コンテンツにスキップ

「美努王」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 2400:4152:32C0:2B00:1426:F788:B1CB:ED1 (会話) による版を Kokoko-H による版へ巻き戻し
タグ: 巻き戻し
編集の要約なし
タグ: 差し戻し済み
19行目: 19行目:
| 特記事項 =
| 特記事項 =
}}
}}
'''美努王'''(みぬおう/みのおう)は[[敏達天皇]]の後裔で、四位・[[栗隈王]]の子。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[治部省|治部卿]]。表記については『[[六国史]]』にて'''弥努王'''・'''美奴王'''・'''美弩王'''・'''三野王'''など様々な載がされており、人物比定にも問題がある<ref>[[美濃王]]項目を参照。</ref>。
'''美努王'''(みぬおう/みのおう)は[[敏達天皇]]の後裔たる四位・[[栗隈王]]の子。[[官位]]は[[従四位|従四位下]]・[[治部省|治部卿]]。'''弥努王'''・'''美奴王'''・'''美弩王'''・'''三野王'''などと『[[六国史]]』に表記されており、人物比定にも問題がある<ref>[[美濃王]]項目を参照。</ref>。


== 出自 ==
== 出自 ==
各種史書において、いずれも[[敏達天皇]]の後裔とされるが、その系譜に関しては以下相違がある。
各種史書[[敏達天皇]]の後裔としているが若干相違がある。
* 『[[日本書紀]]』<ref>『続日本紀』天平宝字元年正月6日条</ref>『[[古事記]]』『[[新撰姓氏録]]』では三世王とする。
* 『[[日本書紀]]』<ref>『続日本紀』天平宝字元年正月6日条</ref>『[[古事記]]』『[[新撰姓氏録]]』では三世王とする。
** 敏達天皇-[[難波皇子]]-栗隈王-美努王
** 敏達天皇-[[難波皇子]]-栗隈王-美努王

2021年11月24日 (水) 16:12時点における版

美努王
時代 飛鳥時代
生誕 不詳
卒去 和銅元年5月30日(708年6月22日
別名 弥努王、美奴王、美弩王、三野王
官位 従四位下治部卿
父母 父:栗隈王、母:大伴長徳
兄弟 美努王武家王
県犬養三千代
橘諸兄橘佐為牟漏女王
テンプレートを表示

美努王(みぬおう/みのおう)は敏達天皇の後裔たる四位・栗隈王の子。官位従四位下治部卿弥努王美奴王美弩王三野王などと『六国史』に表記されており、人物比定にも問題がある[1]

出自

各種史書は敏達天皇の後裔としているが若干相違がある。

経歴

天武天皇元年(672年)6月に壬申の乱が起こった際に、大友皇子側の近江朝廷の命令を受けて軍兵を徴発するために佐伯男筑紫に下向してきたが、筑紫大宰栗隈王は外敵への備えを理由に徴発を拒否した。佐伯男は命令に従わない場合は殺すようにも命じられていたが、王の2人の息子である三野王と武家王が太刀を帯びて近くに侍していたために任務を果たすことができなかったという[3]

天武天皇11年(681年)天皇の命令を受けて川島皇子らとともに『帝紀』及び上古における事柄の記録・校定に従事した[4]持統天皇8年(694年)筑紫大宰率に任ぜられる(このときの位階は浄広肆)。

大宝元年(701年大宝律令の施行により位階制が定められると正五位下となり、同年造大幣司長官に任ぜられる。その後、左京大夫摂津大夫治部卿などを歴任し、位階は従四位下に至る。和銅元年(708年)5月30日卒去

官歴

六国史』による。

系譜

脚注

  1. ^ 美濃王項目を参照。
  2. ^ 『続日本紀』天平宝字元年正月6日条
  3. ^ 『日本書紀』天武天皇元年6月26日条
  4. ^ 『日本書紀』天武天皇10年3月17日条

参考文献