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コンスタンティン・ムラヴィエフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタンティン・ヴラドフ・ムラヴィエフ
Константин Владов Муравиев
生年月日 (1893-02-11) 1893年2月11日
出生地 ブルガリアの旗 ブルガリア公国パザルジク
没年月日 (1965-01-31) 1965年1月31日(71歳没)

在任期間 1944年9月2日 - 9月9日
国王 シメオン2世
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コンスタンティン・ヴラドフ・ムラヴィエフКонстантин Владов Муравиев1893年2月21日 - 1965年1月31日)は、ブルガリアの政治家。第二次世界大戦末期(1944年9月2日 - 9月9日)、首相を務めた。

経歴

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パザルジク出身。ツァレグラド中学校とソフィアの軍事学校で教育を受ける。1918年、アレクサンドル・スタンボリスキーのブルガリア農業人民連盟に加盟。1923年、国会議員に選出。1923年3月12日からスタンボリスキー内閣で国防相を務める。1923年6月9日のクーデター時、他の閣僚と共に逮捕された。1924年、釈放。1926年、ブルガリア農業人民連盟解散後、親政府派閥「ヴラブチャ1世」を率いる。1931年~1932年、文部相、1932年~1934年、農業・国有財産相。

1944年9月2日、イヴァン・イヴァノフ・バグリアノフに代わって政府議長に就任すると同時に、外務・信仰省の指導を引き受けた。ソ連軍による占領を許さないため、米英の支援を取り付けようと試みた。9月5日~6日、ムラヴィエフ政権はドイツとの外交関係を断絶した。9月8日、ブルガリアがドイツに対し宣戦布告すると同時に、ソ連軍が国内に侵入した。9月9日、人民戦線政府が権力を掌握し、ムラヴィエフは他の閣僚と共に逮捕された。

1945年1月1日、ブルガリア人民裁判所により終身刑を言い渡された。1955年釈放。1965年1月31日に死去した。


公職
先代
イヴァン・バグリャノフ
ブルガリアの旗 ブルガリア王国
閣僚評議会議長

第42代:1944
次代
キモン・ゲオルギエフ