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「ヒッピー」の版間の差分

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'''ヒッピー'''({{lang-en-short|hippie, hippy}})は、[[1960年代]]後半に[[アメリカ合衆国]]に登場した、旧来の価値観に対抗する[[1960年代のカウンターカルチャー|カウンターカルチャー]] の一翼を担った若者を指す。その運動がヒッピー・ムーブメントである。
{{複数の問題|精度=2021年3月 |出典の明記=2021年3月 |Wikify=2021年3月}}{{告知|議論|100個超の脚注がついているものの、その大半は[[英語版ウィキペディア]]を「出典」とするものであり、[[WP:PG|方針]]の[[Wikipedia:検証可能性#ウィキペディア自身及びウィキペディアの転載サイト]]に反する状態となっている}}
[[ファイル:Vito Paulekas Dancing on the Street in L.A..jpg|thumb|250px|right|アーティスト{{ill2|ヴィトー・パウレカス|en|Vito Paulekas}}]]
'''ヒッピー'''({{lang-en-short|Hippie, Hippy}})は、[[1960年代]]後半に[[アメリカ合衆国]]に登場した、既成社会の[[伝統]]、[[制度]]など、それ以前の保守的な男性優位の価値観を否定する[[1960年代のカウンターカルチャー|カウンターカルチャー]] ([[:en:Counterculture]]) の一翼を担った人々、およびその[[ムーブメント]]。ヒッピーは1950年代の[[ビートニク|ビートニクス]]の思想を継承した。

== ヒッピーの思想、哲学 ==
[[ファイル:RussianRainbowGathering 4Aug2005.jpg|thumb|200px|right|ヒッピースタイルのミュージシャン]]
ヒッピーは、搾取的だった一部のキリスト教教派に批判的であり、「[[ヒューマン・ビーイン]]」に代表されるような、新しいムーブメント、哲学、[[宗教]]や魂([[スピリチュアリティ|スピリチュアティ]])の体験をもとめて、インドなどのヒッピーの聖地やフェスティバルを訪ね歩いた。

ヒッピーの一部は、インドなど東洋の宗教、哲学に魅力を感じ、反体制思想、[[左翼]]思想や自然のなかでの「共同体生活」への回帰を提案した。またサマー・オブ・ラブ、ベトナム反戦運動<ref>http://summerof.love/vietnam-summer-love/</ref>や、公民権運動<ref>http://www.history.com/topics/civil-rights-movement</ref>、カウンター・カルチャーとしての[[ロック (音楽)|ロック]]、野外フェス、性解放、[[フリーセックス]]、[[大麻]]等のドラッグ解禁、男女平等、各種差別の廃止、のちの[[ヴィーガニズム]]へとつながる有機野菜の促進などを主張し、主流とは異なったオルタナティブな社会の実現を目指した。社会変革と同時に、精神世界を重んじ、ダイバーシティ(多様)な価値の尊重を訴えた。

日本においても、新しい世界的同世代の価値感への共感と同時に、自然にやさしいコミューンへの回帰や、都市のヒッピーの登場がみられた。欧米発のムーブメントでありながら、自らのルーツでもある東洋への回帰的な関心という点でわかりやすく、インドや中国などの再評価や[[環境運動|エコロジー運動]]のさきがけともなった。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[ファイル:Beautiful Hippy Woman.png|サムネイル|ヒッピーの女性のヌード。保守的なキリスト教社会に対して、カウンターカルチャーであるヒッピーたちは、ヌードや性の解放を主張し自由な社会へと変革した。]]
[[ファイル:Beautiful Hippy Woman.png|サムネイル|ヒッピーの女性のヌード。保守的なキリスト教社会に対して、カウンターカルチャーであるヒッピーは、ヌードや性の解放を主張し自由な社会へと変革した。]]
[[画像:Furthur 01.jpg|thumb|250px|マジック・バスにしてサイケデリック・バス]]
[[画像:Furthur 01.jpg|thumb|250px|マジック・バスにしてサイケデリック・バス]]
同時代の観察記録である『ヒッピーのはじまり』<ref>{{Cite book|和書|title=ヒッピーのはじまり|year=2021|publisher=作品社|author=ヘレン・S・ペリー}}</ref> によれば、ヒッピー(HIPPY)という言葉は[[1966年]]ころの[[サンフランシスコ]]の{{ill2|ヘイトアシュベリー|en|Haight-Ashbury}}地区に住んでいた若者たちを指すものとして使われるようになった。
ヒッピー(HIPPY)という言葉はもともと「ヒップスター(HIPSTER<ref>{{Cite journal|date=2018-08-14|title=Hipster (contemporary subculture)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hipster_(contemporary_subculture)&oldid=854897974|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」に由来し、ニューヨーク市の[[グリニッジ・ヴィレッジ|グリニッジビレッジ]]とサンフランシスコの[[ヘイトアシュベリー]]地区に移住した[[ビート・ジェネレーション|ビートニクスたち]]を意味していた。 [https://www.sfchronicle.com/ サンフランシスコ・クロニクル紙]のジャーナリストであったハーブ・カーン(Herb Caen<ref>{{Cite journal|date=2018-08-04|title=Herb Caen|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Herb_Caen&oldid=853386968|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)によってひろめられた<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。


また、冒頭部の「HIP」とはその語源がたしかではないが、一説によると、1940年代のアフリカ系アメリカ人のあいだで流行したJive<ref>{{Cite journal|date=2018-03-27|title=Jive (dance)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Jive_(dance)&oldid=832748799|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>(ジャイブ)ダンスを踊る若者のスラングから転用されたものという説がある。当時、HIPは「飛んでいる、完全に最新のもの」という意でもちいられており、それをビートニクが採用し一般化するようになった。初期のヒッピーはビートニクスの言葉や価値観をひきついでいた<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
「HIP」とはその語源がたしかではない。[[1940年代]][[アフリカ系アメリカ人]]で流行した[[ジャイブ (ダンス)|ジャイブ]]を踊る若者の[[スラング]]としても使用された。当時、[[ヒップ (スラング)|HIP]]は「飛んでいる」という意でもちいられており、それを[[1950年代]]の[[ビート・ジェネレーション|ビートニク]]が採用し一般化するようになった。ヒッピーはビートニクスの言葉や価値観を引継いでいた。


作家[[ノーマン・メイラー|ノーマン・メイラ―]]は1961年4月27日付の雑誌[[The Village Voice]]<ref>{{Cite journal|date=2018-09-06|title=The Village Voice|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Village_Voice&oldid=858303877|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>の記事「[[ジョン・F・ケネディ|J・F・ケネディ]]と[[フィデル・カストロ|カストロ]]への公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーのなかで、詩人ケネス・レックスロス<ref>{{Cite journal|date=2018-06-06|title=Kenneth Rexroth|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Kenneth_Rexroth&oldid=844733175|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフに参加している若者を指すのにつかった。[[マルコム・X|マルコムX]]の1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は、「黒人より黒人らしく行動した特定のタイプの白人を表現するためにつかわれていた。 [[アンドリュー・ルーグ・オールダム|アンドリュー・ル―グ・オールダム]]は、1965年発表の[[ローリング・ストーンズ|ローリングストーンズ]]のLP[[ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!]]のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて 「シカゴのヒッピーたち」と称した<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
作家[[ノーマン・メイラー]]は1961年4月27日付の雑誌[[ヴィレッジ・ヴォイス]]の記事「[[ジョン・F・ケネディ|J・F・ケネディ]]と[[フィデル・カストロ|カストロ]]への公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーので、詩人{{仮リンク|ケネス・レックスロス|en|Kenneth Rexroth}}は「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクの{{ill2|ナイトライフ(観光)|en|Nightlife|label =ナイトライフ}}に参加している若者を指すのにつかった。[[マルコム・X]]の1964年の自伝によると、1940年代の[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]のヒッピーという言葉は黒人より黒人らしく行動した特定のタイプの白人「{{ill2|ウィガー|en|Wigger}}」を表現するためにつかわれていた。 [[アンドリュー・ルーグ・オールダム]]は、1965年発表の[[ローリング・ストーンズ]]のLP[[ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!]][[ライナーノート]]の中で、黒人ブルース/ [[R&B]]ミュージシャンをひいて「[[シカゴ]]のヒッピーたち」と称した。
[[File:RussianRainbowGathering 4Aug2005.jpg|thumb|upright|2005年のヒッピー]]
1967年、サンフランシスコ、[[ゴールデンゲートパーク]]での「[[ヒューマン・ビーイン]]」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「[[サマー・オブ・ラブ]]」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「[[ウッドストック・フェスティバル]]」が開催された。1970年、[[英国]]では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「[[ワイト島ライヴ1970|ワイト島フェスティバル]]」、[[チリ]]では「{{仮リンク|ピエドラ・ロハ・フェスティバル|en|Piedra Roja}}」。1971年、30万人もの[[メキシコ]]のヒッピーたち({{仮リンク|ヒピテカス|en|Jipitecas}})はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル<ref>{{Cite news|title=Avándaro, el festival que cambió la historia del rock mexicano|date=2017-11-27|last=Usón|first=Víctor|url=https://elpais.com/cultura/2017/11/26/actualidad/1511678428_196506.html|accessdate=2018-09-07|issn=1134-6582|language=es|work=El País}}</ref> につどった。 1973年、[[オーストラリア]]では東部の田舎町{{仮リンク|ニンビン (オーストラリア)|label=ニンビン|en|Nimbin, New South Wales}}で「{{仮リンク|アクエリアス・フェスティバル|en|Aquarius Festival}}」と大麻法改革大会、また[[ニュージーランド]]では、[[キャンピングカー]]に乗って旅をするヒッピーたちが「{{仮リンク|ナンバサ・フェスティバル|en|Nambassa}}」(1976年-1981年)を催し、[[オルタナティブ]]な[[ライフスタイル]]を実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。


[[ファイル:Lágrima Seca en Festival de Piedra Roja.jpg|サムネイル|1970年、南米チリで行われたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石のフェスティバル」の意。北米のみならず、南米でもヒッピー文化は広まった。]]
1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「[[ヒューマン・ビーイン]]」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「[[サマー・オブ・ラブ|サマー・オブ・ラヴ]](Summer of Love<ref>{{Cite journal|date=2018-09-02|title=Summer of Love|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Summer_of_Love&oldid=857704131|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「[[ウッドストック・フェスティバル]](Wood stock festival<ref>{{Cite journal|date=2018-09-16|title=Festival de Woodstock|url=https://es.wikipedia.org/w/index.php?title=Festival_de_Woodstock&oldid=110662988|journal=Wikipedia, la enciclopedia libre|language=es}}</ref>)」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「[[ワイト島ライヴ1970|ワイト島]]フェスティバル(Isle of Wight Festival <ref>{{Cite journal|date=2018-08-25|title=Isle of Wight Festival 1970|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Isle_of_Wight_Festival_1970&oldid=856413894|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」、チリでは「ピエドラ・ロハ・フェスティバル(Piedra Roja Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-07-26|title=Festival de Piedra Roja|url=https://es.wikipedia.org/w/index.php?title=Festival_de_Piedra_Roja&oldid=109531916|journal=Wikipedia, la enciclopedia libre|language=es}}</ref>)」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち(ヒピテカス(Jipitecas)<ref>{{Cite journal|date=2017-07-21|title=Jipitecas|url=https://es.wikipedia.org/w/index.php?title=Jipitecas&oldid=100611878|journal=Wikipedia, la enciclopedia libre|language=es}}</ref>)はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル<ref>{{Cite news|title=Avándaro, el festival que cambió la historia del rock mexicano|date=2017-11-27|last=Usón|first=Víctor|url=https://elpais.com/cultura/2017/11/26/actualidad/1511678428_196506.html|accessdate=2018-09-07|issn=1134-6582|language=es|work=El País}}</ref>につどった。 1973年、オーストラリアでは東部の田舎町ニンビン<ref>{{Cite news|title=オーストラリアの大麻の村、ニンビン観光の実態!Nimbinへの行き方を地図付きで解説。安宿や祭りの情報もあり!|url=http://famzau.com/2016/07/01/nimbin-tourism/|accessdate=2018-09-07|language=ja-JP|work=Famz}}</ref>で「アクエリス・フェスティバル(Aquarius Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-06-05|title=Aquarius Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Aquarius_Festival&oldid=844454556|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、キャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「ナンバサ・フェスティバル(Nambassa festival)<ref>{{Cite journal|date=2018-06-22|title=Nambassa|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Nambassa&oldid=847074126|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>(1976-1981)」を催し、オルタナティブなライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。
こうした[[北米]]、[[南米]]、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーと[[サイケデリック]]な文化は、自由への憧れの象徴となった。


アメリカにおいて、ヒッピーの一部は[[ベトナム戦争]]と[[徴兵制]]に反対し、そのため主流社会の軍事的[[覇権主義]]に反対し、父親世代の第二次大戦や[[原子爆弾]]への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的な軍事力による暴力や[[ホロコースト]]などに対して、音楽や麻薬、[[非暴力]]によって対抗(カウンター)しようとした。結果、[[自然]]と[[愛]]と[[平和]]と[[性行為|セックス]]と[[自由]]、[[巡礼]]の旅の愛好家として社会にうけとめられた。彼等は当時、西側の若者の間で流行した[[毛沢東思想]]や、[[コミューン]]の形成、[[環境運動]]や[[動物愛護]]、自然食、[[LSD (薬物)|LSD]]、[[マジックマッシュルーム]]、[[大麻|マリファナ]]擁護に加えて、[[ヨーガ|ヨガ]]、[[インド哲学]]、[[ヒンドゥー教|ヒンヅー教]]、[[禅]]、[[仏教]]などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちた[[ユートピア]]を夢見た。
[[ファイル:Lágrima Seca en Festival de Piedra Roja.jpg|サムネイル|1970年、南米チリでおこなわれたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石」という意味のフェスティバル。北米のみならず、南米でもヒッピー文化はひろまっていた。]]
こうした北米、南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れとして、東ヨーロッパの鉄のカーテン諸国において1960年代から1970年代初頭の若者文化に強い影響をあたえた<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。


実社会の中で、ユートピアが訪れることはなかったが、その憧れは[[21世紀]]において、[[サブカルチャー]]に留まらず、欧米の主流文化の中でより一般化されたものとなった。[[Apple]]をはじめとした[[アメリカ合衆国西海岸|米西海岸]]のコンピューター文化、ロック音楽や映画、美術、文学、舞踏、[[アメリカン・アニメーションの黄金時代|アメリカン・アニメ]]といった[[大衆文化]]、[[ヴィーガニズム]]、[[菜食主義]]などより自然志向の食文化、[[東洋思想|東洋的な精神]]への関心は高まりつづけている。
当初、アメリカにおいて、彼らの多くはベトナム徴兵を逃れた学生たちであり、そのため主流社会の軍事覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や[[原子爆弾]]への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的なテクノロジーによる暴力や虐殺などに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、[[自然]]と[[愛]]と[[平和]]と[[性行為|セックス]]と[[自由]]、[[巡礼]]の旅の愛好家として社会にうけとめられた。かれらは当時、西側の若者の間で流行した[[毛沢東思想|マオイスト]]や、コミューンの形成、[[環境運動]]や動物愛護、自然食、[[LSD (薬物)|LSD]]、マジック・マッシュルーム、[[大麻|マリファナ]]擁護にくわえて、[[ヨーガ|ヨガ]]、[[インド哲学]]、ヒンズー教、禅、[[仏教]]などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちた[[ユートピア]]を夢みた。


== 詳細 ==
実社会のなかで、ユートピアはおとずれることはなかったが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーにとどまらず、欧米の主流文化のなかでより一般化されたものとなった。[[アップル (企業)|アップル]]をはじめとした米西海岸のコンピューター文化、ロックや美術、文学、舞踏、アニメといった大衆文化、[[ヴィーガニズム]]、[[菜食主義]]などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけている。

== ヒッピーの歴史 ==
[[File:Neil Young 1976 closeup.jpg|thumb|right|130px|ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。]]
[[File:Neil Young 1976 closeup.jpg|thumb|right|130px|ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。]]


ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、[[アッシジ]]の[[アッシジのフランチェスコ|聖フランシスコ]]、さらに性の解放を歌った[[シドニー=ガブリエル・コレット|コレット]]、フランスの作家[[ルイ=フェルディナン・セリーヌ|セリーヌ]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]、不条理作家[[フランツ・カフカ|カフカ]]、アイルランドの哲学者[[アイリス・マードック]]、米国の実存主義作家[[ソール・ベロー]]、ユダヤ人作家[[バーナード・マラマッド]]<ref>「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社。</ref>、あるいは「森の生活」の著者[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー|ヘンリー・デビッド・ソロー]]や19世紀の詩人[[ウォルト・ホイットマン]]「[[ホビットの冒険]]」「[[指輪物語]]」の[[J・R・R・トールキン|J・R・R・トル―キン]]、20世紀においては[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]の[[アレン・ギンズバーグ|ギンズバーグ]]や[[ウィリアム・S・バロウズ|バロウズ]]、[[ジャック・ケルアック|ケルアック]]、また画家では[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ウィレム・デ・クーニング|デ・クーニング]]、[[ベン・シャーン]]、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]、[[ジャン・コクトー|コクトー]]などがヒッピーに好まれた<ref>「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社</ref>。
ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、[[アッシジ]]の[[アッシジのフランチェスコ|聖フランシスコ]]、さらに性の解放を歌った[[シドニー=ガブリエル・コレット|コレット]]、フランスの作家[[ルイ=フェルディナン・セリーヌ|セリーヌ]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]、不条理作家[[フランツ・カフカ]]、アイルランドの哲学者[[アイリス・マードック]]、米国の実存主義作家[[ソール・ベロー]]、ユダヤ人作家[[バーナード・マラマッド]]<ref name="植草p195">「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社。</ref>、あるいは「森の生活」の著者[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]や19世紀の詩人[[ウォルト・ホイットマン]]「[[ホビットの冒険]]」「[[指輪物語]]」の[[J・R・R・トールキン]]、20世紀は[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]の[[アレン・ギンズバーグ|ギンズバーグ]]や[[ウィリアム・S・バロウズ|バロウズ]]、[[ジャック・ケルアック|ケルアック]]、また画家では[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ウィレム・デ・クーニング|デ・クーニング]]、[[ベン・シャーン]]、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]、[[ジャン・コクトー|コクトー]]などがヒッピーに好まれた<ref name="植草p195" />。


19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー「[[ワンダーフォーゲル]]」は、当時の社会や文化クラブに対するカウンター・カルチャー的な側面をもっていた。また保守的伝統的なドイツのクラブの形式に反して、民族音楽や歌を愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。
19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー「[[ワンダーフォーゲル]]」は、当時の保守的な社会や文化に対するカウンター・カルチャー的な側面をもっていた。また保守的伝統的なドイツのクラブの形式に反して、フォーク・ソングを愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。


20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。若いアメリカ人の中には、ドイツ移民の思想の影響を受けた者もあらわれた。 「ネイチャーボーイズとよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターのエデン・アーベ(Eden Ahbez<ref>{{Cite journal|date=2018-06-03|title=eden ahbez|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Eden_ahbez&oldid=844276978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優のジプシー・ブーツ(Gypsy Boots<ref>{{Cite journal|date=2018-07-12|title=Gypsy Boots|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Gypsy_Boots&oldid=849952003|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)からインスピレーションを受けNature Boy(1947)<ref>{{Cite news|title=エデン・アーベ Nature Boy by Eden Ahbez|url=http://www.audio-visual-trivia.com/blog/2006/09/nature_boy_by_eden_ahbez.html|accessdate=2018-09-08|language=ja-JP|work=Audio-Visual Trivia}}</ref>という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>なお、21世紀の日本のワンゲル部は、体育会系の保守的なクラブとの見方もある
20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。ネイチャーボーイズとよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターの{{仮リンク|エデン・アーベ|en|eden ahbez}}は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優の{{仮リンク|ジプシー・ブーツ|en|Gypsy Boots}}からインスピレーションを受けNature Boy(1947)<ref>{{Cite news|title=エデン・アーベ Nature Boy by Eden Ahbez|url=http://www.audio-visual-trivia.com/blog/2006/09/nature_boy_by_eden_ahbez.html|accessdate=2018-09-08|language=ja-JP|work=Audio-Visual Trivia}}</ref>という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった。21世紀の日本のワンゲル部は、60年代70年代の大学でのシゴキ、リンチ事件も影響して、体育会系の保守的なクラブとの見方が強くなった


== 歴史 ==
== 初期ヒッピー/メリー・プランクターズ、サイケデリックなど ==
{{main|
{{ill2|ヒッピーの歴史|en|History of the hippie movement}}}}
=== 1965年-1974年 ===
{{Quote|それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。|ボブ・スタッブス|『Unicorn Philosophy』}}
{{Quote|それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。|ボブ・スタッブス|『Unicorn Philosophy』}}
=== メリー・プランクスターズ ===
1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家[[ケン・キージー]]とその'''サイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ]](陽気な悪ガキども)」'''がカリフォルニアで共同生活をはじめる。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、[[ニール・キャサディ]]、[[スチュアート・ブランド|スチュワート・ブランド]]、ケン・バッブス(Ken Babbs<ref>{{Cite journal|date=2017-10-21|title=Ken Babbs|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ken_Babbs&oldid=806405153|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)
らがふくまれていた。その生活は作家[[トム・ウルフ]]の「The Electric Kool-Aid Acid Test<ref>{{Cite journal|date=2018-08-13|title=The Electric Kool-Aid Acid Test|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Electric_Kool-Aid_Acid_Test&oldid=854797967|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」にまとめられた。


1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家[[ケン・キージー]]とその'''サイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ]](陽気ないたずらっ子たち)」'''がカリフォルニアで共同生活をはじめた<ref>{{Cite web|url=https://theinterrobang.com/mary-prankster-musical-comedy-special-acquired-by-comedy-dynamics/|title=Mary Prankster Musical Comedy Special Acquired by Comedy Dynamics|last=|first=|date=November 8, 2019|website=the Interrobang| access-date=26 Jnuary 2022}}</ref>。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、[[ニール・キャサディ]]、[[スチュアート・ブランド]]、{{仮リンク|ケン・バッブス|en|Ken Babbs}}らがふくまれていた。その生活は作家[[トム・ウルフ]]の『{{仮リンク|The Electric Kool-Aid Acid Test|en|The Electric Kool-Aid Acid Test}}』という書籍にまとめられた。
1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちに[[グレイトフル・デッド]]は「メリー・プランクスターズ」のバス旅行について、“That's It for the Other One<ref>{{Cite journal|date=2018-02-22|title=That's It for the Other One|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=That%27s_It_for_the_Other_One&oldid=827051800|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>”という曲をかいている。[[ファイル:Furthur 02.jpg|サムネイル|メリープランクスターズのサイケデリック・バス「ファーザー号」。このバスに乗って、アメリカを横断し、道中、LSDによるアシッドテストが繰りひろげられた。]]


