「日本の歴史」の版間の差分
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#[[ルイス・フロイス]]作の歴史書。 |
#[[ルイス・フロイス]]作の歴史書。 |
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== 日本列島の形成 == |
== 日本列島の形成 == |
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日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前のことである。その頃は、まだ大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には完全に大陸から離れ、現在の姿と環境の[[日本列島]]ができあがった。 |
日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前のことである。その頃は、まだ大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には完全に大陸から離れ、現在の姿と環境の[[日本列島]]ができあがった。 |
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== 旧石器時代 == |
== 旧石器時代 == |
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* (詳細は[[日本の旧石器時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[日本の旧石器時代]]の項を参照。) |
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[[日本列島]]への人類の居住は、[[旧石器時代]]のことと考えられている。最も古いと思われる遺物は約10万年前と考えられており、遺跡が多数あって人類の存在が疑いないといえるのは約3万年前からである。しかし、大陸と地続きだった[[氷河期]]には、人類がたやすく日本に入ってこれたはずで、もっと古く数十万年前まで遡る可能性がある。 |
[[日本列島]]への人類の居住は、[[旧石器時代]]のことと考えられている。最も古いと思われる遺物は約10万年前と考えられており、遺跡が多数あって人類の存在が疑いないといえるのは約3万年前からである。しかし、大陸と地続きだった[[氷河期]]には、人類がたやすく日本に入ってこれたはずで、もっと古く数十万年前まで遡る可能性がある。旧石器時代の人類は、[[打製石器]]を用い、大型哺乳類を狩って生活していた。 |
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旧石器時代の遺跡 |
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* [[岩宿遺跡]] |
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* [[野尻湖遺跡]] |
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== 縄文時代 == |
== 縄文時代 == |
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* (詳細は[[縄文時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[縄文時代]]の項を参照。) |
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約1万2千年前から[[日本列島]]には[[縄文]]文化が広がった |
約1万2千年前から[[日本列島]]には[[縄文]]文化が広がった。[[縄文時代]]の人々は、[[竪穴式住居]]に住み、弓矢での狩猟、[[貝塚]]に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに[[縄文式土器]]を用い、様々な用途に[[打製石器]]・[[磨製石器]]と[[骨角器]]をあて、舟を用いた。人々の交流は広い範囲にわたり、時には[[環状石籬]] (環状列石) 、巨木工事のような大事業を起こした。 |
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== 弥生時代 == |
== 弥生時代 == |
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* (詳細は[[弥生時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[弥生時代]]の項を参照。) |
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[[紀元前3世紀]]かそれ以前に水稲農耕が伝わり、[[九州]]、[[四国]]、[[本州]]に広がった。低地に[[水田]]を作った人々は、[[弥生式土器]]を作り、[[石器]]にかえて徐々に[[鉄器]]を使うようになり、祭祀に[[青銅器]]を用いた |
[[紀元前3世紀]]かそれ以前に水稲農耕が伝わり、[[九州]]、[[四国]]、[[本州]]に広がった。低地に[[水田]]を作った人々は、[[弥生式土器]]を作り、[[石器]]にかえて徐々に[[鉄器]]を使うようになり、祭祀にのみ[[青銅器]]を用いた。[[弥生時代]]には[[農業]]によって定住が可能になったことから村ができ、貧富や上下関係が生まれた。戦いが絶えなかった。やがて各地に小さな国が生まれ、1世紀に[[奴国]]の王が[[後漢]]に、[[3世紀]]にあったと言われる[[邪馬台国]]の女王が[[魏]]に、[[倭]]の王であることを意味する金印を授けられた。この頃以降の日本は、大陸からは[[倭]]と呼ばれた。 |
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なお、[[南西諸島]]と[[樺太]]・[[北海道]]には水田が作られず、[[南西諸島]]では[[貝塚時代]]、ついで[[グスク時代]]、樺太・北海道では[[続縄文時代]]、ついで[[擦文時代]]が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。[[南西諸島]]の歴史については、[[沖縄県]] |
なお、[[南西諸島]]と[[樺太]]・[[北海道]]には水田が作られず、[[南西諸島]]では[[貝塚時代]]、ついで[[グスク時代]]、樺太・北海道では[[続縄文時代]]、ついで[[擦文時代]]が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。[[南西諸島]]の歴史については、[[沖縄県]]も参照。 |
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== 古墳時代 == |
== 古墳時代 == |
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* (詳細は[[古墳時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[古墳時代]]の項を参照。) |
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[[3世紀]]末から[[6世紀]]末まで、[[前方後円墳]]という日本独自の形式の墳墓 |
[[3世紀]]末から[[6世紀]]末まで、[[前方後円墳]]という日本独自の形式の墳墓が日本全域に造られた。この時期に大和政権が倭の統一政権として確立し、5世紀に[[倭の五王]]が中国に使者を遣わした。倭人が[[朝鮮半島]]で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と[[仏教]]・[[儒教]]がもたらされた。この時代の人々は[[土師器]]と[[須恵器]]を用いた。 |
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== 飛鳥時代 == |
== 飛鳥時代 == |
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* (詳細は[[飛鳥時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[飛鳥時代]]の項を参照。) |
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中央では6世紀末から[[645年]]の[[乙支の変]]まで[[蘇我氏]]が、それ以後天皇と皇族が政治の実権を握った。この頃までに、までに、日本は東北地方南部から九州までを領域にしていた。[[白村江の戦い]]で敗れてから、倭は朝鮮半島への進出を断念した。[[遣隋使]]、[[遣唐使]]を派遣し、中国を参考に官制を整え、[[701年]]に[[大宝律令]]を制定した。この時代に[[倭]]は「日本」と改称した。天皇と氏族が仏教寺院を建設し、これを中心に[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]が栄えた。 |
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この時代には、[[朝廷]]を中心とした政治体制が確立されてくる。[[聖徳太子]]は[[推古天皇]]の[[摂政]]として政治改革を行い、[[朝廷]]の仕組みを整えていく。この頃、蘇我氏のような[[豪族]]の力も大きく、[[天皇]]や[[皇族]]の存在はまだまだ小さなものであったため、[[聖徳太子]]は中国の官制を参考に制度改革を行い、[[朝廷]]の仕組みを作り上げようとする。[[朝廷]]に官位制度を設け[[冠位十二階]]を制定し、ついで国家の基本法として[[憲法十七条]]を定め、[[天皇]]を中心とした[[法治国家]]体制を築き上げていく。 |
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またこの頃日本に[[仏教]]が伝来し、[[法隆寺]]や[[四天王寺]]等各地で寺院が建立され仏教を中心とした[[飛鳥文化]]が構築され、中国大陸の文化を取り入れるため[[遣隋使]]、[[遣唐使]]の派遣も行われた。[[朝鮮半島]]との交流も深く、6世紀に存在した[[百済]]とは同盟関係も結んでいた。 |
