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「ブルツェンラント」の版間の差分

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ドイツ騎士団は地元の聖職者を無視した行動を続けていたが、これが先住のハンガリー貴族の怒りを買った。王太子ベーラ(後の[[ベーラ4世]])を中心に、ハンガリー貴族は[[第5回十字軍]]から帰ってきたアンドラーシュ2世に対し、ドイツ騎士団を追放するよう圧力をかけた。これに対し、ドイツ騎士団総長[[ヘルマン・フォン・ザルツァ]]は王と距離を取り、[[教皇]]に接近した<ref name="Urban"/>。1225年、アンドラーシュ2世は軍を率いてドイツ騎士団を強制退去させた。教皇[[ホノリウス3世]]が抗議したものの、効果は無かった<ref name="Christiansen">{{Cite book|last=Christiansen|first=Erik|title=The Northern Crusades|year=1997|publisher=Penguin Books|isbn=0-14-026653-4|page=287|location=London}}</ref>。こうしたハンガリーでの混乱と失地により、ヘルマン・フォン・ザルツァは[[プロイセン十字軍]]に活躍の場を求め、後の[[プロイセン]]への騎士団移転の原因となった<ref name="Christiansen"/>。
ドイツ騎士団は地元の聖職者を無視した行動を続けていたが、これが先住のハンガリー貴族の怒りを買った。王太子ベーラ(後の[[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]])を中心に、ハンガリー貴族は[[第5回十字軍]]から帰ってきたアンドラーシュ2世に対し、ドイツ騎士団を追放するよう圧力をかけた。これに対し、ドイツ騎士団総長[[ヘルマン・フォン・ザルツァ]]は王と距離を取り、[[教皇]]に接近した<ref name="Urban"/>。1225年、アンドラーシュ2世は軍を率いてドイツ騎士団を強制退去させた。教皇[[ホノリウス3世]]が抗議したものの、効果は無かった<ref name="Christiansen">{{Cite book|last=Christiansen|first=Erik|title=The Northern Crusades|year=1997|publisher=Penguin Books|isbn=0-14-026653-4|page=287|location=London}}</ref>。こうしたハンガリーでの混乱と失地により、ヘルマン・フォン・ザルツァは[[プロイセン十字軍]]に活躍の場を求め、後の[[プロイセン]]への騎士団移転の原因となった<ref name="Christiansen"/>。


12世紀から13世紀にかけてのハンガリー王は、ドイツ人のみならず[[セーケイ人]]や[[ペチェネグ人]]にもブルツェンラントに入植させた<ref name="tiplic"/>。この時期についての考古学的調査によれば[[ルーマニア人]]も多くここに住んでおり、後に[[シェイィ・ブラショヴルィ]](現:ブラショヴの一部)、[[サトゥルング]]、[[バチウ]]、[[チェルナトゥ]]、[[トゥルチェシュ]](現:[[サチェレ]]の一部)として知られる村々を建設した<ref name="tiplic"/>。13世紀後半の時点では、ルーマニア人の居住は2つの文献、それぞれブラン(1252年)とトハニ(1294年)しか報告されていない<ref name="pascu">{{Cite book|last=Pascu, Ştefan|author=Pascu, Ştefan|title=Voievodatul Transilvaniei, vol. II|year=1979|language=Romanian|pages=441–494}}</ref>が、15世紀後半ではブランの9つの村のうち7つがルーマニア人の村(''villae valachicales, Bleschdörfer'')で、2つだけがドイツ人の村とされている<ref name="pascu"/>。
12世紀から13世紀にかけてのハンガリー王は、ドイツ人のみならず[[セーケイ人]]や[[ペチェネグ人]]にもブルツェンラントに入植させた<ref name="tiplic"/>。この時期についての考古学的調査によれば[[ルーマニア人]]も多くここに住んでおり、後に[[シェイィ・ブラショヴルィ]](現:ブラショヴの一部)、[[サトゥルング]]、[[バチウ]]、[[チェルナトゥ]]、[[トゥルチェシュ]](現:[[サチェレ]]の一部)として知られる村々を建設した<ref name="tiplic"/>。13世紀後半の時点では、ルーマニア人の居住は2つの文献、それぞれブラン(1252年)とトハニ(1294年)しか報告されていない<ref name="pascu">{{Cite book|last=Pascu, Ştefan|author=Pascu, Ştefan|title=Voievodatul Transilvaniei, vol. II|year=1979|language=Romanian|pages=441–494}}</ref>が、15世紀後半ではブランの9つの村のうち7つがルーマニア人の村(''villae valachicales, Bleschdörfer'')で、2つだけがドイツ人の村とされている<ref name="pascu"/>。

