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ボデン村(現[[ラズグラト州]][[ザヴェト]]自治体)の大地主出身。1912年、[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]の軍事学校を卒業。砲兵将校として[[バルカン戦争]]、[[第一次世界大戦]]に従軍。[[フェルディナント (ブルガリア王)|フェルディナント]]と王太子ボリス(後の[[ボリス3世]])の副官を務め、この交友関係から後にボリス3世が1935年のクーデターで独裁体制を樹立する際には、その体制確立に貢献することとなった。 |
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戦後、ソフィア大学で法学、ライプツィヒと[[ウィーン]]で農業を学ぶ。国王独裁成立後の1938年{{~}}1944年、農民同盟議長。1938年{{~}}1939年、国会議員。1938年11月14日、農業・国有財産相に就任。1941年2月4日、[[ボグダン・フィロフ]]と交代。1944年6月2日から9月2日まで政府議長、6月1日から12日まで外務・信仰相を兼任し、農地改革に着手した。ソ連軍によるブルガリア占領を許さないために、米英の支援を取り付けようと試みた。 |
戦後、ソフィア大学で法学、ライプツィヒと[[ウィーン]]で農業を学ぶ。国王独裁成立後の1938年{{~}}1944年、農民同盟議長。1938年{{~}}1939年、国会議員。1938年11月14日、農業・国有財産相に就任。1941年2月4日、[[ボグダン・フィロフ]]と交代。1944年6月2日から9月2日まで政府議長、6月1日から12日まで外務・信仰相を兼任し、農地改革に着手した。ソ連軍によるブルガリア占領を許さないために、米英の支援を取り付けようと試みた。 |
2021年9月17日 (金) 22:32時点における版
イヴァン・イヴァノフ・バグリャノフ Иван Иванов Багрянов | |
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生年月日 | 1891年11月27日 |
出生地 | ブルガリア、ラズグラト州ザヴェト |
没年月日 | 1945年2月1日(53歳没) |
在任期間 | 1944年6月1日 - 1944年9月2日 |
国王 | シメオン2世 |
イヴァン・イヴァノフ・バグリャノフ(Иван Иванов Багрянов、1891年11月27日 - 1945年2月1日)は、ブルガリアの政治家。第二次世界大戦末期(1944年6月2日 - 9月2日)、首相を務めた。
経歴
ボデン村(現ラズグラト州ザヴェト自治体)の大地主出身。1912年、ソフィアの軍事学校を卒業。砲兵将校としてバルカン戦争、第一次世界大戦に従軍。フェルディナントと王太子ボリス(後のボリス3世)の副官を務め、この交友関係から後にボリス3世が1935年のクーデターで独裁体制を樹立する際には、その体制確立に貢献することとなった。
戦後、ソフィア大学で法学、ライプツィヒとウィーンで農業を学ぶ。国王独裁成立後の1938年〜1944年、農民同盟議長。1938年〜1939年、国会議員。1938年11月14日、農業・国有財産相に就任。1941年2月4日、ボグダン・フィロフと交代。1944年6月2日から9月2日まで政府議長、6月1日から12日まで外務・信仰相を兼任し、農地改革に着手した。ソ連軍によるブルガリア占領を許さないために、米英の支援を取り付けようと試みた。
共産体制樹立後、逮捕。1945年1月1日、ブルガリア人民裁判所により死刑を言い渡され、処刑。
公職 | ||
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先代 ドブリ・ボジロフ |
ブルガリア王国 閣僚評議会議長 第41代:1944 |
次代 コンスタンティン・ムラヴィエフ |