「ブルガリア王国 (近代)」の版間の差分
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'''ブルガリア王国'''(ブルガリアおうこく、{{lang-bg|Царство България / Tsarstvo Bulgaria}}, {{lang-en|Kingdom of Bulgaria}})は、[[1908年]]10月に[[ブルガリア公国]]の[[大公]][[フェルディナンド1世 (ブルガリア王)|フェルディナンド1世]]が[[ツァーリ|ツァール]]([[国王]])を称することで誕生した[[ブルガリア]]の[[王国]]。[[君主号]]のツァールは[[皇帝]]の意味も持つため、[[第一次ブルガリア帝国]]、[[第二次ブルガリア帝国]]に次ぐものとして'''第三次ブルガリア帝国'''とも呼ばれる。 |
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== 第一次・第二次バルカン戦争 == |
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2021年9月17日 (金) 22:25時点における版
- ブルガリア王国
- Царство България
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←1908年 - 1946年 →
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→(国旗) (国章)
1942年のブルガリア王国の領域-
公用語 ブルガリア語 首都 ソフィア
ブルガリア王国(ブルガリアおうこく、ブルガリア語: Царство България / Tsarstvo Bulgaria, 英語: Kingdom of Bulgaria)は、1908年10月にブルガリア公国の大公フェルディナンド1世がツァール(国王)を称することで誕生したブルガリアの王国。君主号のツァールは皇帝の意味も持つため、第一次ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国に次ぐものとして第三次ブルガリア帝国とも呼ばれる。
前史
前身であるブルガリア公国は列強の思惑で領土を縮小されるなど、自治権は得たものの国内には不満が残る結果となった(ベルリン会議)。その後、1908年に宗主国オスマン帝国で青年トルコ人革命が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国の助力を得てブルガリアは独立を宣言し、大公フェルディナンド1世は君主号を皇帝(ツァール)へ変更する。翌1909年4月19日、オスマン帝国はロシア帝国との戦争の賠償を肩代わりするという条件でブルガリア政府と議定書を交わし、ブルガリアは名実共に独立国となった。
第一次・第二次バルカン戦争
1912年にはロシア帝国を後ろ盾としたバルカン諸国とオスマン帝国との対立が激化していた。汎スラヴ主義を掲げていたロシア帝国が主導し、ブルガリア王国はセルビア王国、ギリシャ王国、モンテネグロ王国とバルカン同盟を結ぶ事となる。そしてモンテネグロ王国が1912年10月8日にオスマン帝国に対し宣戦布告を行うと第1次バルカン戦争が勃発する。ブルガリアはこれに参戦して勝利し、領土を拡大するが、マケドニアの領有をめぐって同盟を結んでいたセルビア王国、ギリシャ王国と対立する。こうした戦後処理の不満が原因となり、1913年に2次バルカン戦争が勃発、同盟は破綻し、バルカン半島で再び戦争が起こることとなった。この戦争でブルガリアは敗北し、マケドニア、ドブロジャ地方、東トラキアを失った。
第一次世界大戦
第一次世界大戦では1915年10月に第二次バルカン戦争でセルビア王国に奪われた失地の回復を目標に中央同盟国のドイツ、オーストリアとともに連合国のセルビア王国へ攻撃した。敗戦を喫する。ヌイイ条約でエーゲ海沿岸を同じく連合国の一員だったギリシャに割譲した。敗戦後、ブルガリアの政局が混迷したため、ボリス3世によって親政が行われた。
第二次世界大戦
第二次世界大戦では枢軸国側で参戦し、1940年にはルーマニア王国領の南ドブルジャを併合する。1941年にユーゴスラヴィア王国とギリシャ王国が枢軸国に降伏すると、ブルガリアはユーゴスラヴィア南東部(現在のマケドニアあたり)とギリシャ東部を占領統治した。1943年、ボリス3世が急死すると、遺児であるシメオン2世が6歳で即位し、ボリス3世の弟キリル王子らから構成される摂政団による統治が行われた。
その後、枢軸国側が劣勢となると、1944年9月5日にはソ連軍がブルガリアに宣戦布告した。元来ブルガリア国民は、同盟国ドイツよりも同じスラヴ民族であるロシア人に親近感を寄せており、政府も対ソ戦には参戦しなかったにもかかわらず、ソ連軍は領土内への侵攻を開始した。ブルガリア軍は無抵抗のまま降伏し、同年9月9日に勃発したクーデター(en)により政権は交代、連合国側に鞍替えして対ドイツ戦を開始する。
大戦終結後
戦後の1946年、祖国統一政府による国民投票の結果、王政が廃止された。最後のツァール、シメオン2世は9歳にしてエジプトへ亡命した。ブルガリアは共産主義国家・ブルガリア人民共和国となり、ソ連16番目の共和国と呼ばれるほどの親ソ連政策を執った。
シメオン2世は東欧革命(社会主義陣営の崩壊)後の1996年、祖国に帰還。2001年に「シメオン2世国民運動(2007年に安定と進歩のための国民運動に改名)」を結成し党首に就任、総選挙で議席の半数を獲得して首相に就任、経済改革に手腕を発揮したが、王政復古を計ることはなく、2005年の総選挙の結果を受けて下野した。「王制復活の是非はブルガリア国民が決めること」と述べるに止め、復位の是非に関する直接的な言明は避けている。
脚注
参考文献
関連項目
ブルガリアの歴史 | |
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オドリュサイ王国(460 BC-46 AD) | |
トラキア | |
大ブルガリア(632-668) | |
第一次ブルガリア帝国(681-1018) | |
第二次ブルガリア帝国(1185-1396) | |
オスマン時代(1396-1878) | |
民族覚醒(1762-1878) | |
ブルガリア公国(1878-1908) | |
ブルガリア王国(1908-1946) | |
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