コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ベティ・カンプソン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
51行目: 51行目:
『{{仮リンク|四つの顔の女|en|The Woman With Four Faces}}』(1923年)を完成させたところで、パラマウントに週給2500ドルからの昇給を要求するが会社は拒否。新たにロンドンの映画会社と契約を結び、{{仮リンク|グラハム・カッツ|en|Graham Cutts}}<!--グレアム・カッツ-->監督の『Woman to Woman』(1923年)、『{{仮リンク|ホワイト・シャドウ|en|The White Shadow (film)}}』(1924年)に出演する(この2本には[[アルフレッド・ヒッチコック]]が脚本で参加している)。まだまだカンプソンに人気があることを知り、[[ジェシー・L・ラスキー]]は最高額でカンプソンをパラマウントに呼び戻す。
『{{仮リンク|四つの顔の女|en|The Woman With Four Faces}}』(1923年)を完成させたところで、パラマウントに週給2500ドルからの昇給を要求するが会社は拒否。新たにロンドンの映画会社と契約を結び、{{仮リンク|グラハム・カッツ|en|Graham Cutts}}<!--グレアム・カッツ-->監督の『Woman to Woman』(1923年)、『{{仮リンク|ホワイト・シャドウ|en|The White Shadow (film)}}』(1924年)に出演する(この2本には[[アルフレッド・ヒッチコック]]が脚本で参加している)。まだまだカンプソンに人気があることを知り、[[ジェシー・L・ラスキー]]は最高額でカンプソンをパラマウントに呼び戻す。


ハリウッド復帰作の『{{仮リンク|性の敵|en|The Enemy Sex}}』(1924年)の監督 {{仮リンク|ジェームズ・クルーズ|en|James Cruze}}と翌1925年に結婚。(1929年に離婚)<ref>{{cite book|last1=Neste|first1=Dan Van|title=The Magnificent Heel: The Life and Films of Ricardo Cortez|date=2017|publisher=BearManor Media|page=229|url=https://books.google.com/books?id=nM5ADwAAQBAJ&pg=PA229&q=%22Betty%20Compson%22%20actress|accessdate=2020-08-27|language=en}}</ref>。しかし契約はそれ1本きりで、カンプソンはフリーランスの道を選び、低予算の[[コロンビア映画]]『{{仮リンク|春の花巴里情調|en|The Belle of Broadway}}』(1926年)やチャドウィック・ピクチャーズ『The Ladybird』(1927年)などに主演。『[[肉体と悪魔]]』(1926年)で[[グレタ・ガルボ]]の代役に検討されたが、結局ガルボがそのまま出演した。
ハリウッド復帰作の『{{仮リンク|性の敵|en|The Enemy Sex}}』(1924年)の監督 {{仮リンク|ジェームズ・クルーズ|en|James Cruze}}と翌1925年に結婚。(1929年に離婚)<ref>{{cite book|last1=Neste|first1=Dan Van|title=The Magnificent Heel: The Life and Films of Ricardo Cortez|date=2017|publisher=BearManor Media|page=229|url=https://books.google.com/books?id=nM5ADwAAQBAJ&pg=PA229&q=%22Betty%20Compson%22%20actress|accessdate=2020-08-27|language=en}}</ref>。しかし契約はそれ1本きりで、カンプソンはフリーランスの道を選び、低予算の[[コロンビア ピクチャーズ]]『{{仮リンク|春の花巴里情調|en|The Belle of Broadway}}』(1926年)やチャドウィック・ピクチャーズ『The Ladybird』(1927年)などに主演。『[[肉体と悪魔]]』(1926年)で[[グレタ・ガルボ]]の代役に検討されたが、結局ガルボがそのまま出演した。


