「ドナウ川」の版間の差分
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しかし、[[クリミア戦争]]の講和条約である[[1856年]]の[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]において、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退する。またこの条約においてはドナウ川の国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。 |
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だが、この条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年の[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]によって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。この結果はブルガリアの不満を招き、後年[[大ブルガリア (政治概念)|大ブルガリア主義]]の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。 |
だが、この条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年の[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]によって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。この結果はブルガリアの不満を招き、後年[[大ブルガリア (政治概念)|大ブルガリア主義]]の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。 |
2021年9月17日 (金) 22:21時点における版
ドナウ川 | |
---|---|
延長 | 2,860 km |
平均流量 | 6,400 m3/s |
流域面積 | 817,000 km2 |
水源 | シュヴァルツヴァルト(ドイツ) |
水源の標高 | 678 m |
河口・合流先 | 黒海(ルーマニア) |
流域 |
ルーマニア(28.9%) ハンガリー(11.7%) オーストリア(10.3%) セルビア(10.3%) ドイツ(7.5%) スロバキア(5.8%) ブルガリア(5.2%) ボスニア・ヘルツェゴビナ(4.8%) クロアチア(4.5%) ウクライナ(3.8%) チェコ(2.6%) スロベニア(2.2%) モルドバ(1.7%) スイス(0.32%) イタリア(0.15%) ポーランド(0.09%) アルバニア(0.03%) |
ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語:Danubius、 ドイツ語: Donau [ˈdoːnaʊ])は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。
ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。
川の名
現在の名ドナウ(ドイツ語: ドーナウ)と各国語でそれに相当する名前は、ラテン語の Danubiusダーヌビウス に由来する。これはローマ神話のある河神の名である。スキタイ語、あるいはケルト語からの借用語がもとになっていると考えられている。スロヴァキア語ではDunaj、セルボクロアチア語ではDunav, ハンガリー語 Duna, ブルガリア語: Дунав, ルーマニア語: Dunăre、英語、フランス語: Danube 英語: [ˈdænjuːb]である。
語頭 Danu はインド・ヨーロッパ祖語で「川」を意味する「*dānu」という単語より来ている。ケルト神話のダヌ(Danu)、インド神話の水の女神ダヌ(Danu)など、印欧語族の神話にはこの語が残っている。黒海周辺にはドン川、ドニエプル川、ドネツ川、ドニエストル川など、同様の単語から派生したと見られる川の名が多数ある。
語尾 au は古ゲルマン語で流れを意味する ouwe に由来し、ドイツ語名称に1763年以降使われている。ドイツ語では以前は Tonach, その後は Donaw の名が使われ、現在に至る。日本語表記は、ドナウ川、ダニューブ川。
下流域は古代ギリシャ語では「イストロス川」と呼ばれた。これはケルト語の ys に由来する。
地理
