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[[976年]]、バーベンベルク家のドナウガウ伯[[レオポルト1世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト1世]](ルイトポルト)は、後のオーストリア大公領へと成長するバイエルンの東側国境付近を獲得し、東方辺境伯(オストマルク辺境伯)と記されている<ref>K.Lechner, Genealogie。ただし「オストマルク」の語は辺境領の名称としては中世では用いられていない(ツェルナー、p. 90)。</ref>。レオポルト1世の子孫にあたる[[フライジングのオットー|フライジング司教オットー]]は、レオポルト(ルイトポルト)の先祖を前述の東フランケン公ハインリヒの子アーダルベルトとしている<ref>ツェルナー、p. 86</ref>。しかし一方で[[ルイトポルト家]]との関係も指摘されており<ref name=Z87>ツェルナー、p. 87</ref><ref>服部、p. 9</ref>、レオポルト1世をバイエルン公[[アルヌルフ (バイエルン公)|アルヌルフ悪公]]の孫とする<ref name=LG>レオポルト1世の父(ハインリヒ?)およびノルトガウ伯ベルトルトをバイエルン公[[アルヌルフ (バイエルン公)|アルヌルフ悪公]]の息子としている(K.Lechner, Genealogie)。</ref>説も見られる。また、[[ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト]]の父ノルトガウ伯ベルトルト(980年没)はレオポルトの兄弟<ref name=Z87 />とも叔父<ref name=LG />ともいわれている。 |
[[976年]]、バーベンベルク家のドナウガウ伯[[レオポルト1世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト1世]](ルイトポルト)は、後のオーストリア大公領へと成長するバイエルンの東側国境付近を獲得し、東方辺境伯(オストマルク辺境伯)と記されている<ref>K.Lechner, Genealogie。ただし「オストマルク」の語は辺境領の名称としては中世では用いられていない(ツェルナー、p. 90)。</ref>。レオポルト1世の子孫にあたる[[フライジングのオットー|フライジング司教オットー]]は、レオポルト(ルイトポルト)の先祖を前述の東フランケン公ハインリヒの子アーダルベルトとしている<ref>ツェルナー、p. 86</ref>。しかし一方で[[ルイトポルト家]]との関係も指摘されており<ref name=Z87>ツェルナー、p. 87</ref><ref>服部、p. 9</ref>、レオポルト1世をバイエルン公[[アルヌルフ (バイエルン公)|アルヌルフ悪公]]の孫とする<ref name=LG>レオポルト1世の父(ハインリヒ?)およびノルトガウ伯ベルトルトをバイエルン公[[アルヌルフ (バイエルン公)|アルヌルフ悪公]]の息子としている(K.Lechner, Genealogie)。</ref>説も見られる。また、[[ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト]]の父ノルトガウ伯ベルトルト(980年没)はレオポルトの兄弟<ref name=Z87 />とも叔父<ref name=LG />ともいわれている。 |
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オーストリアのバーベンベルク家は270年間にわたりオーストリアを支配したが、13世紀半ばに[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]の死により男系が絶えて、女系が特例としてオーストリア辺境伯となった。だが、[[ボヘミア]]貴族の[[オタカル2世]]([[プシェミスル朝]])が、オーストリア辺境伯[[マルガレーテ・フォン・バーベンベルク|マルガレーテ]](フリードリヒ2世の姉)と結婚したため、オーストリア辺境伯はプシェミスル朝のものとなり、ついに断絶した(後にオタカル2世はマルガレーテがかつて[[トリーア]]の修道女であったことを理由に離別した)。 |
オーストリアのバーベンベルク家は270年間にわたりオーストリアを支配したが、13世紀半ばに[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]の死により男系が絶えて、女系が特例としてオーストリア辺境伯となった。だが、[[ボヘミア]]貴族の[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]([[プシェミスル朝]])が、オーストリア辺境伯[[マルガレーテ・フォン・バーベンベルク|マルガレーテ]](フリードリヒ2世の姉)と結婚したため、オーストリア辺境伯はプシェミスル朝のものとなり、ついに断絶した(後にオタカル2世はマルガレーテがかつて[[トリーア]]の修道女であったことを理由に離別した)。 |
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2021年5月19日 (水) 21:32時点における版
バーベンベルク家(独: Haus Babenberg)は、フランケン地方のバンベルク、現在の北ボヘミアを出自とする一族。オーストリアの辺境伯そして部族大公として976年から1248年の間、断絶によってプシェミスル朝及びハプスブルク家に代わられるまでオーストリア辺境伯およびオーストリア公としてオーストリア(オーストリア公国)を支配した。
バーベンベルク家前史
バーベンベルク家は、フランス王家であるカペー家の祖でもあるロベール(ロベール家)を遠祖とする。
