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ヒッピーは、搾取的だった一部のキリスト教教派に批判的であり、「[[ヒューマン・ビーイン]]」に代表されるような、新しいムーブメント、哲学、[[宗教]]や魂([[スピリチュアリティ|スピリチュアティ]])の体験をもとめて、インドなどのヒッピーの聖地やフェスティバルを訪ね歩いた。
ヒッピーは、搾取的だった一部のキリスト教教派に批判的であり、「[[ヒューマン・ビーイン]]」に代表されるような、新しいムーブメント、哲学、[[宗教]]や魂([[スピリチュアリティ|スピリチュアティ]])の体験をもとめて、インドなどのヒッピーの聖地やフェスティバルを訪ね歩いた。


ヒッピーの一部は、インドなど東洋の宗教、哲学に魅力を感じ、反体制思想、[[左翼]]思想や自然のなかでの「共同体生活」への回帰を提案した。またサマー・オブ・ラブ、ベトナム反戦運動<ref>http://summerof.love/vietnam-summer-love/</ref>や、公民権運動<ref>http://www.history.com/topics/civil-rights-movement</ref>、カウンター・カルチャーとしての[[ロック (音楽)|ロック]]、野外フェス、性解放、[[フリーセックス]]、[[大麻]]等のドラッグ解禁、男女平等、各種差別の廃止、のちの[[ヴィーガニズム]]へとつながる有機野菜の促進などを主張し、主流とは異なったオルタナティブな社会の実現を目指した。社会変革と同時に、精神世界を重んじ、ダイバーシティ(多様)な価値の尊重を訴えた。
ヒッピーの一部は、インドなど東洋の宗教、哲学に魅力を感じ、反体制思想、[[左翼]]思想や自然のなかでの「共同体生活」への回帰を提案した。また[[サマー・オブ・ラブ]][[ベトナム反戦運動]]や、[[アフリカ系アメリカ人公民権運動|公民権運動]]、カウンター・カルチャーとしての[[ロック (音楽)|ロック]]、野外フェス、性解放、[[フリーセックス]]、[[大麻]]等のドラッグ解禁、男女平等、各種差別の廃止、のちの[[ヴィーガニズム]]へとつながる有機野菜の促進などを主張し、主流とは異なったオルタナティブな社会の実現を目指した。社会変革と同時に、精神世界を重んじ、ダイバーシティ(多様)な価値の尊重を訴えた。


日本においても、新しい世界的同世代の価値感への共感と同時に、自然にやさしいコミューンへの回帰や、都市のヒッピーの登場がみられた。欧米発のムーブメントでありながら、自らのルーツでもある東洋への回帰的な関心という点でわかりやすく、インドや中国などの再評価や[[環境運動|エコロジー運動]]のさきがけともなった。
日本においても、新しい世界的同世代の価値感への共感と同時に、自然にやさしいコミューンへの回帰や、都市のヒッピーの登場がみられた。欧米発のムーブメントでありながら、自らのルーツでもある東洋への回帰的な関心という点でわかりやすく、インドや中国などの再評価や[[環境運動|エコロジー運動]]のさきがけともなった。
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[[ファイル:Beautiful Hippy Woman.png|サムネイル|ヒッピーの女性のヌード。保守的なキリスト教社会に対して、カウンターカルチャーであるヒッピーたちは、ヌードや性の解放を主張し自由な社会へと変革した。]]
[[ファイル:Beautiful Hippy Woman.png|サムネイル|ヒッピーの女性のヌード。保守的なキリスト教社会に対して、カウンターカルチャーであるヒッピーたちは、ヌードや性の解放を主張し自由な社会へと変革した。]]
[[画像:Furthur 01.jpg|thumb|250px|マジック・バスにしてサイケデリック・バス]]
[[画像:Furthur 01.jpg|thumb|250px|マジック・バスにしてサイケデリック・バス]]
ヒッピー(HIPPY)という言葉はもともと「ヒップスター(HIPSTER<ref>{{Cite journal|date=2018-08-14|title=Hipster (contemporary subculture)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hipster_(contemporary_subculture)&oldid=854897974|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」に由来し、ニューヨーク市の[[グリニッジ・ヴィレッジ|グリニッジビレッジ]]とサンフランシスコの[[ヘイトアシュベリー]]地区に移住した[[ビート・ジェネレーション|ビートニクスたち]]を意味していた。 [https://www.sfchronicle.com/ サンフランシスコ・クロニクル]のジャーナリストであったハーブ・カーン(Herb Caen<ref>{{Cite journal|date=2018-08-04|title=Herb Caen|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Herb_Caen&oldid=853386968|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)によってひろめられた<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
ヒッピー(HIPPY)という言葉はもともと「{{仮リンク|ヒップスター|en|Hipster (contemporary subculture)}}」に由来し、ニューヨーク市の[[グリニッジ・ヴィレッジ|グリニッジビレッジ]]とサンフランシスコの[[ヘイトアシュベリー]]地区に移住した[[ビート・ジェネレーション|ビートニクスたち]]を意味していた。 [[サンフランシスコ・クロニクル]]紙のジャーナリストであった{{仮リンク|ハーブ・カーン|en|Herb Caen}}によってひろめられた。


また、冒頭部の「HIP」とはその語源がたしかではないが、一説によると、1940年代のアフリカ系アメリカ人のあいだで流行したJive<ref>{{Cite journal|date=2018-03-27|title=Jive (dance)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Jive_(dance)&oldid=832748799|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>(ジャイブ)ダンスを踊る若者のスラングから転用されたものという説がある。当時、HIPは「飛んでいる、完全に最新のもの」という意でもちいられており、それをビートニクスが採用し一般化するようになった。初期のヒッピーはビートニクスの言葉や価値観をひきついでいた<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
また、冒頭部の「HIP」とはその語源がたしかではないが、一説によると、1940年代のアフリカ系アメリカ人のあいだで流行した{{仮リンク|ジャイブ|en|Jive (dance)}}を踊る若者のスラングから転用されたものという説がある。当時、HIPは「飛んでいる、完全に最新のもの」という意でもちいられており、それをビートニクスが採用し一般化するようになった。初期のヒッピーはビートニクスの言葉や価値観をひきついでいた。


作家[[ノーマン・メイラー|ノーマン・メイラ―]]は1961年4月27日付の雑誌[[The Village Voice]]<ref>{{Cite journal|date=2018-09-06|title=The Village Voice|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Village_Voice&oldid=858303877|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>の記事「[[ジョン・F・ケネディ|J・F・ケネディ]]と[[フィデル・カストロ|カストロ]]への公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーのなかで、詩人ケネス・レックスロス<ref>{{Cite journal|date=2018-06-06|title=Kenneth Rexroth|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Kenneth_Rexroth&oldid=844733175|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>は、「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフに参加している若者を指すのにつかった。[[マルコム・X|マルコムX]]の1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は、「黒人より黒人らしく行動した」特定のタイプの白人を表現するためにつかわれていた。 [[アンドリュー・ルーグ・オールダム|アンドリュー・ル―グ・オールダム]]は、1965年発表の[[ローリング・ストーンズ|ローリングストーンズ]]のLP「[[ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!]]」のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて 「シカゴのヒッピーたち」と称した<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
作家[[ノーマン・メイラー]]は1961年4月27日付の雑誌[[ヴィレッジ・ヴォイス]]の記事「[[ジョン・F・ケネディ|J・F・ケネディ]]と[[フィデル・カストロ|カストロ]]への公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーのなかで、詩人{{仮リンク|ケネス・レックスロス|en|Kenneth Rexroth}}は、「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフに参加している若者を指すのにつかった。[[マルコム・X|マルコムX]]の1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は、「黒人より黒人らしく行動した」特定のタイプの白人を表現するためにつかわれていた。 [[アンドリュー・ルーグ・オールダム|アンドリュー・ル―グ・オールダム]]は、1965年発表の[[ローリング・ストーンズ|ローリングストーンズ]]のLP「[[ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!]]」のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて 「シカゴのヒッピーたち」と称した。