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[[孝徳天皇]]や[[中大兄皇子]]らの行った[[大化の改新]]では[[豪族]]の権力を抑え、[[朝廷]]の政治体制を確立させていく。その後[[唐]]の[[律令制|律令制度]]を基本に[[701年]]に[[大宝律令]]が制定され、[[公地公民制]]、[[班田収授法]]による税制の仕組みの確立や、二官八省の設置によって[[大蔵省]]など今日に至るまでその名称が使用される中央官庁の組織編成など、[[天皇]]を中心とした[[中央集権国家]]が確立され、今日に通じる日本の政治体制の基礎が築き上げられたと言える。 |
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この頃、[[倭]]は「日本」と改称し、王号も「大王」又は「治天下大王」から[[天皇]]となった。 |
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== 奈良時代 == |
== 奈良時代 == |
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* (詳細は[[奈良時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[奈良時代]]の項を参照。) |
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[[710年]]に都は奈良の[[平城京]]に遷った。この時期の[[律令国家]]は、[[戸籍]]と[[計帳]]で人民を把握し、[[租庸調]]と軍役を課した。[[遣唐使]]を度々送り、唐の文物を導入した。全国に[[国分寺]]を建て、仏教的な[[天平文化]]が栄えた。[[古事記]]、[[日本書紀]]、[[万葉集]]など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、西方は平和であったが、東北では[[蝦夷]]との戦争が絶えなかった。 |
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[[710年]]に都は奈良の[[平城京]]に遷都する。 |
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急速な法令・社会制度の改革に伴い、財政需要が急増し税収確保が課題となっていた。そこで生産増加を喚起するため、[[723年]]の[[三世一身の法]]が制定され、さらに[[743年]]に墾田の私有化を認めた[[墾田永年私財法]]が制定された。これは[[荘園]]の形成につながっていった。 |
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この時代は仏教が盛んになり、唐風の[[天平文化]]が栄えた。[[遣唐使]]が盛んに行われ[[唐 (王朝)|唐]]の文化や芸術品が多数持ち込まれ、鎮護国家のためにと[[東大寺]]の[[大仏]]が建立された。各地に[[国分寺]]という寺院が建立され仏教は日本国中に広まっていくことになり、[[鑑真]][[和上]]が大陸から来日し仏教の発展にも努めた。 |
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また中国に倣って[[歴史書]]が作成され[[古事記]]、[[日本書紀]]が編纂されている。またわが国最古の[[歌集]]として[[万葉集]]が完成した。 |
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== 平安時代 == |
== 平安時代 == |
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* (詳細は[[平安時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[平安時代]]の項を参照。) |
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[[桓武天皇]]が[[794年]]に都を[[平安京]]に遷し、蝦夷征服を中断してから、国力を傾ける大事業はなくなった。中央ではまず[[藤原氏]]が力を伸ばして[[摂関政治]]を行い、11世紀末には上皇が[[院政]]を敷いた。地方では[[荘園]]が全国に広がって、荘園と[[国衙領]]が混在する[[荘園公領制]]が出現した。平安時代の後半には[[武士]]が台頭し、末期には中央の政争に関与し、12世紀末に[[平氏政権]]を生んだ。文化面では、唐風の[[弘仁貞観文化]]から、日本的な[[国風文化]]に移り変わった。仏教界には個人救済の傾向が強まった。平安時代の末期に、日本の支配は本州北端まで及んだ。 |
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=== 平安時代初期 === |
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[[桓武天皇]]が[[794年]]に都を[[平安京]]に遷し、ここに[[明治時代]]までの約千年もの長い間、京は日本の首都となる。桓武天皇は前時代の政争を一掃するため、長岡京、平安京と遷都した。また坂上田村麿を征夷大将軍に任じ何度も陸奥国を北方へ拡張させ、概ね岩手県中部まで勢力圏とする。しかし社会的に余裕がなくなり、天皇の晩年自ら命じて、造都と[[蝦夷]]征服を中断させる。貴族は京の政治的・文化的生活に意を注いだ。勅撰の漢詩集を編纂するなど、思想的にも充実する。[[醍醐天皇]]前後の時代は「延喜天暦の治」と呼ばれ後の時代から繁栄した時代とあがめられる。時代の風潮は、[[最澄]]、[[空海]]が中国から新しい仏教を導入し、学問ではなく、救済の仏教を創設したことでも特徴ずけられる。 |
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=== 平安時代中期 === |
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中央では[[藤原氏]]が政争により、実権を握って他の貴族を寄せ付けない[[摂関政治]]を行ない、地方では私有地である[[荘園]]が全国に広がって、[[荘園]]と[[国衙領]]が混在する[[荘園公領制]]が出現した。このことで[[公地公民制]]が崩壊し有力貴族の力が蓄えられることとなり、有力貴族が大きな力を持ち、政治が天皇から離れ貴族によって左右されるものへと変化していく。文化面では、唐風の[[弘仁貞観文化]]から、日本的な[[国風文化]]に移り変わった。 |
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=== 平安時代後期 === |
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平安時代の後半には[[武士]]が政治的に実力を持つようになった。その典型が平将門の乱とされる。11世紀末には[[藤原氏]]を外戚としない天皇が現れ、摂政の制約を無くし、次いで自らが幼い天皇の父として政治を行う[[上皇]]に権力を集め[[院政]]を行った。 |
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=== 平安時代末期 === |
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末期には武士は朝廷の政争に関与し、最終的に全面的内戦の主役になる。この時期、政治経済の混乱を背景に、世界は「末法」の時代になったと宣伝され、仏教界には個人救済の傾向が強まった。平安時代の末期には、日本の支配は[[奥州藤原氏]]の手により本州北端まで及んだ。 |
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設立当初より制度的破綻を内包していた律令体制はいわゆる武士台頭を招き、12世紀には[[源氏]]と[[平氏]]の2大勢力が中央政権の実権を奪い合う状態となった。この権力闘争は[[平清盛]]を筆頭とする平氏の勝利に終わり、いわゆる[[平家]]の全盛時代が始まる。[[平清盛]]は[[太政大臣]]にまでなった。 |
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しかし、平家は律令体制に代わる現実的な新しい統治理論を打ち出すことをせず、旧式の太政官制度内での栄達にひたって公家化し、当の平家を含む全国の地主層である新興階級の武士たちとの間に次第に溝が出来てきた。 |
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[[平清盛]]の最晩年、過去の権力闘争時に唯一殺害されずに伊豆に[[流刑]]にされ、北条家預かりになっていた[[源頼朝]]が平氏である北条家を抱きこみ反乱に踏み切り、各地で連敗しつつも、次第に関東一円の武士の支持を勝ち取り大勢力となる。 |
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鎮圧のための大軍を送り込んできた平家の軍勢を富士川近辺で敗走させ、自身は鎌倉に身を置いたまま、頼朝にわずかに先立って反乱に立ち上がった木曽の源氏「[[木曽義仲]]」の軍勢と平行したかたちで全軍を西進させ、ついには平家を京の都から追い落とした。その後都を破壊した木曽義仲を撃破し、平家の大軍が立てこもる福原の都(現神戸)を強襲してこれを破り、続く[[屋島]](現香川県)、[[壇ノ浦]](現山口県)の戦いで掃蕩し、ここに平家の時代は終焉を迎えた。 |
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== 鎌倉時代 == |
== 鎌倉時代 == |
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* (詳細は[[鎌倉時代]]の項を参照) |
* (詳細は[[鎌倉時代]]の項を参照。) |
