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|名称 = 宝来山古墳 |
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2021年12月14日 (火) 09:07時点における版
宝来山古墳 | |
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墳丘全景 (左手前に前方部、右奥に後円部、右手前に湟内陪冢) | |
所在地 | 奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池 |
位置 | 北緯34度40分47.86秒 東経135度46分52.39秒 / 北緯34.6799611度 東経135.7812194度座標: 北緯34度40分47.86秒 東経135度46分52.39秒 / 北緯34.6799611度 東経135.7812194度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長227m(推定復原240m?) 高さ17.3m(後円部) |
埋葬施設 |
竪穴式石室 (内部に長持形石棺) |
出土品 | 円筒埴輪・形象埴輪 |
築造時期 | 4世紀後半 |
被葬者 | (宮内庁治定)第11代垂仁天皇 |
陵墓 | 宮内庁治定「菅原伏見東陵」 |
特記事項 | 全国第20位の規模[1] |
地図 |
宝来山古墳(ほうらいさんこふん[2]/ほうらいやまこふん[3]、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
全国では第20位の規模の古墳で[1]、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
概要
奈良盆地北部、奈良市街地から西方の位置に築造された巨大前方後円墳である。北東方では五社神古墳・佐紀陵山古墳などの巨大前方後円墳からなる佐紀古墳群(佐紀盾列古墳群)の築造が知られるが、宝来山古墳や周辺の小円墳も佐紀古墳群南支群としてその古墳群中に含める説がある[2][4]。文献によれば、古墳はかつては「蓬莱山」とも称されたことや[5]、嘉永2年(1849年)には盗掘があったことが知られる[4]。明治以降は宮内庁により天皇陵に治定されているため、これまでに本格的な調査はなされていない。
墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は3段築成[2][4]。墳丘長は227メートル(一説に240メートル[3])を測るが、これは全国で第20位の規模になる[1]。墳丘表面では葺石・埴輪の存在が知られる[6]。墳丘周囲には鍵穴形の周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳総長は330メートルにもおよぶ[6]。周濠の南東部は後世に拡張されているが、その際には外堤の一部が残され現在も小島として浮かぶ[6]。主体部の埋葬施設は、江戸時代の盗掘を記す史料によると竪穴式石室であり、内部には長持形石棺が据えられたと見られる[7][2][8][4]。出土品としては、宮内庁採集資料として円筒埴輪・形象埴輪(盾形・家形・靫形埴輪)等がある[4]。
この宝来山古墳は、宮内庁採集の埴輪により、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される[3]。奈良盆地北部での巨大古墳としては、佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)に後続し、佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)・五社神古墳(伝神功皇后陵)に先行する築造順序に位置づけられる[3]。特に宝来山古墳の場合はヤマト王権の大王墓と目されるほか[3]、それまでの古墳と異なり、周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例になる点が注目される[9][10]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第11代垂仁天皇の陵に治定されている[5]。
なお宝来山古墳の古墳域は、後世に営まれた平城京では右京の京域内に位置する[4]。
来歴
- 嘉永2年(1849年)、盗掘[4]。
- 文久3-4年(1863-1864年)、文久の修陵[11]。
- 明治期、宮内省(現・宮内庁)により垂仁天皇の陵に治定。
- 1897年(明治30年)、拝所・石柵・鉄扉の改造[11]。
- 1968年(昭和43年)、墳丘の防波修造[11]。
構造
古墳の規模は次の通り[6]。
- 古墳総長:330メートル - 周濠を含めた全長。
- 墳丘長:227メートル
- 後円部 - 3段築成。
- 直径:123メートル
- 高さ:17.3メートル
- 前方部 - 3段築成。
- 幅:118メートル
- 高さ:15.6メートル
