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「アレクサンドル・ベグザジャン」の版間の差分

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'''アレクサンドル・アルテミエヴィチ(アルチュノヴィチ / アルテミ)・ベグザジャン'''({{lang-ru|Александр Артемьевич (Арутюнович) Бекзадян}}, {{lang-hy|Ալեքսանդր Արտեմի Բեկզադյան}}、[[1879年]][[9月15日]]〈または[[1881年]]〉 - [[1937年]][[8月1日]]〈または[[8月15日]]〉)は、アルメニア人のボリシェヴィキ。
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== 生涯 ==
== 生涯 ==

2021年4月15日 (木) 23:47時点における版

アレクサンドル・アルテミエヴィチ・ベグザジャン
Александр Артемьевич Бекзадян
Ալեքսանդր Արտեմի Բեկզադյան
1909年のベグザジャン
生年月日 (1879-09-15) 1879年9月15日(または1881年
出生地 ロシア帝国エリザヴェトポリ県ロシア語版シュシャ郡シュシャロシア語版
没年月日 (1938-08-01) 1938年8月1日(58歳没)
(または8月15日
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワコムナルカ射撃場
出身校 キエフ理工科学校ウクライナ語版農学部(放校)
チューリッヒ大学法学部卒業[1]
所属政党 ボリシェヴィキ
称号 法学博士[1]
親族 ホヴセプ(兄弟)
ルーベン(弟)
ペトロス(弟)

在任期間 1920年12月12日 - 1921年5月21日

アルメニア社会主義ソビエト共和国
食糧人民委員
在任期間 1920年12月14日 - 1921年

アルメニア社会主義ソビエト共和国
対外貿易人民委員
在任期間 1921年5月21日 - 11月

ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
人民委員会議副議長・貿易人民委員
在任期間 1926年 - 1930年10月

ノルウェー・ソビエト連邦全権代表
在任期間 1930年10月30日 - 1934年11月17日

その他の職歴
ハンガリー・ソビエト連邦全権代表
(1934年11月17日 - 1937年11月20日)
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アレクサンドル・アルテミエヴィチ(アルチュノヴィチ / アルテミ)・ベグザジャンロシア語: Александр Артемьевич (Арутюнович) Бекзадян, アルメニア語: Ալեքսանդր Արտեմի Բեկզադյան1879年9月15日〈または1881年〉 - 1937年8月1日〈または8月15日〉)は、アルメニア人のボリシェヴィキ。

映画評論家のキリル・ラズロゴフロシア語版は孫[2]

生涯

前半生

1879年9月15日[3](または1881年[4])、ロシア帝国エリザヴェトポリ県ロシア語版シュシャロシア語版で法務官吏の家庭に生まれ、地元の名門高等学校を卒業してキエフ理工科学校ウクライナ語版農学部で学んだ[1]。学生時代から社会民主主義運動に関わり、やがて理工科学校を放校された[1]1903年からロシア社会民主労働党の党員となった[5](他の兄弟はダシュナク党社会革命党の党員となり、その一人ホヴセプはメンシェヴィキとしてザカフカース・セイム副議長となっている[1])。

1904年からバクーの、1905年から南カフカースの党組織で働く[5]1906年に逮捕されるも同年中に国外に脱走し、1911年チューリッヒ大学を卒業した[5]。同年のパリでのボリシェヴィキの会議で、海外党組織委員会の候補に選出され、翌1912年のバーゼル国際会議のメンバーにも選ばれた[5]1913年9月、イェーナで開かれたドイツ社会民主党の大会に、ロシア社会民主労働党の代表として参加した[5]1914年にロシアへ戻り、その後再びバクーで逮捕されるも、1917年二月革命によって釈放された[1]

ザカフカースでの活動

釈放後はバクーで食糧長官を務めたが、同地で社会革命党員として活動していた弟のルーベンとはしばしば対立した[1]北カフカースでも党活動に従事し、1919年から翌1920年にかけては党ザカフカース地方委員会で活動[5]。1920年12月12日から1921年5月21日までアルメニア社会主義ソビエト共和国外務人民委員を務め[3]グルジア民主共和国との間のロリ地方の係争や、東部に駐留するトルコ軍との撤兵交渉で活動[1]アレクサンドロポリ条約に代わるカルス条約による対トルコ講和に尽力した[1]。1920年11月11日から1922年1月26日までアルメニア共産党英語版中央委員も務め、1920年12月14日から1921年まではアルメニア共和国食糧人民委員、同年5月21日から11月までは対外貿易人民委員に就いた[3]

