コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「デカトロン・AG2R・ラ・モンディアル」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加
Cewbot (会話 | 投稿記録)
28行目: 28行目:
== チームの歴史 ==
== チームの歴史 ==
=== 1992年-1995年 シャザル時代 ===
=== 1992年-1995年 シャザル時代 ===
[[1992年]]、[[ヴァンサン・ラヴニュ]]が[[ゼネラル・マネージャー]]となり、'''シャザル=ヴァニユ・エ・ミュル'''(Chazal-Vanille et Mûre)という名称で結成。メインスポンサーは[[ジュラ県]]でアラン・シャザルが経営する[[精肉店]]のシャザルl<ref>[https://www.lejdd.fr/sport/cyclisme/tour-de-france-vincent-lavenu-eleveur-de-champions-3389543 Vincent Lavenu, éleveur de champions]</ref>。シャザルはラヴニュが個人プロとして走っていた[[1990年]]から[[1991年]]に個人スポンサーとしてついていおり、他の企業もチームへの資金を提供をすることを条件にメインスポンサーとなった。シャザルの他には美容製品メーカーのヴァニユ・エ・ミュルや自転車パーツメーカーのヴェッタなどがスポンサーになり年間予算は約240万[[フランス・フラン|フラン]]にもなった<ref>{{lien web|url=https://www.humanite.fr/Entretien-avec-la-manager-d-AG2R-La-Mondiale-Vincent-Lavenu|titre=Entretien avec la manager d'AG2R La Mondiale, Vincent Lavenu|site=humanite.fr|date=16 juillet 2009|consulté le=15 juillet 2010}}</ref>。チームは3月に行われたツール・デュ・ヴォクリューズ第2ステージでチーム初勝利<ref name="histoire">[https://www.cyclisme.ag2rlamondiale.fr/equipe/notre-histoire/ Notre histoire]</ref>を挙げた[[スイス]]人ライダーのジョセリン・ジョリドン<ref>[https://www.procyclingstats.com/team/chazal-vanille-et-mure-vetta-1992 1992 : Chazal - Vanille et Mûre - Vetta]</ref>をはじめ、12名の選手で構成された。9月には[[エストニア]]の若手スプリンターである[[ヤーン・キルシプー]]が研修生として加入し、[[パリ〜ブールジュ]]第1ステージではトップスプリンターの[[オラフ・ルードヴィッヒ]]を抑えて優勝した。その後、キルシプーはチームの中心選手となっていく。
[[1992年]]、[[ヴァンサン・ラヴニュ]]が[[ゼネラル・マネージャー]]となり、'''シャザル=ヴァニユ・エ・ミュル'''(Chazal-Vanille et Mûre)という名称で結成。メインスポンサーは[[ジュラ県]]でアラン・シャザルが経営する[[精肉店]]のシャザルl<ref>[https://www.lejdd.fr/sport/cyclisme/tour-de-france-vincent-lavenu-eleveur-de-champions-3389543 Vincent Lavenu, éleveur de champions]</ref>。シャザルはラヴニュが個人プロとして走っていた[[1990年]]から[[1991年]]に個人スポンサーとしてついていおり、他の企業もチームへの資金を提供をすることを条件にメインスポンサーとなった。シャザルの他には美容製品メーカーのヴァニユ・エ・ミュルや自転車パーツメーカーのヴェッタなどがスポンサーになり年間予算は約240万[[フランス・フラン|フラン]]にもなった<ref>{{cite web2|title=Entretien avec la manager d'AG2R La Mondiale, Vincent Lavenu|url=https://www.humanite.fr/Entretien-avec-la-manager-d-AG2R-La-Mondiale-Vincent-Lavenu|website=humanite.fr|date=16 July 2009|access-date=15 July 2010|publication-date=}}</ref>。チームは3月に行われたツール・デュ・ヴォクリューズ第2ステージでチーム初勝利<ref name="histoire">[https://www.cyclisme.ag2rlamondiale.fr/equipe/notre-histoire/ Notre histoire]</ref>を挙げた[[スイス]]人ライダーのジョセリン・ジョリドン<ref>[https://www.procyclingstats.com/team/chazal-vanille-et-mure-vetta-1992 1992 : Chazal - Vanille et Mûre - Vetta]</ref>をはじめ、12名の選手で構成された。9月には[[エストニア]]の若手スプリンターである[[ヤーン・キルシプー]]が研修生として加入し、[[パリ〜ブールジュ]]第1ステージではトップスプリンターの[[オラフ・ルードヴィッヒ]]を抑えて優勝した。その後、キルシプーはチームの中心選手となっていく。