源泉と分水界
ドナウ川の名称は、シュヴァルツヴァルト地方の町ドナウエッシンゲンで源流河川のブレク川(Breg)とブリガッハ川(Brigach)が合流する地点において、初めてその名が生まれる。
このドナウエッシンゲンの町を治めたフュルステンベルク公(Fürstenberg)の城館の庭に、「ドナウの泉」と呼ばれる源泉があり、ここがドナウ川の源泉だと言われている。彫刻などで飾られ観光名所ともなっているが、しかし実際はブリガッハ川に注ぐ支流であり、ここが地理学上の源泉とは見做されない。
またドナウエッシンゲンにはもう一つの支流として「ウニペルスの泉」と呼ばれる泉もあるが、こちらは現在では近郊住宅地の中にある。この泉は無人地帯の国道の脇を細い流れで下った後、フュルステンベルク公城館の池や水流を経由し、ドナウの泉が注がれるのとは反対の南側からブリガッハ川へ合流する。
ブリガッハ川の源泉は、ドナウエッシンゲンより鉄道で2駅ほどのザンクトゲオルゲンという町の郊外にある。
地理学上のドナウの源泉は本流であるブレク川の源泉であり、これはフルトヴァンゲンという町の郊外にある。この「ブレクの泉」にはドナウ川の真の源泉である旨の説明版がある。ブレクの泉より100mほどの場所にあるエルツ川の源泉はライン川に合流する。
ライン川は北海に注ぎ、ドナウ川は黒海に注ぐので、この2つの泉の水が出会うことはない。同じく近辺にはいくつかの小さな支流の川が流れ、その源泉が湧き出ているが、一方はライン川に注ぎ、一方はドナウ川に注ぐ。これらの境界はヨーロッパの分水界と呼ばれている。
フルトヴァンゲンには鉄道駅はないが、ドナウエッシンゲンおよび近隣の町トリベルク(ドイツ最大の滝で有名な町。この滝はライン川に注ぐ)などからバスが出ている。
上流
ドナウの源流は上記のとおり、ドイツのシュヴァルツヴァルト地方にあるフルトヴァンゲンの郊外にある。ここから流れ出す川はブレク川と呼ばれ、南東に48km下流のドナウエッシンゲンの街で、北から流れてきたブリガッハ川と合流し、ここからドナウの名を与えられる。ドナウ川はここから北東に流れ続け、シュヴァーベン山地を抜けてウルムやインゴルシュタットを通過し、フランケン山地を抜けた後、ケールハイムではライン・マイン・ドナウ運河と接続する。その後、レーゲンスブルクでレーゲン川をあわせると同時に南東へと向きを変える。その下流でミュンヘンから流れてきたイーザル川を合わせたのち、パッサウで北からのイルツ川、南からのイン川と合流する。
パッサウの下流からはオーストリア領内に入る。リンツを抜けた後、メルク修道院を起点として、30kmほどヴァッハウ渓谷と呼ばれる景勝地が続く。この渓谷には古城や修道院が点在し、またオーストリア最大のワインの産地でもあるため、ブドウ畑の中に城や僧院のたたずむ美しい光景が観光客の人気を集めており、また世界遺産にも指定されている。この渓谷を抜けるとウィーン盆地へと入り、しばらく下流に、オーストリアの首都ウィーンが存在する。ウィーンはハプスブルク帝国の居城として長くドナウ上流地域の中心であった町であり、また市民生活もドナウ川と密接に結びついていた。「美しく青きドナウ」など、ドナウを主題としてウィーンで作曲された曲も数多く存在する。一方でウィーンはドナウ川の氾濫にも長く悩まされてきた街だが、19世紀後半の河川改修工事によってドナウ川の氾濫は抑えられた。ドナウ川はウィーンの街を抜けて、その下流で小カルパティア山脈を越える、いわゆる「ハンガリーの門(Devín Gate)」と呼ばれる狭隘部を通過する。ここまでがドナウ川の上流部とされる。
中流
「ハンガリーの門」の名の通り、ここから下流はハンガリーに属するものと古来されてきた。現在でも、ドナウ川はここでオーストリアから、スロバキアとハンガリーの国境をなすようになる。この門のすぐ下流に、スロバキアの首都ブラチスラヴァが存在する。「門」で隔てられているとはいえ、ブラチスラヴァとウィーンの距離は60kmにすぎず、オーストリア・ハンガリー帝国時代までは密接な交流があった。またブダがオスマン帝国に占領されていた17・18世紀には、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれ、ハンガリーの首都となっていた。ブラチスラヴァ下流では、かつて大規模ダムの建設計画があったものの、環境保護運動により中止となった(#開発)。
