「月世界旅行 (映画)」の版間の差分
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{{Infobox |
{{Infobox Film |
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| 作品名 = 月世界旅行 |
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| name = Le Voyage dans la Lune |
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| 原題 = Le Voyage dans la Lune |
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| 画像 = Voyage dans la lune title card.png |
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| caption = タイトルカード |
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| 画像サイズ = |
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| director = [[ジョルジュ・メリエス]] |
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| 画像解説 = タイトルカード |
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| producer = ジョルジュ・メリエス |
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| 監督 = [[ジョルジュ・メリエス]] |
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| 脚本 = ジョルジュ・メリエス |
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| based_on = {{based on|[[月世界旅行]]、{{仮リンク|月世界へ行く|fr|Autour de la Lune}}|[[ジュール・ヴェルヌ]]}} (その他、[[#着想]]を参照) |
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| 原案 = |
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| starring = {{unbulleted list|ジョルジュ・メリエス|Bleuette Bernon|François Lallement|Henri Delannoy}} |
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| 原作 = {{based on|『[[月世界旅行]]』『{{仮リンク|月世界へ行く|fr|Autour de la Lune}}』|[[ジュール・ヴェルヌ]]}}(その他、[[#着想]]を参照) |
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| cinematography = {{unbulleted list|Théophile Michault|Lucien Tainguy}} |
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| 製作 = ジョルジュ・メリエス |
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| studio = {{仮リンク|スター・フィルム|en|Star Film Company}} |
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| 製作総指揮 = |
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| released = {{Film date|1902|9|1|ref1=<ref name=Technicolor186/>|df=yes}} |
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| ナレーター = |
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| runtime = {{unbulleted list|フィルム長260メートル(845フィート)<ref name=Hammond141>{{citation|last=Hammond|first=Paul|title=Marvellous Méliès|year=1974|publisher=Gordon Fraser|location=London|isbn=0-900406-38-0|page=141}}</ref>|18分 {{small|(12 [[フレームレート|フレーム/秒]])}}<ref name=fps>Frame rate calculations produced using the following formula: 845 feet / ((''n'' [[frame rate|frame/s]] * 60 seconds) / 16 frames per foot) = ''x''. See {{citation|last=Elkins|first=David E.|title=Tables & Formulas: Feet Per Minute for 35 mm, 4-perf Format|work=The Camera Assistant Manual Web Site|year=2013|type=companion site for ''The Camera Assistant's Manual'' [Burlington, MA: Focal Press, 2013]|url=http://www.davidelkins.com/cam/tables.htm#Feet%20Per%20Minute%20for%2035mm,%204-perf%20Format/|access-date=8 August 2013}}.</ref>|16分 {{small|(14 フレーム/秒)}}<ref name=fps/>|9分{{small|(24 フレーム/秒)}}<ref name=fps/>}} |
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| 出演者 = {{unbulleted list|ジョルジュ・メリエス|ブルエット・ベルノン|フランソワ・ラルマン|アンリ・ドラノワ}} |
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| country = [[フランス]] |
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| 音楽 = |
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| language = [[サイレント映画|サイレント]] |
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| 主題歌 = |
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| budget = 10,000フラン |
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| 撮影 = {{unbulleted list|テオフィル・ミショー|ルシアン・タングイ}} |
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| 編集 = |
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| 制作会社 = |
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| 製作会社 = {{仮リンク|スター・フィルム|en|Star Film Company}} |
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| 配給 = |
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| 公開 = {{Flagicon|FRA}} 1902年9月1日{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=186}} |
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| 上映時間 = {{unbulleted list|フィルム長260メートル(845フィート)<ref name=Hammond141>{{citation|last=Hammond|first=Paul|title=Marvellous Méliès|year=1974|publisher=Gordon Fraser|location=London|isbn=0-900406-38-0|page=141}}</ref>|18分{{small|(12 [[フレームレート|フレーム/秒]])}}<ref name=fps>Frame rate calculations produced using the following formula: 845 feet / ((''n'' [[frame rate|frame/s]] * 60 seconds) / 16 frames per foot) = ''x''. See {{citation|last=Elkins|first=David E.|title=Tables & Formulas: Feet Per Minute for 35 mm, 4-perf Format|work=The Camera Assistant Manual Web Site|year=2013|type=companion site for ''The Camera Assistant's Manual'' [Burlington, MA: Focal Press, 2013]|url=http://www.davidelkins.com/cam/tables.htm#Feet%20Per%20Minute%20for%2035mm,%204-perf%20Format/|access-date=8 August 2013}}.</ref>|16分{{small|(14 フレーム/秒)}}<ref name=fps/>|9分{{small|(24 フレーム/秒)}}<ref name=fps/>}} |
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| 言語 = [[サイレント映画|サイレント]] |
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| 製作費 = 10,000フラン |
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| 興行収入 = |
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| 配給収入 = |
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| 前作 = |
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| 次作 = |
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『'''月世界旅行'''』(げっせかいりょこう、原題:Le Voyage dans la Lune){{efn|name=title|一般的な英題である『A Trip to the Moon』<ref name=Hammond141/> |
『'''月世界旅行'''』(げっせかいりょこう、原題:Le Voyage dans la Lune){{efn|name=title|一般的な英題である『A Trip to the Moon』<ref name=Hammond141/>{{Sfn|Ezra|2000|pp=120–121}}は、メリエスによるアメリカでのカタログで初めて用いられたものである。イギリス版のカタログでは当初、最初の冠詞(a)が付いておらず、『Trip to the Moon』であった{{Sfn|Malthête|Mannoni|2008|p=344}}。同様に、フランスで最初に販売された時にも最初の冠詞(Le)は付いておらず、その後に『Le Voyage dans la Lune』という通称で知られるようになった<ref name=Hammond141/>{{Sfn|Ezra|2000|pp=120–121}}。}}は、[[1902年]]に公開された[[ジョルジュ・メリエス]]監督・脚本・主演による[[フランス映画|フランス]]の[[サイレント映画]]である。天文学者たちが大砲で撃ち出されるカプセル型宇宙船で[[月]]に向かい、月面探索中に出会った月の住人セレナイトから逃れ、地球に帰還するという物語で、[[ジュール・ヴェルヌ]]の小説『[[月世界旅行]]』(1865年)とその続編『{{仮リンク|月世界へ行く|fr|Autour de la Lune}}』(1870年)など、様々な作品から着想を得ている。メリエス自身が主人公で仲間を率いるバルベンフィリ教授を演じ、その他にフランスの演劇俳優たちが出演している。本作はメリエスを有名にした演劇的な映像スタイルが特徴である。 |
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映画研究者たちは[[パタフィジック]]かつ[[反帝国主義]]的な風刺を多用していること、後の映画作家たちに幅広い影響を与えたこと、伝統的なフランス演劇の[[夢幻劇]](フェリー)的要素の芸術的意義などについて言及している。公開当時は世界的な人気を博し、特にアメリカでは多くの[[海賊版]]が複製されたほどだった。メリエスが映画界から去った後は長らく無名のものとなっていたが、[[映画史]]におけるメリエスの功績が再評価され始めた1930年頃に再び日の目を見るようになった。また、通常のモノクロ版とは別に存在した[[映画の着色化|手彩色]]のカラー版プリントは長らく[[失われた映画]]と考えられていたが、1993年に損傷の激しい状態で発見され、2011年に完全に復元された。 |
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また、通常のモノクロ版とは別に存在した[[映画の着色化|手彩色]]のカラー版プリントは長らく[[失われた映画]]と見られていたが1993年に損傷の激しい状態で発見され、2011年に完全に復元された。 |
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当時 |
当時の映画では異例の長さ、豪華な製作費、革新的な特殊効果、ストーリーテリングの重要性は他の映画製作者たちに大きな影響を与え、[[劇映画|物語映画]]全体の発展に大きく貢献した。この作品はメリエスの代表作であり、男の表情が描かれた月面と、その目に宇宙船が着陸する瞬間は、映画史上で最も象徴的でよく参照されるショットの一つである。本作は[[SF映画]]というジャンルの最初の例として、またより普遍的には映画史上最も影響力のある映画の一つとして広く認知されている。 |
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== プロット == |
== プロット == |
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[[File:Le Voyage dans la lune.jpg|thumb|「月の男」が登場する本作の象徴的な |
[[File:Le Voyage dans la lune.jpg|thumb|「月の男」が登場する本作の象徴的なイメージ。]] |
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''下記に挙げられる固有名詞は、公式の英語版カタログより引用されたものである{{sfn|Méliès|2011a|pp=227–29}}。'' |
''下記に挙げられる固有名詞は、公式の英語版カタログより引用されたものである{{sfn|Méliès|2011a|pp=227–29}}。'' |
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天文学会の会議において会長の |
天文学会の会議において会長のバルベンフィリ教授は{{efn|バルベンフィリ(Barbenfouillis)という名前はフランス語で「もつれた髭」をもじったものである{{Sfn|Rosen|1987|p=748}}。[[ジュール・ヴェルヌ]]の『[[月世界旅行]]』の主人公インピー・バービケーン(Impey Barbicane)のパロディと思われるが、メリエスは1891年の舞台マジック「Le Décapité Recalcitrant」においても意図は異なるがこの名前を用いている{{Sfn|''Essai de reconstitution''|p=111}}。}}、月への探検旅行を提案する。いくつか反対意見が出た後、5人の勇敢な天文学者が計画に賛同する。そして弾丸の形をした宇宙カプセル(宇宙船)と、それを発射するための巨大な大砲が作られる。こうして6人の天文学者たちがカプセルに乗り込むと、大勢の水兵服を来た若い女性たちが発射準備を行い、月に向けて発射される。そして狙い通りカプセルは月に到着する(このシーンは男の顔が描写された月面({{仮リンク|月の男|en|Man in the Moon}}、The Man in the Moon)の、その右目に銃弾型のカプセルが撃ち込まれるという形で描写される{{efn|この場面は視覚的なダジャレである。「目の中に」を意味するフランス語「dans l'œil」は、「(標的の)中心部」や中心部に当たった矢や弾丸を意味する{{Sfn|Kessler|2011|p=123}}。}})。 |
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無事にカプセルが月面に着陸すると天文学者たちは[[宇宙服]]などは装着せず、そのまま月面に降り立つ。遠くから地平線上に昇る地球を眺めた後、彼らは毛布を広げて眠る。この間に様々な天文事象がユーモラスに描写され、最後に月の女神フィービー([[ポイベー|ポイべ]])が三日月のブランコに座って現れる。フィービーが雪を降らせたことで天文学者たちは目を覚まし、洞窟の中へと避難する。そこで巨大なキノコを発見し、1人が傘を開くと巨大キノコに変わってしまい、一同は驚く。 |
無事にカプセルが月面に着陸すると天文学者たちは[[宇宙服]]などは装着せず、そのまま月面に降り立つ。遠くから地平線上に昇る地球を眺めた後、彼らは毛布を広げて眠る。この間に様々な天文事象がユーモラスに描写され、最後に月の女神フィービー([[ポイベー|ポイべ]])が三日月のブランコに座って現れる。フィービーが雪を降らせたことで天文学者たちは目を覚まし、洞窟の中へと避難する。そこで巨大なキノコを発見し、1人が傘を開くと巨大キノコに変わってしまい、一同は驚く。 |
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王の死による混乱の隙を突いて天文学者たちは逃げ出し、追いかけてくる住民らに抵抗しながら崖上近くにあったカプセルに到着する。5人がカプセル内に入ると残る1人はカプセルに繋がったロープを引っ張り、これを崖から落とす。この時、月の住民の1人がカプセルにしがみつく。そのまま宇宙船は落下し続けて宇宙空間を通過し、地球の海へと落ちる。その後、天文学者たちはカプセルごと船舶に回収され、帰還を果たす。 |
王の死による混乱の隙を突いて天文学者たちは逃げ出し、追いかけてくる住民らに抵抗しながら崖上近くにあったカプセルに到着する。5人がカプセル内に入ると残る1人はカプセルに繋がったロープを引っ張り、これを崖から落とす。この時、月の住民の1人がカプセルにしがみつく。そのまま宇宙船は落下し続けて宇宙空間を通過し、地球の海へと落ちる。その後、天文学者たちはカプセルごと船舶に回収され、帰還を果たす。 |
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最終シーンでは"Labor omnia vincit"の標語{{efn|「Labor omnia vincit」はラテン語で「仕事はすべてを勝ち取る」の意 |
最終シーンでは"Labor omnia vincit"の標語{{efn|「Labor omnia vincit」はラテン語で「仕事はすべてを勝ち取る」の意{{Sfn|Frazer|1979|p=98}}。}}が刻まれた記念像が除幕され、街をあげて天文学者たちの偉業を祝福するパレードが開かれる。そこではカプセルにしがみついて地球にやってきた月の住民が見世物にされている。 |
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== キャスト == |
== キャスト == |
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[[File:George Melies.jpg|thumb|upright=0.68|[[ジョルジュ・メリエス]]]] |
[[File:George Melies.jpg|thumb|upright=0.68|[[ジョルジュ・メリエス]]]] |
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本作の製作当時において、出演者は匿名であり、[[クレジットタイトル|クレジット]]はされなかった。映画にオープニングクレジットまたは[[エンドクレジット]]を設ける慣行は、その後の革新的な方法だった{{Sfn|Ezra|2000|p=13}}。以下の詳細なキャスト情報は入手可能な資料から再構築されたものである。 |
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; バルベンフィリ教授 - [[ジョルジュ・メリエス]]{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=186}}{{Sfn|Malthête|Mannoni|2008|p=125}}。 |
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制作された当時において出演者は匿名であり、クレジットは無かった。映画にオープニングまたはエンドクレジットを設けるのは、その後の革新的な試みであった<ref name=Ezra13>{{Harvnb|Ezra|2000|p=13}}</ref>。以下の詳細なキャスト情報は入手可能な資料から再構築されたものである。 |
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: メリエスはマジシャンかつフランスの映画製作の先駆者であり、一般には物語映画の可能性を最初に見出した人物とされているが{{Sfn|Cook|2004|p=18}}、本作時点においてすでに『{{仮リンク|シンデレラ (1899年の映画)|label=シンデレラ|en|Cinderella (1899 film)}}』(1899年)や『{{仮リンク|ジャンヌ・ダルク (1900年の映画)|label=ジャンヌ・ダルク|en|Joan of Arc (1900 film)}}』(1900年)などの物語映画で成功を収めていた{{Sfn|Malthête|Mannoni|2008|p=106}}。監督、プロデューサー、脚本、デザイナー、技術、広報、編集、さらにしばしば俳優としてすべての作品に幅広く関わったことから、最初の映画作家の一人とも評される{{Sfn|Ezra|2000|p=17}}。 |
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; [[ポイベ]](三日月に乗った女性) - {{仮リンク|ブルエット・ベルノン|fr|Bleuette Bernon}} |
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; Barbenfouillis教授 - [[ジョルジュ・メリエス]]<ref name=Technicolor186>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=186}}</ref><ref name=Malthete125>{{Harvnb|Malthête|Mannoni|2008|p=125}}</ref>。 |
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: メリエスは1890年代にキャバレー「ランフェール」で歌手として活躍していたベルノンを見出し、自身の映画に出演させた。1899年の『シンデレラ』にも出演している{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=165}}。 |
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: メリエスはマジシャンかつフランスの映画製作の先駆者であり、一般には物語映画の可能性を最初に見出した人物とされているが<ref name=Cook18/>、本作時点においてすでに『シンデレラ』(1899年)や『ジャンヌ・ダルク』(1900年)の映画化で成功を収めていた<ref>{{Harvnb|Malthête|Mannoni|2008|p=106}}</ref>。監督、プロデューサー、脚本、デザイナー、技術、広報、編集、さらにしばしば俳優としてすべての作品に幅広く関わったことから、最初の映画作家の一人とも評される<ref>{{Harvnb|Ezra|2000|p=17}}</ref>。 |
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; 海兵隊の将校 - フランソワ・ラルマン(François Lallement) |
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; [[ポイベ]](三日月に乗った女性) - Bleuette Bernon |
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: ラルマンは、スター・フィルムの従業員であるカメラ技師の一人である{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=165}}。 |
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: メリエスは1890年代にキャバレー「ランフェール」で歌手として活躍していたBernonを見出し、自身の映画に出演させた。1899年のシンデレラにも出演している<ref name=Technicolor165>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=165}}</ref>。 |
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; ロケット発射の大尉 - アンリ・ドラノワ(Henri Delannoy){{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=165}} |
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; 海上保安官 - François Lallement |
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: Lallementは、スター・フィルムの従業員であるカメラ・オペレーターの一人<ref name=Technicolor165/>。 |
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; ロケット発射の大尉 - Henri Delannoy<ref name=Technicolor186/> |
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; パレードの隊長 - |
; パレードの隊長 - ジュール=ウジェーヌ・ルグリ(Jules-Eugène Legris) |
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: |
: ルグリは、メリエスが経営していた{{仮リンク|ロベール=ウーダン劇場|en|Théâtre Robert-Houdin}}のマジシャンである{{Sfn|Solomon|2011|p=2}}。 |
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; 天文学者たち - ヴィクトル・アンドレ(Victor André)、デルピエール(Delpierre)、ファルジョー(Farjaux)、ケルム(Kelm)、ブルネ(Brunnet) |
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; 天文学者たち - Victor André, Delpierre, Farjaux, Kelm, and Brunnet |
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: 演じた者たちのうち、 |
