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広瀬新太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広瀬 新太郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京丹後市
生年月日 (1962-12-08) 1962年12月8日(61歳)
身長
体重
185 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1980年 ドラフト1位
初出場 1983年6月23日
最終出場 1991年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

広瀬 新太郎(ひろせ しんたろう、1962年12月8日 - )は、京都府京丹後市出身の元プロ野球選手投手)。

経歴

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峰山高では、新浦寿夫鈴木啓示のフォームを真似たというしなやかな投げ方で注目を浴びた。大きなテイクバックとリストの強さを生かしたフォームは評価が高く、最速144km/hのストレートと鋭いカーブ、スライダー、シュートが持ち味だった。

2年次の1979年夏の府大会で決勝に進出するが宇治高に敗退。

1980年は春の府大会で準優勝、夏も準々決勝に進むが、京都商業高に惜敗し甲子園には出場できなかった。同年のプロ野球ドラフト会議原辰徳のクジを外した横浜大洋ホエールズから1位指名を受け入団。エースナンバー18が与えられる。

1983年には一軍に上がり、6月25日に初先発。ヤクルト尾花高夫と投げ合い初勝利を記録する。しかしその後は失速し、同年は1勝にとどまった。

1985年は4月から先発の一角として起用されるが、結果を残せず、翌年以降は背番号も変更されてあまり登板機会に恵まれなかった。

1986年オフに片平晋作永射保両選手との交換トレード西武ライオンズに移籍。しかし、層の厚さから西武在籍中はわずか5試合の登板に留まった。

1990年オフ、高校の大先輩である野村克也が監督を務めるヤクルトスワローズに移籍。

1991年には主に中継ぎで29試合に登板したが防御率は6.44と精彩を欠いた。

1992年には登板がなく、同年限りで現役を引退。

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1983 大洋 16 5 0 0 0 1 3 0 -- .250 153 30.0 40 3 25 2 2 13 1 1 23 23 6.90 2.17
1984 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 44 7.1 18 4 4 0 0 2 2 0 13 13 15.95 3.00
1985 26 7 0 0 0 1 2 0 -- .333 279 57.2 62 12 44 1 0 19 1 0 44 39 6.09 1.84
1986 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 1.0 6 0 1 0 0 1 0 0 2 2 18.00 7.00
1988 西武 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 37 7.2 10 0 5 0 1 1 1 0 5 3 3.52 1.96
1991 ヤクルト 29 1 0 0 0 1 2 0 -- .333 191 43.1 50 4 23 1 2 19 2 0 31 31 6.44 1.68
通算:6年 84 13 0 0 0 3 7 0 -- .300 714 147.0 186 23 102 4 5 55 7 1 118 111 6.80 1.96

記録

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背番号

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  • 18(1981年 - 1985年)
  • 13(1986年)
  • 65(1987年)
  • 19(1988年 - 1989年)
  • 66(1990年)
  • 55(1991年 - 1992年)

脚注

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関連項目

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外部リンク

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