「オトマール・スウィトナー」の版間の差分
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{{Portal クラシック音楽}} |
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'''オトマール・スウィトナー''' |
'''オトマール・スウィトナー''' ('''Otmar Suitner''', [[1922年]][[5月16日]]-[[2010年]][[1月8日]]) は、[[オーストリア]]の指揮者である{{Sfn|森|1982|p=486}}{{Sfn|國土|2010|p=162}}。[[シュターツカペレ・ドレスデン]]{{Sfn|上地|2017|p=101}}、[[シュターツカペレ・ベルリン]]{{Sfn|上地|2017|p=78}}、[[NHK交響楽団]]などで活躍したほか{{Sfn|佐野|2007|p=273}}{{Sfn|佐野|2007|p=274}}{{Sfn|佐野|2007|p=275}}、[[ウィーン国立音楽大学]]で教鞭をとった{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=81}}。日本語では'''オットマール'''・スウィトナーと表記されることもある{{Sfn|小山|1988|p=100}}。 |
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==生涯== |
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===幼年期・学生時代=== |
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[[File:Clemens Krauss.jpg|thumb|師の[[クレメンス・クラウス]]]] |
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1922年5月16日、ドイツ人の父とイタリア人の母のもと、[[オーストリア]]の景勝地[[インスブルック]]に生まれる{{Sfn|森|1982|p=486}}{{Sfn|佐野|2007|p=273}}。なお、スウィトナーという名字はフランス語の "suite" に由来するとされる{{Sfn|小石|1980|p=155}}。インスブルックの市立音楽院でフリッツ・ヴィートリヒにピアノを学んだのち、[[ザルツブルク]]の[[ザルツブルク・モーツァルテウム大学|モーツァルテウム音楽院]]に入学し、{{仮リンク|フランツ・レドヴィンカ|de|Franz Ledwinka}}にピアノを、[[クレメンス・クラウス]]に指揮を師事した{{Sfn|森|1982|p=487}}{{Sfn|Oxford University Press|2010}}{{Sfn|國土|2010|p=162}}{{sfn|村田|1982|p=568}}{{Sfn|藤田|1982|p=1278}}{{Sfn|Times|2010|p=61}}。また、指揮者の[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の知己を得て、親しく付き合った{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=78}}。 |
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スウィトナーはインタビューにて、師のクラウスについて以下のように語っている{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=78}}。{{Quotation|その当時クラウスはまだ[[ミュンヘン国立歌劇場|ミュンヘンの国立歌劇場]]の総監督で、彼はまた[[リヒャルト・シュトラウス]]の影響を強く受けていましたので、私もクラウスを通じて、シュトラウスの息吹きを継承してきたことになります。ですから、私は彼を尊敬していたし、彼も私をよく可愛がってくれました。彼から得た知識、経験は大きいし、実習面でも、私はミュンヘンの舞台を十分に研究するチャンスを与えられました{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=78}}。}} |
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===キャリア初期=== |
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== 生涯 == |
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クラウスの勧めでインスブルックや[[レックリングハウゼン]]などの教会で合唱団の指揮者を務めたのち{{Sfn|野崎|2010|p=118}}{{Sfn|國土|2010|p=162}}、1942年にインスブルックの{{仮リンク|チロル州立劇場|en|Tyrolean State Theatre}}の指揮者となり、スウィトナー自身が小編成のオーケストラ用に編曲した[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[薔薇の騎士]]』を指揮してデビューを飾った{{Sfn|森|1982|p=487}}{{Sfn|小石|1980|p=156}}{{#tag:ref|1941年に[[モーツァルテウム管弦楽団]]を指揮してデビューしたとする文献もある{{sfn|村田|1982|p=568}}。|group="注"}}。なお、この演奏を聴いていた作曲家からは賞賛されている{{Sfn|森|1982|p=487}}。 |
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ドイツ系の父とイタリア系の母の間に、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]の[[チロル州]][[インスブルック]]で生まれる。指揮を地元の音楽大学で[[クレメンス・クラウス]]に師事する。[[1941年]]からやはり地元インスブルックの歌劇場で副指揮者を務め、[[第二次世界大戦]]後は[[カイザースラウテルン]]の音楽総監督を皮切りに、初めは[[西ドイツ]]各地の歌劇場で活躍する。[[1960年]]に[[ゼンパー・オーパー|ドレスデン国立歌劇場]](現・ザクセン州立歌劇場)の、[[1964年]]からは[[ベルリン国立歌劇場]]の音楽監督に就任した頃から[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]に活動の軸足を移し、この国の2大国立歌劇場で[[オペラ]]とコンサートの両面で活躍する。ベルリンのポストを得た1964年から[[1967年]]には[[バイロイト音楽祭]]に初出演し、『[[タンホイザー]]』、『[[さまよえるオランダ人]]』、『[[ニーベルングの指環]]』を指揮した。 |
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その後スウィトナーはピアノでバレエの下稽古を行ったりしつつ、指揮者として定期的に活動していたが、1944年にチロル劇場の指揮者を辞任してからはポストを得ることができず、1952年まではピアニストとして活動を行い、[[ウィーン]]、[[ローマ]]、[[ミュンヘン]]、[[スイス]]などでコンサートを行った{{Sfn|森|1982|p=487}}{{Sfn|音楽之友社|1996|p=937}}<!--{{Sfn|新訂 標準音楽辞典|1966|p=937}}を推定により修正-->{{Sfn|Times|2010|p=61}}{{Sfn|Independent|2010|p=42}}。その後1952年に[[レムシャイト|レムシャイト市]]の音楽監督に迎えられて指揮者に復帰し、1957年には[[ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン]]を本拠地とするプファルツ管弦楽団の音楽監督となった{{Sfn|森|1982|p=487}}{{Sfn|Slonimsky|Kuhn|2001b|p=3530-3531}}。その傍らで、ウィーン、[[ハンブルク]]、ミュンヘンなど、オーストリア、ドイツの各地で客演活動を行い{{Sfn|森|1982|p=487}}、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[ハンブルク・フィルハーモニカー|ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団]]などを指揮した{{Sfn|歌崎|1996|p=90}}{{sfn|村田|1982|p=568}}。 |
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初来日は[[1971年]]で、[[NHK交響楽団]]を指揮した。当時の日本ではスウィトナーの知名度はほとんどなかったが、客演を重ねるたびにファンを増やしていった。[[1973年]]にN響の名誉指揮者に就任する。日本へはN響への他に手兵のベルリン国立歌劇場やその管弦楽団([[シュターツカペレ・ベルリン]])との来日公演、[[国立音楽大学]]のオーケストラを指揮している。同時に[[ウィーン国立音楽大学]]指揮科の教授として、同僚の[[カール・エスターライヒャー]]と共に[[ベアト・フューラー]]などの後進を育てていった。他に西欧諸国への客演を活発に行ったが、[[東側諸国]]の[[東欧革命|民主化]]が活発化する1980年代末期から体調を崩すようになり、奇しくも[[1990年]]に[[ドイツ再統一|東西ドイツの統一]]が成されるのと入れ替わるように、ベルリンのポストを辞任した。同年の来日公演を病気でキャンセルして以降は、声明や宣言こそ出していないものの、事実上の引退生活に入った。<!--引退の理由って詳しく報道されていましたっけ?←「健康上の理由」で間違いないと思います--> |
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===ドレスデン国立歌劇場時代=== |
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事実上の引退後は公に姿を見せることはほとんどなかったが、80歳を迎えた[[2002年]]に、ベルリン国立歌劇場音楽監督の[[ダニエル・バレンボイム]]主催によるスウィトナーの80歳を祝うパーティーが開かれた際に姿を見せている(その模様は『[[N響アワー]]』でも紹介された)。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-14058-0002, Berlin, Beethoven-Ehrung, Gewandhaus-Orchester.jpg|thumb|[[ドレスデン国立歌劇場]]および[[ベルリン国立歌劇場]]でスウィトナーの前任者であった指揮者の[[フランツ・コンヴィチュニー]] (1952年)]] |
