|ジャワ島攻防戦]]で降伏した{{Sfn|グレンフェル|2008|p=134}}。 |
|||
== 沿革 == |
== 沿革 == |
||
[[ファイル:ABDACOM-Area.jpg|thumb|350px|right|ABDA司令部の担当戦域]] |
[[ファイル:ABDACOM-Area.jpg|thumb|350px|right|ABDA司令部の担当戦域]] |
||
[[第一次世界大戦]]の[[日独戦争]]により極東から[[ドイツ帝国]]とその[[ドイツ帝国海軍|海軍]]([[東洋艦隊_(ドイツ)|ドイツ東洋艦隊]])が一掃され、[[膠州湾租借地]]([[青島市]])も日本軍が[[青島の戦い|占領]]したが、[[対華21カ条要求]]は[[イギリス]]や[[アメリカ]]に警戒感を抱かせた{{Sfn|グレンフェル|2008|pp=18-27|ps=極東に於ける列強の対立}}。世界大戦終結後、イギリスの[[仮想敵国]]は[[大日本帝国]]となる{{Sfn|グレンフェル|2008|pp=28-30}}。[[パリ講和会議]]が開かれる前、[[ジョン・ジェリコー (初代ジェリコー伯爵)|ジェリコー]]第一海軍卿はオーストラリアとニュージーランドを訪問し、[[戦艦]]15隻から成る植民地太平洋艦隊の創設を訴え、その根拠地は[[オーストラリア大陸]]東海岸[[ポート・ジャクソン湾]]の[[シドニー]]を想定した{{Sfn|グレンフェル|2008|pp=37-38}}。しかし疲弊した各国や[[海軍本部_(イギリス)|海軍本部]]の賛同を得られず、しかも[[ワシントン海軍軍縮条約]]でイギリス海軍の[[ワシントン海軍軍縮条約での各国保有艦艇一覧|艦艇保有数]]が大幅に制限されて不可能になった{{Sfn|グレンフェル|2008|pp=37-38}}。海軍本部は「極東有事になれば[[本国艦隊]]の全艦艇をアジアに回航させればよい。」と考えており、[[中国艦隊_(イギリス)|駐支派遣艦隊]]は[[巡洋艦]]数隻だけだった{{Sfn|グレンフェル|2008|p=39}}。そしてヨーロッパとアジアで同時に有事が発生した場合について、イギリス海軍は[[兵棋演習|図上演習]]で常に無視した{{Sfn|グレンフェル|2008|p=39}}。 |
|||
太平洋戦争の開戦前、[[アメリカ軍]]・[[イギリス軍]]・[[オランダ軍]]・[[オーストラリア軍]]のABDA四か国及び[[ニュージーランド軍]]の士官らは、日本軍を仮想敵とした統一戦略を秘密裏に協議していたが、アメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]]政権が事前に戦略的義務を負うことを避けたため、具体的な統合防衛戦略の合意には至っていなかった<ref name="ファレル56">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、56頁。</ref>。 |
|||
1937年中盤に[[日中戦争]]が始まって極東情勢が不穏になる{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=11-13|ps=石油と宥和}}。アジア方面の[[イギリス連邦]]各国(オーストラリア政府、ニュージーランド政府)は不安にかられたが「有事の際は本国艦隊をアジアに回航する」というイギリス政府の約束を信じ、首相や防衛大臣は各国議会で楽天的な演説を重ねた{{Sfn|グレンフェル|2008|p=47}}。1939年9月に[[第二次世界大戦]]が始まったときもアジアは平穏だったが、1940年5月の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス敗北]]と6月の[[ヴィシー政権]]樹立により[[フランス]]が事実上脱落、[[フランス領インドシナ]]に日本軍が侵攻してパワーバランスが変化した([[仏印進駐]]){{Sfn|グレンフェル|2008|p=49}}。 |
|||
太平洋戦争の勃発直後の1941年12月にアメリカとイギリスの間で開かれた[[アルカディア会談]]において、日本軍の[[南方作戦]]に対抗するための連合軍統一司令部の設置が合意された<ref name="ファレル56" />。同会談の中で[[アメリカ陸軍参謀総長]]の[[ジョージ・マーシャル]]が東南アジア防衛のための統合戦域司令部の設置を正式に提案し<ref>[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、58頁。</ref>、イギリスも同意した。重要な決定はアメリカとイギリスの間で行うものとされたが、オランダとオーストラリアは不満を持った<ref name="ファレル61">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、61頁。</ref>。 |
|||
1941年1月、アメリカとイギリスと[[カナダ]]は[[米英参謀会談]](コードネーム:ABC-1)を開催して、日本の軍事行動について対応を協議した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=13}}。3月から4月にかけて、イギリス、英連邦自治領、アメリカ合衆国、蘭印の代表がシンガポールに集まり、やはり日本の軍事行動と対応策を検討した{{Sfn|グレンフェル|2008|p=66}}。フィリピンが攻められた場合、[[:en:United_States_Asiatic_Fleet|アメリカ合衆国アジア艦隊]](重巡[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]、軽巡[[マーブルヘッド (軽巡洋艦)|マーブルヘッド]]、駆逐艦十数隻、潜水艦二十数隻){{Sfn|ニミッツ|1962|p=29}}と[[オランダ海軍]]の[[:nl:Zeemacht_in_Nederlands-Indië|蘭印部隊]]がシンガポールに集合して「マレー防壁」を防衛し、イギリスは[[主力艦]]をふくむ[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]を投入する計画が承認された{{Sfn|グレンフェル|2008|p=67}}。 |
|||
1941年1月15日にABDA司令部が正式に指揮を開始し、司令部は[[オランダ領東インド]]の中心である[[ジャワ島]]に置かれた。総司令官には、イギリスの[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|アーチボルド・ウェーヴェル]]陸軍大将が就任し、副司令官はアメリカ軍から選出することとされた。総司令官の権限は、ABDA戦域内のABDA四か国軍の戦略的作戦行動の調整にとどまった<ref name="ファレル61" />。ABDA海軍部隊の司令官には[[トーマス・C・ハート]](米海軍大将・アジア艦隊司令長官)が就任し、オランダの[[カレル・ドールマン]]少将を指揮官とするABDA艦隊を編成した<ref>[[#連合国艦隊壊滅す]]p.141</ref>。 |
|||
太平洋戦争の開戦前、[[アメリカ軍]]・[[イギリス軍]]・[[オランダ軍]]・[[オーストラリア軍]]のABDA四か国及び[[ニュージーランド軍]]の士官らは、日本軍を仮想敵とした統一戦略を秘密裏に協議していたが、アメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]]政権が事前に戦略的義務を負うことを避けたため、具体的な統合防衛戦略の合意には至っていなかった<ref name="ファレル56">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、56頁。</ref>。イギリスは独自の[[シンガポール]][[:en:Singapore_strategy|防衛計画]]を練っており{{Efn|伝統的なイギリスの戦略では、70日間シンガポール要塞で持ちこたえ、その間にヨーロッパからアジアへ主力艦隊を回航させることになっていた{{Sfn|グレンフェル|2008|pp=56-57}}。}}、その要は[[東洋艦隊 (イギリス)|イギリス東洋艦隊]]であった{{Sfn|グレンフェル|2008|p=78}}。いままで巡洋艦のみだった英国支那方面艦隊(統合発展して“イギリス東洋艦隊”と命名)に主力艦3隻(新鋭戦艦1、巡洋戦艦1、装甲空母1)が増強されたが、新鋭空母「[[インドミタブル (空母)|インドミタブル]]」は訓練中に座礁して修理が必要になった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=15}}{{Sfn|勇将小沢治三郎生涯|1997|pp=60-65|ps=英艦隊側からの展望}}。 |
|||
ABDA司令部の担任範囲は、西は[[ビルマ]]から、東はオーストラリア北部に及んだ。しかし、1942年2月15日に防衛の要点だった[[シンガポール]]を喪失し、同年2月21日にはビルマの担当をインド駐留軍に譲った<ref>[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、73頁。</ref>。連合軍はこれ以上の消耗を抑えて再編成すべきとの判断に達し、1942年2月25日にABDA司令部は正式に解散した<ref name="ファレル76">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、76頁。</ref>。総司令官であったウェーヴェル大将はインドへ転任して[[ビルマの戦い]]を指揮し、残されたオランダ領東インド周辺の連合国軍部隊の指揮はオランダ軍に委ねられた<ref name="ファレル76" />。 |
|||
{{仮リンク|イギリス極東軍司令部|en|British_Far_East_Command}}([[:en:Robert Brooke-Popham|ロバート・ブルック=ポッパム]]空軍大将){{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=26}}{{Efn|ブルーク=ポッファムとも{{Sfn|不吉な黄昏|1995|pp=70-73}}。[[イギリス空軍]][[:en:List_of_Royal_Air_Force_air_chief_marshals|総参謀長]]だった1940年10月に極東軍最高司令官に任命されたが、三軍(英空軍、英海軍、英陸軍)の反目は相変わらずであった{{Sfn|不吉な黄昏|1995|pp=70-73}}。}}と隷下の[[:en:Malaya_Command|マレー司令部]]([[アーサー・パーシバル|パーシバル]]将軍)が準備していたのが[[:en:Operation_Matador_(1941)|マタドール作戦]]だったが、実施直前に日本軍が[[日本軍のタイ進駐|タイ進駐]]と[[:en:Japanese_invasion_of_Burma|ビルマ侵攻]]を開始した。 |
|||
[[ウィンストン・チャーチル]]英首相は[[ランカスター公領大臣|ランカスター公領尚書]]の{{仮リンク|ダフ・クーパー (外交官)|label=ダフ・クーパー|en|Duff_Cooper}}を現地駐在国務相に昇進させ、クーパーは極東方面戦争対策会議の議長を務めた{{Sfn|不吉な黄昏|1995|pp=80-84}}。だがポッファム空軍大将(極東軍最高司令官)と{{仮リンク|シェントン・トーマス|en|Shenton_Thomas}}[[シンガポール総督]]と対立してしまった{{Sfn|不吉な黄昏|1995|pp=80-84}}。 |
|||
== 作戦経過 == |
|||
[[ファイル:ABDA Japanese attacks.jpg|thumb|350px|right|ABDA戦域への日本軍の侵攻経過]] |
|||
1941年12月、日本軍は[[南方作戦]]において[[マレー半島]]を南下してシンガポール~スマトラ島~ジャワ島を目指す[[マレー作戦|馬来作戦]]と、[[フィリピン]][[フィリピンの戦い_(1941-1942年)|攻略]]([[フィリピン作戦|比島作戦]])および[[ボルネオ島]]や[[スラウェシ島]]を経由してジャワ島を目指す[[蘭印作戦]]を発動した。[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[南遣艦隊]]([[小沢治三郎]]提督)と[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]が馬来作戦を{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|pp=21-24,25-34}}、海軍の[[第三艦隊_(日本海軍)#五代(1941年4月10日新編~1942年3月10日)|第三艦隊]]([[高橋伊望]]提督)と[[第14方面軍_(日本軍)|第14軍]]および[[第48師団_(日本軍)|第48師団]]が比島作戦と蘭印作戦を{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=99}}、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]([[近藤信竹]]提督)が作戦全般支援を担当した{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|pp=24-25|ps=陸海軍作戦協定}}。 |