1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「[[ヒューマン・ビーイン]]」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「[[サマー・オブ・ラブ|サマー・オブ・ラヴ]](Summer of Love<ref>{{Cite journal|date=2018-09-02|title=Summer of Love|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Summer_of_Love&oldid=857704131|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「[[ウッドストック・フェスティバル]](Wood stock festival<ref>{{Cite journal|date=2018-09-16|title=Festival de Woodstock|url=https://es.wikipedia.org/w/index.php?title=Festival_de_Woodstock&oldid=110662988|journal=Wikipedia, la enciclopedia libre|language=es}}</ref>)」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「[[ワイト島ライヴ1970|ワイト島]]フェスティバル(Isle of Wight Festival <ref>{{Cite journal|date=2018-08-25|title=Isle of Wight Festival 1970|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Isle_of_Wight_Festival_1970&oldid=856413894|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」、チリでは「ピエドラ・ロハ・フェスティバル(Piedra Roja Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-07-26|title=Festival de Piedra Roja|url=https://es.wikipedia.org/w/index.php?title=Festival_de_Piedra_Roja&oldid=109531916|journal=Wikipedia, la enciclopedia libre|language=es}}</ref>)」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち(ヒピテカス(Jipitecas)<ref>{{Cite journal|date=2017-07-21|title=Jipitecas|url=https://es.wikipedia.org/w/index.php?title=Jipitecas&oldid=100611878|journal=Wikipedia, la enciclopedia libre|language=es}}</ref>)はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル<ref>{{Cite news|title=Avándaro, el festival que cambió la historia del rock mexicano|date=2017-11-27|last=Usón|first=Víctor|url=https://elpais.com/cultura/2017/11/26/actualidad/1511678428_196506.html|accessdate=2018-09-07|issn=1134-6582|language=es|work=El País}}</ref>につどった。 1973年、オーストラリアでは東部の田舎町ニンビン<ref>{{Cite news|title=オーストラリアの大麻の村、ニンビン観光の実態!Nimbinへの行き方を地図付きで解説。安宿や祭りの情報もあり!|url=http://famzau.com/2016/07/01/nimbin-tourism/|accessdate=2018-09-07|language=ja-JP|work=Famz}}</ref>で「アクエリス・フェスティバル(Aquarius Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-06-05|title=Aquarius Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Aquarius_Festival&oldid=844454556|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、キャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「ナンバサ・フェスティバル(Nambassa festival)<ref>{{Cite journal|date=2018-06-22|title=Nambassa|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Nambassa&oldid=847074126|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>(1976-1981)」を催し、オルタナティブなライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。
1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「[[ヒューマン・ビーイン]]」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「[[サマー・オブ・ラブ]]」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「[[ウッドストック・フェスティバル]]」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「[[ワイト島ライヴ1970|ワイト島フェスティバル]]」、チリでは「{{仮リンク|ピエドラ・ロハ・フェスティバル|en|Piedra Roja}}」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち({{仮リンク|ヒピテカス|en|Jipitecas}})はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル<ref>{{Cite news|title=Avándaro, el festival que cambió la historia del rock mexicano|date=2017-11-27|last=Usón|first=Víctor|url=https://elpais.com/cultura/2017/11/26/actualidad/1511678428_196506.html|accessdate=2018-09-07|issn=1134-6582|language=es|work=El País}}</ref>につどった。 1973年、オーストラリアでは東部の田舎町{{仮リンク|ニンビン (オーストラリア)|label=ニンビン|en|Nimbin, New South Wales}}で「{{仮リンク|アクエリス・フェスティバル|en|Aquarius Festival}}」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、キャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「{{仮リンク|ナンバサ・フェスティバル|en|Nambassa}}(1976-1981年)を催し、オルタナティブなライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。


[[ファイル:Lágrima Seca en Festival de Piedra Roja.jpg|サムネイル|1970年、南米チリでおこなわれたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石」という意味のフェスティバル。北米のみならず、南米でもヒッピー文化はひろまっていた。]]
[[ファイル:Lágrima Seca en Festival de Piedra Roja.jpg|サムネイル|1970年、南米チリでおこなわれたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石」という意味のフェスティバル。北米のみならず、南米でもヒッピー文化はひろまっていた。]]
こうした北米、南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れとして、東ヨーロッパの鉄のカーテン諸国において1960年代から1970年代初頭の若者文化に強い影響をあたえた<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
こうした北米、南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れとして、東ヨーロッパの鉄のカーテン諸国において1960年代から1970年代初頭の若者文化に強い影響をあたえた。


当初、アメリカにおいて、彼らの多くはベトナム徴兵を逃れた学生たちであり、そのため主流社会の軍事覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や[[原子爆弾]]への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的なテクノロジーによる暴力や虐殺などに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、[[自然]]と[[愛]]と[[平和]]と[[性行為|セックス]]と[[自由]]、[[巡礼]]の旅の愛好家として社会にうけとめられた。かれらは当時、西側の若者の間で流行した[[毛沢東思想|マオイスト]]や、コミューンの形成、[[環境運動]]や動物愛護、自然食、[[LSD (薬物)|LSD]]、マジック・マッシュルーム、[[大麻|マリファナ]]擁護にくわえて、[[ヨーガ|ヨガ]]、[[インド哲学]]、ヒンズー教、禅、[[仏教]]などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちた[[ユートピア]]を夢みた。
当初、アメリカにおいて、彼らの多くはベトナム徴兵を逃れた学生たちであり、そのため主流社会の軍事覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や[[原子爆弾]]への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的なテクノロジーによる暴力や虐殺などに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、[[自然]]と[[愛]]と[[平和]]と[[性行為|セックス]]と[[自由]]、[[巡礼]]の旅の愛好家として社会にうけとめられた。かれらは当時、西側の若者の間で流行した[[毛沢東思想|マオイスト]]や、コミューンの形成、[[環境運動]]や動物愛護、自然食、[[LSD (薬物)|LSD]]、マジック・マッシュルーム、[[大麻|マリファナ]]擁護にくわえて、[[ヨーガ|ヨガ]]、[[インド哲学]]、ヒンズー教、禅、[[仏教]]などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちた[[ユートピア]]を夢みた。
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[[File:Neil Young 1976 closeup.jpg|thumb|right|130px|ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。]]
[[File:Neil Young 1976 closeup.jpg|thumb|right|130px|ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。]]


ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、[[アッシジ]]の[[アッシジのフランチェスコ|聖フランシスコ]]、さらに性の解放を歌った[[シドニー=ガブリエル・コレット|コレット]]、フランスの作家[[ルイ=フェルディナン・セリーヌ|セリーヌ]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]、不条理作家[[フランツ・カフカ|カフカ]]、アイルランドの哲学者[[アイリス・マードック]]、米国の実存主義作家[[ソール・ベロー]]、ユダヤ人作家[[バーナード・マラマッド]]<ref>「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社。</ref>、あるいは「森の生活」の著者[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー|ヘンリー・デビッド・ソロー]]や19世紀の詩人[[ウォルト・ホイットマン]]、「[[ホビットの冒険]]」「[[指輪物語]]」の[[J・R・R・トールキン|J・R・R・トル―キン]]、20世紀においては[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]の[[アレン・ギンズバーグ|ギンズバーグ]]や[[ウィリアム・S・バロウズ|バロウズ]]、[[ジャック・ケルアック|ケルアック]]、また画家では[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ウィレム・デ・クーニング|デ・クーニング]]、[[ベン・シャーン]]、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]、[[ジャン・コクトー|コクトー]]などがヒッピーに好まれた<ref>「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社</ref>。
ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、[[アッシジ]]の[[アッシジのフランチェスコ|聖フランシスコ]]、さらに性の解放を歌った[[シドニー=ガブリエル・コレット|コレット]]、フランスの作家[[ルイ=フェルディナン・セリーヌ|セリーヌ]]、[[マルセル・プルースト|プルースト]]、不条理作家[[フランツ・カフカ|カフカ]]、アイルランドの哲学者[[アイリス・マードック]]、米国の実存主義作家[[ソール・ベロー]]、ユダヤ人作家[[バーナード・マラマッド]]<ref name="植草p195">「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社。</ref>、あるいは「森の生活」の著者[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー|ヘンリー・デビッド・ソロー]]や19世紀の詩人[[ウォルト・ホイットマン]]、「[[ホビットの冒険]]」「[[指輪物語]]」の[[J・R・R・トールキン|J・R・R・トル―キン]]、20世紀においては[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]の[[アレン・ギンズバーグ|ギンズバーグ]]や[[ウィリアム・S・バロウズ|バロウズ]]、[[ジャック・ケルアック|ケルアック]]、また画家では[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ウィレム・デ・クーニング|デ・クーニング]]、[[ベン・シャーン]]、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]、[[ジャン・コクトー|コクトー]]などがヒッピーに好まれた<ref name="植草p195" />。


19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー、「[[ワンダーフォーゲル]]」は、当時の社会や文化クラブに対するカウンター・カルチャー的な側面をもっていた。また保守的・伝統的なドイツのクラブの形式に反して、民族音楽や歌を愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。
19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー、「[[ワンダーフォーゲル]]」は、当時の社会や文化クラブに対するカウンター・カルチャー的な側面をもっていた。また保守的・伝統的なドイツのクラブの形式に反して、民族音楽や歌を愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。


20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。若いアメリカ人の中には、ドイツ移民の思想の影響を受けた者もあらわれた。 「ネイチャーボーイズ」とよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターのエデン・アーベ(Eden Ahbez<ref>{{Cite journal|date=2018-06-03|title=eden ahbez|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Eden_ahbez&oldid=844276978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優のジプシー・ブーツ(Gypsy Boots<ref>{{Cite journal|date=2018-07-12|title=Gypsy Boots|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Gypsy_Boots&oldid=849952003|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)からインスピレーションを受けNature Boy(1947)<ref>{{Cite news|title=エデン・アーベ Nature Boy by Eden Ahbez|url=http://www.audio-visual-trivia.com/blog/2006/09/nature_boy_by_eden_ahbez.html|accessdate=2018-09-08|language=ja-JP|work=Audio-Visual Trivia}}</ref>という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。なお、21世紀の日本のワンゲル部は、体育会系の保守的なクラブとの見方もある。
20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。若いアメリカ人の中には、ドイツ移民の思想の影響を受けた者もあらわれた。 「ネイチャーボーイズ」とよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターの{{仮リンク|エデン・アーベ|en|eden ahbez}}は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優の{{仮リンク|ジプシー・ブーツ|en|Gypsy Boots}}からインスピレーションを受けNature Boy(1947)<ref>{{Cite news|title=エデン・アーベ Nature Boy by Eden Ahbez|url=http://www.audio-visual-trivia.com/blog/2006/09/nature_boy_by_eden_ahbez.html|accessdate=2018-09-08|language=ja-JP|work=Audio-Visual Trivia}}</ref>という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった。なお、21世紀の日本のワンゲル部は、体育会系の保守的なクラブとの見方もある。