: 演じた者たちのうち、アンドレは{{仮リンク|クリュニー劇場|fr|Théâtre de Cluny}}で働いていた人物で、それ以外の4人はフランスのミュージックホールの歌手である{{Sfn|メリエス|1994|p=288}}{{Sfn|Méliès|2011b|p=234|ps="I remember that in "Trip to the Moon," the Moon (the woman in a crescent,) was Bleuette Bernon, music hall singer, the Stars were ballet girls, from theatre du Châtelet—and the men (principal ones) Victor André, of Cluny theatre, Delpierre, Farjaux—Kelm—Brunnet, music-hall singers, and myself—the Sélenites were acrobats from Folies Bergère."}}。 |
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そのほか、[[シャトレ座]]のバレエ団員たちが星{{Sfn|メリエス|1994|p=288}}{{Sfn|Méliès|2011b|p=234|ps="I remember that in "Trip to the Moon," the Moon (the woman in a crescent,) was Bleuette Bernon, music hall singer, the Stars were ballet girls, from theatre du Châtelet—and the men (principal ones) Victor André, of Cluny theatre, Delpierre, Farjaux—Kelm—Brunnet, music-hall singers, and myself—the Sélenites were acrobats from Folies Bergère."}}や大砲の係員{{Sfn|''Essai de reconstitution''|p=111}}として、また[[フォリー・ベルジェール]]の曲芸師がセレナイト役として出演している{{Sfn|メリエス|1994|p=288}}{{Sfn|Méliès|2011b|p=234|ps="I remember that in "Trip to the Moon," the Moon (the woman in a crescent,) was Bleuette Bernon, music hall singer, the Stars were ballet girls, from theatre du Châtelet—and the men (principal ones) Victor André, of Cluny theatre, Delpierre, Farjaux—Kelm—Brunnet, music-hall singers, and myself—the Sélenites were acrobats from Folies Bergère."}}。 |
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そのほか、[[シャトレ座]]のバレエ団員たちが星<ref name=MeliesCast/>や大砲の係員<ref name=Essai111>{{Harvnb|''Essai de reconstitution''|p=111}}</ref>として、また[[フォリー・ベルジェール]]の曲芸師がセレナイト役として出演している<ref name=MeliesCast/>。 |
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== 製作 == |
== 製作 == |
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=== 着想 === |
=== 着想 === |
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[[File:Offenbach Voyage stereoscope 3.jpg|thumb|upright=1.36|[[ジャック・オッフェンバック]]の『{{仮リンク|月世界旅行(オッフェンバック)|label=月世界旅行|en|Le voyage dans la lune (opera-féerie)}}』の[[ステレオスコープ]]の一場面。]] |
[[File:Offenbach Voyage stereoscope 3.jpg|thumb|upright=1.36|[[ジャック・オッフェンバック]]の『{{仮リンク|月世界旅行(オッフェンバック)|label=月世界旅行|en|Le voyage dans la lune (opera-féerie)}}』の[[ステレオスコープ]]の一場面。]] |
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本作のインスピレーションについて、1930年にメリエスは[[ジュール・ヴェルヌ]]の小説『[[月世界旅行]]』(1865年)と『{{仮リンク|月世界へ行く|fr|Autour de la Lune}}』(1870年)を挙げている。20世紀半ばのフランス人作家{{仮リンク|ジョルジュ・サドゥール|en|Georges Sadoul}}を始めとする映画史家たちからは、映画製作の数か月前にフランス語訳が出版された[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]の『[[月世界最初の人間]]』(1901年)に影響を受けた可能性がよく指摘されている{{Sfn|Lefebvre|2011|pp=50, 58}}。サドゥールは、映画の前半(大砲や砲弾型の宇宙船など)はヴェルヌから、後半の月でのエピソードの大半(月面やセレナイトとの戦い、帰還など)はウェルズから採っていると指摘している{{Sfn|サドゥール|1994|p=287}}。 |
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これら文学的なものに加えて、様々な映画研究者は、他の作品、特に[[ジャック・オッフェンバック]]のオペレッタ『{{仮リンク|月世界旅行(オッフェンバック)|label=月世界旅行|en|Le voyage dans la lune (opera-féerie)}}』(ヴェルヌの小説の無許可のパロディ)や、1901年にニューヨークの[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]で開催された{{仮リンク|パン・アメリカン博覧会|en|Pan-American Exposition}}のアトラクション『''[[:en: A Trip to the Moon (attraction)|A Trip to the Moon]]''』などの影響を挙げている<ref>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|pp=166–167}}</ref>{{Sfn|Lefebvre|2011|pp=53–58}}。フランスの映画史家のティエリー・ルフェーブルは、メリエスはこの2つの作品を参考にしたが、取り入れた部分は異なっていたと指摘している。「月への旅行、月面着陸、異形の地球外生命体との出会い、地下洞窟探検、月の者たちとの対面」といった映画の構造は1901年のアトラクションから直接取り入れられているが、多くのプロットの要素(疑似科学的な名前を持つ6人の天文学者、スツールに変形する望遠鏡、地上に設置された月面への砲台、月が観客に近づいてくるように見せるシーン、月面の吹雪、[[地球の出|地球が地平線から昇るシーン]]、傘を持つ旅行者など)も参照されており、パロディ的な映画のトーンは言うまでもなくオッフェンバックのオペレッタからである{{Sfn|Lefebvre|2011|pp=53–58}}。 |
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本作のきっかけについて、1930年にメリエスは[[ジュール・ヴェルヌ]]の小説『[[月世界旅行]]』(1865年)と『{{仮リンク|月世界へ行く|fr|Autour de la Lune}}』(1870年)を挙げている。20世紀半ばのフランス人作家{{仮リンク|ジョルジュ・サドゥール|en|Georges Sadoul}}を始めとする映画史家たちからは、映画製作の数カ月前にフランス語訳が出版された[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]の『[[月世界最初の人間]]』(1901年)に影響を受けた可能性がよく指摘されている。サドゥールは、映画の前半(発射まで)はヴェルヌから、後半(月面や月面での旅行者の冒険)はウェルズから、と指摘している<ref>{{Harvnb|Lefebvre|2011|pp=50, 58}}</ref>。 |
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メリエスの孫娘のマドレーヌ・マルテット=メリエスによると、メリエスが本作を作るきっかけとなったのは、メリエスの兄{{仮リンク|ガストン・メリエス|en|Gaston Méliès}}の息子ポールとの会話だったという。ポールはしばしば伯父であるメリエスのところへ昼食を食べに来ていたが、彼はジューヌ・ヴェルヌの大ファンで、1902年3月初め頃のある日、メリエスに月の上で起こっていることを見せて欲しいと頼んだ。メリエスは「そんなものは簡単さ」と答え、それが発端となって本作を作ることになったという。なお、メリエスはすでに、舞台ではロベール=ウーダン劇場で上演した『ノストラダムスの災難』(1891年)、映画では『{{仮リンク|天文学者の夢|fr|The Astronomer's Dream}}』(1898年、別題は『月まで一メートル』)で月をテーマにした作品を製作していた{{Sfn|メリエス|1994|p=285}}。 |
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これら文学的なものに加えて、様々な映画研究者は、他の作品、特に[[ジャック・オッフェンバック]]のオペレッタ『{{仮リンク|月世界旅行(オッフェンバック)|label=月世界旅行|en|Le voyage dans la lune (opera-féerie)}}』(Le Voyage dans la Lune 、ヴェルヌの小説の無許可のパロディ)や、1901年にニューヨークの[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]で開催されたパン-アメリカン博覧会のアトラクション『A Trip to the Moon』などの影響を挙げている<ref>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|pp=166–67}}</ref><ref>{{Harvnb|Lefebvre|2011|pp=51–58}}</ref>。 |
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フランスの映画史家、ティエリー・ルフェーブルはメリエスはこの2つの作品を参考にしたが、取り入れた部分は異なっていたと指摘している。「月への旅行、月面着陸、異形の地球外生命体との出会い、地下洞窟探検、月の者たちとの対面」といった映画の構造は1901年のアトラクションから直接取り入れられているが、多くのプロットの要素(疑似科学的な名前を持つ6人の天文学者、スツールに変形する望遠鏡、地上に設置された月面への砲台、月が観客に近づいてくるように見せるシーン、月面の吹雪、[[地球の出|地球が地平線から昇るシーン]]、傘を持つ旅行者など)も参照されており、パロディ的な映画のトーンは言うまでもなくオッフェンバックのオペレッタからである<ref>{{Harvnb|Lefebvre|2011|pp=53–58}}</ref>。 |
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=== 撮影 === |
=== 撮影 === |
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[[File:Melies's Montreuil studio.jpg|thumb|right|upright=1.36|本作を撮影したスタジオの写真(左の人物がメリエス)。]] |
[[File:Melies's Montreuil studio.jpg|thumb|right|upright=1.36|250px|本作を撮影したスタジオの写真(左の人物がメリエス)。]] |
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サイエンス・ライターの{{仮リンク|ロン・ミラー|en|Ron Miller (artist and author)}}が指摘するように、本作はメリエスの映画の中で最も複雑な作品の1つであり、「彼が学んだり、開発したあらゆるトリック」が駆使されていた<ref>{{citation|last=Miller|first=Ron|title=Special Effects: An Introduction to Movie Magic|url=https://books.google.com/books?id=JTIMIDNIVg8C&pg=PA15|year=2006|publisher=Twenty-First Century Books|isbn=978-0-7613-2918-3|page=15}}</ref>。上映時間も当時の彼の中では最長のものであり{{efn|name=length|本作のフィルムの長さは約260メートルであり<ref name=Hammond141/>、メリエスが好んだ毎秒12-14コマの映写速度{{Sfn|Solomon|2012|p=191}}であれば上映時間は約17分となる<ref name=fps/>。メリエスと同時代の{{仮リンク|エジソン製造会社|label=エジソン社|en|Edison Manufacturing Company}}や[[リュミエール兄弟]]の映画は、平均してこの3分の1程度の長さだった{{Sfn|Cook|2004|p=15}}。この後、メリエスはさらに長い映画を作るようになり、最長となった『{{仮リンク|極地征服|en|The Conquest of the Pole}}』(1912年)は約650メートル{{Sfn|Malthête|Mannoni|2008|p=285}}で、約44分に及んだ<ref name=fps/>。}}、予算も撮影期間も異例といえるほど潤沢に与えられ、製作費は1万[[フランス・フラン|フラン]]{{Sfn|Frazer|1979|p=99}}、完成までに3か月を要した{{Sfn|Lefebvre|2011|p=51}}。撮影は{{仮リンク|スター・フィルム|en|Star Film Company}}の社員で、メリエスと毎日のように仕事を共にしていたテオフィル・ミショーとルシアン・タングイが担当した。この2人はカメラマンとしての仕事以外にも、フィルムの現像や風景のセッティングを手伝い、さらに会社のための雑用もこなした。会社のオペレーターであるフランソワ・ラルマンは、俳優として本作に出演もしている{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|pp=165–167}}。その他の俳優には、多くのコネを使って、パリ演劇界の実力者を起用した。俳優たちの給料は1日金貨1枚({{仮リンク|ルイ・ドール|en|Louis d'or}})と、競合他社よりもかなり高く、正午には無料の食事も提供された{{Sfn|Frazer|1979|pp=42–43}}。 |
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本作を撮影した映画スタジオは、メリエスが1897年にセーヌ=サン=ドニの[[モントルイユ (セーヌ=サン=ドニ県)|モントルイユ]]に建設したものである{{Sfn|Malthête|Mannoni|2008|p=9}}。ここは太陽光をできるだけ多く取り入れるためにガラス張りの壁と天井でできた[[温室]]のような建物であったが、それは1860年代以降の写真スタジオのほとんどで採用されていたものであり、またメリエスが運営するロベール=ウーダン劇場と同じ寸法(13.5×6.6m)だった{{Sfnm|1a1=Frazer|1y=1979|1p=41|2a1=Wemaere|2a2=Duval|2y=2011|2p=163}}。メリエスは映画のキャリアを通じて、朝に映画の構想を練り、日中の明るい時間帯に撮影を行い、午後遅くに撮影所とロベール=ウーダン劇場の雑務をこなし、夜にはパリの劇場で公演するという厳しいスケジュールを毎日送っていた{{Sfn|Frazer|1979|pp=42–43}}。 |
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サイエンス・ライターの{{仮リンク|ロン・ミラー|en|Ron Miller (artist and author)}}が指摘するように、『月世界旅行』はメリエスの映画の中でも最も複雑な作品の一つであり、「彼が学んだり、開発したあらゆるトリック」が駆使されていた<ref>{{citation|last=Miller|first=Ron|title=Special Effects: An Introduction to Movie Magic|url=https://books.google.com/books?id=JTIMIDNIVg8C&pg=PA15|year=2006|publisher=Twenty-First Century Books|isbn=978-0-7613-2918-3|page=15}}</ref>。上映時間も当時の彼の中では最長のものであり{{efn|name=length|本作のフィルムの長さは約260メートルであり<ref name=Hammond141/>、メリエスが好んだ毎秒12-14コマの映写速度<ref>{{Harvnb|Solomon|2012|p=191}}</ref>であれば上映時間は約17分となる<ref name=fps/>。 |
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メリエスと同時代のエジソン・マニュファクチャリングや[[リュミエール兄弟]]の映画は、平均してこの3分の1程度の長さであった<ref name=Cook15>{{Harvnb|Cook|2004|p=15}}</ref>。 |
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この後、メリエスはさらに長い映画を制作するようになり、最長となった『{{仮リンク|極地征服|en|The Conquest of the Pole}}』(1912年)は約650メートル<ref>{{Harvnb|Malthête|Mannoni|2008|p=285}}</ref>で、約44分に及んだ<ref name=fps/>。}}、予算も撮影期間も異例といえるほど潤沢に与えられ、製作費は1万[[フランス・フラン|フラン]]<ref name=Frazer99>{{Harvnb|Frazer|1979|p=99}}</ref>、完成までに3ヵ月を要した<ref name=Lefebvre51>{{Harvnb|Lefebvre|2011|p=51}}</ref>。 |
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撮影は、{{仮リンク|スター・フィルム|en|Star Film Company}}の社員で、メリエスと毎日のように仕事を共にしていたテオフィル・ミショーとルシアン・タングイが担った。カメラ・オペレーターたちはカメラマンとしての仕事以外にも、フィルムの現像や風景のセッティングを手伝い、さらに会社のための雑用もこなした。会社のオペレーターであるフランソワ・ラルマンは、海上保安官としてスクリーンにも登場している<ref>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|pp=165–67}}</ref>。 |
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一方、メリエスは俳優を作品ごとに雇い、多くのコネを使って、パリ演劇界の実力者を起用した。俳優たちの給料は1日金貨1枚({{仮リンク|ルイ・ドール|en|Louis d'or}})と、競合他社よりもかなり高く、正午には監督であるメリエスと共に無料の食事も提供された<ref name=Frazer4243>{{Harvnb|Frazer|1979|pp=42–43}}</ref>。 |
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[[File:Trip to the Moon Workshop.png|thumb|upright=1.36|250px|工房のセットでは、実際の撮影スタジオを模したガラスの天井が描かれていた。]] |
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1897年にメリエスはセーヌ=サン=ドニの[[モントルイユ (セーヌ=サン=ドニ県)|モントルイユ]]に映画スタジオを建てた<ref>{{Harvnb|Malthête|Mannoni|2008|p=9}}</ref>。ここは、1860年代以降のスチール写真スタジオのほとんどで採用されていた太陽光をできるだけ多く取り入れるためのガラスの壁と天井でできた[[温室]]のような建物であり、また、メリエスが運営するロベール=ウーダン劇場と同じ寸法(13.5×6.6m)であった<ref>{{Harvnb|Frazer|1979|p=41}}; dimensions from {{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=163}}</ref>。 |
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メリエスの回想によれば、本作の異常な製作費の多くは、機械的に動く風景と、厚紙と帆布を用いて作られたセレナイトの衣装によるものだった。これらの石膏型を作成するために、メリエス自身が[[テラコッタ]]で頭、足、膝当ての試作品を作った{{Sfn|Méliès|2011b|pp=233–234}}。メリエスは仮面を作る職人にセレナイトの衣装の制作を任せたと述べているが{{Sfn|メリエス|1994|p=286}}、映画研究者のプリスカ・モリッシーによると、おそらくパリの大手マスク及び箱製造会社だったメゾン・アレ(Maison Hallé)のマスク製作専門のスタッフが、この型を使って役者が着用する厚紙を製作したという<ref>{{citation|first=Priska|last=Morrissey|chapter=La garde-robe de Georges Méliès: Origines et usages des costumes des vues cinématographiques|pages=177–188 (here 183)|title=Méliès, carrefour des attractions; suivi de Correspondances de Georges Méliès (1904–1937)|editor1-first=Jacques|editor1-last=Malthête|editor2-first=André|editor2-last=Gaudreault|editor3-first=Laurent|editor3-last=Le Forestier|location=Rennes|publisher=Presses universitaires de Rennes|year=2014}}</ref>。映画作りに関する他の詳細な話はほとんどないが、サドゥールはメリエスが画家のクローデルと風景を、[[ジュアンヌ・ダルシー]]と衣装を共同で制作した可能性が高いと指摘している{{Sfn|''Essai de reconstitution''|p=111}}。宇宙船を製造するシーンに出てくるガラス屋根の作業場の背景は、モントルイユのメリエスのスタジオを模して描かれたものである{{Sfn|Frazer|1979|p=95}}。 |
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メリエスの映画人生は、朝に映画の構想を練り、日中の明るい時間帯に撮影を行い、午後遅くに撮影所とロベール=ウーダン劇場の雑務をこなし、夜にはパリの劇場で公演するという厳しいスケジュールであった<ref name=Frazer4243/>。 |
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本作における特殊効果(トリック撮影)の多くは、他のメリエス作品と同様に[[ストップ・トリック]](置換トリック)を使用して行われた。ストップ・トリックは、撮影を途中で停止させている間に、画面上の対象を変更したり、追加したり、あるいは取り除いたりする手法である{{Sfnm|1a1=小松|1y=1991|1pp=124-125|2a1=中条|2y=2003|2p=34}}。メリエスは得られたショットを注意深く繋ぎ合わせ、例えば天文学者の望遠鏡がスツールに変わったり{{Sfn|Solomon|2011|p=6}}、爆発するセレナイトが煙の中に消えるといった、一見すると魔法のようにも見える効果を生み出した<ref>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=85}}</ref>。他の特殊効果としては、舞台機械や花火([[パイロテクニクス]])などの演劇で用いられた手法や、過渡的な{{仮リンク|ディゾルブ (映像技法)|label=ディゾルブ|en|Dissolve (filmmaking)}}の技術が使われている{{Sfn|''Essai de reconstitution''|p=112}}。 |
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[[File:Trip to the Moon Workshop.png|thumb|right|upright=1.36|工房のセットでは、実際の撮影スタジオを模したガラスの天井が描かれていた。]] |
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カメラが「月の男」に近づいていくように見えるショットは、メリエスが前年に『{{仮リンク|ゴム頭の男|en|The Man with the Rubber Head}}』で考案した効果を利用して撮影された疑似的な[[トラッキングショット]]である{{Sfnm|1a1=Frazer|1y=1979|1p=96|2a1=小松|2y=1991|2p=337}}。これは重いカメラを俳優の方に移動させるのではなく、カメラの前から遠くの方へと敷いたレール付きのスロープの上に滑車付きの椅子を置き、そこに首まで黒いベルベットで覆われた俳優が座り、カメラの方に向かって椅子を引っ張るという手法であった(すなわち、カメラが俳優に近づくのではなく、カメラに俳優が近づく形で撮影された){{Sfn|Frazer|1979|pp=91-93}}{{Sfn|中条|2003|p=37}}。この手法は技術的な実用性に加えて、メリエスがカメラを動かすよりもはるかに細かくフレーム内の顔の配置をコントロールすることを可能にした{{Sfn|Frazer|1979|pp=91-93}}。また、このショットはストップ・トリックを用いて、月を演じる俳優の右眼に突然、宇宙船が突き刺さるという形で完成する{{Sfn|Solomon|2011|p=6}}。空から落下してくる宇宙船が、ロケ地で撮影された本物の海の水面に突入するシーンでは、[[多重露光]]を用いて、海の映像に黒い背景の前で宇宙船が落下するショットを重ねている。このショットの後、宇宙船が水面に浮いてくる様子が水中で映し出されるが、これは水槽内で撮影され、厚紙で作られた動く宇宙船の切り抜きを、[[オタマジャクシ]]とエアージェットを組み合わせて制作されたものであった{{Sfn|Frazer|1979|p=98}}。月面から宇宙船が落下する様子は、4ショット、約20秒で撮影されている<ref>{{citation|last=Gunning|first=Tom|title=D.W. Griffith and the Origins of American Narrative Film: The Early Years at Biograph|url=https://books.google.com/books?id=Rb0vYtqmLJYC&pg=PA37|year=1994|publisher=University of Illinois Press|isbn=978-0-252-06366-4|page=37}}</ref>。 |
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メリエスの回想によれば、本作の異常な製作費の多くは、機械的に動く風景と、厚紙と帆布を用いて本作のために作られたセレナイトの衣装だった。メリエス自身が、[[テラコッタ]]で、頭、足、膝当ての試作品を作り、これらの石膏型を作成した<ref name=Questionary>{{Harvnb|Méliès|2011b|pp=233–34}}</ref>。 |
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おそらくパリの大手マスク及び箱製造会社であったメゾン・アレ(Maison Hallé)のマスク製作専門のスタッフが、この型を使って役者が着用する厚紙を製作した<ref>{{citation|first=Priska|last=Morrissey|chapter=La garde-robe de Georges Méliès: Origines et usages des costumes des vues cinématographiques|pages=177–188 (here 183)|title=Méliès, carrefour des attractions; suivi de Correspondances de Georges Méliès (1904–1937)|editor1-first=Jacques|editor1-last=Malthête|editor2-first=André|editor2-last=Gaudreault|editor3-first=Laurent|editor3-last=Le Forestier|location=Rennes|publisher=Presses universitaires de Rennes|year=2014}}</ref>。 |
