「蕨 (駆逐艦)」の版間の差分
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|機関||主機:ブラウン・カーチス式[[蒸気タービン|オールギアードタービン]](高低圧) 2基<ref name="帝国海軍機関史下巻pp589-590">[[#帝国海軍機関史]]下巻pp.589-590(四八五-四八六頁)</ref><br />出力:21,500[[馬力|shp]]<br />ボイラー:[[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]](重油専焼) 3基 |
2021年9月18日 (土) 07:25時点における版
艦歴 | |
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計画 | 1917年度[1] |
起工 | 1920年10月12日[1] |
進水 | 1921年9月28日[1] |
就役 | 1921年12月19日[1] |
その後 | 1927年8月24日 美保関沖で訓練中に「神通」と衝突し沈没[1] |
除籍 | 1927年9月15日[1] |
性能諸元(計画) | |
排水量 | 基準:公表値 770トン 常備:850.00トン |
全長 | 全長:290 ft 0 in (88.39 m) 水線長:280 ft 0 in (85.34 m) 垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m) |
全幅 | 26 ft 0 in (7.92 m)または7.93m |
吃水 | 8 ft 0 in (2.44 m) |
深さ | 16 ft 3 in (4.95 m) |
推進 | 2軸 x 400rpm 直径 8 ft 6 in (2.59 m)、ピッチ3.378m または直径2.565m、ピッチ3.353m |
機関 | 主機:ブラウン・カーチス式オールギアードタービン(高低圧) 2基[2] 出力:21,500shp ボイラー:ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基 |
速力 | 36ノット |
燃料 | 重油240トン |
航続距離 | 3,000カイリ / 14ノット |
乗員 | 計画乗員 107名[3] 竣工時定員 110名[4] |
兵装 | 45口径三年式12cm砲 単装3門 三年式機砲 2挺 53cm連装発射管 2基4門 魚雷8本 |
搭載艇 | 内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻 |
備考 | ※トンは英トン |
蕨(わらび)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、樅型駆逐艦の20番艦である。
艦歴
1920年(大正9年)10月12日、藤永田造船所で起工[5]。1921年(大正10年)9月28日午後5時30分進水[6]。同年12月19日竣工[7]。
1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保ヶ関沖で訓練中、軽巡洋艦「神通」と衝突して沈没した(美保関事件)。
残骸発見
2020年(令和2年)9月、九州大学を中心としたチームが、美保関沖33㎞の海底で蕨の残骸を発見した[8]。 この時に発見されたのは蕨の艦首部分であり、翌2021年(令和3年)7月には艦首の発見地点から10km沖の部分で、蕨の艦尾部分が発見された。[9]
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 渡辺彝治 少佐:1921年10月1日[10] -
- 駆逐艦長
- 渡辺彝治 少佐:1921年12月19日[11] - 1922年12月1日[12]
- 藍原有孝 少佐:1922年12月1日 - 1923年12月1日
- 友成佐市郎 少佐:1923年12月1日 - 1924年6月1日
- 日台虎治 少佐:1924年6月1日 - 1924年8月1日
- 久我徳一 少佐:1924年8月1日[13] - 1925年12月1日[14]
- 池田久雄 少佐:1925年12月1日[14] - 1926年2月5日[15]
- 直塚八郎 少佐:1926年2月5日 - 1926年11月1日
- 五十嵐恵 少佐:1926年12月1日[16] - 1927年8月24日殉職
脚注
- ^ a b c d e f 『日本海軍史』第7巻、303頁。
- ^ #帝国海軍機関史下巻pp.589-590(四八五-四八六頁)
- ^ #一般計画要領書p.16、士官6名、特務士官3名、下士官26名、兵72名
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.601-602、『大正八年六月十日(内令一八二) 海軍定員令中左ノ通改正セラル 二三等驅逐艦定員表ヲ附表ノ通改ム | 第六十表 | 二三等驅逐艦定員表 |(詳細、備考略) |』將校、機關將校6人、特務士官准士官3人、下士26人、卒75人
- ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蕨製造一件画像2『大正九年十月十二日(中略)發信者 藤永田造船所 受信者 大臣 電報譯 本日十一時驅逐艦蕨龍骨据付起工式挙行セリ』
- ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蕨製造一件画像31『大正十年九 二十八日(中略)本日午後五時半駆逐艦(蕨)無事進水セリ』
- ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蕨製造一件画像32『大正十年十二月十九日(中略)蕨本日午前十時受領ス』
- ^ [1], テレビ朝日、2020年9月21日、同年9月22日閲覧
- ^ [2],沈没した悲劇の駆逐艦「蕨」約90年の時を超え日本海で発見 大学生の熱意で撮影に初成功(島根県)
- ^ 『官報』第2752号、大正10年10月3日。
- ^ 『官報』第2817号、大正10年12月21日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3583号、大正13年8月2日。
- ^ a b 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ 『官報』第4034号、大正15年2月6日。
- ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
参考文献
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊銘銘伝』光人社、1993年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『日本駆逐艦史』 世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年。ISBN 4-905551-41-2。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 「二等駆逐艦及水雷艇 一般計画要領書 附現状調査」。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『大正10年 公文備考 巻24 艦船1/駆逐艦蕨製造一件』。Ref.C08050173000。