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「第11軍 (ロシア内戦)」の版間の差分

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== 初代第11軍 ==
== 初代第11軍 ==
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当初、司令官には{{仮リンク|イヴァン・ソローキン|ru|Сорокин, Иван Лукич}}が任命されていたが、ソローキンは北カフカース革命軍事会議と[[北カフカース・ソビエト共和国]]中央執行委員会との間に起った対立に乗じて反乱を起こし、逮捕・処刑された。その後第11軍は[[第10軍 (ロシア内戦)|第10軍]]を援護して[[ツァリーツィン]]で[[白軍]]{{仮リンク|義勇軍 (白軍)|label= 義勇軍|es|Ejército de Voluntarios}}と戦い、10月には[[スタヴロポリ]]と[[アルマヴィル (ロシア)|アルマヴィル]]まで進んだが、11月には[[アントーン・デニーキン]]の軍に押されてスタヴロポリと[[ネヴィンノムイスク]]から撤退した。しかし同時に、軍の一部は[[テレク州]]で発生した反乱に対抗し、[[モズドク]]を占領して[[ウラジカフカス]]、[[グロズヌイ]]と[[キズリャル]]を包囲している。12月下旬には再度攻勢に出たが、翌1919年1月初めには敵の猛反撃によって軍は{{仮リンク|ブジョーンノフスク|label= スヴャートイ・クレスト|ru|Будённовск}}=[[エリスタ]]とグロズヌイ=キズリャルの2か所に分断された<ref name="EN"/><ref name="voe">{{lang|ru|{{книга |заглавие= Северокавказцы в боях за Родину: Краткий военно-исторический очерк о боевом пути Северо-Кавказского военного округа|ссылка= http://sosof.narod.ru/skvo66.pdf|ответственный= |место= {{М.}}|издательство= {{仮リンク|ヴォエニズダート|label= Военное издательство Министерства обороны СССР|ru|Воениздат}}|год= 1966|страниц= 293|серия= |тираж= }}}}</ref>。戦闘のみならず発疹チフスの蔓延によっても大量の兵員が喪われ、軍はキズリャルを経由して[[アストラハン]]へ退却、一部は[[マヌィチ川]]を越えて第10軍へ合流した<ref name="EN"/><ref name="voe"/>。
当初、司令官には{{仮リンク|イヴァン・ソローキン|ru|Сорокин, Иван Лукич}}が任命されていたが、ソローキンは北カフカース革命軍事会議と[[北カフカース・ソビエト共和国]]中央執行委員会との間に起った対立に乗じて反乱を起こし、逮捕・処刑された。その後第11軍は[[第10軍 (ロシア内戦)|第10軍]]を援護して[[ツァリーツィン]]で[[白軍]]{{仮リンク|義勇軍 (白軍)|label= 義勇軍|es|Ejército de Voluntarios}}と戦い、10月には[[スタヴロポリ]]と[[アルマヴィル (ロシア)|アルマヴィル]]まで進んだが、11月には[[アントーン・デニーキン]]の軍に押されてスタヴロポリと[[ネヴィンノムイスク]]から撤退した。しかし同時に、軍の一部は[[テレク州]]で発生した反乱に対抗し、[[モズドク]]を占領して[[ウラジカフカス]]、[[グロズヌイ]]と[[キズリャル]]を包囲している。12月下旬には再度攻勢に出たが、翌1919年1月初めには敵の猛反撃によって軍は{{仮リンク|ブジョーンノフスク|label= スヴャートイ・クレスト|ru|Будённовск}}=[[エリスタ]]とグロズヌイ=キズリャルの2か所に分断された<ref name="EN"/><ref name="voe">{{lang|ru|{{cite book2| author = | chapter = | chapter-url = | format = | url = http://sosof.narod.ru/skvo66.pdf | title = Северокавказцы в боях за Родину: Краткий военно-исторический очерк о боевом пути Северо-Кавказского военного округа | orig-year = | agency = | edition = |location= {{М.}} |date = 1966 |publisher= {{仮リンク|ヴォエニズダート|label= Военное издательство Министерства обороны СССР|ru|Воениздат}} |at= |volume= |issue = | pages = | page = | series = | isbn = | ref = }}}}</ref>。戦闘のみならず発疹チフスの蔓延によっても大量の兵員が喪われ、軍はキズリャルを経由して[[アストラハン]]へ退却、一部は[[マヌィチ川]]を越えて第10軍へ合流した<ref name="EN"/><ref name="voe"/>。