== 初期ヒッピー/メリー・プランクターズ、サイケデリックなど ==
== 初期ヒッピー/メリー・プランクターズ、サイケデリックなど ==
{{Quote|それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。|ボブ・スタッブス|『Unicorn Philosophy』}}
{{Quote|それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。|ボブ・スタッブス|『Unicorn Philosophy』}}
=== メリー・プランクスターズ ===
=== メリー・プランクスターズ ===
1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家[[ケン・キージー]]とその'''サイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ]](陽気な悪ガキども)」'''がカリフォルニアで共同生活をはじめる。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、[[ニール・キャサディ]]、[[スチュアート・ブランド|スチュワート・ブランド]]、ケン・バッブス(Ken Babbs<ref>{{Cite journal|date=2017-10-21|title=Ken Babbs|url=https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ken_Babbs&oldid=806405153|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)
1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家[[ケン・キージー]]とその'''サイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ]](陽気な悪ガキども)」'''がカリフォルニアで共同生活をはじめる。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、[[ニール・キャサディ]]、[[スチュアート・ブランド|スチュワート・ブランド]]、{{仮リンク|ケン・バッブス|en|Ken Babbs}}らがふくまれていた。その生活は作家[[トム・ウルフ]]の『{{仮リンク|The Electric Kool-Aid Acid Test|en|The Electric Kool-Aid Acid Test}}』という書籍にまとめられた。
らがふくまれていた。その生活は作家[[トム・ウルフ]]の「The Electric Kool-Aid Acid Test<ref>{{Cite journal|date=2018-08-13|title=The Electric Kool-Aid Acid Test|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Electric_Kool-Aid_Acid_Test&oldid=854797967|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」にまとめられた。


1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちに[[グレイトフル・デッド]]は「メリー・プランクスターズ」のバス旅行について、“That's It for the Other One<ref>{{Cite journal|date=2018-02-22|title=That's It for the Other One|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=That%27s_It_for_the_Other_One&oldid=827051800|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>”という曲をかいている。[[ファイル:Furthur 02.jpg|サムネイル|メリープランクスターズのサイケデリック・バス「ファーザー号」。このバスに乗って、アメリカを横断し、道中、LSDによるアシッドテストが繰りひろげられた。]]
1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちに[[グレイトフル・デッド]]は「メリー・プランクスターズ」のバス旅行について、『{{仮リンク|That's It for the Other One|en|That's It for the Other One}}という曲をかいている。[[ファイル:Furthur 02.jpg|サムネイル|メリープランクスターズのサイケデリック・バス「ファーザー号」。このバスに乗って、アメリカを横断し、道中、LSDによるアシッドテストが繰りひろげられた。]]


このあいだ、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは[[フォークソング|「フォークソング]]」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ、「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月、「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜おこなわれる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端の[[サイケデリック]]体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、ネバダ州バージニアの孤立した旧鉱山街のレッド・ドッグ・サルーンーRed Dog Saloon<ref>{{Cite journal|date=2018-09-03|title=Red Dog Saloon (Virginia City, Nevada)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Red_Dog_Saloon_(Virginia_City,_Nevada)&oldid=857791046|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」でのパフォーマンスも後援した。
このあいだ、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは[[フォークソング]]」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ、「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月、「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜おこなわれる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端の[[サイケデリック]]体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、[[バージニアシティ (ネバダ州)|ネバダ州バージニアシティ]]の孤立した旧鉱山街の{{仮リンク|レッド・ドッグ・サルーン|en|Red Dog Saloon (Virginia City, Nevada)}}でのパフォーマンスも後援した。


=== サイケデリック・ロック ===
=== サイケデリック・ロック ===
[[ファイル:Jerry-Garcia-01.jpg|サムネイル|ジェリー・ガルシア。サンフランシスコを代表するバンド、グレイトフル・デッドのギターリスト。デッドは「デッドヘッズ」という熱狂的なファンをもち、結成当初から高い人気を誇った。]]
[[ファイル:Jerry-Garcia-01.jpg|サムネイル|ジェリー・ガルシア。サンフランシスコを代表するバンド、グレイトフル・デッドのギターリスト。デッドは「デッドヘッズ」という熱狂的なファンをもち、結成当初から高い人気を誇った。]]
1965年夏、ラフリン3世は伝統的なフォークと[[サイケデリック・ミュージック]]の融合をさらに推しすすめる若くオリジナリティあふれる才能を募集した。彼とその仲間はそれまで聞いたことのなかった[[グレイトフル・デッド]]や[[ジェファーソン・エアプレイン|ジェファーソン・エアプレーン]]、[[ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー|ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー]]、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス|クイックシルバー・メッセンジャー・サービス]]、[[ザ・シャーラタンズ (U.S.バンド)|ザ・シャーラタンズ]]などレッド・ドッグ・サルーン的で、実験精神に満ちたバンドたちを見いだした。彼らの個性的なスタイルと、ビル・ハム(Bill ham<ref>{{Cite journal|date=2017-02-13|title=Bill Ham|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Bill_Ham&oldid=765209189|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆のあいだでの明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(または[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民族]])の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初の[[サイケデリック・ロック]]・バンドとなった。
1965年夏、ラフリン3世は伝統的なフォークと[[サイケデリック・ミュージック]]の融合をさらに推しすすめる若くオリジナリティあふれる才能を募集した。彼とその仲間はそれまで聞いたことのなかった[[グレイトフル・デッド]]や[[ジェファーソン・エアプレイン]]、[[ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー]]、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス]]、[[ザ・シャーラタンズ (U.S.バンド)|ザ・シャーラタンズ]]などレッド・ドッグ・サルーン的で、実験精神に満ちたバンドたちを見いだした。彼らの個性的なスタイルと、{{仮リンク|ビル・ハム|en|Bill Ham}}による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆のあいだでの明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(または[[アメリカ州の先住民族|アメリカ先住民族]])の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初の[[サイケデリック・ロック]]・バンドとなった。


「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる、「サイケ・ロック」、「コスチュームダンス」、および「ライトショー」が組みあわされたライブをおこなった。[[ジェファーソン・エアプレイン|ジェファーソン・エアプレーン]]をはじめ、グレート・ソサエティ(The Great Society<ref>{{Cite journal|date=2018-07-05|title=The Great Society (band)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Great_Society_(band)&oldid=848931437|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、マーブルズ(The Marbles<ref>{{Cite journal|date=2018-07-22|title=The Marbles (duo)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Marbles_(duo)&oldid=851528388|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日~23日、サンフランシスコの「ロングショアマン・ホール<ref>{{Cite web|url=http://www.dead.net/tags/longshoremens-hall|title=Longshoremen's Hall {{!}} Grateful Dead|accessdate=2018-09-10|website=www.dead.net|language=en}}</ref>」で、「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。[[ケン・キージー|ケン・キ―ジ―]]や[[スチュアート・ブランド|スチュワート・ブランド]]らが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。
「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる、「サイケ・ロック」、「コスチュームダンス」、および「ライトショー」が組みあわされたライブをおこなった。[[ジェファーソン・エアプレイン]]をはじめ、{{仮リンク|グレート・ソサエティ|en|The Great Society (band)}}、{{仮リンク|マーブルズ|en|The Marbles (duo)}}が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日-23日、サンフランシスコの「ロングショアマン・ホール<ref>{{Cite web|url=http://www.dead.net/tags/longshoremens-hall|title=Longshoremen's Hall {{!}} Grateful Dead|accessdate=2018-09-10|website=www.dead.net|language=en}}</ref>」で、「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。[[ケン・キージー]]や[[スチュアート・ブランド]]らが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。