1993年、シャザルが引き続きメインスポンサーを務め、サードスポンサーだったヴェッタがセカンドスポンサーに昇格し、新たに自転車メーカーの[[MBK (会社)|MBK]]をスポンサーに迎え、'''シャザル・ヴェッタ・MBK'''(Chazal-Vetta-MBK)に改称。新たに[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]覇者でフランス選手権2連覇も達成した[[エリック・カリトゥー]]が加入。チームはこの年初めて[[ツール・ド・フランス]]に参戦。
1993年、シャザルが引き続きメインスポンサーを務め、サードスポンサーだったヴェッタがセカンドスポンサーに昇格し、新たに自転車メーカーの[[MBK (会社)|MBK]]をスポンサーに迎え、'''シャザル・ヴェッタ・MBK'''(Chazal-Vetta-MBK)に改称。新たに[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]覇者でフランス選手権2連覇も達成した[[エリック・カリトゥー]]が加入。チームはこの年初めて[[ツール・ド・フランス]]に参戦。
39行目: 39行目:
1996年、1月になっても資金調達できておらずラヴニュはチームのサポーターからサブスクリクション形式での資金提供を開始した。また地元の[[スーパーマーケット]]チェーン店ブティ・カジノとパトーナーシップを結び'''プティ・カジノ=セ・ヴォトル・エキップ'''(Petit Casino-C'est votre équipe)に改称。これによりフランスを代表する選手の一人、[[アルマンド・デ・ラス・クエバス]]との契約が実現する。ドーフィネ・リベレではカスプティスがステージ優勝し、数日間リーダージャージを着用した。しかし、新加入のデ・ラス・クエバスはシーズンを通して体調を崩してしまい、チームはツール・ド・フランスにも参加を見送った。2年連続出場となったブエルタ・ア・エスパーニャでは[[パスカル・シャントゥー]]と[[ファブリス・グーゴ]]の2人が総合30位以内に入った。夏の終わりにはカジノグループが大幅に増資し、チームは[[1996年アトランタオリンピックの自転車競技#ロードレース|アトランタオリンピック]]チャンピオンの[[パスカル・リシャール]]と契約した。
1996年、1月になっても資金調達できておらずラヴニュはチームのサポーターからサブスクリクション形式での資金提供を開始した。また地元の[[スーパーマーケット]]チェーン店ブティ・カジノとパトーナーシップを結び'''プティ・カジノ=セ・ヴォトル・エキップ'''(Petit Casino-C'est votre équipe)に改称。これによりフランスを代表する選手の一人、[[アルマンド・デ・ラス・クエバス]]との契約が実現する。ドーフィネ・リベレではカスプティスがステージ優勝し、数日間リーダージャージを着用した。しかし、新加入のデ・ラス・クエバスはシーズンを通して体調を崩してしまい、チームはツール・ド・フランスにも参加を見送った。2年連続出場となったブエルタ・ア・エスパーニャでは[[パスカル・シャントゥー]]と[[ファブリス・グーゴ]]の2人が総合30位以内に入った。夏の終わりにはカジノグループが大幅に増資し、チームは[[1996年アトランタオリンピックの自転車競技#ロードレース|アトランタオリンピック]]チャンピオンの[[パスカル・リシャール]]と契約した。