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12世紀末に、[[源頼朝]]が武士の頂点に立ち、全国に[[守護]]を置いて、[[鎌倉幕府]]を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に[[地頭]]等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。質実剛健な鎌倉文化が栄え、武士や庶民に鎌倉新仏教の諸宗が説かれた。西日本を中心に商品経済が広まり、各地に定期的な市が立つようになった。13世紀には二度にわたる[[元寇]]があったが、いずれも撃退した。 |
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[[源頼朝]]は、[[1192年]][[征夷大将軍]]の宣下をそのまま受け、[[鎌倉幕府]]を開いた。ここに日本初の軍事政権である[[幕府]]を創始することとなる。 |
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[[源頼朝]]は現実的な施策として全国に[[守護]]を置いて、地方の[[荘園]]・公領を名義はそのままで管理させる一方、全国各地方に[[地頭]]を置き武士が実効支配するという二元の支配構造を敷いた。 |
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実際には[[守護]]は[[地頭]]を管理・監督するのみで公家層は[[荘園]]・公領に対する実効支配力を失っていった。 |
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最大の改革点は「[[問注所]]」(後に評定所)と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。 |
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[[源頼朝]]の死後、将軍の輔弼制度として北条家による執政制度も創設され、例え頼朝の血統が絶えても[[鎌倉幕府]]体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして[[御成敗式目]]という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。 |
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[[後鳥羽上皇]]らが幕府討伐のため起こした[[承久の乱]]は、結果としては幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位性の確立という画期的な事件となった。(それでも幕府は朝廷を滅ぼさなかった点に日本独特の政権意識が垣間見られる。) |
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経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有制度が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つようになった。 |
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[[13世紀]]には二度にわたる[[元寇]]があった。この戦いでは辛うじて[[元]]の侵攻を阻止出来た。これにより「日本は[[神国]]」との意識が生まれ、後世の歴史意識に深く刻み込まれていくこととなった。また、対元戦争による物理的な獲得は何も無く、そのため出征した[[御家人]]への恩賞が支払われず、武士の心は幕府から離れていったとする説もあるが、その後約50年間も幕府が存続したことを考えると、幕府衰退に直接の関係はないとする見方もある。 |
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== 建武の新政 == |
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* (詳細は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の項を参照。) |
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=== 建武の新政 === |
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* (詳細は[[建武の新政]]の項を参照。) |
* (詳細は[[建武の新政]]の項を参照。) |
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鎌倉幕府は、[[1333年]]に[[後醍醐天皇]]の討幕運動によって倒れた。天皇は親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士の不満を買って[[足利尊氏]]の反乱を招いた。 |
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在地領主層であった武士の複雑な利害調整を負託されていた北条得宗家による[[執政]]体制の鎌倉幕府は、[[元寇]]以来の政局不安によりその武士層からの支持を失い、[[1333年]]に[[後醍醐天皇]]を担ぐ討幕勢力によって倒された。 |
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しかし[[後醍醐天皇]]は新たな総合調整能力を持つ政権の誕生を待望していた[[守護大名]]を筆頭とする新興武士層の期待を裏切り、当時の日本の実情に合わない「建武新政」といわれる大陸の皇帝的な天皇親政を目指し、ほぼ全ての武士の不満を買って政権は安定せず、ついには源氏の嫡流を汲む[[足利尊氏]]の反乱を招くに至る。 |
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=== 南北朝 === |
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[[後醍醐天皇]]は一旦は[[光明天皇]]に譲位するものの[[吉野]]に逃れて南朝を建てる。[[足利尊氏]]は光明天皇を押し立て([[北朝]])、[[征夷大将軍]]の宣下を受け[[1336年]]に[[室町幕府]]を開いた。二つの朝廷がそれぞれ正統を主張し対立する[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]は[[1392年]]まで続き、様々な曲折を経て最終的に三代将軍[[足利義満]]により北朝に統一された。これによって[[鎌倉幕府]]末期からの日本を治める政治体制をめぐる争いが決着したが、[[室町幕府]]の政権基盤は決して強固とはいえず、各地では様々な権利関係をめぐる争いが絶えなかった。 |
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== 室町時代 == |
== 室町時代 == |
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* (詳細は[[室町時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[室町時代]]の項を参照。) |
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尊氏は後醍醐の南朝に対して北朝を擁立し、[[1336年]]に[[室町幕府]]を開いた。二つの朝廷が対立する[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]は[[1392年]]まで続き、北朝に統一された。ここで最終的に武家が優位に立ったが、幕府の財政軍事基盤は弱かった。[[応仁の乱]]をきっかけに[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入った。[[下克上]]が頻発し、様々な[[一揆]]が起こり、荘園制が消滅した。戦乱が続く時代だったが内外の通商は盛んで、農業・工業ともに技術が向上した。この頃、西方では[[倭寇]]が朝鮮や中国を襲った。 |
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京都に本拠地を置く[[室町幕府]]は3代将軍[[足利義満]]の時に全盛を迎えるが、その後様々な将軍職相続問題を機に、有力大名達の争いを生じさせる。もともと独自の財政軍事基盤に乏しく、[[管領]]・[[四職]]家没落後はこれらの軍事的・非軍事的な紛争を調停するだけの力しか持ちあわせてなかった。将軍家歴代は政治力を徐々に失っていき、いわゆる[[北山文化]]、[[東山文化]]といわれる[[禅宗]]などの影響を受け、「侘び・寂び」を基調とした文化的活動に没頭していった。 |
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この間、各地の勢力争いは結果的に割拠勢力の相互努力による「国力増強策」を誘発し、それまでは一般庶民(農民)が購入するには高価過ぎた「鉄製農具」が安価に普及し始めたことに伴い、広い地域を灌漑する「治水」の技術が発展。農業生産を中心とする経済は急成長をはじめ、全国的に余剰生産を生むに至り、それまでの非支配者階層が実力を持つようになる。 |
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慢性的な騒乱状態はついには京都にも伝染し、8代将軍[[足利義政]]の跡つぎ争いが生じ、これ端を発した有力大名の権力闘争[[応仁の乱]]を引き起こすに至る。この乱で軍事的に中心的な役割を果たしたのは西軍・東軍双方とも「足軽」と呼ばれる無名の兵士群であり、それまで武家の独占であった「軍事」が下級市民に取って代わられていった象徴的な事件でもあった。 |
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この事件をきっかけに[[平安時代]]以来の京の都は灰塵に帰し、[[室町幕府]]は全く実態を失った。京都が「首都」の実態を取り戻すのは約百年後の[[織田信長]]の出現を待たねばならなかった。 |
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また[[明]]に[[朝貢]]する形での[[勘合貿易]]を行い、大陸との貿易も盛んに行われるようになっていた。一時それが取りやめられると西日本、特に九州方面では一部の漁民が海賊化し[[倭寇]]として朝鮮半島や支那大陸の明の沿岸を襲った。 |