スロバキア・ハンガリー国境はエステルゴムで終わりをつげ、ここからはハンガリー領内に入る。エステルゴムはハンガリー国王イシュトヴァーン1世が戴冠した歴史ある都市であり、ドナウ河畔には町のシンボルであるエステルゴム大聖堂が立っている。エステルゴムのすぐ下流、ドナウベンドと呼ばれる地域でドナウ川は東から南に流れの向きを変え、ハンガリーの中央部を縦断する。ドナウ川が流れる各国の中でも、国土の中央部を貫流するのはハンガリーのみである。ハンガリーにおいてドナウ川は南北をつなぐ交通の軸でもあり、また東西を分断する障壁ともなっている。ブダペストには多くの橋が架けられているが、それを除くとハンガリー国内にドナウ川を越える橋はほとんどない。ドナウ川を境として、ハンガリーはやや富んで小村が多く、やや都市化の進む西部と、プスタと呼ばれる大平原が広がり、大村落が多く農業を依然中心とする東部とに二分されている。ただ、人口分布や富においては東西に大きな差はなく、かなり均質なものとなっている[1]。ここではハンガリー大平原を貫流することとなり、穏やかな流れが続く。ハンガリーの首都、ブダペストは「ドナウの真珠」とも呼ばれる美しい都市であるが、かつて西岸のブダと東岸のペシュトの二つの街だったものが合併したもので、そのためドナウ川は街の中央部を流れることとなっている。ブダとペシュトの間には、1849年にセーチェーニ鎖橋がかけられて以降、何本かの橋が架けられているが、なかでもセーチェーニ鎖橋はその美しさでブダペストのシンボルの一つとなっている。ハンガリー領の南端近くのドナウ沿岸にはモハーチの街があるが、ここは1526年にモハーチの戦いが起き、ハンガリーがオスマンに敗れた古戦場である。
ハンガリーを抜けると、クロアチアとセルビア(ヴォイヴォディナ自治州)の国境をなす。ここで西から流れてきたドラーヴァ川をあわせ、ヴコヴァルで流れを再び大きく東に変えたのちにセルビア国内に入る。ヴォイヴォディナの州都であるノヴィ・サドを通ったのち、セルビアの首都ベオグラードでスロベニアから流れてきたサヴァ川を合わせる。ハンガリーから続く平原地帯はベオグラードのやや下流で終わり、やがてセルビアとルーマニアの国境となる。ここはドナウ川がカルパティア山脈を越える地点であり、その部分には急流で知られる鉄門がある。ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。また、鉄門ダムには3つの水力発電所が建設され、合計240万kWの電力を生み出している[2]。ここまでがドナウの中流域である。
下流
鉄門のすぐ下流にあるドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンで、ドナウは再び平原へと流れ出て緩やかな流れとなる。その後は下流域となり、ワラキア平原をブルガリアとルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れていく。ドナウ川の屈曲部、ブルガリアの西端に近いヴィディンとルーマニアのカラファトの間には、2013年に「新ヨーロッパ橋」が開通し、それまでフェリーで行き来していた両都市を結ぶこととなった。
この地域で最も大きな町は、南岸にあるブルガリアのルセである。ルセと、対岸のルーマニアのジュルジュとは「ルセ・ジュルジュ友好記念橋」によって結ばれている。この橋は上述の「新ヨーロッパ橋」が同区間に開通するまではブルガリアとルーマニアとを結ぶ唯一の橋だった。ドナウ北岸のワラキア平原は、西部のオルテニア、東部のムンテニアとも、灌漑が広く行われ、またドナウ河岸の湿原の耕地転換が進められてきた。
ブルガリア領シリストラの北岸で、ドナウは大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。シリストラの対岸はルーマニアのカララシであり、両市はフェリーで結ばれている。この辺りから東に位置するドナウ川と黒海に挟まれた地域はドブロジャと呼ばれる。
カララシからやや北東に位置する東岸のチェルナヴォダで、ドナウ・黒海運河と接続する。チェルナヴォダは交通の要衝であり、西岸のフェテシュティと1895年にカロル1世橋で結ばれて以降、ドナウ・黒海運河のほか、首都ブカレストと黒海沿岸の貿易港コンスタンツァを結ぶ道路・鉄道・水運すべてがこの町を通る。その後、ブライラの街を通ったのち、ガラツィの町で再びドナウは東に向かい、ウクライナとルーマニアの国境をなす。また現在、ブライラではドナウ川に架橋を設ける工事が進められている[3][4][5][6]。
この地域ではドナウ川は北のキリア分流、中央のスリナ分流、南の聖ゲオルゲ分流とに分かれる。キリア分流が最も水量が多く、上流の水の70%が流れ込む。スリナ分流には10%、聖ゲオルゲ分流には20%前後が流れ込む[7]。ウクライナ・ルーマニア国境は北のキリア分流であり、ウクライナ領のオデッサ州北岸にはイズマイールの町がある。