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映画制作に関する他の詳細な話はほとんどないが、映画史家のジョルジュ・サドゥールは、メリエスは画家のクローデルと風景を、ジェハンヌ・ダルシーと衣装を共同で制作した可能性が高いと指摘している<ref name=Essai111/>。 |
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宇宙船を作っているガラス屋根の作業場の背景は、実際に映画が制作されたガラス屋根のスタジオを模して描かれたものである<ref>{{Harvnb|Frazer|1979|p=95}}</ref>。 |
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本作における特殊効果の多くは、他のメリエス作品と同様に、撮影を途中で停止させている間に、カメラ・オペレーターが画面上のオブジェクトを変更や追加、あるいは取り除くという代替スプライス手法(substitution splice、ストップ・トリック)を使用して行われた。 |
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メリエスは得られたショットを注意深く繋ぎ合わせ、例えば天文学者の望遠鏡がスツールに変わったり<ref name=Solomon6/>、爆発するセレナイトが煙の中に消えるといった、一見すると魔法のようにも見える効果を生み出した<ref>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=85}}</ref>。 |
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他には舞台機械や花火([[パイロテクニクス]])など演劇の手法も用いられた。また、トランジショナル・ディゾルブも使用されている<ref name=Essai112>{{Harvnb|''Essai de reconstitution''|p=112}}</ref> |
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カメラが「月の男」に近づいていくように見えるショットは、メリエスが前年に『{{仮リンク|ゴム頭の男|en|The Man with the Rubber Head}}』で考案した効果を利用して撮影された疑似的なものである<ref name=Frazer96>{{Harvnb|Frazer|1979|p=96}}</ref>。 |
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これは重いカメラを俳優の方に移動させるのではなく、レールを敷いたスロープの上に滑車付きの椅子を置き、そこに首まで黒いベルベットで覆われた俳優が座り、カメラの方に向かって椅子を引っ張るという手法であった(すなわち、カメラが俳優に近づくのではなく、カメラに俳優が近づく形で撮影された[[トラッキングショット]]だった)<ref name=Frazer9193>{{Harvnb|Frazer|1979|pp=91–93}}</ref>。 |
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この技術は技術的な実用性に加えて、メリエスがカメラを動かすよりもはるかに細かくフレーム内の顔の配置をコントロールすることを可能とした<ref name=Frazer9193/>。 |
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また、このショットはその後に代替スプライス手法を用いて、月を演じる俳優の右眼に突然、宇宙船が突き刺さるという形で完成する<ref name=Solomon6/>。 |
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ロケ地で撮影された本物の海の波に宇宙船が突入するシーンでは、[[多重露光]]を用いて、海の映像に黒い背景の前で宇宙船が落下するショットを重ねている。このショットの後、宇宙船が水面に浮いてくる様子が水中で映し出されるが、これは水槽内で撮影され、厚紙で作られた動く宇宙船の切り抜きを、オタマジャクシとエアジェットを組み合わせて制作されたものであった<ref name=Frazer98/>。 |
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月面から宇宙船が降りてくる様子は、4ショット、約20秒で撮影されている<ref>{{citation|last=Gunning|first=Tom|title=D.W. Griffith and the Origins of American Narrative Film: The Early Years at Biograph|url=https://books.google.com/books?id=Rb0vYtqmLJYC&pg=PA37|year=1994|publisher=University of Illinois Press|isbn=978-0-252-06366-4|page=37}}</ref>。 |
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=== 着色 === |
=== 着色 === |
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メリエスの |
メリエスが生産した少なくとも4%のフィルム(1903年公開の『{{仮リンク|妖精たちの王国|en|The Kingdom of the Fairies}}』や、1904年公開の『{{仮リンク|不可能を通る旅|en|The Impossible Voyage}}』『{{仮リンク|セビリアの理髪師 (1904年の映画)|label=セビリアの理髪師|en|The Barber of Seville (1904 film)}}』のような大作を含む)と同様に、本作のいくつかのプリントは、パリにある{{仮リンク|エリザベス・テュイリエ|en|Élisabeth and Berthe Thuillier}}の着色現像所で個別に手作業で着色がなされた([[映画の着色化]])<ref name=Yumibe>{{citation|last=Yumibe|first=Joshua|title=Moving Color: Early Film, Mass Culture, Modernism|location=New Brunswick, N.J.|publisher=Rutgers University Press|year=2012|isbn=978-0-8135-5296-5|pages=71-74|url=https://books.google.com/books?id=cpvymkXtt1AC&pg=PA71}}</ref>。ガラスやセルロイド製品の着色技師という経歴を持つテュイリエは、200人の女工がいる現像所を指揮し、自分で色を選んで決め、それをフィルムにブラシで1コマずつ直接塗るよう指示した。女工たち一人一人にひとつの色が割り当てられ、フィルム1本に20色以上使われたこともあったという{{Sfnm|1a1=サドゥール|1y=1994|1p=120|2a1=メリエス|2y=1994|2pp=199-200}}{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=169}}。着色の材料には水とアルコールで薄めた[[アニリン]]染料を使用し、それにより透明で鮮やかな色調を出した{{Sfnm|1a1=サドゥール|1y=1994|1p=120|2a1=メリエス|2y=1994|2pp=199-200}}。テュイリエの現像所では、平均して約60枚の手彩色のプリントを作成した{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=169}}。 |
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ガラスやセルロイド製品の着色技師であった経歴を持つトゥイリエは、200人のスタジオを指揮して、自分が選んだ色でフィルムにブラシで直接ペイントを行うよう指示した。一人一人に色が割り当てられ、フィルム1枚に20色以上使われたこともあったという。トゥイリエの現像所では平均して約60枚の手彩色のコピーを作成した<ref>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=169}}</ref>。 |
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=== 音楽 === |
=== 音楽 === |
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メリエスの作品はサイレント映画ではあったが、これは静かに上映されるものではなかった。上映に際してはしばしば効果音や生演奏を伴い、スクリーン上で展開されるストーリーをボニマンテュール(bonimenteur、ナレーター)が解説した |
メリエスの作品はサイレント映画ではあったが、これは静かに上映されるものではなかった。上映に際してはしばしば効果音や生演奏を伴い、スクリーン上で展開されるストーリーをボニマンテュール(bonimenteur、ナレーター)が解説した{{Sfn|Ezra|2000|p=27}}。メリエス自身も[[映画音楽]]にかなり関心があり、『妖精たちの王国』{{Sfn|Frazer|1979|p=118}}や『セビリアの理髪師』<ref>{{citation|last=Marks|first=Martin Miller|title=Music and the Silent Film: Contexts and Case Studies, 1895–1924|year=1997|publisher=Oxford University Press|location=New York|isbn=0-19-506891-2|page=72|url=https://books.google.com/books?id=ALbz24g5aOAC&pg=PA72|access-date=21 July 2013}}</ref>など、いくつかの作品では特別な映画音楽を用意していた。しかし、メリエスが映画に特定の音楽を要求したことはなく、上映者が自由に伴奏を選ぶことができた<ref name=Bayer>{{citation|last=Bayer|first=Katia|title=Le Voyage dans la lune de Georges Méliès par Serge Bromberg|work=Format Court|date=26 May 2011|url=http://www.formatcourt.com/2011/05/le-voyage-dans-la-lune-de-georges-melies-par-serge-bromberg/|access-date=8 March 2014}}</ref>。1902年に本作がパリの音楽ホール「[[オランピア (パリ)|オランピア]]」で上映された際には、オリジナルの映画音楽が作曲されたという<ref name=Cine/>。 |
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メリエス自身も[[映画音楽]]にかなり関心があり、『{{仮リンク|妖精たちの王国|en|The Kingdom of the Fairies}}』<ref>{{Harvnb|Frazer|1979|p=118}}</ref>や『セビリアの理髪師』<ref>{{citation|last=Marks|first=Martin Miller|title=Music and the Silent Film: Contexts and Case Studies, 1895–1924|year=1997|publisher=Oxford University Press|location=New York|isbn=0-19-506891-2|page=72|url=https://books.google.com/books?id=ALbz24g5aOAC&pg=PA72|access-date=21 July 2013}}</ref>など、いくつかの作品では特別な映画音楽を用意していた。 |
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しかし、メリエスが映画に特定の音楽を要求したことはなく、上映者が自由に伴奏を選ぶことができた<ref name=Bayer>{{citation|last=Bayer|first=Katia|title=Le Voyage dans la lune de Georges Méliès par Serge Bromberg|work=Format Court|date=26 May 2011|url=http://www.formatcourt.com/2011/05/le-voyage-dans-la-lune-de-georges-melies-par-serge-bromberg/|access-date=8 March 2014}}</ref>。 |
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1902年にパリの音楽ホール「[[オランピア (パリ)|オランピア]]」で上映された際には、オリジナルの映画音楽が作曲されたという<ref name=Cine/>。 |
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1903年にイギリスの作曲家エズラ・リードがピアノ曲『A Trip to the Moon』を発表した。この楽曲は |
1903年にイギリスの作曲家エズラ・リードがピアノ曲『''A Trip to the Moon: Comic Descriptive Fantasia''』を発表した。この楽曲は作品のシーンごとにスコアが作られており、本作の映画音楽として使用された可能性がある<ref>{{citation|last=Marks|first=Martin|title=Music for ''A Trip to the Moon'': An Obscure English Score for a Famous French Fantasy|type=conference abstract|date=4 February 2012|url=http://www.ams-ne.org/Previous%20Meetings/Winter%202012/marks.html|publisher=[[American Musicological Society]]|access-date=8 March 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140309024658/http://www.ams-ne.org/Previous%20Meetings/Winter%202012/marks.html|archive-date=9 March 2014}}</ref>。また、この曲はメリエスがイギリス旅行をした際に、自身がリードに作曲を委託したものである可能性もある<ref name=Bayer/>。後年に本作の音楽を作曲した人物には、[[エール (バンド)|エール]]の[[ニコラ・ゴダン]]と{{仮リンク|ジャン=ブノワ・ダンケル|fr|Jean-Benoît Dunckel}}(2011年の修復版、後述)<ref name=SilentEra/>、フレデリック・ホッジス<ref name=SilentEra>{{citation|first=Carl|last=Bennett|title=A Trip to the Moon|work=Silent Era|url=http://silentera.com/video/tripToTheMoonHV.html|access-date=7 September 2014}}</ref>、ロバート・イスラエル<ref name=SilentEra/>、エリック・ル・グエン<ref>{{citation|title=Méliès the magician|work=[[WorldCat]]|oclc=123082747}}</ref>、ローレンス・レエリシー(メリエスの曾孫)<ref>{{citation|first=François-Olivier|last=Lefèvre|date=18 April 2012|title=Georges Méliès – A la conquête du cinématographe|work=DVDClassik|url=http://www.dvdclassik.com/test/dvd-georges-melies-a-la-conquete-du-cinematographe-studio-canal-livre-3dvd|access-date=7 September 2014}}</ref>、[[ジェフ・ミルズ]]<ref name=SilentEra/>、ドナルド・ソシン<ref name=WorldCat>{{citation|title=A Trip to the moon|work=[[WorldCat]]|oclc=731957033}}</ref>、[[ヴィクター・ヤング]](1956年の映画『[[八十日間世界一周 (映画)|八十日間世界一周]]』のプロローグとして収録された簡略版)<ref>{{citation|last=Cohn|first=Art|title=Michael Todd's Around the World in 80 Days Almanac|pages=59–61|location=New York|publisher=Random House|year=1956}}</ref>などがいる。 |
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この曲はメリエスがイギリス旅行した際に、リードと出会った彼自身が作曲を委託したものである可能性もある<ref name=Bayer/>。 |
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本作の音楽の作曲家としては[[エール (バンド)|エール]]の[[ニコラ・ゴダン]]とジャン=ブノワ・ダンケル(2011年の修復版については後述)<ref name=SilentEra/>、フレデリック・ホッジス<ref name=SilentEra>{{citation|first=Carl|last=Bennett|title=A Trip to the Moon|work=Silent Era|url=http://silentera.com/video/tripToTheMoonHV.html|access-date=7 September 2014}}</ref>、ロバート・イスラエル<ref name=SilentEra/>、エリック・ル・グエン<ref>{{citation|title=Méliès the magician|work=[[WorldCat]]|oclc=123082747}}</ref>、ローレンス・レエリシー(メリエスの曾孫)<ref>{{citation|first=François-Olivier|last=Lefèvre|date=18 April 2012|title=Georges Méliès – A la conquête du cinématographe|work=DVDClassik|url=http://www.dvdclassik.com/test/dvd-georges-melies-a-la-conquete-du-cinematographe-studio-canal-livre-3dvd|access-date=7 September 2014}}</ref>、[[ジェフ・ミルズ]]<ref name=SilentEra/>、ドナルド・ソシン<ref name=WorldCat>{{citation|title=A Trip to the moon|work=[[WorldCat]]|oclc=731957033}}</ref>、[[ヴィクター・ヤング]](1956年の映画『[[八十日間世界一周 (映画)|八十日間世界一周]]』のプロローグとして収録された簡略版)<ref>{{citation|last=Cohn|first=Art|title=Michael Todd's Around the World in 80 Days Almanac|pages=59–61|location=New York|publisher=Random House|year=1956}}</ref>などがいる。 |
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== スタイル == |
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| image1 = Voyage dans la Lune cliff still.jpg |
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| caption1 = スタジオの背景や床が写っている撮影現場の風景 |
| caption1 = スタジオの背景や床が写っている撮影現場の風景。 |
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| caption2 = 手彩色プリントでのシーン |
| caption2 = 手彩色プリントでのシーン。 |
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本作のスタイルは、メリエスの他の多くの作品と同様に意図的に演劇的なものである。ステージセットは19世紀の伝統的な舞台を思わせるような高度に様式化されたものであり、カメラは劇場の観客席からの視点かのように配置・固定して撮影している{{Sfn|Cook|2004|pp=15–16}}{{Sfn|サドゥール|1994|p=199}}。この定点的な撮影は、メリエス作品のスタイルのトレードマークの一つとして知られ、サドゥールはその映像を「1階最上等席の紳士」の視点と呼んだ{{Sfn|サドゥール|1994|p=199}}{{Sfn|Malthête|2002|loc=§ 2}}。メリエスは屋外で実景を撮影する時はカメラを動かすことがあったが{{efn|例えば、1900年の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]を撮影した19本の作品では、360度回転できるカメラを使用したパノラマ撮影を行っている{{Sfn|Malthête|2002|loc=§ 2}}{{Sfn|サドゥール|1994|pp=79-80, 151}}。}}、スタジオで撮影された物語映画では演劇的な視点の方が適していると考えていた{{Sfn|Malthête|2002|loc=§ 2}}{{Sfn|サドゥール|1994|pp=79-80, 151}}。 |
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メリエスは当初、映画史初期の主流だった{{仮リンク|アクチュアリティ映画|en|Actuality film}}{{efn|アクチュアリティ映画(実写映画とも言う)とは、[[ドキュメンタリー]]の概念が確立していない映画史初期において、現実の出来事や風景、パフォーマンス、行事、人物などを撮影した映画の総称のことである{{Sfn|マッサー|2015|p=236}}。}}を撮影していたが、映画キャリアの開始から数年間で[[フィクション]]の[[劇映画|物語映画]]という当時はまだ一般的ではなかったジャンルに徐々に移行していった。メリエス自身はこうした作品を「構成された主題(scènes composées)」と呼んでいた{{Sfn|Ezra|2000|p=13}}{{Sfn|サドゥール|1994|pp=58-61, 151}}。この新しいジャンルにはメリエスの演劇やマジシャンとしての経験が大きな影響を与えており、特にフランスで人気があった演劇で、[[ファンタジー]]のプロットや豪華な風景、機械的な舞台仕掛けなどのスペクタクルなビジュアルで知られた[[夢幻劇]](フェリー)の伝統の要素は大きい<ref name=Cambridge>{{citation|first=Laurence|last=Senelick|title=Féerie|work=The Cambridge Guide to Theatre|publisher=[[Credo Reference]]|year=2000|url-access=subscription |url=http://search.credoreference.com/content/entry/cupthea/f%C3%A9erie/0|accessdate=11 March 2014}}</ref>。広告においてメリエスは、自分の革新的な映画と、同時代のアクチュアリティ映画との違いを強調し、「この幻想的で芸術的な映画は舞台のシーンを再現したものであり、実在の人間や街並みを撮影した普通の映画とは異なる、まったく新しいジャンルを創造したものである」と誇らしげに語っている<ref name=Kovacs>{{citation|title=Georges Méliès and the ''Féerie''|first=Katherine Singer|last=Kovács|journal=Cinema Journal|volume=16|issue=1|pages=1–13|date=Autumn 1976|doi=10.2307/1225446|jstor=1225446}}</ref>。 |
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本作のスタイルは、メリエスの他の多くの作品と同様に意図的に演劇的なものである。舞台セットは19世紀の伝統的な舞台を思わせるような高度に様式化されたものであり、カメラは劇場の観客席からの視点かのように配置・固定され撮影されている<ref>{{Harvnb|Cook|2004|pp=15–16}}</ref>{{efn|メリエス作品のトレードマークの一つとして知られる定点的なカメラ撮影はこのスタイルの最も重要な要素の一つである。メリエスは屋外で実物の撮影を行うときはカメラを動かすことが多かったが(例えば1900年のパリ万博を描いた19本の短編映画のうち15本はカメラを動かして撮影されている)、スタジオで撮影されたフィクション映画に関しては演劇的な視点の方が適していると考えていた<ref>{{Harvnb|Malthête|2002|loc=§ 2}}</ref>。}}。 |
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このスタイルを選んだことは、メリエスの初期の最大の革新的手法の一つであった。 |
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本作は[[エドウィン・S・ポーター]]や[[D・W・グリフィス]]らによる物語映画の文法的技法の発展に先行していたがゆえに、後にアメリカやヨーロッパで慣れ親しまれる、多様なカメラアングルやインター・カット、ショットの並置、その他の様々な撮影手法などは用いられていない{{Sfn|Dancyger|2007|pp=3–4}}。むしろメリエスの作品の各ショットは、独立したドラマチックなワンシーンとして構成されており、それも演劇のスタイルを踏襲したものだった{{Sfn|Cook|2004|p=14}}。そのため各ショットの映像は単一の光景または[[デコール]](舞台装置)の中で展開され、光景やデコールが変化するとともにそのショットは次のショットへと移行した{{Sfn|小松|1991|pp=127-131}}{{Sfn|サドゥール|1994|p=200}}。基本的にショットの変わり目にはディゾルブが用いられている{{Sfn|小松|1991|pp=127-131}}。また、各ショット(=ワンシーン)は目に見える編集によって中断されることはないが{{Sfn|Cook|2004|p=14}}、実際にはストップ・トリックの効果だけでなく、製作中に長いシーンを小さなテイクに分割する目的で、いくつかの接合や切断による編集が行われており、その編集に従うと本作には50以上のショットが含まれていることになる。しかし、このような編集はすべて観客に気付かれないよう意図的に行われており、カメラアングルは同じまま慎重にテイクを繋いでいるため、実際にはショットが分割されていてもシームレスなワンショットとして、アクションがスムーズに継続されているように見せることができた{{Sfn|Solomon|2011|pp=6–7}}。 |
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当初、メリエスは当時の主流であったアクチュアリティ映画(actuality films、実際のシーンや出来事をカメラに撮る「[[スライス・オブ・ライフ]](人生の一コマ)」といった形式の短い映画)を制作していたが、映画キャリアの開始から数年間で[[フィクション]]の[[劇映画]](narrative films)という一般的ではなかったジャンルに徐々に移行していった。こうしたスタイルをメリエス自身は「scènes composées(人工的に作られたシーン)」と呼んでいた<ref name=Ezra13/>。 |
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この新しいジャンルにはメリエスの演劇やマジックの経験が大きな影響を与えており、特にフランスで人気のあった[[夢幻劇]](フェリー)の伝統の要素は大きく、これは[[ファンタジー]]のプロットや豪華な風景、機械的な舞台仕掛けなど、スペクタクルなビジュアルで知られていた<ref name=Cambridge>{{citation|first=Laurence|last=Senelick|title=Féerie|work=The Cambridge Guide to Theatre|publisher=[[Credo Reference]]|year=2000|url-access=subscription |url=http://search.credoreference.com/content/entry/cupthea/f%C3%A9erie/0|access-date=11 March 2014}}</ref>。 |
