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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 前半生 ===
=== 前半生 ===
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2021年4月15日 (木) 23:45時点における版

ルフッラ・アリ・オグルィ・アフンドフ
Рухулла Али оглы Ахундов
Ruhulla Əli oğlu Axundov
生年月日 (1897-01-13) 1897年1月13日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国バクー県バクー郡シュヴェリャヌィアゼルバイジャン語版
没年月日 (1938-04-21) 1938年4月21日(41歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワコムナルカ射撃場
出身校 赤色教授学院ロシア語版
前職 ジャーナリスト
所属政党社会革命党左派スペイン語版→)
ボリシェヴィキ
称号 レーニン勲章(1936年)[1]
子女 1男1女[2]

アゼルバイジャン共産党)中央委員会
第二書記
在任期間 1924年 - ?
1929年 - 1930年
1930年6月1日 - 8月5日

在任期間 1927年3月27日 - 1930年

全連邦共産党(ボ)ザカフカース地方委員会
第三書記
在任期間 1930年5月8日 - 11月19日
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ルフッラ・アリ・オグルィ(アリエヴィチ)・アフンドフロシア語: Рухулла Али оглы (Алиевич) Ахундов、現代アゼルバイジャン語: Ruhulla Əli oğlu Axundov1897年1月13日 - 1938年4月21日)は、アゼルバイジャン人の革命家・政治家・文筆家。

生涯

前半生

1897年1月13日(ユリウス暦1日)[3]ロシア帝国バクー県シュヴェリャヌィアゼルバイジャン語版の教師の家庭に生まれた[4]。父はバグダードで高い宗教教育を受けたが、子供達にはアラビア語ペルシア語で世俗的な教育を与え、アフンドフが4歳の時に死んだ[5]。その後アフンドフはマドラサ、実科学校、貿易学校を卒業し、ロシア語英語フランス語、ペルシア語、トルコ語に堪能となった[6]。実科学校ではアブドゥッラ・シャイグ英語版に学んでいる[5]

1916年からオルジョフ兄弟印刷会社 (az) で校正者・翻訳者として働き[7]、翌1917年3月から1919年まで[1]社会革命党左派スペイン語版系組織「アニンチ」に加盟[8]1918年には『バクー・ソビエト・イズベスチヤ』紙、翌1919年には『ヒュッリイェト』紙とボリシェヴィキ系の違法新聞『コミュニスト』(ru) の編集に携わり[3]、同年3月からボリシェヴィキとなる[1]。同年にはボリシェヴィキの第2憲章とコミンテルン第1回大会英語版の宣言をアゼルバイジャン語に翻訳した[7]。これらの思想にも関わらず、アフンドフは同年9月、ミュサヴァト党によるアゼルバイジャン民主共和国の労働省総務部部長に任命されている[2]

革命後

しかし、翌1920年1月にはアゼルバイジャン民主共和国の打倒を求めて同志たちとモスクワを訪問し、4月の赤軍のアゼルバイジャン侵攻ロシア語版に際しては第11軍を支援した[9]アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の成立後は1920年から翌1921年までアゼルバイジャン共産党中央委員会村労働部部長、同年6月19日から12月まで同委バクー委責任書記を務める[1]。同年にグルジア問題が発生した際には、当初ザカフカース連邦構想に時期尚早であると反対したが、後に賛成派に転じた[9]。同時期にはウラジーミル・レーニンとも出会っている[5]。1920年代前半には東方勤労者共産大学で教鞭を取った[4]

1922年5月から翌1923年7月まで『コミュニスト』・『ケンド・フュガラス』紙を編集し[1]1924年からセルゲイ・キーロフの下で党中央委第二書記に就任し、テュルク語ラテン文字化やアゼルバイジャン語の科学用語の作成を推進した[4]1927年から翌1928年まで国営出版社社長、1927年3月27日から[2]1930年までアゼルバイジャン共和国教育人民委員を務め[1]、その指導下で1920年から1926年までにレーニンの26の著作が13万部、1927年から1932年までにレーニンの19の著作が10万6000部とカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスの5の著作が1万5000部発行された[9]。同時期に実施された宗教弾圧の指導者の一人でもあった[2]

しかし、1928年には「列車内でカーテンを閉めることを拒否した他の客の顔面を殴り、中央執行委の身分証を見せつける」事件を起こして処罰された[5](革命期にバクーで協同していたアナスタス・ミコヤンによれば、アフンドフは「度はずれに自尊心が強く、自分の名誉が傷つけられたと思うと、すぐ『激怒』した」という[10])。同年から翌1929年8月まではモスクワの赤色教授学院ロシア語版で学び、同月にバクーへ戻って『バキンスキー・ラボーチー』編集者となり[1]、ほどなくして党中央委第二書記に再任された[4]。しかし、レヴォン・ミルゾヤンロシア語版ニコライ・ギカロの下で混乱した文化政策の責任を取る形で、1930年に新任の第一書記ウラジーミル・ポロンスキーによって解任された[9]

1930年5月8日から11月19日まで全連邦共産党ザカフカース地方委第三書記、6月1日から8月5日まで再度アゼルバイジャン共産党中央委第二書記を務めたが[1]、その後「スィルツォフロシア語版ロミナゼロシア語版反党グループ事件」に関わったとしてモスクワへ召喚された[11]。同年から1933年まで連邦党中央委附属党史研究所で働き、『革命と民族』(ru) 誌編集委員も務めた[1]。1933年にバクーへ戻り、アゼルバイジャン共和国人民委員会議附属芸術局局長と連邦科学アカデミー・アゼルバイジャン支部副会長に1936年まで就いた[1]。アゼルバイジャン共産党中央委附属党史研究所メンバー[3]やアゼルバイジャン科学アカデミー歴史・考古学研究所所長も務め、1936年12月までは党バクー市委科学・学校部部長であった[1]