墳丘周囲には鍵穴形の周濠が巡らされるが、同一水面での周濠としては初期事例になる[10]。ただし江戸時代の史料での周濠は左右対称に描かれる一方、現在の周濠の前方部側南東部は外側に大きく膨らんでおり、これは後世に灌漑のための拡張を受けたためとされる[4]。周濠内に浮かぶ小島(現在の湟内陪冢)は、元々の周濠外堤の一部と推測される[4]。
なお、現在の周濠の水位は築造当時の水位より高くなっているとして、元々の墳丘長を240メートル程度と推測する説もある[3]。
被葬者
垂仁天皇 (第11代) |
安康天皇 (第20代) | |
---|---|---|
古事記 | 菅原之御立野中 | 菅原之伏見岡 |
日本書紀 | 菅原伏見陵 | 菅原伏見陵 |
続日本紀 | 櫛見山陵 | 伏見山陵 |
延喜式 | 菅原伏見東陵 | 菅原伏見西陵 |
現在 | 菅原伏見東陵 (宝来山古墳) |
菅原伏見西陵 |
宝来山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第11代垂仁天皇の陵に治定している[12][13][14][15]。垂仁天皇の陵について、『古事記』[原 1]では「菅原之御立野中」の所在とあり、『日本書紀』[原 2]では「菅原伏見陵」とある[14]。また『続日本紀』霊亀元年(715年)条[原 3]では「櫛見山陵生目入日子伊佐知天皇陵」と記載し、守陵3戸を充てると見える[14]。『延喜式』諸陵寮[原 4]では遠陵の「菅原伏見東陵」として記載され、兆域は東西2町・南北2町で、陵戸2烟・守戸3烟を毎年あてるとする[14]。
以上のほか、『日本霊異記』[原 5]では犬養宿禰真老が「諾楽(なら)の京の活目の陵の北の佐岐の村」に居住する旨が記されるほか[5][16]、『東大寺要録』雑事章では「菅原伏見野山陵」と記載される[14]。
その後、江戸時代の元禄探陵では、奈良奉行所は分明陵として本古墳を垂仁天皇陵と報告しており(ただしかつては天武天皇皇子の新田部親王墓に比定する説もあった)、これが現在に踏襲されている[14][4]。ただし、崇神天皇(第10代)陵や景行天皇(第12代)陵がヤマト王権の発祥地ともされる奈良盆地南東部に位置するのに対して、垂仁天皇陵が奈良盆地北部に位置するのは不自然であり、考古学的な築造順序も食い違うため、『古事記』・『日本書紀』・『延喜式』の時代にはすでに垂仁天皇陵自体の所伝に錯誤が生じていたとする説がある[17]。その説の中では、本古墳が垂仁天皇陵と想定された理由として、宝来山古墳付近を本貫とした土師氏と、垂仁天皇の埴輪説話との関係が指摘される[17]。
なお『古事記』・『日本書紀』などでは、垂仁天皇陵と安康天皇(第20代)陵が類似する陵名で記載されており、その安康天皇陵を現陵(考古学的には中世の豪族居館跡か[17])ではなく宝来山古墳近くの兵庫山古墳(現在の垂仁天皇陵飛地い号:後述)に比定する説もある[4]。
陪塚
本古墳の陪塚(陪冢)は定かでなく、考古学的には伴わなかったものと推測される[18]。
宮内庁治定の菅原伏見東陵の陪冢は、湟内陪冢1ヶ所、飛地陪冢6ヶ所(い号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号)の計7ヶ所[15]。詳細はそれぞれ次の通り。
- 湟内陪冢(伝田道間守墓、奈良市尼ヶ辻町字西池:北緯34度40分45.87秒 東経135度46分57.05秒)
- 宝来山古墳の墳丘南東の周濠内に浮かぶ小島。宮内庁により田道間守の墓に仮託される[15]。田道間守について、『日本書紀』・『古事記』ではその墓に関する記載はないが、『釈日本紀』所引『天書』逸文[原 6]では景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵近くに葬ったとする[5]。小島の考古学的な調査は行われていないが、江戸時代の山陵絵図や明治の『御陵図』に島の存在が描かれていないため、実際には後世の周濠拡張に伴う外堤削平の際に残された外堤の一部と推測される[4]。ただし『廟陵記』などで周濠南側に「橘諸兄公ノ塚」の記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説もある[4]。現在は小島の対岸に拝所も設けられている[14]。
- 飛地い号(通称「兵庫山」、奈良市宝来町字堂垣内:北緯34度40分55.37秒 東経135度46分42.18秒)
- 飛地ろ号(奈良市平松町字北内:北緯34度40分45.38秒 東経135度46分44.46秒)
- 宝来山古墳のくびれ部西方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される[4]。
- 飛地は号(奈良市尼ヶ辻町字中谷(千手谷):北緯34度40分39.61秒 東経135度46分52.59秒)
- 宝来山古墳の南方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される[4]。
- 飛地に号(奈良市尼ヶ辻町字馬田:北緯34度40分44.30秒 東経135度47分6.16秒)
- 宝来山古墳の前方部東方に位置する。内容は詳らかでないが、実際に古墳である可能性が指摘される[4]。
