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『{{仮リンク|四つの顔の女|en|The Woman With Four Faces}}』(1923年)を完成させたところで、パラマウントに週給2500ドルからの昇給を要求するが会社は拒否。新たにロンドンの映画会社と契約を結び、{{仮リンク|グラハム・カッツ|en|Graham Cutts}}<!--グレアム・カッツ-->監督の『Woman to Woman』(1923年)、『{{仮リンク|ホワイト・シャドウ|en|The White Shadow (film)}}』(1924年)に出演する(この2本には[[アルフレッド・ヒッチコック]]が脚本で参加している)。まだまだカンプソンに人気があることを知り、[[ジェシー・L・ラスキー]]は最高額でカンプソンをパラマウントに呼び戻す。 |
『{{仮リンク|四つの顔の女|en|The Woman With Four Faces}}』(1923年)を完成させたところで、パラマウントに週給2500ドルからの昇給を要求するが会社は拒否。新たにロンドンの映画会社と契約を結び、{{仮リンク|グラハム・カッツ|en|Graham Cutts}}<!--グレアム・カッツ-->監督の『Woman to Woman』(1923年)、『{{仮リンク|ホワイト・シャドウ|en|The White Shadow (film)}}』(1924年)に出演する(この2本には[[アルフレッド・ヒッチコック]]が脚本で参加している)。まだまだカンプソンに人気があることを知り、[[ジェシー・L・ラスキー]]は最高額でカンプソンをパラマウントに呼び戻す。 |
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ハリウッド復帰作の『{{仮リンク|性の敵|en|The Enemy Sex}}』(1924年)の監督 {{仮リンク|ジェームズ・クルーズ|en|James Cruze}}と翌1925年に結婚。(1929年に離婚)<ref>{{cite book|last1=Neste|first1=Dan Van|title=The Magnificent Heel: The Life and Films of Ricardo Cortez|date=2017|publisher=BearManor Media|page=229|url=https://books.google.com/books?id=nM5ADwAAQBAJ&pg=PA229&q=%22Betty%20Compson%22%20actress|accessdate=2020-08-27|language=en}}</ref>。しかし契約はそれ1本きりで、カンプソンはフリーランスの道を選び、低予算の[[コロンビア |
ハリウッド復帰作の『{{仮リンク|性の敵|en|The Enemy Sex}}』(1924年)の監督 {{仮リンク|ジェームズ・クルーズ|en|James Cruze}}と翌1925年に結婚。(1929年に離婚)<ref>{{cite book|last1=Neste|first1=Dan Van|title=The Magnificent Heel: The Life and Films of Ricardo Cortez|date=2017|publisher=BearManor Media|page=229|url=https://books.google.com/books?id=nM5ADwAAQBAJ&pg=PA229&q=%22Betty%20Compson%22%20actress|accessdate=2020-08-27|language=en}}</ref>。しかし契約はそれ1本きりで、カンプソンはフリーランスの道を選び、低予算の[[コロンビア ピクチャーズ]]『{{仮リンク|春の花巴里情調|en|The Belle of Broadway}}』(1926年)やチャドウィック・ピクチャーズ『The Ladybird』(1927年)などに主演。『[[肉体と悪魔]]』(1926年)で[[グレタ・ガルボ]]の代役に検討されたが、結局ガルボがそのまま出演した。 |
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1928年には{{仮リンク|ファースト・ナショナル・ピクチャーズ|en|First National Pictures}}のパート・トーキー映画『煩悩』に主演。アカデミー主演女優賞にノミネートされた<ref>{{cite web|title=("Betty Compson" search results)|url=http://awardsdatabase.oscars.org/search/results|website=Academy Awards Database|publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|accessdate=2018-01-10}}{{Dead link|date=June 2019 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。同年、[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]監督の『ニューヨークの波止場』にも出演。 |