=== 構成 ===
=== 構成 ===

2021年4月15日 (木) 23:37時点における版

第11軍
11-я армия
活動期間 1918年10月3日 - 1919年2月13日
1919年3月13日 - 1919年6月12日
1919年8月14日 - 1921年5月29日
国籍 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
軍種  赤軍
上級部隊 南部戦線ロシア語版
カスピ・カフカース戦線
トルキスタン戦線ロシア語版
南東戦線
カフカース戦線
主な戦歴 ロシア内戦
チフリス作戦英語版
バクー作戦ロシア語版
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第11軍(だい11ぐん、ロシア語: 11-я армия)は、ロシア内戦中の1918年から1921年にかけて、赤軍に三度形成されていた編制。

初代第11軍

1918年9月11日付共和国革命軍事会議指令に基づく同年10月3日の南部戦線ロシア語版革命軍事会議指令により、北カフカース全域の赤軍から形成された。その所属は当初の南部戦線から11月3日には同戦線カスピ・カフカース部門、12月8日から解散までの翌1919年2月13日まではカスピ・カフカース戦線であった[1][2]

当初、司令官にはイヴァン・ソローキンロシア語版が任命されていたが、ソローキンは北カフカース革命軍事会議と北カフカース・ソビエト共和国中央執行委員会との間に起った対立に乗じて反乱を起こし、逮捕・処刑された。その後第11軍は第10軍を援護してツァリーツィン白軍義勇軍スペイン語版と戦い、10月にはスタヴロポリアルマヴィルまで進んだが、11月にはアントーン・デニーキンの軍に押されてスタヴロポリとネヴィンノムイスクから撤退した。しかし同時に、軍の一部はテレク州で発生した反乱に対抗し、モズドクを占領してウラジカフカスグロズヌイキズリャルを包囲している。12月下旬には再度攻勢に出たが、翌1919年1月初めには敵の猛反撃によって軍はスヴャートイ・クレストロシア語版エリスタとグロズヌイ=キズリャルの2か所に分断された[1][3]。戦闘のみならず発疹チフスの蔓延によっても大量の兵員が喪われ、軍はキズリャルを経由してアストラハンへ退却、一部はマヌィチ川を越えて第10軍へ合流した[1][3]

構成

司令官[1]

参謀長[1]

  • B・I・ペレスヴェト(1918年11月17日 - 1919年2月13日)

革命軍事会議メンバー[1]

  • ヤン・ポルヤン(1918年10月4日 - 11月17日〈議長〉、11月17日 - 1919年2月13日)
  • モイセイ・クライニー(1918年10月4日 - 21日)
  • セルゲイ・ペトレンコ=ルネフ(ru, 1918年10月4日 - 11月17日)
  • I・I・ガイチェレンツ(1918年10月4日 - 27日、のち反逆罪により有罪判決)
  • サハンジェリ・マムスロフ(ru, 1918年11月17日 - 30日)
  • セルゲイ・オダリュク(1918年11月30日 - 1919年2月13日)
  • ブドゥ・ムディヴァニ(1918年11月30日 - 1919年2月13日)
  • Yu・P・ブチャギン(1919年1月22日 - 2月13日)
  • オスカル・レシチンスキー(ru, 1919年1月22日 - 2月13日)

第2代第11軍

1919年3月13日の共和国革命軍事会議指令に基づき、指令部直属の「第11独立軍」(11-я отдельная армия) としてカスピ・カフカース戦線から編制され、5月23日から南部戦線の指揮下に入った。しかし6月4日の共和国革命軍事会議指令によって同月12日に解散し、部隊は第10軍に吸収された[1][2]。その範囲はアストラハンとカスピ海沿岸、東部 (ru)・南部戦線の接続地にあった。陸上では北東カフカースとダゲスタン南ロシア軍と戦ったが、兵力の小ささゆえに作戦は成功しなかった。アストラハン・カスピ小艦隊 (ru) はヴォルガ・デルタ英語版防衛のため白軍艦隊 (ru) やイギリス海軍艦隊と戦った[1][2]

構成

司令官[1]