1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちに[[グレイトフル・デッド]]はメリー・プランクスターズのバス旅行について、『{{仮リンク|That's It for the Other One|en|That's It for the Other One}}』という曲をかいている。[[ファイル:Furthur 02.jpg|サムネイル|メリープランクスターズのサイケデリック・バス「ファーザー号」。このバスに乗って、アメリカを横断し、道中、LSDによるアシッドテストが繰りひろげられた。]]
このあいだ、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは[[フォークソング|「フォークソング]]」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ、「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月、「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜おこなわれる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端の[[サイケデリック]]体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、ネバダ州バージニアの孤立した旧鉱山街の「レッド・ドッグ・サルーンーRed Dog Saloon<ref>{{Cite journal|date=2018-09-03|title=Red Dog Saloon (Virginia City, Nevada)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Red_Dog_Saloon_(Virginia_City,_Nevada)&oldid=857791046|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」でのパフォーマンスも後援した。

この間、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは「[[フォークソング]]」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜行われる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端の[[サイケデリック]]体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、[[ネバダ州]][[バージニアシティ (ネバダ州)|バージニアシティ]]の孤立した旧鉱山街の{{仮リンク|レッド・ドッグ・サルーン|en|Red Dog Saloon (Virginia City, Nevada)}}でのパフォーマンスも後援した。


=== サイケデリック・ロック ===
[[ファイル:Jerry-Garcia-01.jpg|サムネイル|ジェリー・ガルシア。サンフランシスコを代表するバンド、グレイトフル・デッドのギターリスト。デッドは「デッドヘッズ」という熱狂的なファンをもち、結成当初から高い人気を誇った。]]
[[ファイル:Jerry-Garcia-01.jpg|サムネイル|ジェリー・ガルシア。サンフランシスコを代表するバンド、グレイトフル・デッドのギターリスト。デッドは「デッドヘッズ」という熱狂的なファンをもち、結成当初から高い人気を誇った。]]
1965年夏、ラフリン3世は伝統的なフォークと[[サイケデリック・ミュージック]]の融合をさらに推しすすめる若くオリジナリティあふれる才能を募集した。彼とその仲間はそれまで聞いたことのなかった[[グレイトフル・デッド]]や[[ジェファーソン・エアプレイン|ジェファーソン・エアプレーン]]、[[ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー|ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー]]、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス|クイックシルバー・メッセンジャー・サービス]]、[[ザ・シャーラタンズ (U.S.バンド)|ザ・シャーラタンズ]]などレッド・ドッグ・サルーン的で、実験精神に満ちたバンドたちを見いだした。彼らの個性的なスタイルと、ビル・ハム(Bill ham<ref>{{Cite journal|date=2017-02-13|title=Bill Ham|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Bill_Ham&oldid=765209189|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆のあいだでの明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(または[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民族]])の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初の[[サイケデリック・ロック]]・バンドとなった。


1965年夏、伝統的なフォークと[[サイケデリック・ミュージック]]を融合したそれまで聞いたことのなかった[[グレイトフル・デッド]]や[[ジェファーソン・エアプレイン]]、[[ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー]]、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス]]、[[ザ・シャーラタンズ (U.S.バンド)|ザ・シャーラタンズ]]など実験精神に満ちたバンド群が現れた。彼らの個性的なスタイルと、{{仮リンク|ビル・ハム|en|Bill Ham}}による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆の間での明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(または[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民族]])の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初の[[サイケデリック・ロック]]・バンドとなった。
「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる、「サイケ・ロック」、「コスチュームダンス」、および「ライトショー」が組みあわされたライブをおこなった。[[ジェファーソン・エアプレイン|ジェファーソン・エアプレーン]]をはじめ、グレート・ソサエティ(The Great Society<ref>{{Cite journal|date=2018-07-05|title=The Great Society (band)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Great_Society_(band)&oldid=848931437|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、マーブルズ(The Marbles<ref>{{Cite journal|date=2018-07-22|title=The Marbles (duo)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Marbles_(duo)&oldid=851528388|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日~23日、サンフランシスコの「ロングショアマン・ホール<ref>{{Cite web|url=http://www.dead.net/tags/longshoremens-hall|title=Longshoremen's Hall {{!}} Grateful Dead|accessdate=2018-09-10|website=www.dead.net|language=en}}</ref>」で、「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。[[ケン・キージー|ケン・キ―ジ―]]や[[スチュアート・ブランド|スチュワート・ブランド]]らが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。

1966年、カリフォルニア州はLSDの拡大を見て、この薬物を非合法化した<ref>{{Citation
| last1 = Farber
| first1 = David
| last2 = Bailey
| first2 = Beth L.
| title = The Columbia Guide to America in the 1960s
| page = 145
| publisher = Columbia University Press
| year = 2001
| isbn = 0-231-11373-0
}}</ref>。「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる「サイケ・ロック」コスチュームダンス、および「ライトショー」が組みあわされたライブを行った。[[ジェファーソン・エアプレイン]]をはじめ、{{仮リンク|グレート・ソサエティ|en|The Great Society (band)}}、{{仮リンク|マーブルズ|en|The Marbles (duo)}}が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日-23日、サンフランシスコの「ロングショアマンズ・ホール<ref>{{Cite web|url=http://www.dead.net/tags/longshoremens-hall|title=Longshoremen's Hall {{!}} Grateful Dead|accessdate=2018-09-10|website=www.dead.net|language=en}}</ref>」で「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。[[ケン・キージー]]や[[スチュアート・ブランド]]らが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。


1966年2月までに、「ファミリードッグは主催者チェット・ヘルムスのもとでファミリードッグ・プロダクションとなり、のちに有名なプロモーターとなる[http://zip2000.server-shared.com/bill-graham.htm ビル・グレアム](Bill Graham<ref>{{Cite journal|date=2018-09-09|title=Bill Graham (promoter)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Bill_Graham_(promoter)&oldid=858750124|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)との共同作業をはじめ「アバロン・ボールルーム<ref>{{Cite journal|date=2018-09-01|title=Avalon Ballroom|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Avalon_Ballroom&oldid=857500226|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>[http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A3%A5%EB%A5%E2%A5%A2%A1%A6%A5%A6%A5%A7%A5%B9%A5%C8 フィルモア・ウエスト]<ref>{{Cite journal|date=2018-08-29|title=Fillmore West|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Fillmore_West&oldid=857021241|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、ラルフ・J・グリーソン(Ralph.J.Gleason<ref>{{Cite journal|date=2018-04-09|title=Ralph J. Gleason|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ralph_J._Gleason&oldid=835548250|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。
1966年2月までにファミリードッグは主催者チェット・ヘルムスのもとでファミリードッグ・プロダクションとなり、のちに有名なプロモーターとなる{{仮リンク|ビル・グレアム|en|Bill Graham (promoter)}}との共同作業をはじめ「{{仮リンク|アバロン・ボールルーム|en|Avalon Ballroom}}」「{{仮リンク|フィルモア・ウエスト|en|Fillmore West}}」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、{{仮リンク|ラルフ・J・グリーソン|en|Ralph J. Gleason}}は「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。
[[ファイル:Haight Ashbury11.JPG|サムネイル|サンフランシスコのヴィクトリア朝アパート。共同生活(ルームシェア)は夢多き学生のスタンダードだった。]]
[[ファイル:Haight Ashbury11.JPG|サムネイル|サンフランシスコのヴィクトリア朝アパート。共同生活(ルームシェア)は夢多き学生のスタンダードだった。]]
最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価な[[ヴィクトリア朝|ビクトリア朝]]アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。[[グレイトフル・デッド]]や[[ジェファーソン・エアプレイン|ジェファーソン・エアプレーン]]、[[ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー|ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー]]、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス|クイックシルバー・メッセンジャー・サービス]]、[[ザ・シャーラタンズ (U.S.バンド)|ザ・シャーラタンズ]]らはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「'''ディガーズ―Diggers<ref>{{Cite journal|date=2018-09-08|title=Diggers|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Diggers&oldid=858578046|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>'''」を中心におこなわれた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。
最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価な[[ヴィクトリア朝]]アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。[[グレイトフル・デッド]]や[[ジェファーソン・エアプレイン]]、[[ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー]]、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス]]、[[ザ・シャーラタンズ (U.S.バンド)|ザ・シャーラタンズ]]らはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「'''{{仮リンク|ディガーズ|en|Diggers (theater)}}'''」を中心にれた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。


{{仮リンク|サンフランシスコ・オラクル|en|San Francisco Oracle}}の共同設立者である{{仮リンク|アレン・コーエン (詩人)|label=アレン・コーエン|en|Allen Cohen (poet)}}によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも異常でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。
=== サンセット・ストリップ・ライオット ===
1966年10月6日、[[カリフォルニア州]]はLSDを規制薬物と宣言し、この薬物を違法にした。'''サイケデリックスの犯罪化'''に対応して、サンフランシスコのヒッピーたちは、ゴールデンゲートパークで「ラブ・ページェント・ラリー」とよばれる集会をひらいた。サンフランシスコ・オラクルの共同設立者である[[アラン・コーエン]](Allan Cohen<ref>{{Cite journal|date=2018-01-05|title=Allen Cohen (poet)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Allen_Cohen_(poet)&oldid=818727804|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも精神病患者でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。超越意識、宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。


1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「'''ヒッピー暴動(The Sunset Strip curfew riots)'''<ref>{{Cite journal|date=2018-08-11|title=Sunset Strip curfew riots|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Sunset_Strip_curfew_riots&oldid=854492108|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、[[ジャック・ニコルソン]]や[[ピーター・フォンダ]]などの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「Riot on Sunset Strip」のモチーフとなり、[[バッファロー・スプリングフィールド]]の名曲「For What It's Worth<ref>{{Cite journal|date=2018-09-03|title=For What It's Worth|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=For_What_It%27s_Worth&oldid=857856230|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「'''[[ヒッピー暴動]]'''」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、[[ジャック・ニコルソン]]や[[ピーター・フォンダ]]などの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「{{仮リンク|サンセット通りの暴動|en|Riot on Sunset Strip}}」のモチーフとなり、[[バッファロー・スプリングフィールド]]の名曲「[[フォー・ホワット・イッツ・ワース]]」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった。


[[ファイル:San Francisco Golden Gate Park Conservatory of Flowers.jpg|サムネイル|『ヒューマン・ビーイン』が開かれたゴールデン・ゲート・パーク。広大な敷地をもつことから普段からヒッピーたちはよくここにつどった。]]
== 1967年/サマー・オブ・ラブとサンフランシスコ ==
[[ファイル:San Francisco Golden Gate Park Conservatory of Flowers.jpg|サムネイル|「ヒューマン・ビーイン」が開かれたゴールデン・ゲート・パーク。広大な敷地をもつことから普段からヒッピーたちはよくここにつどった。]]
[[ファイル:Vietnamdem.jpg|サムネイル|ペンタゴンを警備する兵士に意気揚々と花をさしだすフラワーチルドレンの若い女性。ハットもチューリップハットをかぶり、フラワーなイメージであふれている。]]
[[ファイル:Vietnamdem.jpg|サムネイル|ペンタゴンを警備する兵士に意気揚々と花をさしだすフラワーチルドレンの若い女性。ハットもチューリップハットをかぶり、フラワーなイメージであふれている。]]
1967年1月14日、アーチストのマイケル・ボーエン(Michael Bowen<ref>{{Cite journal|date=2018-08-20|title=Michael Bowen (artist)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Michael_Bowen_(artist)&oldid=855796849|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)が企画した[[ゴールデン・ゲート・パーク]]での野外フェス[[ヒューマン・ビーイン]]は、サンフランシスコの[[ゴールデン・ゲート・パーク|ゴールデンゲートパーク]]に3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日のイースター(復活祭)」にあわせたセントラル・パーク・ビーイン(The Central Park Be-In<ref>{{Cite journal|date=2018-09-09|title=Central Park be-ins|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Central_Park_be-ins&oldid=858723737|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」が催され、[[ルー・リード]]、[[イーディ・セジウィック]]らのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。
1967年1月14日、アーチストの{{仮リンク|マイケル・ボーエン|en|Michael Bowen (artist)}}が企画した[[ゴールデン・ゲート・パーク]]での野外フェス[[ヒューマン・ビーイン]]は、サンフランシスコの[[ゴールデン・ゲート・パーク]]に3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日の[[復活祭|イースター]]にあわせた『{{仮リンク|セントラル・パーク・ビーイン|en|Central Park be-ins}}が催され、[[ルー・リード]]、[[イーディ・セジウィック]]らのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。


6月16日から6月18日まで開かれた[[モントレー・ポップ・フェスティバル]]では、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「[[サマー・オブ・ラブ]]」のはじまりとなった。[[スコット・マッケンジー]]が歌う[[ジョン・フィリップス (音楽家)|ジョン・フィリップス]]の曲「[[花のサンフランシスコ]]」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「[[フラワーチャイルド|フラワー・チルドレン]](花の子供たち)」とよばれるようになる。
6月16日から6月18日まで開かれた[[モントレー・ポップ・フェスティバル]]では、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「[[サマー・オブ・ラブ]]」のはじまりとなった。[[スコット・マッケンジー]]が歌う[[ジョン・フィリップス (音楽家)|ジョン・フィリップス]]の曲「[[花のサンフランシスコ]]」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「[[フラワーチャイルド|フラワー・チルドレン]](花の子供たち)」とよばれるようになる。


1967年6月、前述のジャーナリストハーブ・カーン(Herb Caen<ref>{{Cite journal|date=2018-08-04|title=Herb Caen|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Herb_Caen&oldid=853386968|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)はなぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine<ref>{{Cite web|url=https://www.distinguished-mag.com/|title=Distinguished Magazine - Premier Lifestyle & Art Coffee Table Magazine {{!}} D Mag|accessdate=2018-09-10|website=Distinguished Magazine|language=en-US}}</ref>」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた{{efn2|カーンのこの認識は住民と若者の認識の「ズレ」や「ギャップ」のようなもので、当然どこの国にもある問題だとおもわれる。}}。
1967年6月、前述のジャーナリストの{{仮リンク|ハーブ・カーン|en|Herb Caen}}はなぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine<ref>{{Cite web|url=https://www.distinguished-mag.com/|title=Distinguished Magazine - Premier Lifestyle & Art Coffee Table Magazine {{!}} D Mag|accessdate=2018-09-10|website=Distinguished Magazine|language=en-US}}</ref>」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた{{efn2|カーンのこの認識は住民と若者の認識の「ズレ」や「ギャップ」のようなもので、当然どこの国にもある問題だとおもわれる。}}。


7月7日、[[タイム (雑誌)|タイム]]紙(TIME<ref>{{Cite journal|date=2018-09-08|title=Time (magazine)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Time_(magazine)&oldid=858620711|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している{{efn2|この倫理規定にはある程度「[[ニューエイジ]]思想」の価値観と通底したものがみられる。}}。<blockquote>'''「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」'''</blockquote>1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]」がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。
7月7日、[[タイム (雑誌)|タイム]]は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している{{efn2|この倫理規定にはある程度「[[ニューエイジ]]思想」の価値観と通底したものがみられる。}}。<blockquote>'''「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」'''</blockquote>1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (代表的なトピック)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]<!-- 「WP:CARMENに基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。


夏のおわりまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードで'''ヒッピーの「死」'''を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。[[ビートルズ]]の[[ジョージ・ハリスン|ジョージ・ハリソン]]はヘイト・アシュベリーをおとずれ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDをあきらめるようにうながした。
夏のりまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードでヒッピーの「死」を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。[[ビートルズ]]の[[ジョージ・ハリスン]]はヘイト・アシュベリーをれ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDをめるようにした。


結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで道徳的パニックを助長することとなった<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで道徳的パニックを助長することとなった。1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。特に人口の多い「[[ベビーブーマー]]」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)に住んでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーの間に深い繋がりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でも同じであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった


新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「'''状況のステレオタイプ'''」を描いている。例えば『[[:en:The Love-Ins|ラブイン]]』『[[ジャック・ニコルソンの嵐の青春]]』『[[白昼の幻想]]』などの映画、それ以外のより誠実で評判の高い『[[イージー・ライダー]]』や『[[:en:Alice's Restaurant (film)|アリスのレストラン]]』もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル『[[ヘアー (ミュージカル)|ヘアー]]』は1967年に発表された。
== 1960年代末/ヒッピーの反戦思想 ==
[[ファイル:Abbie Hoffman visiting the University of Oklahoma circa 1969.jpg|サムネイル|イッピーズの指導者、アビー・ホフマン。東洋的な内面な変革を重要視したヒッピーとは違って、イッピーズはより政治的な運動を活発にした。彼らは強硬な政治にユーモアを以て抗議した。]]
1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。とくに人口の多い「[[ベビーブーマー|ベビー・ブーマー]]」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)にすんでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが、当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーのあいだに深いつながりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でもおなじであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった。
一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」こと[[青年国際党]]とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の[[復活祭]]に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークの[[グランド・セントラル駅]]を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者[[アビー・ホフマン]]と[[ジェリー・ルービン]]は、1967年10月の[[ベトナム戦争]]抗議デモで「立ち上がり、ミートボールをやめよう(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンを掲げ、花を配り儀式によって「'''ペンタゴンを空中浮遊<ref>{{Cite news|title=Fifty Years Ago, a Rag-Tag Group of Acid-Dropping Activists Tried to "Levitate" the Pentagon|last=Manseau|first=Peter|url=https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/how-rag-tag-group-acid-dropping-activists-tried-levitate-pentagon-180965338/|accessdate=2018-09-11|language=en|work=Smithsonian}}</ref>'''」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者としてブタの「[[ピガスス]]」を指名し、広くメディアにとりあげられた。しかしながら、彼らは[[反戦運動|反戦]]を謳ってはいたものの、実際には[[アメリカ軍]]と戦う[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]を支持していた。


英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部と見做されはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題に関する幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国で主に使用された用語だった。
新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「'''状況のステレオタイプ'''」を描いている。たとえば、[[:en:The_Love-Ins|ラブイン]]、[[:en:Psych-Out|サイコアウト]]、[[:en:The_Trip_(1967_film)|トリップ]]などの映画、それ以外のより誠実で評判の高い「[[イージー・ライダー|イージーライダー]]」や「[[:en:Alice's_Restaurant_(film)|アリスのレストラン]]」もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル「[[ヘアー (ミュージカル)|ヘアー]]」は1967年に発表された。
[[ファイル:Abbie Hoffman visiting the University of Oklahoma circa 1969.jpg|サムネイル|イッピーズの指導者、アビー・ホフマン。東洋的な内面な変革を重要視したヒッピーとは違って、イッピーズはより政治的な運動を活発におこなった。彼らは強硬な政治にユーモアをもって抗議した。]]
一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」([[:en:Youth_International_Party|Youth International Party]])とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の[[復活祭]]に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークの[[グランド・セントラル駅]]を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者[[アビー・ホフマン]](Abbie Hoffman<ref>{{Cite journal|date=2018-08-15|title=Abbie Hoffman|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Abbie_Hoffman&oldid=855079933|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)と[[ジェリー・ルービン]](Jerry Rubin<ref>{{Cite journal|date=2018-08-30|title=Jerry Rubin|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Jerry_Rubin&oldid=857182510|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は、1967年10月の[[ベトナム戦争]]抗議デモで、「'''立ち上がり、きしょいミートボールをやめようぜ!'''(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンをかかげ、花をくばり、儀式によって「'''ペンタゴンを空中浮遊<ref>{{Cite news|title=Fifty Years Ago, a Rag-Tag Group of Acid-Dropping Activists Tried to "Levitate" the Pentagon|last=Manseau|first=Peter|url=https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/how-rag-tag-group-acid-dropping-activists-tried-levitate-pentagon-180965338/|accessdate=2018-09-11|language=en|work=Smithsonian}}</ref>'''」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者の「ピガサス氏(Pigasus<ref>{{Cite journal|date=2018-07-08|title=Pigasus (politics)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Pigasus_(politics)&oldid=849398856|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>―本物のブタ)」を指名し、広くメディアにとりあげられた。


1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「{{仮リンク|ピープルズ・パーク (カリフォルニア州バークレー)|label=ピープルズ・パーク|en|People's Park (Berkeley)}}」が国際的な注目をあつめた。[[カリフォルニア大学バークレー校]]は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m<sup>2</sup>)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、[[ロナルド・レーガン]]知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーの至る所に花を植えた。
英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部とみなされはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題にかんする幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国でおもに使用された用語だった。


1969年8月、[[ニューヨーク州]]のベテルでロックの大祭典『[[ウッドストック・フェスティバル]]』が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、[[リッチー・ヘブンス]]、[[ジョーン・バエズ]]、[[ジャニス・ジョプリン]]、[[グレイトフル・デッド]]、[[クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル]]、[[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング]]、[[カルロス・サンタナ]]、[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]、[[ザ・フー]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]、[[ジミ・ヘンドリックス]]など当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でなされ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想を広める上で重要な役割を果たした。
1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「ひとびとの公園-[[:en:People's_Park_(Berkeley)|people's park]]」が国際的な注目をあつめた。[[カリフォルニア大学バークレー校]]は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m<sup>2</sup>)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、[[ロナルド・レーガン]]知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーのいたるところに花を植えた。


1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初は『ウッドストック・ウェスト』と名づけられ、正式名称は『[[オルタモント・フリーコンサート]]』とよばれた。[[ローリング・ストーンズ]]や[[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]{{efn2|「あなただけを」「ホワイト・ラビット」などがヒットした。}}らをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族の[[ヘルズ・エンジェルス|ヘルス・エンジェルス]]は、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした結果、18歳の黒人{{仮リンク|メレディス・ハンター|en|Death of Meredith Hunter}}は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打された後、刺殺された。ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たちは、1970年代には活動が停滞したように見えた。
1969年8月、[[ニューヨーク州]]のベテルでロックの大祭典「[[ウッドストック・フェスティバル]]―[[:en:Woodstock|Wood stock festival]]」が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、[[リッチー・ヘブンス|リッチー・ヘヴンズ]]、[[ジョーン・バエズ]]、[[ジャニス・ジョプリン]]、[[グレイトフル・デッド]]、[[クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル]]、[[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング|クロスビー・スティルズ・ナッシュ・アンド・ヤング]]、[[カルロス・サンタナ]]、[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン|スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン]]、[[ザ・フー]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]、[[ジミ・ヘンドリックス]]など当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でおこなわれ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想をひろめる上で重要な役割をはたした。