アフンドフはマルクスとレーニンの最初のアゼルバイジャン語訳者であり[2]、歴史・芸術・文学に関する多数の本の著者、ロシア語=アゼルバイジャン語辞典の編纂者でもあった[9]。自宅にはスュレイマン・リュスタム英語版、タギ・シャフバジ (ru)、メフディ・ヒュセイン英語版マンメト・アリフアゼルバイジャン語版、ミカイル・ラフィリ (ru) など多くの文人が出入りし[5]、またフランスの作家アンリ・バルビュスとも親交を持っていた[7]第10回ロシア語版から第17回ロシア語版までの連邦党大会およびコミンテルン第2回大会英語版に出席し、連邦中央執行委およびアゼルバイジャン共和国中央執行委メンバーも務めた[11]。アゼルバイジャン共産党中央委書記局には1921年7月24日から1923年3月12日まで、1924年5月10日から1926年1月21日まで、そして1929年12月24日から1930年5月31日までの三度に渡って属した[1]

粛清

しかし、アフンドフは1936年12月17日に「反革命民族主義組織」に関係したとして逮捕され、29日には「反革命トロツキスト」としてアゼルバイジャン共和国中央執行委から除名された[4]。これは党第一書記ミル・ジャファル・バギロフロシア語版ヨシフ・スターリンに情報を流したためとも言われる[2]。アフンドフは翌1937年9月にモスクワへ送られ、ロシア共和国刑法第58条ロシア語版6項から11項を適用された[4]。1929年以来イギリスドイツトルコのスパイ組織に属し、クリメント・ヴォロシーロフ暗殺未遂事件を主導したと宣告され、1938年4月21日に連邦最高裁軍事参議会ロシア語版によって死刑判決を下された[4]。同日に他のアゼルバイジャン共和国元高官(ダダシュ・ブニアザーデミルザ・ダヴド・グセイノフスルタン・メジド・エフェンディエフ[12])と同じくコムナルカ射撃場で銃殺された[8]

妻も1937年6月に逮捕され、8年間抑留された[2]。息子は「父の罪を償うために」第二次世界大戦に従軍し、最初の戦いで戦死した[13]。その後、アフンドフは1955年名誉回復ロシア語版[4]1959年に党籍回復がなされた[7]。アフンドフの名はバクーの通りに残されている[14]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Ахундов Рухулла Али оглы”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月8日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g Əhməd, Dilqəm (2014年8月21日). “Lenin və Marksı dilimizə çevirən ilk adam”. Kultura.az. http://kultura.az/news/20140821121434631 2018年4月8日閲覧。 
  3. ^ a b c II Аху́ндов // Ангола — Барзас. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 2).
  4. ^ a b c d e f g h "АХУНДОВ". Люди и судьбы. Биобиблиографический словарь востоковедов - жертв политического террора в советский период (1917-1991). Социальная история отечественной науки о Востоке. СПб.: Петербургское Востоковедение. Изд. подготовили Я. В. Васильков, М. Ю. Сорокина. 2003. ISBN 5-85803-225-7
  5. ^ a b c d e Əliyeva, İradə (2016年8月10日). “41 yaşında ölümünə fərman verildi”. Karabakhmedia.Az. http://karabakhmedia.az/main/8756-41-yashinda-olumune-ferman-verildi.html 2018年4月8日閲覧。 
  6. ^ “Ruhulla Axundov kimdir”. Analoq.az. (2016年2月13日). http://analoq.az/gunc/455-ruhulla-axundov-kimdir.html 2018年4月8日閲覧。 
  7. ^ a b c d RUHULLA AXUNDOV (1897-1938)”. Azərbaycan Yazıçılar Birliyiロシア語版. 2018年4月8日閲覧。
  8. ^ a b Ахундов Рухулла Али-оглы - публицист, общественный деятель, репрессирован”. Наш Баку. 2018年4月9日閲覧。
  9. ^ a b c d e Zülfüqarlı, Məhərrəm (2009年5月5日). “Ruhulla Əli oğlu Axundov”. 525-ci qəzet: p. 5. http://anl.az/down/meqale/525/525_may2009/77501.htm 
  10. ^ ア・イ・ミコヤン 著、小川政邦、上田津 訳『バクー・コンミューン時代』 ミコヤン回想録 1、河出書房新社、1973年(原著1972年)、474頁。 NCID BN06822788 
  11. ^ a b “RUHULLA AXUNDOV: HƏQİQƏTLƏR VƏ MÜƏMMALAR”. Б.: Мастер СМИ. (2016年5月25日). http://mastersmi.com/news/Politics/RUHULLA_AXUNDOV_HQQTLR_V_MMMALAR-307.html 2018年4月8日閲覧。 
  12. ^ ГУСЕЙНОВ Мирза Давуд Багир оглы”. ЦентрАзия. 2018年4月9日閲覧。
  13. ^ Андреев В. Я. (1991年). “Воспоминания”. Наш Баку. 2018年4月9日閲覧。
  14. ^ Sabunçu ray, Zabrat qəs, Ruhulla Axundov küç,”. Nav.az. 2018年4月9日閲覧。
党職
先代
ミハイル・カヒアニ
全連邦共産党(ボ)ザカフカース地方委員会第三書記
1930年5月8日 - 11月19日
次代
アレクサンドル・ヤコヴレフ
公職
先代
ムスタファ・クリエフ
アゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国教育人民委員
1927年3月27日 - 1930年
次代
マクスード・マメドフ