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広告においてメリエスは、自分の革新的な映画と、同時代のアクチュアリティ映画との違いを強調し、「この幻想的で芸術的な映画は舞台のシーンを再現したものであり、実在の人間や街並みを撮影した普通の映画とは異なる、まったく新しいジャンルを想像したものである」と誇らしげに語っている<ref name=Kovacs>{{citation|title=Georges Méliès and the ''Féerie''|first=Katherine Singer|last=Kovács|journal=Cinema Journal|volume=16|issue=1|pages=1–13|date=Autumn 1976|doi=10.2307/1225446|jstor=1225446}}</ref>。 |
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同様の観点として映画研究者たちは、一つの出来事を異なる形で二度見せることで時間的連続性を感じさせる技法が本作に見られると指摘している。宇宙船が月面着陸するシーンでは、まず擬人化された月に突然、宇宙船が現れる(目に突き刺さる)という形で月面への着陸が示され、次のショットでは先ほどとはまったく様子が異なる、より現実的な宇宙船が月面に着陸するところが描かれる<ref name=Sklar>{{citation|last=Sklar|first=Robert|title=Film: An International History of the Medium|location=New York|publisher=Harry N. Abrams|year=1993|pages=33–36}}</ref><ref name=森山>{{Cite book|和書 |author=森山直人 |date=2014-2 |title=メディア社会における「芸術」の行方 |publisher=[[幻冬舎]] |page=88-90}}</ref>。このように1つのアクションを反復させ、時間と空間を直線的あるいは因果的に描写しない[[非線形の語り口|非線形的なストーリーテリング]]は、後のグリフィスが確立する映画文法の基準からすると非常に型破りなものだった。ただし、これは本作やメリエス独特のものではなく、コンティニュイティ編集{{efn|コンティニュイティ編集とは、物語やアクションにおける時間や空間の連続性を重視し、ショットが切り替わっても、動きや細部の描写などが矛盾なくつながるようにすることで、違和感のないスムーズな映像にする編集のことである<ref>{{Cite book|和書 |author=[[岩本憲児]]、[[高村倉太郎]]監修 |date=2008-6 |title=世界映画大事典 |publisher=[[日本図書センター]] |isbn=978-4284200844 |page=1063}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author= |date=2012-5 |title=現代映画用語事典 |publisher=キネマ旬報社 |page=52}}</ref>。}}が確立する以前の初期の映画においては、同様の技法を試みた作品は他にも存在し、例えばポーターの『[[アメリカ消防士の生活]]』(1903年)では消防士が救出するところを反復して描き、時間の流れの不連続性を感じさせている<ref name=Sklar/>{{Sfn|Cook|2004|p=22}}{{Sfn|マッサー|2015|p=55}}。この時間的な反復の演出は、20世紀後半のテレビのスポーツ番組における[[ビデオ判定]]をきっかけに、再び身近な編集となった<ref name=Sklar/>。 |
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本作は[[エドウィン・S・ポーター]]や[[D・W・グリフィス]]らによる劇映画の編集技術の発展に先行していたがゆえに、後にアメリカやヨーロッパで慣れ親しまれる、多様なカメラアングルやインター・カット、ショットの並置、その他の様々な映画撮影のアイデアといったものは用いられていない<ref>{{Harvnb|Dancyger|2007|pp=3–4}}</ref>。 |
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むしろ、メリエスの映画では、各カメラのセットアップは、目に見える編集によって中断されることなく、独立したドラマシーンとしてデザインされ、劇場のスタイルを踏襲したアプローチであった<ref>{{Harvnb|Cook|2004|p=14}}</ref>{{efn|編集自体が目に見える仕様は必要なものであり、これはストップトリックの効果だけではなく、制作中の長いシーンを小さなテイクに分割することを目的として、シーン内で多くの接合や編集が行われていたことを意味している。このため、本作には50以上のショットが含まれている。このような編集は観客に気付かれないように意図的に行われているがゆえに、カメラのアングルは同じまま、慎重なショットマッチングによって実際には分割されていてもアクションはスムーズに継続されているように見せることができている<ref>{{Harvnb|Solomon|2011|pp=6–7}}</ref>。}}。 |
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メリエスは現代映画の文法的技法を用いたわけではなかったため、従来の映画史研究では本作と他のメリエス作品を含む初期の映画を、後に主流となる物語映画の未成熟なもの、あるいは発展途上のものとして扱っていた。しかし、1970年代以降の研究者はその映画史観を見直し、初期の映画が現代の常識とは全く異なる発想や文法をもつ別種のものであるとする見解を示した<ref name=森山/><ref name=松谷>{{Cite journal|和書 |author=松谷容作 |date=2008 |title=アトラクション、物語、タイム・マシン 初期映画におけるイメージ経験についての試論 |journal=美学芸術学論集 |volume=4 |pages=20-37 |publisher=[[神戸大学]]文学部芸術学研究室 }}</ref><ref name=artscape>{{Cite web |author=堀潤之 |url=https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8D%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0 |title=「アトラクションの映画」トム・ガニング |website=artscape |accessdate=2022年1月10日}}</ref>。例えば、トム・ガニングは、メリエスがより映画的なストーリーテリングのスタイルを確立しなかったことを非難するのは、彼の映画の目的を誤解することに繋がると主張している{{Sfn|Cook|2004|pp=16–17}}。ガニングの見解では、映画史の最初の10年間の作品は、現代映画のような複雑な編集とストーリーテリングの魅力により、観客が物語の世界に没入するタイプの映画ではなく、観客にショックや驚きなどの刺激を与えるスペクタクルなイメージを提示することで、観客の注意をじかに引き付けるタイプの「アトラクションの映画(cinema of attractions)」であると指摘している<ref name=松谷/><ref name=artscape/>{{Sfn|Cook|2004|pp=16–17}}。社会学者の[[長谷正人]]は、本作がアトラクションの映画の代表例であるとし、個々のショットには観客を惹きつけるような視覚的要素が見られるが、物語全体は観客がその世界に感情移入して楽しむようにはできていないと指摘している<ref>{{Cite book|和書 |author=[[長谷正人]] |date=2016-10 |title=映像文化の社会学 |publisher=[[有斐閣]] |isbn=978-4641174245 |pages=32-33}}</ref>。このアトラクションの映画のスタイルは、物語映画への移行により人気が低下したが、[[SF映画]]や[[ミュージカル映画|ミュージカル]]、[[実験映画]]など、特定の映画ジャンルでは依然として重要な要素となっている{{Sfn|Cook|2004|pp=16–17}}。 |
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同様の観点として映画学者たちは、一つの出来事を異なる形で二度見せることで時間的連続性を感じさせていると指摘している。本作の最も有名な場面でもある宇宙船が月面着陸するシーンでは、まず擬人化された月に、突然、宇宙船が現れる(目に突き刺さる)という形で月面への着陸が示され、次のショットでは先ほどとはまったく様子が異なる、より現実的な宇宙船が月面に着陸するところが描かれる<ref name=Sklar>{{citation|last=Sklar|first=Robert|title=Film: An International History of the Medium|location=New York|publisher=Harry N. Abrams|year=1993|pages=33–36}}</ref>。 |
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このように時間と空間を直線的あるいは因果的に描写せず、反復可能で柔軟なものとして扱う[[非線形の語り口|非線形的なストーリーテリング]]は、後のグリフィスらの基準からすると非常に型破りなものであった。ただし、これは本作やメリエス独特のものではなく、コンティニュイティ編集(直訳で「連続性の編集」の意で、ショットが切り替わっても、空間や時間の連続性を違和感なく観客に感じさせる編集のこと)が確立する以前においては、他にも同様に時間的要素に対する実験的な作品は存在し、例えばポーターの1903年の作品『[[アメリカ消防士の生活]]』は時間の流れの不連続性と反復を多用したものであった<ref name=Sklar/><ref>{{Harvnb|Cook|2004|p=22}}</ref>。 |
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その後、20世紀におけるテレビのスポーツ番組における[[ビデオ判定]]をきっかけとし、時間的な反復の演出は再び身近な編集となった<ref name=Sklar/>。 |
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メリエスは現代映画の技法(用語)を用いたわけではなかったため、映画学者の中には彼の作品を評価するにあたって別の枠組みを設けた者もいる。たとえば、最近の学者の中にはメリエスの映画への影響を否定するわけではないが、その作品を映画というより、19世紀の夢幻劇の伝統に基づいた壮大な演劇作品として理解すべきとする者もいる<ref>{{citation|last1=Gaudreault|first1=André|last2=Le Forestier|first2=Laurent|publisher=[[Centre culturel international de Cerisy-la-Salle]]|title=Méliès, carrefour des attractions|year=2011|type=academic conference program|url=http://www.ccic-cerisy.asso.fr/melies11.html|access-date=23 July 2013}}</ref>。 |
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同様にトム・ガニングは、メリエスがより親密で映画的なストーリーテリング・スタイルを確立しなかったことを非難するのは、彼の映画の目的を誤解することに繋がると指摘している。 |
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ガニングの見解では、映画史の最初の10年間は「アトラクションの映画(cinema of attractions)」だとし、製作者たちは複雑な編集よりも、スペクタクルと直接的な表現に基づいたプレゼンテーション・スタイルを試していた。アトラクション形式の映画はより統合された「ストーリー映画」のアプローチに移行し人気を失ったが、[[SF映画]]、[[ミュージカル映画|ミュージカル]]、[[実験映画]]など、特定の映画ジャンルでは依然として重要な要素となっている<ref>{{Harvnb|Cook|2004|pp=16–17}}</ref>。 |
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== テーマ == |
== テーマ == |
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[[File:Trip to the Moon Statue Color.jpg|thumb|right|upright=1.36|手彩色プリントの最後に登場する |
[[File:Trip to the Moon Statue Color.jpg|thumb|right|upright=1.36|250px|手彩色プリントの最後に登場するバルベンフィリの像は、[[植民地主義]]を風刺している可能性がある{{Sfn|Solomon|2011|pp=9–12}}。]] |
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科学的な野心や発見をテーマにした先駆的な作品である本作は、しばしば最初の[[SF映画]]と呼ばれている<ref name=Creed58>{{citation|last=Creed|first=Barbara|title=Darwin's Screens: Evolutionary Aesthetics, Time and Sexual Display in the Cinema|url=https://books.google.com/books?id=gTV9jLGsOFQC&pg=PA58|year=2009|publisher=Academic Monographs|isbn=978-0-522-85258-5|page=58}}</ref><ref>{{citation|last=Fischer|first=Dennis|title=Science Fiction Film Directors, 1895–1998|url=https://books.google.com/books?id=7msrAwAAQBAJ&pg=PA9|date=17 June 2011|publisher=McFarland|isbn=978-0-7864-8505-5|page=9}}</ref>{{efn|name=SF|メリエスの初期作品『{{仮リンク|ギュギュスと人形|en|Gugusse et l'Automate}}』(1897年)もまた最初のSF作品と評されることがある<ref name=Menville>{{citation|last1=Menville|first1=Douglas|first2=R.|last2=Reginald|title=Things to Come: An Illustrated History of the Science Fiction Film|location=New York|publisher=Times Books|year=1977|page=3}}</ref>。}}。『''A Short History of Film''』は「今日における[[SF映画]]で用いられる基本的な文脈の多く」を成文化したと論じている<ref name=Dixon12/>。ただし、SFによらない他のジャンルへの呼称も考えられている。メリエス自身は本作を「大スペクタクル映画(pièce à grand spectacle)」と宣伝していたが{{Sfn|Malthête|Mannoni|2008|p=125}}、これは19世紀後半に[[ジュール・ヴェルヌ]]と{{仮リンク|アドルフ・デネリー|en|Adolphe d'Ennery}}によって広められたパリのスペクタクルな舞台劇([[エクストラバガンザ]])の一種を指す言葉であった<ref>{{citation|last=Margot|first=Jean-Michel|chapter=Introduction|editor-last=Verne|editor-first=Jules|title=Journey Through the Impossible|location=Amherst, N.Y.|publisher=Prometheus Books|year=2003|isbn=1-59102-079-4|page=13}}</ref>。映画史家の{{仮リンク|リチャード・アベル|en|Richard Abel (cultural historian)}}は、本作を「[[夢幻劇]](フェリー)」のジャンルに属すると説明し<ref name=Cine/>、フランク・ケスラーも同様に評した{{Sfn|Kessler|2011}}。それは単に[[トリック映画]]と呼ぶこともできる。トリック映画は映画史初期の人気ジャンルの総称で、革新的で特殊効果を駆使した[[短編映画]]のことを指すが、それはメリエス自身が彼の初期の作品で体系化して広めた<ref name=Ideas>{{citation|last=Parkinson|first=David|title=100 Ideas That Changed Film|location=London|publisher=Laurence King Publishing|year=2012|page=19}}</ref>。 |
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本作は19世紀の科学を[[冒険小説]]のように誇張してからかうといった風刺色が強い{{Sfn|Frazer|1979|pp=98–99}}。いかにも実際の科学に基づくような振りは一切せず、唯一の現実的描写は着水時の水しぶきだけである{{Sfn|''Essai de reconstitution''|p=111}}。映画研究者のアリソン・マクマハンは、本作を[[パタフィジック|パタフィジカル映画]]の最初期の一例として挙げ、風刺的に描かれた無能な科学者、擬人化された顔が描かれた月面、物理法則を無視した描写など、「論理的思考の非論理性を示すことを目的としている」と述べている<ref name=McMahan4>{{citation|last=McMahan|first=Alison|title=The Films of Tim Burton: Animating Live Action in Contemporary Hollywood|year=2005|publisher=Continuum International Publishing Group|isbn=0-8264-1566-0|page=4}}</ref>。アベルは、メリエスの狙いが「現代フランス社会の階層的価値観を逆転させ、カーニバル風の騒動の中でそれらを嘲笑することにある」と考察している<ref name=McMahan4/>。同様に、文学者で映画研究者の{{仮リンク|エドワード・ワゲンクネヒト|en|Edward Wagenknecht}}は、本作を「学者や学術協会の気取った態度を風刺するのと同時に、未踏の宇宙に直面した人間の不思議な感覚に訴える」作品だと述べている{{Sfn|Wagenknecht|1962|pp=35–36}}。 |
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科学的な野心や発見をテーマにした先駆的な作品である本作は、最初のSF映画と呼ばれることもある<ref name=Creed58>{{citation|last=Creed|first=Barbara|title=Darwin's Screens: Evolutionary Aesthetics, Time and Sexual Display in the Cinema|url=https://books.google.com/books?id=gTV9jLGsOFQC&pg=PA58|year=2009|publisher=Academic Monographs|isbn=978-0-522-85258-5|page=58}}</ref><ref>{{citation|last=Fischer|first=Dennis|title=Science Fiction Film Directors, 1895–1998|url=https://books.google.com/books?id=7msrAwAAQBAJ&pg=PA9|date=17 June 2011|publisher=McFarland|isbn=978-0-7864-8505-5|page=9}}</ref> |
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{{efn|name=SF|メリエスの初期作品『Gugusse et l'Automate』(1897年)もまた最初のSF作品と評されることがある<ref name=Menville>{{citation|last1=Menville|first1=Douglas|first2=R.|last2=Reginald|title=Things to Come: An Illustrated History of the Science Fiction Film|location=New York|publisher=Times Books|year=1977|page=3}}</ref>。}}。 |
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『A Short History of Film』には「今日における[[SF映画]]で用いられる基本的な文脈の多く」を成文化したものと論じている<ref name=Dixon12/>。 |
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ただし、SFによらない他のジャンルへの呼称も考えられる。 |
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メリエス自身は本作を「大スペクタクル映画(pièce à grand spectacle)」と宣伝していたが<ref name=Malthete125/>、これは19世紀後半に[[ジュール・ヴェルヌ]]と{{仮リンク|アドルフ・デネリー|en|Adolphe d'Ennery}}によって広められたパリのスペクタクルな舞台劇([[エクストラバガンザ]])の一種を指す言葉であった<ref>{{citation|last=Margot|first=Jean-Michel|chapter=Introduction|editor-last=Verne|editor-first=Jules|title=Journey Through the Impossible|location=Amherst, N.Y.|publisher=Prometheus Books|year=2003|isbn=1-59102-079-4|page=13}}</ref>。 |
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{{仮リンク|リチャード・アベル|en|Richard Abel (cultural historian)}}は、この映画を「[[夢幻劇]](フェリー)」というジャンルに属すると表現し<ref name=Cine/>、フランク・ケスラーも同様に評した<ref>{{Harvnb|Kessler|2011}}</ref> |
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これは単に[[トリック映画]]とも呼ぶこともあるし、革新的で特殊効果を駆使した短編映画という初期の人気ジャンルの総称でもあり、それはメリエス自身が彼の初期の作品で体系化して広めたジャンルである<ref name=Ideas>{{citation|last=Parkinson|first=David|title=100 Ideas That Changed Film|location=London|publisher=Laurence King Publishing|year=2012|page=19}}</ref>。 |
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また、本作の風刺には強い[[反帝国主義]]の側面もある{{Sfn|Ezra|2000|pp=120–121}}{{Sfn|Solomon|2011|pp=9–12}}。映画研究者のマシュー・ソロモンは、最後のシーン(一部のプリントでは欠落しているパレードと記念式典のシークエンス)において、この点が強く描かれていると指摘している。ソロモンは、反[[ブーランジェ将軍事件|ブーランジェ主義]]の風刺漫画家として活動していたメリエスが本作の中で、出会った異星生命体を容赦なく攻撃し、自画自賛のファンファーレの中で連れ帰ってきた捕虜を虐待している、馬鹿な衒学者(pedant)として植民地の征服者を描くことで、帝国主義的支配を嘲笑っていると指摘している。映画のラストショットで映し出されるバルベンフィリの像は、メリエスの風刺漫画に登場する、尊大で弱い者いじめを行う植民地主義者にさえ似ている{{Sfn|Solomon|2011|pp=9–12}}。映画研究者のエリザベス・エズラは、「メリエスが、ある文化を別の文化が征服したという植民地主義者の自負を嘲笑っている」と同意し、「月世界における階層社会が地球上のそれと奇妙に似ていることが示されているように、彼の映画では家庭の社会的分化もテーマにしている」とも指摘している{{Sfn|Ezra|2000|pp=120–121}}。 |
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本作は19世紀の科学を冒険小説のように誇張してからかうといった風刺色が強い<ref>{{Harvnb|Frazer|1979|pp=98–99}}</ref>。 |
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いかにも実際の科学に基づくような振りは一切せず、唯一の現実的描写は着水時の水しぶきだけである<ref name=Essai111/>。 |
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映画学者のアリソン・マクマハンは、本作を[[パタフィジック|パタフィジカル映画]]の最初期の一例として挙げ、風刺的に描かれた無能な科学者、擬人化された顔が描かれた月面、物理法則を無視した描写など、「論理的思考の非論理性を示すことを目的としている」と述べている<ref name=McMahan4>{{citation|last=McMahan|first=Alison|title=The Films of Tim Burton: Animating Live Action in Contemporary Hollywood|year=2005|publisher=Continuum International Publishing Group|isbn=0-8264-1566-0|page=4}}</ref>。 |
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映画史家のリチャード・アベルは、メリエスの狙いが「現代フランス社会の階層的価値観を逆転させ、カーニバル風の騒動の中でそれらを嘲笑することにある」と考察している<ref name=McMahan4/>。 |
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同様に文学者であり、映画学者でもある{{仮リンク|エドワード・ワゲンクネヒト|en|Edward Wagenknecht}}は、本作を「学者や学術協会の気取った態度(pretension)を風刺するのと同時に、未踏の宇宙に直面した人間の不思議な感覚に訴える」作品だと表現している<ref name=Wagenknecht35>{{Harvnb|Wagenknecht|1962|pp=35–36}}</ref>。 |
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== 公開と反応 == |
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また、この映画の風刺には強い[[反帝国主義]]の側面もある<ref name=EzraSatire>{{Harvnb|Ezra|2000|pp=120–21}}</ref><ref name=SolomonSatire>{{Harvnb|Solomon|2011|pp=9–12}}</ref>。 |
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映画学者のマシュー・ソロモンは最後のシーン(一部のプリントではかけているパレードと記念式典のシークエンス)において、特にこの点が強く描かれていると指摘している。彼は、反[[ブーランジェ将軍事件|ブーランジェ主義]]の風刺漫画家として活動していたメリエスが、この映画の中で、出会った異星生命体を容赦なく攻撃し、自画自賛のファンファーレの中で連れ帰ってきた捕虜を虐待している、馬鹿な衒学者(pedant)として植民地の征服者を描くことで、帝国主義的支配を嘲笑っていると指摘している。映画のラストショットで映し出されるBarbenfouillisの像は、メリエスの風刺漫画に登場する、尊大で弱い者いじめを行う植民地主義者にさえ似ている<ref name=SolomonSatire/>。 |
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映画学者のエリザベス・エズラは「メリエスが、ある文化を別の文化が征服したという植民地主義者の自負を嘲笑っている」と同意し、「月世界における階層社会が地球上のそれと奇妙に似ていることが示されているように、彼の映画では家庭の社会的分化もテーマにしている」とも指摘している<ref name=EzraSatire/>。 |
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== 公開 == |