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スウィトナーは1960年に[[ドレスデン国立歌劇場]]およびそのオーケストラである[[シュターツカペレ・ドレスデン]]の音楽総監督兼首席指揮者に就任した{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=170}}{{Sfn|上地|2017|p=101}}{{sfn|小石|1993|p=72}}{{sfn|小石|1999a|p=13}}。特にモーツァルトの演奏については「東ドイツに並ぶものはいない」と言われるほど評価されたが{{Sfn|小石|1980|p=157}}、伝統的な演目の他にも[[ハンス・アイスラー]]や[[ルイジ・ダラピッコラ]]といった同時代の作曲家の作品も取り上げており、こちらも高い評価を得た{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=170}}。また、東欧諸国や[[ソ連]]への演奏旅行を行なったほか{{Sfn|Oxford University Press|2010}}、1961年には『薔薇の騎士』の初演50周年公演を指揮した{{Sfn|Times|2010|p=61}}。しかし1964年には、前任の[[フランツ・コンヴィチュニー]]のように[[ベルリン国立歌劇場]]の音楽監督に就任してドレスデンを去った{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=170}}{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=171}}。ただし、シュターツカペレ・ドレスデンとのレコーディングは続けられた{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=171}}。 |
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スウィトナーはシュターツカペレ・ドレスデンについて「時代や混乱を通じても自らに誠実であり続けた理想的かつ完璧な楽器」と賞賛している{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=6}}。また、80人の誕生日である2002年5月16日には、ドレスデンの旧友たちとともに[[ゼンパー・オーパー]]に姿を見せた{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=171}}{{#tag:ref|同日、シュターツカペレ・ベルリンでも[[ダニエル・バレンボイム]]の主催で、スウィトナー80歳の誕生日が祝われた{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=171}}。|group="注"}}。 |
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[[2007年]]、[[第2ドイツテレビ|ZDF]]/Filmkombinat制作、息子のイゴール・ハイツマン(Igor Heitzmann)監督によるドキュメンタリー映画『父の音楽 指揮者スイトナーの人生』(原題:''Nach der Musik'')に出演した。妻とともに[[東ベルリン]]に暮らしながら、[[西ベルリン]]に住む愛人との間に一子イゴールを儲け、週末ごとに[[ベルリンの壁]]を越えて彼らに会っていたこと、[[パーキンソン病]]のために指揮活動から身を引いたこと、妻・愛人・イゴールの3人に見守られながら穏やかな余生を過ごしていること、などが語られていた<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=fAGE7ZSnn78 ドキュメンタリー「父の音楽~指揮者スイトナーの人生」予告]</ref>。 |
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音楽評論家の小石忠男は「(スウィトナー同様シュターツカペレ・ドレスデンで音楽監督などの地位にあった)[[カール・ベーム|ベーム]]や後述の[[ルドルフ・ケンペ|ケンペ]]、[[クルト・ザンデルリンク|ザンデルリンク]]の場合にも同じことがいえるが、彼らの在任とレコード録音の時期にかなりの差異があるのは興味深い」と述べており、その原因として「レコード録音の体制やスタジオ、機材の整備が遅れたためであろう。当時のドイツ民主共和国は食糧すら不足し、経済的に困窮していたからである」と記している{{sfn|小石|1999a|p=13}} |
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2010年1月8日、[[ベルリン]]で死去した。 |
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===ベルリン国立歌劇場時代=== |
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== 主な活動歴 == |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-J1011-0015-001, Berlin, Deutsche Staatsoper, Zuschauerraum.jpg|thumb| |
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J1011-0015-001, Berlin, Deutsche Staatsoper, Zuschauerraum.jpg|thumb|[[ベルリン国立歌劇場]]で指揮をするスウィトナー (1970年)]] |
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1964年には[[ベルリン国立歌劇場]]の音楽監督に就任し、1990年まで務めた{{Sfn|Slonimsky|Kuhn|2001b|p=3530-3531}}{{Sfn|上地|2017|p=78}}。スウィトナー時代の[[シュターツカペレ・ベルリン]]は、音楽監督の在任期間(26シーズン)、演奏旅行の数、録音の点数、聴衆の動員率などで過去の記録を大幅に上回ったうえ、ディスクの売れ行きも好調であった{{Sfn|上地|2017|p=80}}。さらに、スウィトナーは前任のコンヴィチュニーの路線を踏襲しつつ、新たなレパートリーを開拓したほか、西側の人材も登用した{{Sfn|小石|1999b|p=30}}{{Sfn|上地|2017|p=80}}。インタビューにおいて、スウィトナーはシュターツカペレ・ベルリンのレパートリーについて以下のように述べている{{sfn|小山|1988|p=101}}。{{Quotation|劇場ではドイツ・オペラを全般にわたって掘り下げることを優先させていますが、私は母がイタリア人ですから血の半分はイタリアで、イタリア・オペラは大変好きです。で、上演したい作品は沢山あります。が、ドイツ物はある程度アンサンブルでもってゆけますが、イタリア物は声が第一のいい歌手が絶対必要です。それには経済面がネックになる。また自国語上演が前提なので、その難しさも。イタリア語は言葉自体が歌に適し、とても声楽的な言語です。だから原語上演が最良ですが、その点でも現状ではちょっと難しいところがあります。私は日本語訳でのイタリア・オペラを観ていますが、語感はドイツ語よりも旋律にのっています。字幕も一つの解決策で、日本で試みられているこの方法もいっそう研究したいですね{{sfn|小山|1988|p=101}}。}} |
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*[[ゼンパー・オーパー|ドレスデン国立歌劇場]]:音楽監督(1960年 - 1964年) |
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*[[ベルリン国立歌劇場]]:音楽監督(1964年 - 1990年) |
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*[[NHK交響楽団]]:名誉指揮者(1973年 - 2010年、出演は[[1989年]]が最後) |
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この結果、シュターツカペレ・ベルリンは同じ都市で活動する[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]に比肩する存在としてみなされるようになったとされる{{Sfn|上地|2017|p=80}}。音楽評論家の小石忠男は「シュターツカペレ・ベルリンもスウィトナーの時代に入ってから、従来の強固で重厚なアンサンブルに、透明度と柔軟性を加えた。彼らはおびただしいオペラ上演で交響的ともいえる見事な演奏を披露すると同時に、年間8回(各2夜)のシンフォニー・コンサートを国立歌劇場で開催した。その成果は数多くの録音に残されている」と評している{{Sfn|小石|1999b|p=30}}。 |
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== 演奏スタイル ==<!--この部分は特に補筆をお願いします--> |
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奇をてらわず地味な演奏スタイルであるが、奥が深い演奏を引き出す指揮者だった。[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]をはじめとする、洗練された国際的な響きとは対極の、渋みを生かした「古きよきドイツの伝統」を表現していた。それのみならず、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の『[[春の祭典]]』のように曲によっては「熱演型」の指揮者に変貌することもあった。レパートリーも[[古典派音楽|古典派]]・[[ロマン派音楽|ロマン派]]から近代ものと幅広く、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]のほか、[[ヨハン・シュトラウス2世]]の[[ワルツ]]や[[ポルカ]]も演奏している。また[[グスタフ・マーラー|マーラー]]も早くから手がけており、[[交響曲第2番 (マーラー)|交響曲2番]]と[[交響曲第5番 (マーラー)|交響曲5番]]をレパートリーにしていた。[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]に関しても録音を残している。 |
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なお、[[ベルリンの壁]]が設けられたこともあり、この時代のシュターツカペレ・ベルリンは東側を代表する演奏団体とみなされるようになり、人事面などで国家からの介入が多くあったとされる{{Sfn|上地|2017|p=79}}{{Sfn|上地|2017|p=80}}。また、スウィトナーは当時半ば禁止されていた現代音楽をプログラムに組み込んだため、当局と揉めることもあったという{{Sfn|城所|2010|p=165}}。ただしスウィトナーは東ドイツ財政を支える存在でもあり、1年で36000ポンドを稼いだと言われている{{Sfn|Ratcliffe|1970|p=4}}。なお、1988年のインタビューでスウィトナーは「1964年以来ですから、そろそろ離れようかと考えましたが、慰留されています」と述べている。{{Sfn|小山|1988|p=101}}。 |
