「オプティマテス」の版間の差分
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'''オプティマテス'''({{lang-la-short|optimates}})は、[[共和政ローマ]]末期の政治一派 |
'''オプティマテス'''({{lang-la-short|optimates}})は、[[共和政ローマ]]末期の政治一派。日本語では'''閥族派'''、'''元老院派'''と呼ばれる。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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共和政ローマでは、長年にわたって[[元老院 (ローマ)|元老院]]主導のもと政治が行われてきた。オプティマテスは元老院主導による政治体制の維持を図った者の総称であり、その名はラテン語の「良い」の最上級・オプティムス(optimus)に由来する。そのため「'''最良の人士'''」と訳されることもある。 |
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この国では、政治に関わり大きなことを成し遂げたいと考えている人々には2つの種類(genera)がある。<br> |
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一方は「ポプラレス」、もう一方は「オプティマテス」とされ、本人たちもそう目されるよう志向する。<br> |
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民衆の人気を取るための言動をとる者たちが「ポプラレス」であり、<br> |
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最高の市民に受け入れられる政策を志向する者たちが「オプティマテス」とされる。 |
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他にも「良き人々」を意味する'''ボニ'''(boni)の表記も見られるが、この表記はオプティマテスの記した資料に登場するものであることに留意する必要がある。 |
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<cite>キケロ『セスティウス弁護』96{{efn|参考文献には96節とあるが、英訳、ラテン語版共に該当箇所は違う内容}}</cite> |
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オプティマテスと呼ばれる人には、元老院の多数派を占める[[ノビレス]](新貴族)が多く見られるが、[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]や[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|カト・ウティケンシス]](小カトー)と並び代表的なオプティマテスとされる[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]は[[ノウス・ホモ]]である。 |
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このキケロの文章によって、長年にわたり共和政末期にはあたかも[[二大政党制]]の如く、「オプティマテス」と「ポプラレス」の対立があったと思われてきたが、近年ではこのような近代的な「[[政党]]」はローマには存在しなかったというのが、研究者の共通認識となっている。代わりに、各個人が属する党派(factio)の論理が重視される。しかしながら、共和政ローマを専門としない研究家や歴史家によって、この呼び方がいまだに利用されている{{Sfn|鷲田|loc=pp.75-76}}。 |
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== 歴史 == |
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この「オプティマテス」と「ポプラレス」の対立という図式は、[[テオドール・モムゼン]]らによって支持されてきたが、現在ではこのような継続性をもった政党は存在せず、おのおのの[[ノビレス]](新貴族)が属する複数ある党派同士の激しい権力争いが行われていたと考えられてきており、以前はノビレスをオプティマテスと見なすことも行われていたが、オプティマテスもポプラレスも主要な人間はノビレスであったことが指摘されており、現在では否定的である{{Sfn|鷲田|loc=pp.77-78}}。 |
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共和政末期のローマでは、相次ぐ戦争とそれに伴う領地拡大により経済構造が大きく変化し政治に歪みが生じてきていた。具体的に言えば格差の拡大に伴う[[プレブス|平民]]の困窮・没落である。そしてそれに伴う、軍事力の低下である(当時のローマ軍は一定以上の資産を持つ市民からの徴兵制で成立していた)。この事態を受け、[[グラックス兄弟]]は平民を救済すべく改革に乗り出した。 |