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== 戦国時代 == |
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* (詳細は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の項を参照。) |
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[[応仁の乱]]以降を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]と言う。慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が「戦争状態」にあったことではない。[[室町幕府]]によって保証されていた古い権威が否定され始め、新興の実力者が新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。これを[[下克上]]という。様々な経歴の[[戦国大名]]が登場する。 |
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それぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われた。そのような永続的な衝突を可能にしたほど経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で「成功」を収めることができる経済成長期であったことが時代を支えていた。[[荘園制度]]に立脚した律令制が在地領主層である「武士」の台頭で消滅したのと同じく、経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展し、自らの実力に相応しい発言力を社会に対して要求した時代でもあった。(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある。) |
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== 安土桃山時代 == |
== 安土桃山時代 == |
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* (詳細は[[安土桃山時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[安土桃山時代]]の項を参照。) |
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[[戦国大名]]の中で[[織田信長]]が強大になり、後継者の[[豊臣秀吉]]が[[1590年]]に日本を統一した。秀吉は、全国で[[検地]]と[[刀狩り]]を実施させ、[[明]]の征服をもくろんで[[文禄・慶長の役|朝鮮を攻めた]]が、敗れた。秀吉の死後、[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]に勝った[[徳川家康]]が政権を得た。この時代には豪奢絢爛な[[桃山文化]]が栄えた。 |
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[[戦国大名]]と言われる新興勢力の中で、[[織田信長]]が「天下布武」のスローガンを掲げ、勝利を続けてその勢力を爆発的に拡大し、ついには当時「天下のことは定まりたり」と言われるほどに至る。この理由としては、他の大名に見られない実力本位による家臣団編成によるところが大きいと考えられている。 |
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天下統一を目前に信長が[[明智光秀]]により殺害された後、実力で後継者の地位に就いた[[豊臣秀吉]]が権力闘争に勝ち抜き[[1590年]]に全国を統一した。 |
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[[織田信長]]の方針だった重要な平和施策である[[検地]]と[[刀狩り]]を全国規模で行い、全日本規模での課税台帳の整備により国民経済の実態を把握し、農民・商人(一般庶民)の武装を禁じて非合法武装決起を未然に防ぐ治安対策を徹底した。 |
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この時代は圧倒的な経済成長と[[織田信長]]治下の安定のもと、豪奢絢爛な[[桃山文化]]が栄えた。 |
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[[豊臣秀吉]]は[[織田信長]]の理想を彼なりの方法で具現化し、日本に百数十年ぶりの「平和」を実現した。その後、[[明]]の征服を目論んで[[文禄・慶長の役]]を起こしたが、[[朝鮮]]の抵抗に敗れた。この[[朝鮮出兵]]は、結果的に豊臣政権の諸大名・有力商人(財界)の支持を失い、[[豊臣秀吉]]の亡き後には、権力を巡って有力大名同士の衝突を生じさせる結果となった。[[1600年]]に生じた[[関ヶ原の戦い]]において[[徳川家康]]が大勝利を収め、次の時代の後継者として名乗りを上げる。 |
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== 江戸時代 == |
== 江戸時代 == |
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* (詳細は[[江戸時代]]の項を参照。) |
* (詳細は[[江戸時代]]の項を参照。) |
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家康は[[1603年]]に[[江戸幕府]]を開いて、[[幕藩体制]]を固め、長く続く国内平和を実現した。17世紀に国内の農地開発が進み、その後商品経済が全国に浸透し、商品作物の栽培と商工業が発達した。[[儒教|儒学]]、[[国学]]、[[蘭学]]やさまざま実学など諸学問が繁茂し、[[元禄文化]]、[[化政文化]]のような町人による世俗的文化が栄えた。 |
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日本は[[1609年]]に[[琉球]]を攻撃して属国にした。北では[[アイヌ人]]への支配をしだいに強め、今の北海道を領土にした。江戸幕府は、17世紀初めまで[[朱印船貿易]]を実施したが、やがて貿易相手を中国、オランダ、朝鮮に限って[[鎖国]]した。鎖国は200年以上続いたが、[[1855年]]にアメリカの軍事的圧力の下で[[開国]]した。これに反対する[[尊皇攘夷]]運動がおき、幕府は[[1867年]]に倒れた。 |
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[[室町時代]]と並び、現代の日本を形作る原型となった時代。現在の日本の問題点を考える上でも見習うべき点が驚くほど多くあり、再評価が待たれる。 |
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=== 江戸時代初期 === |
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[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと自領である江戸の地に幕府を開き、ここに[[江戸幕府|徳川幕府]]が誕生する。豊臣政権崩壊後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大阪の陣]]により豊臣氏とそれを担いで騒乱を期待する勢力を一掃。長く続いた政局不安は終わった。 |
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[[江戸幕府|徳川幕府]]は徹底的な政局安定策をとり、[[武家諸法度]]の制定や[[禁中並びに公家諸法度]]など諸大名や朝廷に対し、徹底した法治体制を敷いた。大名の多くが「所領没収」で姿を消し、全国の要所は直轄領として大名を置かず、多数の親藩大名に大領を持たせ、その合間に外様大名を配置し、譜代大名には小領と中央政治に関与する権利を与えるという絶妙の分割統治策を実施した。 |
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「自家優先主義」との批判もあるが、これにより結果的には260年以上続く世界史的にも驚異的な長期安定政権の基盤を確立し、「天下泰平」という日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本にもたらした。 |
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また、農本主義的に思われている家康だが、実際には信長、秀吉と同時代の人間であり、また信長の徹底的な規制緩和による経済振興策をその目で見てきていることからも、成長重視の経済振興派であった可能性が指摘されている。平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から生産活動へ転じたため、戦国時代から安土・桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。 |
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また[[江戸時代]]には、対外的には長崎[[出島]]以外で外国との交流を禁止する[[海禁政策]]を採ったが(この期間を[[鎖国]]の時代と呼ぶ)、これも家康の基本方針には無く、家康死後数十年後、3代将軍[[徳川家光|家光]]の時代からである。 |
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当時の国際状況に過敏に反応した政府首脳が拙速な外交方針としてこの海禁政策を打ち出したものであり、確かにこの時期における多くの東アジア諸国に共通して見られる対外政策であったが、当時の日本の国力、政権の基盤、国内の安定度からみても、日本独自の外交策を堅持することは可能であったと思われるが、この点も現代日本に深い示唆を与えるものであろう。 |