|||
ABDA司令部の基本戦略は、シンガポールを中心として[[スマトラ島]]からジャワ島に連なる防衛線「マレー防壁」を保持しようとするものであった。ABDA司令部正式発足前の1942年1月3日段階では、司令官に内定したウェーヴェルに対して、重要地点を保持するのみならず、なるべく早く攻勢に出るよう指示が与えられていた<ref name="ファレル61" />。しかし、ABDA司令部は日本軍の進撃を阻止することができず、1942年2月15日にマレー防壁の要点であるシンガポールが陥落。その後は解散までの間、オランダ領東インドなどの防衛に努めた。 |
|||
12月4日の時点で東洋艦隊司令長官[[トーマス・フィリップス]]大将は米国アジア艦隊長官[[トーマス・C・ハート]]提督と[[マニラ]]で作戦会議中で{{Sfn|グレンフェル|2008|p=86}}、日本軍輸送船団発見の報告をうけてシンガポールに戻り、12月8日に東洋艦隊主力部隊([[:en:Force_Z|Z部隊]])を率いて出撃する{{Efn|東洋艦隊参謀長の[[:en:Arthur_Palliser|アーサー・パリサー]]少将はシンガポールに残った{{Sfn|グレンフェル|2008|pp=96-97}}。}}。だが[[マレー沖海戦]]で戦艦「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」と巡洋戦艦「[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]」が撃沈され{{Sfn|ニミッツ|1962|p=30}}{{Sfn|不吉な黄昏|1995|pp=86-89}}、フィリップス提督も戦死した{{Sfn|グレンフェル|2008|pp=108-114|ps=敗戦の原因}}。東洋艦隊(新任司令長官[[:en:Geoffrey_Layton|レイトン]]提督、参謀長[[:en:Arthur_Palliser|パーサー]]少将)の[[巡洋艦]]と[[駆逐艦]]はシンガポールにむかう連合国増援部隊の護衛に走り回り、日本軍輸送船団を攻撃するのは[[コンラッド・ヘルフリッヒ]]提督が率いる[[:nl:Zeemacht_in_Nederlands-Indië|蘭印オランダ海軍]]の潜水艦部隊だけになった{{Sfn|グレンフェル|2008|p=116}}。 |
|||
1941年12月中旬、イギリス極東方面軍総司令官はブルック=ポーハム(ポッファム)空軍大将から[[:en:Henry_Pownall|ヘンリー・ポーナル]](パウナル)陸軍中将に交代した{{Sfn|グレンフェル|2008|p=129}}{{Efn|極東方面軍最高司令官の更迭は、ダフ・クーパーがチャーチル首相に進言していた{{Sfn|不吉な黄昏|1995|pp=112-113}}。パウナル陸軍中将は、[[イギリス海外派遣軍 (第二次世界大戦)|駐仏イギリス派遣軍司令部]]の参謀総長だった([[ダンケルクの戦い]]、[[ダイナモ作戦]]){{Sfn|不吉な黄昏|1995|pp=112-113}}。12月23日にシンガポールに到着し、4日後に引き継いだ{{Sfn|不吉な黄昏|1995|pp=112-113}}。}}。 |
|||
同月22日から[[ワシントンD.C.]]において[[アルカディア会談]]が開かれ、アメリカ(代表:[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領)とイギリス(代表:チャーチル首相)は[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]優先の方針を確認すると同時に{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|pp=277-286|ps=ドイツをまず全力で叩く方針を確認}}、日本軍の[[南方作戦]]に対抗するための連合軍統一司令部の設置で合意した<ref name="ファレル56" />{{Efn|1942年1月1日、アルカディア会談の成果の一つとして[[連合国共同宣言]]が出され、これが[[国際連合]]([[国際連合憲章]])の基礎となった{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|pp=298-300|ps=連合国と同盟国の違い}}。}}。同会談の中で[[アメリカ陸軍参謀総長]]の[[ジョージ・マーシャル]]が東南アジア防衛のための統合戦域司令部の設置を正式に提案し<ref>[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、58頁。</ref>、抵抗の末にイギリスも同意した{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=291}}。重要な決定はアメリカとイギリスの間で行うものとされたが、オランダとオーストラリアは不満を持った<ref name="ファレル61">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、61頁。</ref>{{Efn|アルカディア会談の結果、[[アメリカ統合参謀本部]]と[[:en:Chiefs of Staff Committee|ギリス参謀長委員会]]により[[連合参謀本部]]が発足した{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=293}}。同時に[[:en:Pacific_War_Council|太平洋戦争会議]] ({{lang|en|Pacific War Council}}) も発足したが、こちらはABDA部隊の崩壊で有名無実になった。}}。 |
|||
ABDA司令部の総司令官には、マーシャル米陸軍参謀長の推薦により、イギリス人で[[:en:Commander-in-Chief,_India|インド駐留軍司令官]]の[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|アーチボルド・ウェーヴェル]]陸軍大将が任命された{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=291}}。副司令官には[[アメリカ陸軍航空軍]]の[[:en:George_Brett_(general)|ジョージ・ブレッド]]将軍が任命された。この南西太平洋方面連合最高司令部の設置はアメリカが主導権をもっており、「敗戦の責任をとりたくないので、アメリカ人以外を最高責任者に据えた。」という見解もある{{Sfn|グレンフェル|2008|p=129}}。 |
|||
実際、[[アーネスト・キング]]合衆国艦隊司令長官は[[チェスター・ニミッツ|ニミッツ]]提督([[太平洋艦隊_(アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]長官)に「第一優先事項:アメリカ大陸~[[ハワイ諸島]]~[[ミッドウェー島]]の[[シーレーン|補給線]]を確保せよ(ハワイの維持)」「第二優先事項:アメリカ大陸~[[サモア諸島]]や[[ニューカレドニア]]を確保する(オーストラリアの維持)」を命令しており、アジア方面は二の次であった{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=281}}。彼等はアジアの連合国軍が崩壊して日本軍が同方面を全て占領することを計算にいれており、ABDA部隊は「全滅するまでに、少しでも日本軍の進撃速度を遅らせる」ことを期待されていた{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=282}}{{Efn|ただし全員が納得していたわけでない。[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]](参謀本部戦争計画局次長)は「上層部がアジアで日本軍の進撃を食い止めることを軽視している。」と批判した{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=285}}。フィリピンで孤立していた[[ダグラス・マッカーサー]]将軍はルーズベルト大統領に救援を要請し、反省した大統領はマッカーサーに救援と誓約した上で[[ヘンリー・スティムソン|スティムソン]][[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]に12月30日の手紙で「危険は承知だが、フィリピン救援の方法を調査してくれ」と依頼した{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=285}}。}}。 |
|||
イギリス軍とアメリカ軍を指揮することになったウェーヴェル最高司令官は「赤ん坊を引き取る羽目になった男の話は聞いたことがあるが、これは双子なんだからね」と躊躇したが、チャーチル首相の説得に応じて任務を引き受けた{{Sfn|不吉な黄昏|1995|p=143}}。1942年1月7日、ウェーヴェル総司令官はシンガポールに到着した{{Sfn|グレンフェル|2008|p=129}}。ダフ・クーパーや[[アーサー・パーシバル|パーシバル]]陸軍中将と会談する{{Sfn|不吉な黄昏|1995|p=143}}。ウェーヴェルは英国極東方面軍を指揮下に入れ、ポーナム将軍をABDA司令部参謀長に任命した{{Sfn|グレンフェル|2008|p=129}}。1月10日、ウェーヴェル大将はジャワ島に到着する{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=292}}。ABDA司令部は[[オランダ領東インド]]の中心である[[西ジャワ州]][[バンドン (インドネシア)|バンドン]]に置かれた{{Sfn|グレンフェル|2008|p=130}}。アルカディア会議の段階では総司令官の権限に「海上、陸上、空中」全軍の指揮が含まれていたが{{Sfn|太平洋の試練、上|2013|p=291}}、実態はABDA戦域内のABDA四か国軍の戦略的作戦行動の調整にとどまった<ref name="ファレル61" />。 |
|||
ABDA海軍部隊 ({{lang|en|ABDAFLOAT}}) の司令官にはアメリカ海軍の[[トーマス・C・ハート]]提督(アジア艦隊司令長官)が就任し{{Sfn|ニミッツ|1962|p=32}}、副司令官に[[:en:Arthur_Palliser|アーサー・パリサー]]少将が任命された{{Sfn|グレンフェル|2008|p=130}}。その隷下にオランダ海軍の[[カレル・ドールマン]]少将を指揮官とするABDA艦隊(ABDA攻撃部隊)を編成した{{Sfn|ニミッツ|1962|p=34}}。 |
|||
ABDA陸軍部隊の司令官には、[[王立オランダ領東インド陸軍]]総司令官の[[ハイン・テル・ポールテン]]中将、副司令官にイギリス軍の[[:en:I._S._O._Playfair|プレイファー]]少将が任命された。 |
|||
ABDA空軍部隊の司令官には、イギリス空軍の[[:en:Richard Peirse|リチャード・ピアース]]元帥、副司令官にアメリカ軍の[[:en:Lewis_H._Brereton|ルイス・ブレリートン]]少将が任命された。 |
|||
ABDA司令部の担任範囲は、西は[[ビルマ]]から、東はオーストラリア北部に及んだ。1942年2月25日に正式に解散し、その後はオランダ領東インドなどの防衛に努めた。 |
|||
次のような戦いに参加した。 |
次のような戦いに参加した。 |
||
23行目: | 48行目: | ||
*[[スラバヤ沖海戦]] |
*[[スラバヤ沖海戦]] |
||
*[[バタビア沖海戦]] |
*[[バタビア沖海戦]] |
||
*[[:en:Battle_of_Java_(1942)|ジャワ島の戦い]] |
|||
== 作戦経過 == |
|||
[[ファイル:ABDA Japanese attacks.jpg|thumb|350px|right|ABDA戦域への日本軍の侵攻経過]] |
|||