1966年2月までに、「ファミリードッグ」は主催者チェット・ヘルムスのもとで「ファミリードッグ・プロダクション」となり、のちに有名なプロモーターとなる[http://zip2000.server-shared.com/bill-graham.htm ビル・グレアム](Bill Graham<ref>{{Cite journal|date=2018-09-09|title=Bill Graham (promoter)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Bill_Graham_(promoter)&oldid=858750124|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)との共同作業をはじめ、「アバロン・ボールルーム<ref>{{Cite journal|date=2018-09-01|title=Avalon Ballroom|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Avalon_Ballroom&oldid=857500226|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」、「[http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A3%A5%EB%A5%E2%A5%A2%A1%A6%A5%A6%A5%A7%A5%B9%A5%C8 フィルモア・ウエスト]<ref>{{Cite journal|date=2018-08-29|title=Fillmore West|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Fillmore_West&oldid=857021241|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、ラルフ・J・グリーソン(Ralph.J.Gleason<ref>{{Cite journal|date=2018-04-09|title=Ralph J. Gleason|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ralph_J._Gleason&oldid=835548250|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は、「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。
1966年2月までに、「ファミリードッグ」は主催者チェット・ヘルムスのもとで「ファミリードッグ・プロダクション」となり、のちに有名なプロモーターとなる{{仮リンク|ビル・グレアム|en|Bill Graham (promoter)}}との共同作業をはじめ、「{{仮リンク|アバロン・ボールルーム|en|Avalon Ballroom}}」、「{{仮リンク|フィルモア・ウエスト|en|Fillmore West}}」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、{{仮リンク|ラルフ・J・グリーソン|en|Ralph J. Gleason}}は、「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。
[[ファイル:Haight Ashbury11.JPG|サムネイル|サンフランシスコのヴィクトリア朝アパート。共同生活(ルームシェア)は夢多き学生のスタンダードだった。]]
[[ファイル:Haight Ashbury11.JPG|サムネイル|サンフランシスコのヴィクトリア朝アパート。共同生活(ルームシェア)は夢多き学生のスタンダードだった。]]
最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価な[[ヴィクトリア朝|ビクトリア朝]]アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。[[グレイトフル・デッド]]や[[ジェファーソン・エアプレイン|ジェファーソン・エアプレーン]]、[[ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー|ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー]]、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス|クイックシルバー・メッセンジャー・サービス]]、[[ザ・シャーラタンズ (U.S.バンド)|ザ・シャーラタンズ]]らはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて、「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「'''ディガーズ―Diggers<ref>{{Cite journal|date=2018-09-08|title=Diggers|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Diggers&oldid=858578046|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>'''」を中心におこなわれた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。
最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価な[[ヴィクトリア朝|ビクトリア朝]]アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。[[グレイトフル・デッド]]や[[ジェファーソン・エアプレイン|ジェファーソン・エアプレーン]]、[[ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー|ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー]]、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス|クイックシルバー・メッセンジャー・サービス]]、[[ザ・シャーラタンズ (U.S.バンド)|ザ・シャーラタンズ]]らはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて、「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「'''{{仮リンク|ディガーズ|en|Diggers (theater)}}'''」を中心におこなわれた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。


=== サンセット・ストリップ・ライオット ===
=== サンセット・ストリップ・ライオット ===
1966年10月6日、[[カリフォルニア州]]はLSDを規制薬物と宣言し、この薬物を違法にした。'''サイケデリックスの犯罪化'''に対応して、サンフランシスコのヒッピーたちは、ゴールデンゲートパークで「ラブ・ページェント・ラリー」とよばれる集会をひらいた。サンフランシスコ・オラクルの共同設立者である[[ン・コーエン]](Allan Cohen<ref>{{Cite journal|date=2018-01-05|title=Allen Cohen (poet)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Allen_Cohen_(poet)&oldid=818727804|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも精神病患者でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。超越意識、宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。
1966年10月6日、[[カリフォルニア州]]はLSDを規制薬物と宣言し、この薬物を違法にした。'''サイケデリックスの犯罪化'''に対応して、サンフランシスコのヒッピーたちは、ゴールデンゲートパークで「ラブ・ページェント・ラリー」とよばれる集会をひらいた。{{仮リンク|サンフランシスコ・オラクル|en|San Francisco Oracle}}の共同設立者である{{仮リンク|ン・コーエン (詩人)|label=アレン・コーエン|en|Allen Cohen (poet)}}によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも精神病患者でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。超越意識、宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。


1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「'''ヒッピー暴動(The Sunset Strip curfew riots)'''<ref>{{Cite journal|date=2018-08-11|title=Sunset Strip curfew riots|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Sunset_Strip_curfew_riots&oldid=854492108|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は、「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、[[ジャック・ニコルソン]]や[[ピーター・フォンダ]]などの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「Riot on Sunset Strip」のモチーフとなり、[[バッファロー・スプリングフィールド]]の名曲「For What It's Worth<ref>{{Cite journal|date=2018-09-03|title=For What It's Worth|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=For_What_It%27s_Worth&oldid=857856230|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=857468520|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「'''{{仮リンク|ヒッピー暴動|en|Sunset Strip curfew riots}}'''」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は、「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、[[ジャック・ニコルソン]]や[[ピーター・フォンダ]]などの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「{{仮リンク|サンセット通りの暴動|en|Riot on Sunset Strip}}」のモチーフとなり、[[バッファロー・スプリングフィールド]]の名曲「{{仮リンク|For What It's Worth|en|For What It's Worth}}」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった。


== 1967年/サマー・オブ・ラブとサンフランシスコ ==
== 1967年/サマー・オブ・ラブとサンフランシスコ ==
[[ファイル:San Francisco Golden Gate Park Conservatory of Flowers.jpg|サムネイル|ヒューマン・ビーインが開かれたゴールデン・ゲート・パーク。広大な敷地をもつことから普段からヒッピーたちはよくここにつどった。]]
[[ファイル:San Francisco Golden Gate Park Conservatory of Flowers.jpg|サムネイル|ヒューマン・ビーインが開かれたゴールデン・ゲート・パーク。広大な敷地をもつことから普段からヒッピーたちはよくここにつどった。]]
[[ファイル:Vietnamdem.jpg|サムネイル|ペンタゴンを警備する兵士に意気揚々と花をさしだすフラワーチルドレンの若い女性。ハットもチューリップハットをかぶり、フラワーなイメージであふれている。]]
[[ファイル:Vietnamdem.jpg|サムネイル|ペンタゴンを警備する兵士に意気揚々と花をさしだすフラワーチルドレンの若い女性。ハットもチューリップハットをかぶり、フラワーなイメージであふれている。]]
1967年1月14日、アーチストのマイケル・ボーエン(Michael Bowen<ref>{{Cite journal|date=2018-08-20|title=Michael Bowen (artist)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Michael_Bowen_(artist)&oldid=855796849|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)が企画した[[ゴールデン・ゲート・パーク]]での野外フェス[[ヒューマン・ビーイン]]は、サンフランシスコの[[ゴールデン・ゲート・パーク|ゴールデンゲートパーク]]に3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日のイースター(復活祭)」にあわせたセントラル・パーク・ビーイン(The Central Park Be-In<ref>{{Cite journal|date=2018-09-09|title=Central Park be-ins|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Central_Park_be-ins&oldid=858723737|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」が催され、[[ルー・リード]]、[[イーディ・セジウィック]]らのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。
1967年1月14日、アーチストの{{仮リンク|マイケル・ボーエン|en|Michael Bowen (artist)}}が企画した[[ゴールデン・ゲート・パーク]]での野外フェス[[ヒューマン・ビーイン]]は、サンフランシスコの[[ゴールデン・ゲート・パーク]]に3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日の[[復活祭|イースター]]にあわせた『{{仮リンク|セントラル・パーク・ビーイン|en|Central Park be-ins}}が催され、[[ルー・リード]]、[[イーディ・セジウィック]]らのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。


6月16日から6月18日まで開かれた[[モントレー・ポップ・フェスティバル]]では、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「[[サマー・オブ・ラブ]]」のはじまりとなった。[[スコット・マッケンジー]]が歌う[[ジョン・フィリップス (音楽家)|ジョン・フィリップス]]の曲「[[花のサンフランシスコ]]」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「[[フラワーチャイルド|フラワー・チルドレン]](花の子供たち)」とよばれるようになる。
6月16日から6月18日まで開かれた[[モントレー・ポップ・フェスティバル]]では、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「[[サマー・オブ・ラブ]]」のはじまりとなった。[[スコット・マッケンジー]]が歌う[[ジョン・フィリップス (音楽家)|ジョン・フィリップス]]の曲「[[花のサンフランシスコ]]」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「[[フラワーチャイルド|フラワー・チルドレン]](花の子供たち)」とよばれるようになる。


1967年6月、前述のジャーナリストハーブ・カーン(Herb Caen<ref>{{Cite journal|date=2018-08-04|title=Herb Caen|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Herb_Caen&oldid=853386968|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)はなぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine<ref>{{Cite web|url=https://www.distinguished-mag.com/|title=Distinguished Magazine - Premier Lifestyle & Art Coffee Table Magazine {{!}} D Mag|accessdate=2018-09-10|website=Distinguished Magazine|language=en-US}}</ref>」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた{{efn2|カーンのこの認識は住民と若者の認識の「ズレ」や「ギャップ」のようなもので、当然どこの国にもある問題だとおもわれる。}}。
1967年6月、前述のジャーナリストの{{仮リンク|ハーブ・カーン|en|Herb Caen}}はなぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine<ref>{{Cite web|url=https://www.distinguished-mag.com/|title=Distinguished Magazine - Premier Lifestyle & Art Coffee Table Magazine {{!}} D Mag|accessdate=2018-09-10|website=Distinguished Magazine|language=en-US}}</ref>」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた{{efn2|カーンのこの認識は住民と若者の認識の「ズレ」や「ギャップ」のようなもので、当然どこの国にもある問題だとおもわれる。}}。