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=== 江戸時代中期 === |
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いわゆる江戸時代の暗い停滞イメージのもとになるのは18世紀終盤であり、有名な8代将軍「[[徳川吉宗]]」の[[享保の改革]]以降である。土地資本を基盤とする(土地所有者ではない)支配者層である武士の生活の安定と、安定成長政策とを上手く融合できずに、金融引締め的な経済圧迫政策のみを打ち出した結果であり、その結果の出口の見えない不況が社会停滞の原因である。また、増えすぎた人口を農業のみでは養っていけない東北地方等では不作が発生した際に「飢饉」にまで事態が悪化してしまうという不幸が、特に江戸時代後半には多くなったことも、続く明治時代から見たこの時代の印象と評価を不当に下げているものと思われる。 |
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実際には、超長期の安定政権は、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、日本に空前の繁栄をもたらし、その後の日本の誇りとなるような学問・文化・芸術・商法等あらゆるジャンルで様々な才能が花開き、確立され、現在へと引き継がれているのである。 |
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ただ一点、「武家政権」と言いながら、それまで数世紀に渡って蓄積された軍事的ノウハウは全く失われ、人口の1割にもなろうとする膨大な人数の「武士」とその家族は、すでに軍人でも土地資本家でも無くなり、行政官としてのみ存在することになった。特に失策により経済成長の止まった江戸時代後半にはその雇用問題自体が大きな政治課題となった。 |
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また失われた軍事能力は、嘉永年間のペリーの黒船騒動以降の騒乱のなかで、「武士」の存在意義そのものを疑われる遠因になると同時に、明治以降現在に至るまで、日本にいびつな「軍事観」と「平和観」をもたらしているものとも無縁ではないであろう。 |
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だが実際の江戸時代は町人文化や伝統芸能、娯楽、芸術、経済、物流と言った物が非常に活発になった時代でもあり、日本の[[ルネサンス|ルネッサンス]]期に相当する。 |
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また非常に環境に配慮された社会構造や整った教育制度が出来上がっており、現代日本にとっても参考に出来る時代で江戸時代への評価は高まっている。 |
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=== 江戸時代末期 === |
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発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも「太平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。 |
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加えて18世紀後半の近代産業革命とその果実を得た西洋諸国は急速に「近代化」し、それぞれの政治経済的事情から前時代の「冒険」ではなく、みずからの産業のために資源と市場を求めて世界各地に「進出」をはじめた。 |
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遠い極東の地に彼らが到達するに従い、当然日本近海にも西洋船が出没する回数が多くなっていったが幕府はこれら外国船や日本との外交ルートを模索する使節の接触に対し、[[異国船打ち払い令]]として知られる拒絶政策により「鎖国政策」を再確認しており、在野の世論もこれに同意していた。 |
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しかし[[1854年]]、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に強行上陸した[[アメリカ合衆国|米国]]の[[マシュー・ペリー|ペリー]]とやむなく交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えをみせたペリー艦隊の威力に屈し[[日米和親条約]]を締結、その後米国の例にならって高圧的に接触してきた西欧諸国ともなし崩し的に同様の条約を締結、事実上「開国」してしまった。 |
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下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」<!--誰の説?-->であるという説に反したとされた、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。 |
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「世論」が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、[[京都]]の帝(みかど)の存在が500年ぶりにクローズアップされる。 |
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このため永い間、幕府の方針もあり政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となり、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。 |
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一時は井伊大老の強行弾圧路線([[安政の大獄]])もあり不満「世論」も沈静化するかに思われたが、[[桜田門外の変|井伊の横死]]後、将軍後継問題で幕府がゆれる間に事態は急速に変化する。 |
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藩内改革派と保守派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、馬関海峡を航行中の外国船を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行し、翌年相手国4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠されたり、京都における主導権争いから薩摩藩らとの間に市街戦(禁門の変)を演じたりするなど、エポックメイキングな事件を連発し、一躍幕末政局の中心的存在に躍り出る。 |
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列強各国から強烈に苦情を申し入れられた幕府は長州藩を罰するため「長州征伐」を行うが[[高杉晋作]]らの組織した[[奇兵隊]]などの庶民軍の活躍に阻まれ2度にわたって失敗してしまう。折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威はこの敗北によって急速に無くなっていった。 |
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薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩はこの機を逃さず一転同盟を締結([[薩長同盟]])、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、反政策キャンペーン<!--意味不明-->であった「攘夷」を、折から巻き起こっていた国家元首問題としての尊王(勤皇)運動と融合させ、「[[尊皇攘夷]]運動」へと巧妙にすり替え、これを更に「倒幕」の世論へと誘導していく。 |
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新将軍[[徳川慶喜]]は起死回生で[[大政奉還]]を実行する。武力によって完全に[[幕府]]を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を失ったため先手を取られた形となったが、薩長倒幕派は太政官制度を復活させ、天皇を中心とした新政府を樹立し政権の交代を宣言する。この体制変革と制度改革から[[明治維新]]へと続いていく。 |
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=== 戊辰戦争 === |
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新政府は、徳川将軍家を一藩に降格させ[[天領]]は政府直轄領とすることを決定。[[徳川慶喜]]には天領の返還と3世紀前の旧領である駿河(静岡)への立ち退きを要求した。しかし応諾の回答は無かったため、[[板垣退助]]を総司令官とする官軍を江戸へ東征させることを決定。[[戊辰戦争]]と呼ばれるこの[[内戦]]は、越後長岡藩や会津藩等各地で大規模な戦闘が行われたものの、[[江戸城]]は無血開城されるなど、大都市を巻き込んだ大きな戦争とはならなかった。最後は[[榎本武揚]]等が函館に立てこもって抗戦したが短期間で終結した。 |
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(ここまで簡略化作業終了。作業についてはこのページの[[ノート:日本の歴史]]を参照) |
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江戸幕藩体制は黒船騒動以降急速に衰え、いわゆる幕末の動乱を経て終焉を迎え、明治近代化に至るが、明治以降現在に至るまで、その真価が不当に低く評価されている傾向がある。また江戸幕府崩壊後に出来た明治政府は、その正当性を民衆に主張する為「江戸時代は暗黒時代であった」と喧伝する。その為、日本史において江戸時代はしばらく暴虐と圧制の暗黒時代ととらえられ、否定的な評価を受けてきた。 |