1997年、カジノが増資する中、さらにAG2R・プレヴォワイアンスがセカンドスポンサーに加わり、チーム名は'''カジノ=セ・ヴォトル・エキップ'''(Casino-C'est votre équipe)に改称、チームの予算は2500万フランにまで倍増した<ref>{{lien web|url=https://www.humanite.fr/1997-03-10_Articles_-Pendant-ce-temps-les-equipes-francaises-prosperent|titre=Pendant ce temps, les équipes françaises prospèrent|site=humanite.fr|date=10 mars 1997|consulté le=15 juillet 2010}}</ref>。アマチュアクラブチームのEC・サンティティエンヌ・ロワールとパートナーシップを結んだ<ref>[http://ecsel-cyclisme.fr/club/historique/ Historique]</ref>。この年はリシャールに加え、[[ジャッキー・デュラン]]、[[アルベルト・エッリ]]、[[ロルフ・イェルマン]]、[[ロドルフォ・マッシ]]らが加入した。シーズン序盤、マッシが[[ツール・デュ・オー・ヴァル]]で優勝、エッリは[[ミラノ〜サンレモ]]で[[エリック・ツァベル]]とのスプリントには敗れたものの2位表彰台。[[クリストフ・アニョルット]]が[[ツール・ド・スイス]]で大逃げを決めて第3ステージで優勝、リーダージャージを守りきり総合優勝を果たし、チームに最大の勝利をもたらした。[[ステファヌ・バルト]]はフランスチャンピオンになり、キルシプーは安定した走りでトップスプリンターの1人となった。この年、例年UCIランキング30位前後が定位置だったチームはランキング12位となり飛躍的な躍進を遂げた。
1997年、カジノが増資する中、さらにAG2R・プレヴォワイアンスがセカンドスポンサーに加わり、チーム名は'''カジノ=セ・ヴォトル・エキップ'''(Casino-C'est votre équipe)に改称、チームの予算は2500万フランにまで倍増した<ref>{{cite web2|title=Pendant ce temps, les équipes françaises prospèrent|url=https://www.humanite.fr/1997-03-10_Articles_-Pendant-ce-temps-les-equipes-francaises-prosperent|website=humanite.fr|date=10 March 1997|access-date=15 July 2010|publication-date=}}</ref>。アマチュアクラブチームのEC・サンティティエンヌ・ロワールとパートナーシップを結んだ<ref>[http://ecsel-cyclisme.fr/club/historique/ Historique]</ref>。この年はリシャールに加え、[[ジャッキー・デュラン]]、[[アルベルト・エッリ]]、[[ロルフ・イェルマン]]、[[ロドルフォ・マッシ]]らが加入した。シーズン序盤、マッシが[[ツール・デュ・オー・ヴァル]]で優勝、エッリは[[ミラノ〜サンレモ]]で[[エリック・ツァベル]]とのスプリントには敗れたものの2位表彰台。[[クリストフ・アニョルット]]が[[ツール・ド・スイス]]で大逃げを決めて第3ステージで優勝、リーダージャージを守りきり総合優勝を果たし、チームに最大の勝利をもたらした。[[ステファヌ・バルト]]はフランスチャンピオンになり、キルシプーは安定した走りでトップスプリンターの1人となった。この年、例年UCIランキング30位前後が定位置だったチームはランキング12位となり飛躍的な躍進を遂げた。


1998年、'''カジノ'''(Casino)に改称。チーム史上最高の1年となったこの年は1月から10月にかけて16人の選手が活躍し、シーズン65勝を挙げた。主な勝利としては[[グランプリ・ドゥヴェルテュール・ラ・マルセイエーズ]](マルコ・サリガーリ)、[[フレッシュ・ワロンヌ]]([[ボー・ハンバーガー]])、、[[ティレーノ〜アドリアティコ]]と[[アムステル・ゴールドレース]]([[ロルフ・イェルマン]])、[[パリ〜ツール]]([[ジャッキー・デュラン]])。グランツールにも参加し、ツール・ド・フランスでデュランとマッシがステージ優勝し、ハンバーガーがマイヨ・ジョーヌを着用。ブエルタ・ア・エスパーニャではキルシプーがステージ勝利を挙げた。他にもクープ・ド・フランスのチームランキングでも優勝。最終的にUCIランキング2位、ワールドカップランキングでも3位とさらなる躍進を遂げた<ref>[https://chroniqueduvelo.fr/casino-faisait-sauter-banque/ Quand Casino faisait sauter la banque - Chronique du Vélo]</ref>。
1998年、'''カジノ'''(Casino)に改称。チーム史上最高の1年となったこの年は1月から10月にかけて16人の選手が活躍し、シーズン65勝を挙げた。主な勝利としては[[グランプリ・ドゥヴェルテュール・ラ・マルセイエーズ]](マルコ・サリガーリ)、[[フレッシュ・ワロンヌ]]([[ボー・ハンバーガー]])、、[[ティレーノ〜アドリアティコ]]と[[アムステル・ゴールドレース]]([[ロルフ・イェルマン]])、[[パリ〜ツール]]([[ジャッキー・デュラン]])。グランツールにも参加し、ツール・ド・フランスでデュランとマッシがステージ優勝し、ハンバーガーがマイヨ・ジョーヌを着用。ブエルタ・ア・エスパーニャではキルシプーがステージ勝利を挙げた。他にもクープ・ド・フランスのチームランキングでも優勝。最終的にUCIランキング2位、ワールドカップランキングでも3位とさらなる躍進を遂げた<ref>[https://chroniqueduvelo.fr/casino-faisait-sauter-banque/ Quand Casino faisait sauter la banque - Chronique du Vélo]</ref>。

