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[[画像:Oita Kunisaki-gun.png|frame|大分県国東郡の位置]] |
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'''国東郡'''(くにさきぐん)は、[[大分県]]([[豊後国]])にあった[[郡]]。 |
'''国東郡'''(くにさきぐん)は、[[大分県]]([[豊後国]])にあった[[郡]]。 |
2021年9月6日 (月) 10:07時点における版
郡域
概ね現在の下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。
歴史
かつては國埼郡、國﨑郡とも表記した。天平12年(740年)頃までに成立したとされる『豊後国風土記』において、豊後国の8つの郡のひとつとして國埼郡が挙げられている。同書の國埼郡の条によれば、國埼郡の名は、景行天皇が海路で巡幸し、この地にさしかかった時に「彼(そ)の見ゆるは、若(けだ)し、国の埼(さき)ならむ」と言ったことに因んで付けられたとされる。
また、承平年間(931年 – 938年)に成立した『和名類聚抄』には、國埼郡に、武藏、來繩[1]、國前、田染[2]、阿岐(安伎)、津守、伊美鄕[3]、の7郷があったことが記されている。
その後、近世には宇佐神宮の荘園が開かれ、江戸時代には杵築藩などが置かれた。現在の国東の字は、元禄時代頃に豊後国の東方にあることから当てられるようになったものであるとされる。
近世以降の沿革
- 所属町村の変遷は西国東郡#郡発足までの沿革、東国東郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。(204村)
- 慶応4年
- 明治4年
- 明治8年(1875年)3月 - 村浦の統合が行われ、127村1浦となる。
- 明治11年(1878年)11月1日 - 郡区町村編制法の大分県での施行により、国東郡のうち高田村ほか50村の区域をもって西国東郡が、鶴川村ほか77村1浦の区域をもって東国東郡がそれぞれ行政区画として発足。同日国東郡消滅。
脚注
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 44 大分県、角川書店、1980年11月1日。ISBN 4040014405。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
先代 ----- |
行政区の変遷 - 1878年 |
次代 西国東郡・東国東郡 |