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ワルツ集ではNHK交響楽団と珍しいスタジオ録画(テレビ放映用)を行ったこともある(これに対して、同時期にN響の名誉指揮者をつとめた[[ヴォルフガング・サヴァリッシュ]]は、同団など外国のオーケストラで[[ウィンナワルツ]]を取り上げることを避けていた)。手兵のシュターツカペレ・ベルリンと録音したベートーヴェンの交響曲全集([[ペーター・ギュルケ|ギュルケ]]版を使用)は、[[デジタル録音]]で最初のベートーヴェンの交響曲全集である。これは、N響での演奏を知る日本([[日本コロムビア]])と[[東ドイツ]]([[ドイツ・シャルプラッテン]])の共同制作によって実現した。西側での評価が高いとはいえなかったスウィトナーが、例外的に日本でだけは強い支持を受けていたことが貴重な記録につながった一例である。オーストリア人にしては[[ウィーン]]の楽壇とは縁が薄く、ウィーンの伝統に立脚した指揮者とはいえないが(師匠こそ生粋ウィーン人のクラウスであるが、若いころはインスブルックで活動、その後は晩年ウィーンの教壇に立つまではほぼドイツに活動が限られ、まだしも日本での活動記録の方が目立つほどである)、ウィーン風の優雅さにも、[[プロイセン王国|プロイセン]]風の剛毅さにも傾かない、精妙で陰影の深い独自のドイツ音楽を聴かせた。 |
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===世界各地での活躍=== |
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== 脚注 == |
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1964年から1967年にかけてスウィトナーは[[バイロイト音楽祭]]に登場し『[[タンホイザー]]』、『[[さまよえるオランダ人]]』、『[[ニーベルングの指環]]』を指揮した{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=78}}{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=79}}{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=81}}{{Sfn|Times|1964|p=16}}{{#tag:ref|バイロイトでの『[[ニーベルングの指環]]』は、本来[[カール・ベーム]]が4作全て(『[[ラインの黄金]]』、『[[ワルキューレ (楽劇)|ワルキューレ]]』、『[[ジークフリート (楽劇)|ジークフリート]]』、『[[神々の黄昏 (楽劇)|神々の黄昏]]』)を指揮する予定であったが、体調不良のためスウィトナーが代理で指揮した{{Sfn|柴田|2015|p=18}}{{Sfn|柴田|2015|p=392}}。|group="注"}}。なお、バイロイト音楽祭の中心的な人物であり、[[リヒャルト・ワーグナー]]の孫であった演出家の[[ヴィーラント・ワーグナー]]についてスウィトナーは以下のように述べている{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=79}}。{{Quotation|私のワーグナー作品観とヴィーラント・ワーグナーのそれとはかなり一致していると思います。彼は、彼のお祖父さんの芸術を非常に本質的に理解しているからです。彼の実験的精神は、ワーグナー作品に対する彼の深い理解をそこなってはいません。なぜなら、彼はオペラ・スコアの隅々までを実によく知っている。ちょうど、あらゆるカペルマイスターがスコアを熟知しているように......{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=79}}。}} |
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{{reflist}} |
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1971年に初めて指揮した[[NHK交響楽団]]では、聴衆、楽団員から高い評価を得ており{{Sfn|佐野|2007|p=273}}{{Sfn|佐野|2007|p=274}}{{Sfn|佐野|2007|p=275}}、1973年に再びNHK交響楽団を指揮した際には「名誉指揮者」の称号を贈られた{{Sfn|佐野|2007|p=275}}{{#tag:ref|なお、1983年にシュターツカペレ・ベルリンと来日した際、スウィトナーは[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の『[[タンホイザー]]』『[[さまよえるオランダ人]]』とともに、日本での『[[第九]]』人気を考慮してベートーヴェンの『[[フィデリオ]]』をプログラムに入れたが、音楽評論家の[[諸井誠]]は「これでは日本通の名が泣くというもの。日本のオペラ通は、凡演の「フィデリオ」の退屈を百も承知しているのだから。それを承知で、舞台を「観に」ではなく、「音楽」そのものの素晴らしさを「聴きに」オペラ鑑賞に出かけていく所までは、我々の音楽文化の一般的水準はまだ上がっていないし、そうした楽しみ方にしては入場料が余りにも高すぎる。我が国での外来オペラ団の干渉は相当な贅沢の部類に入るのである。指揮者とオーケストラと合唱を聴けというのだったら、『フィデリオ』は、コンサート形式で充分鑑賞に耐える音楽内容を備えているのだ。オペラとして観せるのなら、納得のいく主役を揃えてくれないと、この特異なオペラ作品ではまず無理だろう」と述べている{{Sfn|諸井|1983|p=64}}{{Sfn|諸井|1988|p=75}}{{Sfn|諸井|1988|p=76}}。|group="注"}}。音楽評論家の[[宇野功芳]]は「彼が振るN響の弦が時に[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]のような響きを出すのを聴いた方は多いと思う」と記している{{Sfn|宇野|1984|p=96}}。なお、NHK交響楽団および日本の聴衆についてスウィトナー自身は以下のように述べている{{Sfn|小山|1988|p=100}}。{{Quotation|私が思うには、N響は世界でも第一級のオーケストラだと思います。ドイツ、オーストリアへの留学経験がある楽員も多いので、音楽するうえで私の意向をよく理解してもらえます。ヨーロッパのオーケストラと同等の音楽性をもっていますよ。オーケストラがそうであるように、日本の聴衆も、非常に音楽の享受のしかたが秀れ、自分は幸福です。先日は[[小田原]]でコンサートをもちましたが、東京のファンばかりでなく、地方の愛好家も聴き手としてのレベルが高いと思いました。私はモーツァルトの音楽をとても愛していますが、日本のファンがモーツァルトに抱いている愛情も、大変に嬉しいことです{{Sfn|小山|1988|p=100}}。}} |
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他にも1969年から定期的に[[サンフランシスコ・オペラ]]に登場してドイツの作品を指揮したほか{{Sfn|Oxford University Press|2010}}{{Sfn|Rosenthal|1972|p=11}}、[[ウィーン国立歌劇場]]、[[ボリショイ劇場]]、[[ボストン交響楽団]]などにも登場した{{sfn|村田|1982|p=568}}{{Sfn|United Press International|1982}}。また、[[ドイツ民主共和国]]は自国のイデオロギーを普及させるために中東諸国での音楽活動を支援していたが、その一環としてスウィトナーも[[カイロ]]でコンサートを行っており、「とても大きな反響があるので、カイロで演奏するのは私たちにとって喜びだ」というコメントを残している{{Sfn|Kelly|2019}}。 |
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===晩年=== |
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1980年代後半から体調不良を訴えることが多くなり、1990年には[[パーキンソン病]]が原因で事実上の引退状態となった{{Sfn|佐野|2007|p=276}}{{Sfn|城所|2010|p=164}}{{#tag:ref|1990年に予定されていたシュターツカペレ・ベルリンとの来日公演も病気でキャンセルし、[[ジークフリート・クルツ]]、[[ハインツ・フリッケ]]が代わりに指揮をした{{Sfn|朝日新聞|1990|p=15}}。|group="注"}}。音楽評論家の國土潤一は、引退する以前よりスウィトナーの演奏は往時の精彩を欠いていたと述べており、「円熟よりは『老い』を強く感じさせる演奏が多くなっていたように記憶している」とも述べている{{Sfn|國土|2010|p=162}}。なお、シュターツカペレ・ベルリンは1990年代に一度スウィトナーを舞台に呼び戻そうとしたことがあったが、それが不可能なことであるのは初回のリハーサルから明白であったと言われている{{Sfn|城所|2010|p=165}}。 |
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スウィトナーは引退以前から西ベルリンの愛人と交流していたが、これは本妻も承知していたことであり、ベルリンの壁が崩壊したのちには両家族を交えて食事をすることもあったという{{Sfn|城所|2010|p=164}}。2007年には、愛人との子供であるイゴール・ハイツマンが、ドキュメンタリー『父の音楽〜指揮者スウィトナーの人生』でその様子を描いた{{Sfn|城所|2010|p=164}}。 |
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2010年1月8日、オトマール・スウィトナーは87歳で死去した{{Sfn|國土|2010|p=162}}。スウィトナー死去のニュースは、ベルリンの3大地方紙『[[ターゲス・シュピーゲル]]』『{{仮リンク|ベルリナー・モルゲンポスト|de|Berliner Morgenpost}}』『{{仮リンク|ベルリナー・ツァイトゥング|de|Berliner Zeitung}}』をはじめとして、『[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング]]』『[[ディ・ヴェルト]]』などの全国紙や、オーストリアの新聞などでも取り上げられた{{Sfn|城所|2010|p=164}}。他にも、『[[タイムズ]]』{{Sfn|Times|2010|p=61}}『[[朝日新聞]]』{{Sfn|朝日新聞|2010|p=13}}『[[インデペンデント]]』{{Sfn|Independent|2010|p=42}}などが取り上げた。 |
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スウィトナーの葬儀は、1月24日にベルリン国立歌劇場の裏にあるベルリンのカトリック司教座、聖ヘドヴィヒ大聖堂で行われた{{Sfn|城所|2010|p=165}}。この葬儀は新聞でも告知された公開のものであり、シュターツカペレ・ベルリンがレクイエムを演奏した{{Sfn|城所|2010|p=165}}。また、シュターツカペレ・ベルリンは1月24日と25日に、バレンボイムが指揮する演奏会をスウィトナーに捧げた{{Sfn|城所|2010|p=165}}。他にも、スウィトナーの追悼盤として、シュターツカペレ・ベルリンを指揮したモーツァルトの『[[魔笛]]』、NHK交響楽団を指揮した[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[英雄の生涯]]』がリリースされた{{Sfn|城所|2010|p=165}}。 |
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==演奏スタイル== |
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===レパートリー=== |