また、南の聖ゲオルゲ分流沿いにはルーマニア領であるトゥルチャの街があり、北ドブロジャに接する場所となっていて、そこはモルドバ領のカフ県のジュルジュレシュティにも接している。この地域はドナウ・デルタと呼ばれる広大な河口デルタ地帯となっている。そして、スリナ分流は黒海沿岸の町スリナで黒海へと注ぎ込む。
歴史
古代
ギリシア人は河口から鉄門までのドナウ川を知っており、イストロス川と呼んだ。ローマ帝国もほぼ同じ地域まで進出し、ヒステール川と呼んだ。
ローマ帝国時代には、ほとんど源流から河口までの全域が、蛮族に対する帝国の北方の防衛線の役割を果たした。
ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ソフィアといった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。
ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊には、105年にローマ帝国によって築かれた、ドナウ下流初の橋梁であるトラヤヌス橋の遺構が今も一部残存している。
この橋は、皇帝トラヤヌスのダキア戦争時に、ドナウ北岸のダキアへ侵攻するために建設されたもので、翌106年にダキアはローマ帝国に占領され、属州ダキアとなった。
ドナウの両岸がローマ帝国の支配下に置かれていたのはこの属州ダキア(現在のルーマニア西部)のみであり、残りはドナウ川をそのまま国境としていた。
271年、属州ダキアは放棄され、ローマ帝国は川の南岸へと引き上げた。ローマのダキア統治は165年間と、比較的短いものであったが、この地方はすでにローマ化されており、現在でもルーマニア人はラテン系民族となっている。
中世から近世
375年、フン族によって圧迫された西ゴート族がドナウ川を渡り、ここにゲルマン民族の大移動がはじまった。
これによりドナウ川はローマ帝国の北部国境としての意味を失い、ゴート族をはじめ、ゲルマン諸民族やフン族などが次々とドナウ南岸へと押し寄せた。
ローマ帝国東西分裂後は、下流は東ローマ帝国の北部国境となったものの、やがてブルガール人がこの地域を奪取し、第一次ブルガリア帝国を建てた。
中流部のハンガリー平原にはアヴァール人やマジャール人などの遊牧民族が押し寄せ、そこからマジャール人によるハンガリー王国が成立してその領域となる。片や上流域は神聖ローマ帝国領となり、この地におかれたオーストリア辺境伯領が日ならず強大化していった。
追ってオスマン帝国が強大化し下流域を版図に組み入れ、中流域も1526年のモハーチの戦いによってハンガリー王国が大部分の領土を喪失すると、大部分がオスマン帝国領となった。更に上流域のウィーンにも1529年(第一次ウィーン包囲)と1683年(第二次ウィーン包囲)の2度に渡って押し寄せるなど、この時期のドナウ川中下流域はオスマン帝国の重要な交通路となっていた。
近代
第二次ウィーン包囲の失敗による1699年のカルロヴィッツ条約によって中流域はオーストリアに割譲され、18世紀には大まかに上流・中流部がハプスブルク家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。
19世紀に入ると上流・中流部のオーストリア領では民族自決の動きが強まり、1848年にはウィーン三月革命が勃発するなど体制が動揺を続けた。またこの頃、ドイツにおいて統一の動きが高まる中、オーストリア皇帝を戴く「大ドイツ主義」か、プロイセン王を戴く「小ドイツ主義」かで対立が深まり、1866年の普墺戦争により大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最上流部は1870年にドイツ帝国に吸収されることとなった。
一方、統一ドイツから排除されたオーストリアは東欧・ドナウ志向を強め、1867年にはオーストリア帝国はアウスグライヒをマジャール人と結んでオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)へと改組された。ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、この事からその当時のハプスブルク帝国を「ドナウ帝国」と呼ぶこともある。この時期には民族自決の動きが盛んになる中、二重帝国制を更に改組し諸民族が同等の権利を持つ連邦国家、ドナウ連邦の構想がなされた。
また、この時期は産業革命の進展する時期であり、二重帝国内においては新しく登場した機械や技術を利用してドナウ川の開発・改修がすすめられた。1862年の春の洪水をきっかけにウィーン周辺で行われた河川改修工事は流路の変更を伴う大規模なものであり、10年後に完成したのちはウィーン盆地内の流路は非常に安定したものとなり、また流路の直線化によって得られた土地や水路の拡張・安定化はウィーンやオーストリア経済に多大な恩恵をもたらした[8]。