1928年には{{仮リンク|ファースト・ナショナル・ピクチャーズ|en|First National Pictures}}のパート・トーキー映画『煩悩』に主演。アカデミー主演女優賞にノミネートされた<ref>{{cite web|title=("Betty Compson" search results)|url=http://awardsdatabase.oscars.org/search/results|website=Academy Awards Database|publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|accessdate=2018-01-10}}{{Dead link|date=June 2019 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。同年、[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]監督の『ニューヨークの波止場』にも出演。
1928年には{{仮リンク|ファースト・ナショナル・ピクチャーズ|en|First National Pictures}}のパート・トーキー映画『煩悩』に主演。アカデミー主演女優賞にノミネートされた<ref>{{cite web|title=("Betty Compson" search results)|url=http://awardsdatabase.oscars.org/search/results|website=Academy Awards Database|publisher=Academy of Motion Picture Arts and Sciences|accessdate=2018-01-10}}{{Dead link|date=June 2019 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。同年、[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]監督の『ニューヨークの波止場』にも出演。

2021年8月18日 (水) 00:21時点における版

ベティ・カンプソン
Betty Compson
Betty Compson
宣材写真(1930年)
本名 Eleanor Luicime Compson
生年月日 (1897-03-19) 1897年3月19日
没年月日 (1974-04-18) 1974年4月18日(77歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ユタ州ビーバー英語版
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州グレンデール
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 女優
活動期間 1915 - 1948
配偶者 ジェームズ・クルーズ英語版(1924-1930離婚)
アーヴィング・ワインバーグ(1933-1937離婚)
シルヴィウス・ジャック・ゴール(1944-1962死別)
署名
テンプレートを表示

ベティ・カンプソンBetty Compson1897年3月19日 - 1974年4月18日)は、アメリカ合衆国女優、映画プロデューサー。デビューはサイレント映画期。代表作は『ニューヨークの波止場英語版』(1928年)とアカデミー主演女優賞にノミネートされた『煩悩英語版』(1928年)。

生涯

1897年3月19日[1]ユタ州ビーバー英語版の鉱山キャンプで、鉱山技師・金採掘者・食料雑貨店経営者の父ヴァージル・カンプソンと家事手伝い・ホテルメイドのメアリー・ラウシャーの子として生まれる[2]。出生名はEleanor Luicime Compson。ソルトレイク高校を卒業[3]。若くして父親をなくし、16歳でソルトレイクシティの劇場でバイオリニストとして働き出す[4]

巡業でヴォードビルの寸劇を演じていたところ、ハリウッドの喜劇プロデューサーのアル・クリスティ英語版の目に留まり契約[5][6]。1915年11月公開の『Wanted: A Leading Lady』で映画デビューする[7]

1916年には25本の映画に出演。『Almost a Widow』を除いて、すべてアル・クリスティの短編映画だった[8]。クリスティとの契約が終了する1918年半ばまでこのペースで多数の短編映画に出演。1919年、パラマウント映画と5年契約を結び、ジョージ・ローン・タッカー英語版監督作品『ミラクルマン英語版』で長編映画デビュー。

人気を得たことで、プロデュース業にも進出。『愛の虜英語版』を製作・主演した。

四つの顔の女英語版』(1923年)を完成させたところで、パラマウントに週給2500ドルからの昇給を要求するが会社は拒否。新たにロンドンの映画会社と契約を結び、グラハム・カッツ英語版監督の『Woman to Woman』(1923年)、『ホワイト・シャドウ英語版』(1924年)に出演する(この2本にはアルフレッド・ヒッチコックが脚本で参加している)。まだまだカンプソンに人気があることを知り、ジェシー・L・ラスキーは最高額でカンプソンをパラマウントに呼び戻す。

ハリウッド復帰作の『性の敵英語版』(1924年)の監督 ジェームズ・クルーズ英語版と翌1925年に結婚。(1929年に離婚)[9]。しかし契約はそれ1本きりで、カンプソンはフリーランスの道を選び、低予算のコロンビア ピクチャーズ春の花巴里情調英語版』(1926年)やチャドウィック・ピクチャーズ『The Ladybird』(1927年)などに主演。『肉体と悪魔』(1926年)でグレタ・ガルボの代役に検討されたが、結局ガルボがそのまま出演した。

1928年にはファースト・ナショナル・ピクチャーズのパート・トーキー映画『煩悩』に主演。アカデミー主演女優賞にノミネートされた[10]。同年、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『ニューヨークの波止場』にも出演。