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この改革に対し、元老院の多数を占めるノビレスは反発する。加えてグラックス兄弟は[[護民官]]という立場のもと、法案を全市民による[[市民集会]]である[[ケントゥリア民会]]・[[トリブス民会]]ではなくて、平民のみの市民集会である[[プレブス民会]]で成立させるという手段に出たため、元老院との対立はますます深まり、結果としてグラックス兄弟とその一派は粛清されて改革は失敗に終わる。 |
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共和政ローマの選挙においては、第1クラシス(階級)の投票でほぼその選挙結果が決まるとさえ考えられていた[[ケントゥリア民会]]においても、一般市民の動向が影響していたとする研究もあり、[[元老院 (ローマ)|元老院]]に議席を持つノビレスと言えど、市民の支持を無視することは出来なかったと考えられ、民衆の支持を得ようとするものがポプラレスであるとは言い切れない。また当時の市民集会(コンティオ)で民衆の支持を得ようと派手な演出を伴う演説を行うものはいたが、それをすなわちポプラレスとすることも出来ない。そして、従来オプティマテスと目されてきた[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス]]が、[[紀元前62年]]に食糧供給の適用範囲を拡大したような例もあり、改革派をそのままポプラレスとすることも出来ないのである{{Sfn|鷲田|loc=pp.78-80}}。 |
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しかしグラックス兄弟以降も、平民の支持を基盤として元老院に対抗しようとする[[ポプラレス]]が相次いで出現した。その中から次第に[[ガイウス・マリウス]]が台頭してくる。マリウスは自ら行った軍の改革(彼は徴兵制を志願兵制に切り替え、困窮した平民を軍に雇用して救済しつつ軍事力を回復させる政策をとった)で得た強大な軍事力と民衆の支持を背景に政治権力を握ろうとした。元老院はそれを阻止しようとしたが、ローマの軍事力を建て直す必要性から平民の救済は急務であり、結局はマリウスらポプラレスが権力を掌握した。 |
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キケロの時代には、民衆の支持を得るためのパフォーマンス政治家が増えており、[[護民官]]らが徒党を率いて騒乱を起こすなど、問題が発生していた。そこでそのような者たちと区別するため、良識的な普通のローマ市民というような意味合いで、オプティマテスとラベリングし、法廷弁論で使用したのではないかという説がある{{Sfn|鷲田|loc=pp.81-82}}。 |
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マリウスの死後、彼の政敵であるスッラは[[独裁官]]に就任、このときにオプティマテスの政治的思想は最大限適用された。スッラのもとで民会は政治力のほとんどを奪われ、元老院議員は300人から600人に定員を増やした。そしてポプラレスは多数粛清され、オプティマテスは最盛期を迎える。しかしながらスッラの独裁政治は、元老院主導の[[寡頭制]]を理想とする多くのオプティマテスにとっても悪夢であり、スッラの死後に彼の構築した体制は徐々に崩れていく。皮肉にも独裁政治をとらねば、もはや元老院主導を目指す政治派閥による体制は維持出来ず、これはオプティマテスの政治的限界を意味していた。 |
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共和国の責任者の目的とは何だろうか。彼らが常に見つめ、そこを目指すべきものだ。<br> |
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それは、全ての分別があり、善良な人々(bonis)にとって、優れて望ましいもの、<br> |
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すなわち、義務を果たすことによって得られる安寧である。<br> |
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これを求める人々こそ最も優れた人々であり、<br> |
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これを実現できる人間が最高の指導者(optimates)であり国家の守護者なのだ。 |
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その後、マリウスの義理の甥にあたる[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の台頭とともにポプラレスは復活を遂げるが、オプティマテスも依然として勢力を保っていた。カエサルは[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]の末、オプティマテスを打ち破り権力を掌握し、かつて頓挫したグラックス兄弟とほとんど同じ改革を実行した。だが、後にカエサルの許しを得て元老院議員の身分に留まる者もいた(後にカエサルを暗殺する[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]もその1人である)。 |
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<cite>キケロ『セスティウス弁護』98</cite> |