この河川改修工事はハンガリー内においても大規模に行われ、ドナウの流れは直線的に改修され、洪水も激減した。この河川改修により、それまで春などの増水期にはあちこちに湿原のできていたハンガリー平原は乾燥化が進み、各所に乾燥した草原が広がるようになった一方、水利の向上によって農地が拡大し、ハンガリーは農産物の一大輸出国として繁栄した。この繁栄を受けてハンガリーの首都であるブダとペストも急速に成長した。1849年にはブダとペストの間にはじめてセーチェーニ鎖橋が架けられ、1873年にはブダとペストが合併してブダペスト市が誕生し、ハンガリーの中心として栄えた。
この時期はウィーンではウィンナ・ワルツが隆盛した時期であり、ワルツ王とも呼ばれるヨハン・シュトラウス2世が1867年に作曲した『美しく青きドナウ』など、数々のドナウを題材とした名曲が誕生した。
一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、オスマン支配下の各民族の独立運動が盛んになっていった。1817年にはミロシュ・オブレノヴィッチを公としてオスマン宗主権下のセルビア公国が成立した。1829年には、露土戦争に勝利したロシアがアドリアノープル条約でドナウ・デルタを領有し、ドナウへと進出する足掛かりを得た。
しかし、クリミア戦争の講和条約である1856年のパリ条約において、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退する。またこの条約においてはドナウ川の国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。
1859年にはオスマン宗主権下のワラキア公国とモルダヴィア公国が連合し、1861年にルーマニア公国が成立。セルビア・ルーマニア両公国は1877年の露土戦争でロシア側に立ってオスマンに宣戦し、その結果サン・ステファノ条約によって両公国は完全独立を承認され、セルビア王国およびルーマニア王国が成立。ブルガリアもブルガリア公国としてオスマン宗主権下ではあるが大幅な自治を認められ、オスマン帝国はドナウ沿岸への影響力をほぼ消失した。
だが、この条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年のベルリン条約によって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。この結果はブルガリアの不満を招き、後年大ブルガリア主義の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。
またルーマニアも、黒海に面するドブロジャの領有を認められた代わりに、ロシアに南ベッサラビア(ブジャク)地方の割譲を余儀なくされた。ドブロジャはルーマニア人の多いこれまでの領土とはやや異質な土地であり、またドナウ南岸のシリストラ要塞および南ドブロジャはブルガリアに与えられた為、この条約はルーマニアにも不満を残した。これによりロシア帝国は再びドナウ沿岸に領土を持つこととなった。
しばらく安定していたドナウ沿岸の国境線は、1913年の第2次バルカン戦争において再び変化する。この戦争においてブルガリア王国が敗北したため、ブルガリアはシリストラおよび南ドブロジャをルーマニアに割譲した。しかしブルガリアはこの地の奪還を悲願とし、以後30年以上、南ドブロジャはバルカン半島の火種であり続けた。
現代
第一次世界大戦によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれ、中央同盟国のドイツ・オーストリア・ブルガリアと、協商国側のロシア・セルビア・ルーマニアとの間で激しい戦闘が起きた。
結局1919年に中央同盟は敗北し、ブルガリアはヌイイ条約によって南ドブロジャをルーマニアに割譲。ルーマニアはソヴィエト連邦からベッサラビアも獲得しており、大ルーマニアが誕生した。
オーストリア・ハンガリー二重帝国は解体し、旧二重帝国領のドナウ沿岸にはオーストリア共和国、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア王国の4つの新独立国が誕生した。
しかし分割された国境線をめぐって争いが絶えなかった上、それまで統合されていた広大な領域が分割されたために経済圏が崩壊し、ドナウ連邦の考え方はほぼ消滅してしまった。
結局この経済・政治的広域圏崩壊の衝撃から立ち直ることが出来ない侭、不安定な国際情勢が続き、結局1938年のアンシュルスによってオーストリアがドイツに併合されたのを皮切りに、沿岸諸国は次々とナチス・ドイツの軍門に下って行くこととなった。