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[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]の作品や、イタリアの作品の指揮に定評があった{{Sfn|Oxford University Press|2010}}{{Sfn|野崎|2010|p=119}}{{#tag:ref|NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた[[堀正文]]は、自分たちのオーケストラと[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]のモーツァルト演奏の違いをスウィトナーに尋ねたところ「演奏上の技術的なものはぜんぜん変わらない、ただ気構えが違う。モーツァルトの音楽に対して構えすぎないように」と言われたと回想している{{Sfn|堀|2010|p=166}}。また、堀はスウィトナーのモーツァルト演奏について「N響でモーツァルトを振るときも、流れを重視して、けっして構えていなかったですね。あまり細かいことはおっしゃいませんが、顔の表現や動きひとつでテンポ感もウエイトの置き方もわかりました」と述べている{{Sfn|堀|2010|p=166}}。|group="注"}}。同時代の作曲家の作品も取り上げており、[[ハンス・アイスラー]]や[[ルイジ・ダラピッコラ]]らの作品を指揮したほか{{Sfn|シュタインドルフ|2009|p=170}}、[[パウル・デッサウ]]の『プンティラ (1966年)』、『アインシュタイン (1974年)』、『レオンスとレナ (1979年)』などの初演を行なっている{{Sfn|Oxford University Press|2010}}。なお、『アインシュタイン』と『レオンスとレナ』は録音を遺した{{Sfn|Independent|2010|p=42}}。 |
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===リハーサル=== |
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スウィトナーのもとで演奏したオーケストラ団員は、スウィトナーはリハーサルでは優しいことしか言わず、声も小さかったと述べている{{Sfn|近藤|2006|p=156}}。また、オーケストラに注文をする際も「みなさんよくお弾きになっているんですが、どうしてもお一人だけお分かりじゃない方がいらっしゃる」と言って、その団員を見つめながら指揮をしていたという{{Sfn|近藤|2006|p=156}}。なお、スウィトナーの視線の先にいた団員たちは「自分のことではないはずだ」と体を避けながら演奏していたという{{Sfn|近藤|2006|p=156}}{{Sfn|近藤|2006|p=157}}。 |
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また、NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた[[堀正文]]は、普段おっとりしているぶん、スウィトナーが強い言葉で指示をしたときはとても迫力があったと述べている{{Sfn|堀|2010|p=166}}。堀はスウィトナーの指揮で[[アルバン・ベルク]]の『[[ヴァイオリン協奏曲 (ベルク)|ヴァイオリン協奏曲]]』を演奏した際、第2楽章のあるパッセージについて「ライオンに肉をガッと抉られるような激しさで」と指示されたと回想している{{Sfn|堀|2010|p=166}}。また、堀はスウィトナーのリハーサルについて以下のようにも述べている{{Sfn|堀|2010|p=166}}。{{Quotation|なんとなく威圧感とか存在感があるマエストロですが、練習のときも言葉数は少なくて、やりたいことは、ひと言ふた言、的確な表現でおっしゃるんです。でもそれを聞いて、自分の中でこういう意味なんだとうまく消化して演奏しないといけない。速いとか遅いとか、強いとか弱いとかいう具体的な表現でなく、味わい深い表現なんです{{Sfn|堀|2010|p=166}}。}} |
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===指揮姿=== |
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NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた堀正文は、スウィトナーの指揮について「けっしてパワーで指揮なさるタイプではないんですけれども、身体の内からググーっとでてくるエネルギーの迫力はすごかったですね」と述べている{{Sfn|堀|2010|p=166}}。同じくNHK交響楽団のクラリネット奏者である西村初夫は「スウィトナーは一見、田舎のおっさんでしたが、ひとたび棒を振ると人間がまったく変わる。ひと回りもふた回りも大きく見えてきて、"こりゃいかん"と緊張させられるのです」と述べている{{Sfn|佐野|2007|p=274}}。 |
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また、音楽評論家の小石忠男はスウィトナーの指揮姿について以下のように述べている{{Sfn|小石|1980|p=158}}。{{Quotation|スウィトナーの指揮ぶりは、決して器用なものとはいえない。[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]のように指揮台の上の姿を見ているだけで、何か優美な運動の姿態を連想させるようなものではない。そのような見てくれはおそらくスウィトナー自身にとっても問題になるような要素ではなさそうだし、器用に、スムーズにオーケストラをドライヴするのも、また彼の音楽の目的とはなり得ないように思う。しかし彼の指揮棒には、必要なことはことごとく指示する的確さがあり、すべてが誠実に音楽をつくることを志向している。いわば古い時代の楽長タイプの名残をそこに見ることができるのだが、その拍子をとる手の動きは、なめらかでなくとも明快であり、音楽が白熱してきたときは上半身を大きく動かして腕を前に突き出すなど、一種独特の集中性の強さを感じさせる{{Sfn|小石|1980|p=158}}。}} |
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==人物== |
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チェーンスモーカーであり、酒も好んだ{{Sfn|堀|2010|p=166}}。来日した際には、NHK交響楽団ホルン奏者[[千葉馨]]の自宅で団員たちと食事会を行っており、オーケストラジョークや舞台上のハプニングの話などで場を和ませた{{Sfn|堀|2010|p=166}}。同団コンサートマスターの堀正文は「人間味にあふれた人で、茶目っ気もあるんですがジェントルで、みんなとの和を大切にされていました」と述べている{{Sfn|堀|2010|p=166}}。 |
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==顕彰歴== |
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スウィトナーは様々な賞を受賞した{{Sfn|上地|2017|p=80}}。1965年には東ドイツの国家芸術賞を授与されたが{{Sfn|森|1982|p=487}}、スウィトナーはその賞金をカトリック教会に寄付し、教皇[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]から勲章を受けた{{Sfn|城所|2010|p=165}}。ただし、共産主義において宗教は禁止されていたため、スウィトナーはこのことにより体制と反目したと見る向きもある{{Sfn|城所|2010|p=165}}。 |
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==レコーディング== |
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スウィトナーは[[ドイツ・グラモフォン]]、[[オイロディスク]]、[[ドイツ・シャルプラッテン]]、[[日本コロムビア#サブレーベル|DENON]]などのレーベルでレコーディングを行った{{Sfn|歌崎|2000|p=186}}。特にドイツ・グラモフォンは[[第二次世界大戦後]]に[[リヒャルト・シュトラウス]]、[[ハンス・プフィッツナー]]、[[マックス・フォン・シリングス]]、[[レオ・ブレッヒ]]などの、作曲家としても活躍していた19世紀生まれのスター指揮者たちを失ったため、新たに20世紀生まれの中堅指揮者たちを売り出すことを決意し、[[フェレンツ・フリッチャイ]]、[[イーゴリ・マルケヴィチ]]、[[フェルディナント・ライトナー]]、[[フリッツ・レーマン]]、[[フリッツ・リーガー]]らと並んでスウィトナーの録音を作成した{{Sfn|歌崎|2000|p=186}}。 |
|||
なお、スウィトナーは1980年から1983年にかけて、シュターツカペレ・ベルリンと[[ベートーヴェン]]の交響曲全集を完成させている{{Sfn|森|1982|p=487}}{{Sfn|Moroishi|2001}}{{Sfn|近藤|2010|p=90}}。他にも、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]、[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]などの交響曲全集を完成させた{{Sfn|國土|2010|p=163}}。 |
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スウィトナーはインタビューにおいて、レコーディングについて以下のように述べている{{Sfn|小石|1980|p=160}}。{{Quotation|レコードにはふたつの面があると思います。いい面とよくない面とですが、まずいい面から申しますと、レコードを録音する際には、自分自身に対して、正確にコントロールできるということです。演奏家が自分自身を十全にコントロールできるというのは大切なことだと思います。レコード録音では、演奏家として、冷静さがたもちやすいといってもいいでしょう。では、よくないところはどこかと申しますと、まず第一に、実際にあったものとはすくなからず違っている、あるいは実際にありえなかったものが、レコードにあらわれてきてしまうというところです。それはやはりよくないといわざるをえないでしょう{{Sfn|小石|1980|p=160}}。}} |
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==教育活動== |
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[[File:Beat Furrer 2014.jpg|thumb|スウィトナーの教え子の1人[[ベアート・フラー]] (2014年)]] |
