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「アナスタシヤ・ヤロスラヴナ」の版間の差分

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[[1060年]]、ベーラはアンドラーシュに対して蜂起した。アンドラーシュはベーラに敗れ、その後まもなくして死亡した。1060年12月6日にベーラはハンガリー王に即位し(ベーラ1世)、アナスタシヤは子供たち<!--翻訳元ロシア語版:детьми(造格複数)。子供「たち」が具体的に誰かは書かれておらず。一応、ハンガリー語版はAdelhaidもDávidもアナスタシヤの子としているようですが、ロシア語版Adelhaid=Аделаида[[:ru:Аделаида Венгерская|(ru)]]によれば、アンドラーシュの別の妻の子ではないかという説があるようです。この子たち全部を連れていったのでしょうか…。-->と共に[[バイエルン州|バイエルン]]への亡命を余儀なくされた。亡命先において、アナスタシヤはシャラモンの婚約相手のユディト[[:ru:Юдит Немецкая|(ru)]]の兄である、[[ローマ王]](ドイツ王)[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の支援を求めた。[[1063年]]にベーラが死亡し、ベーラの子たちもまたポーランドに亡命した後に、ドイツ軍がハンガリーに侵攻し、新たなハンガリー王としてシャラモンが王位に就くことが宣言された。この支援の返礼として、アナスタシヤは[[バイエルン大公|バイエルン公]][[オットー・フォン・ノルトハイム|オットー]]に、[[フン族]]の総帥[[アッティラ]]の所有物であったという伝説を持つ、ハンガリー王家の宝物の「アッティラの剣」{{refnest|group="注"|「宝物」は{{lang-ru|реликвия}}の意訳、「アッティラの剣」は{{lang-ru|меч Аттилы}}の直訳による。}}を贈与した。
[[1060年]]、ベーラはアンドラーシュに対して蜂起した。アンドラーシュはベーラに敗れ、その後まもなくして死亡した。1060年12月6日にベーラはハンガリー王に即位し(ベーラ1世)、アナスタシヤは子供たち<!--翻訳元ロシア語版:детьми(造格複数)。子供「たち」が具体的に誰かは書かれておらず。一応、ハンガリー語版はAdelhaidもDávidもアナスタシヤの子としているようですが、ロシア語版Adelhaid=Аделаида[[:ru:Аделаида Венгерская|(ru)]]によれば、アンドラーシュの別の妻の子ではないかという説があるようです。この子たち全部を連れていったのでしょうか…。-->と共に[[バイエルン州|バイエルン]]への亡命を余儀なくされた。亡命先において、アナスタシヤはシャラモンの婚約相手のユディト[[:ru:Юдит Немецкая|(ru)]]の兄である、[[ローマ王]](ドイツ王)[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の支援を求めた。[[1063年]]にベーラが死亡し、ベーラの子たちもまたポーランドに亡命した後に、ドイツ軍がハンガリーに侵攻し、新たなハンガリー王としてシャラモンが王位に就くことが宣言された。この支援の返礼として、アナスタシヤは[[バイエルン大公|バイエルン公]][[オットー・フォン・ノルトハイム|オットー]]に、[[フン族]]の総帥[[アッティラ]]の所有物であったという伝説を持つ、ハンガリー王家の宝物の「アッティラの剣」{{refnest|group="注"|「宝物」は{{lang-ru|реликвия}}の意訳、「アッティラの剣」は{{lang-ru|меч Аттилы}}の直訳による。}}を贈与した。


