「南京町 (神戸市)」の版間の差分
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2021年5月13日 (木) 21:16時点における版
南京町(なんきんまち)とは、兵庫県神戸市中央区にあるエリアであり、元町通と栄町通にまたがる一帯を指す。
南京町商店街振興組合の登録商標[1]でもあり、中国風の意匠を特徴とする中華街である。
なお、南京町は通称としての地名で、住所表記としての地名ではない。
概要
横浜中華街、長崎新地中華街とともに日本三大チャイナタウンの一つに数えられ、東西約200m、南北110mの範囲に100あまりの店舗が軒を連ねる。店頭の路上で点心、スイーツ、食材、記念品などを売る店も多く、休日は地元の買い物客や観光客で賑わう。
「南京町」という用語はかつて中国人街を指す一般名称であった。しかし、そのほとんどは戦後に改称したため、現在では事実上神戸のこの地区のみを指す固有名詞となっている。
南京町の中央通りは、十字路になっていて中央の広場には「あずまや」、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「海栄門」という名前の門があり、北は元町商店街につながる。
午前10時頃から一部の店が開き始めるが、車両通行禁止になる午前11時までは納品車両が行き交う。
日が暮れて夜になると「長安門」や「あずまや」はライトアップされる。
南京町と華僑
現在在住の華僑の人々は横浜華僑6000人に対して神戸華僑はその倍近い1万人を超えているといわれる。しかし、横浜中華街と比べると神戸南京町は規模が随分と小ぶりである。実際に生活の場でもある横浜中華街と違い、神戸の南京町には居住者は少なく、ほぼ純然たる商業地となっているためである。神戸関帝廟や神戸中華同文学校などの華僑関連施設は山手に点在している。実際の神戸華僑の居住地は、鯉川筋、トアロード、北野町などであり、神戸の有名な中華料理店の大半も南京町ではなく三宮など市内中心部に拠点を置いている。
これは、神戸では南京町が居留地ではなく雑居地に開かれた結果ではあるが、また同時に神戸華僑の人々が他の地域に比べて日本人社会と良好な関係を築いてきた証拠ともいえる。神戸では、古くは呉錦堂に代表されるように事業に成功した者が多く、華僑といえば「商売上手で裕福な人が多い」と認識されてきた為、民族的対立も比較的少なく前述の通り日本人社会との良好な関係を築いてきたといえる。それゆえ、戦前の一時期南京さん等の言葉が侮蔑的に用いられた事はあったものの、南京町という名称は既に世間に広く認知されているとして戦後も名称を変更する動きもなかった(横浜と長崎では、中華街に改称している)。
近年、春節祭(旧正月)などの主要な行事に、多くの日本人も参加している。当日には多くの市民や観光客が集まり、南京町のみならず神戸の重要な行事にもなっており、関西地方の地域ニュースでも毎年おなじみの光景である。また、最近では、経済発展著しい中国への関心の高まりで華僑子弟の多くが通う神戸中華同文学校に入学を希望する日本人子弟も急増している。
歴史
1868年に神戸港が開港し、外国人用の居留地が設けられた。当時、清国との間には通商条約を結んでいなかったため、華僑は居留地内に住むことを許可されずに、西隣に住み始めたのが南京町の始まりとされる。
1945年の神戸大空襲で全焼。戦後は主に進駐軍相手の歓楽街として復興したが、その名残もあって退廃化が進み、1970年代までは路地の舗装もされず、周辺には船員向けのバーが立ち並び、夜になれば街娼が立つようなエリアとなっていた。1960年代には純粋な中華料理レストランが1軒まで減少したこともあった。
1981年(昭和56年)の「南京町復興環境整備事業実施計画」以降は広場や楼門の建造などの環境整備が行われ、一気に観光地化が進んだ。現在では南京町と呼ばれる区画も当時の2倍に広がり、他地区から移転してきた中華料理店や新しい料理店が続々と開店した。また、それまではほぼ華僑だけが客だった中国物産の店に世界各国より一般客が訪れるようになったのもこの頃からである。
阪神・淡路大震災においても被害を受けたが、現在のように一般観光客が多数押し寄せるようになったのは震災が契機である。震災後ライフラインが停止し厨房も被災した中で、レストランの営業ができなくなった一部の店は、やむを得ず店頭での点心などの軽食テイクアウト販売を、プロパンガスとポリタンクの水を使って再開した。これが観光客にとって気軽に食べ歩きができるとして好評を博し、震災から完全に復興した後も継続されて、現在でも南京町の名物となっている。
行事
名物
交通アクセス
近隣の名所・文化施設
参考文献
- 『神戸と華僑 この150年の歩み』神戸華僑華人研究会(2004.4.5) 神戸新聞総合出版センター
脚註
- ^ 第4020808号(出願1994年3月11日- 登録1997年7月4日)