2021年4月15日 (木) 22:42時点における版

AG2R・シトロエン・チーム
AG2R Citroën Team
チーム情報
UCIコード ACT
本拠地 フランスの旗 フランス
創設年 1992年
種目 ロードレース & シクロクロス
格付け UCIワールドチーム
自転車 BMC
首脳陣
GM ヴァンサン・ラヴニュ
監督 ローラン・ビオンディ
ジル・マス
ディディエ・ジャネル
ジュリアン・ジュルディ
アルトゥラス・カスプティス
ステファンヌ・グーベル
過去のチーム名
1992–1995
1996
1997–1999
2000–2007
2008–2020
2021-
シャザル
プティ・カジノ
カジノ=AG2R・プレヴォワイアンス
AG2R・プレヴォワイアンス
Ag2r・ラ・モンディアル
AG2R・シトロエン・チーム
Team colours Team colours Team colours
Team colours
 
ユニフォーム

AG2R・シトロエン・チーム(アージェードゥーゼル・シトロエン・チーム、AG2R Citroën Team)は、フランスに本拠地を置く自転車ロードレースUCIワールドチーム。タイトルスポンサーは年金などを管理・運用するフランス最大級の共済組合、AG2R・ラ・モンディアル。サブスポンサーは大手自動車メーカーのシトロエン。チームに所属している選手の大半がフランス人で構成されている。

チームの歴史

1992年-1995年 シャザル時代

1992年ヴァンサン・ラヴニュゼネラル・マネージャーとなり、シャザル=ヴァニユ・エ・ミュル(Chazal-Vanille et Mûre)という名称で結成。メインスポンサーはジュラ県でアラン・シャザルが経営する精肉店のシャザルl[1]。シャザルはラヴニュが個人プロとして走っていた1990年から1991年に個人スポンサーとしてついていおり、他の企業もチームへの資金を提供をすることを条件にメインスポンサーとなった。シャザルの他には美容製品メーカーのヴァニユ・エ・ミュルや自転車パーツメーカーのヴェッタなどがスポンサーになり年間予算は約240万フランにもなった[2]。チームは3月に行われたツール・デュ・ヴォクリューズ第2ステージでチーム初勝利[3]を挙げたスイス人ライダーのジョセリン・ジョリドン[4]をはじめ、12名の選手で構成された。9月にはエストニアの若手スプリンターであるヤーン・キルシプーが研修生として加入し、パリ〜ブールジュ第1ステージではトップスプリンターのオラフ・ルードヴィッヒを抑えて優勝した。その後、キルシプーはチームの中心選手となっていく。

1993年、シャザルが引き続きメインスポンサーを務め、サードスポンサーだったヴェッタがセカンドスポンサーに昇格し、新たに自転車メーカーのMBKをスポンサーに迎え、シャザル・ヴェッタ・MBK(Chazal-Vetta-MBK)に改称。新たにブエルタ・ア・エスパーニャ覇者でフランス選手権2連覇も達成したエリック・カリトゥーが加入。チームはこの年初めてツール・ド・フランスに参戦。

1994年、新たにタイヤチェーンメーカーのケーニヒがスポンサーに加わり、シャザル・MBK・ケーニヒ(Chazal-MBK-König)に改称。特に目立った結果は残せなかったが、ドーフィネ・リベレでは総合3位に入ったアルトゥーラス・カスプティスを含め3人が総合トップ10入り。ツール・ド・フランスに2年連続で参戦を果たした。