ABDA司令部の基本戦略は、[[マレー半島]]([[シンガポール]])を中心として[[スマトラ島]]から[[ジャワ島]](オランダ領東インドの最南端)に連なる防衛線「マレー防壁、{{lang|en|Malay Barrier}} もしくは {{lang|en|East Indies Barrier}} 」を保持しようとするものであった{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=47}}。ABDA司令部正式発足前の1942年1月3日段階では、[[アルカディア会談]]により総司令官に内定した[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|ウェーヴェル]]大将に対して、重要地点を保持するのみならず、なるべく早く攻勢に出るよう指示が与えられていた<ref name="ファレル61" />。シンガポールにはイギリス極東軍司令部([[:en:Henry_Pownall|ポーナム]]将軍)が存在し、このままではABDA司令部と二重構造になるため、ウェーベル将軍はシンガポールに飛んで打ち合わせをおこなう{{Sfn|グレンフェル|2008|p=129}}。最初にダフ・クーパーと会談し、続いて{{仮リンク|マラヤ司令部|en|Malaya_Command}}のパーシバル陸軍中将と共にシンガポール防衛施設の状況を視察、その無為無策な状況に慄然とする{{Sfn|不吉な黄昏|1995|p=144}}。ABDA司令部は英極東軍司令部を吸収する形となった(総司令官ヴェーヴェル大将、副総司令官[[:en:George_Brett_(general)|ブレッド]]中将、参謀長ポーナル中将){{Sfn|グレンフェル|2008|p=130}}。1月10日にジャワ島[[バタヴィア]]に到着、[[中部ジャワ州]][[:id:Rembang,_Rembang|レンバン]]において司令部を開設した{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=13}}。ABDA陸軍部隊の[[ハイン・テル・ポールテン|ポールテン]]将軍もレンバンに司令部を置いた。 |
|||
この間にもシンガポールは[[シンガポールの戦い|追い詰められつつ]]あり、マレー半島配備の連合国航空部隊は蘭印方面へ移動を始めていた{{Sfn|グレンフェル|2008|p=128}}。またシンガポールを拠点にしていたイギリス東洋艦隊(レイトン提督)は、護送部隊司令部をジャワ島西部の[[バタヴィア]]に置いた{{Sfn|グレンフェル|2008|p=129}}。悪化する戦況にも拘らず、ABDA司令部の最高指揮官たちはシンガポールは防衛可能と判断し、非常に楽観的だったという{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=14}}。なお1月中の連合国艦艇は船団護衛任務が主任務で、日本軍輸送船団の迎撃に成功したのは[[バリクパパン沖海戦]]のみであった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=34}}。 |
|||
連合国海軍部隊最高司令官に任命されたアメリカ人の[[トーマス・C・ハート|ハート]]提督(米国アジア艦隊長官)は、潜水艦でフィリピンからジャワ島に脱出していた{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=13}}。ハート提督は海軍部隊副司令官に[[:en:Arthur_Palliser|パリサー]]少将(当時、バタビア駐在英国海軍先任武官)を任命したので、オーストラリア海軍軍人の[[:en:John_Augustine_Collins|コリンズ]]提督がパリサー本来の任務をひきついだ{{Sfn|グレンフェル|2008|p=130}}。シンガポール増援輸送が完了すると、多国籍艦艇を再編成してABDA攻撃部隊が発足し、オランダ海軍将校の[[カレル・ドールマン]]提督が海上指揮官に任命された{{Efn|name="ABDA艦隊"}}。 |
|||
{{seealso|ジャワ沖海戦}} |
|||
この時期、日本軍は東南アジア方面の[[制空権]]を掌握し、ABDA部隊の動向を掴んでいた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=34}}。[[山口多聞]]少将の[[第二航空戦隊]]([[蒼龍 (空母)|蒼龍]]<!-- 旗艦 -->、[[飛龍 (空母)|飛龍]])に支援された日本軍が[[モルッカ諸島]][[アンボン島]]に駐留する[[王立オランダ領東インド陸軍]]を攻撃し、[[:en:Battle_of_Ambon|占領]]した{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|pp=38-39|ps=蘭印作戦支援}}。勢いに乗る日本軍は[[スラウェシ島]][[ケンダリ]]を占領し{{Efn|オランダ植民地時代はセレベス ({{lang|nl|Celebes}}) と呼ばれていた。}}、二航戦は[[東ジャワ州]]の主要港([[スラバヤ]]、[[:en:Port_of_Tanjung_Perak|タンジョンプリオク]])を空襲、[[:en:Royal_Netherlands_East_Indies_Army_Air_Force|オランダ領東インド空軍]]に大打撃を与えた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=34}}。 |
|||
対峙するABDA部隊の方は制空権を失ったので、多方向からジャワ島を目指す日本軍の作戦全貌がわからず、振り回されることも多かった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=34}}。[[ボルネオ島]]東部[[バリクパパン]]方面の日本軍を攻撃するため、バリクパパン沖海戦の再現を狙ってABDA部隊(軽巡[[デ・ロイテル (軽巡洋艦・初代)|デ・ロイテル]]<!-- 旗艦 -->、重巡ヒューストン、軽巡マーブルヘッド、駆逐艦部隊)が出撃したが{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=36}}、ジャワ海で日本海軍基地航空部隊([[九六式陸上攻撃機|九六陸攻]]、[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]])に攻撃されマーブルヘッド (''{{lang|en|USS Marblehead, CL-12}}'') が大破した{{Sfn|一式陸攻戦史|2019|pp=150-152|ps=ジャワ沖海戦の奇妙な勝利?}}。 |
|||
2月15日、極東防衛と[[イギリス帝国|大英帝国]]の[[キーストーン#比喩的用法|要石]]だった[[シンガポール]]が[[シンガポールの戦い|陥落]]した{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|pp=29-34|ps=シンガポール陥落}}。同日、[[スマトラ島]][[パレンバン]]に[[空挺部隊]]を投入した日本軍{{Sfn|智将小沢治三郎|2017|p=60}}{{Sfn|勇将小沢治三郎生涯|1997|pp=109-110}}([[:en:Battle of Palembang|バリクパパン攻防戦]])に対処するためABDA攻撃部隊(ABDA艦隊)は多国籍艦隊を率いて出撃、日本軍西部攻略部隊(馬来部隊)の攻撃にむかった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=35}}{{Efn|蘭巡洋艦(デ・ロイテル、[[ジャワ (軽巡洋艦)|ジャワ]]、[[トロンプ (軽巡洋艦)|トロンプ]])、英連邦巡洋艦([[エクセター (重巡洋艦)|エクセター]]、[[ホバート (軽巡洋艦)|ホバート]])、多国籍駆逐艦{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=36}}。}}。だが[[:en:Gaspar_Strait|ガスパル海峡]]で日本海軍の基地航空部隊と軽空母[[龍驤 (空母)|龍驤]]([[第四航空戦隊]]、[[角田覚治]]少将)の空襲で撃退された{{Sfn|一式陸攻戦史|2019|pp=157-162|ps=ガスパール海峡の苦悶}}{{Sfn|勇将小沢治三郎生涯|1997|pp=110-112|ps=遁走したガスパル海峡の英蘭連合艦隊}}。 |
|||
ABDA艦隊が敗退した頃、ウェーヴェル総司令官はチャーチル英首相に「制空権がない現状ではジャワ島の防衛は難しい。」と報告した{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=35}}。ハート大将はアメリカに帰国し、オランダ海軍の[[コンラッド・ヘルフリッヒ]]中将が後任の連合国海軍部隊司令官になった{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=36}}。アメリカ海軍の先任将校は[[:en:William_A._Glassford|グラスフォード]]少将になる{{Sfn|ニミッツ|1962|p=35}}。日本軍が[[バリ島]]に上陸中との情報によりガスパル海峡から敗退してきたABDA部隊は急遽出動したが{{Sfn|ニミッツ|1962|p=35}}、[[バリ島沖海戦]]で撃退された{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|pp=39-43|ps=最後の目標ジャワ}}。 |
|||
日本軍は、連合国軍がオーストラリア~ジャワ島の航空機輸送において中継地点だった[[ティモール島]]を攻略して[[:en:History_of_East_Timor#Decolonisation,_coup,_and_independence|占領]]し、続いて[[オーストラリア]]を直接攻撃する{{Sfn|ニミッツ|1962|p=36}}。2月19日、[[南雲忠一|南雲]][[第一航空艦隊#空母艦隊|機動部隊]]が[[ノーザンテリトリー|北部豪州]]の[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]]を[[ダーウィン空襲|空襲]]した{{Sfn|草鹿|1979|pp=98-101|ps=敵蘭印作戦の拠点をつく}}{{Sfn|海軍航空隊始末記|1996|pp=65-69|ps=ポートダーウィンを叩く}}。ジャワ海方面で南雲機動部隊が活動を開始したため、連合国はオーストラリアから[[バンダ海]]と[[フローレス海]]を経由して蘭印に増援部隊を送ることが難しくなった。この頃になると、燃料不足と弾薬不足も深刻な問題になっていた{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=37}}。 |
|||
同年2月21日、ABDA司令部はビルマの担当をインド駐留軍に譲った<ref>[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、73頁。</ref>。この日、ウェーヴェル総司令官は「ABDA地域の防衛は崩壊し、もはや役に立たないABDA司令部を廃止すべきである。」とチャーチル英首相に進言した{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=35}}。[[連合参謀本部]]はこれ以上の戦力消耗は無意味であると判断し{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=35}}、1942年2月25日にABDA司令部を正式に解散した<ref name="ファレル76">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、76頁。</ref>。総司令官であったウェーヴェル大将は蘭印を去って元の[[:en:Commander-in-Chief,_India|インド駐留軍司令官]]に復帰する{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=35}}。そしてインドへ転任して[[ビルマの戦い]]を指揮することになった<ref name="ファレル76" />。同様に、ABDA部隊を構成していた各国陸軍と空軍はビルマかオーストラリアに撤退する{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=35}}。オランダ領東インド周辺の指揮は、オランダ軍に委ねられた{{Sfn|ニミッツ|1962|p=36}}。[[ヨーロッパ]]の[[オランダ|本国]]は既に[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に[[オランダにおける戦い_(1940年)|敗北]]して[[:nl:Nederland_in_de_Tweede_Wereldoorlog|占領されており]]、いまや{{仮リンク|オランダ亡命政府|en|Dutch_government-in-exile|nl|Londens_kabinet}}に残された主要領土はオランダ領東インドになっていたからである{{Sfn|グレンフェル|2008|p=130}}。 |
|||
{{seealso|スラバヤ沖海戦}} |
|||
