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'''シャクトルジャップ'''<ref>東亜問題調査会編(1941)、1頁で「シヤクトルヂヤツプ」とのルビを振っていることに基づく。</ref>({{Lang-zh | t=沙克都爾扎布| s=沙克都尔扎布| hp=Shākèdūĕrzhābù| w=| first=t}}、[[1873年]]([[清]][[同治]]12年) - [[1945年]]([[民国紀元|民国]]34年)7月)は、[[中華民国]]の政治家。[[モンゴル族]]。[[字]]は'''魁占'''。'''沙王'''とも略称される。オルドス(鄂爾多斯)のジャサク(扎薩克)旗で生まれる。 |
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2021年9月28日 (火) 09:27時点における版
シャクトルジャップ[1](繁体字: 沙克都爾扎布; 簡体字: 沙克都尔扎布; 繁体字: 沙克都爾扎布; 拼音: Shākèdūĕrzhābù、1873年(清同治12年) - 1945年(民国34年)7月)は、中華民国の政治家。モンゴル族。字は魁占。沙王とも略称される。オルドス(鄂爾多斯)のジャサク(扎薩克)旗で生まれる。
事績
1912年(民国元年)、貝子に任ぜられ、翌年には郡王に昇進した。その後、イフ・ジョー盟(伊克昭盟)盟長となっている。1928年(民国16年)10月、国民政府により綏遠省政府委員に任命され、以後1940年(民国29年)10月まで12年にわたり在任した。1932年(民国21年)10月、イフ・ジョー盟保安長官となる[2][3]。
1934年(民国23年)3月、何応欽が蒙古地方自治指導長官に就任すると、ユンデン・ワンチュク(雲王)が蒙古地方自治政務委員会委員長に就任し、シャクトルジャップは同委員会副委員長に起用された。また、イフ・ジョー盟盟長にも就任している。1936年(民国25年)5月、国民政府中央は同委員会を綏遠境内と察哈爾境内の2つの蒙古地方自治政務委員会に分割し、シャクトルジャップが前者の委員長に起用された。この同時期に日本軍が蒙古軍政府を成立させると、ユンデン・ワンチュク以下同委員会の要人の多くはこれに参加し、シャクトルジャップも一方的に軍政府副主席に任命された。しかし、シャクトルジャップは軍政府への参加を拒否し、国民政府側に留まっている[2][3][4]。
1938年(民国27年)4月、シャクトルジャップは国民政府委員に任命された。1943年(民国32年)、陳長捷率いる国民革命軍がイフ・ジョー盟進攻の際に略奪・放火などの暴虐行為に及んだ事件(伊盟事件)が起きると、シャクトルジャップはこれに激しく反発、中国共産党の支配地域に渡って抗議し、国民政府中央に向けて平和的解決のための6項目要求を突きつけている[5]。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央執行委員に選出されたが、同年7月に病没した。享年73[2][3]。
家族
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。