「柳 (桃型駆逐艦)」の版間の差分
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2021年9月18日 (土) 07:23時点における版
柳 | |
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軍艦防波堤となった現在の柳(2012年撮影) | |
基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 桃型駆逐艦 |
艦歴 | |
起工 | 1916年10月21日[2] |
進水 | 1917年2月24日[2] |
竣工 | 1917年5月5日[3] |
就役 | 1917年5月5日[2] |
最期 | 佐世保海兵団練習船として使用され、戦後に解体、若松港防波堤に利用[2]。 |
除籍 | 1940年4月1日[2] |
要目 | |
基準排水量 | 755トン[注釈 1] |
常備排水量 | 835トン[注釈 2] |
全長 | 290 ft 0 in (88.39 m)* |
水線長 | 281 ft 8 in (85.85 m) |
垂線間長 | 275 ft 0 in (83.82 m) |
最大幅 | 25 ft 0 in (7.62 m) |
深さ | 16 ft 0 in (4.88 m) |
吃水 | 7 ft 9 in (2.36 m) |
ボイラー | ロ号艦本式缶 重油専焼2基、混焼2基[注釈 3] |
主機 | ブラウン・カーチス式 単式直結タービン2基(減速ギア連結巡航タービン付) |
出力 | 16,700馬力[4]または16,000馬力[5] |
推進器 |
2軸 x 700rpm 直径 6 ft 6 in (1.98 m)、ピッチ6 ft 2 in (1.88 m) |
速力 | 31.5ノット |
燃料 | 重油212トン、石炭92トン[注釈 4] |
航続距離 | 2,500カイリ / 15ノット[注釈 5] |
乗員 |
竣工時定員 109人[6] 1928年公表値 110名[7] |
兵装 |
40口径安式4.7インチ(12cm)砲 3門[注釈 6] 6.5mm単装機銃2挺 18インチ(45cm)3連装発射管2基6門 四四式18インチ(45cm)魚雷10本 |
搭載艇 | 20ft内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻 |
※トンは英トン |
柳(やなぎ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、桃型駆逐艦の4番艦である。同名艦に松型駆逐艦の「柳」があるため、こちらは「柳 (初代)」や「柳I」などと表記される。
艦歴
1916年(大正5年)10月21日、佐世保海軍工廠で起工[1]。1917年(大正6年)2月24日午前10時5分進水[8]、同年5月5日竣工[3]。
第一次世界大戦では、1917年から1919年(大正8年)まで、地中海の海上護衛に従事した[2]。1932年(昭和7年)、第一次上海事変において揚子江水域の作戦に参加した[2]。
1940年(昭和15年)4月1日、除籍。その後、佐世保海兵団の練習船として使用。戦後解体、船体は北九州市若松区若松港の防波堤として使用(軍艦防波堤)。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 緒方末記 少佐:1917年1月20日 - 3月15日
- (兼)岩崎本彦 少佐:1917年3月15日 -
- 駆逐艦長
- 岩崎本彦 少佐:1917年3月15日 - 1918年11月1日[9]
- 山本松四 少佐:1918年11月1日[9] - 1919年12月1日[10]
- 渡辺彝治 少佐:1919年12月1日[10] - 12月8日[11]
- (心得)松野省三 大尉:1919年12月8日[11] - 1920年6月1日
- 和田省三 少佐:1920年6月1日 - 1920年12月1日
- 加来博胤 少佐:1920年12月1日[12] - 1921年12月1日[13]
- 高山忠三 少佐:1921年12月1日[13] - 1923年12月1日[14]
- 武田喜代吾 少佐:不詳 - 1926年2月1日[15]
- 津田源助 少佐:1926年2月1日[15] - 1928年2月10日[16]
- 江口松郎 少佐:1928年2月10日 - 1928年12月10日
- 橘正雄 大尉:1928年12月10日[17] - 1929年11月1日[18]
- 小西要人 大尉:1929年11月1日 - 1930年4月20日
- 大西敬一 少佐:1930年4月20日 - 1930年7月8日
- 萱場松次郎 少佐:1930年7月8日[19] - 1930年11月1日[20]
- 杉野修一 大尉:1930年11月1日[20] - 1932年11月15日[21]
- 柳川正男 大尉:1932年11月15日[21] - 1934年1月11日[22]
- (兼)橘雄次 少佐:1934年1月11日[22] - 1934年2月1日[23]
- (兼)近野信雄 少佐:1934年2月1日 - 1934年2月20日
- (兼)赤沢次寿雄 大尉:1934年2月20日 - 1934年7月25日
- (兼)小西要人 少佐:1934年7月25日 - 1934年11月15日
