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こうして姿を消していった蒸気機関車だが、蒸気機関車を近代産業遺産として保存する動きも出てくるようになる。また、姿を消していく蒸気機関車を追うように1970年代前半に全国で[[SLブーム]]が起こり、[[函館本線]][[目名駅|目名]] - [[上目名駅|上目名]]間(現・廃止)や[[伯備線]]布原信号場(現・[[布原駅]])などに代表される撮影ポイントに多くのファンが押し寄せるようになり、まったく鉄道に興味のない人まで蒸気機関車を追いかけるようになったのである。そしてこうした動きを受け、ついに保存活動に動き出す。そのはしりとなったのが、[[1970年]](昭和45年)8月に大井川鉄道(現・[[大井川鐵道]])が[[西濃鉄道]]から[[国鉄2100形蒸気機関車|2109(2100形)]]を譲り受け、同年11月に[[千頭駅|千頭]] - [[川根両国駅|川根両国]]間で開始した動態保存運転である。その後[[国鉄10形蒸気機関車|クラウス15, 17]]や[[国鉄1275形蒸気機関車|1275(1275形)]]などの動態保存運転も行なった同社は、国鉄から蒸気機関車が消滅した1976年[[7月9日]]、ついに蒸気機関車の本線[[リバイバルトレイン|復活運転]]を開始した。これが、[[国鉄C11形蒸気機関車227号機|C11 227]]による[[かわね路号]]である。この復活蒸気機関車運転は大人気を博し、その後は[[国鉄C56形蒸気機関車#C56 44|C56 44]]を含む蒸気機関車を動態復元し、現在も実施しているほか、1987年には、同じく文化遺産保護活動を行なう[[日本ナショナルトラスト]]が購入した[[国鉄C12形蒸気機関車#過去の動態保存機|C12 164]]も動態復元した。 |
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一方、国鉄も[[1972年]](昭和47年)の鉄道100年を契機に蒸気機関車の恒久的な[[動態保存]]に乗り出し、同年10月に[[京都駅]]近くに梅小路蒸気機関車館を開館する。開館当初は16形式17両のうち15両に車籍があり、13両が有火状態であった。この保存機を用いて[[東海道本線]]など都市近郊での運転実施が計画され、開館直後から1974年までC62形やC61形を用いた「SL白鷺号」が京都 - [[姫路駅|姫路]]間に行楽シーズンに運行されている。しかし、その後労使問題の深刻化などの理由から保存運転は中断され、その間に営業用の蒸気機関車が姿を消すこととなった。 |
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2021年10月14日 (木) 22:53時点における版
日本の蒸気機関車史(にほんのじょうききかんしゃし)では、日本における蒸気機関車の歴史について記す。
鉄道創始
日本では、実物の蒸気機関車よりも早く模型の蒸気機関車が登場した。江戸時代末期の1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが来航し、蒸気で走る模型を披露したり1854年(嘉永7年)、アメリカのマシュー・ペリーが江戸幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録がある[1][2]。また、1853年[3]、佐賀藩の精錬方であった田中久重、中村奇輔、石黒寛二らによって外国の文献を頼りに軌間130mmの蒸気機関車や蒸気船の雛型(模型)が製作された。また、加賀の大野弁吉が蒸気機関車の模型を作った記録がある。さらに同時期に長州藩の中島治平が長崎で購入したか木戸孝允がパリで購入したと伝えられるナポレオン号が山口県立山口博物館に保存されている。これらの機関車は2003年(平成15年)に国立科学博物館で開催された江戸大博覧会[4]で展示された。佐賀藩以外にも宇和島藩で伊達宗城が蒸気船の模型を軍学者である大村益次郎とちょうちん屋の嘉蔵(前原巧山)に作らせたとする記録がある。このように日本では実物よりも先に模型の方が完成したことにより、実物の導入以前に既に蒸気機関の原理や構造への理解が習得されていた。