オランダ人の決意は固かったが日本軍の戦力は圧倒的で{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=39|ps=オランダ領東インドへの日本軍の前進}}、ジャワ島の東部と西部に同時上陸を敢行するため、二つの大輸送船団を編成して南下しつつあった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=36}}。西部ジャワ攻略を狙うのが[[第16軍_(日本軍)|第16軍]]主力(軍司令官[[今村均]]陸軍中将、[[第2師団 (日本軍)|第2師団]])、東部ジャワ攻略部隊が第16軍隷下の[[第48師団_(日本軍)|第48師団]]である{{Sfn|勇将小沢治三郎生涯|1997|pp=114-116|ps=今村軍司令官との約束}}。さらに日本海軍の重巡部隊{{Efn|重巡[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]旗艦)、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、駆逐艦[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]、補給艦。}}と南雲機動部隊がジャワ島南方のインド洋に進出し{{Sfn|海軍航空隊始末記|1996|pp=72-74|ps=ジャバ南方に敵影なし}}、連合国増援部隊に対する警戒と、脱出艦艇の阻止を図る{{Sfn|草鹿|1979|pp=100-102|ps=よき獲物! 砲門火を吐く}}。ヘルフリッヒ司令官の命令により[[P-40_(航空機)|P-40]]戦闘機を満載してチラチャップにむかっていた水上機母艦[[ラングレー_(CV-1)|ラングレー]] (''{{lang|en|USS Langley, AV-3}}'') も{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|p=43}}、一式陸攻部隊([[高雄海軍航空隊]])に撃沈されて積荷の戦闘機は海没した{{Sfn|一式陸攻戦史|2019|pp=184-187|ps=幻の機動部隊、「空母」撃沈!?}}。 |
|||
蘭印防衛の最後の尽力は'''スラバヤ沖海戦'''で打ち砕かれ{{Sfn|ニミッツ|1962|p=38}}、オランダ海軍は主力艦艇とドールマン提督を失った{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|pp=38-44|ps=オランダ人提督ドールマンと艦隊の最期}}。ABDA海軍部隊司令官(ヘルフリッヒ中将)は多国籍軍の部下達から「ジャワを救う望みはなく、各艦はそれぞれの祖国から引き揚げ命令を受けている。」と伝えられる{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=48}}。ヘルフリッヒ司令官は「ABDA艦隊は残余の艦艇で抵抗を続けるべきだ」と要求したが、イギリス将校達の反発により、脱出を認めた{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=48}}。 |
|||
3月1日、ヘルフリッヒ中将はジャワ島南部[[:en:Cilacap_Regency|チラチャップ]]所在の艦船に脱出するよう命じたが{{Sfn|ニミッツ|1962|p=40}}、日本海軍の掃討作戦で撃滅される部隊や艦艇も少なからず存在した{{Efn|バタビア沖海戦で沈没した3隻(米重巡[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン]]、豪軽巡[[パース (軽巡洋艦)|パース]]、蘭駆逐艦[[:en:HNLMS Evertsen (1926)|エファーツェン]])、蘭印部隊に撃沈された3隻(英重巡[[エクセター (重巡洋艦)|エクセター]]、英駆逐艦[[エンカウンター_(駆逐艦)|エンカウンター]]、米駆逐艦[[ポープ (駆逐艦)|ポープ]]){{Sfn|太平洋の試練、下|2013|pp=44-48|ps=パース、ヒューストン撃沈}}。南雲機動部隊により米駆逐艦[[エドサル (駆逐艦)|エドサル]] (''{{lang|en|USS Edsall, DD-219}}'') {{Sfn|草鹿|1979|p=102}}、愛宕などにより米駆逐艦[[ピート・ハイン_(駆逐艦)|ピート・ハイン]] (''{{lang|en|USS Pillsbury, DD-227}}'') や英駆逐艦[[ストロングホールド (駆逐艦)|ストロングホールド]] (''{{lang|en|HMS Stronghold}}'') など{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=118-119}}。}}。 |
|||
ジャワ島の東西に上陸した[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は順調に進撃をつづけ、3月9日に全島を占領する{{Sfn|ニミッツ|1962|p=40}}([[:en:Battle_of_Java_(1942)|ジャワ島攻防戦]])。ABDA陸軍部隊総司令官だった[[ハイン・テル・ポールテン|ポールテン]]将軍も降伏した。ジャワ島方面以外でも、日本軍はスマトラ島、[[アンダマン諸島]][[日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領|占領]]、[[クリスマス島_(オーストラリア)|クリスマス島]][[日本軍のクリスマス島占領|占領]]など、順調に占領地域を広げていった{{Sfn|聯合艦隊作戦室|2008|p=44}}([[日本占領時期のインドネシア]]){{Sfn|勇将小沢治三郎生涯|1997|pp=116-118|ps=英艦隊との決戦を前に}}。 |
|||
連合国はABDA司令部の代わりになるものを創設せねばならなかった{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|pp=49-55|ps=ABDAにかわるもの}}。[[:en:South_West_Pacific_theatre_of_World_War_II|南西太平洋戦域]]([[フィリピン]]、[[オランダ領東インド|蘭印]]、[[ボルネオ島]]、[[ニューギニア島]]、[[ビスマルク諸島]]、[[ソロモン諸島]]西部)は[[:en:South_West_Pacific_Area_(command)|南西太平洋方面軍]]の担当になり、フィリピンの[[コレヒドール島|コレヒドール]][[:en:Harbor_Defenses_of_Manila_and_Subic_Bays|要塞]]から脱出した[[アメリカ極東陸軍]]の[[ダグラス・マッカーサー]]将軍が{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|pp=23-24}}、南西方面太平洋方面軍最高指揮官となった{{Sfn|ニミッツ|1962|p=41}}。ニミッツ提督(太平洋艦隊司令長官)は太平洋地域総司令官に任命される{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=55}}。これは北太平洋と中部太平洋および東太平洋諸島の一部がアメリカ海軍の、南西太平洋地域がマッカーサー将軍の作戦担当になったことを意味した{{Sfn|太平洋の試練、下|2013|p=55}}。 |
|||
なお[[珊瑚海]]方面 ([[:en:ANZAC_Area|ANZAC Area]]) を担当するため1942年2月上旬に新編された[[:en:ANZAC_Squadron|ANZAC部隊]](司令官[[:en:Herbert_F._Leary|ハーバート・F・リーリィ]]中将、ANZAC戦隊司令官は[[:en:John_Gregory_Crace|クレース]]少将)も、南西太平洋方面軍に吸収されている{{Sfn|ニミッツ|1962|p=41}}{{Efn|ANNZAC戦隊は[[:en:Task_Force_44|第44任務部隊]]に指定され、[[珊瑚海海戦]]に参加した{{Sfn|ニミッツ|1962|pp=52-53}}。}}。 |
|||
== 編制 == |
== 編制 == |
||
===アメリカ=== |
|||
{{節stub|date=2022-01}} |
|||
*[[ヒューストン (重巡洋艦)|ヒューストン(CA-30)]]([[ノーザンプトン級重巡洋艦]]) |
|||
*[[マーブルヘッド (軽巡洋艦)|マーブルヘッド(CL-12)]]([[オマハ級軽巡洋艦]]) |
|||
*[[ボイシ (軽巡洋艦)|ボイシ(CL-47)]]([[ブルックリン級軽巡洋艦]]) |
|||
*アルデン(DD-211)([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*バーカー(DD-213)([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*ジョン・D・エドワーズ(DD-216)([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*ホイップル(DD-217)([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*[[パロット (駆逐艦)|パロット(DD-218)]]([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*[[エドサル (駆逐艦)|エドサル(DD-219)]]([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*バルマー(DD-222)([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*[[スチュワート (DD-224)|(DD-224)]]([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*[[ポープ (駆逐艦)|ポープ(DD-225)]]([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*[[ピアリー (駆逐艦)|ピアリー(DD-226)]]([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*[[ピルスバリー (駆逐艦)|ピルスバリー(DD-227)]]([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*ジョン・D・フォード(DD-228)([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*[[ポール・ジョーンズ (DD-230)|ポール・ジョーンズ(DD-230)]]([[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*[[アッシュビル (砲艦)|アッシュビル(PG-21)]](アッシュビル級砲艦) |
|||
*タルサ(PG-22)(アッシュビル級砲艦) |
|||
*ホランド(AS-3)(潜水母艦) |
|||
*カノープス(AS-9)(潜水母艦) |
|||
*オタス(AS-20)(潜水母艦) |
|||
*[[ラングレー (CV-1)|ラングレー(CV-1)]] |
|||
*チャイルズ(AVD-1)(駆逐艦改造水上機母艦)(元[[クレムソン級駆逐艦]]) |
|||
*ヘロン(AVP-2)(小型水上機母艦)(元ラップウィング級掃海艇) |
|||
*ラニカイ(スクーナー) |
|||
*[[ペコス (AO-6)|ペコス(AO-6)]](カナワ級艦隊給油艦) |
|||
== |
===イギリス=== |
||
*[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]([[キング・ジョージ5世級戦艦]]) |
|||
{{Reflist|2}} |
|||
*[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]([[レナウン級巡洋戦艦]]) |
|||
*[[エクセター (重巡洋艦)|エクセター]]([[ヨーク級重巡洋艦]]) |
|||
*ダナイー([[ダナイー級軽巡洋艦]]) |
|||
*ドラゴン([[ダナイー級軽巡洋艦]]) |
|||
*ダーバン([[ダナイー級軽巡洋艦|デリー級軽巡洋艦]]) |
|||
*エメラルド([[エメラルド級軽巡洋艦]]) |
|||
*エクスプレス([[E級駆逐艦 (2代)|E級駆逐艦]]) |
|||
*[[エンカウンター (駆逐艦)|エンカウンター]]([[E級駆逐艦 (2代)|E級駆逐艦]]) |
|||
*[[エクスプレス (駆逐艦)|エクスプレス]]([[E級駆逐艦 (2代)|E級駆逐艦]]) |
|||
*[[アイシス (駆逐艦)|アイシス]]([[I級駆逐艦 (2代)|I級駆逐艦]]) |
|||
*[[ジュピター (駆逐艦)|ジュピター]]([[J/K/N級駆逐艦|J級駆逐艦]]) |
|||
*スカウト([[S級駆逐艦 (初代)|S級駆逐艦]]) |
|||
*[[ストロングホールド (駆逐艦)|ストロングホールド]]([[S級駆逐艦 (初代)|S級駆逐艦]]) |
|||