1995年、新たにジャーモンドSAがスポンサーに加わる。カリトゥーが引退する中、ジャンフランソワ・ベルナールブルーノ・コルニエジル・デリオンというフランスのトップクラスの3選手が加入。しかし3選手は期待した結果を残すことが出来ず、スポンサーを説得するためにツール・ド・フランスに加えてブエルタ・ア・エスパーニャにも参加するが、ラブニュを信頼する6人の選手が残る中、この年でシャザルがスポンサーを撤退しチームはスポンサーを失ってしまった。

1996年-1999年 カジノ時代

1996年、1月になっても資金調達できておらずラヴニュはチームのサポーターからサブスクリクション形式での資金提供を開始した。また地元のスーパーマーケットチェーン店ブティ・カジノとパトーナーシップを結びプティ・カジノ=セ・ヴォトル・エキップ(Petit Casino-C'est votre équipe)に改称。これによりフランスを代表する選手の一人、アルマンド・デ・ラス・クエバスとの契約が実現する。ドーフィネ・リベレではカスプティスがステージ優勝し、数日間リーダージャージを着用した。しかし、新加入のデ・ラス・クエバスはシーズンを通して体調を崩してしまい、チームはツール・ド・フランスにも参加を見送った。2年連続出場となったブエルタ・ア・エスパーニャではパスカル・シャントゥーファブリス・グーゴの2人が総合30位以内に入った。夏の終わりにはカジノグループが大幅に増資し、チームはアトランタオリンピックチャンピオンのパスカル・リシャールと契約した。

1997年、カジノが増資する中、さらにAG2R・プレヴォワイアンスがセカンドスポンサーに加わり、チーム名はカジノ=セ・ヴォトル・エキップ(Casino-C'est votre équipe)に改称、チームの予算は2500万フランにまで倍増した[5]。アマチュアクラブチームのEC・サンティティエンヌ・ロワールとパートナーシップを結んだ[6]。この年はリシャールに加え、ジャッキー・デュランアルベルト・エッリロルフ・イェルマンロドルフォ・マッシらが加入した。シーズン序盤、マッシがツール・デュ・オー・ヴァルで優勝、エッリはミラノ〜サンレモエリック・ツァベルとのスプリントには敗れたものの2位表彰台。クリストフ・アニョルットツール・ド・スイスで大逃げを決めて第3ステージで優勝、リーダージャージを守りきり総合優勝を果たし、チームに最大の勝利をもたらした。ステファヌ・バルトはフランスチャンピオンになり、キルシプーは安定した走りでトップスプリンターの1人となった。この年、例年UCIランキング30位前後が定位置だったチームはランキング12位となり飛躍的な躍進を遂げた。

1998年、カジノ(Casino)に改称。チーム史上最高の1年となったこの年は1月から10月にかけて16人の選手が活躍し、シーズン65勝を挙げた。主な勝利としてはグランプリ・ドゥヴェルテュール・ラ・マルセイエーズ(マルコ・サリガーリ)、フレッシュ・ワロンヌボー・ハンバーガー)、、ティレーノ〜アドリアティコアムステル・ゴールドレースロルフ・イェルマン)、パリ〜ツールジャッキー・デュラン)。グランツールにも参加し、ツール・ド・フランスでデュランとマッシがステージ優勝し、ハンバーガーがマイヨ・ジョーヌを着用。ブエルタ・ア・エスパーニャではキルシプーがステージ勝利を挙げた。他にもクープ・ド・フランスのチームランキングでも優勝。最終的にUCIランキング2位、ワールドカップランキングでも3位とさらなる躍進を遂げた[7]

1999年、カジノ=Ag2r・プレヴォワイアンス(Casino-Ag2r Prévoyance)に改称。前年のツール・ド・フランス期間中に発覚したフェスティナ事件や、それに伴う捜査の中でマッシが逮捕 (後に不起訴) されたことなどもありカジノの投資にもブレーキがかかった結果、前年多くの勝利を挙げた選手が去った。前年、6勝を挙げたアレクサンドル・ヴィノクロフがチームのリーダーになり、ヴィノクロフはドーフィネ・リベレの総合優勝を含む7勝をあげた。エーススプリンターのキルシプーはツール・ド・フランス初勝利を含む18勝を挙げて6日間マイヨ・ジョーヌにも袖を通した。ブノワ・サルモンはツール・ド・フランスで総合16位になりヤングライダー賞を獲得。ほかにもサルモンはグランンプリ・デュ・ミディ・リブレで区間1勝と総合優勝を挙げたほか、ジル・マイニャンのフランス選手権個人タイムトライアル優勝など注目すべき成功を収めたが、カジノのスポンサードはこの年で終了した。