[[オルタモント・フリーコンサート]]の殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月には[[チャールズ・マンソン]]と彼のファミリーによって[[シャロン・テート]]殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス]]の曲『{{仮リンク|What About Me?|en|What About Me (Quicksilver Messenger Service album)}}』にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「オハイオ」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。
1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初は「ウッドストック・イースト―Woodstock West」と名づけられ、正式名称は「[[オルタモント・フリーコンサート]]―[[:en:Altamont_Free_Concert|Altamont Free Concert]]」とよばれた。[[ローリング・ストーンズ]]や[[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング|クロスビー・スティルズ・ナッシュ&ヤング]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]{{efn2|「あなただけを」「ホワイト・ラビット」などがヒットした。}}らをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族の[[ヘルズ・エンジェルス|ヘルス・エンジェルス]]は、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした。結果、18歳の黒人メレディス・ハンター([[:en:Death_of_Meredith_Hunter|Meredith Hunter]])は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打ののち、刺殺されしまう。


{{仮リンク|チェンバース・ブラザーズ|en|The Chambers Brothers}}や特に[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]のようなサイケデリック・スピリットのグループは、ジョージ・クリントンとPファンクに影響を与えた。ヒッピーの多くは、1970年代を通じてアメリカ主流社会に組みこまれていった。大規模ロックコンサートは1967年、{{仮リンク|ファンタジーフェアとマジックマウンテンミュージックフェスティバル|label=KFRCファンタジーフェアとマジックマウンテンミュージックフェスティバル|en|Fantasy Fair and Magic Mountain Music Festival}}、[[モントレー・ポップ・フェスティバル]]を経て、1968年の英国[[ワイト島ライヴ1970|ワイト島フェスティバル]]で基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していた[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]は後に失脚する。
== 1970s - 現在/ベトナム戦争の終結 ==
[[ファイル:White rabbit.JPG|サムネイル|サンフランシスコのロックバンド、ジェファーソンエアプレインのポスター。ドラッギーに歪んだ文字がこの時代多用され、所謂サイケデリックイメージと結びつく。]]
ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たち、いわゆる「時代の精神医たち」は1970年代にはいると衰えたかのように見えた。


=== 1970年代後半 - 現在 ===
[[オルタモント・フリーコンサート]]の殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月には[[チャールズ・マンソン]]と彼のファミリーによって[[シャロン・テート]]殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス|クイックシルバー・メッセンジャー・サービス]]の曲「What About Me?<ref>{{Cite journal|date=2017-11-24|title=What About Me (Quicksilver Messenger Service album)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=What_About_Me_(Quicksilver_Messenger_Service_album)&oldid=811922068|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「Ohio」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。
1975年4月にはサイゴンが陥落し、ベトナム戦争終結と兵役徴集の終わりに伴い、{{仮リンク|アメリカ建国200周年記念|en|United States Bicentennial}}に関連した愛国的感情が高まり、アメリカはゆっくり様変わりしていった。やがて、ロンドンやニューヨークでパンクが出現し、アメリカの主流メディアはヒッピーの終焉を報道した。


[[ファイル:TRANSSERBIA - FluoDeco.jpg|サムネイル|[[サイケデリックトランス]]に興じる若者たち。反戦運動なき現代ではヒッピーはテクノロジーと結びつき、むしろファッションや娯楽的な要素が強いサブカルチャーとなっている。]]
ヒッピースタイルの多くは、1970年代初めにはアメリカ主流社会に組みこまれていた。大規模ロックコンサートは1967年、KFRCファンタジーフェア、マジックマウンテンミュージックフェスティバル<ref>{{Cite journal|date=2018-08-22|title=Fantasy Fair and Magic Mountain Music Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Fantasy_Fair_and_Magic_Mountain_Music_Festival&oldid=855969589|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>、[[モントレー・ポップ・フェスティバル|モントレーポップフェスティバル]]を経て、1968年の英国[[ワイト島ライヴ1970|ワイト島]]フェスティバルで基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していた[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]は後に失脚する。
1969年のウッドストックフェスティバルから50年後の2019年、ウッドストックのオーガナイザーのひとりはメモリアルフェスティバルを企画した。しかし、医療体制や食や水の問題、さらには米国内で頻発する大量銃撃事件に関連して、会場探しが難航し、結局中止となった。1960年代の牧歌的なヒッピーの夢はより暴力的な傾向を強める社会状況という現実に直面せざるを得ない状況になっている。


長年警備に携わってきたニューヨーク市警の元巡査部長は社会構造の変化に伴い、フェスティバルのユートピア感覚は失われ「60年代を知る人々が、同じ経験をすることはもうないだろう」と述べた<ref>{{Cite web|和書|title=相次ぐ銃乱射に苦しむ米国、ウッドストック再来は望み薄|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3239825|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-08-17|language=ja}}</ref>。2002年、フォトジャーナリストのジョン・バセット・マクレリー(John Bassett McCleary)は、650ページの6000項目もの省略されていないスラング辞書「ヒッピー辞書(The Hippie Dictionary<ref>{{Cite web|url=http://www.hippiedictionary.com/|title=The Hippie Dictionary, about the 60s and 70s|accessdate=2018-09-18|website=www.hippiedictionary.com|language=en}}</ref>)」を出版した。これは1960年代から1970年代の文化的百科事典でもある。この本は改訂され、2004年に700ページに拡大された。マクレリーは、ヒッピーの言葉の多くはビート・ジェネレーションにその源をもち、それを短くして使用法を普及させることにで、英語にかなりの数の単語を追加したと考えている。
1970年代半ばには、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争終結と兵役徴集の終わりにともない、アメリカ建国200周年記念 ([[:en:United States Bicentennial]]) に関連した愛国的感情が高まった。アメリカはゆっくり様変わりしていった。やがて、ロンドンやマンチェスターでパンクが出現し、ニューヨークとロサンゼルスでは主流メディアがヒッピーへの関心を失った。同時に、[[モッズ]]のリバイバル、[[スキンヘッド|スキンヘッズ]]、テディーボーイズ、[[ゴシック・ロック|ゴシック]](ゴス)などの新しい若者文化が登場して、センセーショナルな話題を振りまいた。アシッド・ロックは、[[プログレッシブ・ロック|プログレ]]、[[ヘヴィメタル|ヘビメタ]]、[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]、[[パンク・ロック|パンク]]にまでつながった。ヒッピーの理想は、パンクの[[アナキズム|アナーキズム]]やそののちの若者のサブカルチャー、特に「[[セカンド・サマー・オブ・ラブ]]」に大きな影響をあたえた。
ヒッピー運動の理想を生きようとしたヒッピー・コミューンは社会の流れとは別のところですこしづつ豊かになった。西海岸[[オレゴン州]]にはかなりの数のコミューンに住む人々がおり、幾人かは消え去り、幾人かはまだかたちをかえながらもコミューン生活を続けている。多くのヒッピーは長期的なライフスタイルへの取り組みをおこなっていたが、ヒッピーは1980年代に「売り切れ」になり、物質主義的消費文化の一部となったと主張する人もいる。実際、ヒッピーの文化は一度もちゃんと人々の目に見えていなかったが、ヒッピーやネオヒッピーは大学のキャンパス、コミューン、集会や祭りで見かけることがある。その多くは、平和、愛、そして地域社会の価値観に適応している。もしかすると、ヒッピーは世界中のボヘミアンの養護施設でも見つかるのかもしれない。[[ファイル:TRANSSERBIA - FluoDeco.jpg|サムネイル|サイケデリックトランスに興じる若者たち。反戦運動なき現代ではヒッピーはテクノロジーと結びつき、むしろファッションや娯楽的な要素が強いサブカルチャーとなっている。]]20世紀の終わりに向かって、1960年代のサイケデリックなカウンターカルチャーの特質のいくつかを取り入れた 「サイバーヒッピー」の傾向が浮かび上がった。ヒッピー・サブカルチャーはインドの[[ゴア州]]から生まれた[[サイケデリックトランス|サイケデリック・トランス]]にもリンクしている<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。


グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめたこと{{efn2|グレイトフル・デッドはバンドのギターリストでカウンターカルチャーの象徴的な存在だったジェリー・ガルシアが1995年に死去したこと、フィッシュは2004年に突然の解散を宣言したことによる。}}によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりを見せている。一番大きなものは、2002年に始まった「[[ボナルー・フェスティバル]] {{efn2|テネシー州で毎年おこなわれている野外フェス。日本からは2004年に「東京スカパラダイスオーケストラ」が参加している。}}である。「{{仮リンク|オレゴン・カントリー・フェア|en|Oregon Country Fair}}」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。
== ヒッピーの特徴 ==
サンフランシスコのヒッピー文化の前身である[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]はコーヒーハウスやバーにつどい、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまで[[グレイトフル・デッド]]のマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire<ref>{{Cite web|url=http://www.dead.net/features/jon-mcintire/jon-mcintire-1941-2012|title=Jon McIntire 1941 - 2012 {{!}} Grateful Dead|accessdate=2018-09-17|website=www.dead.net|language=en}}</ref>)はヒッピー文化の大きな貢献は、'''「よろこびの表現」'''だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く、冷笑で冷たかった。


== セックス革命 ==
'''ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。'''
ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは「[[フリーセックス]]を好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちは[[性の革命|セックス革命]]を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは「平和のための[[ベッド・イン]]」{{ill2|ラブ・イン|en|Love-in}}(愛の集会)で、反戦平和を主張した。
1966年、研究チーム「{{仮リンク|マスターズ・アンド・ジョンソン|en|Masters and Johnson}}」によってセックスの臨床研究 "[[:en:Human sexual response cycle|Human Sexual Response]]" が出版された。しばらくの小康状態を経て、1969年、精神科医{{仮リンク|デビット・ルーベン|en|David Reuben (author)}}が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。
1972年には、イギリス人科学者[[アレックス・カンフォート]](Alex Comfort)によるセックス・マニュアル『[[ジョイ・オブ・セックス]]』が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらく前から進行中だった。


== ドラッグ ==
初期には、その彩り豊かなファッションをつうじて、たがいにたがいを認識し、その個性を尊重しあった。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずにあらわし、社会の「まっすぐさ」と「硬さ-スクエア」から距離をおいて、「利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力」という価値を重んじた。
[[ファイル:Marijuana and pipe.jpg|サムネイル|乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好する一方で、アルコール類を摂取しない者も一部にいた。]]
[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]につづいて、多くのヒッピーは[[大麻]](マリファナ)を使用し、それを楽しく良性な薬物であると考えた。彼らは魂の薬学として、マジック・マッシュルーム、コカイン、ヘロイン、メスカリン(サボテンの[[ペヨーテ]]が成分を含む)や[[LSD (薬物)|LSD]]などに使用を拡大した。ジョン・レノンの「コールド・ターキー」は彼の食中毒体験を歌詞にした曲だったが、人々はヘロインからの脱却を歌ったものと勘違いした<ref>{{cite web|url=http://homepage.ntlworld.com/carousel/pob/pob04.html |title=John Lennon Discography |publisher=Homepage.ntlworld.com | access-date=31 January 2022}}</ref>


ハーバード大学の教授[[ティモシー・リアリー]]、[[ラルフ・メツナー]]、{{仮リンク|ラム・ダス|label=ラム・ダスことリチャード・アルパート|en|Ram Dass}}らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。
やがて、多くの思慮深いヒッピーは、特に[[チャールズ・マンソン]]のようなカルト宗教のリーダーが表面的にヒッピーファッションを取りいれはじめたり、警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンの[[フランク・ザッパ|フランクザッパ]]は、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ。」と聴衆に忠告した<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。


西海岸では、作家の[[ケン・キージー]]がLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」と呼んでいた。キージーはサイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ]]」と共にアメリカ大陸をツアーしメディアの注目を集め、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。[[グレイトフル・デッド]](元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。
=== アートとファッション ===
[[ファイル:White rabbit.JPG|サムネイル|サンフランシスコのロックバンド、ジェファーソンエアプレインのポスター。ドラッギーに歪んだ文字がこの時代多用され、いわゆるサイケデリックイメージと結びつく。]]


==== アート ====
== 政治 ==
ロナルド・クレアは、ヒッピー社会主義が、カウンターカルチャーのクリエーションをつうじて社会の変容を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会の中で理想的なコミュニティを作り上げようとする欲求だとした{{efn2|これは1968年のフランスの[[五月危機|五月革命]]と同様の精神(68年精神)だった}}。
1960年代のサイケデリック・アート運動の主役は、{{仮リンク|リック・グリフィン|en|Rick Griffin}}、{{仮リンク|ビクター・モスコソ|en|Victor Moscoso}}、{{仮リンク|ボニー・マクリーン|en|Bonnie MacLean}}、{{仮リンク|スタンリー・マウス&アルトン・ケリー|en|Stanley Mouse|Stanley Mouse & Alton Kelley}}、そして{{仮リンク|ウェス・ウィルソン|en|Wes Wilson|FIXME=1}}など、サンフランシスコのポスターアーティストだった。彼らのロック・コンサートのポスターは[[アール・ヌーヴォー|アールヌーボー]]、[[ヴィクトリア朝|ヴィクトリアン]]様式の美術(ビアズレ―など)、[[ダダイスム]]や[[ポップアート]]からインスピレーションをうけていた。フィルモア・ウェストのコンサート・ポスターはもっとも注目された。鮮やかなコントラスト、華やかなレタリング、強く対称な構図、コラージュ要素、歪み、ちょっと奇妙な画像、豊かな色彩などがその特徴で、このスタイルはおよそ1966年から1972年のあいだ人気を保った。


[[ファイル:GermanyPeaceSymbol.jpg|サムネイル|[[ピースマーク]]。これは元来核軍縮のキャンペーンのロゴだったが、それをベトナム反戦デモの参加者が使用して、世界に広まった。今日では「世界平和」を願う象徴のひとつでもある。]]
彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気をかもしだした。
「[[ピースマーク]]」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちの間でポピュラーになった。ヒッピーは大抵は平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」([[青年国際党]])に至るまで幅広かった。


アフロアメリカンであり、ブラックパンサーの共同設立者[[ボビー・シール]]<ref>{{Cite web|url=http://www.biography.com/people/huey-p-newton-37369|title=Huey P. Newton|website=Biography.com| access-date=10 May 2022}}</ref>は、イッピーズの白人リーダーのジェリー・ルービンと議論をおこなった。
また、「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。{{仮リンク|ザップ・コミックス|en|Zap Comix}}はそのオリジナルのひとつであり、[[ロバート・クラム|ロバートクラム]]、{{仮リンク|S・クライ・ウィルソン|en|S.Clay Wilson}}、ビクター・モスコソ、{{仮リンク|リック・グリフィン|en|Rick Griffin}}、{{仮リンク|ロバート・ウィリアムス (芸術家)|label=ロバート・ウィリアムス|en|Robert Williams (artist)}}らの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。{{仮リンク|ギルバート・シェルトン|en|Gilbert Shelton}}の『{{仮リンク|ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ|en|The Fabulous Furry Freak Brothers}}』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。
== 日本のヒッピー ==
1960年代後半の日本において、[[フォークソング#日本のフォーク|フォーク]]、[[ロック (音楽)|ロック]]に[[岡林信康]]、[[萩原健一]]、[[カルメン・マキ|カルメンマキ]]、[[ザ・フォーク・クルセダーズ|フォーククルセダーズ]]、[[ソルティー・シュガー|ソルティシュガー]]らが登場した。また、映画・演劇・アートでは[[若松孝二]]、[[寺山修司]]、[[大島渚]]、[[横尾忠則]]、女優の[[緑魔子]]、[[横山リエ]]らが活躍した。


=== 新宿のヒッピー族 ===
彼らに先行する[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]、すぐ後につづいた[[パンク・ロック|パンク]]のように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「'''浮浪者スタイル'''」の反映だった。男も女もジーンズを履き、どちらも長髪だった。サンダルは、やがて裸足へと移行した。スティーヴ・ジョブズも大学生時代は裸足だったという。男性はひげを生やすことが多く、女性は化粧をほとんど、もしくはまったくせず、ノーブラジャー。ほかの白人中産階級のムーブメントと同じようにヒッピーたちは時代の「男女差」に挑戦し、[[ユニセックス]]だった。
{{節スタブ}}
ヒゲをはやした若者も多かった。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダードだった。
芸術的なヒッピー族は新宿[[角筈]]の[[風月堂 (東京都新宿区)|風月堂]]が発信基地となった。[[文化人類学者]]の[[深作光貞]]によれば風月堂はヨーロッパのパリを拠点とする世界的ヒッピーネットワークの一部になっていたとされる<ref name="shibuya-kougengaku-pp131-132"/>。


=== 長野のヒッピー族 ===
ヒッピーはしばしば明るく鮮やかな色を選び、[[ベルボトム]]、ベスト、しぼり染めの衣服、ダシキ(アフリカの民族衣装)、農民風のブラウス、長い丈のスカートなど、当時としては風変わりな服を着た。ネイティブアメリカン、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをモチーフとして使用した非西洋的な服飾文化にインスピレーションを受けたデザインも人気があった。ヒッピーの多くは、企業がつくる消費文化に反対して、手づくり、または古着を着た。
{{節スタブ}}
本家アメリカのヒッピー精神を引き継いだ一派は失敗して分裂し、長野県の[[八ヶ岳]]麓へと移転して村作りを行う一派が登場した<ref name="shibuya-kougengaku-pp131-132">[[深作光貞]]『新宿考現学』 pp.131-132 角川書店 1968年 [https://dl.ndl.go.jp/pid/3006217/1/71]</ref><ref>[https://www.aflo.com/ja/editorial-images/search?f_package_id=10585 日本の歴史 > 1960年代の出来事 > ヒッピー族(1960年代)] [[アフロ (企業)|アフロ]]</ref>。彼らが居着いた時間はわずか数年だったが、そんな町の歴史を振り返ろうと、富士見町高原のミュージアムで企画展「ヒッピーという生き方 部族降臨」が開かれてた<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASR4F6WYCR47UOOB00G.html |title=ヒッピーが小屋で暮らした富士見町 歴史ひもとく企画展 |access-date=2024年12月17日 |publisher=朝日新聞デジタル}}</ref>。
{{See also|ヒッピー#地名}}
=== 新宿のフーテン族 ===
ヒッピーの他に新宿周辺には[[フーテン]]族も現れた。1967年春頃に現れた新宿のフーテン族は昼間は[[新宿駅]]東口広場の芝生(馬の水飲み場、フーテン族側の呼称はグリーンハウス)に居たが、深夜は[[新宿二丁目]]の[[スナックバー (飲食店)|スナックバー]]に集まって睡眠薬の[[非バルビツール酸系|ハイミナール]]や眠気覚ましのカフェインを摂りながら黒人と共にモダンジャズを踊っていたとされる<ref name="tokyo-dayori-74-194-pp39-41">『東京だより (74)(194)』 pp.39-41 東京だより新社 1967年9月 [https://dl.ndl.go.jp/pid/1781365/1/21]</ref>。


同1967年には新宿のフーテン族から[[桜井啓子 (俳優)|桜井啓子]]が女優デビューしたものの、彼女はフーテン族の憧れにはならなかったとされる<ref name="tokyo-dayori-74-194-pp39-41"/>。同1967年9月には新宿駅東口広場の芝生への立ち入りが禁止された<ref>[https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=7389 駅東口広場でのフーテン対策] 新宿未来創造財団</ref>。
男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー、「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、だぼだぼなルーズフィットで反対した。


総理府青少年対策本部の『青少年白書 昭和44年版』によれば1968年の新宿において非行行為で補導されたフーテン少年は1,584人に上ったとされる<ref>『青少年白書 昭和44年版』 p.146 総理府青少年対策本部 1969年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3035281/1/86]</ref>。
また衣服の手づくりは自己肯定感を高め、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶していた<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。


=== その他のフーテン族 ===
== ラブ&セックス―アメリカのセックス革命 ==
また新宿以外にもフーテン族は登場した。総理府青少年対策本部の『青少年白書 1968年版』によれば非行行為で補導されたフーテン少年は全国で1,479人、うち東京では904人、大阪では325人、名古屋では126人、福岡では89人、神戸では22人、京都では13人に上ったとされる<ref>『青少年白書 1968年版』 p.317 総理府青少年対策本部 1968年 [https://dl.ndl.go.jp/pid/3038997/1/177]</ref>。
ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは、「フリー・セックスを好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちはセックス革命を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは平和のためのベッド・イン、ラブ・インで、反戦平和を主張した。
1966年、研究チーム「マスターアンドジョンソン(Masters and Johnson<ref>{{Cite journal|date=2018-08-06|title=Masters and Johnson|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Masters_and_Johnson&oldid=853767377|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」によってセックスの臨床研究「ヒューマン・セックス・レスポンス(Human Sexual Response<ref>{{Cite journal|date=2018-08-23|title=Human sexual response cycle|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Human_sexual_response_cycle&oldid=856154905|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」が出版された。しばらくの小康状態をへて、1969年、精神科医デビット・ルーベン(David Reuben<ref>{{Cite journal|date=2017-10-17|title=David Reuben (author)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=David_Reuben_(author)&oldid=805747600|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。
1972年には、イギリス人科学者アレックス・コンフォート(Alex Comfort)によるセックス・マニュアル「性のよろこび―The Joy of Sex<ref>{{Cite journal|date=2018-08-13|title=The Joy of Sex|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Joy_of_Sex&oldid=854809425|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらくまえから進行中だった。


自ら[[神戸市]]のフーテンであったと自称する作家の[[中島らも]]は「ヒッピーとフーテンは違う<ref name="ramo">中島らも『異人伝』(講談社文庫)pp.77-78</ref>」と述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し「フーテンは思想がないんよ。[[ラリる|ラリってる]]だけやん<ref name="ramo" />」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に「自由ほど不自由なものはないんだよ<ref name="ramo" />」と述べた。
ヒッピーたちは、[[ビート・ジェネレーション]]から性や愛情に関するさまざまなカウンターカルチャー的見識と実践を受け継いだ。ビートニクスの著述はヒッピーに影響をあたえ、より開かれたセックスをし、罪悪感や嫉妬の感情を減らそうと試みた。当時、登場したヒッピーのスローガンの1つは、「もしそれが気持ちが良ければ、それをやろう!」だった。それは多くの場合「あなたがうれしいときはいつでも、あなたが喜べる人とは誰とでも、自由に愛してもかまわない」という意だった。