*[[テネドス (駆逐艦)|テネドス]]([[S級駆逐艦 (初代)|S級駆逐艦]]) |
|||
*[[サネット (駆逐艦)|サネット]]([[S級駆逐艦 (初代)|S級駆逐艦]]) |
|||
===オランダ=== |
|||
*[[ジャワ (軽巡洋艦)|ジャワ]]([[ジャワ級軽巡洋艦]]) |
|||
*[[デ・ロイテル (軽巡洋艦・初代)|デ・ロイテル]](軽巡洋艦) |
|||
*[[トロンプ (軽巡洋艦)|トロンプ]]([[トロンプ級軽巡洋艦]]) |
|||
*[[デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン (海防戦艦)|デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン]](海防戦艦) |
|||
*ヴァン・ゲント(ピート・ハイン級駆逐艦) |
|||
*エヴェルトセン(ピート・ハイン級駆逐艦) |
|||
*コルテノール(ピート・ハイン級駆逐艦) |
|||
*[[ピート・ハイン (駆逐艦)|ピート・ハイン]](ピート・ハイン級駆逐艦) |
|||
*ヴィッテ・デ・ヴィット([[ヴァン・ガレン級駆逐艦]]) |
|||
*バンケルト([[ヴァン・ガレン級駆逐艦]]) |
|||
*ヴァン・ネス([[ヴァン・ガレン級駆逐艦]]) |
|||
===オーストラリア=== |
|||
*[[アデレード (軽巡洋艦)|アデレード]]([[バーミンガム級軽巡洋艦]]) |
|||
*[[パース (軽巡洋艦)|パース]]([[パース級軽巡洋艦]]) |
|||
*[[ホバート (軽巡洋艦)|ホバート]]([[パース級軽巡洋艦]]) |
|||
*[[ヴァンパイア (駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]]([[V/W級駆逐艦|アドミラルティV級駆逐艦]]) |
|||
*[[ヴェンデッタ (駆逐艦・初代)|ヴェンデッタ]]([[V/W級駆逐艦|アドミラルティV級駆逐艦]]) |
|||
==脚注== |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{Notelist|2}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|30em}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
<!-- 著者五十音順 --> |
|||
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・ファレル|date=2010 |chapter=太平洋戦争初期における連合国側の戦略-東南アジア戦線 |chapterurl=http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2009/06.pdf |title=太平洋戦争とその戦略―平成21年度戦争史研究国際フォーラム報告書 |url=http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/j2009.html |publisher=防衛省防衛研究所 |ref=ファレル}} |
|||
* <!-- イケダ 2002 -->{{Cite book|和書|author=池田清||authorlink=池田清 (政治学者)|coauthors=|date=2002-01|origyear=1986|chapter=|title=重巡摩耶 {{smaller|元乗組員が綴る栄光の軌跡}}|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|isbn=4-05-901110-X|ref={{SfnRef|重巡摩耶|2002}}}} |
|||
* <!-- オイデ2017 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|date=2017-07|origyear=1988|title=智将小沢治三郎 {{smaller|沈黙の提督 その戦術と人格}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|ISBN=978-4-7698-3017-7|ref={{SfnRef|智将小沢治三郎|2017}}}} |
|||
* <!-- クサカ1979 -->{{Cite book|和書|author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介|date=1979-01|title=連合艦隊参謀長の回想|chapter=第二部 南西方面からインド洋へ/第二章 英艦隊掃蕩の命くだる|publisher=光和堂|isbn=|ref={{SfnRef|草鹿|1979}}}} |
|||
* <!-- グレンフェル2009 -->{{Cite book|和書|author=ラッセル・グレンフェル|others=田中啓眞 訳|date=2008-08|origyear=1953|title={{smaller|プリンス オブ ウエルスの最期}} 主力艦隊シンガポールへ {{smaller|日本勝利の記録}}|chapter=十一 蘭印の敗北|publisher=[[錦正社]]|isbn=978-4-7646-0326-4|ref={{SfnRef|グレンフェル|2008}}}} |
|||
* <!-- ゲンタ1996-12 -->{{Cite book|和書|author=源田實|authorlink=源田実|coauthors=|date=1996-12|origyear=1962|title=海軍航空隊始末記|chapter=印度洋を席巻する二カ月|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|isbn=4-16-731003-1|ref={{SfnRef|海軍航空隊始末記|1996}}}} |
|||
* <!-- サトウ2019 -->{{Cite book|和書|author=佐藤暢彦|coauthors=|date=2019-01|origyear=2015|chapter=第六章 大艦巨砲主義は終わったか {{smaller|― ジャワ沖のガスパール海峡の戦い}}|title=一式陸攻戦史 {{smaller|海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-3103-7|ref={{SfnRef|一式陸攻戦史|2019}}}} |
|||
* <!-- テラサキ1997 -->{{Cite book|和書|author=寺崎隆治|coauthors=|date=1997-12|origyear=1972|title=最後の連合艦隊司令長官 {{smaller|勇将小沢治三郎の生涯}}|chapter=第三種 戦う小沢治三郎 南遣艦隊、敵要衝を席捲|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2180-8|ref={{SfnRef|勇将小沢治三郎生涯|1997}}}} |
|||
* <!-- トール2013上 -->{{Cite book|和書|author=イアン・トール|others=村上和久(訳)|authorlink=|date=2013-06|title=太平洋の試練(上) {{smaller|真珠湾からミッドウェイまで}}|chapter=第五章 チャーチルは誘惑する|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4-16-376420-7|ref={{SfnRef|太平洋の試練、上|2013}}}} |
|||
* <!-- トール2013下 -->{{Cite book|和書|author=イアン・トール|others=村上和久(訳)|authorlink=|date=2013-06|title=太平洋の試練(下) {{smaller|真珠湾からミッドウェイまで}}|chapter=第七章 ABDA司令部の崩壊|publisher=文藝春秋|ISBN=978-4-16-376430-6|ref={{SfnRef|太平洋の試練、下|2013}}}} |
|||
* <!-- ナカジマ2008 -->{{Cite book|和書|author=中島親孝|authorlink=中島親孝|date=2008-10|origyear=1988|chapter=第一章 万里の波濤〈第二艦隊参謀時代(一)〉|title=聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 {{smaller|参謀が描く聯合艦隊興亡記}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2175-1|ref={{SfnRef|聯合艦隊作戦室|2008}}}} |
|||
* <!-- ニミッツ1962 -->{{Cite book|和書|author=チェスター・ニミッツ|authorlink=チェスター・ニミッツ|author2=E・B・ポッター|others=[[実松譲]]、富永謙吾(共訳)|date=1962-12|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=|ref={{SfnRef|ニミッツ|1962}}}} |
|||
* <!-- バーバー -->{{Cite book|和書|author=ノエル・バーバー|authorlink=ノエル・バーバー|others=[[原田栄一]] 訳 |date=1995-01|title=不吉な黄昏 {{smaller|シンガポール陥落の記録}}|publisher=中央公論社|series=中公文庫|isbn=4-12-202224-X|ref={{SfnRef|不吉な黄昏|1995}}}} |
|||
* <!-- ファレン2010 -->{{Cite book|和書|author=ブライアン・ファレル|date=2010 |chapter=太平洋戦争初期における連合国側の戦略-東南アジア戦線 |chapterurl=https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2009/06.pdf |title=太平洋戦争とその戦略―平成21年度戦争史研究国際フォーラム報告書 |url=http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/j2009.html |publisher=防衛省防衛研究所 |ref=ファレル}} |
|||
* {{Cite book|last=Matloff |first=Maurice |coauthors=Snell, Edwin M. |date=1990 |title=Strategic Planning for Coalition Warfare 1941-1942 |url=http://www.history.army.mil/books/wwii/SP1941-42/ |publisher=Center of Military History United States Army |location=Washington, D. C. |ref=Matloff}} |
* {{Cite book|last=Matloff |first=Maurice |coauthors=Snell, Edwin M. |date=1990 |title=Strategic Planning for Coalition Warfare 1941-1942 |url=http://www.history.army.mil/books/wwii/SP1941-42/ |publisher=Center of Military History United States Army |location=Washington, D. C. |ref=Matloff}} |
||
== 関連項目 == |
|||
* [[:en:Naval_history_of_the_Netherlands|オランダ海軍の歴史]] |
|||
* [[オートメドン号事件]] |
|||
* [[第二次世界大戦の会談・会議]] |
|||
* [[アルカディア会談]]/[[連合国共同宣言]]/[[国連憲章]] |
|||
* [[連合参謀本部]] |
|||
* [[:en:Pacific_War_Council|太平洋戦争会議]] |
|||
* [[ANZAC]] - 南西太平洋方面担当。アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドを主体とする。 |
|||
* [[:en:ANZAC_Squadron|ANZAC戦隊]] - アメリカ合衆国、ニュージーランド、オーストラリアから戦力を抽出した連合部隊。 |
|||
* [[オランダの戦艦建造計画]] |
|||
* [[1940年度巡洋戦艦試案]] |