7月7日、[[タイム (雑誌)|タイム]]紙(TIME<ref>{{Cite journal|date=2018-09-08|title=Time (magazine)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Time_(magazine)&oldid=858620711|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している{{efn2|この倫理規定にはある程度「[[ニューエイジ]]思想」の価値観と通底したものがみられる。}}。<blockquote>'''「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」'''</blockquote>1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」、「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム「[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]」がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。
7月7日、[[タイム (雑誌)|タイム]]紙は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している{{efn2|この倫理規定にはある程度「[[ニューエイジ]]思想」の価値観と通底したものがみられる。}}。<blockquote>'''「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」'''</blockquote>1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」、「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム「[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]」がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。


夏のおわりまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードで'''ヒッピーの「死」'''を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに、「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。[[ビートルズ]]の[[ジョージ・ハリスン|ジョージ・ハリソン]]はヘイト・アシュベリーをおとずれ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDをあきらめるようにうながした。
夏のおわりまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードで'''ヒッピーの「死」'''を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに、「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。[[ビートルズ]]の[[ジョージ・ハリスン|ジョージ・ハリソン]]はヘイト・アシュベリーをおとずれ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDをあきらめるようにうながした。


結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで「道徳的パニック」を助長することとなった<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで「道徳的パニック」を助長することとなった。


== 1960年代末/ヒッピーの反戦思想 ==
== 1960年代末/ヒッピーの反戦思想 ==
1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。とくに人口の多い「[[ベビーブーマー|ベビー・ブーマー]]」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)にすんでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが、当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーのあいだに深いつながりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でもおなじであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった。
1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。とくに人口の多い「[[ベビーブーマー|ベビー・ブーマー]]」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)にすんでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが、当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーのあいだに深いつながりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でもおなじであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった。


新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「'''状況のステレオタイプ'''」を描いている。たとえば、[[:en:The_Love-Ins|ラブイン]]、[[:en:Psych-Out|サイアウト]]、[[:en:The_Trip_(1967_film)|トリップ]]などの映画、それ以外のより誠実で評判の高い[[イージー・ライダー|イージーライダー]][[:en:Alice's_Restaurant_(film)|アリスのレストラン]]もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル[[ヘアー (ミュージカル)|ヘアー]]は1967年に発表された。
新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「'''状況のステレオタイプ'''」を描いている。たとえば、[[:en:The_Love-Ins|ラブイン]][[ジャック・ニルソンの嵐の青春]][[白昼の幻想]]などの映画、それ以外のより誠実で評判の高い[[イージー・ライダー]][[:en:Alice's_Restaurant_(film)|アリスのレストラン]]もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル[[ヘアー (ミュージカル)|ヘアー]]は1967年に発表された。
[[ファイル:Abbie Hoffman visiting the University of Oklahoma circa 1969.jpg|サムネイル|イッピーズの指導者、アビー・ホフマン。東洋的な内面な変革を重要視したヒッピーとは違って、イッピーズはより政治的な運動を活発におこなった。彼らは強硬な政治にユーモアをもって抗議した。]]
[[ファイル:Abbie Hoffman visiting the University of Oklahoma circa 1969.jpg|サムネイル|イッピーズの指導者、アビー・ホフマン。東洋的な内面な変革を重要視したヒッピーとは違って、イッピーズはより政治的な運動を活発におこなった。彼らは強硬な政治にユーモアをもって抗議した。]]
一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」[[:en:Youth_International_Party|Youth International Party]]とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の[[復活祭]]に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークの[[グランド・セントラル駅]]を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者[[アビー・ホフマン]](Abbie Hoffman<ref>{{Cite journal|date=2018-08-15|title=Abbie Hoffman|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Abbie_Hoffman&oldid=855079933|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)と[[ジェリー・ルービン]](Jerry Rubin<ref>{{Cite journal|date=2018-08-30|title=Jerry Rubin|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Jerry_Rubin&oldid=857182510|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は、1967年10月の[[ベトナム戦争]]抗議デモで、「'''立ち上がり、きしょいミートボールをやめようぜ!'''(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンをかかげ、花をくばり、儀式によって「'''ペンタゴンを空中浮遊<ref>{{Cite news|title=Fifty Years Ago, a Rag-Tag Group of Acid-Dropping Activists Tried to "Levitate" the Pentagon|last=Manseau|first=Peter|url=https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/how-rag-tag-group-acid-dropping-activists-tried-levitate-pentagon-180965338/|accessdate=2018-09-11|language=en|work=Smithsonian}}</ref>'''」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者の「ピガ氏(Pigasus<ref>{{Cite journal|date=2018-07-08|title=Pigasus (politics)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Pigasus_(politics)&oldid=849398856|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>―本物のブタ)」を指名し、広くメディアにとりあげられた。
一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」こと[[青年国際党]]とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の[[復活祭]]に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークの[[グランド・セントラル駅]]を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者[[アビー・ホフマン]]と[[ジェリー・ルービン]]は、1967年10月の[[ベトナム戦争]]抗議デモで、「'''立ち上がり、きしょいミートボールをやめようぜ!'''(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンをかかげ、花をくばり、儀式によって「'''ペンタゴンを空中浮遊<ref>{{Cite news|title=Fifty Years Ago, a Rag-Tag Group of Acid-Dropping Activists Tried to "Levitate" the Pentagon|last=Manseau|first=Peter|url=https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/how-rag-tag-group-acid-dropping-activists-tried-levitate-pentagon-180965338/|accessdate=2018-09-11|language=en|work=Smithsonian}}</ref>'''」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者としてブタの「[[ピガスス]]」を指名し、広くメディアにとりあげられた。


英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部とみなされはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題にかんする幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国でおもに使用された用語だった。
英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部とみなされはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題にかんする幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国でおもに使用された用語だった。


1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「ひとびとの公園-[[:en:People's_Park_(Berkeley)|people's park]]」が国際的な注目をあつめた。[[カリフォルニア大学バークレー校]]は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m<sup>2</sup>)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、[[ロナルド・レーガン]]知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーのいたるところに花を植えた。
1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「{{仮リンク|ピープルズ・パーク (カリフォルニア州バークレー)|label=ピープルズ・パーク|en|People's Park (Berkeley)}}」が国際的な注目をあつめた。[[カリフォルニア大学バークレー校]]は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m<sup>2</sup>)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、[[ロナルド・レーガン]]知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーのいたるところに花を植えた。


1969年8月、[[ニューヨーク州]]のベテルでロックの大祭典[[ウッドストック・フェスティバル]]―[[:en:Woodstock|Wood stock festival]]」が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、[[リッチー・ヘブンス|リッチー・ヘヴンズ]]、[[ジョーン・バエズ]]、[[ジャニス・ジョプリン]]、[[グレイトフル・デッド]]、[[クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル]]、[[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング|クロスビー・スティルズ・ナッシュ・アンド・ヤング]]、[[カルロス・サンタナ]]、[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン|スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン]]、[[ザ・フー]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]、[[ジミ・ヘンドリックス]]など当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でおこなわれ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想をひろめる上で重要な役割をはたした。
1969年8月、[[ニューヨーク州]]のベテルでロックの大祭典[[ウッドストック・フェスティバル]]が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、[[リッチー・ヘブンス|リッチー・ヘヴンズ]]、[[ジョーン・バエズ]]、[[ジャニス・ジョプリン]]、[[グレイトフル・デッド]]、[[クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル]]、[[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング]]、[[カルロス・サンタナ]]、[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]、[[ザ・フー]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]、[[ジミ・ヘンドリックス]]など当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でおこなわれ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想をひろめる上で重要な役割をはたした。


1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初はウッドストック・イースト―Woodstock West」と名づけられ、正式名称は[[オルタモント・フリーコンサート]]―[[:en:Altamont_Free_Concert|Altamont Free Concert]]」とよばれた。[[ローリング・ストーンズ]]や[[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング|クロスビー・スティルズ・ナッシュ&ヤング]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]{{efn2|「あなただけを」「ホワイト・ラビット」などがヒットした。}}らをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族の[[ヘルズ・エンジェルス|ヘルス・エンジェルス]]は、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした。結果、18歳の黒人メレディス・ハンター([[:en:Death_of_Meredith_Hunter|Meredith Hunter]])は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打ののち、刺殺されしまう。
1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初はウッドストック・ウェストと名づけられ、正式名称は[[オルタモント・フリーコンサート]]とよばれた。[[ローリング・ストーンズ]]や[[クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]{{efn2|「あなただけを」「ホワイト・ラビット」などがヒットした。}}らをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族の[[ヘルズ・エンジェルス|ヘルス・エンジェルス]]は、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした。結果、18歳の黒人{{仮リンク|メレディス・ハンター|en|Death of Meredith Hunter}}は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打ののち、刺殺されしまう。


== 1970s - 現在/ベトナム戦争の終結 ==
== 1970s - 現在/ベトナム戦争の終結 ==
ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たち、いわゆる「時代の精神医たち」は1970年代にはいると衰えたかのように見えた。
ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たち、いわゆる「時代の精神医たち」は1970年代にはいると衰えたかのように見えた。


