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== 事績 == |
== 事績 == |
2021年9月28日 (火) 09:25時点における版
熊斌 | |
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国民革命軍時代の熊斌 | |
プロフィール | |
出生: |
1894年3月12日 (清光緒20年2月初6日) |
死去: |
1964年(民国53年)11月30日 台湾 |
出身地: | 清湖北省徳安府応山県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 熊斌 |
簡体字: | 熊斌 |
拼音: | Xióng Bīn |
ラテン字: | Hsiung Pin |
和名表記: | ゆう ひん |
発音転記: | シオン ビン |
熊 斌(ゆう ひん、中国語: 熊斌; 拼音: Xióng Bīn; ウェード式: Hsiung Pin)は、中華民国(台湾)の軍人・政治家。馮玉祥側近として国民軍で要職に就き、後に国民革命軍に合流した。また、塘沽協定締結の際の中国側首席代表としても知られる。字は哲明、哲民。
事績
国民軍での昇進
1909年(宣統元年)、広西農業中学に入学したが、まもなく広西陸軍混成協幹部学校に転入した。翌年、東三省陸軍講武堂第4期歩兵科に進学し、1911年(宣統3年)7月に卒業している。卒業直後に勃発した武昌起義(辛亥革命)には革命派として参戦し、同年12月に湖北軍北伐第1軍参謀に任命された。中華民国が成立した後の1912年(民国元年)4月、北京政府参謀本部参謀となる。1914年(民国3年)に陸軍大学第4期生として入学し、1916年(民国5年)12月に卒業した。[1][2]
1922年(民国11年)、熊斌は河南督軍馮玉祥の配下となり、督軍公署上校顧問兼軍官戦術研究会主任顧問となった。翌1923年(民国12年)1月、馮が陸軍検閲使に転じると熊もその顧問に任ぜられている。5月には南宛高級軍官教導団教育長も兼任した。1924年(民国13年)9月、陸軍第11師参謀長に昇進し、10月の北京政変(首都革命)にも参与する。国民軍が結成されると第1軍参謀長兼鎮威上将軍公署顧問となった。1925年(民国14年)1月、国民軍訓練副監兼軍官教導団団長となり、同年5月には西北辺防督弁公署参議となる。7月、陸軍少将位を授与され、12月には北京政府陸軍次長に就任した。1926年(民国15年)3月、陸軍中将に昇進し、5月には西北辺防督弁公署総参議に昇格した。その後、五原誓師を経て、国民聯軍総司令部参賛となる。[1][2]
塘沽協定、日中戦争
1927年(民国16年)、馮玉祥が国民革命軍に正式に加入し第2集団軍に改組されると、熊斌は第2集団軍総参議に任ぜられた。同年8月、国民革命軍総部上将高級参謀に転じ、12月には湖北省政府委員も兼ねている。翌年2月、国民政府軍事委員会委員となり、3月には東北特別委員会委員も兼ねた。11月には軍政部航空署署長に起用され、1929年(民国18年)4月には中国航空公司副理事長にも就任している。1930年(民国19年)の中原大戦では馮に従って反蔣介石派として参戦し、前敵総司令部参謀長を務めた。しかし中原大戦は反蔣派の敗北に終わり、熊も下野した。[1][2]
1931年(民国20年)2月、熊斌は国民政府文官処参事として復帰し、5月には国民政府参軍に転じた。1932年(民国21年)9月、参謀本部総務庁庁長に移り、1933年(民国22年)には同本部第2庁庁長も兼任している。以後、華北での対日折衝事務に参画し、同年5月の塘沽協定締結に際しては、軍事委員会北平分会総参議として中国側首席代表を務めたが(日本側の代表は関東軍参謀副長の岡村寧次)、事実上は分会会長何応欽の意を受けての任務であった。1935年(民国24年)4月、熊は参謀本部次長に就任し、1936年(民国25年)1月には陸軍中将銜を授与されている。[3][2]
日中戦争(抗日戦争)が勃発した1937年(民国26年)7月、熊斌は第3戦区参謀長に任命された。翌年2月、軍令部次長に転じている。1939年(民国28年)6月、軍事委員会軍事新聞局局長に任命され、12月には軍事委員会弁公庁主任代理を兼任した。1940年(民国29年)5月、軍事委員会西安弁公庁副主任となり、8月には主任代理を務める。1941年(民国30年)6月、陝西省政府主席に就任し、同省軍管区司令・防空司令・保安司令なども兼任した。1944年(民国33年)3月、軍令部次長に復任している。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央監察委員候補に選出された。[4][2]
晩年
日中戦争終結直後、熊斌は北平市長に任命され、華北の親日傀儡政権の部隊接収に従事している。翌年10月まで市長職にあった。その後は制憲国民大会代表に選出され、1948年(民国37年)12月、総統府戦略顧問委員会委員に任ぜられている。また、国民党では中央監察委員に昇格した。国共内戦での国民党敗北に伴い、熊斌は台湾に逃れ、1952年(民国41年)10月に退役している。1957年(民国46年)2月、中華民国中央銀行顧問に任命された。1964年(民国53年)11月30日、病没。享年71(満70歳)。[4][2]
著作
- 『六十年自述』
- 『三十回憶』
- 『暮年回憶』
いずれも回顧録。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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