2021年5月24日 (月) 21:33時点における最新版

ブルツェンラントの地図
ブルツェンラントの紋章

ブルツェンラント ドイツ語: Burzenland, De-Burzenland.ogg 発音[ヘルプ/ファイル])もしくはツァラ・ブルセイ(ルーマニア語: Țara Bârsei)、バルツァシャーグ(ハンガリー語: Barcaság)は、トランシルヴァニア(現ルーマニア北西部)の南東部の、ルーマニア人ドイツ人ハンガリー人が混在している地域を指す歴史的・民族誌的名称である[1]

地理

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ブルツェンラントはトランシルヴァニアアルプス山脈中にあり、おおまかに北はアパツァ、南西はブラン、東はプレジュメルといった範囲を指す。中心都市はブラショヴである。ブルツェンラントという名称は、オルト川の支流ブルサ川から取られたものである[1][2][3]。ルーマニア語のブルサ(bârsă)という語は、ダキア語に起源を持つとされている[4]

歴史

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中世

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考古学的調査により、この地域にドイツ人の入植が始まった時期は12世紀中盤、ハンガリー王ゲーザ2世の治世であったとされている[5]。文献上の記録としては、1192年に「テッラ・ボッツァ」(terra Bozza)がドイツ人の入植地 (Theutonici)として記録されたのが最初である[6]

18世紀前半のブルツェンラントの地図。現在のブラショヴは、ドイツ語とハンガリー語で「クローンシュタット(Cronstadt)」「ブラッショヴ(Brassow)」と記されている。

1211年、ハンガリー王アンドラーシュ2世ドイツ騎士団に、東方から侵入してくる遊牧民クマン人から王国を防衛する任の見返りとしてこの地域を与えた。ハンガリー王は貨幣鋳造権と未発見の金鉱・銀鉱の所有を主張する権利を留保する一方で、ドイツ騎士団には市場設営権と裁判権を与え、また租税や通行税も免除した[7]。ドイツ騎士団は木と土で出来た砦群と、5つの城塞 (ラテン語: quinque castra fortia)マリーエンブルクシュヴァルツェンブルクローゼナウ、クロイツブルク、クローンシュタットを建設した[7]。その一部は石造であった[7]。この騎士修道会は、クマン人の脅威をよく抑えた。また神聖ローマ帝国からも多くのドイツ人が入植し(トランシルヴァニア・ザクセン人)、要塞や入植地の周辺に農場や村を建設した[7]。後にハンガリー王とドイツ騎士団の間でブルツェンラントをめぐる対立が起こった頃には、既に居住者がいた。一部の中世の文献は、この地域が無人であると記述している[8]が、これは現代の学者の考古学的調査[5][6]や文研研究により否定されている[6][9]。土地が豊かであったこともドイツからの移民を加速させた[7]

1769-73年に制作されたブルツェンラントの地図

ドイツ騎士団は地元の聖職者を無視した行動を続けていたが、これが先住のハンガリー貴族の怒りを買った。王太子ベーラ(後のベーラ4世)を中心に、ハンガリー貴族は第5回十字軍から帰ってきたアンドラーシュ2世に対し、ドイツ騎士団を追放するよう圧力をかけた。これに対し、ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァは王と距離を取り、教皇に接近した[7]。1225年、アンドラーシュ2世は軍を率いてドイツ騎士団を強制退去させた。教皇ホノリウス3世が抗議したものの、効果は無かった[10]。こうしたハンガリーでの混乱と失地により、ヘルマン・フォン・ザルツァはプロイセン十字軍に活躍の場を求め、後のプロイセンへの騎士団移転の原因となった[10]

12世紀から13世紀にかけてのハンガリー王は、ドイツ人のみならずセーケイ人ペチェネグ人にもブルツェンラントに入植させた[6]。この時期についての考古学的調査によればルーマニア人も多くここに住んでおり、後にシェイィ・ブラショヴルィ(現:ブラショヴの一部)、サトゥルングバチウチェルナトゥトゥルチェシュ(現:サチェレの一部)として知られる村々を建設した[6]。13世紀後半の時点では、ルーマニア人の居住は2つの文献、それぞれブラン(1252年)とトハニ(1294年)しか報告されていない[11]が、15世紀後半ではブランの9つの村のうち7つがルーマニア人の村(villae valachicales, Bleschdörfer)で、2つだけがドイツ人の村とされている[11]

