「田中総司 (野球)」の版間の差分
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1999年、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]にドラフト1位(逆指名)で入団した。1年目は開幕一軍入りし、初登板を果たすも3安打3失点と言う内容ですぐに二軍落ちし、オフに肘を手術<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>。代償は大きく、ストレートの球速が145km/hから130km/h台中盤にまで落ち込む<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>。3年目には[[ |
1999年、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]にドラフト1位(逆指名)で入団した。1年目は開幕一軍入りし、初登板を果たすも3安打3失点と言う内容ですぐに二軍落ちし、オフに肘を手術<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>。代償は大きく、ストレートの球速が145km/hから130km/h台中盤にまで落ち込む<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>。3年目には[[尾花高夫]]投手コーチの指導により<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>、[[サイドスロー]]転向なども経験したが結果を残すことはできなかった<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>。背番号'''21'''も、2003年に[[和田毅]]が入団すると剥奪される。[[2004年]]オフに戦力外通告を受け、トライアウト受験のため練習していた際に肩を痛め<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>、現役引退。 |
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引退後は[[特定非営利活動法人]]、ホークスジュニアアカデミーでコーチを務めながら<ref>{{Cite web|url=http://hawks-npo.jp/modules/ob/index.php?content_id=8|publisher=HAWKS JUNIOR ACADEMY|title=NPO法人ホークスジュニアアカデミー > 田中 総司|accessdate=2011-10-08}}</ref>[[福岡医療専門学校]]に通い<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>、[[柔道整復師]]と[[鍼灸師]]の資格を取得した<ref name="shuube">週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96</ref>。 |
2021年8月23日 (月) 05:55時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県伊丹市 |
生年月日 | 1977年8月21日(47歳) |
身長 体重 |
179 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1999年 ドラフト1位(逆指名) |
初出場 | 2000年4月5日 |
最終出場 | 2004年4月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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田中 総司(たなか そうじ、1977年8月21日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元プロ野球選手(投手)。2000年の登録名は「総司」(そうじ)。
来歴・人物
伊丹市立鴻池小学校の頃に父親が監督[1]の鴻池フレンズで野球を始める[2]。伊丹市立天王寺川中学校では鈴衛佑規(元広島)とバッテリーを組み全国大会ベスト4。兵庫県立伊丹北高等学校では1年夏、2年秋に県大会ベスト8、3年夏は県大会ベスト4[2][3]。
立命館大学時代は2年秋と3年春のリーグ戦で1試合15奪三振の快投[1]。1年下の山田秋親(後にプロでも同僚)との2本柱で4年春に大学選手権ベスト8[3]、秋はリーグ・最優秀選手、ベストナインに選ばれて明治神宮大会出場[3]も初戦(九州共立大戦)で山田の後に登板したが、的場寛一のサヨナラ打で延長の末に敗れた。登板した相手も後にプロで後輩となる新垣渚、山村路直であった。リーグ通算43試合15勝8敗防御率1.11と、関西学生野球連盟屈指の投手として活躍。同期の主将は葛城育郎。
1999年、福岡ダイエーホークスにドラフト1位(逆指名)で入団した。1年目は開幕一軍入りし、初登板を果たすも3安打3失点と言う内容ですぐに二軍落ちし、オフに肘を手術[4]。代償は大きく、ストレートの球速が145km/hから130km/h台中盤にまで落ち込む[4]。3年目には尾花高夫投手コーチの指導により[4]、サイドスロー転向なども経験したが結果を残すことはできなかった[4]。背番号21も、2003年に和田毅が入団すると剥奪される。2004年オフに戦力外通告を受け、トライアウト受験のため練習していた際に肩を痛め[4]、現役引退。
引退後は特定非営利活動法人、ホークスジュニアアカデミーでコーチを務めながら[5]福岡医療専門学校に通い[4]、柔道整復師と鍼灸師の資格を取得した[4]。
2011年春に専門学校を卒業し、芦屋市の鍼灸接骨院で勤務[4]。2017年5月に独立し伊丹市に「たなか鍼灸接骨院」を開業した[6]。その傍らボーイズリーグの「伊丹中央ボーイズ」の監督を務めている[2]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | ダイエー | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 0.2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 3 | 40.50 | 4.50 |
2003 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 10 | 2.0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.00 | |
2004 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 10 | 2.1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.29 | |
通算:3年 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 25 | 5.0 | 5 | 1 | 5 | 0 | 0 | 6 | 2 | 0 | 3 | 3 | 5.40 | 2.00 |
記録
- 初登板:2000年4月5日、対大阪近鉄バファローズ2回戦(大阪ドーム)、9回裏に2番手として救援登板、2/3回3失点
- 初奪三振:同上、9回裏に髙嶋徹から
背番号
- 21 (2000年 - 2002年)
- 54 (2003年 - 2004年)
登録名
- 総司 (そうじ、2000年)
- 田中 総司 (たなか そうじ、2001年 - 2004年)
脚注
- ^ a b 週刊ベースボール増刊 大学野球99秋季リーグ戦展望号 ベースボールマガジン社
- ^ a b c “当院長について”. たなか鍼灸接骨院. 2021年4月18日閲覧。
- ^ a b c 2000プロ野球プレイヤーズ名鑑 スポーツニッポン新聞社
- ^ a b c d e f g h 週刊ベースボール2011年9月19日号 セカンドキャリアの「球人力」P95-P96
- ^ “NPO法人ホークスジュニアアカデミー > 田中 総司”. HAWKS JUNIOR ACADEMY. 2011年10月8日閲覧。
- ^ “鷹の元ドラ1が次世代に伝えたいこと ケガに苦しんだ経験を糧に進む第二の人生 >”. デイリースポーツ. 2019年11月1日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 田中総司 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
- たなか鍼灸接骨院