日本の鉄道は1872年(明治5年)に開業したが、この時、投入された車両は1号機関車などであり、すべてイギリス製の車両であった。明治政府が発足して間もない時期であり、実物の製造技術のノウハウが乏しい時期であったため、当然の判断である。
その後、官営鉄道(国鉄)ではイギリス様式の鉄道が建設されたため、車両も同国からの輸入が多かったが、北海道の官営幌内鉄道では7100形(「弁慶」や「静」などの愛称がついた)などアメリカ様式による施設・車両が導入され、九州鉄道ではドイツ様式を採用した。
国産化の模索
鉄道技術の国産化は明治政府にとって急務であった。政府直営はもちろんのこと、民間車両工業の勃興を画策して大阪に汽車製造、名古屋に日本車輌製造を設立し、積極的な展開を図った。海外より輸入される機関車のコピー生産を民間各社に発注し技術力を磨かせるとともに、技官を海外へ留学させ自主設計の学術的、技術的な地盤を固めてゆく[5]。
1893年(明治26年)にイギリス人技術者の指揮の下、日本初の国産機関車である860形(A9形)が鉄道庁神戸工場で製造された。そして1902年(明治35年)には汽車製造がイギリス製のA8形を模倣して230形(A10形)を量産している。
しかし、基礎技術について自信を深めるには明治の末まで待たねばならなかった。また車軸など特殊な鋼製部品の国産化は第一次世界大戦による輸入品途絶後になった。
大正時代に入り、ようやく日本でのオリジナルの設計の幹線用蒸気機関車が登場し始める。その初期の成功例が貨物用の9600形であり、旅客用の8620形であった。両機関車の多くは国内民間メーカーで生産され、これをもって蒸気機関車国産化の体制はほぼ整ったといえる。特に9600形は、引退してゆく後続形式を尻目に日本の蒸気機関車の終焉を見届けるほどの長命を保つことになった[6]。
国産化の進展
大正初期に、最初の本格的な量産型国産機である9600形および8620形が成功したことで、以後国内向けの蒸気機関車は国産でまかなわれることになった。
第一次世界大戦後の好況による輸送量増大に伴い、鉄道省は蒸気機関車のさらなる性能向上と標準化を推進した。その結果、大型の旅客機18900形(のちのC51形)および貨物機9900形(のちのD50形)が大量生産され、以後第二次世界大戦後の1948年までに、各種用途に対応する蒸気機関車が登場した。
これらの蒸気機関車は、一部の例外を除けば、概して実用上十分な信頼性・耐久性を備え、戦前・戦後の鉄道全盛期を通じて1976年(昭和51年)の全廃まで各所で活躍した。
他動力形式の模索と開発の停滞
他種動力方式への注目は早く、1903年には島安次郎が高速電気鉄道研究協会の運転を見て鉄道電化の必要性と高速化の可能性を報告している[7]。翌1904年(明治37年)8月に甲武鉄道が電車運転を開始すると、機関車の動力に電気を応用することが考えられた。水力発電により石炭の節約ができる、蒸気機関車と比べ電車や電気機関車の引き出しの速いこと、性能に勝る電気機関車を作り線路の輸送力を増加させられるなど利点が多く、蒸気機関車から電化への考えに至った。さらに、電化によって煙がなくなることは乗客や住民の望む所であり、トンネルの多い区間においては乗務員の労働環境改善につながった[8]。これに加えて、民間レベルでは蒸気運転は20世紀の乗り物とは思えない時代遅れとの意見もあり[9]、1909年(明治42年)に電化調査委員会が設立された[10]。 こうして、明治から大正にかけ電化計画が調査され、鉄道電化の方針が1919年(大正8年)に決定される。これは、無煙化による近隣住民と乗員乗客の環境改善と構造上非効率な蒸気機関車の淘汰による石炭節約と発電所開発による国力増強が目的であり、一部区間は経済効果を無視してでも電化すべきとされ当時としては画期的な計画であった[11]。1922年(大正11年)には「大正17年(1928年)までに東海道本線の全線電化」が決定され[12]、まず東京 - 国府津間および大船 - 横須賀間が電化されることになった。 だが、1923年(大正12年)に起きた関東大震災で工事が中断してしまい[13]、既に着工されていた上記区間の電化が完了したところで計画は停滞状態となる。さらに東京 - 国府津間の電化のために一括してイギリスに注文した電気機関車の品質が悪く安全運転さえできない有様で、高価であることばかりが目立つ結果となり電化の実施を遅らせた大きな原因となっている[14]。