2000年-2005年 AG2R時代前半

2000年、AG2R・プレヴォワイアンスが3年契約でメインスポンサーになり、AG2R・プレヴォワイアンス(AG2R Prévoyance)に改称。デカスロンがセカンドスポンサーになりジャージを供給した。しかし、予算は削減され前年エースを務めたヴィノクロフはドイツの強豪チーム・テレコムに移籍。後任のエースはフェスティナ・ロータスから移籍してきたヴィノクロフと同胞のアンドレイ・キヴィレフが務めた。この年のキルシプーが大活躍し、チームのシーズン21勝のうちの13勝をチームにもたらした[8]。ツール・ド・フランスではアニョルットがステージ優勝し、チームにこの年の最も重要な勝利をもたらした。しかしチームは翌年2部リーグに降格してしまう。

2001年、キルシプーはチーム23勝のうち18勝を収め、ツール・ド・フランスでもステージ優勝した。そしてキルシプーの発射台を務めるリュドヴィック・カプルベルギー選手権で優勝[9]。キルシプーの活躍もあり、チームは翌年1部リーグへ昇格を果たす。

2002年、ブノワ・サルモンがチームを去ったものの2001年ツール・ド・フランス総合12位のイニーゴ・チャウレアウとチャウレアウの従兄弟、ミケル・アスタルロサがチームに加入。キルシプーはクールネ〜ブリュッセル〜クールネでセミクラシック初勝利を挙げるが、パリ〜ニースで負傷、しかしツール・ド・フランス第2ステージで優勝しカムバックを果たした。またツール・ド・ランではクリストフ・オリオルが総合優勝を挙げた。

2003年、元世界チャンピオンのローラン・ブロシャールが加入。この年はブロシャールがクリテリウム・アンテルナシオナルでの総合優勝を含む4勝、キルシプーが11勝を挙げ、キルシプーは通算100勝目を記録した。他にもチャウレアウがいくつかのステージレースで総合トップ10に入り、アンディ・フリッキンガーGP西フランス・プルエーを制した。

2004年、アマチュアクラブチームのシャンベリーCFとトレーニング契約を結んだ。この年は翌年から始まる世界の上位約20チームで争われる、UCIプロツアーに選出されるために重要なシーズンとなった。チーム強化の為に、スプリンターのジャン=パトリック・ナゾンとクライマーのステファヌ・グベールが加入。ツール・ド・フランスではキルシプーとナゾンが1週目にステージ1勝ずつ挙げ、グベールは総合20位に入った。しかしチャウレアウとアスタルロサは伝染性単核球症を発症し、リュドビク・テュルパンロワイ・モンドリは怪我により年間を通してほぼレース活動ができなかった。そしてチームは世界ランキングでの順位が振るわず、2005年のUCIプロツアーに落選。初期からチームを支えたキルシプーとブロシャールもこの年でチームを離れた。

2005年、2006年のUCIプロツアー入りを目指して、UCIプロコンチネンタルチームとしてシーズンをスタート。前年、研修生として走ったサイモン・ジェランがプロ入りし、シリル・デセルも加入した。チームは多くのコンチネンタルサーキットのレースで結果を残す中、サミュエル・デュムランがプロツアーレースのドーフィネ・リベレで区間優勝。

2006年- 1部リーグ昇格以降

2006年-2012年 浮き沈みの激しいシーズン

2006年、AG2R・プレヴォワイアンスのUCIプロツアーへの参加決定。それに伴い、クリストフ・モローフランシスコ・マンセボといったエースが加入しチーム力を強化。マンセボはツール・ド・フランスでの総合表彰台を目指していたが、オペラシオン・プエルトへの関与が明らかになり開幕前日にメンバーから外された。一方チームはツール・ド・フランスでシルヴァン・カルザティが第8ステージで優勝したほか、デセルもマイヨジョーヌを着用し最終的にフランス人最上位となる総合6位でフィニッシュするなど大活躍を見せた。その他にもチームは、ジロ・デ・イタリアではトマス・ヴァイトクスブエルタ・ア・エスパーニャではホセ・ルイス・アリエタが優勝するなど3台グランツールすべてで区間勝利をあげた。またデセルはツール・メディテラネアンツール・ド・ランで総合優勝し、ロワイ・モンドリはクープ・ド・フランスで年間総合優勝を果たした。