[[オルタモント・フリーコンサート]]の殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月には[[チャールズ・マンソン]]と彼のファミリーによって[[シャロン・テート]]殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス|クイックシルバー・メッセンジャー・サービス]]の曲What About Me?<ref>{{Cite journal|date=2017-11-24|title=What About Me (Quicksilver Messenger Service album)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=What_About_Me_(Quicksilver_Messenger_Service_album)&oldid=811922068|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「Ohio」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。
[[オルタモント・フリーコンサート]]の殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月には[[チャールズ・マンソン]]と彼のファミリーによって[[シャロン・テート]]殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス]]の曲『{{仮リンク|What About Me?|en|What About Me (Quicksilver Messenger Service album)}}にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「Ohio」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。


ヒッピースタイルの多くは、1970年代初めにはアメリカ主流社会に組みこまれていた。大規模ロックコンサートは1967年、KFRCファンタジーフェアマジックマウンテンミュージックフェスティバル<ref>{{Cite journal|date=2018-08-22|title=Fantasy Fair and Magic Mountain Music Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Fantasy_Fair_and_Magic_Mountain_Music_Festival&oldid=855969589|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>、[[モントレー・ポップ・フェスティバル|モントレーポップフェスティバル]]を経て、1968年の英国[[ワイト島ライヴ1970|ワイト島]]フェスティバルで基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していた[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]は後に失脚する。
ヒッピースタイルの多くは、1970年代初めにはアメリカ主流社会に組みこまれていた。大規模ロックコンサートは1967年、{{仮リンク|ファンタジーフェアマジックマウンテンミュージックフェスティバル|label=KFRCファンタジーフェアとマジックマウンテンミュージックフェスティバル|en|Fantasy Fair and Magic Mountain Music Festival}}、[[モントレー・ポップ・フェスティバル]]を経て、1968年の英国[[ワイト島ライヴ1970|ワイト島フェスティバル]]で基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していた[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]は後に失脚する。


1970年代半ばには、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争終結と兵役徴集の終わりにともない、アメリカ建国200周年記念 ([[:en:United States Bicentennial]]) に関連した愛国的感情が高まった。アメリカはゆっくり様変わりしていった。やがて、ロンドンやマンチェスターでパンクが出現し、ニューヨークとロサンゼルスでは主流メディアがヒッピーへの関心を失った。同時に、[[モッズ]]のリバイバル、[[スキンヘッド|スキンヘッズ]]、テディーボーイズ、[[ゴシック・ロック|ゴシック]](ゴス)などの新しい若者文化が登場して、センセーショナルな話題を振りまいた。アシッド・ロックは、[[プログレッシブ・ロック|プログレ]]、[[ヘヴィメタル|ヘビメタ]]、[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]、[[パンク・ロック|パンク]]にまでつながった。ヒッピーの理想は、パンクの[[アナキズム|アナーキズム]]やそののちの若者のサブカルチャー、特に「[[セカンド・サマー・オブ・ラブ]]」に大きな影響をあたえた。
1970年代半ばには、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争終結と兵役徴集の終わりにともない、{{仮リンク|アメリカ建国200周年記念|en|United States Bicentennial}}に関連した愛国的感情が高まった。アメリカはゆっくり様変わりしていった。やがて、ロンドンやマンチェスターでパンクが出現し、ニューヨークとロサンゼルスでは主流メディアがヒッピーへの関心を失った。同時に、[[モッズ]]のリバイバル、[[スキンヘッド|スキンヘッズ]]、テディーボーイズ、[[ゴシック・ロック|ゴシック]](ゴス)などの新しい若者文化が登場して、センセーショナルな話題を振りまいた。アシッド・ロックは、[[プログレッシブ・ロック]]、[[ヘヴィメタル]]、[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]、[[パンク・ロック]]にまでつながった。ヒッピーの理想は、パンクの[[アナキズム]]やそののちの若者のサブカルチャー、特に「[[セカンド・サマー・オブ・ラブ]]」に大きな影響をあたえた。
ヒッピー運動の理想を生きようとしたヒッピー・コミューンは社会の流れとは別のところですこしづつ豊かになった。西海岸[[オレゴン州]]にはかなりの数のコミューンに住む人々がおり、幾人かは消え去り、幾人かはまだかたちをかえながらもコミューン生活を続けている。多くのヒッピーは長期的なライフスタイルへの取り組みをおこなっていたが、ヒッピーは1980年代に「売り切れ」になり、物質主義的消費文化の一部となったと主張する人もいる。実際、ヒッピーの文化は一度もちゃんと人々の目に見えていなかったが、ヒッピーやネオヒッピーは大学のキャンパス、コミューン、集会や祭りで見かけることがある。その多くは、平和、愛、そして地域社会の価値観に適応している。もしかすると、ヒッピーは世界中のボヘミアンの養護施設でも見つかるのかもしれない。[[ファイル:TRANSSERBIA - FluoDeco.jpg|サムネイル|サイケデリックトランスに興じる若者たち。反戦運動なき現代ではヒッピーはテクノロジーと結びつき、むしろファッションや娯楽的な要素が強いサブカルチャーとなっている。]]20世紀の終わりに向かって、1960年代のサイケデリックなカウンターカルチャーの特質のいくつかを取り入れた 「サイバーヒッピー」の傾向が浮かび上がった。ヒッピー・サブカルチャーはインドの[[ゴア州]]から生まれた[[サイケデリックトランス|サイケデリック・トランス]]にもリンクしている<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
ヒッピー運動の理想を生きようとしたヒッピー・コミューンは社会の流れとは別のところですこしづつ豊かになった。西海岸[[オレゴン州]]にはかなりの数のコミューンに住む人々がおり、幾人かは消え去り、幾人かはまだかたちをかえながらもコミューン生活を続けている。多くのヒッピーは長期的なライフスタイルへの取り組みをおこなっていたが、ヒッピーは1980年代に「売り切れ」になり、物質主義的消費文化の一部となったと主張する人もいる。実際、ヒッピーの文化は一度もちゃんと人々の目に見えていなかったが、ヒッピーやネオヒッピーは大学のキャンパス、コミューン、集会や祭りで見かけることがある。その多くは、平和、愛、そして地域社会の価値観に適応している。もしかすると、ヒッピーは世界中のボヘミアンの養護施設でも見つかるのかもしれない。[[ファイル:TRANSSERBIA - FluoDeco.jpg|サムネイル|サイケデリックトランスに興じる若者たち。反戦運動なき現代ではヒッピーはテクノロジーと結びつき、むしろファッションや娯楽的な要素が強いサブカルチャーとなっている。]]20世紀の終わりに向かって、1960年代のサイケデリックなカウンターカルチャーの特質のいくつかを取り入れた 「サイバーヒッピー」の傾向が浮かび上がった。ヒッピー・サブカルチャーはインドの[[ゴア州]]から生まれた[[サイケデリックトランス|サイケデリック・トランス]]にもリンクしている。


== ヒッピーの特徴 ==
== ヒッピーの特徴 ==
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初期には、その彩り豊かなファッションをつうじて、たがいにたがいを認識し、その個性を尊重しあった。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずにあらわし、社会の「まっすぐさ」と「硬さ-スクエア」から距離をおいて、「利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力」という価値を重んじた。
初期には、その彩り豊かなファッションをつうじて、たがいにたがいを認識し、その個性を尊重しあった。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずにあらわし、社会の「まっすぐさ」と「硬さ-スクエア」から距離をおいて、「利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力」という価値を重んじた。


やがて、多くの思慮深いヒッピーは、特に[[チャールズ・マンソン]]のようなカルト宗教のリーダーが表面的にヒッピーファッションを取りいれはじめたり、警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンの[[フランク・ザッパ|フランクザッパ]]は、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ。」と聴衆に忠告した<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
やがて、多くの思慮深いヒッピーは、特に[[チャールズ・マンソン]]のようなカルト宗教のリーダーが表面的にヒッピーファッションを取りいれはじめたり、警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンの[[フランク・ザッパ|フランクザッパ]]は、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ。」と聴衆に忠告した。


=== アートとファッション ===
=== アートとファッション ===
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男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー、「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、だぼだぼなルーズフィットで反対した。
男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー、「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、だぼだぼなルーズフィットで反対した。


また衣服の手づくりは自己肯定感を高め、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶していた<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
また衣服の手づくりは自己肯定感を高め、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶していた。


== ラブ&セックス―アメリカのセックス革命 ==
== ラブ&セックス―アメリカのセックス革命 ==
ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは、「フリー・セックスを好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちはセックス革命を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは平和のためのベッド・イン、ラブ・インで、反戦平和を主張した。
ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは、「フリー・セックスを好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちはセックス革命を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは平和のためのベッド・イン、ラブ・インで、反戦平和を主張した。
1966年、研究チーム「マスターアンドジョンソン(Masters and Johnson<ref>{{Cite journal|date=2018-08-06|title=Masters and Johnson|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Masters_and_Johnson&oldid=853767377|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」によってセックスの臨床研究「ヒューマン・セックス・レスポンス(Human Sexual Response<ref>{{Cite journal|date=2018-08-23|title=Human sexual response cycle|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Human_sexual_response_cycle&oldid=856154905|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」が出版された。しばらくの小康状態をへて、1969年、精神科医デビット・ルーベン(David Reuben<ref>{{Cite journal|date=2017-10-17|title=David Reuben (author)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=David_Reuben_(author)&oldid=805747600|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。
1966年、研究チーム「{{仮リンク|マスターズ・アンドジョンソン|en|Masters and Johnson}}」によってセックスの臨床研究 "[[:en:Human sexual response cycle|Human Sexual Response]]" が出版された。しばらくの小康状態をへて、1969年、精神科医{{仮リンク|デビット・ルーベン|en|David Reuben (author)}}が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。
1972年には、イギリス人科学者アレックス・コンフォート(Alex Comfort)によるセックス・マニュアル「性のよろこび―The Joy of Sex<ref>{{Cite journal|date=2018-08-13|title=The Joy of Sex|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Joy_of_Sex&oldid=854809425|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらくまえから進行中だった。
1972年には、イギリス人科学者アレックス・コンフォート(Alex Comfort)によるセックス・マニュアル{{仮リンク|ジョイ・オブ・セックス|en|The Joy of Sex}}が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらくまえから進行中だった。