1929年度に一部計画を見直しの上で予算計上がされたが、世界恐慌の影響を受けた緊縮財政により再び工事は中断してしまう[15]。自家用の川崎火力発電所や信濃川発電所の建設を進め、電力の確保に努めるなどの進展もあったが[16]、戦時下に入りこれらの計画は下火となっていった
電化計画は遅れる一方であったが、蒸気機関車に追い風は吹かず気動車開発に重点が置かれるようになり、早くも1933年(昭和8年)には高速気動車の研究が開始されている[17]。軸量の大きな蒸気機関車では[18]、保線当局の反対から高速運転が不可能であり、鉄道の将来を考えるとディーゼルカーの開発は不可欠と考えられたためである。石油は船のために使用すべきで、鉄道は水力により電気運転を行なうべきという意見もあったものの[19]、一連の開発研究はキハ42000形やキハ43000形気動車の開発を経て、「超特急気動車」の構想も具体化しつつあったが[20]、こちらも戦時体制に入り計画中止となった。
こうして、日本の蒸気機関車技術の発展は、狭軌のハンディキャップ(軌間の狭さだけでなく、軌道の弱さによる軸重制限の厳しさが、車両性能向上には非常な障害となった)を差し引いても、同時期の欧米の水準からは、一貫して遅れた状態であった。諸外国での技術革新の導入は、蒸気機関車の分野においては「国産化」が達成されたとする大正期以降、ほとんど行なわれなくなっていた。
これは当時、日本の基礎工業力が低かったことによる。加えて、鉄道省で1920年代から30年代にかけて動力車設計を主導した朝倉希一や島秀雄ら主流派技術陣は、電化やディーゼル化による近代化を考えていたこともあり、蒸気機関車の根本的な技術面での冒険を恐れ、ドイツ系、それも大径動輪をゆっくり駆動する、プロイセン流のやや旧式化した手法を踏襲した。もっとも、英国などを中心に見られた動輪を高速で駆動する手法は、軸焼けやクランクの熔解に悩まされ続けたLNER A4形蒸気機関車、高速運行で良好な成績を残しながら走行装置の摩耗損傷からそれを禁止されたイギリス国鉄9F形蒸気機関車などの例もあり、現場の労力や国家の工業力から見て正しかったかどうかは不明である。さらに、大径動輪をゆっくり駆動する手法は戦後の各国にも見られ、例えば1750㎜動輪で100㎞/hを想定した機関車はポーランドOl49やチェコ475.1などが存在し、客観的に見て本当に旧式化した手法であったかも不明である。
米英をはじめとする諸外国における蒸気機関車の技術革新導入に及び腰で、採用した場合も本来のメリットを損なう独自改変を加えることが多かった。技術導入に積極的な技術者は省内部で冷遇されがちで、早期に民間に下野、あるいは日本資本で先進技術導入に寛容であった南満州鉄道に転じる事例もあった[21]。
結果として、鉄道省・日本国有鉄道の蒸気機関車の技術水準はC51形・D50形の段階で停滞し、以後はボイラー圧力のある程度の向上や電気溶接採用などの部分改良が成功した程度で、本格的な新技術の導入はうまくいかないことが多かった[22]。幹線用蒸気機関車の実用最高運転速度は、保線側の反対もあり戦後まで100km/h未満にとどまった。 なお、例外的に重油併燃焼装置の独自開発に成功しており、改造が容易ながら燃焼率 550kg/km³h以下の場合で30%以上の石炭節約、消煙効果と投炭量の減少による労働環境やサービスの改善、引張定数または速度を10%向上と言った絶大な効果を発揮している。
C62形は、1954年(昭和29年)に東海道本線木曽川橋梁上で、129km/hという「狭軌鉄道における蒸気機関車の速度記録」[23]を樹立した。これはピン結合トラスという古い型のトラス橋が、将来的な高速運転に耐え得るかを確認するための、一連の速度試験で得られたもので、さまざまな制約からC62形単機での走行という、特殊な状況下で成立したものであった。鉄橋までは10‰の勾配とわずかにカーブがあり、スピードを出す条件としては最悪であったことに加え[24]、鉄橋上の通過後にブレーキをかけることになっていたため、まだC62形に余力が残された状態での記録であった[25]。 