  • N・A・ジダーノフ(1919年3月20日 - 6月3日)
  • A・C・スミルノフ(1919年6月3日 - 10日、暫定)

革命軍事会議メンバー[1]

参謀長[1]

  • I・F・シャルスコフ(1919年3月13日 - 4月18日)
  • E・N・リンゲリマン(1919年4月19日 - 29日、暫定)
  • A・F・カドシニコフ(1919年4月30日 - 6月12日)

部隊[1]

  • 第33狙撃師団(1919年3月 - 5月)
  • 第34狙撃師団(1919年3月 - 6月)
  • 第1特殊騎兵師団(ru, 1919年3月 - 6月)
  • 第7騎兵師団ロシア語版(1919年4月 - 6月)
  • アストラハン・カスピ小艦隊(ru, 1919年3月 - 5月)

第3代第11軍

1919年8月14日の東部戦線革命軍事会議令により、トルキスタン戦線ロシア語版のアストラハン支隊から形成。所属は当初のトルキスタン戦線から10月14日には南東戦線、翌1920年1月16日にはカフカース戦線 (ru) に移り、1921年5月29日に独立カフカース軍 (ru) に再編されることで解散した[1][2]

1919年8月から12月にかけてはアストラハンで激しい防衛戦を率い、9月から10月にはデニーキン軍と、11月から12月には南東戦線を援護して戦った。第1軍第4軍ロシア語版と連携してアストラハンやウラルの白軍と戦い、すべての作戦を成功裏に終了させた[1][2]。1920年1月から3月にはスタヴロポリと北カフカース中東部を制圧し (ru)、4月には赤軍のアゼルバイジャン侵攻ロシア語版に際してアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国樹立の主力となった。7月から翌1921年5月にかけてはチフリスバトゥムエレヴァンを攻略し、アルメニア社会主義ソビエト共和国およびグルジア社会主義ソビエト共和国の樹立にも貢献した[1][2]

構成

司令官[1]

革命軍事会議メンバー[1]

参謀長[1]

  • V・V・シェヴェレフ(1919年8月14日 - 9月23日、暫定)
  • N・I・ズヴォルィキン(1919年9月23日 - 10月18日、暫定)
  • G・A・シュピリコ(1919年10月18日 - 12月10日、暫定)
  • A・K・レメゾフ(1919年12月10日 - 1921年5月7日)
  • B・I・クズネツォフ(1921年5月7日 - 29日)

部隊[1]

  • 第1アゼルバイジャン重狙撃師団(1920年5月 - 11月)
  • 第9狙撃師団ロシア語版(1921年2月 - 5月)
  • 第14狙撃師団(ru, 1921年1月 - 3月)
  • 第18狙撃師団(ru, 1920年12月 - 1921年5月)
  • 第20ペンザ狙撃師団(ru, 1920年4月 - 1921年5月)
  • 第28狙撃師団(ru, 1920年4月 - 1921年5月)
  • 第32狙撃師団(1920年4月 - 10月)
  • 第34狙撃師団(1919年8月 - 1920年2月)
  • 第39狙撃師団(1920年4月)
  • 第49狙撃師団(1920年1月 - 4月)
  • 第50狙撃師団(1919年8月 - 1920年2月)
  • 第1騎兵師団(1919年8月 - 1920年12月)
  • 第7騎兵師団ロシア語版(1919年8月 - 1920年4月)
  • 第2騎兵軍団(1920年4月 - 8月)
  • 第12騎兵師団(ru, 1920年11月 - 1921年5月)
  • 第18騎兵師団(ru, 1920年8月 - 1921年5月)
  • 第21騎兵師団(ru, 1921年3月)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s М. : Гражданская война и военная интервенция в СССР: Энциклопедия. — (Советская энциклопедия / гл. ред. С. С. Хромов ; 1983).
  2. ^ a b c d e f Центральный государственный архив Советской армии. Vol. 1 в 2 томах. Minneapolis, Minnesota: East View Publications. Л. В. Двойных, Т. Ф Каряева, М. В. Стеганцев. 1991. ISBN 1-879944-02-2
  3. ^ a b Северокавказцы в боях за Родину: Краткий военно-исторический очерк о боевом пути Северо-Кавказского военного округа (PDF). М.: Военное издательство Министерства обороны СССРロシア語版. 1966.