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1988年からは[[ウィーン国立音楽大学]]の指揮科主任教授として後進を指導した{{Sfn|音楽の友|レコード芸術|2020|p=81}}{{Sfn|森|1982|p=487}}{{sfn|歌崎|1996|p=90}}。ウィーンでの教え子に{{仮リンク|オリヴァー・フォン・ドホナーニ|en|Oliver von Dohnányi}}{{Sfn|Duchen|2001}}、[[ベアート・フラー]]{{Sfn|Wiesmann|2010}}、[[タマジュ・スヴェテ]]{{Sfn|Barbo|2001}}、[[アフマド・エルサエディ]]{{Sfn|Kerim|2001}}がいる。また、[[ヴァイマル]]では{{仮リンク|バイロン・フィデツィス|en|Byron Fidetzis}}{{Sfn|Fulias|2014}}を、ザルツブルク夏季アカデミーでマリー=ジャンヌ・デュフールを{{Sfn|レルケ|2007|p=111}}教えた。他にも{{仮リンク|トルビヨーン・イワン・ルンドクヴィスト|sv|Torbjörn Iwan Lundquist}}{{Sfn|戸羽|2008|p=317}}<!--{{Sfn|戸羽|2008|317}}を推定により修正-->{{Sfn|Haglund|2001}}{{Sfn|Slonimsky|Kuhn|2001a|p=2206}}、[[梅田俊明]]{{Sfn|朝日新聞|2000|p=27}}、{{仮リンク|スチュアート・ロバートソン|en|Stewart Robertson}}{{Sfn|Slonimsky|Kuhn|McIntire|2001b|p=3006}}{{Sfn|Mcdaniel|2006|p=54}}、{{仮リンク|アルベルト・カプリオリ|fi|Alberto Caprioli}}{{Sfn|Slonimsky|Kuhn|McIntire|2001a|p=568}}、{{仮リンク|ジョエル・エリック・スーベン|en|Joel Eric Suben}}{{Sfn|McKenney|1982|p=10}}らを教えた。なお、スウィトナーのアシスタントを務めた指揮者としては[[オレグ・カエターニ]]がいる{{Sfn|青澤|2004|p=190}}{{Sfn|出谷|2010|p=179}}。 |
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スウィトナーは西ベルリンにある[[ベルリン芸術大学]]の教授職をオファーされたこともあったが、東ドイツの高級官僚たちから「他の場所ならどこでもいいが、お願いだから西ベルリンだけはやめてほしい」と言われ就任できなかった{{Sfn|城所|2010|p=165}}。また、[[児玉宏]]は東ドイツのドレスデンへの留学を熱望していたが、NHK交響楽団を指揮しに来日したスウィトナーに「東はやめろ」と忠告されたという(ただし結局児玉はスウィトナーには師事することができた){{Sfn|東条|2010|p=230}}{{Sfn|吉田|2010|p=4}}。 |
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なお、スウィトナーは指揮者のキャリア形成について以下のように述べている{{sfn|小山|1988|p=100}}{{sfn|小山|1988|p=101}}。{{Quotation|ドイツ、オーストリア、イタリアなどを見てのことですが、劇場でまず歌の伴奏などから出発して、[[コレペティートル|コレペティトル]]の経験をする。それから、[[オペレッタ]]や[[オペラ]]、[[バレエ]]をふって、次第に演奏会指揮へと進んでゆくのが望ましいと思うのですよ。というのは、総合的なものが要求されるこうした舞台音楽芸術をマスターするのは非常に難しいです。大変です。指揮者は、自身が広い見識や人間性をもち、音楽表現に弾力性を具えていなければならないと思っています。オペラやオペレッタを指揮することで、そうした広範囲のフレキシブルさを培えるのです。歌手の動きやその日のコンディションをみながら、臨機応変に合わせてゆくことや、アンサンブルをまとめてゆくすべを身につけられますね。これが初めからコンサート指揮者で立つと、その時点から指揮者はある種のスターですし、オーケストラも一応完成していて苦労が少ない。ために音楽が硬直性を帯びてこないとも限らない{{sfn|小山|1988|p=100}}{{sfn|小山|1988|p=101}}。}} |
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若い時に地方の小さな劇場で修行をしたのち、大劇場やコンサートホールで活躍するようになった先輩指揮者として、スウィトナーは、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]、[[オットー・クレンペラー]]、[[ブルーノ・ワルター]]、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]、[[エーリヒ・クライバー]]らをあげており、彼らについて「歌とファンタジーがふんだんにありました」と述べている{{sfn|小山|1988|p=101}}。また、ウィーン国立音楽大学でも、このようにキャリアを形成するよう学生たちに教えているとも述べている{{sfn|小山|1988|p=101}}。 |
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==スウィトナーを描いたドキュメンタリー== |
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スウィトナーは東ベルリンに妻がいたが、西ベルリンに愛人レナーテがおり、レナーテとの間には子供もいた{{Sfn|城所|2010|p=164}}。スウィトナーとレナーテの出会いはバイロイト音楽祭であり、スウィトナーはベルリンの壁を超えて彼女の家に通っていた{{Sfn|城所|2010|p=164}}。ベルリン国立歌劇場、および妻マルティナもこの三角関係については了解しており、ベルリンの壁が崩壊したのちは、妻と愛人で食事に行くこともあった{{Sfn|城所|2010|p=164}}{{Sfn|Independent|2010|p=42}}。2007年には、レナーテとの間に生まれた子供であるイゴール・ハイツマンがこの関係をドキュメンタリー『父の音楽〜指揮者スウィトナーの人生 (原題: Nach der Musik)』で描いた{{Sfn|城所|2010|p=164}}{{sfn|Independent|2010|p=42}}。音楽評論家の城所孝吉はこのドキュメンタリーについて「引退後のスウィトナーが重病を負いながらも精神的にはまったく衰えていなかったことを伝えている」「晩年の彼の様子や、チャーミングな人柄を知る上でも興味深い」と述べている{{Sfn|城所|2010|p=164}}。なお、このドキュメンタリーはいくつかの賞を獲得したほか{{sfn|Independent|2010|p=42}}、日本でもテレビで放送された{{Sfn|城所|2010|p=164}}。 |
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==評価== |
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『インデペンデント』紙はスウィトナーについて「[[カペルマイスター]]の伝統を受け継ぐ最後の1人」と記した{{Sfn|Independent|2010|p=42}}。また、音楽評論家の歌崎和彦はスウィトナーの演奏について「自分の個性を強く押し付けることはないが、確かな様式感と良い意味での職人性がひとつになった真摯な演奏は、いきいきと格調が高い」と述べている{{Sfn|歌崎|1996|p=90}}。同じく音楽評論家の小石忠男は「スウィトナーの芸術の本質と様式は、オペラ劇場志向にあると思う。それは彼が決してシンフォニー・コンサートに適当ではないという意味ではなく、常に激情的な音楽、声楽的な様式をその演奏のうちに内在させているということである」「テンポが音楽の内容と完全に密着して、はやすぎず、おそすぎず、実に中庸・妥当でありながら、決して推進力や緊張感を失わない」と述べている{{Sfn|小石|1980|p=159}}{{Sfn|小石|1980|p=161}}。 |
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なお、[[NHK交響楽団]]の楽団員たちはスウィトナーについて以下のように述べている。{{Quotation|わりと茫洋としていて、[[ヴォルフガング・サヴァリッシュ|サヴァリッシュ]]のように”規制"を感じさせない。オーケストラに色彩を加えていくというタイプではなく、大きな入れ物を持っていて、そのなかから私たちに音楽的センスを分け与えてくれたような指揮者でした。ーーNHK交響楽団チェロ奏者 斉藤鶴吉{{Sfn|佐野|2007|p=275}}{{Sfn|佐野|2007|p=210}}}}{{Quotation|N響とはあっという間に親しくなりました。また、お客さんにとても人気があった。オケが引っ込んで、指揮者が呼び出されるということは、それまで日本では習慣になっていなかった。彼が初めてじゃなかったかな。それぐらい親近感があって、聴衆にも伝わったのでしょう。だから、お互いを知り尽くしたレパートリーで、スウィトナーさんとはぶっつけ本番でやってみたいね、という話をよくしていました。ーーNHK交響楽団フルート奏者 [[植村泰一]]{{Sfn|佐野|2007|p=275}}{{Sfn|佐野|2007|p=242}}}} |
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一方で、[[ウィーン国立歌劇場]]に登場して[[ヴィーラント・ワーグナー]]の演出による『[[さまよえるオランダ人]]』を指揮した際にはブーイングを受けた{{Sfn|Wechsberg|1973|p=19}}。また、サンフランシスコ・オペラにおけるスウィトナーの『ニーベルングの指環』公演は、『タイム』紙において「興奮するような瞬間はほとんどなく、サウンドは全てひどかった」と書かれた{{Sfn|Times|2010|p=61}}。 |
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==出典== |
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===注釈=== |
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{{Reflist|group=注}} |
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===脚注=== |
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{{reflist|2}} |
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==参考文献== |
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===英語文献=== |
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*{{Cite encyclopedia |
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|last=Barbo |
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|first=Matjaž |
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|title=Svete, Tomaž |
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|date=2001 |
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*{{Cite encyclopedia |
