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アンナ・グウォグフスカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンナ・グウォグフスカ
Anna głogowska
アンナ(右)と夫ルートヴィヒ2世、夫の最初の妃マリー(中央)

出生 1250/2年
死去 1271年6月25日
配偶者 バイエルン公ルートヴィヒ2世
子女 マリア
ルートヴィヒ
家名 シロンスク・ピャスト家
父親 グウォグフ公コンラト1世
母親 サロメア・オドニツヴナ
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アンナ・グウォグフスカポーランド語:Anna głogowska, 1250/2年 - 1271年6月25日)は、グウォグフ公コンラト1世サロメア・オドニツヴナの長子。バイエルン公ルートヴィヒ2世の2番目の妃。ドイツ語名はアンナ・フォン・グロガウ(Anna von Glogau)。

家族

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アンナの父方の祖父母は、ヘンリク2世敬虔公とその妃アンナ・プシェミシリトカ、母方の祖父はヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツである。また、弟妹にシレジア=グロガウ公ヘンリク3世、ゲルツ伯アルブレヒト1世と結婚したエウフェミア、コンラト2世ガルバティ、および戦死したプシェムコがいる。

結婚

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1260年、アンナはバイエルン公ルートヴィヒ2世と結婚した[1]。ルートヴィヒ2世にとって、マリー・ド・ブラバンとの最初の結婚に次ぐ2度目の結婚であったが、ルートヴィヒ2世はマリーが不倫をしていると信じてマリーを処刑した。ルートヴィヒ2世と最初の妃マリーとの間には子供がいなかった。

ルートヴィヒ2世とアンナとの間には2子が生まれた。

  • マリア(1261年 - ?) - マリエンブルク修道院の修道女
  • ルートヴィヒ(1267年9月13日 - 1290年11月23日) - ニュルンベルク馬上槍試合で亡くなる

アンナの息子ルートヴィヒはバイエルン公になるはずであったが、馬上槍試合において父に先だって亡くなった。アンナ自身も1271年に死去した。夫ルートヴィヒ2世はマティルデ・フォン・ハプスブルクと結婚した。マティルデは2男を産み、次男が神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世となる。

脚注

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  1. ^ Kersken 2021, p. 218.

参考文献

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  • Kersken, Norbert (2021). “Poland and the Polish People in Late Medieval German Historiography”. Germans and Poles in the Middle Ages. Brill