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このスローガンは自発的な性行動やその実験をうながした。[[グループセックス]]、野外セックス、公共の場でのセックス、ドラッグを服用しての[[同性愛]]、それ以前にはタブーだったさまざまなセックスの実験がおこなわれた。彼らはストレートなセックスや一夫一婦制を認めないわけではなかった。 むしろそれを認めていながらも、オープンな恋愛関係はヒッピーのライフスタイルに受け入れられた。
同時に、[[モッズ]]のリバイバル、[[スキンヘッド|スキンヘッズ]]、テディーボーイズ、[[ゴシック・ロック|ゴシック]](ゴス)などの新しい若者文化が登場して、センセーショナルな話題を振りまいた。アシッド・ロックは、[[プログレッシブ・ロック]]、[[ヘヴィメタル]]、[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]、[[パンク・ロック]]にまでつながった。ヒッピーの理想は、パンクの[[アナキズム]]やそののちの若者のサブカルチャー、特に「[[セカンド・サマー・オブ・ラブ]]」に大きな影響をあたえた。
ヒッピー運動の理想を生きようとしたヒッピー・コミューンは社会の流れとは別のところで少しづつ豊かになった。西海岸[[オレゴン州]]にはかなりの数のコミューンに住む人々がおり、幾人かは消え去り、幾人かはまだかたちをかえながらもコミューン生活を続けている。多くのヒッピーは長期的なライフスタイルへと取組んだが、ヒッピーは1980年代に売り切れになり、物質主義的消費文化の一部となったと主張する人もいる。実際、ヒッピーの文化は一度もきちんと人々の目に見えていなかったが、ヒッピーやネオヒッピーは大学のキャンパス、コミューン、集会や祭りで見かけることがある。その多くは、平和、愛、そして地域社会の価値観に適応している。もしかするとヒッピーは世界中のボヘミアンの養護施設でも見つかるのかもしれない。20世紀の終わりに向かって、1960年代のサイケデリックなカウンターカルチャーの特質の幾つかを取り入れた「サイバーヒッピー」の傾向が浮かび上がった。ヒッピー・サブカルチャーはインドの[[ゴア州]]から生まれた[[サイケデリックトランス|サイケデリック・トランス]]にもリンクしている。
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=== 創作への影響 ===
一人の主要パートナーと恋愛関係をもつことができるが、別の異性の存在が彼、彼女を引きつけた場合、彼、彼女は暴力や嫉妬になやまされることなく、べつの恋愛関係を探求することがゆるされた。つまり「フリーセックス」と「フリ―ラブ」(性愛の自由)である。
{{節スタブ}}
1967年には[[月刊漫画ガロ]]に新宿のフーテン族を漫画化した[[永島慎二]]『フーテン』が登場した。1968年には岡部道男により新宿を舞台としたアングラ映画『クレイジー・ラヴ』が作られた<ref>『映画評論 25(10)』 pp.84-88 新映画 1968年10月 [https://dl.ndl.go.jp/pid/2255965/1/43]</ref>。また同1968年には[[松竹]]から映画『日本ゲリラ時代』も登場した<ref>[https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/03789/ 日本ゲリラ時代] 松竹</ref>。


1979年には「地下鉄の新宿駅」でヒッピー娘と出会う[[村上春樹]]の小説『[[風の歌を聴け]]』が登場した<ref>米村みゆき「編年体による1970年夏の物語ーー村上春樹『風の歌を聴け』を読むーー」『名古屋近代文学研究 (11)』 p.42 名古屋近代文学研究会 1993年12月 [https://dl.ndl.go.jp/pid/7957468/1/23]</ref>。
ヒッピーは、以下のような、古い時代の急進的な社会改革者が唱えた「FREE LOVE<ref>{{Cite journal|date=2018-08-25|title=Free love|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Free_love&oldid=856423785|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>―[[自由恋愛主義]]」のスローガンを受け入れていた<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。 <blockquote>'''「自由な愛がすべての愛をつくる。恋愛、結婚、セックス、出産のパッケージは時代遅れのものとなった。愛はもはや一人だけに限られたものではなく、あなたはあなた自身が選んだ人を愛することができる。実際、愛はセックスパートナーだけとのものではなく、だれとでも分けあうことができるものだ」'''</blockquote>


== ==
== ヒッピーの特徴 ==
サンフランシスコのヒッピー文化の前身である[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]はコーヒーハウスやバーに集い、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまで[[グレイトフル・デッド]]のマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire<ref>{{Cite web|url=http://www.dead.net/features/jon-mcintire/jon-mcintire-1941-2012|title=Jon McIntire 1941 - 2012 {{!}} Grateful Dead|accessdate=2018-09-17|website=www.dead.net|language=en}}</ref>)はヒッピー文化の大きな貢献は'''「よろこびの表現」'''だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く冷たかった。
ヒッピーは旅好きだった。お金、ホテルの予約、その他の旅行の必需品を持っていくかどうかはあまり心配せず、気ままに旅をした。彼らはファミリーネットワークをもっており、突然の一晩宿泊客を歓迎したので、さまざまな場所への自由な移動が可能となり、お互いのニーズを満たすために協力しあった。このような生活様式は、レインボーファミリー([http://fairehistory.org/index.html Rainbow Family])グループ、ニューエイジ・トラベラー、そしてニュージーランドの「ハウス・トラッカー(移動住宅生活者)たちのあいだでは今でも見られる。
[[ファイル:1983 Bedford J5 house truck (36778520823).jpg|サムネイル|ハウストラッカー。住居が移動できる。]]
この「フリー&フロー(Free&Float)」なスタイルでの旅行は、一部のヒッピーたちのトラックとバスに派生した。1974年に出版された「Roll Your Own: Complete Guide to Living in a Truck, Bus, Van or Camper」に記述されているように、彼らは遊牧民(ノマド)的な生活習慣を実践するため、トラックやバスの車体を手作りの「移動住宅」に改造した。これらの移動住宅の中には、ベッド、トイレ、シャワー、調理設備を備えた非常に凝ったものもあった。


'''ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。'''
西海岸では、フィリリスとロン・パターソン(Phyllis and Ron Patterson)が1963年に組織したルネッサンス・フェア―ズ(the Renaissance Faires<ref>{{Cite web|url=http://fairehistory.org/index.html|title=Welcome to Faire History - the Origins of Pleasure Faire|accessdate=2018-09-17|website=fairehistory.org}}</ref>)で独自のライフスタイルが生まれた。夏と秋のあいだは家族全員が移動住宅トラックとバスで一緒に旅し、カリフォルニア南部と北部の開催地につどい、1週間ものあいだ工芸品を製作、週末はエリザベス風のコスチュームを着用してパフォーマンスに参加、それから会場のブースにて製作したハンドメイドの工芸品を売った。多くの若者たちはこれまでにない特別なハプニングを体験した。このライフスタイルのピークは、1969年8月15日から18日にかけて、ニューヨークのベテル近郊の[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストックフェスティバル]]で、40万〜50万人が集まった。


初期には、その彩り豊かなファッションを通じて互いを認識し、その個性を尊重し合った。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずに表し、社会の硬さ-スクエアから距離をおいて利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力という価値を重んじた。
=== ヒッピーの道 ===
1969年から1971年の間に数十万人のヒッピーがおこなった旅行は、「[[ヒッピー・トレイル]](ヒッピーの道)」と言われた。ほとんど荷物を持たず、少額の現金で、だいたいみんな同じルートをたどった。ヨーロッパを越えてアテネとイスタンブールに行き、つぎにトルコの中心部からエルズルムを経由して列車で、バスでイランへ、タブリーズ経由で、テヘランからマシュハドへ、アフガニスタンとヘラート、南アフガニスタンからカンダハル経由、カブール経由、キーバー・パス経由でパキスタンへ、ラワルピンディとラホール経由でインドのフロンティアに到着した。インドでは、ヒッピーは多くの異なる目的地へいったが、トリヴァンドラム(ケーララ州)のゴアとコバラムのビーチに大量に集まったり、国境を越えたネパールのカトマンズで数ヶ月過ごしたりした。カトマンズでは、ほとんどのヒッピーたちがカトマンズ・ダルバール広場の近くにまだ存在するフリーク・ストリート(Freak Street)という静かな環境の中で時を過ごした<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。


警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンの[[フランク・ザッパ|フランクザッパ]]は、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ」と聴衆に述べた。
== 精神と宗教 ==
多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた[[仏教]]、[[ヒンドゥー教|ヒンズー教]]、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。
[[ファイル:Neopaganism symbol.svg|サムネイル|[[ネオペイガニズム]](復興異教主義)のシンボルである五芒星。日本の漫画やアニメでもよく登場するおなじみのシンボルでもある。]]
なんにんかのヒッピーは[[ネオ・ペイガニズム]](復興異教主義)、特に多神教的魔女崇拝の一派「[[ウイッカ]]」を信仰していた。ハーバード大学教授の心理学者[[ティモシー・リアリー]]は、オカルティストの[[アレイスター・クロウリー|アリスター・クローリー]]をヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。


== アート ==
1991年、宗教学者ティモシー・ミラー(Timothy Mille<ref>{{Cite journal|date=2018-05-04|title=Timothy Miller|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Timothy_Miller&oldid=839599859|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」のなかで、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教とおなじように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めをおこなうための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。
1960年代の{{仮リンク|サイケデリック・アート運動|en|Psychedelic art}}の主役は、{{仮リンク|リック・グリフィン|en|Rick Griffin}}、{{仮リンク|ビクター・モスコソ|en|Victor Moscoso}}、{{仮リンク|ボニー・マクリーン|en|Bonnie MacLean}}、{{仮リンク|スタンリー・マウス&アルトン・ケリー|en|Stanley Mouse|Stanley Mouse & Alton Kelley}}、そして{{仮リンク|ウェス・ウィルソン|en|Wes Wilson}}など、サンフランシスコのポスターアーティストだった。彼らのロック・コンサートのポスターは[[アール・ヌーヴォー]]、[[ヴィクトリア朝|ヴィクトリアン]]様式の美術(ビアズレーなど)、[[ダダイスム]]や[[ポップアート]]からインスピレーションをうけていた。フィルモア・ウェストのコンサート・ポスターはもっとも注目された。鮮やかなコントラスト、華やかなレタリング、強く対称な構図、コラージュ要素、歪み、ちょっと奇妙な画像、豊かな色彩などがその特徴で、このスタイルはおよそ1966年から1972年の間人気を保った。
[[ファイル:Anterior view of Cadillac ranch.jpg|thumb|200px|right|[[アマリロ (テキサス州)|アマリロ]]にある{{ill2|アント・ファーム (group)|en|Ant Farm (group)|label =アント・ファーム}}の[[インスタレーション]]作品「{{ill2|キャディラック・ランチ|en|Cadillac Ranch}}」]]
彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気を醸しだした。


また「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。{{仮リンク|ザップ・コミックス|en|Zap Comix}}はそのオリジナルのひとつであり、[[ロバート・クラム]]、{{仮リンク|S・クライ・ウィルソン|en|S. Clay Wilson}}、ビクター・モスコソ、{{仮リンク|リック・グリフィン|en|Rick Griffin}}、{{仮リンク|ロバート・ウィリアムス (芸術家)|label=ロバート・ウィリアムス|en|Robert Williams (artist)}}らの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。{{仮リンク|ギルバート・シェルトン|en|Gilbert Shelton}}の『{{仮リンク|ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ|en|The Fabulous Furry Freak Brothers}}』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。
「ヒッピーの旅(The Hippie Trip<ref>{{Cite web|url=https://www.iuniverse.com/bookstore/bookdetail.aspx?bookid=SKU-000002257|title=The Hippie Trip|accessdate=2018-09-17|website=www.iuniverse.com}}</ref>)」の著者ルイス・ヤブロンスキー ([[:de:Lewis_Yablonsky|Lewis Yablonsky]])は、ヒッピーたちのあいだでもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学のステファン・ガスキン([[:en:Stephen_Gaskin|Stephen Gaskin]])教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまでふくらみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えからみちびきだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1,500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。


彼らに先行する[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]、すぐ後につづいた[[パンク・ロック]]のように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「'''浮浪者スタイル'''」の反映だった。男も女もジーンズを履き、どちらも長髪だった。サンダルは、やがて裸足へと移行した。スティーヴ・ジョブズも大学生時代は裸足だったという。男性はひげを生やすことが多く、女性は化粧をほとんど、もしくはまったくせず、ノーブラジャー。ほかの白人中産階級のムーブメントと同じようにヒッピーたちは時代の「男女差」に挑戦し、[[ユニセックス]]だった。ヒゲをはやした若者も多かった。ボトムはゆるい[[ベルボトム]]なのが、この時代のスタンダードだった。
[[ティモシー・リアリー]]はアメリカの[[ハーバード大学]]の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、LSDを「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「スピリチュアル・ディスカバリー同盟(League for Spiritual Discovery<ref>{{Cite journal|date=2018-05-27|title=League for Spiritual Discovery|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=League_for_Spiritual_Discovery&oldid=843260068|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>(LSD))」を設立した。信仰の自由にもとづいてLSDや他のドラッグを瞑想などにもちいるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、[[ビートルズ]]のアルバム「[[リボルバー (アルバム)|リボルバー]]」のジョンレノンの曲「[[トゥモロー・ネバー・ノウズ]]」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「[[ヒューマン・ビー・イン]]」に招待され、そこで有名な「ターンオン、チューンイン、ドロップアウト―Turn on,Tune in,Drop out<ref>{{Cite journal|date=2018-08-20|title=Turn on, tune in, drop out|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Turn_on,_tune_in,_drop_out&oldid=855666266|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」というフレーズを唱えた。


ヒッピーはしばしば明るく鮮やかな色を選び、ベルボトム、ベスト、しぼり染めの衣服、ダシキ(アフリカの民族衣装)、農民風のブラウス、長い丈のスカートなど、当時としては風変わりな服を着た。ネイティブアメリカン、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをモチーフとして使用した非西洋的な服飾文化にインスピレーションを受けたデザインも人気があった。ヒッピーの多くは、企業がつくる消費文化に反対して、手づくり、または古着を着た。
英国のオカルティスト、悪魔崇拝の[[アレイスター・クロウリー|アリスター・クローリー]]は、およそ10年ものあいだロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム「[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]」のカバースリーブの登場人物の一人として彼をえらんだ。1970年代のハードロック・バンド、[[レッド・ツェッペリン|レッドツェッペリン]]もクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、[[ドアーズ]]もコンピレーションアルバム「13」の裏表紙で[[ジム・モリソン|ジム・モリスン]]や他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。


男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、ルーズフィットで反対した。
== ヒッピー時代の思想家 ==
* ティモシー・リアリー
[[ティモシー・リアリー]]は60年代の若者に強い影響力を持っていた。カリフォルニア州知事選挙に立候補を表明したこともある。[[ジョン・レノン]]が作曲した[[ビートルズ]]の曲「カム・トゥゲザー」は、リアリーの選挙キャンペーンのために書かれた曲だが、結局、リアリーは選挙に出馬することができなかった。
* ラルフ・ネーダー
[[ラルフ・ネーダー]]は[[環境問題]]や消費者の権利保護運動のリーダーで思想家だった。ヒッピー運動が終わった後も活動を続け、独立系や緑の党の候補として、複数回大統領選挙に出馬している。なお、60年代の若者対象の世論調査で、ティモシー・リアリーやラルフ・ネーダーはベスト10に入ったが、マルクーゼやローザックがベスト10に入ることはなかった。


また衣服の手づくりは、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶した。
* ヘルベルト・マルクーゼ
ユダヤ系ドイツ人のヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse<ref>{{Cite journal|date=2018-09-21|title=Herbert Marcuse|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Herbert_Marcuse&oldid=860618441|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は1934年ナチス台頭によって、アメリカへの亡命を余儀なくされた。ドイツで[[フランクフルト学派]]だったマルクーゼはニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとり、資本主義分析と批判を展開し、「エロス的文明」(1955)、「[[一次元的人間]]」(1964)などの著書を出版した。彼の思想は、現代工業社会は人間の「[[リビドー]]」や欲望の昇華、性的な本能を低下させ、それらを身体性の残りの部分として鋳型にいれてしまっている。人間の原始的なエロス、欲望や本能、身体性を取りもどさなくてはならないというものである。なお、マルクーゼが影響を与えたのは新左翼であって、ヒッピーに対する影響は小さい。60年代にマルクーゼに影響を受けた人物にはアンジェラ・デイヴィス、アビー・ホフマン、ノーム・チョムスキーらがいた。彼の考えは「セックス革命」と、欧米のカウンターカルチャーに影響をあたえた。


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* セオドア・ローザック
== セックス革命
シカゴで1933年に生まれた歴史学者[[セオドア・ローザック]](Theodore Roszak<ref>{{Cite journal|date=2018-08-01|title=Theodore Roszak (scholar)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Theodore_Roszak_(scholar)&oldid=852956594|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は「[[カウンターカルチャー|カウンター・カルチャー]]」の名づけ親となった。1969年、「カウンターカルチャーの誕生- The making of Counter culture<ref>{{Cite journal|date=2017-08-11|title=The Making of a Counter Culture|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Making_of_a_Counter_Culture&oldid=795087380|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」を出版した。この本でローザックは若者がおかれている状況、伝統的なセックス観にしばられた状況などを分析した。さらに「サイケデリック体験」はちがった意識を「行動の冒険」によって具体化させるものだとし、LSDなどの幻覚剤はこの目的にたいして有用であると考えた。彼は平和主義者、反ベトナム戦争、環境運動、セックス革命などそれまで散在していた多様なグループが、カウンターカルチャーのなかで合流していることを分析し、指摘した。若者は、「平和」や「正義」や「自由」の議論をするために大学のキャンパスを占拠し、上から下のコントロールを否定し、これが「カウンターカルチャー」となった<ref>{{Cite journal|author=Fernando Cohnen|year=2018|title=Nace una sociedad más libre|journal=muy HISTORIA|volume=|page=}}</ref>。
1966年、研究チーム「{{仮リンク|マスターズ・アンド・ジョンソン|en|Masters and Johnson}}」によってセックスの臨床研究 "[[:en:Human sexual response cycle|Human Sexual Response]]" が出版された。しばらくの小康状態を経て、1969年、精神科医{{仮リンク|デビット・ルーベン|en|David Reuben (author)}}が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。
1972年には、イギリス人科学者[[アレックス・カンフォート]](Alex Comfort)によるセックス・マニュアル『[[ジョイ・オブ・セックス]]』が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらく前から進行中だった。


ヒッピーたちは、[[ビート・ジェネレーション]]から性や愛情に関するさまざまなカウンターカルチャー的見識と実践を受け継いだ。ビートニクスの著述はヒッピーに影響をあたえ、より開かれたセックスをし、罪悪感や嫉妬の感情を減らそうと試みた。当時、登場したヒッピーのスローガンの1つは「もしそれが気持ちが良ければ、それをやろう!」だった。それは多くの場合「あなたがうれしいときはいつでも、あなたが喜べる人とは誰とでも、自由に愛しても構わない」という意だった。このスローガンは自発的な性行動やその実験を促した。[[グループセックス]]、野外セックス、公共の場でのセックス、ドラッグを服用しての[[同性愛]]、それ以前にはタブーだった様々なセックスの実験が行われた。彼らはストレートなセックスや一夫一婦制を認めない訳ではなかった。 むしろそれを認めていながらも、オープンな恋愛関係はヒッピーのライフスタイルに受け入れられた。
== ユートピア社会主義としてのヒッピー ==
フランスの歴史家ロナルド・クレア(Ronald Creagh<ref>{{Cite journal|date=2018-02-18|title=Ronald Creagh|url=https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ronald_Creagh&oldid=145613158|journal=Wikipédia|language=fr}}</ref>)はヒッピー運動を「[[ユートピア]]社会主義」の最後の壮大な復活と考えた。


一人の主要パートナーと恋愛関係をもつことができるが、別の異性の存在が一方を引きつけた場合、一方は暴力や嫉妬に悩まされることなく、別の恋愛関係を探求することが許された。つまり「フリーセックス」と「フリーラブ」(性愛の自由)である。ヒッピーは以下の様な古い時代の急進的な社会改革者が唱えた「[[自由恋愛主義]]」のスローガンを受け入れていた。 「自由な愛がすべての愛をつくる。恋愛、結婚、セックス、出産のパッケージは時代遅れのものとなった。愛はもはや一人だけに限られたものではなく、あなたはあなた自身が選んだ人を愛することができる。実際、愛はセックスパートナーだけとのものではなく、だれとでも分けあうことができるものだ」
クレアはヒッピーの特徴を、これまでのような「政治的な革命」や「国によって推し進められた改革の行動」ではなく、現行のシステムのなかで、社会主義的な人格がカウンターカルチャーのクリエーションをつうじて「社会の変容」を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会のなかで理想的なコミュニティをつくりあげようとする欲求だとした{{efn2|これは1968年のフランスの[[五月革命]]と同様の精神(68年精神)であり、いわゆる「男性型」のハードな革命ではなく、「女性型のソフトな変容、ソフトな革命としてとらえるべきなのだろう。}}。
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== 旅 ==
ヒッピーは旅を好む傾向にあった。お金、ホテルの予約、その他の旅行の必需品を持っていくかどうかはあまり心配せず気ままに旅をした。彼らはファミリーネットワークをもっており、突然の一晩宿泊客を歓迎したので、さまざまな場所への自由な移動が可能となり、お互いのニーズを満たすために協力しあった。このような生活様式は、{{仮リンク|レインボー・ファミリー|en|Rainbow Family}}グループ、ニューエイジ・トラベラー、そしてニュージーランドの「ハウス・トラッカー(移動住宅生活者)達の間では今でも見られる。
[[ファイル:1983 Bedford J5 house truck (36778520823).jpg|サムネイル|ハウストラッカー。住居が移動できる。]]
この「フリー&フロー(Free&Float)」なスタイルでの旅行は、一部のヒッピーたちのトラックとバスに派生した。1974年に出版された「Roll Your Own: Complete Guide to Living in a Truck, Bus, Van or Camper」に記述されているように、彼らは遊牧民(ノマド)的な生活習慣を実践するため、トラックやバスの車体を手作りの「移動住宅」に改造した。これらの移動住宅の中には、ベッド、トイレ、シャワー、調理設備を備えた非常に凝ったものもあった。