第二次世界大戦後、ルーマニアはベッサラビアをソヴィエト連邦に、南ドブロジャをブルガリアに割譲した。第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが共産主義化し、ソヴィエト連邦の影響下におかれ、西側諸国の航行は困難となった。
1972年には鉄門にダムが建設され、下流域と上・中流域との航行がやっと可能になった。冷戦終結後、東欧革命によって政治的障害がなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。
東欧革命は沿岸諸国内の動揺を齎し、1991年にはクロアチアがユーゴスラビアから、モルドバとウクライナがソヴィエト連邦から独立し、1993年にはビロード離婚によってチェコスロバキアが解体し、スロバキア共和国が成立。現在のドナウ沿岸の国境線が確定した。
1992年にライン川に繋がるライン・マイン・ドナウ運河が完成し、北海から黒海までの水運が可能になった。同年11月1日にEUが設立されると、ドナウ川は東側諸国との国境という位置付けで重要視されることになった。EUと東ヨーロッパにおける経済の要としてこの河川はこれからも注目されるであろうことが予想される。
だがその一方で、同河川の東岸エリアの国々においては『法の支配の尊重』という意識が低い点から「法の支配を支える機関への政治的圧力や汚職がそれを妨げている」と指摘する声が多く、特にハンガリー政府と欧州委員会はその点を巡ってこれまで何度も衝突して来ている為、今後の進展は同エリアの出方に掛かっているとも捉えられる面がある[9]。
国際関係
ドナウ川は古くより沿岸諸国の重要な交通路や港湾産業の拠点として機能していたが、鉄門などいくつかの難所や急流があり、河口から上流部まで直接船で航行することは近年まで不可能であった。
しかし、19世紀中盤になるとドナウ川においても国際河川化が進められ、1856年のパリ条約に於いてヨーロッパ委員会が設立されて、河口からブライラまでを国際管理下に置くと共に、各国への自由航行が保障された。
第一次世界大戦後には新たに国際委員会が設立され、航行の上限であるドイツのウルムにまで管理区域が拡大されたが、第二次世界大戦後、1948年にはソ連の指導下の元、ダニューブ河の航行制度に関する条約が東欧諸国間で締結された。
この条約によってルーマニアのガラツィにドナウ川委員会が設立され、ドナウ川の航行を担当したが、当時の同委員会の加盟国はソ連・ルーマニア・ユーゴスラビア・ブルガリア・チェコスロバキア・ハンガリーで、東側諸国のみの参加だった。
この頃には西側に属したウィーンと東側に属したその下流域との交流もほとんどなくなっていた。
のちにドナウ委員会にはオーストリアが正加盟国として、西ドイツがオブザーバーとして参加し、本部も1954年にはハンガリーのブダペストへと移転したが、ドナウ川航行が東側優位のもとにあったことに違いはなかった[10]。
冷戦終結後もドナウ川委員会は存続し、ドナウ川航行の調整を行っているが、ドナウ川沿岸国以外も多数の国がオブザーバーとして参加している。
ドナウ委員会加盟国は2014年から、本加盟国がドイツ・オーストリア・スロバキア・ハンガリー・クロアチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナの沿岸10ヶ国とロシアを合わせた計11ヶ国であり、オブザーバーはフランス・ベルギー・オランダ・チェコ・モンテネグロ・マケドニア・ギリシア・キプロス・トルコ・ジョージアの10ヶ国である[11]。
開発
1977年、チェコスロバキア政府とハンガリー政府はドナウ川の開発条約を締結し、ハンガリーのドナウベントのすぐ上流にあるナジマロシュと、ハンガリーとチェコスロバキアの国境上にあるガブチコヴォの2か所にダムを建設し、水力発電や水量調整による洪水防止および安定航行の実現をめざした。
1981年にはハンガリーが財政上の理由で4年間延期を申し入れた為、着工は1985年となった。
しかし、この頃からハンガリーでは環境や沿岸部の水没を理由としてダム建設反対運動が起こり、1989年には東欧革命によって民主化したハンガリー新政府が計画を中止した。これに対し、既にガブチコヴォダムを90%完成させていたチェコスロバキア側は反発した。
対立はさらに激化し、1992年にはハンガリーは条約自体を破棄。チェコスロバキアから権利を継承したスロバキアはこれを非難し、両国の対立は頂点に達した。
その後、欧州共同体の仲裁によってこの問題はハーグにある国際司法裁判所へと提訴され、1997年、同裁判所は条約を一方的に破棄したハンガリーとダム建設を強行し自然環境を破壊したスロバキア双方に問題があるとして両国に罰金を命じた[12]。