同時期の国鉄では、電車や電気機関車でも120km/h超過の速度試験が行なわれていたが、こちらは営業運転とほぼ同等の条件で実施され、また欧米の最新技術を採用した阪和電気鉄道や新京阪鉄道といった関西私鉄では、戦前の段階で既に120km/hを超える高速運転が営業列車で恒常的に実施されており、蒸気機関車の設計技術は立ち遅れていた。ただし、蒸気機関車が電車などと比較して劣っていることは日本に限ったことではない。一例として1938年(昭和13年)に蒸気機関車最高速度203kmを記録したマラード号であるが、この速度は1903年(明治36年)にドイツの高速電気鉄道研究協会で既に樹立されていた速度であり、気動車ではフリーゲンダー・ハンブルガーが1936年(昭和11年)に205km/hを記録している。
鉄道車両の高速運転実現に必要な理論解析、特に機関車の振動への考察に欠け、この問題は第二次世界大戦後、鉄道総合技術研究所へ空技廠で航空機のフラッター対策を研究していたスタッフが加入するまで、ほとんど等閑に付された。
日本の蒸気機関車技術は、その開発の終末期(1950年代)に至るまで国際水準に到達しなかった。本土は元より、日本の技術で運営される標準軌鉄道であった朝鮮総督府鉄道および南満州鉄道ほか中国大陸の鉄道も、機関車技術で欧米を凌駕するものではなかった(鉄道省の機関車に比べれば高性能であった南満州鉄道の流線形機関車「パシナ形」も同様であった)。
国鉄蒸気機関車に明らかな技術的不備の多くは、機関士・機関助士や検修員など現場職員の「職人芸・名人芸」的な技量によって補われた[要出典]。その一方で検修技術のみは水準が高く、修繕サイクルの効率性は1930年代にソビエト連邦から招聘を受けて現地指導を行なったほどであった。これは稼働率低下に悩むソ連が各国の車両修繕状況の調査を行ない、日本の修繕体制が世界一と結論を出し、要望したものであった[26]。全般検査に関しては先進国からも高く評価され、1930年代には6日で修繕が完了、その直後に仕業へつけるほどの最高水準を誇った[27]。日本の汽車は世界で最も安全で正確と言われるようになる[28]。過剰とも言える整備への配慮は、戦中の酷使と戦後混乱期に効果を発揮している。蒸気機関車の稼働率は終戦時に70パーセントほどであり、D51形に至っては95パーセントの数値を記録した[29]。
他種動力方式への移行
C61形・C62形が登場した1940年代後半、日本の鉄道は極端な石炭不足に悩まされ、主要幹線などの電化を行なったが、全体の電化率は10%程度で、依然蒸気機関車が輸送の主役であった。そのため1950年代に入ってからC63形の製造が計画されたこともあるが、後述の経緯で実現をみることなく、1948年(昭和23年)にE10形5両が製造されたのを最後に国鉄における蒸気機関車製造は終了した[30]。のちにDF50形の価格の高さから[31] 蒸気機関車の再生産も話題に上がったが国産ディーゼル機関車の開発が決定している[32]。
1959年(昭和34年)に「動力近代化計画」が答申される。これには、「昭和35年度から50年度までに主要線区5000kmの電化と、その他の線区のディーゼル化を行ない、蒸気機関車の運転を全廃すべきである。そして、投資額は電化施設955億円、車両関連施設その他765億円(電化費338億円、ディーゼル化費427億円)、車両3145億円(電化費1420億円、ディーゼル化費427億円)で合計4865億円としている」とある。この背景に151系や101系に代表される1957年(昭和32年)以降の新性能電車の登場や、液体式変速機の実用化で1953年(昭和28年)のキハ10系以降、長大編成運転可能となった気動車の台頭なども挙げられる。
無煙化計画は、まず明治・大正時代に製造された古参の機関車と幹線用の大型機関車から始まり、次いで地方線区と支線区の中・小型機関車を置き換えていった。特に東海道・山陽本線の電化は早期に進められたため、両線用の大型機関車は早期に余剰となったが、車体寸法や軸重の問題で転用が困難で、一部が呉線・函館本線などの非電化の幹線に転用されたり軽軸重化改装を施されて他の路線に転用されたりしたほかは早々に第一線を退いていった。小回りが利く小型機関車もDD16形などに代表される軽量ディーゼル機関車の登場により、存在価値を失った。