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|title=Dohnányi, Oliver von |
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*{{Cite news |
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|author=FROM OUR SPECIAL CORRESPONDENT |
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|title=Bayreuth to Be Done Up. |
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|date=1964-09-22 |
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|author=上地隆裕 |
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|author=歌崎和彦 |
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*{{Cite journal|和書 |
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|author=近藤憲一 |
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*{{Cite book|和書 |
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|author=近藤憲一 |
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*{{Cite book|和書 |
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*{{Cite book|和書 |
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*{{Cite book|和書 |
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*{{Cite book|和書 |
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*{{Cite book|和書 |
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|editor=歌崎和彦 |
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|title=証言 日本洋楽レコード史 |
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*{{Cite book|和書 |
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|author=出谷啓 |
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|title=伝統重視の演目でベルリン国立歌劇場公演 ドイツ統一後初の来日へ |
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*{{Cite book|和書 |
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|author=東条碩夫 |
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*{{cite book|和書 |
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*{{Cite book|和書 |
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|author=野崎正俊 |
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|||
*{{Cite journal|和書 |
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|author=堀正文 |
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|title=ゲミューリヒカイトなマエストロ |
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*{{cite journal|和書 |
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|title=Suitner, Otmar オットマール・スウィトナー |
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|title=スウィトナー、オトマール |
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|author=諸井誠 |
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|title=感動と疑問と ベルリン国立歌劇場日本公演を観て |
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|author=諸井誠 |
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|title=オペラの時間 |
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|author=吉田純子 |
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|title=聴衆の好奇心、育てたい 指揮者・児玉宏、東京で20日に公演 |
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|title=若手起用し仙台フィル再出発 梅田氏、春から常任指揮者に |
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==外部リンク== |
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*[https://www.allmusic.com/artist/otmar-suitner-mn0002200843 Otmar Suitner] - [[オールミュージック]] |
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*[https://www.discogs.com/artist/833108-Otmar-Suitner Otmar Suitner] - [[Discogs]] |
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*[https://www.imdb.com/name/nm2523579/?ref_=nv_sr_srsg_0 Otmar Suitner] - [[IMDb]] |
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2021年12月25日 (土) 17:55時点における版
オトマール・スウィトナー | |
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基本情報 | |
出生名 | Otmar Suitner |
生誕 | 1922年5月16日 |
出身地 | オーストリア、インスブルック |
死没 |
2010年1月8日(87歳没) ドイツ、ベルリン |
学歴 |
インスブルック音楽院 モーツァルテウム |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 1942年 - 1990年 |
オトマール・スウィトナー (Otmar Suitner, 1922年5月16日-2010年1月8日) は、オーストリアの指揮者である[1][2]。シュターツカペレ・ドレスデン[3]、シュターツカペレ・ベルリン[4]、NHK交響楽団などで活躍したほか[5][6][7]、ウィーン国立音楽大学で教鞭をとった[8]。日本語ではオットマール・スウィトナーと表記されることもある[9]。
生涯
幼年期・学生時代
1922年5月16日、ドイツ人の父とイタリア人の母のもと、オーストリアの景勝地インスブルックに生まれる[1][5]。なお、スウィトナーという名字はフランス語の "suite" に由来するとされる[10]。インスブルックの市立音楽院でフリッツ・ヴィートリヒにピアノを学んだのち、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に入学し、フランツ・レドヴィンカにピアノを、クレメンス・クラウスに指揮を師事した[11][12][2][13][14][15]。また、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーの知己を得て、親しく付き合った[16]。
スウィトナーはインタビューにて、師のクラウスについて以下のように語っている[16]。
その当時クラウスはまだミュンヘンの国立歌劇場の総監督で、彼はまたリヒャルト・シュトラウスの影響を強く受けていましたので、私もクラウスを通じて、シュトラウスの息吹きを継承してきたことになります。ですから、私は彼を尊敬していたし、彼も私をよく可愛がってくれました。彼から得た知識、経験は大きいし、実習面でも、私はミュンヘンの舞台を十分に研究するチャンスを与えられました[16]。
キャリア初期
クラウスの勧めでインスブルックやレックリングハウゼンなどの教会で合唱団の指揮者を務めたのち[17][2]、1942年にインスブルックのチロル州立劇場の指揮者となり、スウィトナー自身が小編成のオーケストラ用に編曲したリヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』を指揮してデビューを飾った[11][18][注 1]。なお、この演奏を聴いていた作曲家からは賞賛されている[11]。
その後スウィトナーはピアノでバレエの下稽古を行ったりしつつ、指揮者として定期的に活動していたが、1944年にチロル劇場の指揮者を辞任してからはポストを得ることができず、1952年まではピアニストとして活動を行い、ウィーン、ローマ、ミュンヘン、スイスなどでコンサートを行った[11][19][15][20]。その後1952年にレムシャイト市の音楽監督に迎えられて指揮者に復帰し、1957年にはルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインを本拠地とするプファルツ管弦楽団の音楽監督となった[11][21]。その傍らで、ウィーン、ハンブルク、ミュンヘンなど、オーストリア、ドイツの各地で客演活動を行い[11]、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮した[22][13]。
ドレスデン国立歌劇場時代