この判決は、国際司法裁判所が国際河川の紛争に対して判決を下した世界初のケースであった[13]。
流域
主な支流
流域の国と主な都市
流量
イズマイールにおけるドナウ川の流量(m³/s)
(1921年から1985年の平均データ)[14]
世界遺産
ドナウ川沿岸には、オーストリアのヴァッハウ渓谷の文化的景観(文化遺産)、ハンガリーのブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り(文化遺産)、ブルガリアのスレバルナ自然保護区(自然遺産)、ルーマニアのドナウ・デルタ(自然遺産)の4つの世界遺産が存在する。
ドナウ川を題材にした作品
音楽
- フランツ・シューベルト:歌曲『ドナウ川の上で』(D553)
- アドルフ・アダン:バレエ『ドナウの娘』
- ケーレル・ベーラ:『ライン川からドナウ川へ』(作品138)
- ヨハン・シュトラウス1世:ワルツ『ドナウ川の歌』(作品127)
- ハンス・クリスチャン・ロンビ:『ドナウ川の花』(Donau Blumen)
- ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ『美しく青きドナウ』(作品314)
- ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ『ドナウの岸辺から』(作品356)
- ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ『ドナウの乙女』(作品427)
- ヨーゼフ・バイヤー:バレエ『ドナウの水の精』
- カール・ミヒャエル・ツィーラー:ワルツ『ドナウ川の物語』(作品446)
- ヨシフ・イヴァノヴィチ:ワルツ『ドナウ川のさざなみ』
- ユリウス・フチーク:ワルツ『ドナウ伝説(ドナウの歌)』(作品233)
- ジークフリート・トランスラトイル:ワルツ『ドナウ川の物語』(作品99)
- レオシュ・ヤナーチェク:交響詩『ドナウ』
- リヒャルト・シュトラウス:交響詩『ドナウ』
- ロベルト・シュトルツ:ワルツ『ドナウ川の夢』
文学
脚注
- ^ 「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p78-79 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷
- ^ 「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p173 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷
- ^ IHI/ルーマニアで大型橋梁工事受注/設計・施工一括、中央径間1120m 日刊建設工業新聞社 2018年1月17日
- ^ IHI、ルーマニア最長の大型吊橋建設工事を受注 同国初案件で 財経新聞 2018年1月17日
- ^ IHI、ドナウ川に架けるルーマニア最長の吊り橋受注 日本経済新聞 2018年1月23日
- ^ 日本の「IHI」がルーマニアのドナウ川架橋工事を受注 同国の貨物流通の効率化にも貢献 DIGIMA NEWS 2018年2月8日
- ^ 「ドナウ河紀行」p204 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書
- ^ 「ウィーン ブルジョアの時代から世紀末へ」p121-122 山之内克子 講談社現代新書 1995年11月20日第1刷
- ^ ドナウ川、EUの新たな「断層線」に ウォール・ストリート・ジャーナル 2017年5月29日
- ^ 「ドナウ河紀行」p126 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書
- ^ ドナウ委員会公式サイト http://www.danubecommission.org/index.php/en_US/observer_state 2014年12月7日閲覧
- ^ 「地球の水が危ない」pp90-94 高橋裕 岩波書店 2003年2月20日第1刷
- ^ http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf116-1/p043-051.pdf#search='%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%A5' 国際流域での水の分配をめぐる係争と協調 - 中山幹康 東京地学協会 2012年12月31日閲覧
- ^ - Station: Ceatal Izmail