制式機関車が比較的早く置き換えられた中、構内入換用の蒸気機関車は後年まで生き残った。貨物ヤードでの重作業にはDD13形では力不足であり、DD20形が試作されたものの失敗に終わった。このため、大正時代に製造された8620形や9600形が使われ続けたが、1970年代に入ってDE10形などの入換用のディーゼル機関車が登場すると、次々と置き換えられていった。
実用機関車の終焉
次第に数を減らした蒸気機関車は1974年(昭和49年)11月に本州から、1975年(昭和50年)3月に九州から相次いで姿を消し(四国からはこのとき既に消滅)、この地点で大半の形式が消滅し北海道にC57形・D51形・9600形の3形式が残るのみとなる。この3形式による北海道内のローカル運用や石炭列車、入替仕業が最後の蒸気機関車運用となった。
そして1975年12月14日、「さようならSL」のヘッドマークを掲げたC57 135による室蘭本線室蘭 - 岩見沢間の225列車が運行され、蒸気機関車牽引の定期旅客列車は姿を消した。このC57 135は年明けの1976年5月に東京の交通博物館に回送・陸送され保存された(2007年10月からは交通博物館に代わって開館した鉄道博物館に保存されている)。C57 135による225列車運行の10日後の12月24日に夕張線(現・石勝線)でD51 241による石炭列車が運行され、本線上から蒸気機関車が消滅、年が明けた1976年3月2日に追分機関区の9600形による入換え仕業を最後に、保存目的の車両(梅小路蒸気機関車館〈現・京都鉄道博物館〉所属の車籍を有する保存機)を除いて国鉄から蒸気機関車は姿を消した。
民営鉄道でも保存・観光目的のものを除き同時期に蒸気機関車は姿を消し、専用鉄道でも1982年(昭和57年)の室蘭市における鉄原コークスを最後に、蒸気機関車の使用は終了している。
最新の国産蒸気機関車
日本における営業用としての蒸気機関車は幕を閉じたわけだが、その後になって、なお日本製の蒸気機関車が新たに登場している。
1983年(昭和58年)に開園した東京ディズニーランドのアトラクション「ウエスタンリバー鉄道」用に、協三工業が1Bテンダー機関車3両を製造した(のち1両を追加)。燃料は重油専燃である。テーマパークのアトラクションではあるが、日本のものとしては珍しく本物の蒸気機関車を使用している。
保存の試み
こうして姿を消していった蒸気機関車だが、蒸気機関車を近代産業遺産として保存する動きも出てくるようになる。また、姿を消していく蒸気機関車を追うように1970年代前半に全国でSLブームが起こり、函館本線目名 - 上目名間(現・廃止)や伯備線布原信号場(現・布原駅)などに代表される撮影ポイントに多くのファンが押し寄せるようになり、まったく鉄道に興味のない人まで蒸気機関車を追いかけるようになったのである。そしてこうした動きを受け、ついに保存活動に動き出す。そのはしりとなったのが、1970年(昭和45年)8月に大井川鉄道(現・大井川鐵道)が西濃鉄道から2109(2100形)を譲り受け、同年11月に千頭 - 川根両国間で開始した動態保存運転である。その後クラウス15, 17や1275(1275形)などの動態保存運転も行なった同社は、国鉄から蒸気機関車が消滅した1976年7月9日、ついに蒸気機関車の本線復活運転を開始した。これが、C11 227によるかわね路号である。この復活蒸気機関車運転は大人気を博し、その後はC56 44を含む蒸気機関車を動態復元し、現在も実施しているほか、1987年には、同じく文化遺産保護活動を行なう日本ナショナルトラストが購入したC12 164も動態復元した。
一方、国鉄も1972年(昭和47年)の鉄道100年を契機に蒸気機関車の恒久的な動態保存に乗り出し、同年10月に京都駅近くに梅小路蒸気機関車館を開館する。開館当初は16形式17両のうち15両に車籍があり、13両が有火状態であった。この保存機を用いて東海道本線など都市近郊での運転実施が計画され、開館直後から1974年までC62形やC61形を用いた「SL白鷺号」が京都 - 姫路間に行楽シーズンに運行されている。しかし、その後労使問題の深刻化などの理由から保存運転は中断され、その間に営業用の蒸気機関車が姿を消すこととなった。