西海岸では、フィリリス・パターソンと{{仮リンク|ロン・パターソン|en|Ron Patterson}}が1963年に組織した{{仮リンク|ルネッサンス・フェア|en|Renaissance fair}}で独自のライフスタイルが生まれた。夏と秋の間は家族全員が移動住宅トラックとバスで一緒に旅し、カリフォルニア南部と北部の開催地につどい、1週間もの間工芸品を製作、週末はエリザベス風のコスチュームを着用してパフォーマンスに参加、それから会場のブースにて製作したハンドメイドの工芸品を売った。多くの若者たちはこれまでにない特別なハプニングを体験した。このライフスタイルのピークは、1969年8月15日から18日にかけて、ニューヨークのベテル近郊の[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストックフェスティバル]]で、40万〜50万人が集まった。
[[ファイル:GermanyPeaceSymbol.jpg|サムネイル|ピースマーク。ピースマークはもともと核軍縮のキャンペーンのロゴだったが、それをベトナム反戦デモの参加者が使用して、世界に広まるようになった。今日では「世界平和」を願うシンボルのひとつでもある。]]
1969年から1971年の間に数十万人のヒッピーがした旅行は「[[ヒッピー・トレイル]](ヒッピーの道)」と言われた。ほぼ荷物を持たず、少額の現金で、だいたい皆同じルートを辿った。ヨーロッパを越えてアテネとイスタンブールに行き、次にトルコの中心部からエルズルムを経由して列車で、バスでイランへ、タブリーズ経由で、テヘランからマシュハドへ、アフガニスタンとヘラート、南アフガニスタンからカンダハル経由、カブール経由、キーバー・パス経由でパキスタンへ、ラワルピンディとラホール経由でインドのフロンティアに到着した。インドでは、ヒッピーは多くの異なる目的地へいったが、トリヴァンドラム(ケーララ州)のゴアとコバラムのビーチに大量に集まったり、国境を越えたネパールのカトマンズで数ヶ月過ごしたりした。カトマンズでは、ほとんどのヒッピーたちがカトマンズ・ダルバール広場の近くにまだ存在するフリーク・ストリート(Freak Street)という静かな環境の中で時を過ごした。
「ピースマーク」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちのあいだでポピュラーになった。ヒッピーはたいていは平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」([[:en:Youth_International_Party|Youth International Party]])にいたるまで幅広かった。
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== 思想と宗教 ==
公民権運動のリーダーでありブラックパンサ―の共同設立者[[ボビー・シール]]([[:en:Bobby_Seale|Bobby Seale]])はイッピーズのリーダーのひとり[[ジェリー・ルービン]](Jerry Rubin)とイッピーとヒッピーの違いを議論した。ルービンは、ヒッピーがまだ政治的になる必要性を感じていないので、イッピーズがヒッピームーブメントの「政治的な翼」だとし、ヒッピーの政治活動に関して、「彼らの多くは「石」を選択するが「平和」をのぞんでおり、この選択をおわらせたい思っている」と述べた。非暴力的政治デモにくわえて、ヒッピーのベトナム戦争への反対には、戦争に反対する政治的なグループの組織化、軍隊ではたらくこと、ベトナムの歴史とより大きな戦争の政治的背景を大学キャンパスで教えることなどの「拒否」がふくまれていた。
多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた[[仏教]]、[[ヒンドゥー教]]、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。


英国のオカルティスト、悪魔崇拝者の[[アレイスター・クロウリー]]は、およそ10年もの間ロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (代表的なトピック)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』のカバースリーブの登場人物の一人として彼を選んだ。1970年代のハードロック・バンド、[[レッド・ツェッペリン]]もクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、[[ドアーズ]]もコンピレーション・アルバム『13』の裏表紙で[[ジム・モリソン]]や他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。ハーバード大学教授の心理学者[[ティモシー・リアリー]]は、オカルティストの[[アレイスター・クロウリー]]をヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。
1967年の、[[スコット・マッケンジー]]の歌う「サンフランシスコ([[花のサンフランシスコ]])」はそれ以降にサンフランシスコへ帰国したヴェトナム戦ベテラン兵士たちの帰国歌となった。マッケンジーはベトナムの退役軍人に「サンフランシスコ」という、逆転した意味でのアメリカ市民の思いを捧げ、2002年にはベトナム退役軍人記念館の献辞20周年を祝った。 ヒッピーの政治的表現は、しばしば彼らがもとめていた変化を実行するために、社会的な「ドロップアウト」のかたちを見せた。


1991年、宗教学者{{仮リンク|ティモシー・ミラー|en|Timothy Miller}}はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」の中で、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教と同じように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めを行うための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。
ヒッピーに動機づけられ、ささえられた政治運動は、1960年代のバック・トゥ・ザ・ランド―Back to the land movement<ref>{{Cite journal|date=2018-08-09|title=Back-to-the-land movement|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Back-to-the-land_movement&oldid=854117149|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>(農村回帰)運動への企業協力、代替エネルギー、自由出版運動、有機農業などだった。ディガーズ(Diggers<ref>{{Cite journal|date=2018-09-08|title=Diggers|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Diggers&oldid=858578046|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)として知られるサンフランシスコのグループは、現代の大衆消費社会へラジカルな批判をくわえた。株式をすて、無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、お金を払って、無料の音楽コンサートを組織したり、政治芸術のパフォーマンスをおこなった。彼らは、中世英国のディガーズ(Diggers(1649-50))からその名を借りて、'''お金と資本主義のない「小さな社会」を創造しようとした。'''


「ヒッピーの旅(The Hippie Trip)」の著者{{仮リンク|ルイス・ヤブロンスキー|de|Lewis Yablonsky}}は、ヒッピーたちの間でもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学の{{仮リンク|スティーヴン・ガスキン|en|Stephen_Gaskin}}教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまで膨らみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えから導きだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。
これらの運動は、反権力主義的で非暴力的な手段によっておこなわれた。 観察者は「ヒッピーは独自のやり方で、彼らの「平和、愛、自由」という目標に辛辣で抑圧的な階層や権力構造に対抗した。彼らは自分たちの信念を他に強制することはなく、かわりに自分たちの信念を通じて世界をかえようとしたのだ」と言う。


[[ティモシー・リアリー]]はアメリカの[[ハーバード大学]]の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、[[LSD (薬物)|ドラッグのLSD]]を「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「{{仮リンク|スピリチュアル・ディスカバリー同盟|en|League for Spiritual Discovery}}」(略称LSD)」を設立した。信仰の自由に基づいてLSDや他のドラッグを瞑想等にも用いるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、[[ビートルズ]]のアルバム『[[リボルバー (アルバム)|リボルバー]]』に収録の「[[トゥモロー・ネバー・ノウズ (代表的なトピック)|トゥモロー・ネバー・ノウズ]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「[[ヒューマン・ビー・イン]]」に招待され、そこで有名な「[[Turn on, tune in, drop out]]」というフレーズを唱えた。
ヒッピーの政治的理想は、アナルコ・パンク、[[レイヴ]]や[[ニューレイヴ]]・カルチャー、エコロジー政治、[[大麻|マリファナ]]文化、[[ニューエイジ|ニュー・エイジ]]ムーブメントなどに影響をあたえた。実際、アナルコ・パンクバンド、[[クラス (バンド)|クラス]]のリーダー、ペニー・ランボー(Patny Rimbaud<ref>{{Cite journal|date=2018-09-05|title=Penny Rimbaud|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Penny_Rimbaud&oldid=858253235|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)はインタビューやエッセーのなかで、自らを「最後のヒッピー」と呼んでいる。クラスは1967年にコミューンとして設立されたダイアル・ハウスにそのルーツをもっていた。
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は、およそ10年もの間ロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (代表的なトピック)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]] 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。』のカバースリーブの登場人物の一人として彼を選んだ。1970年代のハードロック・バンド、[[レッド・ツェッペリン]]もクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、[[ドアーズ]]もコンピレーション・アルバム『13』の裏表紙で[[ジム・モリソン]]や他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。
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* [[ティモシー・リアリー]]は60年代の若者に強い影響力を持っていた。カリフォルニア州知事選挙に立候補を表明したこともある。[[ジョン・レノン]]が作曲した[[ビートルズ]]の曲「[[カム・トゥゲザー]]」は、リアリーの選挙キャンペーンのために書かれた曲だが、結局、リアリーは選挙に出馬することができなかった。
* [[ラルフ・ネーダー]]は[[環境問題]]や消費者の権利保護運動のリーダーで思想家だった。ヒッピー運動が終わった後も活動を続け、独立系や緑の党の候補として、複数回大統領選挙に出馬している。なお、60年代の若者対象の世論調査で、ティモシー・リアリーやラルフ・ネーダーはベスト10に入ったが、マルクーゼやローザックがベスト10に入ることはなかった。
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ユダヤ系ドイツ人の[[ヘルベルト・マルクーゼ]]は1934年ナチス台頭によって、アメリカへの亡命を余儀なくされた。ドイツで[[フランクフルト学派]]だったマルクーゼはニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとり、資本主義分析と批判を展開し「エロス的文明」(1955)「[[一次元的人間]]」(1964)などの著書を出版した。彼の思想は、現代工業社会は人間の「[[リビドー]]」や欲望の昇華、性的な本能を低下させ、それらを身体性の残りの部分として鋳型にいれてしまっている。人間の原始的なエロス、欲望や本能、身体性を取りもどさなくてはならないというものである。なお、マルクーゼが影響を与えたのは新左翼であって、ヒッピーに対する影響は小さい。60年代にマルクーゼから影響を受けた人物にはアンジェラ・デイヴィス、アビー・ホフマン、ノーム・チョムスキーらがいた。彼の考えは「セックス革命」と、欧米のカウンターカルチャーに影響をあたえ
なんにんかのパンクスは、ヒッピーの動きに関係していた[[クラス (バンド)|クラス]]に批判的だった。クラスのようにヒッピーに影響をうけた[[デッド・ケネディーズ]]の[[ジェロ・ビアフラ]](Jello Biafra<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Jello Biafra|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Jello_Biafra&oldid=857434614|journal=Wikipedia|language=en}}</ref> )はヒッピーに批判的な歌をかいたが、実際、彼の政治的行動と思想に大きな影響を与えたといわれている<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。
シカゴで1933年に生まれた歴史学者[[セオドア・ローザック]]は「[[カウンターカルチャー]]」の名付親となった。1969年、書籍 「[[:en:The Making of a Counter Culture|The Making of a Counter Culture]]」を出版した。この本で彼は若者がおかれている状況、伝統的なセックス観に縛られた状況などを分析した。更に「サイケデリック体験」は違った意識を「行動の冒険」によって具体化させるものであるとし、LSDなどの幻覚剤はこの目的に対して有用であると考えた。彼は平和主義者、反ベトナム戦争、環境運動、セックス革命などそれまで散在していた多様なグループが、カウンターカルチャーの中で合流していることを分析し、指摘した。若者は「平和」「正義」「自由」の議論をするために大学のキャンパスを占拠し、上から下のコントロールを否定し、これが「カウンターカルチャー」となった。-->
 
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== 政治 ==
フランスの歴史家{{仮リンク|ロナルド・クレア|en|Ronald Creagh}}はヒッピー運動を「[[ユートピア]]社会主義」の最後の壮大な復活と考えた。


クレアはヒッピーの特徴を、これまでのような「政治的な革命」や「国によって推し進められた改革の行動」ではなく、現行のシステムの中で、社会主義的な人格がカウンターカルチャーのクリエーションをつうじて「社会の変容」を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会の中で理想的なコミュニティを作り上げようとする欲求だとしたはイッピーズのリーダーの一人[[ジェリー・ルービン]]とイッピーとヒッピーの違いを議論した。ルービンは、ヒッピーがまだ政治的になる必要性を感じていないので、イッピーズがヒッピームーブメントの「政治的な翼」だとし、ヒッピーの政治活動に関して「彼らの多くは「石」を選択するが「平和」を望んでおり、この選択を終わらせたい思っている」と述べた。非暴力的政治デモにくわえて、ヒッピーのベトナム戦争への反対には、戦争に反対する政治的なグループの組織化、軍隊で働くこと、ベトナムの歴史とより大きな戦争の政治的背景を大学キャンパスで教えることなどの「拒否」が含まれていた。
== ドラッグ ==
[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]につづいて、多くのヒッピーは[[大麻]](マリファナ)を使用し、「楽しく良性」であると考えた。彼らは魂の薬学として[[ペヨーテ]]や[[LSD (薬物)|LSD]]、サイロシビンキノコ、DMT([[ジメチルトリプタミン]])などの幻覚剤に使用を拡大し、しばしばアルコールを放棄した。
[[ファイル:Marijuana and pipe.jpg|サムネイル|乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好するいっぽうで、しばしばアルコール類を摂取しなかった。]]
ハーバード大学の教授[[ティモシー・リアリー]](Timothy Leary<ref>{{Cite journal|date=2018-09-08|title=Timothy Leary|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Timothy_Leary&oldid=858679858|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、[[ラルフ・メツナー|ラルフ・メッツナー]](Ralph Metzner<ref>{{Cite journal|date=2018-07-18|title=Ralph Metzner|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ralph_Metzner&oldid=850863791|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、リチャード・アルパート(Ram Dass<ref>{{Cite journal|date=2018-09-10|title=Ram Dass|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ram_Dass&oldid=858987629|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。


1967年の、[[スコット・マッケンジー]]の歌う「サンフランシスコ([[花のサンフランシスコ]])」はそれ以降にサンフランシスコへ帰国したヴェトナム戦ベテラン兵士たちの帰国歌となった。マッケンジーはベトナムの退役軍人に「サンフランシスコ」という、逆転した意味でのアメリカ市民の思いを捧げ、2002年にはベトナム退役軍人記念館の献辞20周年を祝った。 ヒッピーの政治的表現は、しばしば彼らがもとめていた変化を実行するために、社会的な「ドロップアウト」のかたちを見せた。
西海岸では、作家の[[ケン・キージー|ケン・キ―ジ―]](Ken Kesey<ref>{{Cite journal|date=2018-09-12|title=Ken Kesey|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ken_Kesey&oldid=859255550|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)がLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」とよんでいた。キージーはサイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ|メリー・プランクスター]]」とともにアメリカ大陸をツアーしメディアの注目をあつめ、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。[[グレイトフル・デッド]](元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は、「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。彼らは「世界を変えるビジョン」を持っていた。[[コカイン]]、[[アンフェタミン]]、[[ヘロイン]]などのより効果のきついハードドラッグが使用されることもあった。しかし、これらの薬物は有害で中毒性が強かったため、ヒッピーのあいだではしばしば蔑まれていた。
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== それから―より多様な社会へ向かって ==
ヒッピーに動機づけられ、支えられた政治運動は、1960年代の{{仮リンク|バック・トゥ・ザ・ランド|label=バック・トゥ・ザ・ランド(農村回帰)運動|en|Back-to-the-land movement}}への企業協力、代替エネルギー、自由出版運動、有機農業などだった。{{仮リンク|ディガーズ|en|Diggers (theater)}}として知られるサンフランシスコのグループは、現代の大衆消費社会へラジカルな批判をくわえた。株式をすて、無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、お金を払って、無料の音楽コンサートを組織したり、政治芸術のパフォーマンスをした。彼らは、中世英国の[[真正水平派]](Diggers)からその名を借りて、'''お金と資本主義のない「小さな社会」を創造しようとした'''。
現在では、一般にすべての年齢の未婚のカップルは、社会的に批難されることなく、自由に一緒に旅行し、一緒に生活することができる。カジュアル・セックスはより一般的になり、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちの権利や自分をある枠のなかだけに分類しないことを選択する人々が増えた。宗教的、および文化的な多様性がより受け入れられるようになった。


これらの運動は、反権力主義的で非暴力的な手段によって行われた。 観察者は「ヒッピーは独自のやり方で、彼らの「平和、愛、自由」という目標に辛辣で抑圧的な階層や権力構造に対抗した。彼らは自分たちの信念を他に強制することはなく、代わりに自分たちの信念を通じて世界をかえようとしたのだ」と言う。
協力的な企業や創造的な地域生活の取りきめも以前よりも受け入れられている。 1960年代と1970年代に小さかったヒッピーの自然食品店の中には、[[ヴィーガニズム]]、薬草、サプリメントなどの栄養補助食品への関心が高まっている現在、大規模で収益性の高い企業になった店もある。 1960年代と1970年代のカウンターカルチャーはある種の「グルーヴィー」な科学技術を取り入れた。例としては、サーフボードの設計、再生可能エネルギー、水産養殖、および助産師、出産、女性の健康などのクライアント中心のアプローチがあげられる。作家[[スチュアート・ブランド|スチュワート・ブランド]]とジョン・マルコフ(John Markoff )は、パーソナルコンピュータとインターネットの発展と普及のなかに、ヒッピー文化によって促進された反権力主義の精神を見つけだすことができると主張している。
[[ファイル:Alessandro Michele for Gucci.jpg|サムネイル|ファッションブランドGUCCIのデザイナー、[[:en:Alessandro_Michele|アレッサンドロ・ミケーレ]]。ロン毛はヒッピー以前ではかなり珍しかったが、現在ではバンドマンをはじめとして、一般化されたスタイルとなっている。]]
彩り鮮やかな外見と服装もまたヒッピーからのじかの影響のひとつだ。 1960年代から1970年代にかけて、綿毛、ひげ、長い髪の毛(ロン毛)がひろまってゆき、服装はよりカラフルとなり、いろいろな民族服がファッション界を席巻した。そのとき以来、ヌードをふくむ、より幅のある個性があらわれ、多様な選択肢と衣服のスタイルがよりひろく受け入れられるようになった。それらすべてはヒッピー時代以前は珍しいものだった。ヒッピーはまた、1950年代から1960年代初頭にかけて男性にとって避けがたいネクタイなどのビジネス衣料品の人気を低下させた。さらに、ヒッピーのファッションそのものは、1960年代から衣服やアクセサリー、とりわけ「平和のシンボル」として長年にわたって普及してきた。


ヒッピーの政治的理想は、アナルコ・パンク、[[レイヴ]]や[[ニューレイヴ]]・カルチャー、エコロジー政治、[[大麻|マリファナ]]文化、[[ニューエイジ|ニュー・エイジ]]ムーブメントなどに影響を与えた。実際、アナルコ・パンクバンド、[[クラス (バンド)|クラス]]のリーダー、{{仮リンク|ペニー・ランボー|en|Penny Rimbaud}}はインタビューやエッセーのなかで、自らを「最後のヒッピー」と呼んでいる。クラスは1967年にコミューンとして設立されたダイアル・ハウスにそのルーツをもっていた。一部のパンクスは、ヒッピーの動きに関係していた[[クラス (バンド)|クラス]]に批判的だった。クラスのようにヒッピーに影響をうけた[[デッド・ケネディーズ]]の[[ジェロ・ビアフラ]]はヒッピーに批判的な歌を作ったが、実際彼の政治的行動と思想に大きな影響を与えたといわれている。
[[占星術]]は真剣な研究から個人的な性格に関する気まぐれな娯楽までヒッピーの文化にとってなくてはならないものだった。 1970年代の世代は、ヒッピーと60年代のカウンターカルチャーから影響をうけた。ニューヨークのミュージシャンや観客は、女性、同性愛者、黒人、そしてラテン系のコミュニティにいたるまで、こぞってヒッピーとサイケデリックのいくつかの特色を採った。それらには爆音、フリースタイルな踊り、奇妙な照明、カラフルな衣装、そして幻覚剤が含まれていた。[http://www.mossfad.jp/soul/Alb_ChambersB_Time.html チャンバーブラザーズ](Chambers Brothers<ref>{{Cite journal|date=2018-08-11|title=The Chambers Brothers|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Chambers_Brothers&oldid=854517018|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)やとくに[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン|スライ&ザ・ファミリーストーン]](Sly&The Family Stone<ref>{{Cite journal|date=2018-08-05|title=Sly and the Family Stone|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Sly_and_the_Family_Stone&oldid=853477188|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)のようなサイケデリック・スピリットのグループは、[[アイザック・ヘイズ]](Isaac Hayes<ref>{{Cite journal|date=2018-08-25|title=Isaac Hayes|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Isaac_Hayes&oldid=856539221|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、[http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/15692 ウィリー・ハッチ](Willie Hutch<ref>{{Cite journal|date=2018-08-07|title=Willie Hutch|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Willie_Hutch&oldid=853911988|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、[[フィラデルフィア・ソウル]](Philadelphia Soul<ref>{{Cite journal|date=2018-06-19|title=Philadelphia soul|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Philadelphia_soul&oldid=846536573|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)のようなオリジナル・ディスコ・ムーブメントに影響を与えた。さらに、ヒッピーの皮肉のないポジティブさや熱心さは、[[MFSB|M.F.S.B]].のアルバム「Love Is the Message<ref>{{Cite journal|date=2018-05-12|title=Love Is the Message (album)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Love_Is_the_Message_(album)&oldid=840908440|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」のような原ディスコ音楽をかたちづくった。
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文学におけるヒッピーの遺産には、[[ケン・キージー|ケン・キ―ジ―]]の「Electric Kool-Aid Acid Test<ref>{{Cite journal|date=2018-08-13|title=The Electric Kool-Aid Acid Test|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Electric_Kool-Aid_Acid_Test&oldid=854797967|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」のようなヒッピー体験を反映した長く人気を保つ本がふくまれる。音楽ではヒッピーの中でも人気のあるフォーク・ロックやサイケデリック・ロックは、[[ACID ROCK|アシッドロック]]、[[ワールドミュージック|ワールド・ビート]]のようなジャンルに進化した。サイケデリック・トランスは、1960年代のサイケデリック・ロックの影響を受けた電子音楽の一種だ。ヒッピー音楽フェスの伝統は1965年のケン・キ―ジ―の「アシッド・テスト」にはじまった。グレイトフル・デッドはLSDのトリッピングを体験して、サイケデリックなジャミングをはじめた。その後数十年間、多くのヒッピーやニューヒッピーがデッドヘッズ(デッドの熱狂的ファン)コミュニティの一員となり、米国全土の音楽フェスや芸術フェスに参加した。グレイトフルデッドは、1965年から1995年のあいだ、ほとんど中断することなく連続してツアーをおこなった。ロックバンド、[[フィッシュ (バンド)|フィッシュ]](Phish)とそのファン(フィッシーヘッドともよばれる)は、1983年から2004年のあいだに同じように連続してバンドをツアーしてまわった。ヒッピーフェスティバルで演奏する現在のバンドは、1960年代のオリジナルのヒッピーバンドによく似た長いインストを演奏するので、いわゆる「ジャムバンド」とよばれている。
== ドラッグ
[[ファイル:Marijuana and pipe.jpg|サムネイル|乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好する一方で、アルコール類を摂取しない者もいた。]]
ハーバード大学の教授[[ティモシー・リアリー]]、[[ラルフ・メツナー]]、{{仮リンク|ラム・ダス|label=ラム・ダスことリチャード・アルパート|en|Ram Dass}}らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。