|||
{{デフォルトソート:ABDAしれいふ}} |
{{デフォルトソート:ABDAしれいふ}} |
2024年3月6日 (水) 13:29時点における最新版
ABDA司令部(ABDAしれいぶ, American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command, ABDACOM)あるいは米英蘭豪司令部(べいえいらんごうしれいぶ)とは、第二次世界大戦の太平洋戦争初期において、アメリカ合衆国(America)・イギリス(British)・オランダ(Dutch)・オーストラリア(Australia)が東南アジアでの対日本軍事作戦指揮のため設置した多国籍コマンド[1]。
概要
[編集]ABDA司令部(ABDAしれいぶ、ABDACOM)は、太平洋戦争初期のアルカディア会談で設置が決まった多国籍軍で、日本軍の南方作戦から西太平洋地域を防衛するために設立された。ABDA司令部の最高司令官はイギリス陸軍のウェーヴェル大将であった[2][注釈 1]。
連合国にとって、極東防衛の要はイギリス軍とシンガポール海軍基地であった[5][注釈 2]。ところが太平洋戦争開戦直後の比島攻略戦でアメリカ極東空軍が日本軍により壊滅し[7][8]、マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力部隊を失い[9]、想定が崩れる。アルカディア会談でABDA司令部の設置を決定したものの[10]、アジア方面には最初から日本海軍に対抗できる戦力がなかったし、ABDA部隊の役割が「時間稼ぎ」に過ぎないことを最高指導者たちは理解していた[11]。さらに各国の戦略も統一できず、日本軍の南方作戦(マレー作戦、蘭印作戦)を阻止できなかった[12]。
1942年1月5日にABDA総司令官が任命され、間もなくジャワ島で作戦を開始したものの、連合参謀本部の下令により2月25日をもって解消した[13]。残存部隊は蘭印を防衛するためオランダ軍を中核として最後の抵抗をみせたが[14]、ABDA艦隊(ドールマン提督)はスラバヤ沖海戦で壊滅し[15][注釈 3]、陸軍部隊もジャワ島攻防戦で降伏した[18]。
沿革
[編集]第一次世界大戦の日独戦争により極東からドイツ帝国とその海軍(ドイツ東洋艦隊)が一掃され、膠州湾租借地(青島市)も日本軍が占領したが、対華21カ条要求はイギリスやアメリカに警戒感を抱かせた[19]。世界大戦終結後、イギリスの仮想敵国は大日本帝国となる[20]。パリ講和会議が開かれる前、ジェリコー第一海軍卿はオーストラリアとニュージーランドを訪問し、戦艦15隻から成る植民地太平洋艦隊の創設を訴え、その根拠地はオーストラリア大陸東海岸ポート・ジャクソン湾のシドニーを想定した[21]。しかし疲弊した各国や海軍本部の賛同を得られず、しかもワシントン海軍軍縮条約でイギリス海軍の艦艇保有数が大幅に制限されて不可能になった[21]。海軍本部は「極東有事になれば本国艦隊の全艦艇をアジアに回航させればよい。」と考えており、駐支派遣艦隊は巡洋艦数隻だけだった[22]。そしてヨーロッパとアジアで同時に有事が発生した場合について、イギリス海軍は図上演習で常に無視した[22]。
1937年中盤に日中戦争が始まって極東情勢が不穏になる[23]。アジア方面のイギリス連邦各国(オーストラリア政府、ニュージーランド政府)は不安にかられたが「有事の際は本国艦隊をアジアに回航する」というイギリス政府の約束を信じ、首相や防衛大臣は各国議会で楽天的な演説を重ねた[24]。1939年9月に第二次世界大戦が始まったときもアジアは平穏だったが、1940年5月のフランス敗北と6月のヴィシー政権樹立によりフランスが事実上脱落、フランス領インドシナに日本軍が侵攻してパワーバランスが変化した(仏印進駐)[25]。
1941年1月、アメリカとイギリスとカナダは米英参謀会談(コードネーム:ABC-1)を開催して、日本の軍事行動について対応を協議した[26]。3月から4月にかけて、イギリス、英連邦自治領、アメリカ合衆国、蘭印の代表がシンガポールに集まり、やはり日本の軍事行動と対応策を検討した[27]。フィリピンが攻められた場合、アメリカ合衆国アジア艦隊(重巡ヒューストン、軽巡マーブルヘッド、駆逐艦十数隻、潜水艦二十数隻)[28]とオランダ海軍の蘭印部隊がシンガポールに集合して「マレー防壁」を防衛し、イギリスは主力艦をふくむ東洋艦隊を投入する計画が承認された[5]。
太平洋戦争の開戦前、アメリカ軍・イギリス軍・オランダ軍・オーストラリア軍のABDA四か国及びニュージーランド軍の士官らは、日本軍を仮想敵とした統一戦略を秘密裏に協議していたが、アメリカのフランクリン・ルーズベルト政権が事前に戦略的義務を負うことを避けたため、具体的な統合防衛戦略の合意には至っていなかった[29]。イギリスは独自のシンガポール防衛計画を練っており[注釈 4]、その要はイギリス東洋艦隊であった[31]。いままで巡洋艦のみだった英国支那方面艦隊(統合発展して“イギリス東洋艦隊”と命名)に主力艦3隻(新鋭戦艦1、巡洋戦艦1、装甲空母1)が増強されたが、新鋭空母「インドミタブル」は訓練中に座礁して修理が必要になった[6][32]。 イギリス極東軍司令部(ロバート・ブルック=ポッパム空軍大将)[33][注釈 5]と隷下のマレー司令部(パーシバル将軍)が準備していたのがマタドール作戦だったが、実施直前に日本軍がタイ進駐とビルマ侵攻を開始した。
ウィンストン・チャーチル英首相はランカスター公領尚書のダフ・クーパーを現地駐在国務相に昇進させ、クーパーは極東方面戦争対策会議の議長を務めた[35]。だがポッファム空軍大将(極東軍最高司令官)とシェントン・トーマスシンガポール総督と対立してしまった[35]。
1941年12月、日本軍は南方作戦においてマレー半島を南下してシンガポール~スマトラ島~ジャワ島を目指す馬来作戦と、フィリピン攻略(比島作戦)およびボルネオ島やスラウェシ島を経由してジャワ島を目指す蘭印作戦を発動した。日本海軍の南遣艦隊(小沢治三郎提督)と日本陸軍の第25軍が馬来作戦を[36]、海軍の第三艦隊(高橋伊望提督)と第14軍および第48師団が比島作戦と蘭印作戦を[37]、第二艦隊(近藤信竹提督)が作戦全般支援を担当した[38]。 12月4日の時点で東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス大将は米国アジア艦隊長官トーマス・C・ハート提督とマニラで作戦会議中で[39]、日本軍輸送船団発見の報告をうけてシンガポールに戻り、12月8日に東洋艦隊主力部隊(Z部隊)を率いて出撃する[注釈 6]。だがマレー沖海戦で戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が撃沈され[41][42]、フィリップス提督も戦死した[43]。東洋艦隊(新任司令長官レイトン提督、参謀長パーサー少将)の巡洋艦と駆逐艦はシンガポールにむかう連合国増援部隊の護衛に走り回り、日本軍輸送船団を攻撃するのはコンラッド・ヘルフリッヒ提督が率いる蘭印オランダ海軍の潜水艦部隊だけになった[44]。
1941年12月中旬、イギリス極東方面軍総司令官はブルック=ポーハム(ポッファム)空軍大将からヘンリー・ポーナル(パウナル)陸軍中将に交代した[45][注釈 7]。 同月22日からワシントンD.C.においてアルカディア会談が開かれ、アメリカ(代表:フランクリン・ルーズベルト大統領)とイギリス(代表:チャーチル首相)はドイツ優先の方針を確認すると同時に[11]、日本軍の南方作戦に対抗するための連合軍統一司令部の設置で合意した[29][注釈 8]。同会談の中でアメリカ陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルが東南アジア防衛のための統合戦域司令部の設置を正式に提案し[48]、抵抗の末にイギリスも同意した[10]。重要な決定はアメリカとイギリスの間で行うものとされたが、オランダとオーストラリアは不満を持った[49][注釈 9]。
ABDA司令部の総司令官には、マーシャル米陸軍参謀長の推薦により、イギリス人でインド駐留軍司令官のアーチボルド・ウェーヴェル陸軍大将が任命された[10]。副司令官にはアメリカ陸軍航空軍のジョージ・ブレッド将軍が任命された。この南西太平洋方面連合最高司令部の設置はアメリカが主導権をもっており、「敗戦の責任をとりたくないので、アメリカ人以外を最高責任者に据えた。」という見解もある[45]。 実際、アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官はニミッツ提督(太平洋艦隊長官)に「第一優先事項:アメリカ大陸~ハワイ諸島~ミッドウェー島の補給線を確保せよ(ハワイの維持)」「第二優先事項:アメリカ大陸~サモア諸島やニューカレドニアを確保する(オーストラリアの維持)」を命令しており、アジア方面は二の次であった[51]。彼等はアジアの連合国軍が崩壊して日本軍が同方面を全て占領することを計算にいれており、ABDA部隊は「全滅するまでに、少しでも日本軍の進撃速度を遅らせる」ことを期待されていた[52][注釈 10]。
イギリス軍とアメリカ軍を指揮することになったウェーヴェル最高司令官は「赤ん坊を引き取る羽目になった男の話は聞いたことがあるが、これは双子なんだからね」と躊躇したが、チャーチル首相の説得に応じて任務を引き受けた[54]。1942年1月7日、ウェーヴェル総司令官はシンガポールに到着した[45]。ダフ・クーパーやパーシバル陸軍中将と会談する[54]。ウェーヴェルは英国極東方面軍を指揮下に入れ、ポーナム将軍をABDA司令部参謀長に任命した[45]。1月10日、ウェーヴェル大将はジャワ島に到着する[55]。ABDA司令部はオランダ領東インドの中心である西ジャワ州バンドンに置かれた[56]。アルカディア会議の段階では総司令官の権限に「海上、陸上、空中」全軍の指揮が含まれていたが[10]、実態はABDA戦域内のABDA四か国軍の戦略的作戦行動の調整にとどまった[49]。
ABDA海軍部隊 (ABDAFLOAT) の司令官にはアメリカ海軍のトーマス・C・ハート提督(アジア艦隊司令長官)が就任し[12]、副司令官にアーサー・パリサー少将が任命された[56]。その隷下にオランダ海軍のカレル・ドールマン少将を指揮官とするABDA艦隊(ABDA攻撃部隊)を編成した[16]。
ABDA陸軍部隊の司令官には、王立オランダ領東インド陸軍総司令官のハイン・テル・ポールテン中将、副司令官にイギリス軍のプレイファー少将が任命された。
ABDA空軍部隊の司令官には、イギリス空軍のリチャード・ピアース元帥、副司令官にアメリカ軍のルイス・ブレリートン少将が任命された。
ABDA司令部の担任範囲は、西はビルマから、東はオーストラリア北部に及んだ。1942年2月25日に正式に解散し、その後はオランダ領東インドなどの防衛に努めた。
次のような戦いに参加した。
なお、以下の戦闘はABDA司令部の解散後に、東南アジア地域の連合国軍が共同作戦を行ったものである。
作戦経過
[編集]ABDA司令部の基本戦略は、マレー半島(シンガポール)を中心としてスマトラ島からジャワ島(オランダ領東インドの最南端)に連なる防衛線「マレー防壁、Malay Barrier もしくは East Indies Barrier 」を保持しようとするものであった[57]。ABDA司令部正式発足前の1942年1月3日段階では、アルカディア会談により総司令官に内定したウェーヴェル大将に対して、重要地点を保持するのみならず、なるべく早く攻勢に出るよう指示が与えられていた[49]。シンガポールにはイギリス極東軍司令部(ポーナム将軍)が存在し、このままではABDA司令部と二重構造になるため、ウェーベル将軍はシンガポールに飛んで打ち合わせをおこなう[45]。最初にダフ・クーパーと会談し、続いてマラヤ司令部のパーシバル陸軍中将と共にシンガポール防衛施設の状況を視察、その無為無策な状況に慄然とする[58]。ABDA司令部は英極東軍司令部を吸収する形となった(総司令官ヴェーヴェル大将、副総司令官ブレッド中将、参謀長ポーナル中将)[56]。1月10日にジャワ島バタヴィアに到着、中部ジャワ州レンバンにおいて司令部を開設した[3]。ABDA陸軍部隊のポールテン将軍もレンバンに司令部を置いた。
この間にもシンガポールは追い詰められつつあり、マレー半島配備の連合国航空部隊は蘭印方面へ移動を始めていた[59]。またシンガポールを拠点にしていたイギリス東洋艦隊(レイトン提督)は、護送部隊司令部をジャワ島西部のバタヴィアに置いた[45]。悪化する戦況にも拘らず、ABDA司令部の最高指揮官たちはシンガポールは防衛可能と判断し、非常に楽観的だったという[60]。なお1月中の連合国艦艇は船団護衛任務が主任務で、日本軍輸送船団の迎撃に成功したのはバリクパパン沖海戦のみであった[16]。
連合国海軍部隊最高司令官に任命されたアメリカ人のハート提督(米国アジア艦隊長官)は、潜水艦でフィリピンからジャワ島に脱出していた[3]。ハート提督は海軍部隊副司令官にパリサー少将(当時、バタビア駐在英国海軍先任武官)を任命したので、オーストラリア海軍軍人のコリンズ提督がパリサー本来の任務をひきついだ[56]。シンガポール増援輸送が完了すると、多国籍艦艇を再編成してABDA攻撃部隊が発足し、オランダ海軍将校のカレル・ドールマン提督が海上指揮官に任命された[注釈 3]。
