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'''上名久井館'''(かみなくいだて)は、[[青森県]][[三戸郡]][[南部町 (青森県)|南部町]]上名久井に所在した[[日本の城|城館跡]]。別称「名久井館」 |
'''上名久井館'''(かみなくいだて)は、[[青森県]][[三戸郡]][[南部町 (青森県)|南部町]]上名久井に所在した[[日本の城|城館跡]]。別称「名久井館」 |
2021年5月13日 (木) 22:20時点における版
座標: 北緯40度24分58秒 東経141度19分40秒 / 北緯40.416003678405度 東経141.32784208158度 上名久井館(かみなくいだて)は、青森県三戸郡南部町上名久井に所在した城館跡。別称「名久井館」
沿革
名久井岳の尾根の東端を利用して、馬淵川の右岸の丘陵に東西160m×南北100mの規模で、館は大館と小古館の二つに分かれている[1]。四周に土塁と館をめぐらし、南北に掘割を構えていた。
築城時期は不明。戦国期の城主の東彦左衛門の居館であったといわれ、近くの下名久井館と共に、もとは工藤氏の居城であったが、工藤氏は三戸南部氏と関係が深く、屋敷を東に構えたため、東(ひがし)氏と呼ばれたといわれる。天正19年(1591年)の九戸政実の乱では南部信直方に与した。
天正20年(1592年)、「諸城破却書上」には「糠部郡之内 名久井 平城 南部 中務 持分」とあり、破却はまのがれた。
脚注
参考文献
- 児玉 幸阿・坪井 清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。