最も古く歴史に残っているのは、9世紀初めに現在のヘッセン州とテューリンゲン州の間の地域を支配したグラープフェルト伯のポッポ(Poppo I)である。ポッポの息子のハインリヒ(Heinrich I)は、東フランケン公にして辺境伯と言われ、娘とみられるハトヴィヒはザクセン公オットー1世と結婚し、後のドイツ王ハインリヒ1世を産んだ。ハインリヒは886年にノルマン人との戦いで戦死した。同じく息子のポッポ(テューリンゲンのポッポ; Poppo II)は880年から892年までテューリンゲン辺境伯に任じられていたが、ドイツのカロリング朝の東フランク王アルヌルフが自身の姻戚にあたり、バーベンベルク家のライバルであったラーンガウ伯コンラディン家(コンラート家)を支持したため衰退した。
バーベンベルク家はハインリヒ公の3人の息子たちにより、マイン川上流域のバンベルクに城を築いたことで家名とした。バンベルク市は、バーベンベルク家の古い城を囲んでつくられたのである。
バーベンベルク抗争
バーベンベルク家はライバルのラーンガウ伯コンラディン家との争いの中で、マイン川中流域に互いに勢力を伸ばしていった。この一連の抗争は『バーベンベルク抗争』と呼ばれ、10世紀初頭のルートヴィヒ小児王の時代(899年 - 911年)まで続いた。906年、フリッツラーの戦いにおいてコンラディン家によって決定的な敗北を被り、フランケン地方の支配を失った。また、フランケン公位はコンラディン家のものとなった。
オーストリア辺境伯
976年、バーベンベルク家のドナウガウ伯レオポルト1世(ルイトポルト)は、後のオーストリア大公領へと成長するバイエルンの東側国境付近を獲得し、東方辺境伯(オストマルク辺境伯)と記されている[1]。レオポルト1世の子孫にあたるフライジング司教オットーは、レオポルト(ルイトポルト)の先祖を前述の東フランケン公ハインリヒの子アーダルベルトとしている[2]。しかし一方でルイトポルト家との関係も指摘されており[3][4]、レオポルト1世をバイエルン公アルヌルフ悪公の孫とする[5]説も見られる。また、ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルトの父ノルトガウ伯ベルトルト(980年没)はレオポルトの兄弟[3]とも叔父[5]ともいわれている。
オーストリアのバーベンベルク家は270年間にわたりオーストリアを支配したが、13世紀半ばにフリードリヒ2世の死により男系が絶えて、女系が特例としてオーストリア辺境伯となった。だが、ボヘミア貴族のオタカル2世(プシェミスル朝)が、オーストリア辺境伯マルガレーテ(フリードリヒ2世の姉)と結婚したため、オーストリア辺境伯はプシェミスル朝のものとなり、ついに断絶した(後にオタカル2世はマルガレーテがかつてトリーアの修道女であったことを理由に離別した)。
系図
フランケン系バーベンベルク家
ロベール家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポッポ1世 グラープフェルト伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
インゲルトルード (ウンルオッホ家) | ハインリヒ 東フランケン公 | ポッポ2世 チューリンゲン公 | エギノ チューリンゲン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アーダルベルト | アーダルハルト | ハインリヒ | ハトヴィヒ =ザクセン公オットー1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オーストリア系バーベンベルク家[6]
フランケン系バーベンベルク家 または ルイトポルト家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レオポルト1世 (ルイトポルト1世) (?-994) オストマルク辺境伯 | リクヴァラ(リヒャルダ) (ズアラフェルトガウ伯 エルンスト娘) | ベルトルト・フォン・シュヴァインフルト (-980) ノルトガウ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ1世 (?-1018) | ユーディト | エルンスト1世 (?-1015) シュヴァーベン大公 | ギーゼラ (シュヴァーベン大公 ヘルマン2世娘) | ポッポ (?-1047) トリーア大司教 (1016-1047) | アダルベルト (?-1055) | リウトポルト (?-1059) マインツ大司教 (1051-1059) | クニグンデ | ヘンマ =ディーセン伯ラポト | クリスティネ (修道女) | ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルンスト2世 (?-1030) シュヴァーベン大公 | ヘルマン4世 (?-1038) シュヴァーベン大公 | イーダ (ブラウンシュヴァイク伯ルドルフス (皇帝ハインリヒ3世異父兄)の娘) | レオポルト (?-1043) ハンガリー辺境伯 | エルンスト (?-1075) | アーデルハイト (ラウジッツ辺境伯デド1世娘) | オットー(3世) シュヴァーベン大公 | アイリカ =ザクセン公ベルンハルト2世 | ユーディト (?-1058) =ボヘミア公ブジェチスラフ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オダ =スヴャトスラウ2世 | イーダ ・フォン・フォルムバッハ=ラテルンベルク | レオポルト2世 (?-1095) | ユスティツィア =ヴォルフラーツハウゼン伯 オットー2世(3世) | アダルベルト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリーザベト =シュタイアーマルク辺境伯オットカル2世 | ユディエッタ | ゲルベルガ (?