ヒッピーたちは、[[ビート・ジェネレーション]]から性や愛情に関するさまざまなカウンターカルチャー的見識と実践を受け継いだ。ビートニクスの著述はヒッピーに影響をあたえ、より開かれたセックスをし、罪悪感や嫉妬の感情を減らそうと試みた。当時、登場したヒッピーのスローガンの1つは、「もしそれが気持ちが良ければ、それをやろう!」だった。それは多くの場合「あなたがうれしいときはいつでも、あなたが喜べる人とは誰とでも、自由に愛してもかまわない」という意だった。
ヒッピーたちは、[[ビート・ジェネレーション]]から性や愛情に関するさまざまなカウンターカルチャー的見識と実践を受け継いだ。ビートニクスの著述はヒッピーに影響をあたえ、より開かれたセックスをし、罪悪感や嫉妬の感情を減らそうと試みた。当時、登場したヒッピーのスローガンの1つは、「もしそれが気持ちが良ければ、それをやろう!」だった。それは多くの場合「あなたがうれしいときはいつでも、あなたが喜べる人とは誰とでも、自由に愛してもかまわない」という意だった。
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一人の主要パートナーと恋愛関係をもつことができるが、別の異性の存在が彼、彼女を引きつけた場合、彼、彼女は暴力や嫉妬になやまされることなく、べつの恋愛関係を探求することがゆるされた。つまり「フリーセックス」と「フリ―ラブ」(性愛の自由)である。
一人の主要パートナーと恋愛関係をもつことができるが、別の異性の存在が彼、彼女を引きつけた場合、彼、彼女は暴力や嫉妬になやまされることなく、べつの恋愛関係を探求することがゆるされた。つまり「フリーセックス」と「フリ―ラブ」(性愛の自由)である。


ヒッピーは、以下のような、古い時代の急進的な社会改革者が唱えた「FREE LOVE<ref>{{Cite journal|date=2018-08-25|title=Free love|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Free_love&oldid=856423785|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>―[[自由恋愛主義]]」のスローガンを受け入れていた<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>。 <blockquote>'''「自由な愛がすべての愛をつくる。恋愛、結婚、セックス、出産のパッケージは時代遅れのものとなった。愛はもはや一人だけに限られたものではなく、あなたはあなた自身が選んだ人を愛することができる。実際、愛はセックスパートナーだけとのものではなく、だれとでも分けあうことができるものだ」'''</blockquote>
ヒッピーは、以下のような、古い時代の急進的な社会改革者が唱えた「[[自由恋愛主義]]」のスローガンを受け入れていた。 <blockquote>'''「自由な愛がすべての愛をつくる。恋愛、結婚、セックス、出産のパッケージは時代遅れのものとなった。愛はもはや一人だけに限られたものではなく、あなたはあなた自身が選んだ人を愛することができる。実際、愛はセックスパートナーだけとのものではなく、だれとでも分けあうことができるものだ」'''</blockquote>


== 旅 ==
== 旅 ==
ヒッピーは旅好きだった。お金、ホテルの予約、その他の旅行の必需品を持っていくかどうかはあまり心配せず、気ままに旅をした。彼らはファミリーネットワークをもっており、突然の一晩宿泊客を歓迎したので、さまざまな場所への自由な移動が可能となり、お互いのニーズを満たすために協力しあった。このような生活様式は、レインボーファミリー([http://fairehistory.org/index.html Rainbow Family])グループ、ニューエイジ・トラベラー、そしてニュージーランドの「ハウス・トラッカー(移動住宅生活者)たちのあいだでは今でも見られる。
ヒッピーは旅好きだった。お金、ホテルの予約、その他の旅行の必需品を持っていくかどうかはあまり心配せず、気ままに旅をした。彼らはファミリーネットワークをもっており、突然の一晩宿泊客を歓迎したので、さまざまな場所への自由な移動が可能となり、お互いのニーズを満たすために協力しあった。このような生活様式は、{{仮リンク|レインボーファミリー|en|Rainbow Family}}グループ、ニューエイジ・トラベラー、そしてニュージーランドの「ハウス・トラッカー(移動住宅生活者)たちのあいだでは今でも見られる。
[[ファイル:1983 Bedford J5 house truck (36778520823).jpg|サムネイル|ハウストラッカー。住居が移動できる。]]
[[ファイル:1983 Bedford J5 house truck (36778520823).jpg|サムネイル|ハウストラッカー。住居が移動できる。]]
この「フリー&フロー(Free&Float)」なスタイルでの旅行は、一部のヒッピーたちのトラックとバスに派生した。1974年に出版された「Roll Your Own: Complete Guide to Living in a Truck, Bus, Van or Camper」に記述されているように、彼らは遊牧民(ノマド)的な生活習慣を実践するため、トラックやバスの車体を手作りの「移動住宅」に改造した。これらの移動住宅の中には、ベッド、トイレ、シャワー、調理設備を備えた非常に凝ったものもあった。
この「フリー&フロー(Free&Float)」なスタイルでの旅行は、一部のヒッピーたちのトラックとバスに派生した。1974年に出版された「Roll Your Own: Complete Guide to Living in a Truck, Bus, Van or Camper」に記述されているように、彼らは遊牧民(ノマド)的な生活習慣を実践するため、トラックやバスの車体を手作りの「移動住宅」に改造した。これらの移動住宅の中には、ベッド、トイレ、シャワー、調理設備を備えた非常に凝ったものもあった。


西海岸では、フィリリスとロン・パターソン(Phyllis and Ron Patterson)が1963年に組織したルネッサンス・フェア―ズ(the Renaissance Faires<ref>{{Cite web|url=http://fairehistory.org/index.html|title=Welcome to Faire History - the Origins of Pleasure Faire|accessdate=2018-09-17|website=fairehistory.org}}</ref>)で独自のライフスタイルが生まれた。夏と秋のあいだは家族全員が移動住宅トラックとバスで一緒に旅し、カリフォルニア南部と北部の開催地につどい、1週間ものあいだ工芸品を製作、週末はエリザベス風のコスチュームを着用してパフォーマンスに参加、それから会場のブースにて製作したハンドメイドの工芸品を売った。多くの若者たちはこれまでにない特別なハプニングを体験した。このライフスタイルのピークは、1969年8月15日から18日にかけて、ニューヨークのベテル近郊の[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストックフェスティバル]]で、40万〜50万人が集まった。
西海岸では、フィリリス・パターソン{{仮リンク|ロン・パターソン|en|Ron Patterson}}が1963年に組織した{{仮リンク|ルネッサンス・フェア|en|Renaissance fair}}で独自のライフスタイルが生まれた。夏と秋のあいだは家族全員が移動住宅トラックとバスで一緒に旅し、カリフォルニア南部と北部の開催地につどい、1週間ものあいだ工芸品を製作、週末はエリザベス風のコスチュームを着用してパフォーマンスに参加、それから会場のブースにて製作したハンドメイドの工芸品を売った。多くの若者たちはこれまでにない特別なハプニングを体験した。このライフスタイルのピークは、1969年8月15日から18日にかけて、ニューヨークのベテル近郊の[[ウッドストック・フェスティバル|ウッドストックフェスティバル]]で、40万〜50万人が集まった。


=== ヒッピーの道 ===
=== ヒッピーの道 ===
1969年から1971年の間に数十万人のヒッピーがおこなった旅行は、「[[ヒッピー・トレイル]](ヒッピーの道)」と言われた。ほとんど荷物を持たず、少額の現金で、だいたいみんな同じルートをたどった。ヨーロッパを越えてアテネとイスタンブールに行き、つぎにトルコの中心部からエルズルムを経由して列車で、バスでイランへ、タブリーズ経由で、テヘランからマシュハドへ、アフガニスタンとヘラート、南アフガニスタンからカンダハル経由、カブール経由、キーバー・パス経由でパキスタンへ、ラワルピンディとラホール経由でインドのフロンティアに到着した。インドでは、ヒッピーは多くの異なる目的地へいったが、トリヴァンドラム(ケーララ州)のゴアとコバラムのビーチに大量に集まったり、国境を越えたネパールのカトマンズで数ヶ月過ごしたりした。カトマンズでは、ほとんどのヒッピーたちがカトマンズ・ダルバール広場の近くにまだ存在するフリーク・ストリート(Freak Street)という静かな環境の中で時を過ごした<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
1969年から1971年の間に数十万人のヒッピーがおこなった旅行は、「[[ヒッピー・トレイル]](ヒッピーの道)」と言われた。ほとんど荷物を持たず、少額の現金で、だいたいみんな同じルートをたどった。ヨーロッパを越えてアテネとイスタンブールに行き、つぎにトルコの中心部からエルズルムを経由して列車で、バスでイランへ、タブリーズ経由で、テヘランからマシュハドへ、アフガニスタンとヘラート、南アフガニスタンからカンダハル経由、カブール経由、キーバー・パス経由でパキスタンへ、ラワルピンディとラホール経由でインドのフロンティアに到着した。インドでは、ヒッピーは多くの異なる目的地へいったが、トリヴァンドラム(ケーララ州)のゴアとコバラムのビーチに大量に集まったり、国境を越えたネパールのカトマンズで数ヶ月過ごしたりした。カトマンズでは、ほとんどのヒッピーたちがカトマンズ・ダルバール広場の近くにまだ存在するフリーク・ストリート(Freak Street)という静かな環境の中で時を過ごした。