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カエサル暗殺後、彼の後継者達による[[三頭政治|第二回三頭政治]]が始まり、そこでオプティマテスは多数粛清され政治的な終焉を迎えた。以降、ローマの政治はカエサルの後継を巡るポプラレス同士の権力闘争へと移行する。これを制した[[アウグストゥス]]は自らに権力を集中させるも、一度得た大権を返還し元老院によって再び譲渡されるという形式をとるなど、巧妙に権力を固め、カエサル暗殺にも繋がったオプティマテス再起の芽を摘んだ。 |
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==脚注== |
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===注釈=== |
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===出典=== |
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==参考文献== |
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* {{Cite book|和書|ref={{sfnref|鷲田}}|author=鷲田睦朗|title=「民衆派」と「閥族派」は滅ぼさねばならない:ローマ共和政後期における政治状況の理解に向けて|publisher=大阪大学西洋史学会| year=2020}} |
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2021年8月21日 (土) 11:32時点における版
オプティマテス(羅: optimates)は、共和政ローマ末期の政治一派。日本語では閥族派、元老院派と呼ばれる。
概要
共和政ローマでは、長年にわたって元老院主導のもと政治が行われてきた。オプティマテスは元老院主導による政治体制の維持を図った者の総称であり、その名はラテン語の「良い」の最上級・オプティムス(optimus)に由来する。そのため「最良の人士」と訳されることもある。
他にも「良き人々」を意味するボニ(boni)の表記も見られるが、この表記はオプティマテスの記した資料に登場するものであることに留意する必要がある。
オプティマテスと呼ばれる人には、元老院の多数派を占めるノビレス(新貴族)が多く見られるが、ルキウス・コルネリウス・スッラやカト・ウティケンシス(小カトー)と並び代表的なオプティマテスとされるマルクス・トゥッリウス・キケロはノウス・ホモである。
歴史
共和政末期のローマでは、相次ぐ戦争とそれに伴う領地拡大により経済構造が大きく変化し政治に歪みが生じてきていた。具体的に言えば格差の拡大に伴う平民の困窮・没落である。そしてそれに伴う、軍事力の低下である(当時のローマ軍は一定以上の資産を持つ市民からの徴兵制で成立していた)。この事態を受け、グラックス兄弟は平民を救済すべく改革に乗り出した。
この改革に対し、元老院の多数を占めるノビレスは反発する。加えてグラックス兄弟は護民官という立場のもと、法案を全市民による市民集会であるケントゥリア民会・トリブス民会ではなくて、平民のみの市民集会であるプレブス民会で成立させるという手段に出たため、元老院との対立はますます深まり、結果としてグラックス兄弟とその一派は粛清されて改革は失敗に終わる。
しかしグラックス兄弟以降も、平民の支持を基盤として元老院に対抗しようとするポプラレスが相次いで出現した。その中から次第にガイウス・マリウスが台頭してくる。マリウスは自ら行った軍の改革(彼は徴兵制を志願兵制に切り替え、困窮した平民を軍に雇用して救済しつつ軍事力を回復させる政策をとった)で得た強大な軍事力と民衆の支持を背景に政治権力を握ろうとした。元老院はそれを阻止しようとしたが、ローマの軍事力を建て直す必要性から平民の救済は急務であり、結局はマリウスらポプラレスが権力を掌握した。
マリウスの死後、彼の政敵であるスッラは独裁官に就任、このときにオプティマテスの政治的思想は最大限適用された。スッラのもとで民会は政治力のほとんどを奪われ、元老院議員は300人から600人に定員を増やした。そしてポプラレスは多数粛清され、オプティマテスは最盛期を迎える。しかしながらスッラの独裁政治は、元老院主導の寡頭制を理想とする多くのオプティマテスにとっても悪夢であり、スッラの死後に彼の構築した体制は徐々に崩れていく。皮肉にも独裁政治をとらねば、もはや元老院主導を目指す政治派閥による体制は維持出来ず、これはオプティマテスの政治的限界を意味していた。
その後、マリウスの義理の甥にあたるガイウス・ユリウス・カエサルの台頭とともにポプラレスは復活を遂げるが、オプティマテスも依然として勢力を保っていた。カエサルはローマ内戦の末、オプティマテスを打ち破り権力を掌握し、かつて頓挫したグラックス兄弟とほとんど同じ改革を実行した。だが、後にカエサルの許しを得て元老院議員の身分に留まる者もいた(後にカエサルを暗殺するマルクス・ユニウス・ブルトゥスもその1人である)。
カエサル暗殺後、彼の後継者達による第二回三頭政治が始まり、そこでオプティマテスは多数粛清され政治的な終焉を迎えた。以降、ローマの政治はカエサルの後継を巡るポプラレス同士の権力闘争へと移行する。これを制したアウグストゥスは自らに権力を集中させるも、一度得た大権を返還し元老院によって再び譲渡されるという形式をとるなど、巧妙に権力を固め、カエサル暗殺にも繋がったオプティマテス再起の芽を摘んだ。