2007年、モローがドーフィネ・リベレで区間2勝し総合優勝を達成したこともあり、チームはプロツアーランキングで4位に。またモローはこの年、フランスチャンピオンにも輝いた。そしてジャン=パトリック・ナゾンがパリ~ニース第1ステージで優勝し、ジョン・ガドレツール・ド・ランで総合優勝。しかしグランツールでは目立った成績を出すことが出来ず、ブエルタ・ア・エスパーニャでのステファヌ・グベールの総合13位がベストリザルトとなった。

2008年、スポンサーの名称変更に伴い、当名称に改称。サミュエル・デュムラン(コフィディス)、サイモン・ジェラン(クレディ・アグリコール)、クリストフ・モロー(アグリチュベル)らの離脱を補うために、ウラディミール・エフィムキンタデイ・ヴァリャヴェツが加入。この年はツール・ド・フランスでのエフィムキン(リカルド・リッコの降格処分後)とシリル・デセルの区間2勝を含む13勝を挙げた。またこの年加入したヴァリャヴェツはジロ・デ・イタリアで総合13位、ツール・ド・フランスでは総合9位に入った。

2009年、リナルド・ノチェンティーニツール・ド・フランスで1週間マイヨジョーヌを着用するなどの活躍があったものの、わずか5勝しか挙げることができず年間ランキング17位と成績が低迷した。

2010年、シーズン前半はプロツアーで未勝利で終える。しかしツール・ド・フランス第14ステージでクリストフ・リブロンが独走で制しチームに今シーズンプロツアー初勝利をプレゼント。ニコラス・ロッシュはチーム最上位の総合15位でツール・ド・フランスを完走した。一方ヨーロッパツアーでは例年通りの活躍を見せ、マルティン・エルミガーダンケルク4日間レースリナルド・ノチェンティーニツール・メディテラネアンアレハンドロ・バルベルデの降格を受けて)で総合優勝した。最終的にチームはプロツアーで1勝、ヨーロッパツアーで15勝、アフリカツアーで2勝、そしてスイス選手権ではエルミガーが優勝。ロッシュがランキング32位に入り、アンソニー・ラヴァールが5勝を挙げた。そしてチームは年間ランキング18位で今シーズンを終えている。

2011年、ジャン=クリストフ・ペローが加入。今シーズンチームは6勝しか挙げることが出来なかったが、ジョン・ガドレジロ・デ・イタリア第11ステージで区間優勝し、チーム創設以来初めてのグランツール総合表彰台となる総合3位に入った。ツール・ド・フランスでは新加入のペローが総合9位。チームは年間ランキング15位。

2012年、年間4勝(5月に3勝、6月に1勝)でワールドツアーでは未勝利と大低迷。チームはワールドツアーに残留するために、多くのUCIポイントを持つエキゾチックなライダーが加入した。そしてロマン・バルデが加入し、シリル・デセルが引退。年間ランキングは17位に終わった。