この時期、日本軍は東南アジア方面の制空権を掌握し、ABDA部隊の動向を掴んでいた[16]。山口多聞少将の第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)に支援された日本軍がモルッカ諸島アンボン島に駐留する王立オランダ領東インド陸軍を攻撃し、占領した[61]。勢いに乗る日本軍はスラウェシ島ケンダリを占領し[注釈 11]、二航戦は東ジャワ州の主要港(スラバヤ、タンジョンプリオク)を空襲、オランダ領東インド空軍に大打撃を与えた[16]。 対峙するABDA部隊の方は制空権を失ったので、多方向からジャワ島を目指す日本軍の作戦全貌がわからず、振り回されることも多かった[16]。ボルネオ島東部バリクパパン方面の日本軍を攻撃するため、バリクパパン沖海戦の再現を狙ってABDA部隊(軽巡デ・ロイテル、重巡ヒューストン、軽巡マーブルヘッド、駆逐艦部隊)が出撃したが[62]、ジャワ海で日本海軍基地航空部隊(九六陸攻、一式陸攻)に攻撃されマーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) が大破した[63]。
2月15日、極東防衛と大英帝国の要石だったシンガポールが陥落した[64]。同日、スマトラ島パレンバンに空挺部隊を投入した日本軍[65][66](バリクパパン攻防戦)に対処するためABDA攻撃部隊(ABDA艦隊)は多国籍艦隊を率いて出撃、日本軍西部攻略部隊(馬来部隊)の攻撃にむかった[4][注釈 12]。だがガスパル海峡で日本海軍の基地航空部隊と軽空母龍驤(第四航空戦隊、角田覚治少将)の空襲で撃退された[67][68]。
ABDA艦隊が敗退した頃、ウェーヴェル総司令官はチャーチル英首相に「制空権がない現状ではジャワ島の防衛は難しい。」と報告した[13]。ハート大将はアメリカに帰国し、オランダ海軍のコンラッド・ヘルフリッヒ中将が後任の連合国海軍部隊司令官になった[62]。アメリカ海軍の先任将校はグラスフォード少将になる[4]。日本軍がバリ島に上陸中との情報によりガスパル海峡から敗退してきたABDA部隊は急遽出動したが[4]、バリ島沖海戦で撃退された[69]。
日本軍は、連合国軍がオーストラリア~ジャワ島の航空機輸送において中継地点だったティモール島を攻略して占領し、続いてオーストラリアを直接攻撃する[14]。2月19日、南雲機動部隊が北部豪州のダーウィンを空襲した[70][71]。ジャワ海方面で南雲機動部隊が活動を開始したため、連合国はオーストラリアからバンダ海とフローレス海を経由して蘭印に増援部隊を送ることが難しくなった。この頃になると、燃料不足と弾薬不足も深刻な問題になっていた[72]。
同年2月21日、ABDA司令部はビルマの担当をインド駐留軍に譲った[73]。この日、ウェーヴェル総司令官は「ABDA地域の防衛は崩壊し、もはや役に立たないABDA司令部を廃止すべきである。」とチャーチル英首相に進言した[13]。連合参謀本部はこれ以上の戦力消耗は無意味であると判断し[13]、1942年2月25日にABDA司令部を正式に解散した[74]。総司令官であったウェーヴェル大将は蘭印を去って元のインド駐留軍司令官に復帰する[13]。そしてインドへ転任してビルマの戦いを指揮することになった[74]。同様に、ABDA部隊を構成していた各国陸軍と空軍はビルマかオーストラリアに撤退する[13]。オランダ領東インド周辺の指揮は、オランダ軍に委ねられた[14]。ヨーロッパの本国は既にドイツに敗北して占領されており、いまやオランダ亡命政府に残された主要領土はオランダ領東インドになっていたからである[56]。
オランダ人の決意は固かったが日本軍の戦力は圧倒的で[75]、ジャワ島の東部と西部に同時上陸を敢行するため、二つの大輸送船団を編成して南下しつつあった[14]。西部ジャワ攻略を狙うのが第16軍主力(軍司令官今村均陸軍中将、第2師団)、東部ジャワ攻略部隊が第16軍隷下の第48師団である[76]。さらに日本海軍の重巡部隊[注釈 13]と南雲機動部隊がジャワ島南方のインド洋に進出し[77]、連合国増援部隊に対する警戒と、脱出艦艇の阻止を図る[78]。ヘルフリッヒ司令官の命令によりP-40戦闘機を満載してチラチャップにむかっていた水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) も[79]、一式陸攻部隊(高雄海軍航空隊)に撃沈されて積荷の戦闘機は海没した[80]。
蘭印防衛の最後の尽力はスラバヤ沖海戦で打ち砕かれ[81]、オランダ海軍は主力艦艇とドールマン提督を失った[15]。ABDA海軍部隊司令官(ヘルフリッヒ中将)は多国籍軍の部下達から「ジャワを救う望みはなく、各艦はそれぞれの祖国から引き揚げ命令を受けている。」と伝えられる[82]。ヘルフリッヒ司令官は「ABDA艦隊は残余の艦艇で抵抗を続けるべきだ」と要求したが、イギリス将校達の反発により、脱出を認めた[82]。 3月1日、ヘルフリッヒ中将はジャワ島南部チラチャップ所在の艦船に脱出するよう命じたが[83]、日本海軍の掃討作戦で撃滅される部隊や艦艇も少なからず存在した[注釈 14]。
ジャワ島の東西に上陸した日本陸軍は順調に進撃をつづけ、3月9日に全島を占領する[83](ジャワ島攻防戦)。ABDA陸軍部隊総司令官だったポールテン将軍も降伏した。ジャワ島方面以外でも、日本軍はスマトラ島、アンダマン諸島占領、クリスマス島占領など、順調に占領地域を広げていった[87](日本占領時期のインドネシア)[88]。
連合国はABDA司令部の代わりになるものを創設せねばならなかった[89]。南西太平洋戦域(フィリピン、蘭印、ボルネオ島、ニューギニア島、ビスマルク諸島、ソロモン諸島西部)は南西太平洋方面軍の担当になり、フィリピンのコレヒドール要塞から脱出したアメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー将軍が[90]、南西方面太平洋方面軍最高指揮官となった[91]。ニミッツ提督(太平洋艦隊司令長官)は太平洋地域総司令官に任命される[92]。これは北太平洋と中部太平洋および東太平洋諸島の一部がアメリカ海軍の、南西太平洋地域がマッカーサー将軍の作戦担当になったことを意味した[92]。 なお珊瑚海方面 (ANZAC Area) を担当するため1942年2月上旬に新編されたANZAC部隊(司令官ハーバート・F・リーリィ中将、ANZAC戦隊司令官はクレース少将)も、南西太平洋方面軍に吸収されている[91][注釈 15]。
編制
[編集]アメリカ
[編集]- ヒューストン(CA-30)(ノーザンプトン級重巡洋艦)
- マーブルヘッド(CL-12)(オマハ級軽巡洋艦)
- ボイシ(CL-47)(ブルックリン級軽巡洋艦)
- アルデン(DD-211)(クレムソン級駆逐艦)
- バーカー(DD-213)(クレムソン級駆逐艦)
- ジョン・D・エドワーズ(DD-216)(クレムソン級駆逐艦)
- ホイップル(DD-217)(クレムソン級駆逐艦)
- パロット(DD-218)(クレムソン級駆逐艦)
- エドサル(DD-219)(クレムソン級駆逐艦)
- バルマー(DD-222)(クレムソン級駆逐艦)
- (DD-224)(クレムソン級駆逐艦)
- ポープ(DD-225)(クレムソン級駆逐艦)
- ピアリー(DD-226)(クレムソン級駆逐艦)
- ピルスバリー(DD-227)(クレムソン級駆逐艦)
- ジョン・D・フォード(DD-228)(クレムソン級駆逐艦)
- ポール・ジョーンズ(DD-230)(クレムソン級駆逐艦)
- アッシュビル(PG-21)(アッシュビル級砲艦)
- タルサ(PG-22)(アッシュビル級砲艦)
- ホランド(AS-3)(潜水母艦)
- カノープス(AS-9)(潜水母艦)
- オタス(AS-20)(潜水母艦)
- ラングレー(CV-1)
- チャイルズ(AVD-1)(駆逐艦改造水上機母艦)(元クレムソン級駆逐艦)
- ヘロン(AVP-2)(小型水上機母艦)(元ラップウィング級掃海艇)
- ラニカイ(スクーナー)
- ペコス(AO-6)(カナワ級艦隊給油艦)
イギリス
[編集]- プリンス・オブ・ウェールズ(キング・ジョージ5世級戦艦)
- レパルス(レナウン級巡洋戦艦)
- エクセター(ヨーク級重巡洋艦)
- ダナイー(ダナイー級軽巡洋艦)
- ドラゴン(ダナイー級軽巡洋艦)
- ダーバン(デリー級軽巡洋艦)
- エメラルド(エメラルド級軽巡洋艦)
- エクスプレス(E級駆逐艦)
- エンカウンター(E級駆逐艦)
- エクスプレス(E級駆逐艦)
- アイシス(I級駆逐艦)
- ジュピター(J級駆逐艦)
- スカウト(S級駆逐艦)
- ストロングホールド(S級駆逐艦)
- テネドス(S級駆逐艦)
- サネット(S級駆逐艦)
オランダ
[編集]- ジャワ(ジャワ級軽巡洋艦)
- デ・ロイテル(軽巡洋艦)
- トロンプ(トロンプ級軽巡洋艦)
- デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン(海防戦艦)
- ヴァン・ゲント(ピート・ハイン級駆逐艦)
- エヴェルトセン(ピート・ハイン級駆逐艦)
- コルテノール(ピート・ハイン級駆逐艦)
- ピート・ハイン(ピート・ハイン級駆逐艦)
- ヴィッテ・デ・ヴィット(ヴァン・ガレン級駆逐艦)
- バンケルト(ヴァン・ガレン級駆逐艦)
- ヴァン・ネス(ヴァン・ガレン級駆逐艦)
オーストラリア
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ABDA司令部の隷下に、ABDA陸軍部隊、ABDA空軍部隊がある。ABDA海軍部隊 (ABDAFLOAT) 司令官は、合衆国アジア太平洋艦隊長官のトーマス・C・ハート大将で[3]、ハート提督のアメリカ帰国にともないオランダ海軍のコンラッド・ヘルフリッヒ中将に交代した[4]。
- ^ アメリカは独力でフィリピンを防衛できるようにアメリカ極東陸軍とアジア太平洋艦隊を増強したが、その目途がたつのは1942年春とされた[6](オレンジ計画)。
- ^ a b ABDA攻撃部隊[16]、もしくは連合打撃部隊は、日本においてABDA艦隊と呼称されている[17]。
- ^ 伝統的なイギリスの戦略では、70日間シンガポール要塞で持ちこたえ、その間にヨーロッパからアジアへ主力艦隊を回航させることになっていた[30]。
- ^ ブルーク=ポッファムとも[34]。イギリス空軍総参謀長だった1940年10月に極東軍最高司令官に任命されたが、三軍(英空軍、英海軍、英陸軍)の反目は相変わらずであった[34]。
- ^ 東洋艦隊参謀長のアーサー・パリサー少将はシンガポールに残った[40]。
- ^ 極東方面軍最高司令官の更迭は、ダフ・クーパーがチャーチル首相に進言していた[46]。パウナル陸軍中将は、駐仏イギリス派遣軍司令部の参謀総長だった(ダンケルクの戦い、ダイナモ作戦)[46]。12月23日にシンガポールに到着し、4日後に引き継いだ[46]。
- ^ 1942年1月1日、アルカディア会談の成果の一つとして連合国共同宣言が出され、これが国際連合(国際連合憲章)の基礎となった[47]。
- ^ アルカディア会談の結果、アメリカ統合参謀本部とギリス参謀長委員会により連合参謀本部が発足した[50]。同時に太平洋戦争会議 (Pacific War Council) も発足したが、こちらはABDA部隊の崩壊で有名無実になった。
- ^ ただし全員が納得していたわけでない。アイゼンハワー(参謀本部戦争計画局次長)は「上層部がアジアで日本軍の進撃を食い止めることを軽視している。」と批判した[53]。フィリピンで孤立していたダグラス・マッカーサー将軍はルーズベルト大統領に救援を要請し、反省した大統領はマッカーサーに救援と誓約した上でスティムソン陸軍長官に12月30日の手紙で「危険は承知だが、フィリピン救援の方法を調査してくれ」と依頼した[53]。
- ^ オランダ植民地時代はセレベス (Celebes) と呼ばれていた。
- ^ 蘭巡洋艦(デ・ロイテル、ジャワ、トロンプ)、英連邦巡洋艦(エクセター、ホバート)、多国籍駆逐艦[62]。
- ^ 重巡愛宕(第二艦隊旗艦)、高雄、摩耶、駆逐艦嵐、野分、早潮、補給艦。
- ^ バタビア沖海戦で沈没した3隻(米重巡ヒューストン、豪軽巡パース、蘭駆逐艦エファーツェン)、蘭印部隊に撃沈された3隻(英重巡エクセター、英駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープ)[84]。南雲機動部隊により米駆逐艦エドサル (USS Edsall, DD-219) [85]、愛宕などにより米駆逐艦ピート・ハイン (USS Pillsbury, DD-227) や英駆逐艦ストロングホールド (HMS Stronghold) など[86]。
- ^ ANNZAC戦隊は第44任務部隊に指定され、珊瑚海海戦に参加した[93]。
出典
[編集]- ^ 太平洋の試練、上 2013, pp. 286–296連合国の軍の統一指揮が必要だ
- ^ 不吉な黄昏 1995, p. 142.