ただし、シャラモンの統治期間はベーラの子の[[ゲーザ1世 (ハンガリー王)|ゲーザ]]、[[ラースロー1世|ラースロー]]兄弟との王位を巡る争いによって不安定な情勢が続いた。また、この時期にはアナスタシヤはシャラモンとの間に意見の不一致が生じ、[[1074年]]にシャラモンが母に対し手を上げたこと、ドイツの伯爵{{refnest|group="注"|「伯爵」は{{lang-ru|граф}}[[:ru:Граф (титул)|(ru)]](ドイツ語のGrafに対応する)からの訳による。}}と2度目の結婚をしたことが知られている。
ただし、シャラモンの統治期間はベーラの子の[[ゲーザ1世 (ハンガリー王)|ゲーザ]]、[[ラースロー1世 (ハンガリー王)|ラースロー]]兄弟との王位を巡る争いによって不安定な情勢が続いた。また、この時期にはアナスタシヤはシャラモンとの間に意見の不一致が生じ、[[1074年]]にシャラモンが母に対し手を上げたこと、ドイツの伯爵{{refnest|group="注"|「伯爵」は{{lang-ru|граф}}[[:ru:Граф (титул)|(ru)]](ドイツ語のGrafに対応する)からの訳による。}}と2度目の結婚をしたことが知られている。


アナスタシヤの死は1094年以前のことである(この年に、すでに死んでいたことが言及されている)。言い伝えでは、アナスタシヤはアドモント[[:ru:Адмонт|(ru)]](現[[オーストリア]]・[[シュタイアーマルク州]])の修道院で死亡したと言われる。現在<!--「現在」…記念碑の写真アップロード2006年4月、ロシア語版に初記載2010年10月、日本語訳2014年5月。記念碑建立の日付は不明。「現在」が不適切でしたらよい表現に修正してください。昨今とか?-->ハンガリーの[[バラトン湖]]の近くの山には、アンドラーシュ1世とアナスタシヤの記念碑が建立されている。
アナスタシヤの死は1094年以前のことである(この年に、すでに死んでいたことが言及されている)。言い伝えでは、アナスタシヤはアドモント[[:ru:Адмонт|(ru)]](現[[オーストリア]]・[[シュタイアーマルク州]])の修道院で死亡したと言われる。現在<!--「現在」…記念碑の写真アップロード2006年4月、ロシア語版に初記載2010年10月、日本語訳2014年5月。記念碑建立の日付は不明。「現在」が不適切でしたらよい表現に修正してください。昨今とか?-->ハンガリーの[[バラトン湖]]の近くの山には、アンドラーシュ1世とアナスタシヤの記念碑が建立されている。

2021年5月24日 (月) 20:58時点における最新版

アナスタシヤ・ヤロスラヴナ
Анастасія Ярославна
ハンガリー王妃
在位 1046年 - 1060年

出生 1023年
キエフ大公国キエフ
死去 1094年以前
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、シュタイアーマルク辺境伯領、シュタイアーマルク、アドモント修道院
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、シュタイアーマルク辺境伯領、シュタイアーマルク、アドモント修道院
結婚 1038年
配偶者 ハンガリーアンドラーシュ1世
子女 シャラモン
ダーヴィド
アデルハイド
家名 リューリク家
父親 キエフ大公ヤロスラフ1世
母親 インゲゲルド・アヴ・スヴェーリエ
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アナスタシヤ・ヤロスラヴナウクライナ語: Анастасія Ярославнаハンガリー語: Anasztázia1023年頃 - 1094年以前)はキエフ大公ヤロスラフ1世とインゲゲルド(ru)との間の娘である。ハンガリー王アンドラーシュ1世と結婚し、1046年から1061年にかけてのハンガリー王妃であった。姉妹にはフランス王妃となったアンナ、ノルウェー王妃となったエリザヴェータがいる。

なお、彼女の名前はルーシの年代記には記されておらず、ハンガリーの年代記においても「ルーシのクニャージ(公)の娘」という記述になっている。アナスタシヤという名前は、後世(15世紀)のポーランドの歴史家ヤン・ドゥウゴシュの仮説に拠るものである。