財政悪化が深刻化していた国鉄は、営業用蒸気機関車の全廃という状況を受け、中断していた保存蒸気機関車の運転再開を計画した。前回同様、運行線区として東海道本線など都市近郊での実施を予定していたが、1976年9月4日に「京阪100年号」として京都 - 大阪間で蒸気機関車の運転を行なった際、鉄道撮影を行なう観客のマナーの悪さから小学生が機関車に接触して死亡するという事態になった(詳しくは京阪100年号事故を参照)こともあり断念、地方線区での恒久的実施に方針を切り替えた。これに関しては、北海道の湧網線(現・廃止)なども運行路線の候補に上げられたが、新幹線に接続し、観光地も多い山口線に白羽の矢が立った。そして1979年(昭和54年)8月1日、国鉄復活蒸気機関車第1号となるC57 1による「SLやまぐち号」が運転を開始した。その後、蒸気機関車復活運転計画は国鉄再建の影響もあってか進行せず、結局国鉄時代は同列車が唯一のものとなってしまったが、1987年の国鉄分割民営化によって一気に加速する。さらに民鉄でも蒸気機関車復活運転が次々と行なわれるようになった。そして国鉄線上から蒸気機関車が消滅してから30年以上が経過した現在、各地で蒸気機関車復活運転が行なわれている。
現在、蒸気機関車の動態保存運転(構内運転を含む)を行なっている鉄道事業者および形式は次のとおり。
JR
- 北海道旅客鉄道(JR北海道)
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)
- 西日本旅客鉄道(JR西日本)
- 九州旅客鉄道(JR九州)
私鉄
- 秩父鉄道
- C58形 (C58 363) - 「SLパレオエクスプレス」で運用中。
日本国外
このほか、ロシア国鉄はサハリン州において、太平洋戦争後にソビエト連邦に輸出されたD51形を動態復元し復活運転したことがある(ほとんど放置されていた状態からの復元の上、原型の図面を入手できたわけでもないので、煙室戸などは完全にソ連型にされてしまっていたが、キャブや下回りには面影を残していた)。また、日本国鉄に在籍したことはないが、台湾鉄路管理局のCK100形CK120形 CT270形 DT650形、タイ国鉄900形、800形など、日本型蒸気機関車が動態保存されている。
問題点
日本の蒸気機関車の動態保存は数は多いが、いずれもC11形やそれ以下の小型機に集中している。小型機関車の方が、保存維持にコスト・手間がかからないためである。
産業遺産に理解がある国では、保存鉄道や動態保存機など文化財として保存する蒸気機関車の維持管理に政府の支援や民間のボランティア活動が盛んであったりする。列車の運転に際しても、乗客がいわゆる寄付金を高額でも払って乗車するというケースが多い。撮影を目的に自動車で追いかけるファンも、その趣旨に賛同してカンパを行なう例もある。
対して日本では、これらを政府が積極的支援することに国民の理解が少なく、イベント列車などに対しても切符の販売は良好なものの、現用列車と同等以上の支出を嫌う傾向にある。また鉄道ファンについても(蒸気機関車に限らず)動態保存の要求をしながら、維持管理や支出といった活動については消極的で、俗に言う『口は出しても金は出さない』姿勢が非常に強くみられ[33]、自身を誇示すべく偏見と思い込みで機関車や技術者を貶める著者やそれに加担する出版社・編集者の存在も問題視されている[34]。
2016年(平成28年)現在、地方自治体(埼玉県)が所有しているC58 363と、非営利団体である日本ナショナルトラストが所有しているC12 164を除き、動態保存の蒸気機関車は各保有企業が自力で維持費を捻出している。また前記の2者もそれぞれJR東日本、大井川鐵道がその維持に多大な助力をしている。
先進国の中でも日本は、例外的な程に産業遺産の重要度に対する認識が低いとの指摘があり、例として「狭軌最大にして最速」のタイトルをもつC62形の唯一の本線稼動機であったC62 3が資金難から運用終了となってしまったことや、静態保存を謳いながらも実質放置されて朽ちかけていたり、保存後に解体処分されたものが多いことがあげられる。
蒸気機関車自体は最新のものでも半世紀以上経過しており、今後、保存・維持費は上昇していく[35]。単独での収益を上げられず、運行に必要な人員もOBの登用など限られた人材の中から発掘していたが、OBの高齢化などもあり可能な限り整備要員を育成するなどの努力を行なっている会社もあり、主な蒸気機関車運行事業者では要員の育成・部品製造法の指導教育などを行なっている。