1928年には{{仮リンク|ファースト・ナショナル・ピクチャーズ|en|First National Pictures}}のパート・トーキー映画『煩悩』に主演。アカデミー主演女優賞にノミネートされた<ref>{{cite web|title=("Betty Compson" search results)|url=http://awardsdatabase.oscars.org/search/results|website=Academy Awards Database|publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|accessdate=2018-01-10}}{{Dead link|date=June 2019 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。同年、[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]監督の『ニューヨークの波止場』にも出演。 |
2021年8月18日 (水) 00:21時点における版
ベティ・カンプソン Betty Compson | |
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宣材写真(1930年) | |
本名 | Eleanor Luicime Compson |
生年月日 | 1897年3月19日 |
没年月日 | 1974年4月18日(77歳没) |
出生地 | アメリカ合衆国 ユタ州ビーバー |
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州グレンデール |
国籍 | アメリカ合衆国 |
職業 | 女優 |
活動期間 | 1915 - 1948 |
配偶者 |
ジェームズ・クルーズ(1924-1930離婚) アーヴィング・ワインバーグ(1933-1937離婚) シルヴィウス・ジャック・ゴール(1944-1962死別) |
署名 | |
ベティ・カンプソン(Betty Compson、1897年3月19日 - 1974年4月18日)は、アメリカ合衆国の女優、映画プロデューサー。デビューはサイレント映画期。代表作は『ニューヨークの波止場』(1928年)とアカデミー主演女優賞にノミネートされた『煩悩』(1928年)。
生涯
1897年3月19日[1]、ユタ州ビーバーの鉱山キャンプで、鉱山技師・金採掘者・食料雑貨店経営者の父ヴァージル・カンプソンと家事手伝い・ホテルメイドのメアリー・ラウシャーの子として生まれる[2]。出生名はEleanor Luicime Compson。ソルトレイク高校を卒業[3]。若くして父親をなくし、16歳でソルトレイクシティの劇場でバイオリニストとして働き出す[4]。
巡業でヴォードビルの寸劇を演じていたところ、ハリウッドの喜劇プロデューサーのアル・クリスティの目に留まり契約[5][6]。1915年11月公開の『Wanted: A Leading Lady』で映画デビューする[7]。
1916年には25本の映画に出演。『Almost a Widow』を除いて、すべてアル・クリスティの短編映画だった[8]。クリスティとの契約が終了する1918年半ばまでこのペースで多数の短編映画に出演。1919年、パラマウント映画と5年契約を結び、ジョージ・ローン・タッカー監督作品『ミラクルマン』で長編映画デビュー。
人気を得たことで、プロデュース業にも進出。『愛の虜』を製作・主演した。
『四つの顔の女』(1923年)を完成させたところで、パラマウントに週給2500ドルからの昇給を要求するが会社は拒否。新たにロンドンの映画会社と契約を結び、グラハム・カッツ監督の『Woman to Woman』(1923年)、『ホワイト・シャドウ』(1924年)に出演する(この2本にはアルフレッド・ヒッチコックが脚本で参加している)。まだまだカンプソンに人気があることを知り、ジェシー・L・ラスキーは最高額でカンプソンをパラマウントに呼び戻す。
ハリウッド復帰作の『性の敵』(1924年)の監督 ジェームズ・クルーズと翌1925年に結婚。(1929年に離婚)[9]。しかし契約はそれ1本きりで、カンプソンはフリーランスの道を選び、低予算のコロンビア ピクチャーズ『春の花巴里情調』(1926年)やチャドウィック・ピクチャーズ『The Ladybird』(1927年)などに主演。『肉体と悪魔』(1926年)でグレタ・ガルボの代役に検討されたが、結局ガルボがそのまま出演した。
1928年にはファースト・ナショナル・ピクチャーズのパート・トーキー映画『煩悩』に主演。アカデミー主演女優賞にノミネートされた[10]。同年、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『ニューヨークの波止場』にも出演。
これらの作品でカンプソンの人気は復活、トーキー時代を迎えて、多忙な女優となった。『ミラクルマン』『The Big City』(1928年)でカンプソンと共演したロン・チェイニーは自身初となるトーキー映画『三人』(1930年)の相手役を依頼したが、忙しすぎて出ることが出来ず友人のライラ・リーを紹介したほどである。
1930年だけで9本の映画に主演。しかし、ゲイリー・クーパー主演『スポイラース』のヒットを最後に、出演はポヴァティ・ロウの映画ばかりになる。
それでも『風と共に去りぬ』のベル・ワトリング役のスクリーン・テストを受けるが、役は得られず、ヒッチコック監督の『スミス夫妻』(1941年)で小さな役をもらうのがやっとであった。
1948年の『Here Comes Trouble』を最後に女優を引退。その後は化粧品会社の経営や、3番めの夫の事業を手伝った。
1974年4月18日、カリフォルニア州グレンデールの自宅で心臓発作のために死亡。77歳だった。サン・フェルナンド・ミッション・セメタリーに埋葬[11]。結婚は3回したが、子供はいなかった。