1429年のルツク会議において、神聖ローマ皇帝・ハンガリー王ジギスムントが、この地域における対オスマン帝国防衛にドイツ騎士団をあてることを提案した。既にプロイセンに移転していたドイツ騎士団からクラウス・フォン・ラデヴィッツ率いる分遣隊が派遣され、1432年にオスマン帝国の侵攻をうけて半数の騎士が殺されるまでブルツェンラントに駐留した[10]

近現代

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ブルツェンラントには、入植したドイツ人の末裔であるトランシルヴァニア・ザクセン人が20世紀までそのまま残っていた。そのほとんどは1976年以降、ルーマニア社会主義共和国政府の承認のもとで、西ドイツに移民した[1]。ただトランシルヴァニアに残った者もおり、2014年にルーマニア大統領に就任したクラウス・ヨハニスはトランシルヴァニア・ザクセン人である。

都市

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ポスタヴァル山塊の頂からブルツェンラントの一部を望む。右手にギンバヴが、中央奥にマグラ・コドレイ山が、その右手前にコドレアの町が見える。画面外の右側にブラショヴがある。
ほぼ同じ場所から冬に撮った風景。

以下に挙げる都市は、最初にルーマニア語名を記し、括弧内に順にドイツ語名、ハンガリー語名を記す。

脚注

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  1. ^ a b c Vofkori László; Lénárt Anna (1998). “Unităţi administrativ-teritoriale istorice şi regiuni etnografice în sudul şi estul Transilvaniei” (Romanian). Acta Hargitensia III, Aluta XX 2: 27–36. 
  2. ^ Deutsche Bergnamen in Tara Barsei (Burzenland)/Rumänien Archived 2006-07-15 at the Wayback Machine.. Accessed January 22, 2007. (ドイツ語)
  3. ^ Deutscher Orden im Burzenland (1211-1225). Accessed January 22, 2007. (ドイツ語)
  4. ^ In the matter of this toponym, Nicolae Dragan concurs with W. Tomaschek who considered that word bârsa has a Dacian-Thracian origin having the meaning of birch-tree. That would explain also the plough's "bârsa" wooden piece that binds the blades, base and furrows of the ploughs being made from birch-tree (Memoria Ethnologica 2004 quoting N. Draganu's "Din Vechea Noastră Toponimie" 1920) See also Albanian vërz. Variant bîrță. Slovenian brdce and Moravian brdce "a cross shaped shaft of a carriage (Dicţionarul etimologic român, Alexandru Ciorănescu, Universidad de la Laguna, Tenerife, 1958-1966 and Noul dicționar explicativ al limbii române, Litera Internațional, Editura Litera Internațional, 2002)
  5. ^ a b Ioniță, Adrian (2005). “Mormintele cu gropi antropomorfe din Transilvania și relația lor cu primul val de colonizare germană”. In Pinter, Zeno Karl (Romanian). Biblioteca Septemcastrensis XII. Relații interetnice în Transilvania (secolele VI-XIII). București: Editura Economică. pp. 215–226. ISBN 973-709-158-2. http://arheologie.ulbsibiu.ro/publicatii/bibliotheca/relatii%20interetnice%20in%20transilvania/011%20ionita/articol1.htm 2007年2月12日閲覧。 
  6. ^ a b c d e Țiplic, Ion Marian (2005) (Romanian). Contribuții la istoria spațiului românesc în perioada migrațiilor și evul mediu timpuriu (secolele IV-XIII). Institutul European. pp. 165–178 
  7. ^ a b c d e f Urban, William (2003). The Teutonic Knights: A Military History. London: Greenhill Books. p. 290. ISBN 1-85367-535-0 
  8. ^ "Terram Borza nomine ultra silvas versus Cumanos, licet desertam et inhabitatam". Georg Daniel Teutsch and Friedrich Firnhaber. Urkundenbuch zur Geschichte Siebenbürgens. Vienna, 1857, I, no. 10
  9. ^ Brezeanu, Stelian (2002). Identităţi şi solidarităţi medievale. Bucures̨ti: Corint. pp. 222–232. ISBN 973-653-347-6 
  10. ^ a b c Christiansen, Erik (1997). The Northern Crusades. London: Penguin Books. p. 287. ISBN 0-14-026653-4 
  11. ^ a b Pascu, Ştefan (1979) (Romanian). Voievodatul Transilvaniei, vol. II. pp. 441–494 

関連項目

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外部リンク

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