コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「コロネイアの戦い (紀元前447年)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 11 件をウィキデータ上の (d:Q930550 に転記)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: パウサニアスの改名に伴うリンク修正依頼 (パウサニアス (地理学者)) - log
32行目: 32行目:
*[[トゥキュディデス]]著、小西晴雄訳、『トゥーキュディデース 世界古典文学全集11』、[[筑摩書房]]、[[1971年]](トゥキュディデスの『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』を収録)
*[[トゥキュディデス]]著、小西晴雄訳、『トゥーキュディデース 世界古典文学全集11』、[[筑摩書房]]、[[1971年]](トゥキュディデスの『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』を収録)
*[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/home.html Bill Thayer's Web Site ]([[シケリアのディオドロス|ディオドロス]]の『歴史叢書』の英訳)
*[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/home.html Bill Thayer's Web Site ]([[シケリアのディオドロス|ディオドロス]]の『歴史叢書』の英訳)
*[[パウサニアス]]著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、[[龍渓書舎]]、1991年
*[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、[[龍渓書舎]]、1991年
*[[プルタルコス]]著、柳沼重剛訳、『[[対比列伝|英雄伝]] 2』、[[京都大学学術出版会]]、2007年
*[[プルタルコス]]著、柳沼重剛訳、『[[対比列伝|英雄伝]] 2』、[[京都大学学術出版会]]、2007年
*[http://www.gutenberg.org/files/14140/14140-h/14140-h.htm#LIFE_OF_AGESILAUS プルタルコスの『対比列伝』の「アゲシラオス伝」]
*[http://www.gutenberg.org/files/14140/14140-h/14140-h.htm#LIFE_OF_AGESILAUS プルタルコスの『対比列伝』の「アゲシラオス伝」]

2021年11月15日 (月) 10:53時点における版

コロネイアの戦い
戦争第一次ペロポネソス戦争
年月日紀元前447年
場所コロネイア
結果:ボイオティアおよびその同盟国の勝利
交戦勢力
エウボイア
ボイオティア
ロクリス
その他同盟国
アテナイ
デロス同盟
指導者・指揮官
スパルトン トルミデス
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
第一次ペロポネソス戦争

コロネイアの戦い(英:Battle of Coronea)は第一次ペロポネソス戦争において紀元前447年デロス同盟ボイオティアおよびその同盟諸国との間で起こった戦闘である。

紀元前457年アテナイ人はオイノフュタの戦いでの勝利によってテバイを除く全ボイオティアを勢力下に置いた。それから彼らは10年間を同盟の力の堅固化に費やしたが、紀元前448年第二次神聖戦争の後、亡命したボイオティア人がオルコメノスカイロネイアなどボイオティアの諸地域をアテナイから奪回しだした。そこでアテナイはトルミデス指揮下の重装歩兵1000人および同盟軍をボイオティアに送った。彼らはカイロネイアを占領して住民を奴隷に売り、守備隊を置いた。その後、彼らはコロネイアへと進んだが、そこでスパルトン率いるボイオティア、ロクリスエウボイアその他の連合軍の待ち伏せを受けて敗れ、トルミデスもまた戦死した[1][2][3][4]。その後、アテナイは捕虜の引渡しを条件としてボイオティアを放棄し、ボイオティアは独立を回復した[5]

この敗北の後、エウボイアそしてメガラという風にアテナイに対する同盟国の反乱が続発し、アテナイはこれへの対処およびこれに乗じたスパルタ率いるペロポネソス同盟との戦いに追われた。そして紀元前446年ないし紀元前445年にアテナイはスパルタおよびその同盟国と30年の不戦条約を結び、ひとまずの平和を手にした。

  1. ^ ディオドロス, XII, 6
  2. ^ パウサニアス, I, 27, 5
  3. ^ プルタルコス, 「ペリクレス」, 18
  4. ^ プルタルコス, 「アゲシラオス」, 19
  5. ^ トゥキュディデス, I, 113

参考文献