脚注
- ^ 昌平坂学問所の河田八之助(河田興)が跨って乗車した記録がある。昌平坂学問所日記を参照
- ^ 斯文会・橋本昭彦 編『昌平坂学問所日記』 3巻、斯文会・東洋書院(発売)、2006年1月。ISBN 4885943825。 NCID BA3981881X。
- ^ 1855年(嘉永8年)という説もある
- ^ 江戸大博覧会
- ^ ただし、日本車輌製造は明治期には客車や貨車および電車を製造し、機関車は製造しなかった。
- ^ 機関車改良効果1914年7月20日付大阪毎日新聞 (神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ^ “父 島秀雄と新幹線” (PDF) . JREA2000年7月1日発行 (日本鉄道技術協会)
- ^ 朝倉希一の鉄道電化の創業史
- ^ 鉄道時報 明治40年2月9日
- ^ 朝倉希一の鉄道電化の創業史
- ^ 『日本の鉄道史セミナー』pp.98, 99
- ^ 『日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで』pp.62, 65
- ^ 国内初の長距離用電車と言える国鉄デハ43200系電車も被災した車両の代わりとして京浜線に転用されてしまった
- ^ 朝倉希一と高田隆雄と汽車の今昔 蒸気機関車を送る
- ^ 第106回県史だより
- ^ 『朝倉希一の鉄道電化の創業史』
- ^ http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00102943&TYPE=HTML_FILE&POS=1
- ^ 動輪を小さく回転数を上げれば軸量を軽くしつつ蒸気機関車でも高速運転は可能だが各部への負担は激増する。このため性能面は問題はないが保守面から急行列車での運行を取りやめたイギリス国鉄9F形蒸気機関車のような例も存在する
- ^ 朝倉希一と高田隆雄と汽車の今昔 ディーゼルカーとディーゼル機関車
- ^ 『幻の国鉄車両』pp.136, 137
- ^ 近代化のため蒸気機関車の技術者が冷遇される事はアンドレ・シャプロンやオリバー・ブレイドなどのケースがあり珍しいことではない
- ^ 今なお蒸気機関車が現役の中国ではC51・D50と同世代の解放型を部分的に改良した建設型が使われている。同国では前進型に南アフリカ国鉄26型蒸気機関車の開発者の協力を得てGPCSを搭載するなど新技術に関心を持っていたが技術面や保守面などから割に合わず不採用に終わっている
- ^ これを上回る速度を出したと噂される狭軌蒸気機関車は、国内と国外でいくつかあるが裏付けとなる記録が存在しない
- ^ 『名古屋機関区で蒸気機関車と半生を歩んだ人々の記録』
- ^ 『蒸気機関車のすべて』p.244
- ^ 鉄道車両工業(汽車の今昔20)
- ^ 『蒸気機関車のすべて』p.235
- ^ 驚き!ニッポンの底力「鉄道王国物語5」
- ^ 『蒸気機関車のすべて』p.193
- ^ E10形の新製以降に登場した国鉄の蒸気機関車の新形式はすべて改造機で、C63形の新製計画中止もあって、1949年(昭和24年)の日本国有鉄道発足から1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化を経て現在に至るまで、国鉄では後身のJR各社も含め新製の蒸気機関車は存在しない。
- ^ 『DD51開発物語』p.103にはキハ17形のピストンが2050円に対しDF50形のそれは10万5000円と馬力当たりに修正しても9倍の価格差があったと書かれている
- ^ 山岡茂樹 “三菱ZC707 : 地上に降りた航空エンジン”(PDF)
- ^ 『鉄道ファン』1986年11月号 p.132
- ^ 坂上茂樹 “高木 蒸気機関車技術論に対する疑問以上のもの” (PDF)
- ^ 中には炭水車や台枠・ボイラーなどを新規製作する羽目になった機関車も存在する。
参考文献
- 細川武志『蒸気機関車メカニズム図鑑』(新装版)グランプリ出版、2011年6月。ISBN 9784876873173。 NCID BB06387298。