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== 明治時代 == |
== 明治時代 == |
2004年10月11日 (月) 15:20時点における版
日本史(にほんし)
日本列島の形成
日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前のことである。その頃は、まだ大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には完全に大陸から離れ、現在の姿と環境の日本列島ができあがった。
旧石器時代
- (詳細は日本の旧石器時代の項を参照。)
日本列島への人類の居住は、旧石器時代のことと考えられている。最も古いと思われる遺物は約10万年前と考えられており、遺跡が多数あって人類の存在が疑いないといえるのは約3万年前からである。しかし、大陸と地続きだった氷河期には、人類がたやすく日本に入ってこれたはずで、もっと古く数十万年前まで遡る可能性がある。旧石器時代の人類は、打製石器を用い、大型哺乳類を狩って生活していた。
縄文時代
- (詳細は縄文時代の項を参照。)
約1万2千年前から日本列島には縄文文化が広がった。縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに縄文式土器を用い、様々な用途に打製石器・磨製石器と骨角器をあて、舟を用いた。人々の交流は広い範囲にわたり、時には環状石籬 (環状列石) 、巨木工事のような大事業を起こした。
弥生時代
- (詳細は弥生時代の項を参照。)
紀元前3世紀かそれ以前に水稲農耕が伝わり、九州、四国、本州に広がった。低地に水田を作った人々は、弥生式土器を作り、石器にかえて徐々に鉄器を使うようになり、祭祀にのみ青銅器を用いた。弥生時代には農業によって定住が可能になったことから村ができ、貧富や上下関係が生まれた。戦いが絶えなかった。やがて各地に小さな国が生まれ、1世紀に奴国の王が後漢に、3世紀にあったと言われる邪馬台国の女王が魏に、倭の王であることを意味する金印を授けられた。この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。
なお、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県も参照。
古墳時代
- (詳細は古墳時代の項を参照。)
3世紀末から6世紀末まで、前方後円墳という日本独自の形式の墳墓が日本全域に造られた。この時期に大和政権が倭の統一政権として確立し、5世紀に倭の五王が中国に使者を遣わした。倭人が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と仏教・儒教がもたらされた。この時代の人々は土師器と須恵器を用いた。
飛鳥時代
- (詳細は飛鳥時代の項を参照。)
中央では6世紀末から645年の乙支の変まで蘇我氏が、それ以後天皇と皇族が政治の実権を握った。この頃までに、までに、日本は東北地方南部から九州までを領域にしていた。白村江の戦いで敗れてから、倭は朝鮮半島への進出を断念した。遣隋使、遣唐使を派遣し、中国を参考に官制を整え、701年に大宝律令を制定した。この時代に倭は「日本」と改称した。天皇と氏族が仏教寺院を建設し、これを中心に飛鳥文化・白鳳文化が栄えた。
奈良時代
- (詳細は奈良時代の項を参照。)
710年に都は奈良の平城京に遷った。この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握し、租庸調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。古事記、日本書紀、万葉集など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、西方は平和であったが、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。
平安時代
- (詳細は平安時代の項を参照。)
桓武天皇が794年に都を平安京に遷し、蝦夷征服を中断してから、国力を傾ける大事業はなくなった。中央ではまず藤原氏が力を伸ばして摂関政治を行い、11世紀末には上皇が院政を敷いた。地方では荘園が全国に広がって、荘園と国衙領が混在する荘園公領制が出現した。平安時代の後半には武士が台頭し、末期には中央の政争に関与し、12世紀末に平氏政権を生んだ。文化面では、唐風の弘仁貞観文化から、日本的な国風文化に移り変わった。仏教界には個人救済の傾向が強まった。平安時代の末期に、日本の支配は本州北端まで及んだ。
鎌倉時代
- (詳細は鎌倉時代の項を参照。)
12世紀末に、源頼朝が武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。質実剛健な鎌倉文化が栄え、武士や庶民に鎌倉新仏教の諸宗が説かれた。西日本を中心に商品経済が広まり、各地に定期的な市が立つようになった。13世紀には二度にわたる元寇があったが、いずれも撃退した。
建武の新政
- (詳細は建武の新政の項を参照。)
鎌倉幕府は、1333年に後醍醐天皇の討幕運動によって倒れた。天皇は親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士の不満を買って足利尊氏の反乱を招いた。
室町時代
- (詳細は室町時代の項を参照。)
尊氏は後醍醐の南朝に対して北朝を擁立し、1336年に室町幕府を開いた。二つの朝廷が対立する南北朝時代は1392年まで続き、北朝に統一された。ここで最終的に武家が優位に立ったが、幕府の財政軍事基盤は弱かった。応仁の乱をきっかけに戦国時代に入った。下克上が頻発し、様々な一揆が起こり、荘園制が消滅した。戦乱が続く時代だったが内外の通商は盛んで、農業・工業ともに技術が向上した。この頃、西方では倭寇が朝鮮や中国を襲った。
安土桃山時代
- (詳細は安土桃山時代の項を参照。)
戦国大名の中で織田信長が強大になり、後継者の豊臣秀吉が1590年に日本を統一した。秀吉は、全国で検地と刀狩りを実施させ、明の征服をもくろんで朝鮮を攻めたが、敗れた。秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康が政権を得た。この時代には豪奢絢爛な桃山文化が栄えた。
江戸時代
- (詳細は江戸時代の項を参照。)
家康は1603年に江戸幕府を開いて、幕藩体制を固め、長く続く国内平和を実現した。17世紀に国内の農地開発が進み、その後商品経済が全国に浸透し、商品作物の栽培と商工業が発達した。儒学、国学、蘭学やさまざま実学など諸学問が繁茂し、元禄文化、化政文化のような町人による世俗的文化が栄えた。
日本は1609年に琉球を攻撃して属国にした。北ではアイヌ人への支配をしだいに強め、今の北海道を領土にした。江戸幕府は、17世紀初めまで朱印船貿易を実施したが、やがて貿易相手を中国、オランダ、朝鮮に限って鎖国した。鎖国は200年以上続いたが、1855年にアメリカの軍事的圧力の下で開国した。これに反対する尊皇攘夷運動がおき、幕府は1867年に倒れた。
(ここまで簡略化作業終了。作業についてはこのページのノート:日本の歴史を参照)
明治時代
- (詳細は明治時代の項を参照。)
明治天皇が即位、天皇は江戸に行幸し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指した。そして新たに江戸を東京と改め日本の新しい政治の中心にすえる。(この遷都については諸説ある)
尊皇攘夷思想に基づき天皇は親政することとし人民を直接統治するとされたが、政治体制は明治憲法で確定するまで、様々に変化する。中国明朝などに準じ一世一元制を定め天皇の謚号は元号とし、それまでの陰陽道的改元を廃止した。明治憲法は「天皇ハ神聖ニシテオカスヘカラス」と定め、他の諸国の君主制度と異なることを明示する。
明治維新
新政府は大政奉還が行われると王政復古の大号令を発し、元号を慶応から明治に改め五箇条の御誓文を示し新しい政治の方針を打ち出す。
新政府は幕府時代の全てを変革し、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指していく。明治2年(1869年)には各藩に版籍奉還を命令し、明治4年(1871年)には全ての藩を解体し廃藩置県を行った。市民には幕府時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々に改革していく。このように文化的にも欧米諸国に近づくための近代化という改革のもと「民俗」の大変換が強行された。ただしこの無節操な変わり身は、朝鮮、清などの近隣諸国からは「列強に媚びる」という印象を与え、アイデンティティーを放棄するものとして大変不評であり、その後の日本に対する蔑視を植えつけたという。
一方、富国強兵、殖産興業の二つを国家の重要政策とし、製鉄所の建設、鉄道の敷設、輸出産業の育成など、欧米列強に対抗するため一刻も早い近代化を目指し国力の邁進に努めた。また近代国家に倣い徴兵制を実施、列強に対抗するために近代的な軍隊の創設にも取り組む。財政面では地租改正を行い、一定した税収の確保を目指した。
しかし、地租改正に反対する農民一揆が生じたり、武士(士族)は全て職を失う結果となったことに不満を募らせたことで、反発する旧武士階級(士族階級)らが西南の役をはじめとする武力抵抗等が生じた。
西南戦争の後、武力によって政府に反抗することはなくなり、言論が主流となる。そうした動きは自由民権運動となって現れ、政府は憲法の制定に取り組み国会が開設されることになる。明治18年(1885年)には太政官制を廃止し、内閣制を導入し、明治22年(1889年)には大日本帝国憲法が制定され立憲国となった。翌明治23年(1890年)に第一回帝国議会が開かれ、日本は立憲君主制国家としてスタートすることとなった。
日清・日露戦争
植民地化されずに自力で「近代化」への改革を成した日本は、明治27年(1894年)には英国と条約改正を成し遂げ、幕末以来の不平等条約の解消を果たす。
また南下するロシアに対抗するため朝鮮半島の近代化を推し進めたが、これを巡って朝鮮の属国を維持したい清と対立し、日清戦争が生じる。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが、見事に勝利。当時としては莫大な賠償金を獲得。領土として台湾を併合した。この戦争の勝利によって完全な独立国家として欧米列強に認められることとなる。