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[[File:Voyage dans la Lune affiche.jpg|thumb|メリエスによる映画ポスターの下絵]] |
[[File:Voyage dans la Lune affiche.jpg|thumb|メリエスによる映画ポスターの下絵]] |
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1902年5月に本作の製作に着手したメリエスは、同年8月に作品を完成させ、同月にフランスの興行師たちにプリントの販売を開始した{{Sfn|Méliès|2011b|pp=233–234}}。プリントはメリエスが経営する{{仮リンク|スター・フィルム|en|Star Film Company}}からモノクロ版と着色版の両方で販売され{{Sfn|Solomon|2011|p=2}}、それらには399-411番というカタログ番号<ref name=Hammond141/>{{efn|name=numbering|メリエスのナンバリングのルールは、製作順にリストアップされた上で、1つのカタログ番号で約20メートルのフィルムを表している。よって、約260メートルの長さである本作は399-411番となっている{{Sfn|Solomon|2011|p=7}}。}}と、30の{{仮リンク|タブロー (映画)|label=タブロー|fr|Tableau (cinéma)}}からなる「大スペクタクル映画(Pièce à grand spectacle)」という説明的な副題が付けられていた{{Sfn|Malthête|Mannoni|2008|p=125}}{{efn|name=Spectacle|「タブロー(tableau)」はフランスの演劇用語で「シーン」や「舞台の光景」を意味するものであるが、メリエスのカタログではシーン(=ショット)の変化ではなく、劇中の明確なエピソードやアクションのまとまりとして分節しており、それはすなわち1つのショットに複数のタブローが含まれることを意味した{{Sfn|Cook|2004|p=15}}{{Sfn|小松|1991|pp=126-129}}。}}。フランスではモノクロ版が560フラン、着色版が1000フランで販売された{{Sfn|Frazer|1979|p=99}}。メリエスの回想によると、自分の劇場で興行師向けに上映会を開いたところ、売値が高過ぎるため失敗したという。そこでメリエスはある興行師にプリントを無料で貸し出して上映することを提案し、トローヌの定期市で上映される運びとなった。その初上映は客こそ少なかったものの拍手喝采を受け、その客たちが他の人たちに宣伝するうちに、しまいには真夜中まで場内が満員になるほど客が殺到した。それを受けて興行師たちはすぐにプリントを購入し、メリエスのもとには到る所から注文が殺到した{{Sfn|メリエス|1994|p=288}}{{Sfn|サドゥール|1994|pp=289-291}}。 |
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1902年9月から12月にかけて、本作の着色版はメリエスが経営するパリのロベール=ウーダン劇場の土曜日と木曜日のマチネー公演の後に、メリエスの同僚で、最後の2つのシーンでパレードの隊長として出演したマジシャンのジュール=ウジェーヌ・ルグリによって上映された{{Sfn|Solomon|2011|p=2}}。さらに本作は巡回興行師たちにより、フランス中の定期市で上映され、高い成功を収めた{{Sfn|メリエス|1994|p=288}}{{Sfn|サドゥール|1994|p=294}}。同年にパリの音楽ホール「オランピア」でも上映されると、数か月間途切れることなく上映されるほどの成功を収めた<ref name=Cine>{{citation|last=Abel|first=Richard|title=The Ciné Goes to Town: French Cinema, 1896–1914|location=Berkeley|publisher=University of California Press|year=1998|page=70|url=https://books.google.com/books?id=VnPUIY1FapsC&pg=PA70|isbn=9780520912915}}</ref>。また、スター・フィルムのイギリスの代理人である{{仮リンク|チャールズ・アーバン|en|Charles Urban}}の{{仮リンク|ウォーリク・トレイディング社|en|Warwick Trading Company}}を通じて、イギリスでも本作のプリントが販売され、イギリスの大部分の[[ミュージック・ホール]]のプログラムに記載されるほどの成功を収めた{{Sfn|Solomon|2011|p=2}}{{Sfn|サドゥール|1994|p=294}}{{Sfn|メリエス|1994|pp=236-237, 288}}。 |
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1902年5月に本作の制作に着手したメリエスは同年8月に映画を完成させ、同月にフランスの配給会社にプリントの販売を開始した<ref name=Questionary/>。 |
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1902年9月から12月にかけて、メリエスが経営するパリのロベール=ウーダン劇場で『月世界旅行』の手彩色版が上映された。本作は土曜日と木曜日のマチネー公演の後に、メリエスの同僚で、映画にも最後の2つのシーンでパレードのリーダーとして登場したマジシャンのジュール=ウジェーヌ・ルグリによって上映された<ref name=Solomon2/>。 |
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メリエスは自身が経営する{{仮リンク|スター・フィルム|en|Star Film Company}}にてモノクロ版とカラー版のプリントを販売し<ref name=Solomon2/>、これらには399-411番というカタログ番号<ref name=Hammond141/>{{efn|name=numbering|メリエスのナンバリングのルールは、製作順にリストアップされた上で、1つのカタログ番号で約20メートルのフィルムを表している。よって、約260メートルの長さである本作は399-411番となっている<ref>{{Harvnb|Solomon|2011|p=7}}</ref>。}}と30のタブロー(tableau)からなる「Pièce à grand spectacle」という説明的な副題が付けられていた<ref name=Malthete125/>{{efn|name=Spectacle|「タブロー(tableau)」はフランスの演劇用語で「シーン」や「舞台の光景」を意味するものであるが、メリエスのカタログではシーンの変更ではなく、劇中の明確なエピソードを指していた<ref name=Cook15/>。}}。フランスではモノクロ版が560フラン、手彩色版が1000フランで販売されていた<ref name=Frazer99/>。 |
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また、メリエスはロンドンの{{仮リンク|チャールズ・アーバン|en|Charles Urban}}の{{仮リンク|ワーウィック商会|en|Warwick Trading Company}}を通じて、間接的にフィルムの販売も行った<ref name=Solomon2/>。 |
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当時として珍しい予算、上映時間、製作期間であったこと、1901年当時のニューヨークのアトラクションとの類似性など、本作を取り巻く多くの状況は、メリエスが本作をアメリカで公開することを特に望んでいたことを示している<ref name="Lefebvre51"/>{{efn|name=Abel|歴史学者のリチャード・アベルによれば、「月への旅」を題材とした物語は印刷物、舞台、テーマ別のアトラクションを問わず、当時のアメリカで非常に人気があったものだという。実際、メリエスの前作『天文学者の夢』もまた、アメリカでは『月世界旅行(A Trip to the Moon)』というタイトルで上映されていた<ref>{{Harvnb|Abel|2011|pp=130–35}}</ref>。}}。 |
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しかし、映画の海賊版が横行したがために、メリエスはこの人気作品の利益のほとんどを受け取ることができなかった<ref name=Frazer46>{{Harvnb|Frazer|1979|p=46}}</ref>。 |
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一説によれば、メリエスはアルジェの劇場でのみ使用するという制限つきで、本作のプリントをパリの写真家シャルル・ゲルシェルに売ったが、ゲルシェルは、他のメリエスの映画と合わせてこれらプリントを{{仮リンク|エジソン・マニュファクチャリング|en|Edison Manufacturing Company}}の社員であるアルフレッド・C・アバディに売却したという。アバディはそれをエジソンの現像所に送り、そのコピー(海賊版)をバイタグラフ社が販売した。これらは他の会社にも広まり、1904年までにはジークムント・ルービン、セリグ・ポリスコープ社、そしてエジソンがそれらの再配布を行っていた<ref name=Solomon2/>。 |
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エジソンのプリントに至っては、メリエス自身が行ったように、手彩色の、より高価なバージョンの販売さえ行っていた。メリエスの名前がクレジットされることさえ稀であった<ref name=Yumibe/>。配給されてから6ヵ月の間に、アメリカの興行主でメリエスの名前を広告に載せたのは{{仮リンク|トーマス・リンカーン・タリー|en|Thomas Lincoln Tally}}のみという有様であった<ref>{{Harvnb|Abel|2011|p=136}}</ref>。彼は自身のエレクトリック・シアターのこけら落としにあたって、本作を初上映作品に選んだ<ref name=Frazer99/>。 |
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本作の公開によって明らかとなった映画の海賊版問題に対処するため、1903年にメリエスは兄弟の{{仮リンク|ガストン・メリエス|en|Gaston Méliès}}が管理するスター・フィルムのアメリカ支部をニューヨークに開設した。この事務所はメリエスの作品を直接販売すると共に、アメリカでの著作権登録を行い作品を保護することを目的としていた<ref name=Frazer4648>{{Harvnb|Frazer|1979|pp=46–48}}</ref>。 |
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スター・フィルムの英語版カタログの序文には以下のように記されている。 |
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「ニューヨークに工場と事務所を開設するにあたって我々はすべての偽造者と海賊版を追及するための準備と決意を持っている。我々に二言はなく、行動で示す!」<ref name=Rosen755/> |
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当時では珍しい予算、上映時間、製作期間であったことや、1901年当時の[[ニューヨーク]]のアトラクションとの類似性など、本作を取り巻く多くの状況は、メリエスが本作をアメリカで公開することを特に望んでいたことを示している{{Sfn|Lefebvre|2011|p=51}}{{efn|name=Abel|リチャード・アベルによると、「月への旅」を題材とした物語は印刷物、舞台、テーマ別のアトラクションを問わず、当時のアメリカで非常に人気があったものだという。実際、メリエスの前作『天文学者の夢』もまた、アメリカでは『月世界旅行(A Trip to the Moon)』というタイトルで上映されていた{{Sfn|Abel|2011|pp=130–35}}。}}。本作はアメリカでも特に大きな熱狂をもって迎え入れられ、[[ニューヨーク]]、[[ワシントンD.C.]]、[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]、[[デトロイト]]、[[ニューオーリンズ]]、[[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]で高い成功を収めたことが報告されている。しかし、アメリカで広く流通したのは本作の[[海賊版]]だったため、メリエスはこの人気作品の利益のほとんどを受け取ることができなかった{{Sfn|Frazer|1979|p=46}}。一説によれば、メリエスは[[アルジェ]]の劇場でのみ上映するという条件付きで、本作のプリントをパリの写真家シャルル・ゲルシェルに売ったが、ゲルシェルはそれを他のメリエス作品とともに{{仮リンク|エジソン製造会社|label=エジソン社|en|Edison Manufacturing Company}}社員のアルフレッド・C・アバディに売却したという。アバディはそれをエジソン社の現像所に送り、ここで複製されたフィルムは{{仮リンク|ヴァイタグラフ社|en|Vitagraph Studios}}が販売した。海賊版は他の会社にも広まり、1904年までには{{仮リンク|シグムンド・ルービン|en|Siegmund Lubin}}、{{仮リンク|シーリグ・ポリスコープ社|en|Selig Polyscope Company}}、そしてエジソン社がそれらを販売していた{{Sfn|Solomon|2011|p=2}}{{Sfn|メリエス|1994|p=289}}。エジソン社に至っては、メリエス自身が行ったように、より高価な着色版の販売さえ行っていた<ref name=Yumibe/>。メリエスの名前がクレジットされることは稀で、配給されてから6か月の間に、アメリカの興行主でメリエスの名前を広告に載せたのは{{仮リンク|トーマス・リンカーン・タリー|en|Thomas Lincoln Tally}}だけだった{{Sfn|Abel|2011|p=136}}。彼は自身のエレクトリック・シアターのこけら落としにあたり、本作を初上映作品に選んだ{{Sfn|Frazer|1979|p=99}}。 |
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アメリカ支部の開設に加えて、アメリカン・ミュトスコープ・アンド・バイオグラフ社({{仮リンク|バイオグラフ社|en|Biograph Company}})、ワーウィック商会、チャールズ・アーバン商会、[[ロバート・W・ポール]]のスタジオ、[[ゴーモン]]など、他の映画会社とさまざまな貿易協定が結ばれた<ref name=Frazer4648/>。 |
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これらの交渉では、アメリカ市場全体で、プリントの販売価格を1フィートあたり0.15米ドルに標準化することが取り決められ、これはメリエスにとって有益なものであった。 |
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ところが、その後、1908年に映画特許会社が価格の標準化を行い([[モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー|エジソン・トラスト]])、この新基準では、相対的に高価なメリエス作品は非現実的なほどの廉売を強いられることになり、彼の経済的な破滅を早めた。さらに1908年以降の映画の流行においては、もはやメリエスが得意とした空想的なマジック映画は時代遅れとなっていた<ref name=Frazer4648/>。 |
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本作の公開中に明らかとなった映画の海賊版問題に対処するため、1903年にメリエスは兄のガストンが管理するスター・フィルムのアメリカ支店をニューヨークに開設した{{Sfn|Frazer|1979|pp=46–48}}{{Sfn|サドゥール|1994|p=295}}。この事務所はメリエスの作品を直接販売すると共に、アメリカでの著作権登録を行い作品を保護することを目的としていた{{Sfn|Frazer|1979|pp=46–48}}。同社の英語版カタログの序文には、「ニューヨークに工場と事務所を開設するにあたって、我々はすべての偽造者と海賊版を追及するための準備と決意を持っている。我々に二言はなく、行動で示す!」と記されている{{Sfn|Rosen|1987|p=755}}。 |
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== 評価 == |
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メリエスの回想録によれば、最初に本作をフランスの見本市会場に売り込んだ際、映画が異常に高額であったために失敗したという。そこで、ある興行主に映画のプリントを貸し出し無料上映すること提案して、上映される運びとなった。初上映時の拍手喝采はすさまじく、博覧会の観客は深夜まで劇場を満員にした。この興行主はすぐに映画を購入することを決意し、最初に渋ったことに対して、メリエスへの迷惑料として200フランを追加した<ref name=Rosen755>{{Harvnb|Rosen|1987|p=755}}</ref>。 |
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本作はフランスで大成功を収め、パリの音楽ホール「[[オランピア (パリ)|オランピア]]」で数ヶ月間、途切れることなく上映された<ref name=Cine>{{citation|last=Abel|first=Richard|title=The Ciné Goes to Town: French Cinema, 1896–1914|location=Berkeley|publisher=University of California Press|year=1998|page=70|url=https://books.google.com/books?id=VnPUIY1FapsC&pg=PA70|isbn=9780520912915}}</ref>。 |
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本作は上記の国だけでなく、[[ドイツ]]、[[カナダ]]、[[イタリア]]などの国々でも公開されて成功を収め、1904年までヘッドライン・アトラクションとして取り上げられた{{Sfn|Solomon|2011|pp=2–3}}。[[日本]]でも、1905年8月9日に[[明治座]]で公開され<ref>{{Cite book|和書 |author=泉速之 |date=2000-4 |title=銀幕の百怪 本朝怪奇映画大概 |publisher=青土社 |page=75}}</ref>、1908年4月15日には『月世界探検』の邦題で[[錦輝館]]でも上映された<ref>{{Cite book|和書 |author=[[田中純一郎]] |date=1975-12 |title=[[日本映画発達史|日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代]] |series=中公文庫 |publisher=[[中央公論社]] |page=126}}</ref>。本作は20世紀初頭の数年間で最も人気のある作品の一つとなり、匹敵する作品もごくわずかだった(その作品も『妖精たちの王国』や『不可能を通る旅』など、同じように壮大なメリエスの作品である){{Sfn|Solomon|2011|p=3}}。晩年にメリエスは、本作について「私の最高傑作ではなかった」と言いつつも、自身の傑作と広く認められていること、そして「この種のものとしては初めての作品だったため、忘れがたい痕跡を残した」点を認めている{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=162}}。なお、メリエスが自身の最高傑作と捉えていたのは、現在では[[失われた映画]]と考えられている、重厚な歴史ドラマ映画『{{仮リンク|文明の歴史|en|Humanity Through the Ages}}』(1908年)である{{Sfn|Frazer|1979|p=191}}。 |
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本作はアメリカにおいて特に大きな熱狂をもって迎え入れられ、ルービン、セリグ、エジソンなどによる海賊版が(メリエスにとっては悔しいことに)広く流通した。[[ニューヨーク]]、[[ワシントンD.C.]]、[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]、[[デトロイト]]、[[ニューオーリンズ]]、[[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]の映画館では、本作が大成功を収めたと報告されている<ref name=S23>{{Harvnb|Solomon|2011|pp=2–3}}</ref>。 |
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また、ドイツ、カナダ、イタリアなど他の国々でも成功を収め、1904年までヘッドライン・アトラクションとして取り上げられた<ref name=S23/>。 |
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メリエスは本作公開後、アメリカ支店の開設に加えて、アメリカン・ミュートスコープ・アンド・バイオグラフ社({{仮リンク|バイオグラフ社|en|Biograph Company}})、ウォーリク・トレイディング社、{{仮リンク|チャールズ・アーバン・トレイディング社|en|Charles Urban Trading Company}}、[[ロバート・W・ポール]]のスタジオ、[[ゴーモン]]など、他の映画会社とさまざまな貿易協定を結んだ{{Sfn|Frazer|1979|pp=46–48}}。これらの交渉では、アメリカ市場全体で、プリントの販売価格を1フィートあたり0.15米ドルに標準化することが取り決められ、これはメリエスにとって有益なものであった。ところが、その後、1908年に[[モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー]](映画特許会社)が価格の標準化を行い、この新基準では、相対的に高価なメリエス作品は非現実的なほどの廉売を強いられることになり、彼の経済的な破滅を早めた{{Sfn|Frazer|1979|pp=46–48}}。さらに1908年以降の映画では、もはやメリエスが得意とした空想的なトリック映画と演劇的なスタイルは時代遅れとなり、作品は観客に飽きられていった{{Sfn|Frazer|1979|pp=46–48}}{{Sfn|中条|2003|p=38}}。 |
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本作は20世紀初頭の数年間において最も人気のある作品の一つであり、匹敵する作品もごくわずかであった(その作品も『{{仮リンク|妖精たちの王国|en|The Kingdom of the Fairies}}』や『{{仮リンク|不可能を通る旅|en|The Impossible Voyage}}』など、同じように壮大なメリエスの作品である)<ref name=Solomon3>{{Harvnb|Solomon|2011|p=3}}</ref>。 |
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晩年、メリエスは、本作について「私の最高傑作ではなかった」と言いつつも、自身の傑作と広く認められていること、そして「この種のものとしては初めての作品だったため、忘れがたい痕跡を残した」点を認めている<ref>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=162}}</ref>。 |
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なお、メリエスが自身の最高傑作と捉えていたのは、現在では[[失われた映画]]と考えられている、重厚な歴史ドラマ映画『{{仮リンク|人類の歴史|en|Humanity Through the Ages}}』(1908年)である<ref>{{Harvnb|Frazer|1979|p=191}}</ref>。 |
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== 再発見 == |
== 再発見 == |
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[[File:Le Voyage dans la Lune (Georges Méliès, 1902).ogv|upright=1.36|thumb|thumbtime=5:51|リロイ版の欠損プリント |
[[File:Le Voyage dans la Lune (Georges Méliès, 1902).ogv|upright=1.36|thumb|thumbtime=5:51|250px|リロイ版の欠損プリント(上映時間 00:11:00)]] |
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[[File:Le Voyage dans la lune (black and white, 1902).webm|upright=1.36|thumb|thumbtime=6:20|修復されたモノクロ版プリント |
[[File:Le Voyage dans la lune (black and white, 1902).webm|upright=1.36|thumb|thumbtime=6:20|250px|修復されたモノクロ版プリント(上映時間 00:12:47)]] |
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メリエスの経済的破滅と衰退の後、彼のプリントのほとんどのコピーが失われた。1917年にメリエスの事務所はフランス軍に接収され、軍はフィルムに含まれている銀を集め、セルロイドで軍靴のかかと部分を作るために、そのフィルムの多くを溶かした。1923年にロベール=ウーダン劇場が取り壊された際には、そこに保管されていたプリントは中古フィルム業者に、内容ではなく重さで売り払われてしまった。残っていたネガもまた、同年にメリエスが怒りのあまりモントルイユの自宅の庭ですべて焼却してしまった{{Sfn|Frazer|1979|p=54}}。1925年にメリエスは[[モンパルナス駅]]の売店で、おもちゃとキャンディの販売を始めた{{Sfn|Malthête|Mannoni|2008|p=10}}。『月世界旅行』は歴史からほぼ消え去り、何年にもわたって人目に触れることはなくなった{{Sfn|Solomon|2011|p=3}}。 |
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メリエスの経済的な破滅後に、彼のプリントのほぼすべてのコピーは失われた。 |
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1917年にメリエスの事務所はフランス軍に接収され、軍はフィルムに含まれている銀の集積と、セルロイドで軍靴のかかと部分を作るために、そのフィルムの多くを溶かした。 |
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1923年にロベール=ウーダン劇場が取り壊された際には、そこに保管されていたプリントは中古フィルム業者に、内容ではなく重さで売り払われてしまった。残っていたネガもまた、同年にメリエスが怒りのあまりモントルイユの自宅の庭ですべて焼却してしまった<ref>{{Harvnb|Frazer|1979|p=54}}</ref>。 |
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1925年にメリエスは[[モンパルナス駅]]の売店で、おもちゃ屋やキャンディの売り子に身をやつし<ref>{{Harvnb|Malthête|Mannoni|2008|p=10}}</ref>、『月世界旅行』は歴史からほぼ消え去り、何年にもわたって人目に触れることはなくなった<ref name=Solomon3/>。 |
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=== モノクロ版 === |
=== モノクロ版 === |
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映画史に造詣が深い人々、特に[[ルネ・クレール]]、ジャン=ジョルジュ・オーリオール |
1920年代後半にメリエスとその作品は、映画史に造詣が深い人々、特に映画監督の[[ルネ・クレール]]、映画評論家の{{仮リンク|ジャン=ジョルジュ・オーリオール|fr|Jean George Auriol}}や{{仮リンク|ポール・ジルソン|en|Paul Gilson}}らの努力により再発見された。1929年12月16日、パリの[[サル・プレイエル]]でメリエスを讃える「ガラ・メリエス(Gala Méliès)」{{efn|ガラ(Gala)は「祭典」の意。}}が開催され、1931年にはメリエスに[[レジオンドヌール勲章]]が授与された{{Sfn|Frazer|1979|pp=55–56}}。こうしてメリエスへの関心が高まっている間、映画館経営者のジャン・モークレールと初期の映画実験家ジャン・アクメ・リロイは、それぞれ『月世界旅行』の現存するプリントを探すための活動を始めていた。モークレールは1929年10月にパリで、リロイは1930年にロンドンでコピーを入手したが、どちらも不完全なものだった。モークレールのものは最初と最後のシーンが欠けており、リロイのものもパレードと記念像が登場する最後のシークエンスが丸々と欠けていた。これらのプリントは先述のガラ・メリエスといった回顧展や前衛映画の上映会など、特別な機会に上映されることがあり、時にメリエス自身がプレゼンを行うこともあった{{Sfn|Solomon|2011|pp=3–5}}。 |
