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2年次の[[1979年]]に[[全国高等学校野球選手権京都大会|夏の甲子園府予選]]で決勝に進出するが[[宇治高等学校|宇治高]]に敗退。翌[[1980年]]夏も準々決勝に進むが、[[京都学園中学校・高等学校|京都商業高]]に惜敗し甲子園には出場できなかった。同年の[[1980年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]で[[原辰徳]]のクジを外した[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から1位指名を受け入団。エースナンバー18が与えられる。
2年次の[[1979年]]に[[全国高等学校野球選手権京都大会|夏の甲子園府予選]]で決勝に進出するが[[宇治高等学校|宇治高]]に敗退。翌[[1980年]]夏も準々決勝に進むが、[[京都学園中学校・高等学校|京都商業高]]に惜敗し甲子園には出場できなかった。同年の[[1980年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]で[[原辰徳]]のクジを外した[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]から1位指名を受け入団。エースナンバー18が与えられる。


[[1983年]]には一軍に上がり、[[6月25日]]に初先発。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[尾花髙夫|尾花高夫]]と投げ合い初勝利を記録する。しかしその後は失速し、同年は1勝にとどまった。[[1985年]]は4月から先発の一角として起用されるが、結果を残せず、翌年以降は背番号も変更されてあまり登板機会に恵まれなかった。[[1986年]]オフに[[片平晋作]]、[[永射保]]両選手との交換[[トレード]]で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に移籍。しかし、層の厚さから西武在籍中はわずか5試合の登板に留まった。
[[1983年]]には一軍に上がり、[[6月25日]]に初先発。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[尾花高夫]]と投げ合い初勝利を記録する。しかしその後は失速し、同年は1勝にとどまった。[[1985年]]は4月から先発の一角として起用されるが、結果を残せず、翌年以降は背番号も変更されてあまり登板機会に恵まれなかった。[[1986年]]オフに[[片平晋作]]、[[永射保]]両選手との交換[[トレード]]で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に移籍。しかし、層の厚さから西武在籍中はわずか5試合の登板に留まった。


[[1990年]]オフ、[[京都府立峰山高等学校|峰山高]]の大先輩である[[野村克也]]が監督を務める[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]に移籍、移籍1年目の[[1991年]]には主に中継ぎで29試合に登板し、一瞬ながら[[野村再生工場]]で再生した。しかし[[1992年]]には登板がなく、同年限りで現役を引退。
[[1990年]]オフ、[[京都府立峰山高等学校|峰山高]]の大先輩である[[野村克也]]が監督を務める[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]に移籍、移籍1年目の[[1991年]]には主に中継ぎで29試合に登板し、一瞬ながら[[野村再生工場]]で再生した。しかし[[1992年]]には登板がなく、同年限りで現役を引退。

2021年8月23日 (月) 05:54時点における版

広瀬 新太郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京丹後市
生年月日 (1962-12-08) 1962年12月8日(62歳)
身長
体重
185 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1980年 ドラフト1位
初出場 1983年6月23日
最終出場 1991年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

広瀬 新太郎(ひろせ しんたろう、1962年12月8日 - )は、京都府京丹後市出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

峰山高では、新浦寿夫鈴木啓示のフォームを真似たというしなやかな投げ方で注目を浴びた。大きなテイクバックとリストの強さを生かしたフォームは評価が高く、最速144km/hのストレートと鋭いカーブが持ち味だった。

2年次の1979年夏の甲子園府予選で決勝に進出するが宇治高に敗退。翌1980年夏も準々決勝に進むが、京都商業高に惜敗し甲子園には出場できなかった。同年のプロ野球ドラフト会議原辰徳のクジを外した横浜大洋ホエールズから1位指名を受け入団。エースナンバー18が与えられる。

1983年には一軍に上がり、6月25日に初先発。ヤクルト尾花高夫と投げ合い初勝利を記録する。しかしその後は失速し、同年は1勝にとどまった。1985年は4月から先発の一角として起用されるが、結果を残せず、翌年以降は背番号も変更されてあまり登板機会に恵まれなかった。1986年オフに片平晋作永射保両選手との交換トレード西武ライオンズに移籍。しかし、層の厚さから西武在籍中はわずか5試合の登板に留まった。

1990年オフ、峰山高の大先輩である野村克也が監督を務めるヤクルトスワローズに移籍、移籍1年目の1991年には主に中継ぎで29試合に登板し、一瞬ながら野村再生工場で再生した。しかし1992年には登板がなく、同年限りで現役を引退。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1983 大洋 16 5 0 0 0 1 3 0 -- .250 153 30.0 40 3 25 2 2 13 1 1 23 23 6.90 2.17
1984 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 44 7.1 18 4 4 0 0 2 2 0 13 13 15.95 3.00
1985 26 7 0 0 0 1 2 0 -- .333 279 57.2 62 12 44 1 0 19 1 0 44 39 6.09 1.84
1986 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 1.0 6 0 1 0 0 1 0 0 2 2 18.00 7.00
1988 西武 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 37 7.2 10 0 5 0 1 1 1 0 5 3 3.52 1.96
1991 ヤクルト 29 1 0 0 0 1 2 0 -- .333 191 43.1 50 4 23 1 2 19 2 0 31 31 6.44 1.68
通算:6年 84 13 0 0 0 3 7 0 -- .300 714 147.0 186 23 102 4 5 55 7 1 118 111 6.80 1.96

記録

背番号

  • 18 (1981年 - 1985年)
  • 13 (1986年)
  • 65 (1987年)
  • 19 (1988年 - 1989年)
  • 66 (1990年)
  • 55 (1991年 - 1992年)

関連項目

外部リンク