- 飛地ほ号(奈良市尼ヶ辻町字天王:北緯34度40分52.07秒 東経135度46分57.11秒)
- 宝来山古墳の後円部東方に位置する。内容は詳らかでない。
- 飛地へ号(奈良市尼ヶ辻町字菅上:北緯34度40分57.09秒 東経135度46分58.94秒)
- 宝来山古墳の北東方に位置する。内容は詳らかでない。
以上のほか、宝来山古墳の後円部西方には削平された古墳跡(平松北内古墳)が認められており、溝の検出や、家形埴輪・鰭付円筒埴輪の出土があった[4]。そのさらに西方でも円形の地割が残っており、そちらも古墳(仮称:宝来塚垣内古墳)の可能性が指摘される[4]。また以上を総合して、宝来山古墳の周囲には従属的な小型古墳群が存在したとする説がある[4]。
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湟内陪冢 拝所
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飛地ろ号
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飛地は号
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飛地に号
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飛地ほ号
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飛地へ号
現地情報
所在地
交通アクセス
周辺
脚注
原典
出典
- ^ a b c 古墳大きさランキング(日本全国版)(堺市ホームページ、2018年5月13日更新版)。
- ^ a b c d 宝来山古墳(古代史) 2006.
- ^ a b c d e f 白石太一郎 『古墳からみた倭国の形成と展開(日本歴史 私の最新講義)』 敬文社、2013年、pp. 188-199。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 今尾文昭 2014, pp. 79–85.
- ^ a b c d 菅原伏見東陵(平凡社) 1981.
- ^ a b c d 垂仁天皇陵古墳(古墳) 1989.
- ^ 宝来山古墳(大和前方後円墳集成) 2001.
- ^ 菅原伏見東陵(平凡社、刊行後版) 2006.
- ^ 広瀬和雄 『前方後円墳の世界(岩波新書1264)』 岩波書店、2010年、p. 139。
- ^ a b 今尾文昭 2014, pp. 88–89.
- ^ a b c 奈良市史 考古編 1971, pp. 62–67.
- ^ 天皇陵(宮内庁)。
- ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)9コマ。
- ^ a b c d e f g 菅原伏見東陵(国史).
- ^ a b c 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、pp. 400-401。
- ^ 『新編日本古典文学全集 10 日本霊異記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 284。
- ^ a b c 森浩一 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 72-84, 93-94。
- ^ 今尾文昭 2014, p. 15.
参考文献
- 地方自治体発行
- 『奈良県史 3 考古』名著出版、1989年、245-246頁。
- 『奈良市史 考古編』吉川弘文館、1971年、62-67頁。
- 宮内庁発行
- 事典類
- 『国史大辞典』吉川弘文館。
- 黛弘道 「垂仁天皇」、石田茂輔 「菅原伏見東陵」(垂仁天皇項目内)。
- 「菅原伏見東陵」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)、2006年。
- 大塚初重「垂仁天皇陵古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 鐘方正樹 著「宝来山古墳」、奈良県立橿原考古学研究所編 編『大和前方後円墳集成』学生社、2001年。ISBN 4311303270。
- 『日本古代史大辞典』大和書房、2006年。ISBN 978-4479840657。
- 福尾正彦 「垂仁天皇菅原伏見東陵」、今尾文昭 「宝来山古墳」。
- 「宝来山古墳」『国指定史跡ガイド』講談社。 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
- 『国史大辞典』吉川弘文館。
- その他
- 今尾文昭『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群(シリーズ「遺跡を学ぶ」093)』新泉社、2014年。ISBN 978-4787713339。
関連項目
外部リンク
- 菅原伏見東陵 - 宮内庁