- (兼)岡林子郎 大尉:1934年11月15日[24] - 12月15日[25]
脚注
注釈
- ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1072-1073、昭和3年2月14日(内令43)、艦船要目公表範囲では775トンになっている。同書pp.1098-1099、昭和6年4月29日(内令79)では755トンになっている。
- ^ #海軍造船技術概要p.394では常備排水量800(噸)としている。
- ^ #日本駆逐艦物語p.78では前方2基を『石炭焚き』としている。
- ^ #海軍造船技術概要p.394では重油213トン、石炭98トンとしている。
- ^ #日本駆逐艦史1992p.50では『15ノットで2,400浬』としている。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その二「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その二 駆逐艦」には『四〇口径四一式八糎砲 二門』ともある。
※北九州市若松区軍艦防波堤において露出している柳は初代。
高塔山公園忠霊塔慰霊碑には2代目とあるが青森で擱座沈底しており、
北九州市若松区軍艦防波堤の柳は日英同盟に従い地中海遠征に赴いた
初代であることが判明している。
出典
- ^ a b #T6公文備考19艦船1/桃、柳画像9『大正五年十月廿一日 佐世保海軍工廠長田中盛秀(中略)駆逐艦柳大正五年十月廿一日起工致候 右報告ス』
- ^ a b c d e f g 『日本海軍史』第7巻、298頁。
- ^ a b #T6公文備考19艦船1/桃、柳画像26、電報訳『大正六年五月五日(中略)柳竣工本日授受結了。』
- ^ #帝国海軍機関史別冊表20、(第一一表)
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その二「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その二 駆逐艦」
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.567-568『大正五年十月十二日(内令二二三) 海軍定員令中ノ通改正セラル 驅逐艦定員表ノ下ニ「其一」ヲ加フ 附表ノ通驅逐艦定員表其二ヲ加フ | 第五十九表ノ二 | 驅逐艦定員表 其二 | 一等驅逐艦 | 天津風、磯風 | 二等驅逐艦 | 桃 |(以下略)』將校、機關將校6人、特務士官、准士官3人、下士24人、卒76人。
- ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1072-1073、昭和3年2月14日(内令43)、艦船要目公表範囲。
- ^ #T6公文備考19艦船1/桃、柳画像22、電報訳『大正六年二月二十四日(中略)柳午前十時五分無事進水ス(了)』
- ^ a b 「海軍辞令公報 大正7年11月」 アジア歴史資料センター Ref.C12070263400
- ^ a b 『官報』第2199号、大正8年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2205号、大正8年12月9日。
- ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
- ^ a b 『官報』第4030号、大正15年2月2日。
- ^ 『官報』第335号、昭和3年2月13日。
- ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
- ^ 『官報』第1057号、昭和5年7月9日。
- ^ a b 『官報』第1155号、昭和5年11月4日。
- ^ a b 『官報』第1765号、昭和7年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2106号、昭和9年1月12日。
- ^ 『官報』第2124号、昭和9年2月2日。
- ^ 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
- ^ 『官報』第2389号、昭和9年12月17日。
参考文献
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『世界の艦船増刊第34集 日本駆逐艦史』、海人社、1992年7月。
- 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』海人社、2012年12月。
- 日本舶用機関史編集委員会/編 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『日本駆逐艦物語』 福井静夫著作集第5巻、光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫/編 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『大正6年 公文備考 巻19 艦船1/桃、柳』。Ref.C08020923200。
- 北九州 時と風の博物館/戦艦大和の直衛艦が眠る・軍艦防波堤
- 「北九州の近代化遺産」「福岡の近代化遺産」「九州遺産」弦書房
- 北九州の産業遺産 / 北九州産業観光センター(公式)