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こうしてメリエスへの関心が高まっている間、映画館経営者のジャン・モークレールと初期の映画実験家ジャン・アクメ・リロイは、それぞれ『月世界旅行』の現存するプリントを探すための活動を始めていた。モークレールは1929年10月にパリで、リロイは1930年にロンドンにてプリントを入手したが、どちらも不完全なものであった。モークレールのものは最初と最後のシーンが欠けており、リロイのものもパレードと記念像が登場する最後のシークエンスが丸々と欠けていた。これらのプリントは先述のガラ・メリエスといった回顧展や前衛映画の上映会など、特別な機会に上映されることがあり、時にメリエス自身がプレゼンを行うこともあった<ref name=S35>{{Harvnb|Solomon|2011|pp=3–5}}</ref>。 |
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1932年にリロイが亡くなった後、 |
1932年にリロイが亡くなった後、彼の映画コレクションは1936年に[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)が購入した。MoMAの映画キュレーターである[[アイリス・バリー]]が主導して『月世界旅行』の購入及び上映を行ったことで、本作はアメリカ人とカナダ人の幅広い観客に再び公開され{{Sfn|Solomon|2011|pp=3–5}}、映画史におけるランドマークとして決定的に確立された{{Sfn|Solomon|2011|p=6}}。最後のパレードのシークエンスを欠いたリロイの不完全なバージョンは、後世における一般的なバージョンとなり、[[シネマテーク・フランセーズ]]のプリントを含むほとんどのプリントがこれを基に複製された{{Sfn|Solomon|2011|pp=3–5}}。1997年にメリエス家が設立した財団法人{{仮リンク|シネマテーク・メリエス|fr|Cinémathèque Méliès}}は、様々な資料を基にパレードのシークエンスを含む完全版を再作成した{{Sfn|Solomon|2011|p=8}}。 |
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この最後の祝賀会のシークエンスを欠いたリロイの不完全なバージョンが、後世における一般的なバージョンとなり、[[シネマテーク・フランセーズ]]のプリントを含め、ほとんどのプリントがこれを基に複製されたものである<ref name=S35/>。 |
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メリエス家が設立した財団法人シネマテーク・メリエスは、様々な資料を基に祝賀会のシークエンスを含む完全版の再構築を試み、これは1997年に完成された<ref>{{Harvnb|Solomon|2011|p=8}}</ref>。 |
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=== 着色版 === |
=== 着色版 === |
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[[File:Melies_color_Voyage_dans_la_lune.jpg|upright=1.36|thumb|復元された |
[[File:Melies_color_Voyage_dans_la_lune.jpg|upright=1.36|thumb|250px|復元された本作の着色版]] |
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本作の着色版のプリントは、1993年に匿名の寄贈者が{{仮リンク|カタルーニャ映画祭|en|Filmoteca de Catalunya}}に200本のサイレント映画コレクションを寄贈した際にその中から再発見されるまで、もはや現存しない([[失われた映画]])と長らく見なされていた{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=12}}。このプリントは、第2世代のネガから打たれた手彩色によるものであり、エリザベス・テュイリエの現像所で着色されたものかどうかは不明だが、使用されている[[パーフォレーション]]から1906年以前に製作されたものと考えられている。また、宇宙船の発射シーンで使用されている国旗が[[スペインの国旗|スペイン国旗]]を模したものになっていることから、おそらくこの着色版はスペインでの公開用に作られたものと推測されている<ref>{{citation|last=Bromberg|first=Serge|title=''Le Voyage dans la Lune'': Une restauration exemplaire|journal=Journal of Film Preservation|volume=87|date=October 2012|page=13|url=http://www.fiafnet.org/pdf/JFP/JFP%2087.pdf|accessdate=12 January 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140207145918/http://www.fiafnet.org/pdf/JFP/JFP%2087.pdf|archivedate=7 February 2014}}</ref>。 |
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1999年、カタルーニャ映画祭のアントン・ヒメネスは、フランスの映画会社{{仮リンク|ロブスター・フィルムズ|fr|Lobster Films}}の{{仮リンク|セルジュ・ブロンベルグ|fr|Serge Bromberg}}とエリック・ランジュに本作の着色版プリントが現存することを伝えた。しかし、それは損傷が激しく、フィルムが完全に溶解してしまっていると想定された。それでもブロンベルグとランジュは再発見されたばかりの{{仮リンク|セグンド・デ・チョーモン|en|Segundo de Chomon}}のフィルムと交換することを申し出て、ヒメネスは提案を受け入れた。ブロンベルグとランジュは、修復のために様々な専門機関に相談をしたが、フィルムのリール部分が溶解して硬い塊になっていたために、どの機関も修復は不可能と返答した。しかし、2人がフィルムのフレームを分離する作業を行ったところ、溶解して固まっているのはフィルムの端部分だけであり、多くの部分がまだ損傷していない状態であることを発見した{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=183}}。2002年から2005年にかけて様々なデジタル化作業が行われ、1万3375枚のプリントの断片を保存することができた{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|pp=183–84}}。2010年にはロブスター・フィルムズ、Groupama Gan Foundation for Cinema、およびTechnicolor Foundation for Cinema Heritageにより、着色版プリントの完全修復作業が開始された{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|p=12}}。デジタル化された着色版プリントの断片を用いたフィルムの再現には、メリエス家が所有するモノクロ版プリントを利用して欠落したフレームの再作成及び復元が試みられ、映写速度もサイレント映画本来の速度である毎秒14フレームで行われた{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|pp=184–86}}。復元作業はロサンゼルスの[[テクニカラー]]の研究所で行われ<ref>{{citation|last=Savage|first=Sophia|title=Cannes 2011: Méliès's Fully Restored A Trip To The Moon in Color To Screen Fest's Opening Night|url=http://www.indiewire.com/2011/05/cannes-2011-meliess-fully-restored-a-trip-to-the-moon-in-color-to-screen-fests-opening-night-185510/|date=2 May 2011|work=[[Indiewire]]|accessdate=23 February 2014}}</ref>、2011年に完了した{{Sfn|Wemaere|Duval|2011|pp=184–86}}。修復費用は100万ドルだった<ref>{{citation|last=Parisi|first=Paula|title=A Trip to the Moon: A Blockbuster Restored|url=http://vfxvoice.com/a-trip-to-the-moon-a-blockbuster-restored/|date=10 October 2017|work=VFX Voice|accessdate=27 March 2018}}</ref>。 |
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1993年に匿名の寄贈者が{{仮リンク|カタルーニャ映画祭|en|Filmoteca de Catalunya}}に200本のサイレント映画コレクションを寄贈した際に、その中から再発見されるまで『月世界旅行』の着色版はもはや現存しないと長らく見なされていた([[失われた映画]])<ref name=Technicolor12>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=12}}</ref>。 |
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このプリントは、第2世代のネガから打たれた手彩色によるものであり、エリザベート・トゥイリエの工房で着色されたものかまでは不明だが、使用されているミシン目から1906年以前に製作されたものと考えられている。宇宙船の発射シーンで使用されている国旗が[[スペインの国旗|スペイン国旗]]を模したものになっていることから、おそらくこの着色版はスペインでの公開用に作られたものと推測されている<ref>{{citation|last=Bromberg|first=Serge|title=''Le Voyage dans la Lune'': Une restauration exemplaire|journal=Journal of Film Preservation|volume=87|date=October 2012|page=13|url=http://www.fiafnet.org/pdf/JFP/JFP%2087.pdf|access-date=12 January 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140207145918/http://www.fiafnet.org/pdf/JFP/JFP%2087.pdf|archive-date=7 February 2014}}</ref>。 |
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この修復版は、再発見から18年後、初公開から109年後の2011年5月11日に、[[第64回カンヌ国際映画祭]]でフランスのバンド・[[エール (バンド)|エール]]による新しいサウンドトラック付きでプレミア上映された<ref name="2011Cannes">{{citation|author=Festival de Cannes|title=A Trip to the Moon – a return journey|date=20 May 2011|url=http://www.festival-cannes.fr/en/theDailyArticle/58490.html|work=The Daily 2011|publisher=[[Cannes Film Festival]]|accessdate=23 February 2014}}</ref>。翌2012年にはアメリカのFlicker Alley社から、[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]と[[DVD-Video|DVD]]の2枚組で発売され、特典としてブロンベルグとランジュによる長編ドキュメンタリー『[[メリエスの素晴らしき映画魔術]]』が収録された<ref>{{citation|author=Flicker Alley|title=Your Questions Answered – A Trip to the Moon in Color|work=Flicker Alley|date=21 January 2012|url=http://www.flickeralley.com/your-questions-answered-a-trip-to-the-moon-in-color/|accessdate=23 February 2014}}</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]紙の映画批評家の[[A・O・スコット]]は、「今年、いや、今世紀の映画界のハイライトであることは間違いない」と評した<ref>{{citation|first1=A. O.|last1=Scott|first2=Manohla|last2=Dargis|title=Old-Fashioned Glories in a Netflix Age|newspaper=The New York Times|date=14 December 2011|page=AR8|url=https://www.nytimes.com/2011/12/18/movies/awardsseason/film-favorites-of-a-o-scott-and-manohla-dargis-in-2011.html|accessdate=2 August 2013}}</ref>。修復版は日本でも、2012年8月に『メリエスの素晴らしき映画魔術』と同時に公開され<ref>{{Cite web |date=2012-7-27 |url=https://eiga.com/news/20120727/16/ |title=「月世界旅行」がカラー復刻! 「メリエスの素晴らしき映画魔術」予告編公開 |website=映画.com |accessdate=2022年1月9日}}</ref>、同年11月に[[紀伊國屋書店]]からBlu-rayが発売された<ref>{{Cite web |date=2012-9-25 |url=https://amass.jp/11157/ |title=『月世界旅行』『メリエスの素晴らしき映画魔術』がBlu-ray化 |website=amass |accessdate=2022年1月9日}}</ref>。 |
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1999年、カタルーニャ映画祭のアントン・ヒメネスはフランスの映画会社ロブスター・フィルムズのセルジュ・ブロムバーグとエリック・ランゲに『月世界旅行』の手彩色版プリントのフィルムが現存することを伝えた。しかし、それは損傷が激しく、フィルムが完全に溶解してしまっていると想定された。それでもブロムバーグとランゲは再発見されたばかりの{{仮リンク|セグンド・デ・チョーモン|en|Segundo de Chomon}}のフィルムと交換することを申し出て、ヒメネスは提案を受け入れた。 |
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ブロムバーグとランゲは、修復のために様々な専門機関に相談を行ったが、フィルムのリール部分が溶解して硬い塊になっていたために、どの機関も修復は不可能と返答した。しかし、2人がフィルムのフレームを分離する作業を行ったところ、溶解して固まっているのはフィルムの端部分だけであり、多くの部分がまだ損傷していない状態であることを発見した<ref name=Technicolor183>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|p=183}}</ref>。 |
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2002年から2005年にかけて様々なデジタル化作業が行われ、13,375枚のプリントの断片が確保された<ref>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|pp=183–84}}</ref>。 |
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その後、2010年に、ロブスター・フィルムズ、Groupama Gan Foundation for Cinema、およびTechnicolor Foundation for Cinema Heritageが、手彩色プリントの完全修復作業を開始した<ref name=Technicolor12/>。 |
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デジタル化された手彩色プリントの断片を用いたフィルムの再現には、メリエス家が所有するモノクロプリントを利用して失われたフレーム部分の復元が試みられ、映写速度もサイレント映画本来の速度である毎秒14フレームで行われた。作業はロサンゼルスの[[テクニカラー]]の研究所で行われ、2011年<ref name=Technicolor184186>{{Harvnb|Wemaere|Duval|2011|pp=184–86}}</ref>に完了した<ref>{{citation|last=Savage|first=Sophia|title=Cannes 2011: Méliès's Fully Restored A Trip To The Moon in Color To Screen Fest's Opening Night|url=http://www.indiewire.com/2011/05/cannes-2011-meliess-fully-restored-a-trip-to-the-moon-in-color-to-screen-fests-opening-night-185510/|date=2 May 2011|work=[[Indiewire]]|access-date=23 February 2014}}</ref>。 |
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修復には100万ドルの費用がかかった<ref>{{citation|last=Parisi|first=Paula|title=A Trip to the Moon: A Blockbuster Restored|url=http://vfxvoice.com/a-trip-to-the-moon-a-blockbuster-restored/|date=10 October 2017|work=VFX Voice|access-date=27 March 2018}}</ref>。 |
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== 影響と後年の評価 == |
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この修復版は、再発見から18年、オリジナルの公開から109年を経た2011年5月11日に、[[第64回カンヌ国際映画祭]]でプレミア上映された。この公開にあたってはフランスのバンド・[[エール (バンド)|エール]]による音楽も伴われた<ref name="2011Cannes">{{citation|author=Festival de Cannes|title=A Trip to the Moon – a return journey|date=20 May 2011|url=http://www.festival-cannes.fr/en/theDailyArticle/58490.html|work=The Daily 2011|publisher=[[Cannes Film Festival]]|access-date=23 February 2014}}</ref>。 |
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[[File:Excursion dans la lune (1908).ogv|thumb|チョーモンの無許可リメイク版『''Excursion to the Moon''』(1908年、上映時間 00:06:46)]] |
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その後、2012年にFlicker Alley社から、Blu-rayとDVDの2枚組で発売され、付録としてブロムバーグとランゲによる長編ドキュメンタリー「The Extraordinary Voyage」も収録されていた<ref>{{citation|author=Flicker Alley|title=Your Questions Answered – A Trip to the Moon in Color|work=Flicker Alley|date=21 January 2012|url=http://www.flickeralley.com/your-questions-answered-a-trip-to-the-moon-in-color/|access-date=23 February 2014}}</ref>。 |
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本作はメリエスの最も有名な作品であり、かつ初期の映画の古典的な例でもあり、特に「月の男」の右目に宇宙船が刺さるシーンはよく知られている{{Sfn|Solomon|2011|p=1}}。『''A Short History of Film(映画小史)''』は、本作を「スペクタクル、センセーション、技術的な才覚が組み合わされ、世界的なセンセーションを引き起こした宇宙ファンタジーである」と紹介した<ref name=Dixon12/>。本作は後世の映画人に多大な影響を与え、映画という媒体に創造性をもたらし、当時の映画では珍しい目標だった純粋なエンターテインメントとしてのファンタジーを提供した。さらにメリエスの革新的な編集技法や特殊効果の技術は、後年の作品で広く使われた<ref name=1001Movies >{{Cite book|和書 |author=スティーヴン・ジェイ・シュナイダー |date=2015-1 |title=改訂新版 死ぬまでに観たい映画1001本 |publisher=ネコ・パブリッシング |isbn=978-4-7770-5308-7 |page=20}}</ref>。また、本作は科学的なテーマがスクリーン上で機能すること、あるいは現実がカメラによって変えられることを示し、映画におけるSFやファンタジーの発展に拍車をかけた<ref name=Dixon12>{{citation|last1=Dixon|first1=Wheeler Winston|last2=Foster|first2=Gwendolyn Audrey|title=A Short History of Film|url=https://books.google.com/books?id=FP9w48VwwVUC&pg=PA12|year=2008|publisher=Rutgers University Press|isbn=978-0-8135-4475-5|page=12}}</ref><ref>{{citation|last=Kawin|first=Bruce F.|title=How Movies Work|url=https://books.google.com/books?id=YfMMvKyQsHMC&pg=PA51|date=January 1992|publisher=University of California Press|isbn=978-0-520-07696-9|page=51}}</ref>。 |
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[[A・O・スコット]]は、[[ニューヨーク・タイムズ]]紙において「今年、いや、今世紀の映画界のハイライトであることは間違いない」と評した<ref>{{citation|first1=A. O.|last1=Scott|first2=Manohla|last2=Dargis|title=Old-Fashioned Glories in a Netflix Age|newspaper=The New York Times|date=14 December 2011|page=AR8|url=https://www.nytimes.com/2011/12/18/movies/awardsseason/film-favorites-of-a-o-scott-and-manohla-dargis-in-2011.html|access-date=2 August 2013}}</ref>。 |
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エドウィン・S・ポーターは1940年のインタビューで、『月世界旅行』や他のメリエス作品を見て、「物語を描いた映画が観客を劇場に呼び戻せるのではないかという結論に達し、その方向でこの仕事を始めた」と語っている{{Sfn|Solomon|2011|p=6}}。同様に、D・W・グリフィスもまたメリエスについて「私はすべて彼から恩恵を受けている」と語っている{{Sfn|Cook|2004|p=18}}。この2人のアメリカ人監督は、現代の映画の物語技法を発展させたことで広く認められているため、エドワード・ワゲンクネヒトはメリエスの映画史における重要性を「ポーターとグリフィスの2人に大きな影響を与え、彼らを通してアメリカの映画製作の全過程に影響を与えた」と評している{{Sfn|Wagenknecht|1962|pp=35–36}}。 |
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== 影響 == |
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[[File:Excursion dans la lune (1908).ogv|thumb|チョーモンの無許可リメイク版『Excursion to the Moon』(上映時間 00:06:46)]] |
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本作はさまざまな作品で何度も参照されてきた{{Sfn|Solomon|2011|p=2}}。1908年には[[パテ (映画会社)|パテ社]]の{{仮リンク|セグンド・デ・チョーモン|en|Segundo de Chomón}}により、本作の無許可のリメイク作品『''[[:en:Excursion to the Moon|Excursion to the Moon]]''』が作られた{{Sfn|Solomon|2011|p=13}}。1956年の映画『[[八十日間世界一周 (映画)|八十日間世界一周]]』のプロローグには、[[エドワード・R・マロー]]の解説とともに本作の映像が引用されている<ref>{{Cite web |url=https://www.tcm.com/watchtcm/titles/67646 |title=Around the World in 80 Days |website=Turner Classic Movies |accessdate=2022年1月9日}}</ref>。1998年の[[HBO]]の[[テレビ番組|テレビシリーズ]]『[[フロム・ジ・アース/人類、月に立つ]]』の最終話では、本作の製作風景を再現したシーンがある<ref>{{Cite web|last=Dirks |first=Tim |url=https://www.filmsite.org/voya.html |title=Voyage Dans La Lune (A Trip to the Moon) (1902) |website=filmsite.org |accessdate=2022年1月9日}}</ref>。2007年に{{仮リンク|ブライアン・セルズニック|en|Brian Selznick}}が発表した小説『[[ユゴーの不思議な発明]]』及び、それを2011年に[[マーティン・スコセッシ]]が映画化した『[[ヒューゴの不思議な発明]]』ではメリエスと本作を含む作品への大規模なオマージュが見られた<ref>{{citation|last=Hoberman|first=J.|title=Hugo and the Magic of Film Trickery|newspaper=The Guardian|date=24 February 2012|url=https://www.theguardian.com/film/2012/feb/24/hugo-martin-scorsese-oscars-georges-melies|accessdate=4 May 2014}}</ref><ref>{{Cite web |last=Brown |first=Royal S. |url=https://www.cineaste.com/fall2012/hugo-and-a-trip-to-the-moon-web-exclusive |title=Hugo and A Trip to the Moon |website=Cineaste Magazine |accessdate=2022年1月9日}}</ref>。ミュージック・ビデオでは、1995年の[[クイーン (バンド)|クイーン]]の楽曲『[[ヘヴン・フォー・エヴリワン]]』が本作の映像を引用し<ref>{{Cite web |url=http://www.ultimatequeen.co.uk/videos/queenpromo.htm |title=Queen Promo Videos: Heaven For Everyone |website=Ultimate Queen |accessdate=2022年1月9日}}</ref>、1996年の[[スマッシング・パンプキンズ]]の楽曲『''[[:en:Tonight, Tonight (The Smashing Pumpkins song)|Tonight, Tonight]]''』の映像が本作に触発されている<ref name=filmschoolrejects>{{Cite web |last=Campbell |first=Christopher |date=2019-9-20 |url=https://filmschoolrejects.com/a-trip-to-the-moon/ |title= The Legacy of ‘A Trip to the Moon’ |website= Film School Rejects |accessdate=2022年1月10日}}</ref>。月の男に宇宙船が刺さるイメージは、1989年の[[ヨリス・イヴェンス]]のドキュメンタリー映画『{{仮リンク|風の物語 (映画)|label=風の物語|fr|Une histoire de vent}}』で再現されたほか{{Sfn|中条|2003|p=37}}、[[視覚効果協会]]のロゴマークのモチーフとなったり<ref>{{Cite web |date=2020-1-15 |url=https://www.visualeffectssociety.com/press-releases/ves-sponsors-restoration-melies/ |title=Visual Effects Society Sponsors International Restoration Project of the Georges Méliès Films |website=Visual Effects Society |accessdate=2022年1月9日}}</ref>、アメリカのアニメシリーズ『[[フューチュラマ (アニメ)|フューチュラマ]]』の第2話「''[[:en:The Series Has Landed|The Series Has Landed]]''」などで真似されたりしている<ref name=filmschoolrejects/>。 |