西海岸では、作家の[[ケン・キージー]]がLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」と呼んでいた。キージーはサイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ|メリー・プランクスター]]」と共にアメリカ大陸をツアーしメディアの注目を集め、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。[[グレイトフル・デッド]](元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。彼らは「世界を変えるビジョン」を持っていた。[[コカイン]]、[[アンフェタミン]]、[[ヘロイン]]などのより効果のきついハードドラッグが使用されることもあった。しかし、これらの薬物は有害で中毒性が強かったため、ヒッピーの間ではしばしば蔑まれていた。
グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめてしまったこと{{efn2|グレイトフル・デッドはバンドのギターリストでカウンターカルチャーの象徴的な存在だったジェリー・ガルシアが1995年に死去したこと、フィッシュは2004年に突然の解散を宣言したことによる。}}によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりをみせている。いちばん大きなものは、2002年にはじまった「[[ボナルー・フェスティバル|ボナルー・ミュージック&アーツ・フェスティバル]] {{efn2|テネシー州で毎年おこなわれている野外フェス。日本からは2004年に「東京スカパラダイスオーケストラ」が参加している。}}(Bonnaroo Music & Arts Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-09-06|title=Bonnaroo Music Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Bonnaroo_Music_Festival&oldid=858316215|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」である。「[http://cozcomuwka.kazuw.com/?eid=76 オレゴン・カントリー・フェア](Oregon Country Fair<ref>{{Cite journal|date=2018-08-05|title=Oregon Country Fair|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Oregon_Country_Fair&oldid=853542339|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。1981年に創設され、毎年開催される「スターウッドフェスティバル(Starwood Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-06-25|title=Starwood Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Starwood_Festival&oldid=847476799|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」は、メインではない宗教や世界観を探求し、ヒッピーのスピリチュアルな探求を表現する7日間にわたるイベントであり、様々なヒッピーやカウンターカルチャーについての公演や授業を提供している。
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[[ファイル:Burning Man 2013 )( DVSROSS (9660833400).jpg|サムネイル|2013年のバーニングマンフェスティバル。砂漠でおこなわれる現代のヒッピーたちがつどうオルタナティブ文化の祭典であり、LGBTも多く参加している。]]


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「[[バーニングマン]](Burning Man<ref>{{Cite journal|date=2018-09-10|title=Burning Man|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Burning_Man&oldid=858966644|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」は1986年にサンフランシスコのビーチパーティーで始まり、ネバダ州リノの北東に位置するブラックロック砂漠で開催されている。バーニングマンはヒッピーフェスそのものではないが、ヒッピーの初期イベントと同じ精神でオルタネイティブ・コミュニティーの現代的な表現をしている。この集会は、入念な区画、ディスプレイ、デコラティブな車などからなる一時的な街(2005年には36,500人、2011年には50,000人)になった。大勢の参加者があつまる他のイベントには[[レインボーギャザリング|レインボー・ギャザリング]](Rainbow Family Gatherings<ref>{{Cite journal|date=2018-09-12|title=Rainbow Gathering|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Rainbow_Gathering&oldid=859174266|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)ザ・ギャザリング・オブ・ザ・バイブス(The Gathering of the Vibes<ref>{{Cite journal|date=2018-08-01|title=Gathering of the Vibes|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Gathering_of_the_Vibes&oldid=852916663|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、平和フェスティバル、復活したウッドストックフェスティバルなどがある。
== それから
現在では、一般にすべての年齢の未婚のカップルは、社会的に批難されることなく、自由に一緒に旅行し、一緒に生活することができる。カジュアル・セックスはより一般的になり、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人の権利や自分をある枠の中だけに分類しないことを選択する人々が増えた。宗教的、および文化的な多様性がより受け入れられるようになった。


協力的な企業や創造的な地域生活の取り決めも以前よりも受け入れられている。 1960年代と1970年代に小さかったヒッピーの自然食品店の中には、[[ヴィーガニズム]]、薬草、サプリメントなどの栄養補助食品への関心が高まっている現在、大規模で収益性の高い企業になった店もある。 1960年代と1970年代のカウンターカルチャーはある種の「グルーヴィー」な科学技術を取り入れた。例としては、サーフボードの設計、再生可能エネルギー、水産養殖、及び助産師、出産、女性の健康などのクライアント中心のアプローチがあげられる。作家[[スチュアート・ブランド]]と{{仮リンク|ジョン・マルコフ|en|John Markoff}}は、パーソナルコンピュータとインターネットの発展と普及のなかに、ヒッピー文化によって促進された反権力主義の精神を見つけだすことができると主張している。
英国では、そとからはヒッピーとして見られている多くの「ニュー・エイジ・トラベラー」がおり、彼らは彼らは自身のことを「平和コンボイ(the Peace Convoy<ref>{{Cite journal|date=2018-06-01|title=New Age travellers|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=New_Age_travellers&oldid=843991223|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」とよんでいる。彼らは1974年に「ストーンヘンジ・フリーフェスティバル」をはじめたが、1985年に自然環境保護機関である[[イングリッシュ・ヘリテッジ]]はフェスティバルを禁止し、「ビーンフィールドの戦い( the Battle of the Beanfield)<ref>{{Cite journal|date=2018-06-21|title=Battle of the Beanfield|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Battle_of_the_Beanfield&oldid=846818305|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」がおきた。現在では[[ストーンヘンジ]]は祭りの場として禁止されており、毎年[[グラストンベリー・フェスティバル|グラストンベリ・フェスティバル]](Glastonbury Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-09-10|title=Glastonbury Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Glastonbury_Festival&oldid=858842828|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)で新しい時代の旅行者があつまる。今日、イギリスのヒッピーは各地域に散っているが、夏になると田舎の野外フェスにあつまる。


彩り鮮やかな外見と服装もまたヒッピーからの直の影響の一つである。 1960年代から1970年代にかけて、綿毛、ひげ、長い髪の毛が広まり、服装はより鮮やかになり、色々な民族服がファッション界を席巻した。そのとき以来、より幅のある個性が現れ、多様な選択肢と衣服のスタイルがより広く受け入れられるようになった。それらすべてはヒッピー時代以前は珍しいものだった。ヒッピーはまた、1950年代から1960年代初頭にかけて男性にとって避けがたいネクタイなどのビジネス衣料品の人気を低下させた。更にヒッピーのファッションそのものは、1960年代から衣服やアクセサリー、とりわけ平和のシンボルとして長年にわたって普及してきた。
ニュージーランドでは、1976年から1981年にかけて、ワイヒとワイキーの周辺の大規模な農場でひらかれたフェスティバルに数万人のヒッピーがあつまった。「ナンバサ」と名付けられたこのフェスティバル(Nambassa festival<ref>{{Cite journal|date=2018-06-22|title=Nambassa|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Nambassa&oldid=847074126|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は、「平和」、「愛」、「バランスの取れたライフスタイル」に焦点を当てている。フェスと同時に、オルタネイティブなライフスタイル、自給自足、清潔で持続可能なエネルギーと持続可能な生活を提唱する実践的なワークショップと展示がおこなわれた。


[[占星術]]は真剣な研究から個人的な性格に関する気まぐれな娯楽までヒッピーの文化にとってなくてはならないものだった。 1970年代の世代は、ヒッピーと60年代のカウンターカルチャーから影響を受けた。ニューヨークのミュージシャンや観客は、女性、同性愛者、黒人、そしてラテン系のコミュニティにいたるまで、挙ってヒッピーとサイケデリックのいくつかの特色を採った。それらには爆音、フリースタイルな踊り、奇妙な照明、カラフルな衣装、そして幻覚剤が含まれていた。{{仮リンク|チェンバース・ブラザーズ|en|The Chambers Brothers}}や特に[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]のようなサイケデリック・スピリットのグループは、のようなオリジナル・ディスコ・ムーブメントに影響を与えた。さらに、ヒッピーの皮肉のないポジティブさや熱心さはのアルバム「[[:en:Love Is the Message (MFSB album)|Love Is the Message]]」のような原ディスコ音楽をかたちづくった。
英国とヨーロッパでは1987年から1989年のあいだ、かつてのヒッピームーブメントが大規模に復活した。このムーブメントは、主に18歳から25歳の人々で構成され、「愛、平和、自由」という初期ヒッピーの理想をたたえた。 1988年の夏は「[[セカンド・サマー・オブ・ラブ]]( the Second Summer of Love)」として知られた。その音楽は現代のエレクトロニックミュージック、特に[[ハウス (音楽)|ハウスミュージック]]と[[アシッド・ハウス|アシッドハウス]]だったが、[[レイブ (音楽)|レイブ]]の「[[チルアウト|チル・アウトルーム]]」ではオリジナルヒッピー時代の曲を聞くことができた。


文学におけるヒッピーの遺産には、[[ケン・キージー]]の「[[:en:The Electric Kool-Aid Acid Test|Electric Kool-Aid Acid Test]]」のようなヒッピー体験を反映した長く人気を保つ本が含まれる。音楽ではヒッピーの中でも人気のあるフォーク・ロックやサイケデリック・ロックは、[[ACID ROCK|アシッドロック]]、[[ワールドビート]]のようなジャンルに進化した。サイケデリック・トランスは、1960年代のサイケデリック・ロックの影響を受けた電子音楽の一種である。ヒッピー音楽フェスの伝統は1965年のケン・キージーの「アシッド・テスト」に始まった。グレイトフル・デッドはLSDのトリッピングを体験して、サイケデリックなジャミングを始めた。その後数十年間、多くのヒッピーやニューヒッピーがデッドヘッズ(デッドの熱狂的ファン)コミュニティの一員となり、米国全土の音楽フェスや芸術フェスに参加した。グレイトフルデッドは、1965年から1995年の間、ほとんど中断することなく連続してツアーを行った。ロックバンド、[[フィッシュ (バンド)|フィッシュ]](Phish)とそのファン(フィッシーヘッドとも)は、1983年から2004年の間に同じように連続してバンドをツアーして回った。ヒッピーフェスティバルで演奏する現在のバンドは、1960年代のオリジナルのヒッピーバンドによく似た長いインストを演奏するので「ジャムバンド」と呼ばれている。
2002年、フォトジャーナリストのジョン・バセット・マクレリー(John Bassett McCleary)は、650ページの6,000項目もの省略されていないスラング辞書「ヒッピー辞書(The Hippie Dictionary<ref>{{Cite web|url=http://www.hippiedictionary.com/|title=The Hippie Dictionary, about the 60s and 70s|accessdate=2018-09-18|website=www.hippiedictionary.com|language=en}}</ref>)」を出版した。これは1960年代から1970年代の文化的百科事典でもある。この本は改訂され、2004年に700ページに拡大された。マクレリーは、ヒッピーの言葉の多くはビート・ジェネレーションにその源をもち、それをみじかくして使用法を普及させることによって、英語にかなりの数の単語を追加したと考えている<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。
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== 50年後のウッドストック ==
グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめたこと「{{仮リンク|オレゴン・カントリー・フェア|en|Oregon Country Fair}}」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。1981年に創設され、毎年開催される「{{仮リンク|スターウッドフェスティバル|en|Starwood Festival}}」は、メインではない宗教や世界観を探求し、ヒッピーのスピリチュアルな探求を表現する7日間にわたるイベントであり、様々なヒッピーやカウンターカルチャーについての公演や授業を提供している。
1969年のウッドストックフェスティバルから50年後の2019年、ウッドストックのオーガナイザーのひとりはメモリアルフェスティバルを企画した。しかし、医療体制や食や水の問題、さらには米国内で頻発する大量銃撃事件に関連して、会場探しが難航し、結局中止となった。1960年代の牧歌的なヒッピーの夢はより暴力的な傾向を強める社会状況という現実に直面せざるをえない状況になっている。
[[ファイル:Burning Man 2013 )( DVSROSS (9660833400).jpg|サムネイル|2013年のバーニングマンフェスティバル。砂漠で行われる現代のヒッピーたちが集うオルタナティブ文化の祭典であり、LGBTも多く参加している。]]


「[[バーニングマン]]」は1986年にサンフランシスコのビーチパーティーで始まり、ネバダ州リノの北東に位置するブラックロック砂漠で開催されている。バーニングマンはヒッピーフェスそのものではないが、ヒッピーの初期イベントと同じ精神でオルタネイティブ・コミュニティーの現代的な表現をしている。この集会は、入念な区画、ディスプレイ、デコラティブな車などからなる一時的な街(2005年には36,500人、2011年には50,000人)になった。大勢の参加者が集まる他のイベントには[[レインボーギャザリング]]の「{{仮リンク|ギャザリング・オブ・ザ・バイブス|en|Gathering of the Vibes}}」、平和フェスティバル、復活したウッドストックフェスティバルなどがある。
長年警備にたずさわってきたニューヨーク市警の元巡査部長は社会構造の変化にともない、フェスティバルのユートピア感覚は失われ、「60年代を知る人々が、同じ経験をすることはもうないだろう」と述べた<ref>{{Cite web|title=相次ぐ銃乱射に苦しむ米国、ウッドストック再来は望み薄|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3239825|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-08-17|language=ja}}</ref>。


英国では、外からはヒッピーとして見られている多くの「{{仮リンク|ニュー・エイジ・トラベラー|en|New Age travellers}}」がおり、彼らは自身のことを「平和コンボイ([[:en:New Age travellers#Peace Convoy|Peace Convoy]])」と呼んでいる。彼らは1974年に「ストーンヘンジ・フリーフェスティバル」をはじめたが、1985年に自然環境保護機関である[[イングリッシュ・ヘリテッジ]]はフェスティバルを禁止し、「{{仮リンク|ビーンフィールドの戦い|en|Battle of the Beanfield}}」と呼ばれる暴動事件がおきた。現在では[[ストーンヘンジ]]は祭りの場として禁止されており、毎年[[グラストンベリー・フェスティバル]]で新しい時代の旅行者が集まる。今日、イギリスのヒッピーは各地域に散っているが、夏になると田舎の野外フェスに集まる。
== 日本のヒッピー ==
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ニュージーランドでは、1976年から1981年にかけて、ワイヒとワイキーの周辺の大規模な農場で開かれたフェスティバルに数万人のヒッピーが集まった。「{{仮リンク|ナンバサ|en|Nambassa}}」と名付けられたこのフェスティバルは「平和」「愛」「バランスの取れたライフスタイル」に焦点を当てている。フェスと同時に、オルタネイティブなライフスタイル、自給自足、清潔で持続可能なエネルギーと持続可能な生活を提唱する実践的なワークショップと展示がされた。英国と西ヨーロッパでは1987年からの数年間、かつてのヒッピームーブメントが大規模に復活した。このムーブメントは、主に18歳から25歳の人々で構成され「愛、平和、自由」という初期ヒッピーの理想を称えた。 1988年の夏は「[[セカンド・サマー・オブ・ラブ]]」として知られた。
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== ヒッピースタイルファッション ==
<gallery widths="200" heights="200">
File:Hippie Sister (37972352).jpeg|2007年
File:Topless at the Eugene Celebrations.jpg|2007年
File:FrenchHippie.jpg|2008年
File:Los Angeles I love haert on Venice beach.jpg|2012年
File:Hippies, Riviera Villas, San Diego, California.jpg|2013年
</gallery>


== 関連項目 ==
1960年代後半の[[日本]]においては、オリジナルのヒッピーという呼び名のほかに、新宿を中心に呼ばれた「[[瘋癲|フーテン]]」という呼称もあった。
{{関連項目過剰|date=2023年12月}}

ただし、自らフーテンであったと自称する作家の[[中島らも]]は、「ヒッピーとフーテンは違う<ref name="ramo">中島らも『異人伝』(講談社文庫)pp.77-78</ref>」との自説を述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し、「フーテンは思想がないんよ。[[ラリる|ラリっ]]てるだけやん<ref name="ramo" />」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に、「自由ほど不自由なものはないんだよ<ref name="ramo" />」と述べ、ヒッピーの思想自体に懐疑的な立場を表明している。

== ヒッピームーブメントに関連する項目 ==
[[ファイル:RNC 04 protest 42.jpg|thumb|200px|right|Hippie]]
[[ファイル:RNC 04 protest 42.jpg|thumb|200px|right|Hippie]]
* [[ヒップ (スラング)]]、[[スクウェア]]
* [[1960年代のカウンターカルチャー]]
* [[フラワーチルドレン]]
* [[五月危機|五月革命]]
* [[ブラック・パンサー党]]
* イッピーズ([[:en:Youth International Party|Youth International Party]])
* [[ヤッピー]] (1980年代の拝金主義者)

=== 地名 ===
=== 地名 ===
; 北米
; 北米
* [[ニューヨーク]] [[グリニッジ・ヴィレッジ]]
* [[ニューヨーク]] [[グリニッジ・ヴィレッジ]]
* [[カリフォルニア]](アメリカ西海岸) - 現在でもヒッピーが多い。
* [[カリフォルニア]](アメリカ西海岸)
** [[サンフランシスコ]] - 米国におけるヒッピームーブメントの中心地。
** [[サンフランシスコ]] - 米国におけるヒッピームーブメントの中心地。
*** [[ヘイト・アシュベリー]]([[:en:Haight-Ashbury|Haight-Ashbury]]) - 1960年代にヒッピーが多く集まった街。
*** {{仮リンク|ヘイト・アシュベリー|en|Haight-Ashbury}} - 1960年代にヒッピーが多く集まった街。
; ヨーロッパ
; ヨーロッパ
* [[アムステルダム]](オランダ)
* [[アムステルダム]](オランダ)
* [[イビサ]](スペイン、地中海ぶ島)
* [[イビサ]](スペイン)有名なヒッピーの拠点。カブールとってわる状況。
* [[コペンハーゲン]](デンマーク) - ヨーロッパ最大のヒッピーによる無政府主義国家[[クリスティアニア]]がある。
* [[コペンハーゲン]](デンマーク) - ヨーロッパ最大のヒッピーによる無政府主義国家[[クリスチャニア (コペンハーゲン)|クリスティアニア]]がある。
; オセアニア
; オセアニア
* [[バイロンベイ]]([[:en:Byron Bay|Byron Bay]]) (オーストラリア東海岸)
* [[バイロンベイ]]([[:en:Byron Bay|Byron Bay]]) (オーストラリア東海岸)
; アジア(日本以外)
; アジア
* [[カトマンズ]](ネパール) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ。
* [[カーブル]](カブール、アフガニスタン) - ヒッピー三大聖地の一つ。治安悪化でイビサ島にとってかわられる傾向も
* [[カーブル]](アフガニスタン) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ。
* [[カトマンズ]](ネパール) - ヒッピー三大聖地の一つ。
* [[ゴア州|ゴア]](インド西海岸) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ、[[バックパッカー]]の沈没地、[[レイブ (音楽)|レイヴ]]、[[ゴアトランス]]でも有名。
* [[ゴア州|ゴア]](インド西海岸) - ヒッピー三大聖地の一つ、[[レイブ (音楽)|レイヴ]]、[[ゴアトランス]]でも有名。

* [[カオサン通り]](タイ) - 重慶大厦とおなじくバックパッカーの聖地として有名。
** [[パンガン島]] - [[Full Moon Party]]が行われ、ヒッピーの聖地とされている。
* [[重慶大厦]](香港) - バックパッカーの聖地として知られる。
; 日本
; 日本
* {{ruby|[[新宿]]|しんじゅく}}(日本) - 1960年代にヒッピーによく知られた[[喫茶店]][[風月堂 (東京都新宿区)|風月堂]]が新宿東口に存在した。
* [[長野県]][[諏訪郡]][[富士見町]] - 日本のヒッピー文化の発祥の地
* {{ruby|[[宇検村]]|うけんそん}}(鹿児島県) - 諏訪之瀬島に住んでいたヒッピーが1973年、東亜燃料工業(後の[[東燃ゼネラル石油]])による宇検村の技手久島の石油備蓄基地建設計画を知り、反対運動に加わるため作ったコミューン「[[無我利道場]]」が1989年まで存在した。
* [[新宿]] - 1960年代にヒッピーによく知られた[[喫茶店]][[風月堂 (東京都新宿区)|風月堂]]が新宿東口に存在した。
* {{ruby|[[京都市|京都]]|きょうと}}(日本) - [[ゲーリー・スナイダー]]ら欧米からのヒッピーが多く居住し、[[ほんやら洞 (喫茶店)|ほんやら洞]]、[[京都大学西部講堂]]、磔磔などヒッピー文化の本拠地が多くあった。
* [[国分寺市|国分寺]] - かつてヒッピーコミューンが存在し、「ほら貝」という店は国際的拠点でもあった。現在でもナチュラル系の店舗が多い。
* {{ruby|[[朽木村]]|くつきむら}}(滋賀県) - かつてヒッピーコミューンが存在し、2010年代でもかつてのヒッピー文化を彷彿とさせるイベントが開催されている。
* [[西荻窪]] - 短期間に終わった国分寺コミューンの崩壊後、ヒッピーらは主に中央線沿線各地に散らばっていった。その拠点のうちの一つに西荻窪の「ほびっと村」がある。
* {{ruby|[[諏訪之瀬島]]|すわのせじま}}(鹿児島県) - [[山尾三省]]、[[ななおさかき]]やゲーリー・スナイダーら、コミューン「部族」『がじゅまるの夢族』が集団移住し、1960年代末〜1970年代にヒッピーの拠点だった。
* [[滋賀県]][[高島郡 (滋賀県)|高島郡]][[朽木村]] - かつてヒッピーコミューンが存在し、2010年代の現在でもかつてのヒッピー文化を彷彿とさせるイベントが開催されている。
* {{ruby|[[富士見町]]|ふじみまち}}(長野県) - 日本のヒッピー文化の発祥の地、 山尾三省、ななおさかき らの部族『雷赤鴉族』が短期間コミューンを作っていた<ref>『[[スペクテイター (1999年創刊の雑誌)|スペクテイター]] vol.45 日本のヒッピー・ムーヴメント』2019年 197~199頁「日本のヒッピーのできごと史」参照</ref>。
* [[京都市|京都]] - [[ゲーリー・スナイダー]]ら欧米からのヒッピーが多く居住し、[[ほんやら洞 (喫茶店)|ほんやら洞]]、[[京都大学西部講堂]]、磔磔などヒッピー文化の本拠地が多くあった。
* [[鹿児島県]][[諏訪之瀬島]] - [[山尾三省]]、[[ななおさかき]]やゲーリー・スナイダーら、コミューン「部族」が集団移住し、1960年代末~1970年代にかけてヒッピーの聖地とされた。
* [[鹿児島県]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[宇検村]] - 諏訪之瀬島に住んでいたヒッピーが1973年、東亜燃料工業(後の[[東燃ゼネラル石油]])による宇検村の技手久島の石油備蓄基地建設計画を知り、反対運動に加わるため作ったコミューン「[[無我利道場]]」が1989年まで存在した。