-1142) =ボヘミア公ボジヴォイ2世 | ?・フォン・ペルク | レオポルト3世 | アグネス (皇帝ハインリヒ4世娘) | イーダ =ルイトポルト(プシェミスル家) | オイフェーミア =パイルシュタイン伯コンラート | ゾフィー (?-1154) 1=ケルンテン公ハインリヒ5世(1122没) 2=シャラ=ブルクハウゼン伯ジクハルト10世(1142没) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アーデルハイト | アダルベルト (c.1098-1138) | ゾフィー (ヘートヴィヒ) (ハンガリー公アールモシュ娘) | ゲルトルート (皇帝ロタール3世娘) | ハインリヒ2世 | テオドラ・コムネナ | レオポルト4世 バイエルン公 | マリア (ボヘミア公ソビェスラフ1世娘) | オットー フライジング司教 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イロナ (ハンガリー王ゲーザ2世娘) | レオポルト5世 | ハインリヒ メドリンク公 | リクサ (?-1182) (ボヘミア王ヴラジスラフ2世娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ1世 | レオポルト6世 | テオドラ・アンゲリナ | ハインリヒ (?-1233) メドリンク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ7世 ドイツ王 | マルガレーテ | ハインリヒ | アグネス (チューリンゲン方伯ヘルマン1世娘) | ゾフィー (ニカエア皇帝テオドロス1世ラスカリス娘) (1222年没) | フリードリヒ2世 | アグネス (メラーノ公オットー1世娘) (1240年離婚) (1269年没) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ8世 | フリードリヒ4世 | オタカル2世 ボヘミア王 | ヴラディスラフ (ボヘミア王ヴァーツラフ1世子) | ゲルトルート (1227/8-1288) | ロマン・フォン・ハリーチ (キエフ大公ダヌィーロ子) (1253年離婚) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘルマン6世 バーデン辺境伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ1世 バーデン辺境伯 | アグネス 1=ケルンテン公ウルリヒ3世 2=ホインブルク伯ウルリヒ3世 | マリア (1252/3-?) =ヨアヒム・グトケレド(スラヴォニアのバン) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
:オーストリア辺境伯
:オーストリア公
脚注
- ^ K.Lechner, Genealogie。ただし「オストマルク」の語は辺境領の名称としては中世では用いられていない(ツェルナー、p. 90)。
- ^ ツェルナー、p. 86
- ^ a b ツェルナー、p. 87
- ^ 服部、p. 9
- ^ a b レオポルト1世の父(ハインリヒ?)およびノルトガウ伯ベルトルトをバイエルン公アルヌルフ悪公の息子としている(K.Lechner, Genealogie)。
- ^ Karl Lechner, Handbuch der historischen Stätten Österreich. v. 1. Donauländer und Burgenland, A. Kröner, 1970.
参考文献
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
- 成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
- エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 彩流社、2000年
- 服部良久 『叙任権闘争期前後のドイツ東南部における貴族とラント』 京都大学文学部研究紀要 (1994), 33: pp. 1 - 128
- Lingelbach, William E. (1913). The History of Nations: Austria-Hungary. New York: P. F. Collier & Son Company. ASIN B000L3E368
- Karl Lechner, Handbuch der historischen Stätten Österreich. v. 1. Donauländer und Burgenland, A. Kröner, 1970.
- Rickett, Richard (1985). A Brief Survey of Austrian History. Vienna: Prachner. ISBN 978-3853670019
- Pohl, Walter (1995). Die Welt der Babenberger. Graz: Verlag Styria. ISBN 978-3222123344
- Beller, Steven (2007). A Concise History of Austria. New York: Cambridge University Press. ISBN 978-0521478861
- Agamov, Alexander (2017). Dynasties of Europe 400-2016: Complete Genealogy of Sovereign Houses(In Russian).. Moscow: URSS. ISBN 978-5-9710-3935-8