スウィトナーは1960年にドレスデン国立歌劇場およびそのオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデンの音楽総監督兼首席指揮者に就任した[23][3][24][25]。特にモーツァルトの演奏については「東ドイツに並ぶものはいない」と言われるほど評価されたが[26]、伝統的な演目の他にもハンス・アイスラーやルイジ・ダラピッコラといった同時代の作曲家の作品も取り上げており、こちらも高い評価を得た[23]。また、東欧諸国やソ連への演奏旅行を行なったほか[12]、1961年には『薔薇の騎士』の初演50周年公演を指揮した[15]。しかし1964年には、前任のフランツ・コンヴィチュニーのようにベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任してドレスデンを去った[23][27]。ただし、シュターツカペレ・ドレスデンとのレコーディングは続けられた[27]。
スウィトナーはシュターツカペレ・ドレスデンについて「時代や混乱を通じても自らに誠実であり続けた理想的かつ完璧な楽器」と賞賛している[28]。また、80人の誕生日である2002年5月16日には、ドレスデンの旧友たちとともにゼンパー・オーパーに姿を見せた[27][注 2]。
音楽評論家の小石忠男は「(スウィトナー同様シュターツカペレ・ドレスデンで音楽監督などの地位にあった)ベームや後述のケンペ、ザンデルリンクの場合にも同じことがいえるが、彼らの在任とレコード録音の時期にかなりの差異があるのは興味深い」と述べており、その原因として「レコード録音の体制やスタジオ、機材の整備が遅れたためであろう。当時のドイツ民主共和国は食糧すら不足し、経済的に困窮していたからである」と記している[25]
ベルリン国立歌劇場時代
1964年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任し、1990年まで務めた[21][4]。スウィトナー時代のシュターツカペレ・ベルリンは、音楽監督の在任期間(26シーズン)、演奏旅行の数、録音の点数、聴衆の動員率などで過去の記録を大幅に上回ったうえ、ディスクの売れ行きも好調であった[29]。さらに、スウィトナーは前任のコンヴィチュニーの路線を踏襲しつつ、新たなレパートリーを開拓したほか、西側の人材も登用した[30][29]。インタビューにおいて、スウィトナーはシュターツカペレ・ベルリンのレパートリーについて以下のように述べている[31]。
劇場ではドイツ・オペラを全般にわたって掘り下げることを優先させていますが、私は母がイタリア人ですから血の半分はイタリアで、イタリア・オペラは大変好きです。で、上演したい作品は沢山あります。が、ドイツ物はある程度アンサンブルでもってゆけますが、イタリア物は声が第一のいい歌手が絶対必要です。それには経済面がネックになる。また自国語上演が前提なので、その難しさも。イタリア語は言葉自体が歌に適し、とても声楽的な言語です。だから原語上演が最良ですが、その点でも現状ではちょっと難しいところがあります。私は日本語訳でのイタリア・オペラを観ていますが、語感はドイツ語よりも旋律にのっています。字幕も一つの解決策で、日本で試みられているこの方法もいっそう研究したいですね[31]。
この結果、シュターツカペレ・ベルリンは同じ都市で活動するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に比肩する存在としてみなされるようになったとされる[29]。音楽評論家の小石忠男は「シュターツカペレ・ベルリンもスウィトナーの時代に入ってから、従来の強固で重厚なアンサンブルに、透明度と柔軟性を加えた。彼らはおびただしいオペラ上演で交響的ともいえる見事な演奏を披露すると同時に、年間8回(各2夜)のシンフォニー・コンサートを国立歌劇場で開催した。その成果は数多くの録音に残されている」と評している[30]。
なお、ベルリンの壁が設けられたこともあり、この時代のシュターツカペレ・ベルリンは東側を代表する演奏団体とみなされるようになり、人事面などで国家からの介入が多くあったとされる[32][29]。また、スウィトナーは当時半ば禁止されていた現代音楽をプログラムに組み込んだため、当局と揉めることもあったという[33]。ただしスウィトナーは東ドイツ財政を支える存在でもあり、1年で36000ポンドを稼いだと言われている[34]。なお、1988年のインタビューでスウィトナーは「1964年以来ですから、そろそろ離れようかと考えましたが、慰留されています」と述べている。[31]。
世界各地での活躍
1964年から1967年にかけてスウィトナーはバイロイト音楽祭に登場し『タンホイザー』、『さまよえるオランダ人』、『ニーベルングの指環』を指揮した[16][35][8][36][注 3]。なお、バイロイト音楽祭の中心的な人物であり、リヒャルト・ワーグナーの孫であった演出家のヴィーラント・ワーグナーについてスウィトナーは以下のように述べている[35]。
私のワーグナー作品観とヴィーラント・ワーグナーのそれとはかなり一致していると思います。彼は、彼のお祖父さんの芸術を非常に本質的に理解しているからです。彼の実験的精神は、ワーグナー作品に対する彼の深い理解をそこなってはいません。なぜなら、彼はオペラ・スコアの隅々までを実によく知っている。ちょうど、あらゆるカペルマイスターがスコアを熟知しているように......[35]。
1971年に初めて指揮したNHK交響楽団では、聴衆、楽団員から高い評価を得ており[5][6][7]、1973年に再びNHK交響楽団を指揮した際には「名誉指揮者」の称号を贈られた[7][注 4]。音楽評論家の宇野功芳は「彼が振るN響の弦が時にウィーン・フィルのような響きを出すのを聴いた方は多いと思う」と記している[42]。なお、NHK交響楽団および日本の聴衆についてスウィトナー自身は以下のように述べている[9]。
他にも1969年から定期的にサンフランシスコ・オペラに登場してドイツの作品を指揮したほか[12][43]、ウィーン国立歌劇場、ボリショイ劇場、ボストン交響楽団などにも登場した[13][44]。また、ドイツ民主共和国は自国のイデオロギーを普及させるために中東諸国での音楽活動を支援していたが、その一環としてスウィトナーもカイロでコンサートを行っており、「とても大きな反響があるので、カイロで演奏するのは私たちにとって喜びだ」というコメントを残している[45]。
晩年
1980年代後半から体調不良を訴えることが多くなり、1990年にはパーキンソン病が原因で事実上の引退状態となった[46][47][注 5]。音楽評論家の國土潤一は、引退する以前よりスウィトナーの演奏は往時の精彩を欠いていたと述べており、「円熟よりは『老い』を強く感じさせる演奏が多くなっていたように記憶している」とも述べている[2]。なお、シュターツカペレ・ベルリンは1990年代に一度スウィトナーを舞台に呼び戻そうとしたことがあったが、それが不可能なことであるのは初回のリハーサルから明白であったと言われている[33]。
スウィトナーは引退以前から西ベルリンの愛人と交流していたが、これは本妻も承知していたことであり、ベルリンの壁が崩壊したのちには両家族を交えて食事をすることもあったという[47]。2007年には、愛人との子供であるイゴール・ハイツマンが、ドキュメンタリー『父の音楽〜指揮者スウィトナーの人生』でその様子を描いた[47]。
2010年1月8日、オトマール・スウィトナーは87歳で死去した[2]。スウィトナー死去のニュースは、ベルリンの3大地方紙『ターゲス・シュピーゲル』『ベルリナー・モルゲンポスト』『ベルリナー・ツァイトゥング』をはじめとして、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』『ディ・ヴェルト』などの全国紙や、オーストリアの新聞などでも取り上げられた[47]。他にも、『タイムズ』[15]『朝日新聞』[49]『インデペンデント』[20]などが取り上げた。
スウィトナーの葬儀は、1月24日にベルリン国立歌劇場の裏にあるベルリンのカトリック司教座、聖ヘドヴィヒ大聖堂で行われた[33]。この葬儀は新聞でも告知された公開のものであり、シュターツカペレ・ベルリンがレクイエムを演奏した[33]。また、シュターツカペレ・ベルリンは1月24日と25日に、バレンボイムが指揮する演奏会をスウィトナーに捧げた[33]。他にも、スウィトナーの追悼盤として、シュターツカペレ・ベルリンを指揮したモーツァルトの『魔笛』、NHK交響楽団を指揮したリヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』がリリースされた[33]。
演奏スタイル
レパートリー
モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウスの作品や、イタリアの作品の指揮に定評があった[12][50][注 6]。同時代の作曲家の作品も取り上げており、ハンス・アイスラーやルイジ・ダラピッコラらの作品を指揮したほか[23]、パウル・デッサウの『プンティラ (1966年)』、『アインシュタイン (1974年)』、『レオンスとレナ (1979年)』などの初演を行なっている[12]。なお、『アインシュタイン』と『レオンスとレナ』は録音を遺した[20]。
リハーサル
スウィトナーのもとで演奏したオーケストラ団員は、スウィトナーはリハーサルでは優しいことしか言わず、声も小さかったと述べている[52]。また、オーケストラに注文をする際も「みなさんよくお弾きになっているんですが、どうしてもお一人だけお分かりじゃない方がいらっしゃる」と言って、その団員を見つめながら指揮をしていたという[52]。なお、スウィトナーの視線の先にいた団員たちは「自分のことではないはずだ」と体を避けながら演奏していたという[52][53]。
また、NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた堀正文は、普段おっとりしているぶん、スウィトナーが強い言葉で指示をしたときはとても迫力があったと述べている[51]。堀はスウィトナーの指揮でアルバン・ベルクの『ヴァイオリン協奏曲』を演奏した際、第2楽章のあるパッセージについて「ライオンに肉をガッと抉られるような激しさで」と指示されたと回想している[51]。また、堀はスウィトナーのリハーサルについて以下のようにも述べている[51]。
なんとなく威圧感とか存在感があるマエストロですが、練習のときも言葉数は少なくて、やりたいことは、ひと言ふた言、的確な表現でおっしゃるんです。でもそれを聞いて、自分の中でこういう意味なんだとうまく消化して演奏しないといけない。速いとか遅いとか、強いとか弱いとかいう具体的な表現でなく、味わい深い表現なんです[51]。
指揮姿
NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた堀正文は、スウィトナーの指揮について「けっしてパワーで指揮なさるタイプではないんですけれども、身体の内からググーっとでてくるエネルギーの迫力はすごかったですね」と述べている[51]。同じくNHK交響楽団のクラリネット奏者である西村初夫は「スウィトナーは一見、田舎のおっさんでしたが、ひとたび棒を振ると人間がまったく変わる。ひと回りもふた回りも大きく見えてきて、"こりゃいかん"と緊張させられるのです」と述べている[6]。
また、音楽評論家の小石忠男はスウィトナーの指揮姿について以下のように述べている[54]。
スウィトナーの指揮ぶりは、決して器用なものとはいえない。カラヤンのように指揮台の上の姿を見ているだけで、何か優美な運動の姿態を連想させるようなものではない。そのような見てくれはおそらくスウィトナー自身にとっても問題になるような要素ではなさそうだし、器用に、スムーズにオーケストラをドライヴするのも、また彼の音楽の目的とはなり得ないように思う。しかし彼の指揮棒には、必要なことはことごとく指示する的確さがあり、すべてが誠実に音楽をつくることを志向している。いわば古い時代の楽長タイプの名残をそこに見ることができるのだが、その拍子をとる手の動きは、なめらかでなくとも明快であり、音楽が白熱してきたときは上半身を大きく動かして腕を前に突き出すなど、一種独特の集中性の強さを感じさせる[54]。