映画産業への多大な貢献により、ヴァイン通り1751にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星と名前を刻まれた[12] 。
主な出演作品
- Wanted: A Leading Lady (1915)
- 国境侵入者 (1918)
- 嘘の上塗り (1919)
- 悪魔の足跡 (1919)
- ミラクルマン (1919)
- 愛の虜 (1921)
- 世界の涯 (1921)
- 女よ幸あれ (1921)
- 小牧師 (1922)
- 法律と女 (1922)
- 再生の女王 (1922)
- 椰子の葉蔭 (1922)
- 文明の破壊 (1922)
- 白薔薇 (1923)
- 絹擦れの音 (1923)
- 四つの顔の女 (1923)
- Woman to Woman (1923)
- ホワイト・シャドウ (1924)
- 性の敵 (1924)
- 浮気征伐 (1924)
- 輝く三色旗 (1925)
- 極楽突進 (1925)
- 駅馬車 (1925)
- 歓楽の宮殿 (1926)
- 春の花巴里情調 (1926)
- 君が為め命捧げん (1927)
- 狐と狸の腕比べ (1927)
- 軍法会議 (1928)
- 紐育の波止場 (1928)
- 煩悩 (1928)
- 真紅の海 (1929)
- 再生の彼 (1929)
- エロ大行進 (1929)
- ストリート・ガール (1929)
- 踊り子をめぐりて (1929)
- グレイト・ガッボ (1929)
- 逃走の島 (1930)
- 殺人街 (1930)
- 盛り場の大蜘蛛 (1930)
- スポイラース (1930)
- 姫君と武官 (1930)
- 霧の夜嵐 (1931)
- 純真花婿 (1931)
- 海の荒鷲(1933)
- 大都会の歓呼 (1936)
- ハリウッド大通り (1936)
- 暗黒王マルコ (1938)
- スミス夫妻 (1941)
出典
- ^ Wilson, Scott (2016) (英語). Resting Places: The Burial Sites of More Than 14,000 Famous Persons, 3d ed.. McFarland. p. 150. ISBN 9781476625997 2020年8月27日閲覧。
- ^ “Compson, Betty”. Oxford Index. Oxford University Press. January 10, 2018時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月27日閲覧。
- ^ Katchmer, George A. (2009) (英語). A Biographical Dictionary of Silent Film Western Actors and Actresses. McFarland. p. 69. ISBN 9781476609058 2020年8月27日閲覧。
- ^ “Betty Compson”. latimes.com. 2020-08/27閲覧。
- ^ “© Betty Compson, Silent and Sound Movie Star - goldensilents.com”. www.goldensilents.com. 2016年4月24日閲覧。[リンク切れ]
- ^ Wagner, Kristen Anderson (2018) (英語). Comic Venus: Women and Comedy in American Silent Film. Wayne State University Press. ISBN 9780814341032 2020年8月27日閲覧。
- ^ “Bits of News for Movie Fans”. Star Tribune (Minnesota, Minneapolis): p. 35. (November 7, 1915) 2020年8月27日閲覧。
- ^ Muller, Eddie. 2012. San Francisco Silent Film Festival: The Docks of New York Retrieved 28 April 2018. http://www.silentfilm.org/archive/the-docks-of-new-york
- ^ Neste, Dan Van (2017) (英語). The Magnificent Heel: The Life and Films of Ricardo Cortez. BearManor Media. p. 229 2020年8月27日閲覧。
- ^ “("Betty Compson" search results)”. Academy Awards Database. Academy of Motion Picture Arts and Sciences. 2018年1月10日閲覧。[リンク切れ]
- ^ Ellenberger, Allan R. (2001) (英語). Celebrities in Los Angeles Cemeteries: A Directory. McFarland. p. 195. ISBN 9780786450190 2020年8月27日閲覧。
- ^ Hollywood Walk of Fame; Retrieved 2017-01-19
外部リンク
- Betty Compson - IMDb
- Photographs of Betty Compson
- 1923 passport photo(flickr.com)
- Compson as she appeared in 1947's Hard Boiled Mahoney
- ベティー・カンプソン - KINENOTE