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『A Short History of Film(映画小史)』において『月世界旅行』は、「スペクタクル、センセーション、技術的な才覚が組み合わされ、世界的なセンセーションを引き起こした宇宙ファンタジーである」と紹介されている<ref name=Dixon12/>。 |
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映画という媒体に創造性をもたらし、純粋な娯楽としてのファンタジーを提供したことは当時の映画界では珍しい目標であり、後世の映画人に多大な影響を与えた。さらにメリエスの革新的な編集や特殊効果といった技術の多くは模倣され、映画メディアの重要な要素となった<ref name=1001Movies>{{citation|last=Schneider|first=Steven Jay|title=1001 Movies You Must See Before You Die 2012|date=1 October 2012|publisher=Octopus Publishing Group|isbn=978-1-84403-733-9|page=20}}</ref>。 |
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また本作は科学的なテーマがスクリーン上で機能すること、あるいは現実がカメラによって変えられることを示し、映画的なSFやファンタジーの発展に拍車をかけた<ref name=Dixon12>{{citation|last1=Dixon|first1=Wheeler Winston|last2=Foster|first2=Gwendolyn Audrey|title=A Short History of Film|url=https://books.google.com/books?id=FP9w48VwwVUC&pg=PA12|year=2008|publisher=Rutgers University Press|isbn=978-0-8135-4475-5|page=12}}</ref><ref>{{citation|last=Kawin|first=Bruce F.|title=How Movies Work|url=https://books.google.com/books?id=YfMMvKyQsHMC&pg=PA51|date=January 1992|publisher=University of California Press|isbn=978-0-520-07696-9|page=51}}</ref>。 |
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エドウィン・S・ポーターは1940年のインタビューにおいて、『月世界旅行』をはじめとするメリエスの映画を見て「物語を描いた映画が観客を劇場に呼び戻せるのではないかという結論に達し、その方向でこの仕事を始めた」と語っている<ref name="Solomon6"/>。 |
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同様に、D・W・グリフィスもまた「私はすべて彼から恩恵を受けている」とメリエスについてシンプルに語っている<ref name=Cook18>{{Harvnb|Cook|2004|p=18}}</ref>。 |
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ポーターとグリフィスという2人のアメリカ人監督は、近代映画の物語技術を発展させたことで広く知られているがゆえに、文学者であり映画学者でもあるエドワード・ワゲンクネヒトは、メリエスの映画史における重要性を「ポーターとグリフィスの2人に大きな影響を与え、彼らを通してアメリカの映画製作の全過程に影響を与えた」と評している<ref name=Wagenknecht35/>。 |
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映画研究者のアンドリュー・J・ラウシュは、本作を「映画史において最も重要な32の瞬間」の1つに挙げ、「映画の製作方法を変えた」と評している<ref>{{citation|last=Rausch|first=Andrew J.|title=Turning Points In Film History|url=https://books.google.com/books?id=xBYfGYo-8TgC|year=2004|publisher=Citadel Press|isbn=978-0-8065-2592-1}}</ref>。『{{仮リンク|死ぬまでに観たい映画1001本|en|1001 Movies You Must See Before You Die}}』の年代順のリストでは、本作がいちばん最初の作品として選ばれており、その本における映画研究者キアラ・フェラーリの作品コメントでは、本作について「メリエスの劇的人格が色濃く反映されている」と指摘し、「世界の映画史におけるマイルストーン的作品のひとつとして、この映画はしかるべき地位が与えられるべきだろう」と論じている<ref name=1001Movies/>。2000年に[[ヴィレッジ・ヴォイス]]紙が映画批評家の投票により選出した「20世紀の最高の映画100本」のランキングでは、本作が84位にランクされた<ref>{{cite website|author=Village Voice Critics' Poll|title=100 Best Films|work=[[filmsite.org]]|publisher=[[American Movie Classics|AMC]]|year=2001|url=http://www.filmsite.org/villvoice.html|accessdate=2 August 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160613044825/http://www.filmsite.org/villvoice.html|archivedate=13 June 2016}}</ref>。映画レビューサイトの[[Rotten Tomatoes]]では、14件の批評のうち支持率は100%で、平均評価は8.90/10となっている<ref>{{Cite web |url=https://www.rottentomatoes.com/m/le_voyage_dans_la_lune |title=A Trip to the Moon |website=[[Rotten Tomatoes]] |accessdate=2022年1月10日}}</ref>。 |
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本作はメリエスの作品の中でも最も有名なもの、かつ、古典映画の代表作でもあり、特に「月の男」の右目に宇宙船が刺さっている場面はよく知られている<ref name=Solomon1>{{Harvnb|Solomon|2011|p=1}}</ref>。 |
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この映画は、{{仮リンク|セグンド・デ・チョーモン|en|Segundo de Chomón}}が1908年に発表した無許可のリメイク作品『Excursion to the Moon』から<ref>{{Harvnb|Solomon|2011|p=13}}</ref>、{{仮リンク|ブライアン・セルズニック|en|Brian Selznick}}が2007年に発表した小説『[[ユゴーの不思議な発明]]』及び、それを[[マーティン・スコセッシ]]が映画化した2011年の『[[ヒューゴの不思議な発明]]』におけるメリエスと映画への大規模なオマージュに至るまで<ref>{{citation|last=Hoberman|first=J.|title=Hugo and the Magic of Film Trickery|newspaper=The Guardian|date=24 February 2012|url=https://www.theguardian.com/film/2012/feb/24/hugo-martin-scorsese-oscars-georges-melies|access-date=4 May 2014}}</ref>、他の作品においても幾度となく参照されてきた<ref name=Solomon2/>。 |
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映画学者のアンドリュー・J・ラウシュは、本作を「映画史において最も重要な32の瞬間」の1つに挙げ、「映画の製作方法を変えた」と指摘している<ref>{{citation|last=Rausch|first=Andrew J.|title=Turning Points In Film History|url=https://books.google.com/books?id=xBYfGYo-8TgC|year=2004|publisher=Citadel Press|isbn=978-0-8065-2592-1}}</ref>。 |
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キアラ・フェラーリのエッセイ『1001 Movies You Must See Before You Die(死ぬまでに見ておくべき映画)』では、本作が第1位に選ばれており、本作を「監督の演劇的な(histrionic)個性を直接反映したもの」とし、「世界の映画史におけるマイルストーンの中で正当な地位を占めるに値する」と論じている<ref name=1001Movies/>。 |
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== 脚注 == |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 |author=小松弘 |date=1991-7 |title=起源の映画 |publisher=[[青土社]] |isbn=978-4791751365 |ref={{Harvid|小松|1991}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=ジョルジュ・サドゥール |translator=村山匡一郎、出口丈人、小松弘 |date=1994-2 |title=世界映画全史3 映画の先駆者たち メリエスの時代1897-1902 |publisher=[[国書刊行会]] |isbn=978-4336034434 |ref={{Harvid|サドゥール|1994}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=[[中条省平]] |date=2003-1 |title=フランス映画史の誘惑 |publisher=[[集英社]] |series=集英社文庫 |isbn=978-4087201796 |ref={{Harvid|中条|2003}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=チャールズ・マッサー |editor=岩本憲児編・監訳 |date=2015-4 |title=エジソンと映画の時代 |translator=藤田純一 |publisher=森話社 |isbn=978-4864050777 |ref={{Harvid|マッサー|2015}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=マドレーヌ・マルテット=メリエス |date=1994-4 |title=魔術師メリエス 映画の世紀を開いたわが祖父の生涯 |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845994281 |ref={{Harvid|メリエス|1994}}}} |
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* {{citation|last=Abel|first=Richard|chapter=''A Trip to the Moon'' as an American Phenomenon|pages=129–42|editor-last=Solomon|editor-first=Matthew|title=Fantastic Voyages of the Cinematic Imagination: Georges Méliès's Trip to the Moon|year=2011|location=Albany|publisher=State University of New York Press|isbn=978-1-4384-3581-7}} |
* {{citation|last=Abel|first=Richard|chapter=''A Trip to the Moon'' as an American Phenomenon|pages=129–42|editor-last=Solomon|editor-first=Matthew|title=Fantastic Voyages of the Cinematic Imagination: Georges Méliès's Trip to the Moon|year=2011|location=Albany|publisher=State University of New York Press|isbn=978-1-4384-3581-7}} |
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* {{citation|last=Cook|first=David A.|title=A History of Narrative Film|year=2004|publisher=W. W. Norton & Company|location=New York|isbn=0-393-97868-0}} |
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2022年2月8日 (火) 05:41時点における版
月世界旅行 | |
---|---|
Le Voyage dans la Lune | |
タイトルカード | |
監督 | ジョルジュ・メリエス |
脚本 | ジョルジュ・メリエス |
原作 |
ジュール・ヴェルヌ 『月世界旅行』『月世界へ行く』(その他、#着想を参照) |
製作 | ジョルジュ・メリエス |
出演者 |
|
撮影 |
|
製作会社 | スター・フィルム |
公開 | 1902年9月1日[1] |
上映時間 | |
製作国 | フランス |
言語 | サイレント |
製作費 | 10,000フラン |
『月世界旅行』(げっせかいりょこう、原題:Le Voyage dans la Lune)[注釈 1]は、1902年に公開されたジョルジュ・メリエス監督・脚本・主演によるフランスのサイレント映画である。天文学者たちが大砲で撃ち出されるカプセル型宇宙船で月に向かい、月面探索中に出会った月の住人セレナイトから逃れ、地球に帰還するという物語で、ジュール・ヴェルヌの小説『月世界旅行』(1865年)とその続編『月世界へ行く』(1870年)など、様々な作品から着想を得ている。メリエス自身が主人公で仲間を率いるバルベンフィリ教授を演じ、その他にフランスの演劇俳優たちが出演している。本作はメリエスを有名にした演劇的な映像スタイルが特徴である。
映画研究者たちはパタフィジックかつ反帝国主義的な風刺を多用していること、後の映画作家たちに幅広い影響を与えたこと、伝統的なフランス演劇の夢幻劇(フェリー)的要素の芸術的意義などについて言及している。公開当時は世界的な人気を博し、特にアメリカでは多くの海賊版が複製されたほどだった。メリエスが映画界から去った後は長らく無名のものとなっていたが、映画史におけるメリエスの功績が再評価され始めた1930年頃に再び日の目を見るようになった。また、通常のモノクロ版とは別に存在した手彩色のカラー版プリントは長らく失われた映画と考えられていたが、1993年に損傷の激しい状態で発見され、2011年に完全に復元された。
当時の映画では異例の長さ、豪華な製作費、革新的な特殊効果、ストーリーテリングの重要性は他の映画製作者たちに大きな影響を与え、物語映画全体の発展に大きく貢献した。この作品はメリエスの代表作であり、男の表情が描かれた月面と、その目に宇宙船が着陸する瞬間は、映画史上で最も象徴的でよく参照されるショットの一つである。本作はSF映画というジャンルの最初の例として、またより普遍的には映画史上最も影響力のある映画の一つとして広く認知されている。
プロット
下記に挙げられる固有名詞は、公式の英語版カタログより引用されたものである[6]。
天文学会の会議において会長のバルベンフィリ教授は[注釈 2]、月への探検旅行を提案する。いくつか反対意見が出た後、5人の勇敢な天文学者が計画に賛同する。そして弾丸の形をした宇宙カプセル(宇宙船)と、それを発射するための巨大な大砲が作られる。こうして6人の天文学者たちがカプセルに乗り込むと、大勢の水兵服を来た若い女性たちが発射準備を行い、月に向けて発射される。そして狙い通りカプセルは月に到着する(このシーンは男の顔が描写された月面(月の男、The Man in the Moon)の、その右目に銃弾型のカプセルが撃ち込まれるという形で描写される[注釈 3])。
無事にカプセルが月面に着陸すると天文学者たちは宇宙服などは装着せず、そのまま月面に降り立つ。遠くから地平線上に昇る地球を眺めた後、彼らは毛布を広げて眠る。この間に様々な天文事象がユーモラスに描写され、最後に月の女神フィービー(ポイべ)が三日月のブランコに座って現れる。フィービーが雪を降らせたことで天文学者たちは目を覚まし、洞窟の中へと避難する。そこで巨大なキノコを発見し、1人が傘を開くと巨大キノコに変わってしまい、一同は驚く。
ここで月の住民である地球外生命体(正式にはセレナイト(Selenite)と呼び、ギリシャ神話の月の女神セレーネにちなむ名前)が現れて襲ってくるが、強い力が加わると簡単に爆発してしまうため、天文学者たちは容易くこれを殺す。しかし、続けて多くの住民が現れたために抵抗できず、そのまま彼らの王宮に連れて行かれる。そこで玉座に座る月の王の前に引き立てられるが、天文学者の1人が王を玉座から引き離すと地面に叩きつけ殺してしまう。
王の死による混乱の隙を突いて天文学者たちは逃げ出し、追いかけてくる住民らに抵抗しながら崖上近くにあったカプセルに到着する。5人がカプセル内に入ると残る1人はカプセルに繋がったロープを引っ張り、これを崖から落とす。この時、月の住民の1人がカプセルにしがみつく。そのまま宇宙船は落下し続けて宇宙空間を通過し、地球の海へと落ちる。その後、天文学者たちはカプセルごと船舶に回収され、帰還を果たす。
最終シーンでは"Labor omnia vincit"の標語[注釈 4]が刻まれた記念像が除幕され、街をあげて天文学者たちの偉業を祝福するパレードが開かれる。そこではカプセルにしがみついて地球にやってきた月の住民が見世物にされている。
キャスト
本作の製作当時において、出演者は匿名であり、クレジットはされなかった。映画にオープニングクレジットまたはエンドクレジットを設ける慣行は、その後の革新的な方法だった[11]。以下の詳細なキャスト情報は入手可能な資料から再構築されたものである。
- バルベンフィリ教授 - ジョルジュ・メリエス[1][12]。
- メリエスはマジシャンかつフランスの映画製作の先駆者であり、一般には物語映画の可能性を最初に見出した人物とされているが[13]、本作時点においてすでに『シンデレラ』(1899年)や『ジャンヌ・ダルク』(1900年)などの物語映画で成功を収めていた[14]。監督、プロデューサー、脚本、デザイナー、技術、広報、編集、さらにしばしば俳優としてすべての作品に幅広く関わったことから、最初の映画作家の一人とも評される[15]。
- ポイベ(三日月に乗った女性) - ブルエット・ベルノン
- メリエスは1890年代にキャバレー「ランフェール」で歌手として活躍していたベルノンを見出し、自身の映画に出演させた。1899年の『シンデレラ』にも出演している[16]。
- 海兵隊の将校 - フランソワ・ラルマン(François Lallement)
- ラルマンは、スター・フィルムの従業員であるカメラ技師の一人である[16]。
- ロケット発射の大尉 - アンリ・ドラノワ(Henri Delannoy)[16]
- パレードの隊長 - ジュール=ウジェーヌ・ルグリ(Jules-Eugène Legris)
- ルグリは、メリエスが経営していたロベール=ウーダン劇場のマジシャンである[17]。
- 天文学者たち - ヴィクトル・アンドレ(Victor André)、デルピエール(Delpierre)、ファルジョー(Farjaux)、ケルム(Kelm)、ブルネ(Brunnet)
- 演じた者たちのうち、アンドレはクリュニー劇場で働いていた人物で、それ以外の4人はフランスのミュージックホールの歌手である[18][19]。
そのほか、シャトレ座のバレエ団員たちが星[18][19]や大砲の係員[8]として、またフォリー・ベルジェールの曲芸師がセレナイト役として出演している[18][19]。
製作
着想
本作のインスピレーションについて、1930年にメリエスはジュール・ヴェルヌの小説『月世界旅行』(1865年)と『月世界へ行く』(1870年)を挙げている。20世紀半ばのフランス人作家ジョルジュ・サドゥールを始めとする映画史家たちからは、映画製作の数か月前にフランス語訳が出版されたH・G・ウェルズの『月世界最初の人間』(1901年)に影響を受けた可能性がよく指摘されている[20]。サドゥールは、映画の前半(大砲や砲弾型の宇宙船など)はヴェルヌから、後半の月でのエピソードの大半(月面やセレナイトとの戦い、帰還など)はウェルズから採っていると指摘している[21]。
これら文学的なものに加えて、様々な映画研究者は、他の作品、特にジャック・オッフェンバックのオペレッタ『月世界旅行』(ヴェルヌの小説の無許可のパロディ)や、1901年にニューヨークのバッファローで開催されたパン・アメリカン博覧会のアトラクション『A Trip to the Moon』などの影響を挙げている[22][23]。フランスの映画史家のティエリー・ルフェーブルは、メリエスはこの2つの作品を参考にしたが、取り入れた部分は異なっていたと指摘している。「月への旅行、月面着陸、異形の地球外生命体との出会い、地下洞窟探検、月の者たちとの対面」といった映画の構造は1901年のアトラクションから直接取り入れられているが、多くのプロットの要素(疑似科学的な名前を持つ6人の天文学者、スツールに変形する望遠鏡、地上に設置された月面への砲台、月が観客に近づいてくるように見せるシーン、月面の吹雪、地球が地平線から昇るシーン、傘を持つ旅行者など)も参照されており、パロディ的な映画のトーンは言うまでもなくオッフェンバックのオペレッタからである[23]。
メリエスの孫娘のマドレーヌ・マルテット=メリエスによると、メリエスが本作を作るきっかけとなったのは、メリエスの兄ガストン・メリエスの息子ポールとの会話だったという。ポールはしばしば伯父であるメリエスのところへ昼食を食べに来ていたが、彼はジューヌ・ヴェルヌの大ファンで、1902年3月初め頃のある日、メリエスに月の上で起こっていることを見せて欲しいと頼んだ。メリエスは「そんなものは簡単さ」と答え、それが発端となって本作を作ることになったという。なお、メリエスはすでに、舞台ではロベール=ウーダン劇場で上演した『ノストラダムスの災難』(1891年)、映画では『天文学者の夢』(1898年、別題は『月まで一メートル』)で月をテーマにした作品を製作していた[24]。
撮影
サイエンス・ライターのロン・ミラーが指摘するように、本作はメリエスの映画の中で最も複雑な作品の1つであり、「彼が学んだり、開発したあらゆるトリック」が駆使されていた[25]。上映時間も当時の彼の中では最長のものであり[注釈 5]、予算も撮影期間も異例といえるほど潤沢に与えられ、製作費は1万フラン[29]、完成までに3か月を要した[30]。撮影はスター・フィルムの社員で、メリエスと毎日のように仕事を共にしていたテオフィル・ミショーとルシアン・タングイが担当した。この2人はカメラマンとしての仕事以外にも、フィルムの現像や風景のセッティングを手伝い、さらに会社のための雑用もこなした。会社のオペレーターであるフランソワ・ラルマンは、俳優として本作に出演もしている[31]。その他の俳優には、多くのコネを使って、パリ演劇界の実力者を起用した。俳優たちの給料は1日金貨1枚(ルイ・ドール)と、競合他社よりもかなり高く、正午には無料の食事も提供された[32]。
本作を撮影した映画スタジオは、メリエスが1897年にセーヌ=サン=ドニのモントルイユに建設したものである[33]。ここは太陽光をできるだけ多く取り入れるためにガラス張りの壁と天井でできた温室のような建物であったが、それは1860年代以降の写真スタジオのほとんどで採用されていたものであり、またメリエスが運営するロベール=ウーダン劇場と同じ寸法(13.5×6.6m)だった[34]。メリエスは映画のキャリアを通じて、朝に映画の構想を練り、日中の明るい時間帯に撮影を行い、午後遅くに撮影所とロベール=ウーダン劇場の雑務をこなし、夜にはパリの劇場で公演するという厳しいスケジュールを毎日送っていた[32]。
メリエスの回想によれば、本作の異常な製作費の多くは、機械的に動く風景と、厚紙と帆布を用いて作られたセレナイトの衣装によるものだった。これらの石膏型を作成するために、メリエス自身がテラコッタで頭、足、膝当ての試作品を作った[35]。メリエスは仮面を作る職人にセレナイトの衣装の制作を任せたと述べているが[36]、映画研究者のプリスカ・モリッシーによると、おそらくパリの大手マスク及び箱製造会社だったメゾン・アレ(Maison Hallé)のマスク製作専門のスタッフが、この型を使って役者が着用する厚紙を製作したという[37]。映画作りに関する他の詳細な話はほとんどないが、サドゥールはメリエスが画家のクローデルと風景を、ジュアンヌ・ダルシーと衣装を共同で制作した可能性が高いと指摘している[8]。宇宙船を製造するシーンに出てくるガラス屋根の作業場の背景は、モントルイユのメリエスのスタジオを模して描かれたものである[38]。
本作における特殊効果(トリック撮影)の多くは、他のメリエス作品と同様にストップ・トリック(置換トリック)を使用して行われた。ストップ・トリックは、撮影を途中で停止させている間に、画面上の対象を変更したり、追加したり、あるいは取り除いたりする手法である[39]。メリエスは得られたショットを注意深く繋ぎ合わせ、例えば天文学者の望遠鏡がスツールに変わったり[40]、爆発するセレナイトが煙の中に消えるといった、一見すると魔法のようにも見える効果を生み出した[41]。他の特殊効果としては、舞台機械や花火(パイロテクニクス)などの演劇で用いられた手法や、過渡的なディゾルブの技術が使われている[42]。
カメラが「月の男」に近づいていくように見えるショットは、メリエスが前年に『ゴム頭の男』で考案した効果を利用して撮影された疑似的なトラッキングショットである[43]。これは重いカメラを俳優の方に移動させるのではなく、カメラの前から遠くの方へと敷いたレール付きのスロープの上に滑車付きの椅子を置き、そこに首まで黒いベルベットで覆われた俳優が座り、カメラの方に向かって椅子を引っ張るという手法であった(すなわち、カメラが俳優に近づくのではなく、カメラに俳優が近づく形で撮影された)[44][45]。この手法は技術的な実用性に加えて、メリエスがカメラを動かすよりもはるかに細かくフレーム内の顔の配置をコントロールすることを可能にした[44]。また、このショットはストップ・トリックを用いて、月を演じる俳優の右眼に突然、宇宙船が突き刺さるという形で完成する[40]。空から落下してくる宇宙船が、ロケ地で撮影された本物の海の水面に突入するシーンでは、多重露光を用いて、海の映像に黒い背景の前で宇宙船が落下するショットを重ねている。このショットの後、宇宙船が水面に浮いてくる様子が水中で映し出されるが、これは水槽内で撮影され、厚紙で作られた動く宇宙船の切り抜きを、オタマジャクシとエアージェットを組み合わせて制作されたものであった[10]。月面から宇宙船が落下する様子は、4ショット、約20秒で撮影されている[46]。