明治35年(1902年)にはロシアの南下政策を牽制するという利害一致から日英同盟を締結。世界一の大帝国が初めて同盟を締結したということと、しかもアジアの新興国家日本が相手ということから世界の注目を受けることとなる。その後、満州、朝鮮を圧迫するロシア帝国相手に日露戦争を戦い、辛うじて勝利し、外交努力によって勝利を勝ち取る。このポーツマス条約により樺太・千島交換条約によって放棄した樺太の南部の奪還に成功。さらには朝鮮を併合、ここに嘉永年間以来の異国ショックとその後目指した西欧列強に伍する「近代」国家造りの目標は一応達成されたことになった。
日露戦争は近代初の白色人種国家に対する有色人種国家の勝利であり、非欧州社会や東欧などに与えた喜びと自信は大きく非西洋主観の歴史的転換といえる。各国の世界史で第二次世界大戦以外に日本が登場する重要な歴史的快挙である。
大正時代
- (詳細は大正時代の項を参照。)
明治の近代化を果たし、日露戦争では外交によってなんとか勝利した日本であったが、第一次世界大戦、シベリア出兵と次第に世界進出し大国としての政策が目立つようになる。
1914年には第一次世界大戦が勃発。日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となったが、実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と当時まだまだ新興国家だった米国は貿易を加速させ、空前の好景気となり日本では成金等が出現するなど大きく経済を発展させる。
大正12年(1923年)には関東大震災が生じる。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、これを機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げる。しかし一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、戦後の自動車社会になって日本はそれを思い知らされることとなり、わざわざ首都高速を建設しなくてはならなくなる。
また、政治においては軍部や元老の元で続いていた藩閥政治に対し都市部の知識階級を中心にその反発は強まり、大正デモクラシーへと発展していく。そして大正14年(1925年)には身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権が与えられ普通選挙が行われるようになり、政党政治が実現するようになった。この後、明治以来の藩閥政治は終焉し政治は官僚や軍部を中心に動かされていくこととなる。
この頃までに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、多くの文芸作品が登場、新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、演劇、写真や映画などのエンターテイメントも徐々に充実、さらには普通選挙の実施で「近代国家」の主要条件をほぼ満たした。
昭和時代
- (詳細は昭和時代の項を参照。)
急速な技術進歩を続ける20世紀は、二度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものまでを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
昭和初期
第一次世界大戦では稀に見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。そんな中1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされる。日本経済も大打撃を受け、英国・フランス・米国等が植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥る。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では「満州は日本の生命線である」というように、軍や政府の中国進出を押し進めてしまう要因となった。
各国が世界大戦後の財政負担に耐えかねている状況で米国や英国が中心となりワシントン軍縮条約が提案される。日本は英国・米国・フランス・イタリアと共に五大軍事大国としてこれに調印する。いわゆる列強になった。しかもワシントン条約の戦艦保有率を米英の5に対して日本が3を保持したことは、世界3位の国になったことになる。この軍縮条約では、日本の中国進出を牽制する内容や日英同盟破棄も含まれていたため、軍部や官僚の中でも激しい意見対立があった。
1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件が引き起こされ、政府の戦争不拡大の方針を軍が無視する形で満州事変に発展し、終戦まで15年もの間繰り広げる日中戦争に突き進む。このことで中国での権益、南方資源地帯の利権を巡り、欧米諸国との対立は深まっていく。また五・一五事件、二・二六事件事件で政党内閣は終焉に至り、その後軍部官僚の暴走は大きくなり、広田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことが出来ず軍の協力なしに内閣を組閣することが出来なくなり、議会はその役割を事実上停止する。
そして満州事変、続く支那事変、国際連盟脱退等により日本は国際的に次第に孤立の道を歩んでいく。ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発し、フランスが降伏し大勝利を収めていたドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を締結するが、かえって米国の反発を買い、最大の石油輸入国であった米国の石油禁輸を招くにいたった。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称する。
米・英・中・蘭は、それぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ばれる対日強行策を実施。それにより対外的な孤立を一層深める日本では、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強行姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ドイツに対し完全な劣勢であった英国が米国の参戦を望んでいたこともあってコーデル・ハル国務長官より日本のすべての植民地(特に満州)を帰結として返還するよう通告され(通称ハル・ノート)、逆に最後通牒を突きつけられてしまうことになる。これに対し軍が受け入れるはずもなく、このことで対英米蘭開戦が決定される。ここに大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった。
1941年12月8日(現地時間12月7日)、日本の外務省のミスで数時間宣戦布告の通告が遅れる中、米国ハワイの真珠湾米海軍基地を奇襲攻撃。また同日、東南アジアの英蘭植民地も攻撃する。日本軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦を主力とする航空機を巧みに使用した新しい戦法を用いて、史上初めて航空機によって戦艦を沈める等、米英蘭相手に連戦連勝であり、国民はこの最初の大勝利に酔いしれた。
当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きも多かったが、日本軍の強硬な占領政策に日本への反発は大きくなっていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは、事後の「理屈付け」発想であり、実態は全く無かったとの批判もある。
そして、これまで劣勢だった米国はミッドウェイ海戦を皮切りに巻き返し、次第に戦況は傾いていく。ミッドウェイ海戦では最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北を帰する。しかしこの時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることが出来なくなっていた。この頃すでに、数百万の大軍を広大な大陸に無戦略に送り込み、最後には敵勢力を把握しない稚拙極まる戦いを続けていた中国大陸での消耗も激しかった。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していく。
1944年7月にはサイパン島が陥落、このことで日本本土は連日のように空襲に晒され、すでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。それに対して、各種和平工作が企図されるが、国際社会との窓口を自ら全て放棄した日本にはこの時点ではすでに降伏する以外の選択肢はなかった。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答せず、米国によって広島と長崎に原子爆弾が投下された。そして「御前会議」の場において、「直接関与」による英断を昭和天皇に仰いでようやく政府として降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。
日本は当時殆ど唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソ連の仲介での和平工作を行ったが、ソ連は満期の来る日ソ中立条約を更新しないことを日本政府に通告し、連合国の申し合わせに従って対日宣戦布告し、満州に進撃した。関東軍は総崩れとなり、こぞって日本へ逃亡しようとした。今日にも波紋を引く在中孤児問題はこの時に生じた。これにより日本の無条件降伏は決定的となった。 「日本降伏」の事実は翌8月15日正午、天皇自らのラジオ放送(玉音放送と呼ばれる)により日本国民に伝えられた。
昭和中期 - 後期
敗戦後、日本はそれまで占領していた、台湾・朝鮮・樺太南部、南洋諸島・千島列島を失った。この内、千島列島は、明治8年の樺太・千島交換条約で平和的に獲得されて日本の領土となった。そのため日本は千島列島全島の領土権を持っている。しかし日本政府は、その内、南千島の北方4島のみが日本固有の領土であると主張し、その内2島は北海道に属すると説明しているが、いずれにせよ現在は、ロシア連邦の統治下にあり、解決をみていない。
