コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「コンラト1世 (グウォグフ公)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ボヘミア王記事の改名に伴うリンク修正依頼 (オタカル1世 (ボヘミア王)) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ボヘミア王記事の改名に伴うリンク修正依頼 (オタカル2世 (ボヘミア王)) - log
 
41行目: 41行目:
多くの同盟者達、そしてグウォグフの都市民が起こした反乱のおかげで、コンラトのボレスワフ2世に対する1251年の遠征は大成功に終わった。ボレスワフ2世は敗北を認め、コンラトにグウォグフとその付属地域からなる公国を与えた。しかし、コンラト1世とボレスワフ2世との関係は、その後もコンラト1世が死ぬまで緊張関係にあった。[[1257年]]、コンラトはボレスワフ2世をレグニツァ城から誘拐した。ボレスワフ2世はいくらかは不明だが保釈金を払い、数ヵ月後に釈放された。この出来事がボレスワフ2世にとって不愉快きわまりないものだったことは間違いなく、[[1271年]]にはコンラト1世の領地から[[ボレスワヴィエツ]]と[[ブブル]]を奪っている。
多くの同盟者達、そしてグウォグフの都市民が起こした反乱のおかげで、コンラトのボレスワフ2世に対する1251年の遠征は大成功に終わった。ボレスワフ2世は敗北を認め、コンラトにグウォグフとその付属地域からなる公国を与えた。しかし、コンラト1世とボレスワフ2世との関係は、その後もコンラト1世が死ぬまで緊張関係にあった。[[1257年]]、コンラトはボレスワフ2世をレグニツァ城から誘拐した。ボレスワフ2世はいくらかは不明だが保釈金を払い、数ヵ月後に釈放された。この出来事がボレスワフ2世にとって不愉快きわまりないものだったことは間違いなく、[[1271年]]にはコンラト1世の領地から[[ボレスワヴィエツ]]と[[ブブル]]を奪っている。


[[1260年]]以後、ボヘミア王[[オタカル2世]]がシロンスクに政治的関心を強めはじめると、コンラト1世はボヘミアと親しい関係を築くようになり、自分の領国にドイツなど外国からの移民を奨励した。こうした移民政策のおかげで、[[1253年]]にはグウォグフにも[[マクデブルク法]]が適用された。また長兄ボレスワフ2世とは対照的に、コンラト1世はヴロツワフ司教トマシュ1世を熱心に支持した。しかし[[1268年]]に同司教が死ぬと、コンラト1世は自分が司教に与えた特権を平気でないがしろにし始め、後任の司教トマシュ2世ザレンバとは紛争状態になった。
[[1260年]]以後、ボヘミア王[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]がシロンスクに政治的関心を強めはじめると、コンラト1世はボヘミアと親しい関係を築くようになり、自分の領国にドイツなど外国からの移民を奨励した。こうした移民政策のおかげで、[[1253年]]にはグウォグフにも[[マクデブルク法]]が適用された。また長兄ボレスワフ2世とは対照的に、コンラト1世はヴロツワフ司教トマシュ1世を熱心に支持した。しかし[[1268年]]に同司教が死ぬと、コンラト1世は自分が司教に与えた特権を平気でないがしろにし始め、後任の司教トマシュ2世ザレンバとは紛争状態になった。


晩年、コンラト1世は[[ジェロナ・グラ]]に教会(現在は聖堂)を建立し、これを聖人となった父方の祖母[[シロンスクのヤドヴィガ]]に捧げた。同教会はコンラト1世の死後20年経って、コンラト1世の長男[[ヘンリク3世 (グウォグフ公)|ヘンリク3世]]の時代に完成した。
晩年、コンラト1世は[[ジェロナ・グラ]]に教会(現在は聖堂)を建立し、これを聖人となった父方の祖母[[シロンスクのヤドヴィガ]]に捧げた。同教会はコンラト1世の死後20年経って、コンラト1世の長男[[ヘンリク3世 (グウォグフ公)|ヘンリク3世]]の時代に完成した。

2021年5月19日 (水) 21:33時点における最新版

コンラト1世
Konrad I głogowski
グウォグフ公
在位 1251年 - 1274年頃

出生 1228/31年
死去 1274年8月6日
配偶者 サロメア・オドニツヴナ
  ゾフィー・フォン・ランツベルク
子女 アンナ
エウフェミア
ヘンリク3世
コンラト2世
プシェムコ
ヤドヴィガ
家名 シロンスク・ピャスト家
父親 ポーランド大公ヘンリク2世
母親 アンナ・プシェミシリトカ
テンプレートを表示
コンラト1世の印璽、1253年

コンラト1世(Konrad I głogowski、1228年/1231年 - 1274年8月6日)は、グウォグフ公(在位:1251年 - 1274年頃)。ヴロツワフヘンリク2世(敬虔公)の4男、母はボヘミアオタカル1世の娘アンナ