生涯

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ヤロスラフ1世の娘たちを描いたフラスコ画。アンナエリザヴェータ、アナスタシヤと、もう1人はエドワード・アシリングの妻となるアガサ(ru)と推定されている。
キエフ聖ソフィア大聖堂、11世紀)
1074年のシャラモンとの諍いを描いた絵。アナスタシヤ(黒服の女性)がシャラモンに呪いの言葉を吐きかけている。背を向けている女性はシャラモンの妻。
Orlai Petrich Soma、1857年)
アナスタシヤとアンドラーシュ1世の記念碑。台座にはハンガリー語とウクライナ語により、「ハンガリー王アンドラーシュ1世とウクライナの公女のアナスタシヤ王妃」という文字が刻まれている。
(ハンガリー・Tihany(hu)

アナスタシヤは1038年頃、ハンガリー王イシュトヴァーン1世の相続争いに端を発する迫害から逃れてキエフへと来ていたアンドラーシュ(後のハンガリー王アンドラーシュ1世。この時点では身分は公爵[注 1])と結婚した。1046年、夫のアンドラーシュはアナスタシヤを伴いハンガリーへと帰国し、王位を奪ってハンガリー王となった。アナスタシヤは1053年に息子のシャラモンを産んだ。しかしシャラモンの誕生は、夫のアンドラーシュと、シャラモン誕生まではアンドラーシュの相続人の地位にあった弟のベーラとの間に確執を生むことになった。

1060年、ベーラはアンドラーシュに対して蜂起した。アンドラーシュはベーラに敗れ、その後まもなくして死亡した。1060年12月6日にベーラはハンガリー王に即位し(ベーラ1世)、アナスタシヤは子供たちと共にバイエルンへの亡命を余儀なくされた。亡命先において、アナスタシヤはシャラモンの婚約相手のユディト(ru)の兄である、ローマ王(ドイツ王)ハインリヒ4世の支援を求めた。1063年にベーラが死亡し、ベーラの子たちもまたポーランドに亡命した後に、ドイツ軍がハンガリーに侵攻し、新たなハンガリー王としてシャラモンが王位に就くことが宣言された。この支援の返礼として、アナスタシヤはバイエルン公オットーに、フン族の総帥アッティラの所有物であったという伝説を持つ、ハンガリー王家の宝物の「アッティラの剣」[注 2]を贈与した。

ただし、シャラモンの統治期間はベーラの子のゲーザラースロー兄弟との王位を巡る争いによって不安定な情勢が続いた。また、この時期にはアナスタシヤはシャラモンとの間に意見の不一致が生じ、1074年にシャラモンが母に対し手を上げたこと、ドイツの伯爵[注 3]と2度目の結婚をしたことが知られている。

アナスタシヤの死は1094年以前のことである(この年に、すでに死んでいたことが言及されている)。言い伝えでは、アナスタシヤはアドモント(ru)(現オーストリアシュタイアーマルク州)の修道院で死亡したと言われる。現在ハンガリーのバラトン湖の近くの山には、アンドラーシュ1世とアナスタシヤの記念碑が建立されている。

子女

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シャラモン以外のアナスタシヤの子には、シャラモンの弟にあたるダーヴィド(en)がいる。また、ボヘミア王ヴラチスラフ2世の妻のアデルハイド(ru)は、おそらくアナスタシヤの子であると考えられている。

注釈

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  1. ^ 「公爵」はロシア語: Герцог(ru)(ドイツ語Herzog、ハンガリー語Hercegに対応する)からの訳による。
  2. ^ 「宝物」はロシア語: реликвияの意訳、「アッティラの剣」はロシア語: меч Аттилыの直訳による。
  3. ^ 「伯爵」はロシア語: граф(ru)(ドイツ語のGrafに対応する)からの訳による。

参考文献

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  • Штернберг Я. Т. Анастасия Ярославна, королева Венгрии // Вопросы истории. 1984. № 10. С. 180—184
  • Назаренко А. В. Западноевропейские источники // Древняя Русь в свете зарубежных источников / Под ред. Е. А. М*ельниковой. М., 1999. С. 350—352
  • Юрасов М. К. Русско-венгерские отношения второй трети XI в. // Мир истории. 2002. № 3
  • Карпов А. Ю. Анастасия Ярославна