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2021年8月29日 (日) 00:05時点における版
環渓惟一 | |
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嘉泰2年-至元18年9月4日 1202年-1281年10月17日 | |
生地 | 資州(四川省内江市資中県) |
宗派 | 臨済宗破庵派 |
師 | 無準師範 |
弟子 | 鏡堂覚円 |
環渓惟一(かんけいいいち、嘉泰2年(1202年)-至元18年9月4日(1281年10月17日))は、宋代から元代に活動した僧匠である。破庵下3世。
嘉泰2年(1202年)に資州(四川省内江市資中県)墨池で誕生する。俗姓賈氏。梵業寺で童子となり、嘉定14年(1221年で出家、嘉定16年(1223年)に成都甘露寺で受戒した。諸方を行脚した後、育王山の無準師範に就いてその侍香(用務を行い、法要で香台を持つ係)となる。師に従って径山に移って知蔵となるが、一時金陵の痴絶道冲の許に参禅する。その後無準師範の許に戻って法を嗣いだ。
嗣法の後淳祐6年(1246年)に建寧府の瑞巌寺の住持となったのを始めとして、臨江軍恵力寺、隆興府泐潭の宝峰寺、黄龍山崇恩寺、建昌軍資聖寺、瑞州黄檗山報恩光孝寺、袁州仰山太平興国寺、福州雪峰山崇聖寺ならびに慶元府天童山景徳寺の住持を歴任した。
至元18年9月4日(1281年10月17日)示寂。その語録として環渓惟一禅師語録が編まれた。法嗣は鏡堂覚円が知られている。
参考文献
- 禅学大辞典編纂所 編 『新版 禅学大辞典』pp.1231,1232 1985年
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