人物
チェーンスモーカーであり、酒も好んだ[51]。来日した際には、NHK交響楽団ホルン奏者千葉馨の自宅で団員たちと食事会を行っており、オーケストラジョークや舞台上のハプニングの話などで場を和ませた[51]。同団コンサートマスターの堀正文は「人間味にあふれた人で、茶目っ気もあるんですがジェントルで、みんなとの和を大切にされていました」と述べている[51]。
顕彰歴
スウィトナーは様々な賞を受賞した[29]。1965年には東ドイツの国家芸術賞を授与されたが[11]、スウィトナーはその賞金をカトリック教会に寄付し、教皇パウロ6世から勲章を受けた[33]。ただし、共産主義において宗教は禁止されていたため、スウィトナーはこのことにより体制と反目したと見る向きもある[33]。
レコーディング
スウィトナーはドイツ・グラモフォン、オイロディスク、ドイツ・シャルプラッテン、DENONなどのレーベルでレコーディングを行った[55]。特にドイツ・グラモフォンは第二次世界大戦後にリヒャルト・シュトラウス、ハンス・プフィッツナー、マックス・フォン・シリングス、レオ・ブレッヒなどの、作曲家としても活躍していた19世紀生まれのスター指揮者たちを失ったため、新たに20世紀生まれの中堅指揮者たちを売り出すことを決意し、フェレンツ・フリッチャイ、イーゴリ・マルケヴィチ、フェルディナント・ライトナー、フリッツ・レーマン、フリッツ・リーガーらと並んでスウィトナーの録音を作成した[55]。
なお、スウィトナーは1980年から1983年にかけて、シュターツカペレ・ベルリンとベートーヴェンの交響曲全集を完成させている[11][56][57]。他にも、シューベルト、シューマン、ブラームス、ドヴォルザークなどの交響曲全集を完成させた[58]。
スウィトナーはインタビューにおいて、レコーディングについて以下のように述べている[59]。
レコードにはふたつの面があると思います。いい面とよくない面とですが、まずいい面から申しますと、レコードを録音する際には、自分自身に対して、正確にコントロールできるということです。演奏家が自分自身を十全にコントロールできるというのは大切なことだと思います。レコード録音では、演奏家として、冷静さがたもちやすいといってもいいでしょう。では、よくないところはどこかと申しますと、まず第一に、実際にあったものとはすくなからず違っている、あるいは実際にありえなかったものが、レコードにあらわれてきてしまうというところです。それはやはりよくないといわざるをえないでしょう[59]。
教育活動
1988年からはウィーン国立音楽大学の指揮科主任教授として後進を指導した[8][11][22]。ウィーンでの教え子にオリヴァー・フォン・ドホナーニ[60]、ベアート・フラー[61]、タマジュ・スヴェテ[62]、アフマド・エルサエディ[63]がいる。また、ヴァイマルではバイロン・フィデツィス[64]を、ザルツブルク夏季アカデミーでマリー=ジャンヌ・デュフールを[65]教えた。他にもトルビヨーン・イワン・ルンドクヴィスト[66][67][68]、梅田俊明[69]、スチュアート・ロバートソン[70][71]、アルベルト・カプリオリ[72]、ジョエル・エリック・スーベン[73]らを教えた。なお、スウィトナーのアシスタントを務めた指揮者としてはオレグ・カエターニがいる[74][75]。
スウィトナーは西ベルリンにあるベルリン芸術大学の教授職をオファーされたこともあったが、東ドイツの高級官僚たちから「他の場所ならどこでもいいが、お願いだから西ベルリンだけはやめてほしい」と言われ就任できなかった[33]。また、児玉宏は東ドイツのドレスデンへの留学を熱望していたが、NHK交響楽団を指揮しに来日したスウィトナーに「東はやめろ」と忠告されたという(ただし結局児玉はスウィトナーには師事することができた)[76][77]。
なお、スウィトナーは指揮者のキャリア形成について以下のように述べている[9][31]。
ドイツ、オーストリア、イタリアなどを見てのことですが、劇場でまず歌の伴奏などから出発して、コレペティトルの経験をする。それから、オペレッタやオペラ、バレエをふって、次第に演奏会指揮へと進んでゆくのが望ましいと思うのですよ。というのは、総合的なものが要求されるこうした舞台音楽芸術をマスターするのは非常に難しいです。大変です。指揮者は、自身が広い見識や人間性をもち、音楽表現に弾力性を具えていなければならないと思っています。オペラやオペレッタを指揮することで、そうした広範囲のフレキシブルさを培えるのです。歌手の動きやその日のコンディションをみながら、臨機応変に合わせてゆくことや、アンサンブルをまとめてゆくすべを身につけられますね。これが初めからコンサート指揮者で立つと、その時点から指揮者はある種のスターですし、オーケストラも一応完成していて苦労が少ない。ために音楽が硬直性を帯びてこないとも限らない[9][31]。
若い時に地方の小さな劇場で修行をしたのち、大劇場やコンサートホールで活躍するようになった先輩指揮者として、スウィトナーは、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、オットー・クレンペラー、ブルーノ・ワルター、アルトゥーロ・トスカニーニ、エーリヒ・クライバーらをあげており、彼らについて「歌とファンタジーがふんだんにありました」と述べている[31]。また、ウィーン国立音楽大学でも、このようにキャリアを形成するよう学生たちに教えているとも述べている[31]。
スウィトナーを描いたドキュメンタリー
スウィトナーは東ベルリンに妻がいたが、西ベルリンに愛人レナーテがおり、レナーテとの間には子供もいた[47]。スウィトナーとレナーテの出会いはバイロイト音楽祭であり、スウィトナーはベルリンの壁を超えて彼女の家に通っていた[47]。ベルリン国立歌劇場、および妻マルティナもこの三角関係については了解しており、ベルリンの壁が崩壊したのちは、妻と愛人で食事に行くこともあった[47][20]。2007年には、レナーテとの間に生まれた子供であるイゴール・ハイツマンがこの関係をドキュメンタリー『父の音楽〜指揮者スウィトナーの人生 (原題: Nach der Musik)』で描いた[47][20]。音楽評論家の城所孝吉はこのドキュメンタリーについて「引退後のスウィトナーが重病を負いながらも精神的にはまったく衰えていなかったことを伝えている」「晩年の彼の様子や、チャーミングな人柄を知る上でも興味深い」と述べている[47]。なお、このドキュメンタリーはいくつかの賞を獲得したほか[20]、日本でもテレビで放送された[47]。
評価
『インデペンデント』紙はスウィトナーについて「カペルマイスターの伝統を受け継ぐ最後の1人」と記した[20]。また、音楽評論家の歌崎和彦はスウィトナーの演奏について「自分の個性を強く押し付けることはないが、確かな様式感と良い意味での職人性がひとつになった真摯な演奏は、いきいきと格調が高い」と述べている[22]。同じく音楽評論家の小石忠男は「スウィトナーの芸術の本質と様式は、オペラ劇場志向にあると思う。それは彼が決してシンフォニー・コンサートに適当ではないという意味ではなく、常に激情的な音楽、声楽的な様式をその演奏のうちに内在させているということである」「テンポが音楽の内容と完全に密着して、はやすぎず、おそすぎず、実に中庸・妥当でありながら、決して推進力や緊張感を失わない」と述べている[78][79]。
なお、NHK交響楽団の楽団員たちはスウィトナーについて以下のように述べている。
一方で、ウィーン国立歌劇場に登場してヴィーラント・ワーグナーの演出による『さまよえるオランダ人』を指揮した際にはブーイングを受けた[82]。また、サンフランシスコ・オペラにおけるスウィトナーの『ニーベルングの指環』公演は、『タイム』紙において「興奮するような瞬間はほとんどなく、サウンドは全てひどかった」と書かれた[15]。
出典
注釈
- ^ 1941年にモーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビューしたとする文献もある[13]。
- ^ 同日、シュターツカペレ・ベルリンでもダニエル・バレンボイムの主催で、スウィトナー80歳の誕生日が祝われた[27]。
- ^ バイロイトでの『ニーベルングの指環』は、本来カール・ベームが4作全て(『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』)を指揮する予定であったが、体調不良のためスウィトナーが代理で指揮した[37][38]。
- ^ なお、1983年にシュターツカペレ・ベルリンと来日した際、スウィトナーはワーグナーの『タンホイザー』『さまよえるオランダ人』とともに、日本での『第九』人気を考慮してベートーヴェンの『フィデリオ』をプログラムに入れたが、音楽評論家の諸井誠は「これでは日本通の名が泣くというもの。日本のオペラ通は、凡演の「フィデリオ」の退屈を百も承知しているのだから。それを承知で、舞台を「観に」ではなく、「音楽」そのものの素晴らしさを「聴きに」オペラ鑑賞に出かけていく所までは、我々の音楽文化の一般的水準はまだ上がっていないし、そうした楽しみ方にしては入場料が余りにも高すぎる。我が国での外来オペラ団の干渉は相当な贅沢の部類に入るのである。指揮者とオーケストラと合唱を聴けというのだったら、『フィデリオ』は、コンサート形式で充分鑑賞に耐える音楽内容を備えているのだ。オペラとして観せるのなら、納得のいく主役を揃えてくれないと、この特異なオペラ作品ではまず無理だろう」と述べている[39][40][41]。
- ^ 1990年に予定されていたシュターツカペレ・ベルリンとの来日公演も病気でキャンセルし、ジークフリート・クルツ、ハインツ・フリッケが代わりに指揮をした[48]。
- ^ NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた堀正文は、自分たちのオーケストラとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のモーツァルト演奏の違いをスウィトナーに尋ねたところ「演奏上の技術的なものはぜんぜん変わらない、ただ気構えが違う。モーツァルトの音楽に対して構えすぎないように」と言われたと回想している[51]。また、堀はスウィトナーのモーツァルト演奏について「N響でモーツァルトを振るときも、流れを重視して、けっして構えていなかったですね。あまり細かいことはおっしゃいませんが、顔の表現や動きひとつでテンポ感もウエイトの置き方もわかりました」と述べている[51]。
脚注
- ^ a b 森 1982, p. 486.
- ^ a b c d e 國土 2010, p. 162.
- ^ a b 上地 2017, p. 101.
- ^ a b 上地 2017, p. 78.
- ^ a b c 佐野 2007, p. 273.
- ^ a b c 佐野 2007, p. 274.
- ^ a b c d e 佐野 2007, p. 275.
- ^ a b c 音楽の友 & レコード芸術 2020, p. 81.
- ^ a b c d e 小山 1988, p. 100.
- ^ 小石 1980, p. 155.
- ^ a b c d e f g h i 森 1982, p. 487.
- ^ a b c d e Oxford University Press 2010.
- ^ a b c d 村田 1982, p. 568.
- ^ 藤田 1982, p. 1278.
- ^ a b c d e Times 2010, p. 61.
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