外交官として

1921年の第10回党大会ロシア語版にも出席し、翌年のジェノア会議でもソ連からの代表に加わった[5]。1922年から1926年まで駐ドイツ貿易使節団員、1926年から1930年10月までザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の人民委員会議副議長と貿易人民委員、同月30日から(正式には翌1931年1月3日から)1934年11月17日まで在ノルウェー・ソ連大使、同日から(正式には翌12月23日から)1937年11月20日まで在ハンガリー・ソ連大使なども歴任した[3]

粛清

しかし、大粛清が始まると1937年11月21日(または12月20日[3])に逮捕され、翌1938年8月1日に反革命テロ活動を理由に連邦最高裁軍事参議会ロシア語版によって死刑を宣告され、同日(または15日[3])にコムナルカ射撃場で銃殺された[4]。2人の弟、ルーベン(連邦地域産業 (ru) 人民委員部化学工業総局法律顧問)とペトロス(連邦人民委員会議附属グルジア共和国常任代表上級顧問[6]。ジャーナリスト、セルゲイ・ブントマンロシア語版の祖父[7])も同様に銃殺刑に処された[8]。その後、ベグザジャンは1956年2月に名誉回復ロシア語版がなされた[4]

ステパナケルトの通りにはベグザジャンの名が付けられていたが、2013年に改称された[9]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i Անթանեսյան, Վահե (2014年9月15日). “ԱԼԵՔՍԱՆԴՐ ԲԵԿԶԱԴՅԱՆ”. ankakh.com. http://ankakh.com/article/2575/%E2%80%8Balyeqsandr--byekzadyan 2016年9月30日閲覧。 
  2. ^ Разлогов К. (29 Февраля 2008). "Уходящая натура" (газета) (7) (Музыкальная правдаロシア語版 ed.). М. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明); |year=|date=の日付が不正です。 (説明)
  3. ^ a b c d e f Бекзадян Александр Артемьевич (Арутюнович)”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月24日閲覧。
  4. ^ a b c Бекзадян Александр Артемьевич”. Сахаровский центр英語版. 2018年4月24日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g Бекзадян / А. Н. Карапетян // Бари — Браслет. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 3).
  6. ^ Бекзадян Петрос Артемьевич”. Сахаровский центр. 2018年4月1日閲覧。
  7. ^ Дмитрий Николаевич Контино”. Школа Карла Мая. 2018年4月1日閲覧。
  8. ^ Москва, Старопименовский переулок, дом 16”. Последний адресロシア語版 (2015年5月24日). 2015年1月26日閲覧。
  9. ^ Ստեփանակերտի քաղաքապետի մամուլի քարտուղար (29 April 2013). ԱՌԱՋԻՆ ԵՌԱՄՍՅԱԿԻ ԱՐԴՅՈՒՆՔՆԵՐԸ ՀՈՒՍԱԴՐՈՂ ԵՆ (Report). ՍՏԵՓԱՆԱԿԵՐՏԻ ՔԱՂԱՔԱՅԻՆ ՀԱՄԱՅՆՔԻ ԱՎԱԳԱՆՈՒ ՆԻՍՏԸ. 2018年4月1日閲覧
公職
先代
なし
アルメニア社会主義ソビエト共和国外務人民委員
1920年12月12日 - 1921年5月21日
次代
アスカナズ・ムラヴャン
外交職
先代
アレクサンドラ・コロンタイ
駐ノルウェー・ソビエト連邦全権代表
正式には1931年1月3日から
1930年10月30日 - 1934年11月17日
次代
イグナチー・ヤクボヴィチ
先代
アドリフ・ペトロフスキー
駐ハンガリー・ソビエト連邦全権代表
正式には1934年12月23日から
1934年11月17日 - 1937年11月20日
次代
ヴィクトル・プロトニコフ
代行