生涯

[編集]

1241年4月9日レグニツァの戦いで父が戦死すると、幼いコンラトと弟のヴワディスワフは長兄ボレスワフ2世の後見のもとにおかれた。世襲領の分割による公国の弱体化を回避するため、ボレスワフ2世は母アンナの承認を得て、コンラトを勉学のためと称してパリへ送った。この地でコンラトは聖職者になるための教育を受けた。ところが1248年、コンラトは長兄ボレスワフ2世が三兄ヘンリク3世に領地の一部を分割したと知ると、シロンスクに帰国して自分にも領地を分け与えるよう要求した(次兄ミェシュコ1242年に死去、ルブシュは長兄に併合された)。

まもなくコンラトは上の兄二人の協定によってボレスワフ2世の庇護下におかれることになり、長兄の共同統治者の地位を得た。弟を何とか厄介払いしたいボレスワフ2世は、コンラトに聖職者になるよう様々な役職を持ってきた。グウォグフ聖堂の首席司祭、バイエルンのパッサウ司教などである。しかしコンラトは聖職者の道を歩む気はなく、あくまで領地の分割を要求して、ついにはボレスワフ2世と紛争を起こすに至った。

1249年6月、コンラトは北隣のヴィエルコポルスカに逃亡し、プシェミスウ1世(妹エルジュビェタの夫)の支援を得てビトム・オジャンスキ(ボイテン・アン・デア・オーダー)の奪取に成功した。コンラトとヴィエルコポルスカ諸公との盟友関係は、コンラトとプシェミスウ1世の妹サロメアとの結婚によってさらに強化された。またコンラトは同じくボレスワフ2世と敵対していたもう一人の兄ヘンリク3世とも連携した。

多くの同盟者達、そしてグウォグフの都市民が起こした反乱のおかげで、コンラトのボレスワフ2世に対する1251年の遠征は大成功に終わった。ボレスワフ2世は敗北を認め、コンラトにグウォグフとその付属地域からなる公国を与えた。しかし、コンラト1世とボレスワフ2世との関係は、その後もコンラト1世が死ぬまで緊張関係にあった。1257年、コンラトはボレスワフ2世をレグニツァ城から誘拐した。ボレスワフ2世はいくらかは不明だが保釈金を払い、数ヵ月後に釈放された。この出来事がボレスワフ2世にとって不愉快きわまりないものだったことは間違いなく、1271年にはコンラト1世の領地からボレスワヴィエツブブルを奪っている。

1260年以後、ボヘミア王オタカル2世がシロンスクに政治的関心を強めはじめると、コンラト1世はボヘミアと親しい関係を築くようになり、自分の領国にドイツなど外国からの移民を奨励した。こうした移民政策のおかげで、1253年にはグウォグフにもマクデブルク法が適用された。また長兄ボレスワフ2世とは対照的に、コンラト1世はヴロツワフ司教トマシュ1世を熱心に支持した。しかし1268年に同司教が死ぬと、コンラト1世は自分が司教に与えた特権を平気でないがしろにし始め、後任の司教トマシュ2世ザレンバとは紛争状態になった。

晩年、コンラト1世はジェロナ・グラに教会(現在は聖堂)を建立し、これを聖人となった父方の祖母シロンスクのヤドヴィガに捧げた。同教会はコンラト1世の死後20年経って、コンラト1世の長男ヘンリク3世の時代に完成した。

子女

[編集]

1246年、ヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツの娘サロメアと最初の結婚をし、6人の子供をもうけた。

  1. アンナ(1250年/1252年 - 1272年) - 1260年、上バイエルン公ライン宮中伯ルートヴィヒ2世と結婚
  2. エウフェミア(1254年1月12日 - 1275年以前) - 1266年、ゲルツ伯アルブレヒト1世と結婚
  3. ヘンリク3世(1251年/1260年 - 1309年12月9日)
  4. コンラト2世(1252年/1265年 - 1304年10月11日)
  5. プシェムコ(1255年/1265年 - 1289年2月26日)
  6. ヤドヴィガ(1265年? - 1318年6月9日) - 1283年よりヴロツワフの聖クララ女子修道院長

1271年までにランツベルク辺境伯ディートリヒの娘ゾフィーと再婚した。一部の史料によれば、ゾフィーはホーエンシュタウフェン家最後の君主であるシチリア=イェルサレム王コンラディンの未亡人とされている。ゾフィーとの間に子供はなかった。

外部リンク

[編集]
先代
新設
レグニツァ公
ボレスワフ2世ロガトカと共同統治

1248年 - 1274年
次代
ボレスワフ2世ロガトカ
先代
新設
グウォグフ公
ボレスワフ2世ロガトカと共同統治(1251年まで)

1248年 - 1274年
次代
ヘンリク3世