2013年- バルデの台頭

2013年、年間8勝でシーズンで最も勝利数が少なかった3つのワールドツアーチームの1つとなった。

2017年、バイクがフォーカスからファクターに変更。

2019年、バイクがファクターからエディメルクスに変更。 また、コンポーネントもシマノからカンパニョーロに変更。

2021年

自動車メーカーのシトロエンがスポンサーにつき、チーム名はAG2R・シトロエン・チームとなる。

主な実績

1997年

1998年

1999年

2000年

2001年

2002年

2003年

2004年

2006年

2007年

2008年

2009年

2010年

2012年

2013年

2014年

2015年

2016年

2017年

2018年

2019年

2020年

2020年陣容

2020年4月9日更新

選手名

国籍

生年月日

前年所属チーム

ロマン・バルデ フランスの旗 フランス (1990-11-09) 1990年11月9日(34歳)
フランソア・ビダール フランスの旗 フランス (1992-03-19) 1992年3月19日(32歳)
ジョフリー・ブシャール フランスの旗 フランス (1992-04-01) 1992年4月1日(32歳)
クレモン・シャンプッサン英語版 フランスの旗 フランス (1998-05-29) 1998年5月29日(26歳) シャンベリーCF
ミカエル・シェレル フランスの旗 フランス (1986-03-17) 1986年3月17日(38歳)
クレメント・シェブリエ フランスの旗 フランス (1992-06-29) 1992年6月29日(32歳)
ブノワ・コスネフロワ フランスの旗 フランス (1995-10-17) 1995年10月17日(29歳)
シルヴァン・ディリエ スイスの旗 スイス (1990-08-03) 1990年8月3日(34歳)
アクセル・ドモン フランスの旗 フランス (1990-08-07) 1990年8月7日(34歳)
ジュリアン・デュヴァル フランスの旗 フランス (1990-05-27) 1990年5月27日(34歳)
マティアス・フランク スイスの旗 スイス (1986-12-09) 1986年12月9日(37歳)
トニー・ギャロパン フランスの旗 フランス (1988-04-19) 1988年4月19日(36歳)
ベン・ガスタウアー英語版 ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク (1987-11-14) 1987年11月14日(37歳)
アレクサンドル・ジュニエ フランスの旗 フランス (1988-04-16) 1988年4月16日(36歳)
ドリアン・ゴドン英語版 フランスの旗 フランス (1996-05-25) 1996年5月25日(28歳)
アレクシス・グシャール英語版 フランスの旗 フランス (1993-05-03) 1993年5月3日(31歳)
ヤーコ・ハンニネン英語版  フィンランド (1997-04-16) 1997年4月16日(27歳)
クエンティン・ジョルグイ英語版 フランスの旗 フランス (1994-04-22) 1994年4月22日(30歳)
ピエール・ラトゥール フランスの旗 フランス (1993-10-12) 1993年10月12日(31歳)
ローレンス・ナーセン英語版 ベルギーの旗 ベルギー (1992-08-28) 1992年8月28日(32歳) ロット・ソウダル
オリバー・ナーセン ベルギーの旗 ベルギー (1990-09-16) 1990年9月16日(34歳)
オレリアン・パレット=パントル英語版 フランスの旗 フランス (1996-02-27) 1996年2月27日(28歳)
ナンズ・ピーターズ フランスの旗 フランス (1994-03-12) 1994年3月12日(30歳)
ハリー・タンフィールド英語版 イギリスの旗 イギリス (1994-11-17) 1994年11月17日(30歳) カチューシャ・アルペシン
ステイン・ヴァンデンベルフ ベルギーの旗 ベルギー (1984-04-25) 1984年4月25日(40歳)
アンドレア・ヴェンドラーメ英語版 イタリアの旗 イタリア (1994-07-20) 1994年7月20日(30歳) アンドローニ・ジョカットーリ・シデルメク
クレマン・ヴァントゥリーニ英語版 フランスの旗 フランス (1993-10-16) 1993年10月16日(31歳)
アレクシー・ヴュイエルモーズ英語版 フランスの旗 フランス (1988-06-01) 1988年6月1日(36歳)
ラリー・ワーバス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 (1990-06-28) 1990年6月28日(34歳)

歴代チーム陣容

脚注

  1. ^ Vincent Lavenu, éleveur de champions
  2. ^ "Entretien avec la manager d'AG2R La Mondiale, Vincent Lavenu". humanite.fr. 16 July 2009. 2010年7月15日閲覧
  3. ^ Notre histoire
  4. ^ 1992 : Chazal - Vanille et Mûre - Vetta
  5. ^ "Pendant ce temps, les équipes françaises prospèrent". humanite.fr. 10 March 1997. 2010年7月15日閲覧
  6. ^ Historique
  7. ^ Quand Casino faisait sauter la banque - Chronique du Vélo
  8. ^ AG2R Prevoyance 2000
  9. ^ AG2R Prevoyance 2001
  10. ^ バルデ、ナーセンらが王座を視界に アージェードゥーゼール ラモンディアル 2018年シーズン展望
  11. ^ First gathering for the AG2R LA MONDIALE Pro Cycling Team in Oisans

外部リンク