=== 文化・芸術・思想・サブカルチャー ===
=== 文化・芸術・思想・サブカルチャー ===
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* [[カウンターカルチャー]]
* [[カウンターカルチャー]]
* [[ナチュラリズム]]、[[エコロジー]]、[[オルタナティブ]]
* [[ナチュラリズム]]、[[エコロジー]]、[[オルタナティブ]]
* [[ヒンドゥー教]]、[[東洋思想]]、[[瞑想]]、[[ヨーガ]]、[[ガイア仮説]]、[[シタール]]、[[ニューエイジ]]
* [[ヒンドゥー教]]、[[東洋思想]]、[[瞑想]]、[[ヨーガ]]、[[ガイア仮説]]、[[ニューエイジ]]
* [[サイケデリック]]、[[サイケデリック・ロック]]
* [[サイケデリック]]、[[サイケデリック・ロック]]、[[シタール]]
* [[ビート・ジェネレーション]](ビートニク)、[[デカダンス]]、[[レトロヌーボー]]
* [[ビート・ジェネレーション]](ビートニク)、[[デカダンス]]
* [[アンダーグラウンド (文化)]]
* [[アンダーグラウンド (文化)]]
* [[サマー・オブ・ラブ]]、[[フラワーチルドレン]]
* [[サマー・オブ・ラブ]]、[[フラワーチルドレン]]
* [[ゴアトランス]]
* [[ウッドストック・フェスティバル]]、[[モンタレー・ポップ・フェスティバル]]
* [[ウッドストック・フェスティバル]]、[[モンタレー・ポップ・フェスティバル]]
* [[前衛芸術]]、[[前衛音楽]]、[[前衛映画]]、[[前衛美術]]
* [[前衛芸術]]、[[前衛音楽]]、前衛映画、[[前衛美術]]
* [[自由恋愛主義]]、[[フリーセックス]]
* [[自由恋愛主義]]、[[フリーセックス]]
* [[ホームレス]]、[[ホーボー]]
* [[ホームレス]]、[[ホーボー]]
* [[ヴィーガニズム]]
* [[ヴィーガニズム]]
* [[吟遊詩人]]、[[ジプシー]]、[[ボヘミアン]]、[[ボヘミアニズム]]
* [[吟遊詩人]]、[[ジプシー]]、[[ボヘミアン]]、[[ボヘミアニズム]]
* [[フェミニズム]]、[[LGBT]]、[[ベジタリアン]]、[[菜食主義]]、[[有機農業]]、[[生協]]
* [[ウーマン・リヴ]]、[[LGBT]]、[[ベジタリアン]]、[[菜食主義]]、[[有機農業]]、[[生協]]
* [[ヒッピー・トレイル]]、[[バックパッカー]]、[[ヒッチハイク]]
* [[ヒッピー・トレイル]]、[[バックパッカー]]、[[ヒッチハイク]]
* [[ネオ・ヒッピー]]、[[トラヴェラー]]、[[レイブ (音楽)|レイヴ]]
* [[ネオ・ヒッピー]]、[[トラヴェラー]]、[[レイブ (音楽)|レイヴ]]
* [[ドラッグ]]、[[マリファナ]]
* [[ドラッグ]]、[[マリファナ]]
* [[快楽主義]]
* [[新左翼]]
* [[新左翼]]


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=== 人物・グループ(文化人、思想家) ===
=== 人物・グループ(文化人、思想家) ===
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この項目では、ヒッピーとして行動した人、ヒッピー・ムーブメントに関わったか、影響を受けた人々、グループを記述している。
この項目では、ヒッピーとして行動した人、ヒッピー・ムーブメントに関わったか、影響を受けた人々、グループを記述している。
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* [[アビー・ホフマン]] - 68年シカゴデモ
* [[アビー・ホフマン]] - 68年シカゴデモ
* [[アレイスター・クロウリー]]
* [[アレン・ギンズバーグ]] - 詩人
* [[アレン・ギンズバーグ]] - 詩人
* [[ウィリアム・バロウズ]]
* [[アンジェラ・デイヴィス]]
* [[アンジェラ・デイヴィス]]
* [[ウィリアム・バロウズ]]
* [[ウィリアム・ブレーク]]
* [[ウィリアム・ブレーク]]
* [[植草甚一]]
* [[ウォーレン・ベイティ]]
* [[ウォーレン・ベイティ]]
* [[大島渚]]
* [[オルダス・ハックスレー]]
* [[オルダス・ハックスレー]]
* [[ケン・キージー]] - 小説家
* [[ゲーリー・スナイダー]] - 禅ヒッピー
* [[ゲーリー・スナイダー]] - 禅ヒッピー
* [[ケン・キージー]] - 小説家
* [[今野雄二]]
* [[J・D・サリンジャー]] - 小説家
* [[J・D・サリンジャー]] - 小説家
* [[ジェリー・ルービン]] - 68年シカゴデモ
* [[ジェーン・フォンダ]] - ベトナム反戦運動に参加。
* [[ジェーン・フォンダ]] - ベトナム反戦運動に参加。
* [[ジェリー・ルービン]] - 68年シカゴデモ
* [[ジッドゥ・クリシュナムルティ]] - 俗にヒッピーたちの3大グルの一人(本人はグルであることを否定し、弟子や信奉者になることの危険性を説き続けた)
* [[ジッドゥ・クリシュナムルティ]] - 俗にヒッピーたちの3大グルの一人(本人はグルであることを否定し、弟子や信奉者になることの危険性を説き続けた)
* [[ジャック・ケルアック]] - 小説家
* [[ジャック・ケルアック]] - 小説家
* [[ジャン=リュック・ゴダール]]
* [[ジョージ・マクガバン]] - 民主党の反戦候補
* [[ジョージ・マクガバン]] - 民主党の反戦候補
* [[ジョン・シンクレア]] - 詩人。マリファナで逮捕され、ジョン・レノンらが解放を求めるコンサートを開いた。
* [[ジョン・シンクレア]] - 詩人。マリファナで逮捕され、ジョン・レノンらが解放を求めるコンサートを開いた。
* [[スティーブ・ジョブズ]] - [[Apple]]共同創業者
* [[ジャン=リュック・ゴダール|ジャン・リュック・ゴダール]]
* [[スティーブ・ジョブズ]] - [[アップル (企業)|アップル]]共同創業者
* [[ティモシー・リアリー]] - [[サイケデリック]]の教祖として知られる思想家、元大学教授)
* [[チャールズ・マンソン]] - '''ファミリー'''を組み殺人事件を起こしていった。[[シャロン・テート]][[殺人事件]]の主犯。
* [[チャールズ・マンソン]] - '''ファミリー'''を組み殺人事件を起こしていった。[[シャロン・テート]][[殺人事件]]の主犯。
* [[ティモシー・リアリー]] - [[サイケデリック]]の教祖として知られる思想家、元大学教授)
* [[デニス・ホッパー]] - 俳優。後に共和党員。
* [[デニス・ホッパー]] - 俳優。後に共和党員。
* [[寺山修司]]
* [[天井桟敷 (劇団)|天井桟敷]] - アングラ劇団の一つ。寺山修司が主宰した。
* [[ななおさかき]](ナナオサカキ)
* [[ニール・キャサディ]] - ビートニクスと交流
* [[ニール・キャサディ]] - ビートニクスと交流
* [[ピーター・フォンダ]] - 俳優。イージー・ライダーに出演。
* [[ピーター・フォンダ]] - 俳優。イージー・ライダーに出演。
* [[ベトナムに平和を!市民連合]]
* [[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]] - 俗にヒッピーたちの3大[[グル]]の一人
* [[ユージーン・マッカーシー]] - 民主党の反戦候補
* [[ラルフ・ネーダー]]
* [[寺山修司]]
* [[植草甚一]]
* [[大島渚]]
* [[若松孝二]]
* [[小田実]]
* [[今野雄二]]
* [[芹明香]] - アングラ劇団出身
* [[竹中労]]
* [[松田英子]] - 天井桟敷出身
* [[松田英子]] - 天井桟敷出身
* [[マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー]] - 俗にヒッピーたちの3大[[グル]]の一人
* [[山尾三省]](屋久島)
* [[山尾三省]](屋久島)
* [[ユージーン・マッカーシー]] - 民主党の反戦候補
* [[横尾忠則]]
* [[横尾忠則]]
* [[横山リエ]]
* [[横山リエ]]
* [[ラルフ・ネーダー]]
* [[天井桟敷 (劇団)|天井桟敷]] - アングラ劇団の一つ。寺山修司が主宰した。
* [[若松孝二]]
* [[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]
* [[ななおさかき]](ナナオサカキ)
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=== 人物・グループ(音楽) ===
=== 人物・グループ(音楽) ===
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* [[ジョン・レノン]]
* [[忌野清志郎]]
* {{ill2|インクレディブル・ストリング・バンド|en|The Incredible String Band}}
* [[ニール・ヤング]]
* [[遠藤賢司]]
* [[ジェリー・ガルシア]]
* [[岡林信康]]
* [[グレイトフル・デッド]](ヒッピー・バンド)
* [[インクレディブル・ストリング・バンド]](本物のヒッピー・バンド)
* [[オノ・ヨーコ]]
* [[オノ・ヨーコ]]
* [[加川良]]
* [[カントリー・ジョー&フィッシュ]]
* [[加藤和彦]]
* [[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サービス]]
* [[カルメンマキ]]
* {{ill2|カントリー・ジョー&フィッシュ|en|Country Joe and the Fish}}[[カントリー・ジョー・マクドナルド]]
* [[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス]]
* [[グレイトフル・デッド]]
* [[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング]]
* [[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング]]
* [[ゴング_(バンド)]]
* [[ゴング (バンド)]]
* [[ザ・ビートルズ]]
* [[ジェファーソン・エアプレイン]]
* [[ジェファーソン・エアプレイン]]
* [[ジェリー・ガルシア]]
* [[ジャニス・ジョプリン]]
* [[ジャニス・ジョプリン]]
* [[ジョージ・ハリスン]]
* [[ジョージ・ハリスン]]
* [[ジョニ・ミッチェル]]
* [[ジョニ・ミッチェル]]
* [[ジョン・セバスチャン]]
* {{ill2|ジョン・セバスチャン|en|John Sebastian}}
* [[ジョン・レノン]]
* [[スコット・マッケンジー]]
* [[スコット・マッケンジー]]
* [[頭脳警察]]
* [[デヴィッド・ピール]] - ジョン・レノンの友人
* [[高田渡]]
* {{ill2|デヴィッド・ピール|en|David Peel (musician)}} - ジョン・レノンの友人
* [[テンプターズ]]
* [[ドアーズ]]
* [[ドアーズ]]
* [[ドノヴァン]]
* [[ドノヴァン]]
* [[仲井戸麗市]]
* [[バフィー・セント・メリー]]
* [[ザ・ビ]]
* [[ール・ヤング]]
* [[ファグズ]]
* [[萩原健一]]
* {{ill2|バフィー・セント・メリー|en|Buffy Sainte-Marie}}
* [[ファッグス]]
* [[フォーク・クルセダーズ]]
* {{ill2|ホーリー・モーダル・ラウンダーズ|en|The Holy Modal Rounders}}
* [[ボブ・ディラン]]
* [[ボブ・ディラン]]
* [[ホーリー・モーダル・ラウンダーズ]]
* [[ママス・アンド・パパス]]
* [[ママス・アンド・パパス]]
* [[メラニー]]
* [[南正人]]
* [[メラニー]]{{要曖昧さ回避|date=2023年7月}}
* [[モビー・グレイプ]]
* [[モビー・グレープ]]
* [[ラヴィン・スプーンフル]]
* [[ラヴィン・スプーンフル]]
* [[ラヴ (バンド)|ラヴ]]
* [[ラヴ (バンド)|ラヴ]]
* [[萩原健一]]
* [[カルメンマキ]]
* [[南正人]]
* [[岡林信康]]
* [[遠藤賢司]]
* [[忌野清志郎]]
* [[加藤和彦]]
* [[加川良]]
* [[頭脳警察]]
* [[高田渡]]
* [[テンプターズ]]
* [[仲井戸麗市]]
* [[フォーク・クルセダーズ]]
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=== ヒッピーに関連する主な作品 ===
=== ヒッピーに関連する主な作品 ===
{{main|
; 映画
{{ill2|ヒッピーサブカルチャーに関連した映画のリスト|en|List of films related to the hippie subculture}}|{{ill2|ヒッピー サブカルチャーに関連する書籍と出版物のリスト|en|List of books and publications related to the hippie subculture}}}}
====映画====
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* [[処刑軍団ザップ]] 1970年
* [[イージー・ライダー]]
* [[いちご白書]]
* [[ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間]]
* [[ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間]]
* [[ウッドストックがやってくる!]]
* [[俺たちに明日はない]]
* [[俺たちに明日はない]]
* [[イージー・ライダー]]
* [[いちご白書]]
* [[砂丘 (映画)|砂丘]](ザブリスキー・ポイント)
* [[砂丘 (映画)|砂丘]](ザブリスキー・ポイント)
* {{ill2|ザ・ビッグ・キューブ|en|The Cubes Big}} 1969年
* [[モア (映画)|モア]]
* {{ill2|ラブイン|en|The Love-Ins}} 1967年
* [[白昼の幻想]](ザ・トリップ)1968年
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* {{ill2|ハルーシネイション・ジェネレーション|en|Hallucination Generation}} 1967年
* {{ill2|バングラデシュ救済コンサート|en|The Concert for Bangladesh (film)}}
* [[ヒッピーのはじまり]]
* {{ill2|ふたりだけの恋の島|it|Il sole nella pelle}}、イタリア映画。オルネラ・ムーティ主演。ヒッピーが登場
* [[フレンズ〜ポールとミシェル|フレンズ]]
* [[ヘアー (映画)|ヘアー]]
* [[マッシュ]]
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* [[モア (映画)|モア]]
* [[モントレー・ポップ・フェスティバル]]
* [[モントレー・ポップ・フェスティバル]]
* {{ill2|サンセット通りの暴動|en|Riot on Sunset Strip}} 1967年
* [[ラスト・ワルツ]]
* [[ハイドパーク・フリーコンサート|ローリング・ストーンズ・ハイドパーク・コンサート]]
* [[ワイト島音楽祭]]
* [[ワイト島音楽祭]]
* [[バニシング・ポイント (映画)|バニシング・ポイント]]
* [[白昼の幻想]](ザ・トリップ)1968年
* [[バングラデシュ救援コンサート]]
* [[フレンズ (1970年の映画)|フレンズ]]
* [[ふたりだけの恋の島]] - ヒッピーが登場
* [[ハルーシネイション・ジェネレーション]] 1967年
* [[ライオット・オン・サンセット・ストリップ]] 1967年
* [[ザ・ラブ・インズ]]67年
* [[Psych-Out]]68年
* [[ワイルド・イン・ザ・ストリーツ]] 1968年
* [[ワイルド・イン・ザ・ストリーツ]] 1968年
* {{ill2|Psych-Out|en|Psych-Out}} 1968年
* [[ザ・ビッグ・キューブ]]69年
* [[アイ・ドリンク・ユア・ブラッド]] 1970年
* [[ヘアー (映画)|ヘアー]]
* [[ローリング・ストーンズ・ハイドパーク・コンサート]]
* [[ラスト・ワルツ]]
* [[ウッドストックがやってくる!]]
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; 小説
====小説・詩集====
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* [[裸のランチ]]
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* [[吠える]]
* [[路上 (小説)|路上]]
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; 演劇
====演劇====
* [[ヘアー (ミュージカル)|ヘアー]]
* [[ヘアー (ミュージカル)|ヘアー]]
* オーカルカッタ
* {{ill2|オー!カルカッタ!|en|Oh! Calcutta!}}

=== 薬物 ===
{{Commonscat|Hippies|ヒッピー}}
* [[LSD (薬物)]]
* [[大麻]]
* [[カナビス・カップ]]
* [[シンナー#シンナー遊び|シンナー]]

== 関連項目 ==
* [[ヒップ (スラング)]]、[[スクウェア]]
* [[1960年代のカウンターカルチャー]]
* [[五月危機|五月革命]]
* イッピーズ([[:en:Youth_International_Party|Youth International Party]])
* [[ヤッピー]] (1980年代の拝金主義者)
* [[公民権運動]]


== 脚注 ==
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==外部リンク==
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* [https://www.pbs.org/wgbh/amex/love/ ''Summer of Love''] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170228115505/http://www.pbs.org/wgbh/amex/love/ |date=2017-02-28 }}. A film part of [[Public Broadcasting Service|PBS]]´s ''[[American Experience]]'' series. Includes the [https://www.pbs.org/wgbh/amex/love/program/love_01_wm_hi.html film available to watch online] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160305073603/http://www.pbs.org/wgbh/amex/love/program/love_01_wm_hi.html |date=2016-03-05 }} and other information on the San Francisco event known as the [[Summer of Love]] as well as other material related to the hippie subculture
* [http://archives.cbc.ca/society/youth/topics/580/ ''Hippie Society: The Youth Rebellion'']—A Canadian program by the [[Canadian Broadcasting Corporation|CBC]] public network on the hippie rebellion including videos to watch
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* [https://web.archive.org/web/20140308020415/http://www.sixtiespix.com/ Sixtiespix]
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2024年12月18日 (水) 11:49時点における最新版

ヒッピー: hippie, hippy)は、1960年代後半にアメリカ合衆国に登場した、旧来の価値観に対抗するカウンターカルチャー の一翼を担った若者を指す。その運動がヒッピー・ムーブメントである。

アーティストヴィトー・パウレカス英語版

概要

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ヒッピーの女性のヌード。保守的なキリスト教社会に対して、カウンターカルチャーであるヒッピー達は、ヌードや性の解放を主張し自由な社会へと変革した。
マジック・バスにしてサイケデリック・バス

同時代の観察記録である『ヒッピーのはじまり』[1] によれば、ヒッピー(HIPPY)という言葉は1966年ころのサンフランシスコヘイトアシュベリー英語版地区に住んでいた若者たちを指すものとして使われるようになった。

「HIP」とはその語源がたしかではない。1940年代アフリカ系アメリカ人の間で流行したジャイブを踊る若者のスラングとしても使用された。当時、HIPは「飛んでいる」という意でもちいられており、それを1950年代ビートニクが採用し、一般化するようになった。ヒッピーはビートニクスの言葉や価値観を引継いでいた。

作家ノーマン・メイラーは1961年4月27日付の雑誌『ヴィレッジ・ヴォイス』の記事「J・F・ケネディカストロへの公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーの中で、詩人ケネス・レックスロス英語版は「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフ英語版に参加している若者を指すのにつかった。マルコム・Xの1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は黒人より黒人らしく行動した特定のタイプの白人「ウィガー英語版」を表現するためにつかわれていた。 アンドリュー・ルーグ・オールダムは、1965年発表のローリング・ストーンズのLP『ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!』のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて「シカゴのヒッピーたち」と称した。

2005年のヒッピー

1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「ヒューマン・ビーイン」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「サマー・オブ・ラブ」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「ウッドストック・フェスティバル」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「ワイト島フェスティバル」、チリでは「ピエドラ・ロハ・フェスティバル英語版」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち(ヒピテカス英語版)はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル[2] につどった。 1973年、オーストラリアでは東部の田舎町ニンビン英語版で「アクエリアス・フェスティバル英語版」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、キャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「ナンバサ・フェスティバル英語版」(1976年-1981年)を催し、オルタナティブライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。

1970年、南米チリで行われたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石のフェスティバル」の意。北米のみならず、南米でもヒッピー文化は広まった。

こうした北米南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れの象徴となった。

アメリカにおいて、ヒッピーの一部はベトナム戦争徴兵制に反対し、そのため主流社会の軍事的覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や原子爆弾への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的な軍事力による暴力やホロコーストなどに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、自然平和セックス自由巡礼の旅の愛好家として社会にうけとめられた。彼等は当時、西側の若者の間で流行した毛沢東思想や、コミューンの形成、環境運動動物愛護、自然食、LSDマジックマッシュルームマリファナ擁護に加えて、ヨガインド哲学ヒンヅー教仏教などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちたユートピアを夢見た。

実社会の中で、ユートピアが訪れることはなかったが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーに留まらず、欧米の主流文化の中でより一般化されたものとなった。Appleをはじめとした米西海岸のコンピューター文化、ロック音楽や映画、美術、文学、舞踏、アメリカン・アニメといった大衆文化ヴィーガニズム菜食主義などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけている。

詳細

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ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。

ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、アッシジ聖フランシスコ、さらに性の解放を歌ったコレット、フランスの作家セリーヌプルースト、不条理作家フランツ・カフカ、アイルランドの哲学者アイリス・マードック、米国の実存主義作家ソール・ベロー、ユダヤ人作家バーナード・マラマッド[3]、あるいは「森の生活」の著者ヘンリー・デイヴィッド・ソローや19世紀の詩人ウォルト・ホイットマンホビットの冒険」「指輪物語」のJ・R・R・トールキン、20世紀ではビートニクスギンズバーグバロウズケルアック、また画家ではピカソデ・クーニングベン・シャーンレジェコクトーなどがヒッピーに好まれた[3]

19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー「ワンダーフォーゲル」は、当時の保守的な社会や文化に対する「カウンター・カルチャー」的な側面をもっていた。また保守的、伝統的なドイツのクラブの形式に反して、フォーク・ソングを愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。

20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。ネイチャーボーイズとよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターのエデン・アーベ英語版は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優のジプシー・ブーツ英語版からインスピレーションを受け「Nature Boy 」(1947)[4]という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった。尚21世紀の日本のワンゲル部は、60年代70年代の大学でのシゴキ、リンチ事件も影響して、体育会系の保守的なクラブとの見方が強くなった。

歴史

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1965年-1974年

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それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。
ボブ・スタッブス、『Unicorn Philosophy』

1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家ケン・キージーとそのサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ(陽気ないたずらっ子たち)」がカリフォルニアで共同生活をはじめた[5]。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、ニール・キャサディスチュアート・ブランドケン・バッブス英語版らがふくまれていた。その生活は作家トム・ウルフの『The Electric Kool-Aid Acid Test英語版』という書籍にまとめられた。

1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちにグレイトフル・デッドはメリー・プランクスターズのバス旅行について、『That's It for the Other One英語版』という曲をかいている。

メリープランクスターズのサイケデリック・バス「ファーザー号」。このバスに乗って、アメリカを横断し、道中、LSDによるアシッドテストが繰りひろげられた。

この間、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは「フォークソング」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜行われる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端のサイケデリック体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、ネバダ州バージニアシティの孤立した旧鉱山街のレッド・ドッグ・サルーン英語版でのパフォーマンスも後援した。

ジェリー・ガルシア。サンフランシスコを代表するバンド、グレイトフル・デッドのギターリスト。デッドは「デッドヘッズ」という熱狂的なファンをもち、結成当初から高い人気を誇った。

1965年夏、伝統的なフォークとサイケデリック・ミュージックを融合したそれまで聞いたことのなかったグレイトフル・デッドジェファーソン・エアプレインビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニークイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスザ・シャーラタンズなど実験精神に満ちたバンド群が現れた。彼らの個性的なスタイルと、ビル・ハム英語版による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆の間での明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(またはアメリカ先住民族)の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初のサイケデリック・ロック・バンドとなった。

1966年、カリフォルニア州はLSDの拡大を見て、この薬物を非合法化した[6]。「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる「サイケ・ロック」コスチュームダンス、および「ライトショー」が組みあわされたライブを行った。ジェファーソン・エアプレインをはじめ、グレート・ソサエティ英語版マーブルズ英語版が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日-23日、サンフランシスコの「ロングショアマンズ・ホール[7]」で「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。ケン・キージースチュアート・ブランドらが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。