その後1952年までの実に7年間にわたり、有史以来初めて外国(連合国軍最高司令官総司令部、実体はアメリカ合衆国)に占領されるという事態になった。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。
連合国(UN)の対日占領は事実上のアメリカの単独占領であったが、直接統治方式による軍政は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって占領政策が実施された。 占領をめぐって連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの占領下に置かれた。この点、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツとは異なった占領形態が採られた。 日本では表面的には沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったとされるが、「占領」下のこととて当然とはいえ、全ての法令、文書は占領軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。 1946年に日本国憲法が発布され、1951年のサンフランシスコ講和条約で連合国との講和が完了して後に事実上の主権を回復した。
占領下の制定とはいえ、日本国憲法は主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」や、平等権・自由権・社会権・参政権・請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」を明記した常識的な憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという「平和主義」を加えた三大原則でなりたっている。
15年戦争と敗戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極にあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変する。アメリカは日本占領当初、日本の完全武装解除により、「極東のスイス」を建設すると言明していた。しかし中国大陸で毛沢東政権が成立すると、対日戦略を転換し、日本の再武装を進め、極東の最重要軍事戦略拠点として位置づけた。「逆コース」と呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、東宝争議では、社長が「二つの赤」(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を行ったところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。しかしこの頃、国鉄の下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージが行われ、小中高及び大学の「赤色教員」が追放されるに至った。それはアメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風に似ていた。
自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革によって国内市場が広がり、国民の消費水準が向上したこと、補給物資の生産や輸送、そして膨大な駐留米軍の生活消費などのおかげで、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに1960年から1970年代初めまで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。東海道新幹線開業、名神高速道路開通、東京オリンピックの開催、大阪万国博覧会の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。
この「奇跡の復興」は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で「警察予備隊」(後に「自衛隊」)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担からの解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアは勿論、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。
急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第一次ベビーブームを経て、人口は遂に一億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は「団塊の世代」と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口を勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ、彼らは「金の卵」と呼ばれ、彼らのために「集団就職列車」なるものが運行された。都市部の中小企業に就職した彼らの豊富な労働力が日本経済を支えた。
一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校・大学へ進学し、その極めて激しい自己主張をぶつけ合った。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にした彼らはそれを見習い、大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争や日大紛争を経て、一部の過激な若者は、戦後に横行した左翼思想とあいまって、「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。彼らの起こすテロ活動は社会不安を引き起こした。また彼らが「社会主義」を声高に叫んだため、都市部の一般市民は日本社会党や日本共産党から相次いで離反し、左派政党は弱体化した。その都市部の市民の多くは支持政党を持たない「無党派層」となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし1970年代には、公害の激化や社会問題の深刻となる中で、社会党・共産党の革新統一協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都・大阪・神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都ではほとんど共産党単独支持の蜷川虎三が多選を果たした。しかしそのほとんどは、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。
戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする「西側自由主義陣営」に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を勝ち組として乗り切ることができた。
一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしに行われたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。
大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の「石油ショック」も無事乗り切り、爆発的な成長を続ける日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという「奇跡の復興」を完成、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになる。
平成時代
- (詳細は平成時代の項を参照。)
1991年にソビエト社会主義共和国連邦は、領土を構成していた共和国のすべてが独立し、解体された。その後、新たな世界構造を模索する状態が続き、日本は、国際連合に協力して海外で国際連合平和維持活動部隊を展開するようになったり、米国主導の湾岸戦争に資金援助をしたりするようになったが、新しい外交の方針は定められずにいる。
冷戦期を通じて整備されていった自衛隊は、ついには驚異的な経済力に比例して金額ベースでは世界屈指になったにも関わらず、行政が合憲と解釈し、裁判所も憲法判断を避けるという、明治憲法下の「統帥権」の解釈にも似ているとされるものが続いていたが、21世紀をむかえるころになって、「湾岸戦争」「国際連合平和維持活動」「イラク戦争」等の現実に直面し、憲法改正の議論が前よりは高まってきたといわれている。
世界屈指の豊かな国となった日本は、表面的な生活と文化は欧米的に進歩し、自由と平等を謳歌し、これらの基盤の上に現代日本独自の文化が生まれるようにもなった。しかし1980年代後半からの異常な好景気が平成の幕開けとともに崩壊し、その後十年の間に経営の建て直しができなかった数多くの企業が倒産、もしくは欧米系企業に買収された。企業の国際化によって人的な国際流動が活発になり、また低賃金で働く発展途上国出身者を肉体労働者として雇うなどで、社会の国際化がいっそう進んだ。「価値観の多様化」「個人主義」という建前のもと、戦後に確立した日本の社会価値観は崩壊した。家族の多様化に伴う共通価値観の崩壊、少年による凶悪犯罪の増加、長期不況に伴う窃盗・強盗の増加、国際化に伴う異文化摩擦と外国人犯罪の増加など、繁栄の負の側面に触れる機会も増えてきた。
終戦後60年を経て、30歳を超えても自分探しを求める未成熟さ、個人が家庭のあり方と対立してしまう不自然さ、日本人としてのアイデンティティーの喪失感は、占領体制下で財閥解体、農地改革などの社会構造の変革と併せて行われた、日本の教育制度の変革によってもたらしたものであるという声も聞かれるようになった。しかし、それは敗戦後の占領よりも、その後の高度経済成長によって極端な効率性、合理性が必然と求められるようになったせいであるとする考え方も少なくない。
時代区分
各時代の関係を対照するために、日本史時代区分表がある。
- 日本の先土器時代
- 日本の古代
- 日本の中世
- 日本の近世
- 日本の近代・現代
文化の時代区分
首都、政治的中心都市による時代区分
- 京都時代
- 鎌倉時代
- 江戸・東京時代