これらの作品でカンプソンの人気は復活、トーキー時代を迎えて、多忙な女優となった。『ミラクルマン』『The Big City』(1928年)でカンプソンと共演したロン・チェイニーは自身初となるトーキー映画『三人英語版』(1930年)の相手役を依頼したが、忙しすぎて出ることが出来ず友人のライラ・リー英語版を紹介したほどである。

1930年だけで9本の映画に主演。しかし、ゲイリー・クーパー主演『スポイラース英語版』のヒットを最後に、出演はポヴァティ・ロウの映画ばかりになる。

それでも『風と共に去りぬ』のベル・ワトリング役のスクリーン・テストを受けるが、役は得られず、ヒッチコック監督の『スミス夫妻』(1941年)で小さな役をもらうのがやっとであった。

1948年の『Here Comes Trouble』を最後に女優を引退。その後は化粧品会社の経営や、3番めの夫の事業を手伝った。

1974年4月18日、カリフォルニア州グレンデールの自宅で心臓発作のために死亡。77歳だった。サン・フェルナンド・ミッション・セメタリーに埋葬[11]。結婚は3回したが、子供はいなかった。

映画産業への多大な貢献により、ヴァイン通り1751にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星と名前を刻まれた[12]

主な出演作品

出典

  1. ^ Wilson, Scott (2016) (英語). Resting Places: The Burial Sites of More Than 14,000 Famous Persons, 3d ed.. McFarland. p. 150. ISBN 9781476625997. https://books.google.com/books?id=FOHgDAAAQBAJ&pg=PA150&q=%22Eleanor%20Luicime%20Compson%22 2020年8月27日閲覧。 
  2. ^ Compson, Betty”. Oxford Index. Oxford University Press. January 10, 2018時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月27日閲覧。
  3. ^ Katchmer, George A. (2009) (英語). A Biographical Dictionary of Silent Film Western Actors and Actresses. McFarland. p. 69. ISBN 9781476609058. https://books.google.com/books?id=VnGeCQAAQBAJ&pg=PA69&q=%22Betty%20Compson%22%20actress 2020年8月27日閲覧。 
  4. ^ Betty Compson”. latimes.com. 2020-08/27閲覧。
  5. ^ © Betty Compson, Silent and Sound Movie Star - goldensilents.com”. www.goldensilents.com. 2016年4月24日閲覧。[リンク切れ]
  6. ^ Wagner, Kristen Anderson (2018) (英語). Comic Venus: Women and Comedy in American Silent Film. Wayne State University Press. ISBN 9780814341032. https://books.google.com/books?id=JUo9DwAAQBAJ&pg=PT312&q=%22Eleanor%20Luicime%20Compson%22 2020年8月27日閲覧。 
  7. ^ “Bits of News for Movie Fans”. Star Tribune (Minnesota, Minneapolis): p. 35. (November 7, 1915). https://www.newspapers.com/clip/16410566/betty_compson/ 2020年8月27日閲覧。  オープンアクセス
  8. ^ Muller, Eddie. 2012. San Francisco Silent Film Festival: The Docks of New York Retrieved 28 April 2018. http://www.silentfilm.org/archive/the-docks-of-new-york
  9. ^ Neste, Dan Van (2017) (英語). The Magnificent Heel: The Life and Films of Ricardo Cortez. BearManor Media. p. 229. https://books.google.com/books?id=nM5ADwAAQBAJ&pg=PA229&q=%22Betty%20Compson%22%20actress 2020年8月27日閲覧。 
  10. ^ ("Betty Compson" search results)”. Academy Awards Database. Academy of Motion Picture Arts and Sciences. 2018年1月10日閲覧。[リンク切れ]
  11. ^ Ellenberger, Allan R. (2001) (英語). Celebrities in Los Angeles Cemeteries: A Directory. McFarland. p. 195. ISBN 9780786450190. https://books.google.com/books?id=ZraJCgAAQBAJ&pg=PA195&q=%22Eleanor%20Luicime%20Compson%22 2020年8月27日閲覧。 
  12. ^ Hollywood Walk of Fame; Retrieved 2017-01-19

外部リンク