- ^ a b c 太平洋の試練、下 2013, p. 13.
- ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 35.
- ^ a b グレンフェル 2008, p. 67.
- ^ a b ニミッツ 1962, p. 15.
- ^ ニミッツ 1962, p. 28.
- ^ 太平洋の試練、上 2013, pp. 100–105フィリピン、マレー半島でも敗退
- ^ 太平洋の試練、上 2013, pp. 108–114英国Z部隊壊滅の意味
- ^ a b c d 太平洋の試練、上 2013, p. 291.
- ^ a b 太平洋の試練、上 2013, pp. 277–286ドイツをまず全力で叩く方針を確認
- ^ a b ニミッツ 1962, p. 32.
- ^ a b c d e f 太平洋の試練、下 2013, p. 35.
- ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 36.
- ^ a b 太平洋の試練、下 2013, pp. 38–44オランダ人提督ドールマンと艦隊の最期
- ^ a b c d e f ニミッツ 1962, p. 34.
- ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 148–150ABDA艦隊、編成さる
- ^ グレンフェル 2008, p. 134.
- ^ グレンフェル 2008, pp. 18–27極東に於ける列強の対立
- ^ グレンフェル 2008, pp. 28–30.
- ^ a b グレンフェル 2008, pp. 37–38.
- ^ a b グレンフェル 2008, p. 39.
- ^ ニミッツ 1962, pp. 11–13石油と宥和
- ^ グレンフェル 2008, p. 47.
- ^ グレンフェル 2008, p. 49.
- ^ ニミッツ 1962, p. 13.
- ^ グレンフェル 2008, p. 66.
- ^ ニミッツ 1962, p. 29.
- ^ a b ファレル(2010年)、56頁。
- ^ グレンフェル 2008, pp. 56–57.
- ^ グレンフェル 2008, p. 78.
- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 60–65英艦隊側からの展望
- ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 26.
- ^ a b 不吉な黄昏 1995, pp. 70–73.
- ^ a b 不吉な黄昏 1995, pp. 80–84.
- ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 21–24, 25–34.
- ^ 重巡摩耶 2002, p. 99.
- ^ 聯合艦隊作戦室 2008, pp. 24–25陸海軍作戦協定
- ^ グレンフェル 2008, p. 86.
- ^ グレンフェル 2008, pp. 96–97.
- ^ ニミッツ 1962, p. 30.
- ^ 不吉な黄昏 1995, pp. 86–89.
- ^ グレンフェル 2008, pp. 108–114敗戦の原因
- ^ グレンフェル 2008, p. 116.
- ^ a b c d e f グレンフェル 2008, p. 129.
- ^ a b c 不吉な黄昏 1995, pp. 112–113.
- ^ 太平洋の試練、上 2013, pp. 298–300連合国と同盟国の違い
- ^ ファレル(2010年)、58頁。
- ^ a b c ファレル(2010年)、61頁。
- ^ 太平洋の試練、上 2013, p. 293.
- ^ 太平洋の試練、上 2013, p. 281.
- ^ 太平洋の試練、上 2013, p. 282.
- ^ a b 太平洋の試練、上 2013, p. 285.
- ^ a b 不吉な黄昏 1995, p. 143.
- ^ 太平洋の試練、上 2013, p. 292.
- ^ a b c d e グレンフェル 2008, p. 130.
- ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 47.
- ^ 不吉な黄昏 1995, p. 144.
- ^ グレンフェル 2008, p. 128.
- ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 14.
- ^ 聯合艦隊作戦室 2008, pp. 38–39蘭印作戦支援
- ^ a b c 太平洋の試練、下 2013, p. 36.
- ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 150–152ジャワ沖海戦の奇妙な勝利?
- ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 29–34シンガポール陥落
- ^ 智将小沢治三郎 2017, p. 60.
- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 109–110.
- ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 157–162ガスパール海峡の苦悶
- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 110–112遁走したガスパル海峡の英蘭連合艦隊
- ^ 聯合艦隊作戦室 2008, pp. 39–43最後の目標ジャワ
- ^ 草鹿 1979, pp. 98–101敵蘭印作戦の拠点をつく
- ^ 海軍航空隊始末記 1996, pp. 65–69ポートダーウィンを叩く
- ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 37.
- ^ ファレル(2010年)、73頁。
- ^ a b ファレル(2010年)、76頁。
- ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 39オランダ領東インドへの日本軍の前進
- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 114–116今村軍司令官との約束
- ^ 海軍航空隊始末記 1996, pp. 72–74ジャバ南方に敵影なし
- ^ 草鹿 1979, pp. 100–102よき獲物! 砲門火を吐く
- ^ 聯合艦隊作戦室 2008, p. 43.
- ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 184–187幻の機動部隊、「空母」撃沈!?
- ^ ニミッツ 1962, p. 38.
- ^ a b 太平洋の試練、下 2013, p. 48.
- ^ a b ニミッツ 1962, p. 40.
- ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 44–48パース、ヒューストン撃沈
- ^ 草鹿 1979, p. 102.
- ^ 重巡摩耶 2002, pp. 118–119.
- ^ 聯合艦隊作戦室 2008, p. 44.
- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 116–118英艦隊との決戦を前に
- ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 49–55ABDAにかわるもの
- ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 23–24.
- ^ a b ニミッツ 1962, p. 41.
- ^ a b 太平洋の試練、下 2013, p. 55.
- ^ ニミッツ 1962, pp. 52–53.
参考文献
[編集]- 池田清『重巡摩耶 元乗組員が綴る栄光の軌跡』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X。
- 生出寿『智将小沢治三郎 沈黙の提督 その戦術と人格』光人社〈光人社NF文庫〉、2017年7月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-3017-7。
- 草鹿龍之介「第二部 南西方面からインド洋へ/第二章 英艦隊掃蕩の命くだる」『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年1月。
- ラッセル・グレンフェル「十一 蘭印の敗北」『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』田中啓眞 訳、錦正社、2008年8月(原著1953年)。ISBN 978-4-7646-0326-4。
- 源田實「印度洋を席巻する二カ月」『海軍航空隊始末記』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年12月(原著1962年)。ISBN 4-16-731003-1。
- 佐藤暢彦「第六章 大艦巨砲主義は終わったか ― ジャワ沖のガスパール海峡の戦い」『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月(原著2015年)。ISBN 978-4-7698-3103-7。
- 寺崎隆治「第三種 戦う小沢治三郎 南遣艦隊、敵要衝を席捲」『最後の連合艦隊司令長官 勇将小沢治三郎の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、1997年12月(原著1972年)。ISBN 4-7698-2180-8。
- イアン・トール「第五章 チャーチルは誘惑する」『太平洋の試練(上) 真珠湾からミッドウェイまで』村上和久(訳)、文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376420-7。
- イアン・トール「第七章 ABDA司令部の崩壊」『太平洋の試練(下) 真珠湾からミッドウェイまで』村上和久(訳)、文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6。
- 中島親孝「第一章 万里の波濤〈第二艦隊参謀時代(一)〉」『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社〈光人社NF文庫〉、2008年10月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2175-1。
- チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。
- ノエル・バーバー『不吉な黄昏 シンガポール陥落の記録』原田栄一 訳 、中央公論社〈中公文庫〉、1995年1月。ISBN 4-12-202224-X。
- ブライアン・ファレル「太平洋戦争初期における連合国側の戦略-東南アジア戦線」『太平洋戦争とその戦略―平成21年度戦争史研究国際フォーラム報告書』防衛省防衛研究所、2010年 。
- Matloff, Maurice; Snell, Edwin M. (1990). Strategic Planning for Coalition Warfare 1941-1942. Washington, D. C.: Center of Military History United States Army
関連項目
[編集]- オランダ海軍の歴史
- オートメドン号事件
- 第二次世界大戦の会談・会議
- アルカディア会談/連合国共同宣言/国連憲章
- 連合参謀本部
- 太平洋戦争会議
- ANZAC - 南西太平洋方面担当。アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドを主体とする。
- ANZAC戦隊 - アメリカ合衆国、ニュージーランド、オーストラリアから戦力を抽出した連合部隊。
- オランダの戦艦建造計画
- 1940年度巡洋戦艦試案