1966年2月までにファミリードッグは主催者チェット・ヘルムスのもとでファミリードッグ・プロダクションとなり、のちに有名なプロモーターとなるビル・グレアム英語版との共同作業をはじめ「アバロン・ボールルーム英語版」「フィルモア・ウエスト英語版」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、ラルフ・J・グリーソン英語版は「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。

サンフランシスコのヴィクトリア朝アパート。共同生活(ルームシェア)は夢多き学生のスタンダードだった。

最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価なヴィクトリア朝アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。グレイトフル・デッドジェファーソン・エアプレインビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニークイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスザ・シャーラタンズらはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「ディガーズ英語版」を中心にされた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。

サンフランシスコ・オラクル英語版の共同設立者であるアレン・コーエン英語版によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも異常でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。

1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「ヒッピー暴動」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、ジャック・ニコルソンピーター・フォンダなどの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「サンセット通りの暴動英語版」のモチーフとなり、バッファロー・スプリングフィールドの名曲「フォー・ホワット・イッツ・ワース」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった。

『ヒューマン・ビーイン』が開かれたゴールデン・ゲート・パーク。広大な敷地をもつことから普段からヒッピーたちはよくここにつどった。
ペンタゴンを警備する兵士に意気揚々と花をさしだすフラワーチルドレンの若い女性。ハットもチューリップハットをかぶり、フラワーなイメージであふれている。

1967年1月14日、アーチストのマイケル・ボーエン英語版が企画したゴールデン・ゲート・パークでの野外フェス『ヒューマン・ビーイン』は、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークに3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日のイースターにあわせた『セントラル・パーク・ビーイン英語版』が催され、ルー・リードイーディ・セジウィックらのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。

6月16日から6月18日まで開かれたモントレー・ポップ・フェスティバルでは、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「サマー・オブ・ラブ」のはじまりとなった。スコット・マッケンジーが歌うジョン・フィリップスの曲「花のサンフランシスコ」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「フラワー・チルドレン(花の子供たち)」とよばれるようになる。

1967年6月、前述のジャーナリストのハーブ・カーン英語版は、なぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine[8]」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた[注 1]

7月7日、タイム誌は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している[注 2]

「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」

1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。

夏の終りまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードでヒッピーの「死」を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。ビートルズジョージ・ハリスンはヘイト・アシュベリーを訪れ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDを諦めるように促した。

結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで道徳的パニックを助長することとなった。1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。特に人口の多い「ベビーブーマー」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)に住んでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーの間に深い繋がりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でも同じであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった。

新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「状況のステレオタイプ」を描いている。例えば『ラブイン』『ジャック・ニコルソンの嵐の青春』『白昼の幻想』などの映画、それ以外のより誠実で評判の高い『イージー・ライダー』や『アリスのレストラン』もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル『ヘアー』は1967年に発表された。

イッピーズの指導者、アビー・ホフマン。東洋的な内面な変革を重要視したヒッピーとは違って、イッピーズはより政治的な運動を活発にした。彼らは強硬な政治にユーモアを以て抗議した。

一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」こと青年国際党とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の復活祭に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークのグランド・セントラル駅を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者アビー・ホフマンジェリー・ルービンは、1967年10月のベトナム戦争抗議デモで「立ち上がり、ミートボールをやめよう(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンを掲げ、花を配り儀式によって「ペンタゴンを空中浮遊[9]」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者としてブタの「ピガスス」を指名し、広くメディアにとりあげられた。しかしながら、彼らは反戦を謳ってはいたものの、実際にはアメリカ軍と戦う北ベトナムを支持していた。

英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部と見做されはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題に関する幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国で主に使用された用語だった。

1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「ピープルズ・パーク英語版」が国際的な注目をあつめた。カリフォルニア大学バークレー校は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m2)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、ロナルド・レーガン知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーの至る所に花を植えた。

1969年8月、ニューヨーク州のベテルでロックの大祭典『ウッドストック・フェスティバル』が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、リッチー・ヘブンスジョーン・バエズジャニス・ジョプリングレイトフル・デッドクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングカルロス・サンタナスライ&ザ・ファミリー・ストーンザ・フージェファーソン・エアプレインジミ・ヘンドリックスなど当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でなされ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想を広める上で重要な役割を果たした。

1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初は『ウッドストック・ウェスト』と名づけられ、正式名称は『オルタモント・フリーコンサート』とよばれた。ローリング・ストーンズクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングジェファーソン・エアプレイン[注 3]らをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族のヘルス・エンジェルスは、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした結果、18歳の黒人メレディス・ハンター英語版は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打された後、刺殺された。ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たちは、1970年代には活動が停滞したように見えた。

オルタモント・フリーコンサートの殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月にはチャールズ・マンソンと彼のファミリーによってシャロン・テート殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの曲『What About Me?英語版』にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「オハイオ」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。

チェンバース・ブラザーズ英語版や特にスライ&ザ・ファミリー・ストーンのようなサイケデリック・スピリットのグループは、ジョージ・クリントンとPファンクに影響を与えた。ヒッピーの多くは、1970年代を通じてアメリカ主流社会に組みこまれていった。大規模ロックコンサートは1967年、KFRCファンタジーフェアとマジックマウンテンミュージックフェスティバル英語版モントレー・ポップ・フェスティバルを経て、1968年の英国ワイト島フェスティバルで基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していたニクソンは後に失脚する。

サンフランシスコのロックバンド、ジェファーソンエアプレインのポスター。ドラッギーに歪んだ文字がこの時代多用され、所謂サイケデリックイメージと結びつく。

1970年代後半 - 現在

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1975年4月にはサイゴンが陥落し、ベトナム戦争終結と兵役徴集の終わりに伴い、アメリカ建国200周年記念英語版に関連した愛国的感情が高まり、アメリカはゆっくり様変わりしていった。やがて、ロンドンやニューヨークでパンクが出現し、アメリカの主流メディアはヒッピーの終焉を報道した。

サイケデリックトランスに興じる若者たち。反戦運動なき現代ではヒッピーはテクノロジーと結びつき、むしろファッションや娯楽的な要素が強いサブカルチャーとなっている。

1969年のウッドストックフェスティバルから50年後の2019年、ウッドストックのオーガナイザーのひとりはメモリアルフェスティバルを企画した。しかし、医療体制や食や水の問題、さらには米国内で頻発する大量銃撃事件に関連して、会場探しが難航し、結局中止となった。1960年代の牧歌的なヒッピーの夢はより暴力的な傾向を強める社会状況という現実に直面せざるを得ない状況になっている。

長年警備に携わってきたニューヨーク市警の元巡査部長は社会構造の変化に伴い、フェスティバルのユートピア感覚は失われ「60年代を知る人々が、同じ経験をすることはもうないだろう」と述べた[10]。2002年、フォトジャーナリストのジョン・バセット・マクレリー(John Bassett McCleary)は、650ページの6000項目もの省略されていないスラング辞書「ヒッピー辞書(The Hippie Dictionary[11])」を出版した。これは1960年代から1970年代の文化的百科事典でもある。この本は改訂され、2004年に700ページに拡大された。マクレリーは、ヒッピーの言葉の多くはビート・ジェネレーションにその源をもち、それを短くして使用法を普及させることにで、英語にかなりの数の単語を追加したと考えている。

グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめたこと[注 4]によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりを見せている。一番大きなものは、2002年に始まった「ボナルー・フェスティバル [注 5]である。「オレゴン・カントリー・フェア英語版」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。

セックス革命

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ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは「フリーセックスを好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちはセックス革命を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは「平和のためのベッド・インラブ・イン英語版(愛の集会)で、反戦平和を主張した。 1966年、研究チーム「マスターズ・アンド・ジョンソン英語版」によってセックスの臨床研究 "Human Sexual Response" が出版された。しばらくの小康状態を経て、1969年、精神科医デビット・ルーベン英語版が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。 1972年には、イギリス人科学者アレックス・カンフォート(Alex Comfort)によるセックス・マニュアル『ジョイ・オブ・セックス』が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらく前から進行中だった。

ドラッグ

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乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好する一方で、アルコール類を摂取しない者も一部にいた。

ビートニクスにつづいて、多くのヒッピーは大麻(マリファナ)を使用し、それを楽しく良性な薬物であると考えた。彼らは魂の薬学として、マジック・マッシュルーム、コカイン、ヘロイン、メスカリン(サボテンのペヨーテが成分を含む)やLSDなどに使用を拡大した。ジョン・レノンの「コールド・ターキー」は彼の食中毒体験を歌詞にした曲だったが、人々はヘロインからの脱却を歌ったものと勘違いした[12]

ハーバード大学の教授ティモシー・リアリーラルフ・メツナーラム・ダスことリチャード・アルパート英語版らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。

西海岸では、作家のケン・キージーがLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」と呼んでいた。キージーはサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ」と共にアメリカ大陸をツアーしメディアの注目を集め、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。グレイトフル・デッド(元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。

政治

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ロナルド・クレアは、ヒッピー社会主義が、カウンターカルチャーのクリエーションをつうじて社会の変容を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会の中で理想的なコミュニティを作り上げようとする欲求だとした[注 6]

ピースマーク。これは元来核軍縮のキャンペーンのロゴだったが、それをベトナム反戦デモの参加者が使用して、世界に広まった。今日では「世界平和」を願う象徴のひとつでもある。

ピースマーク」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちの間でポピュラーになった。ヒッピーは大抵は平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」(青年国際党)に至るまで幅広かった。

アフロアメリカンであり、ブラックパンサーの共同設立者ボビー・シール[13]は、イッピーズの白人リーダーのジェリー・ルービンと議論をおこなった。

日本のヒッピー

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1960年代後半の日本において、フォークロック岡林信康萩原健一カルメンマキフォーククルセダーズソルティシュガーらが登場した。また、映画・演劇・アートでは若松孝二寺山修司大島渚横尾忠則、女優の緑魔子横山リエらが活躍した。

新宿のヒッピー族

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芸術的なヒッピー族は新宿角筈風月堂が発信基地となった。文化人類学者深作光貞によれば風月堂はヨーロッパのパリを拠点とする世界的ヒッピーネットワークの一部になっていたとされる[14]

長野のヒッピー族

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本家アメリカのヒッピー精神を引き継いだ一派は失敗して分裂し、長野県の八ヶ岳麓へと移転して村作りを行う一派が登場した[14][15]。彼らが居着いた時間はわずか数年だったが、そんな町の歴史を振り返ろうと、富士見町高原のミュージアムで企画展「ヒッピーという生き方 部族降臨」が開かれてた[16]

新宿のフーテン族

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ヒッピーの他に新宿周辺にはフーテン族も現れた。1967年春頃に現れた新宿のフーテン族は昼間は新宿駅東口広場の芝生(馬の水飲み場、フーテン族側の呼称はグリーンハウス)に居たが、深夜は新宿二丁目スナックバーに集まって睡眠薬のハイミナールや眠気覚ましのカフェインを摂りながら黒人と共にモダンジャズを踊っていたとされる[17]

同1967年には新宿のフーテン族から桜井啓子が女優デビューしたものの、彼女はフーテン族の憧れにはならなかったとされる[17]。同1967年9月には新宿駅東口広場の芝生への立ち入りが禁止された[18]

総理府青少年対策本部の『青少年白書 昭和44年版』によれば1968年の新宿において非行行為で補導されたフーテン少年は1,584人に上ったとされる[19]

その他のフーテン族

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また新宿以外にもフーテン族は登場した。総理府青少年対策本部の『青少年白書 1968年版』によれば非行行為で補導されたフーテン少年は全国で1,479人、うち東京では904人、大阪では325人、名古屋では126人、福岡では89人、神戸では22人、京都では13人に上ったとされる[20]

自ら神戸市のフーテンであったと自称する作家の中島らもは「ヒッピーとフーテンは違う[21]」と述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し「フーテンは思想がないんよ。ラリってるだけやん[21]」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に「自由ほど不自由なものはないんだよ[21]」と述べた。


創作への影響

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1967年には月刊漫画ガロに新宿のフーテン族を漫画化した永島慎二『フーテン』が登場した。1968年には岡部道男により新宿を舞台としたアングラ映画『クレイジー・ラヴ』が作られた[22]。また同1968年には松竹から映画『日本ゲリラ時代』も登場した[23]

1979年には「地下鉄の新宿駅」でヒッピー娘と出会う村上春樹の小説『風の歌を聴け』が登場した[24]

ヒッピーの特徴

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サンフランシスコのヒッピー文化の前身であるビートニクスはコーヒーハウスやバーに集い、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまでグレイトフル・デッドのマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire[25])はヒッピー文化の大きな貢献は「よろこびの表現」だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く冷たかった。

ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。

初期には、その彩り豊かなファッションを通じて互いを認識し、その個性を尊重し合った。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずに表し、社会の硬さ-スクエアから距離をおいて利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力という価値を重んじた。

警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンのフランクザッパは、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ」と聴衆に述べた。

アート

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1960年代のサイケデリック・アート運動英語版の主役は、リック・グリフィン英語版ビクター・モスコソ英語版ボニー・マクリーン英語版スタンリー・マウス&アルトン・ケリー英語版、そしてウェス・ウィルソン英語版など、サンフランシスコのポスターアーティストだった。彼らのロック・コンサートのポスターはアール・ヌーヴォーヴィクトリアン様式の美術(ビアズレーなど)、ダダイスムポップアートからインスピレーションをうけていた。フィルモア・ウェストのコンサート・ポスターはもっとも注目された。鮮やかなコントラスト、華やかなレタリング、強く対称な構図、コラージュ要素、歪み、ちょっと奇妙な画像、豊かな色彩などがその特徴で、このスタイルはおよそ1966年から1972年の間人気を保った。

アマリロにあるアント・ファーム英語版インスタレーション作品「キャディラック・ランチ英語版

彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気を醸しだした。

また「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。ザップ・コミックス英語版はそのオリジナルのひとつであり、ロバート・クラムS・クライ・ウィルソン英語版、ビクター・モスコソ、リック・グリフィン英語版ロバート・ウィリアムス英語版らの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。ギルバート・シェルトン英語版の『ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ英語版』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。

彼らに先行するビートニクス、すぐ後につづいたパンク・ロックのように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「浮浪者スタイル」の反映だった。男も女もジーンズを履き、どちらも長髪だった。サンダルは、やがて裸足へと移行した。スティーヴ・ジョブズも大学生時代は裸足だったという。男性はひげを生やすことが多く、女性は化粧をほとんど、もしくはまったくせず、ノーブラジャー。ほかの白人中産階級のムーブメントと同じようにヒッピーたちは時代の「男女差」に挑戦し、ユニセックスだった。ヒゲをはやした若者も多かった。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダードだった。

ヒッピーはしばしば明るく鮮やかな色を選び、ベルボトム、ベスト、しぼり染めの衣服、ダシキ(アフリカの民族衣装)、農民風のブラウス、長い丈のスカートなど、当時としては風変わりな服を着た。ネイティブアメリカン、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをモチーフとして使用した非西洋的な服飾文化にインスピレーションを受けたデザインも人気があった。ヒッピーの多くは、企業がつくる消費文化に反対して、手づくり、または古着を着た。

男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、ルーズフィットで反対した。

また衣服の手づくりは、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶した。


思想と宗教

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多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた仏教ヒンドゥー教、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。

英国のオカルティスト、悪魔崇拝者のアレイスター・クロウリーは、およそ10年もの間ロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のカバースリーブの登場人物の一人として彼を選んだ。1970年代のハードロック・バンド、レッド・ツェッペリンもクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、ドアーズもコンピレーション・アルバム『13』の裏表紙でジム・モリソンや他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。ハーバード大学教授の心理学者ティモシー・リアリーは、オカルティストのアレイスター・クロウリーをヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。

1991年、宗教学者ティモシー・ミラー英語版はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」の中で、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教と同じように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めを行うための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。

「ヒッピーの旅(The Hippie Trip)」の著者ルイス・ヤブロンスキードイツ語版は、ヒッピーたちの間でもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学のスティーヴン・ガスキン英語版教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまで膨らみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えから導きだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。

ティモシー・リアリーはアメリカのハーバード大学の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、ドラッグのLSDを「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「スピリチュアル・ディスカバリー同盟英語版」(略称LSD)」を設立した。信仰の自由に基づいてLSDや他のドラッグを瞑想等にも用いるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、ビートルズのアルバム『リボルバー』に収録の「トゥモロー・ネバー・ノウズ」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「ヒューマン・ビー・イン」に招待され、そこで有名な「Turn on, tune in, drop out」というフレーズを唱えた。

  • ティモシー・リアリーは60年代の若者に強い影響力を持っていた。カリフォルニア州知事選挙に立候補を表明したこともある。ジョン・レノンが作曲したビートルズの曲「カム・トゥゲザー」は、リアリーの選挙キャンペーンのために書かれた曲だが、結局、リアリーは選挙に出馬することができなかった。
  • ラルフ・ネーダー環境問題や消費者の権利保護運動のリーダーで思想家だった。ヒッピー運動が終わった後も活動を続け、独立系や緑の党の候補として、複数回大統領選挙に出馬している。なお、60年代の若者対象の世論調査で、ティモシー・リアリーやラルフ・ネーダーはベスト10に入ったが、マルクーゼやローザックがベスト10に入ることはなかった。

 



ヒッピースタイルファッション

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関連項目

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Hippie

地名

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北米
ヨーロッパ
オセアニア
アジア
  • カーブル(カブール、アフガニスタン) - ヒッピー三大聖地の一つ。治安悪化でイビサ島にとってかわられる傾向も。
  • カトマンズ(ネパール) - ヒッピー三大聖地の一つ。
  • ゴア(インド西海岸) - ヒッピー三大聖地の一つ、レイヴゴアトランスでも有名。
日本
  • 新宿しんじゅく(日本) - 1960年代にヒッピーによく知られた喫茶店風月堂が新宿東口に存在した。
  • 宇検村うけんそん(鹿児島県) - 諏訪之瀬島に住んでいたヒッピーが1973年、東亜燃料工業(後の東燃ゼネラル石油)による宇検村の技手久島の石油備蓄基地建設計画を知り、反対運動に加わるため作ったコミューン「無我利道場」が1989年まで存在した。
  • 京都きょうと(日本) - ゲーリー・スナイダーら欧米からのヒッピーが多く居住し、ほんやら洞京都大学西部講堂、磔磔などヒッピー文化の本拠地が多くあった。
  • 朽木村くつきむら(滋賀県) - かつてヒッピーコミューンが存在し、2010年代でもかつてのヒッピー文化を彷彿とさせるイベントが開催されている。
  • 諏訪之瀬島すわのせじま(鹿児島県) - 山尾三省ななおさかきやゲーリー・スナイダーら、コミューン「部族」『がじゅまるの夢族』が集団移住し、1960年代末〜1970年代にヒッピーの拠点だった。
  • 富士見町ふじみまち(長野県) - 日本のヒッピー文化の発祥の地、 山尾三省、ななおさかき らの部族『雷赤鴉族』が短期間コミューンを作っていた[26]

文化・芸術・思想・サブカルチャー

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Flower-Power Bus

政治運動

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ヒッピー達の集会

人物・グループ(文化人、思想家)

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この項目では、ヒッピーとして行動した人、ヒッピー・ムーブメントに関わったか、影響を受けた人々、グループを記述している。

人物・グループ(音楽)

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人物(個人のトラヴェラー、その他)

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ヒッピーに関連する主な作品

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映画

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小説・詩集

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演劇

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脚注

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注釈

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  1. ^ カーンのこの認識は住民と若者の認識の「ズレ」や「ギャップ」のようなもので、当然どこの国にもある問題だとおもわれる。
  2. ^ この倫理規定にはある程度「ニューエイジ思想」の価値観と通底したものがみられる。
  3. ^ 「あなただけを」「ホワイト・ラビット」などがヒットした。
  4. ^ グレイトフル・デッドはバンドのギターリストでカウンターカルチャーの象徴的な存在だったジェリー・ガルシアが1995年に死去したこと、フィッシュは2004年に突然の解散を宣言したことによる。
  5. ^ テネシー州で毎年おこなわれている野外フェス。日本からは2004年に「東京スカパラダイスオーケストラ」が参加している。
  6. ^ これは1968年のフランスの五月革命と同様の精神(68年精神)だった

出典

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  1. ^ ヘレン・S・ペリー『ヒッピーのはじまり』作品社、2021年。 
  2. ^ Usón, Víctor (2017年11月27日). “Avándaro, el festival que cambió la historia del rock mexicano” (スペイン語). El País. ISSN 1134-6582. https://elpais.com/cultura/2017/11/26/actualidad/1511678428_196506.html 2018年9月7日閲覧。 
  3. ^ a b 「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社。
  4. ^ “エデン・アーベ Nature Boy by Eden Ahbez” (日本語). Audio-Visual Trivia. http://www.audio-visual-trivia.com/blog/2006/09/nature_boy_by_eden_ahbez.html 2018年9月8日閲覧。 
  5. ^ Mary Prankster Musical Comedy Special Acquired by Comedy Dynamics”. the Interrobang (November 8, 2019). 26 Jnuary 2022閲覧。
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  8. ^ Distinguished Magazine - Premier Lifestyle & Art Coffee Table Magazine | D Mag” (英語). Distinguished Magazine. 2018年9月10日閲覧。
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  10. ^ 相次ぐ銃乱射に苦しむ米国、ウッドストック再来は望み薄”. www.afpbb.com. 2019年8月17日閲覧。
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  13. ^ Huey P. Newton”. Biography.com. 10 May 2022閲覧。
  14. ^ a b 深作光貞『新宿考現学』 pp.131-132 角川書店 1968年 [1]
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  16. ^ ヒッピーが小屋で暮らした富士見町 歴史ひもとく企画展”. 朝日新聞デジタル. 2024年12月17日閲覧。
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  18. ^ 駅東口広場でのフーテン対策 新宿未来創造財団
  19. ^ 『青少年白書 昭和44年版』 p.146 総理府青少年対策本部 1969年 [3]
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  21. ^ a b c 中島らも『異人伝』(講談社文庫)pp.77-78
  22. ^ 『映画評論 25(10)』 pp.84-88 新映画 1968年10月 [5]
  23. ^ 日本ゲリラ時代 松竹
  24. ^ 米村みゆき「編年体による1970年夏の物語ーー村上春樹『風の歌を聴け』を読むーー」『名古屋近代文学研究 (11)』 p.42 名古屋近代文学研究会 1993年12月 [6]
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  26. ^ スペクテイター vol.45 日本のヒッピー・ムーヴメント』2019年 197~199頁「日本のヒッピーのできごと史」参照

外部リンク

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