着色
メリエスが生産した少なくとも4%のフィルム(1903年公開の『妖精たちの王国』や、1904年公開の『不可能を通る旅』『セビリアの理髪師』のような大作を含む)と同様に、本作のいくつかのプリントは、パリにあるエリザベス・テュイリエの着色現像所で個別に手作業で着色がなされた(映画の着色化)[47]。ガラスやセルロイド製品の着色技師という経歴を持つテュイリエは、200人の女工がいる現像所を指揮し、自分で色を選んで決め、それをフィルムにブラシで1コマずつ直接塗るよう指示した。女工たち一人一人にひとつの色が割り当てられ、フィルム1本に20色以上使われたこともあったという[48][49]。着色の材料には水とアルコールで薄めたアニリン染料を使用し、それにより透明で鮮やかな色調を出した[48]。テュイリエの現像所では、平均して約60枚の手彩色のプリントを作成した[49]。
音楽
メリエスの作品はサイレント映画ではあったが、これは静かに上映されるものではなかった。上映に際してはしばしば効果音や生演奏を伴い、スクリーン上で展開されるストーリーをボニマンテュール(bonimenteur、ナレーター)が解説した[50]。メリエス自身も映画音楽にかなり関心があり、『妖精たちの王国』[51]や『セビリアの理髪師』[52]など、いくつかの作品では特別な映画音楽を用意していた。しかし、メリエスが映画に特定の音楽を要求したことはなく、上映者が自由に伴奏を選ぶことができた[53]。1902年に本作がパリの音楽ホール「オランピア」で上映された際には、オリジナルの映画音楽が作曲されたという[54]。
1903年にイギリスの作曲家エズラ・リードがピアノ曲『A Trip to the Moon: Comic Descriptive Fantasia』を発表した。この楽曲は作品のシーンごとにスコアが作られており、本作の映画音楽として使用された可能性がある[55]。また、この曲はメリエスがイギリス旅行をした際に、自身がリードに作曲を委託したものである可能性もある[53]。後年に本作の音楽を作曲した人物には、エールのニコラ・ゴダンとジャン=ブノワ・ダンケル(2011年の修復版、後述)[56]、フレデリック・ホッジス[56]、ロバート・イスラエル[56]、エリック・ル・グエン[57]、ローレンス・レエリシー(メリエスの曾孫)[58]、ジェフ・ミルズ[56]、ドナルド・ソシン[59]、ヴィクター・ヤング(1956年の映画『八十日間世界一周』のプロローグとして収録された簡略版)[60]などがいる。
スタイル
本作のスタイルは、メリエスの他の多くの作品と同様に意図的に演劇的なものである。ステージセットは19世紀の伝統的な舞台を思わせるような高度に様式化されたものであり、カメラは劇場の観客席からの視点かのように配置・固定して撮影している[61][62]。この定点的な撮影は、メリエス作品のスタイルのトレードマークの一つとして知られ、サドゥールはその映像を「1階最上等席の紳士」の視点と呼んだ[62][63]。メリエスは屋外で実景を撮影する時はカメラを動かすことがあったが[注釈 6]、スタジオで撮影された物語映画では演劇的な視点の方が適していると考えていた[63][64]。
メリエスは当初、映画史初期の主流だったアクチュアリティ映画[注釈 7]を撮影していたが、映画キャリアの開始から数年間でフィクションの物語映画という当時はまだ一般的ではなかったジャンルに徐々に移行していった。メリエス自身はこうした作品を「構成された主題(scènes composées)」と呼んでいた[11][66]。この新しいジャンルにはメリエスの演劇やマジシャンとしての経験が大きな影響を与えており、特にフランスで人気があった演劇で、ファンタジーのプロットや豪華な風景、機械的な舞台仕掛けなどのスペクタクルなビジュアルで知られた夢幻劇(フェリー)の伝統の要素は大きい[67]。広告においてメリエスは、自分の革新的な映画と、同時代のアクチュアリティ映画との違いを強調し、「この幻想的で芸術的な映画は舞台のシーンを再現したものであり、実在の人間や街並みを撮影した普通の映画とは異なる、まったく新しいジャンルを創造したものである」と誇らしげに語っている[68]。
本作はエドウィン・S・ポーターやD・W・グリフィスらによる物語映画の文法的技法の発展に先行していたがゆえに、後にアメリカやヨーロッパで慣れ親しまれる、多様なカメラアングルやインター・カット、ショットの並置、その他の様々な撮影手法などは用いられていない[69]。むしろメリエスの作品の各ショットは、独立したドラマチックなワンシーンとして構成されており、それも演劇のスタイルを踏襲したものだった[70]。そのため各ショットの映像は単一の光景またはデコール(舞台装置)の中で展開され、光景やデコールが変化するとともにそのショットは次のショットへと移行した[71][72]。基本的にショットの変わり目にはディゾルブが用いられている[71]。また、各ショット(=ワンシーン)は目に見える編集によって中断されることはないが[70]、実際にはストップ・トリックの効果だけでなく、製作中に長いシーンを小さなテイクに分割する目的で、いくつかの接合や切断による編集が行われており、その編集に従うと本作には50以上のショットが含まれていることになる。しかし、このような編集はすべて観客に気付かれないよう意図的に行われており、カメラアングルは同じまま慎重にテイクを繋いでいるため、実際にはショットが分割されていてもシームレスなワンショットとして、アクションがスムーズに継続されているように見せることができた[73]。
同様の観点として映画研究者たちは、一つの出来事を異なる形で二度見せることで時間的連続性を感じさせる技法が本作に見られると指摘している。宇宙船が月面着陸するシーンでは、まず擬人化された月に突然、宇宙船が現れる(目に突き刺さる)という形で月面への着陸が示され、次のショットでは先ほどとはまったく様子が異なる、より現実的な宇宙船が月面に着陸するところが描かれる[74][75]。このように1つのアクションを反復させ、時間と空間を直線的あるいは因果的に描写しない非線形的なストーリーテリングは、後のグリフィスが確立する映画文法の基準からすると非常に型破りなものだった。ただし、これは本作やメリエス独特のものではなく、コンティニュイティ編集[注釈 8]が確立する以前の初期の映画においては、同様の技法を試みた作品は他にも存在し、例えばポーターの『アメリカ消防士の生活』(1903年)では消防士が救出するところを反復して描き、時間の流れの不連続性を感じさせている[74][78][79]。この時間的な反復の演出は、20世紀後半のテレビのスポーツ番組におけるビデオ判定をきっかけに、再び身近な編集となった[74]。
メリエスは現代映画の文法的技法を用いたわけではなかったため、従来の映画史研究では本作と他のメリエス作品を含む初期の映画を、後に主流となる物語映画の未成熟なもの、あるいは発展途上のものとして扱っていた。しかし、1970年代以降の研究者はその映画史観を見直し、初期の映画が現代の常識とは全く異なる発想や文法をもつ別種のものであるとする見解を示した[75][80][81]。例えば、トム・ガニングは、メリエスがより映画的なストーリーテリングのスタイルを確立しなかったことを非難するのは、彼の映画の目的を誤解することに繋がると主張している[82]。ガニングの見解では、映画史の最初の10年間の作品は、現代映画のような複雑な編集とストーリーテリングの魅力により、観客が物語の世界に没入するタイプの映画ではなく、観客にショックや驚きなどの刺激を与えるスペクタクルなイメージを提示することで、観客の注意をじかに引き付けるタイプの「アトラクションの映画(cinema of attractions)」であると指摘している[80][81][82]。社会学者の長谷正人は、本作がアトラクションの映画の代表例であるとし、個々のショットには観客を惹きつけるような視覚的要素が見られるが、物語全体は観客がその世界に感情移入して楽しむようにはできていないと指摘している[83]。このアトラクションの映画のスタイルは、物語映画への移行により人気が低下したが、SF映画やミュージカル、実験映画など、特定の映画ジャンルでは依然として重要な要素となっている[82]。
テーマ
科学的な野心や発見をテーマにした先駆的な作品である本作は、しばしば最初のSF映画と呼ばれている[85][86][注釈 9]。『A Short History of Film』は「今日におけるSF映画で用いられる基本的な文脈の多く」を成文化したと論じている[88]。ただし、SFによらない他のジャンルへの呼称も考えられている。メリエス自身は本作を「大スペクタクル映画(pièce à grand spectacle)」と宣伝していたが[12]、これは19世紀後半にジュール・ヴェルヌとアドルフ・デネリーによって広められたパリのスペクタクルな舞台劇(エクストラバガンザ)の一種を指す言葉であった[89]。映画史家のリチャード・アベルは、本作を「夢幻劇(フェリー)」のジャンルに属すると説明し[54]、フランク・ケスラーも同様に評した[90]。それは単にトリック映画と呼ぶこともできる。トリック映画は映画史初期の人気ジャンルの総称で、革新的で特殊効果を駆使した短編映画のことを指すが、それはメリエス自身が彼の初期の作品で体系化して広めた[91]。
本作は19世紀の科学を冒険小説のように誇張してからかうといった風刺色が強い[92]。いかにも実際の科学に基づくような振りは一切せず、唯一の現実的描写は着水時の水しぶきだけである[8]。映画研究者のアリソン・マクマハンは、本作をパタフィジカル映画の最初期の一例として挙げ、風刺的に描かれた無能な科学者、擬人化された顔が描かれた月面、物理法則を無視した描写など、「論理的思考の非論理性を示すことを目的としている」と述べている[93]。アベルは、メリエスの狙いが「現代フランス社会の階層的価値観を逆転させ、カーニバル風の騒動の中でそれらを嘲笑することにある」と考察している[93]。同様に、文学者で映画研究者のエドワード・ワゲンクネヒトは、本作を「学者や学術協会の気取った態度を風刺するのと同時に、未踏の宇宙に直面した人間の不思議な感覚に訴える」作品だと述べている[94]。
また、本作の風刺には強い反帝国主義の側面もある[4][84]。映画研究者のマシュー・ソロモンは、最後のシーン(一部のプリントでは欠落しているパレードと記念式典のシークエンス)において、この点が強く描かれていると指摘している。ソロモンは、反ブーランジェ主義の風刺漫画家として活動していたメリエスが本作の中で、出会った異星生命体を容赦なく攻撃し、自画自賛のファンファーレの中で連れ帰ってきた捕虜を虐待している、馬鹿な衒学者(pedant)として植民地の征服者を描くことで、帝国主義的支配を嘲笑っていると指摘している。映画のラストショットで映し出されるバルベンフィリの像は、メリエスの風刺漫画に登場する、尊大で弱い者いじめを行う植民地主義者にさえ似ている[84]。映画研究者のエリザベス・エズラは、「メリエスが、ある文化を別の文化が征服したという植民地主義者の自負を嘲笑っている」と同意し、「月世界における階層社会が地球上のそれと奇妙に似ていることが示されているように、彼の映画では家庭の社会的分化もテーマにしている」とも指摘している[4]。
公開と反応
1902年5月に本作の製作に着手したメリエスは、同年8月に作品を完成させ、同月にフランスの興行師たちにプリントの販売を開始した[35]。プリントはメリエスが経営するスター・フィルムからモノクロ版と着色版の両方で販売され[17]、それらには399-411番というカタログ番号[2][注釈 10]と、30のタブローからなる「大スペクタクル映画(Pièce à grand spectacle)」という説明的な副題が付けられていた[12][注釈 11]。フランスではモノクロ版が560フラン、着色版が1000フランで販売された[29]。メリエスの回想によると、自分の劇場で興行師向けに上映会を開いたところ、売値が高過ぎるため失敗したという。そこでメリエスはある興行師にプリントを無料で貸し出して上映することを提案し、トローヌの定期市で上映される運びとなった。その初上映は客こそ少なかったものの拍手喝采を受け、その客たちが他の人たちに宣伝するうちに、しまいには真夜中まで場内が満員になるほど客が殺到した。それを受けて興行師たちはすぐにプリントを購入し、メリエスのもとには到る所から注文が殺到した[18][97]。
1902年9月から12月にかけて、本作の着色版はメリエスが経営するパリのロベール=ウーダン劇場の土曜日と木曜日のマチネー公演の後に、メリエスの同僚で、最後の2つのシーンでパレードの隊長として出演したマジシャンのジュール=ウジェーヌ・ルグリによって上映された[17]。さらに本作は巡回興行師たちにより、フランス中の定期市で上映され、高い成功を収めた[18][98]。同年にパリの音楽ホール「オランピア」でも上映されると、数か月間途切れることなく上映されるほどの成功を収めた[54]。また、スター・フィルムのイギリスの代理人であるチャールズ・アーバンのウォーリク・トレイディング社を通じて、イギリスでも本作のプリントが販売され、イギリスの大部分のミュージック・ホールのプログラムに記載されるほどの成功を収めた[17][98][99]。
当時では珍しい予算、上映時間、製作期間であったことや、1901年当時のニューヨークのアトラクションとの類似性など、本作を取り巻く多くの状況は、メリエスが本作をアメリカで公開することを特に望んでいたことを示している[30][注釈 12]。本作はアメリカでも特に大きな熱狂をもって迎え入れられ、ニューヨーク、ワシントンD.C.、クリーブランド、デトロイト、ニューオーリンズ、カンザスシティで高い成功を収めたことが報告されている。しかし、アメリカで広く流通したのは本作の海賊版だったため、メリエスはこの人気作品の利益のほとんどを受け取ることができなかった[101]。一説によれば、メリエスはアルジェの劇場でのみ上映するという条件付きで、本作のプリントをパリの写真家シャルル・ゲルシェルに売ったが、ゲルシェルはそれを他のメリエス作品とともにエジソン社社員のアルフレッド・C・アバディに売却したという。アバディはそれをエジソン社の現像所に送り、ここで複製されたフィルムはヴァイタグラフ社が販売した。海賊版は他の会社にも広まり、1904年までにはシグムンド・ルービン、シーリグ・ポリスコープ社、そしてエジソン社がそれらを販売していた[17][102]。エジソン社に至っては、メリエス自身が行ったように、より高価な着色版の販売さえ行っていた[47]。メリエスの名前がクレジットされることは稀で、配給されてから6か月の間に、アメリカの興行主でメリエスの名前を広告に載せたのはトーマス・リンカーン・タリーだけだった[103]。彼は自身のエレクトリック・シアターのこけら落としにあたり、本作を初上映作品に選んだ[29]。
本作の公開中に明らかとなった映画の海賊版問題に対処するため、1903年にメリエスは兄のガストンが管理するスター・フィルムのアメリカ支店をニューヨークに開設した[104][105]。この事務所はメリエスの作品を直接販売すると共に、アメリカでの著作権登録を行い作品を保護することを目的としていた[104]。同社の英語版カタログの序文には、「ニューヨークに工場と事務所を開設するにあたって、我々はすべての偽造者と海賊版を追及するための準備と決意を持っている。我々に二言はなく、行動で示す!」と記されている[106]。
本作は上記の国だけでなく、ドイツ、カナダ、イタリアなどの国々でも公開されて成功を収め、1904年までヘッドライン・アトラクションとして取り上げられた[107]。日本でも、1905年8月9日に明治座で公開され[108]、1908年4月15日には『月世界探検』の邦題で錦輝館でも上映された[109]。本作は20世紀初頭の数年間で最も人気のある作品の一つとなり、匹敵する作品もごくわずかだった(その作品も『妖精たちの王国』や『不可能を通る旅』など、同じように壮大なメリエスの作品である)[110]。晩年にメリエスは、本作について「私の最高傑作ではなかった」と言いつつも、自身の傑作と広く認められていること、そして「この種のものとしては初めての作品だったため、忘れがたい痕跡を残した」点を認めている[111]。なお、メリエスが自身の最高傑作と捉えていたのは、現在では失われた映画と考えられている、重厚な歴史ドラマ映画『文明の歴史』(1908年)である[112]。
メリエスは本作公開後、アメリカ支店の開設に加えて、アメリカン・ミュートスコープ・アンド・バイオグラフ社(バイオグラフ社)、ウォーリク・トレイディング社、チャールズ・アーバン・トレイディング社、ロバート・W・ポールのスタジオ、ゴーモンなど、他の映画会社とさまざまな貿易協定を結んだ[104]。これらの交渉では、アメリカ市場全体で、プリントの販売価格を1フィートあたり0.15米ドルに標準化することが取り決められ、これはメリエスにとって有益なものであった。ところが、その後、1908年にモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(映画特許会社)が価格の標準化を行い、この新基準では、相対的に高価なメリエス作品は非現実的なほどの廉売を強いられることになり、彼の経済的な破滅を早めた[104]。さらに1908年以降の映画では、もはやメリエスが得意とした空想的なトリック映画と演劇的なスタイルは時代遅れとなり、作品は観客に飽きられていった[104][113]。
再発見
メリエスの経済的破滅と衰退の後、彼のプリントのほとんどのコピーが失われた。1917年にメリエスの事務所はフランス軍に接収され、軍はフィルムに含まれている銀を集め、セルロイドで軍靴のかかと部分を作るために、そのフィルムの多くを溶かした。1923年にロベール=ウーダン劇場が取り壊された際には、そこに保管されていたプリントは中古フィルム業者に、内容ではなく重さで売り払われてしまった。残っていたネガもまた、同年にメリエスが怒りのあまりモントルイユの自宅の庭ですべて焼却してしまった[114]。1925年にメリエスはモンパルナス駅の売店で、おもちゃとキャンディの販売を始めた[115]。『月世界旅行』は歴史からほぼ消え去り、何年にもわたって人目に触れることはなくなった[110]。
モノクロ版
1920年代後半にメリエスとその作品は、映画史に造詣が深い人々、特に映画監督のルネ・クレール、映画評論家のジャン=ジョルジュ・オーリオールやポール・ジルソンらの努力により再発見された。1929年12月16日、パリのサル・プレイエルでメリエスを讃える「ガラ・メリエス(Gala Méliès)」[注釈 13]が開催され、1931年にはメリエスにレジオンドヌール勲章が授与された[116]。こうしてメリエスへの関心が高まっている間、映画館経営者のジャン・モークレールと初期の映画実験家ジャン・アクメ・リロイは、それぞれ『月世界旅行』の現存するプリントを探すための活動を始めていた。モークレールは1929年10月にパリで、リロイは1930年にロンドンでコピーを入手したが、どちらも不完全なものだった。モークレールのものは最初と最後のシーンが欠けており、リロイのものもパレードと記念像が登場する最後のシークエンスが丸々と欠けていた。これらのプリントは先述のガラ・メリエスといった回顧展や前衛映画の上映会など、特別な機会に上映されることがあり、時にメリエス自身がプレゼンを行うこともあった[117]。
1932年にリロイが亡くなった後、彼の映画コレクションは1936年にニューヨーク近代美術館(MoMA)が購入した。MoMAの映画キュレーターであるアイリス・バリーが主導して『月世界旅行』の購入及び上映を行ったことで、本作はアメリカ人とカナダ人の幅広い観客に再び公開され[117]、映画史におけるランドマークとして決定的に確立された[40]。最後のパレードのシークエンスを欠いたリロイの不完全なバージョンは、後世における一般的なバージョンとなり、シネマテーク・フランセーズのプリントを含むほとんどのプリントがこれを基に複製された[117]。1997年にメリエス家が設立した財団法人シネマテーク・メリエスは、様々な資料を基にパレードのシークエンスを含む完全版を再作成した[118]。
着色版
本作の着色版のプリントは、1993年に匿名の寄贈者がカタルーニャ映画祭に200本のサイレント映画コレクションを寄贈した際にその中から再発見されるまで、もはや現存しない(失われた映画)と長らく見なされていた[119]。このプリントは、第2世代のネガから打たれた手彩色によるものであり、エリザベス・テュイリエの現像所で着色されたものかどうかは不明だが、使用されているパーフォレーションから1906年以前に製作されたものと考えられている。また、宇宙船の発射シーンで使用されている国旗がスペイン国旗を模したものになっていることから、おそらくこの着色版はスペインでの公開用に作られたものと推測されている[120]。
1999年、カタルーニャ映画祭のアントン・ヒメネスは、フランスの映画会社ロブスター・フィルムズのセルジュ・ブロンベルグとエリック・ランジュに本作の着色版プリントが現存することを伝えた。しかし、それは損傷が激しく、フィルムが完全に溶解してしまっていると想定された。それでもブロンベルグとランジュは再発見されたばかりのセグンド・デ・チョーモンのフィルムと交換することを申し出て、ヒメネスは提案を受け入れた。ブロンベルグとランジュは、修復のために様々な専門機関に相談をしたが、フィルムのリール部分が溶解して硬い塊になっていたために、どの機関も修復は不可能と返答した。しかし、2人がフィルムのフレームを分離する作業を行ったところ、溶解して固まっているのはフィルムの端部分だけであり、多くの部分がまだ損傷していない状態であることを発見した[121]。2002年から2005年にかけて様々なデジタル化作業が行われ、1万3375枚のプリントの断片を保存することができた[122]。2010年にはロブスター・フィルムズ、Groupama Gan Foundation for Cinema、およびTechnicolor Foundation for Cinema Heritageにより、着色版プリントの完全修復作業が開始された[119]。デジタル化された着色版プリントの断片を用いたフィルムの再現には、メリエス家が所有するモノクロ版プリントを利用して欠落したフレームの再作成及び復元が試みられ、映写速度もサイレント映画本来の速度である毎秒14フレームで行われた[123]。復元作業はロサンゼルスのテクニカラーの研究所で行われ[124]、2011年に完了した[123]。修復費用は100万ドルだった[125]。
この修復版は、再発見から18年後、初公開から109年後の2011年5月11日に、第64回カンヌ国際映画祭でフランスのバンド・エールによる新しいサウンドトラック付きでプレミア上映された[126]。翌2012年にはアメリカのFlicker Alley社から、Blu-rayとDVDの2枚組で発売され、特典としてブロンベルグとランジュによる長編ドキュメンタリー『メリエスの素晴らしき映画魔術』が収録された[127]。ニューヨーク・タイムズ紙の映画批評家のA・O・スコットは、「今年、いや、今世紀の映画界のハイライトであることは間違いない」と評した[128]。修復版は日本でも、2012年8月に『メリエスの素晴らしき映画魔術』と同時に公開され[129]、同年11月に紀伊國屋書店からBlu-rayが発売された[130]。
影響と後年の評価
本作はメリエスの最も有名な作品であり、かつ初期の映画の古典的な例でもあり、特に「月の男」の右目に宇宙船が刺さるシーンはよく知られている[131]。『A Short History of Film(映画小史)』は、本作を「スペクタクル、センセーション、技術的な才覚が組み合わされ、世界的なセンセーションを引き起こした宇宙ファンタジーである」と紹介した[88]。本作は後世の映画人に多大な影響を与え、映画という媒体に創造性をもたらし、当時の映画では珍しい目標だった純粋なエンターテインメントとしてのファンタジーを提供した。さらにメリエスの革新的な編集技法や特殊効果の技術は、後年の作品で広く使われた[132]。また、本作は科学的なテーマがスクリーン上で機能すること、あるいは現実がカメラによって変えられることを示し、映画におけるSFやファンタジーの発展に拍車をかけた[88][133]。
エドウィン・S・ポーターは1940年のインタビューで、『月世界旅行』や他のメリエス作品を見て、「物語を描いた映画が観客を劇場に呼び戻せるのではないかという結論に達し、その方向でこの仕事を始めた」と語っている[40]。同様に、D・W・グリフィスもまたメリエスについて「私はすべて彼から恩恵を受けている」と語っている[13]。この2人のアメリカ人監督は、現代の映画の物語技法を発展させたことで広く認められているため、エドワード・ワゲンクネヒトはメリエスの映画史における重要性を「ポーターとグリフィスの2人に大きな影響を与え、彼らを通してアメリカの映画製作の全過程に影響を与えた」と評している[94]。
本作はさまざまな作品で何度も参照されてきた[17]。1908年にはパテ社のセグンド・デ・チョーモンにより、本作の無許可のリメイク作品『Excursion to the Moon』が作られた[134]。1956年の映画『八十日間世界一周』のプロローグには、エドワード・R・マローの解説とともに本作の映像が引用されている[135]。1998年のHBOのテレビシリーズ『フロム・ジ・アース/人類、月に立つ』の最終話では、本作の製作風景を再現したシーンがある[136]。2007年にブライアン・セルズニックが発表した小説『ユゴーの不思議な発明』及び、それを2011年にマーティン・スコセッシが映画化した『ヒューゴの不思議な発明』ではメリエスと本作を含む作品への大規模なオマージュが見られた[137][138]。ミュージック・ビデオでは、1995年のクイーンの楽曲『ヘヴン・フォー・エヴリワン』が本作の映像を引用し[139]、1996年のスマッシング・パンプキンズの楽曲『Tonight, Tonight』の映像が本作に触発されている[140]。月の男に宇宙船が刺さるイメージは、1989年のヨリス・イヴェンスのドキュメンタリー映画『風の物語』で再現されたほか[45]、視覚効果協会のロゴマークのモチーフとなったり[141]、アメリカのアニメシリーズ『フューチュラマ』の第2話「The Series Has Landed」などで真似されたりしている[140]。
映画研究者のアンドリュー・J・ラウシュは、本作を「映画史において最も重要な32の瞬間」の1つに挙げ、「映画の製作方法を変えた」と評している[142]。『死ぬまでに観たい映画1001本』の年代順のリストでは、本作がいちばん最初の作品として選ばれており、その本における映画研究者キアラ・フェラーリの作品コメントでは、本作について「メリエスの劇的人格が色濃く反映されている」と指摘し、「世界の映画史におけるマイルストーン的作品のひとつとして、この映画はしかるべき地位が与えられるべきだろう」と論じている[132]。2000年にヴィレッジ・ヴォイス紙が映画批評家の投票により選出した「20世紀の最高の映画100本」のランキングでは、本作が84位にランクされた[143]。映画レビューサイトのRotten Tomatoesでは、14件の批評のうち支持率は100%で、平均評価は8.90/10となっている[144]。
脚注
注釈
- ^ 一般的な英題である『A Trip to the Moon』[2][4]は、メリエスによるアメリカでのカタログで初めて用いられたものである。イギリス版のカタログでは当初、最初の冠詞(a)が付いておらず、『Trip to the Moon』であった[5]。同様に、フランスで最初に販売された時にも最初の冠詞(Le)は付いておらず、その後に『Le Voyage dans la Lune』という通称で知られるようになった[2][4]。
- ^ バルベンフィリ(Barbenfouillis)という名前はフランス語で「もつれた髭」をもじったものである[7]。ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』の主人公インピー・バービケーン(Impey Barbicane)のパロディと思われるが、メリエスは1891年の舞台マジック「Le Décapité Recalcitrant」においても意図は異なるがこの名前を用いている[8]。
- ^ この場面は視覚的なダジャレである。「目の中に」を意味するフランス語「dans l'œil」は、「(標的の)中心部」や中心部に当たった矢や弾丸を意味する[9]。
- ^ 「Labor omnia vincit」はラテン語で「仕事はすべてを勝ち取る」の意[10]。
- ^ 本作のフィルムの長さは約260メートルであり[2]、メリエスが好んだ毎秒12-14コマの映写速度[26]であれば上映時間は約17分となる[3]。メリエスと同時代のエジソン社やリュミエール兄弟の映画は、平均してこの3分の1程度の長さだった[27]。この後、メリエスはさらに長い映画を作るようになり、最長となった『極地征服』(1912年)は約650メートル[28]で、約44分に及んだ[3]。
- ^ 例えば、1900年のパリ万国博覧会を撮影した19本の作品では、360度回転できるカメラを使用したパノラマ撮影を行っている[63][64]。
- ^ アクチュアリティ映画(実写映画とも言う)とは、ドキュメンタリーの概念が確立していない映画史初期において、現実の出来事や風景、パフォーマンス、行事、人物などを撮影した映画の総称のことである[65]。
- ^ コンティニュイティ編集とは、物語やアクションにおける時間や空間の連続性を重視し、ショットが切り替わっても、動きや細部の描写などが矛盾なくつながるようにすることで、違和感のないスムーズな映像にする編集のことである[76][77]。
- ^ メリエスの初期作品『ギュギュスと人形』(1897年)もまた最初のSF作品と評されることがある[87]。
- ^ メリエスのナンバリングのルールは、製作順にリストアップされた上で、1つのカタログ番号で約20メートルのフィルムを表している。よって、約260メートルの長さである本作は399-411番となっている[95]。
- ^ 「タブロー(tableau)」はフランスの演劇用語で「シーン」や「舞台の光景」を意味するものであるが、メリエスのカタログではシーン(=ショット)の変化ではなく、劇中の明確なエピソードやアクションのまとまりとして分節しており、それはすなわち1つのショットに複数のタブローが含まれることを意味した[27][96]。
- ^ リチャード・アベルによると、「月への旅」を題材とした物語は印刷物、舞台、テーマ別のアトラクションを問わず、当時のアメリカで非常に人気があったものだという。実際、メリエスの前作『天文学者の夢』もまた、アメリカでは『月世界旅行(A Trip to the Moon)』というタイトルで上映されていた[100]。
- ^ ガラ(Gala)は「祭典」の意。
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