== 精神と宗教 ==
== 精神と宗教 ==
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なんにんかのヒッピーは[[ネオ・ペイガニズム]](復興異教主義)、特に多神教的魔女崇拝の一派「[[ウイッカ]]」を信仰していた。ハーバード大学教授の心理学者[[ティモシー・リアリー]]は、オカルティストの[[アレイスター・クロウリー|アリスター・クローリー]]をヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。
なんにんかのヒッピーは[[ネオ・ペイガニズム]](復興異教主義)、特に多神教的魔女崇拝の一派「[[ウイッカ]]」を信仰していた。ハーバード大学教授の心理学者[[ティモシー・リアリー]]は、オカルティストの[[アレイスター・クロウリー|アリスター・クローリー]]をヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。


1991年、宗教学者ティモシー・ミラー(Timothy Mille<ref>{{Cite journal|date=2018-05-04|title=Timothy Miller|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Timothy_Miller&oldid=839599859|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」のなかで、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教とおなじように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めをおこなうための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。
1991年、宗教学者{{仮リンク|ティモシー・ミラー|en|Timothy Miller}}はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」のなかで、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教とおなじように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めをおこなうための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。


「ヒッピーの旅(The Hippie Trip<ref>{{Cite web|url=https://www.iuniverse.com/bookstore/bookdetail.aspx?bookid=SKU-000002257|title=The Hippie Trip|accessdate=2018-09-17|website=www.iuniverse.com}}</ref>)」の著者ルイス・ヤブロンスキー ([[:de:Lewis_Yablonsky|Lewis Yablonsky]])は、ヒッピーたちのあいだでもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学のステファン・ガスキン([[:en:Stephen_Gaskin|Stephen Gaskin]])教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまでふくらみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えからみちびきだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1,500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。
「ヒッピーの旅(The Hippie Trip)」の著者{{仮リンク|ルイス・ヤブロンスキー|de|Lewis Yablonsky}}は、ヒッピーたちのあいだでもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学の{{仮リンク|スティーヴン・ガスキン|en|Stephen_Gaskin}}教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまでふくらみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えからみちびきだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1,500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。


[[ティモシー・リアリー]]はアメリカの[[ハーバード大学]]の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、LSDを「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「スピリチュアル・ディスカバリー同盟(League for Spiritual Discovery<ref>{{Cite journal|date=2018-05-27|title=League for Spiritual Discovery|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=League_for_Spiritual_Discovery&oldid=843260068|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>(LSD))」を設立した。信仰の自由にもとづいてLSDや他のドラッグを瞑想などにもちいるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、[[ビートルズ]]のアルバム「[[リボルバー (アルバム)|リボルバー]]」のジョンレノンの曲「[[トゥモロー・ネバー・ノウズ]]」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「[[ヒューマン・ビー・イン]]」に招待され、そこで有名な「ターンオン、チューンイン、ドロップアウト―Turn on,Tune in,Drop out<ref>{{Cite journal|date=2018-08-20|title=Turn on, tune in, drop out|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Turn_on,_tune_in,_drop_out&oldid=855666266|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」というフレーズを唱えた。
[[ティモシー・リアリー]]はアメリカの[[ハーバード大学]]の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、[[LSD (薬物)|ドラッグのLSD]]を「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「{{仮リンク|スピリチュアル・ディスカバリー同盟|en|League for Spiritual Discovery}}」(略称LSD))」を設立した。信仰の自由にもとづいてLSDや他のドラッグを瞑想などにもちいるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、[[ビートルズ]]のアルバム「[[リボルバー (アルバム)|リボルバー]]」のジョンレノンの曲「[[トゥモロー・ネバー・ノウズ]]」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「[[ヒューマン・ビー・イン]]」に招待され、そこで有名な「[[Turn on, tune in, drop out]]」というフレーズを唱えた。


英国のオカルティスト、悪魔崇拝の[[アレイスター・クロウリー|アリスター・クローリー]]は、およそ10年ものあいだロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム「[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]」のカバースリーブの登場人物の一人として彼をえらんだ。1970年代のハードロック・バンド、[[レッド・ツェッペリン|レッドツェッペリン]]もクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、[[ドアーズ]]もコンピレーションアルバム「13」の裏表紙で[[ジム・モリソン|ジム・モリスン]]や他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
英国のオカルティスト、悪魔崇拝の[[アレイスター・クロウリー|アリスター・クローリー]]は、およそ10年ものあいだロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム「[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (アルバム)|サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]」のカバースリーブの登場人物の一人として彼をえらんだ。1970年代のハードロック・バンド、[[レッド・ツェッペリン|レッドツェッペリン]]もクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、[[ドアーズ]]もコンピレーションアルバム「13」の裏表紙で[[ジム・モリソン|ジム・モリスン]]や他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。


== ヒッピー時代の思想家 ==
== ヒッピー時代の思想家 ==
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* ヘルベルト・マルクーゼ
* ヘルベルト・マルクーゼ
ユダヤ系ドイツ人のヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse<ref>{{Cite journal|date=2018-09-21|title=Herbert Marcuse|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Herbert_Marcuse&oldid=860618441|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は1934年ナチス台頭によって、アメリカへの亡命を余儀なくされた。ドイツで[[フランクフルト学派]]だったマルクーゼはニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとり、資本主義分析と批判を展開し、「エロス的文明」(1955)、「[[一次元的人間]]」(1964)などの著書を出版した。彼の思想は、現代工業社会は人間の「[[リビドー]]」や欲望の昇華、性的な本能を低下させ、それらを身体性の残りの部分として鋳型にいれてしまっている。人間の原始的なエロス、欲望や本能、身体性を取りもどさなくてはならないというものである。なお、マルクーゼが影響を与えたのは新左翼であって、ヒッピーに対する影響は小さい。60年代にマルクーゼに影響を受けた人物にはアンジェラ・デイヴィス、アビー・ホフマン、ノーム・チョムスキーらがいた。彼の考えは「セックス革命」と、欧米のカウンターカルチャーに影響をあたえた。
ユダヤ系ドイツ人の{{仮リンク|ヘルベルト・マルクーゼ|en|Herbert Marcuse}}は1934年ナチス台頭によって、アメリカへの亡命を余儀なくされた。ドイツで[[フランクフルト学派]]だったマルクーゼはニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとり、資本主義分析と批判を展開し、「エロス的文明」(1955)、「[[一次元的人間]]」(1964)などの著書を出版した。彼の思想は、現代工業社会は人間の「[[リビドー]]」や欲望の昇華、性的な本能を低下させ、それらを身体性の残りの部分として鋳型にいれてしまっている。人間の原始的なエロス、欲望や本能、身体性を取りもどさなくてはならないというものである。なお、マルクーゼが影響を与えたのは新左翼であって、ヒッピーに対する影響は小さい。60年代にマルクーゼに影響を受けた人物にはアンジェラ・デイヴィス、アビー・ホフマン、ノーム・チョムスキーらがいた。彼の考えは「セックス革命」と、欧米のカウンターカルチャーに影響をあたえた。


* セオドア・ローザック
* セオドア・ローザック
シカゴで1933年に生まれた歴史学者[[セオドア・ローザック]](Theodore Roszak<ref>{{Cite journal|date=2018-08-01|title=Theodore Roszak (scholar)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Theodore_Roszak_(scholar)&oldid=852956594|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は「[[カウンターカルチャー|カウンター・カルチャー]]」の名づけ親となった。1969年、「カウンターカルチャーの誕生- The making of Counter culture<ref>{{Cite journal|date=2017-08-11|title=The Making of a Counter Culture|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Making_of_a_Counter_Culture&oldid=795087380|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」を出版した。この本でローザックは若者がおかれている状況、伝統的なセックス観にしばられた状況などを分析した。さらに「サイケデリック体験」はちがった意識を「行動の冒険」によって具体化させるものだとし、LSDなどの幻覚剤はこの目的にたいして有用であると考えた。彼は平和主義者、反ベトナム戦争、環境運動、セックス革命などそれまで散在していた多様なグループが、カウンターカルチャーのなかで合流していることを分析し、指摘した。若者は、「平和」や「正義」や「自由」の議論をするために大学のキャンパスを占拠し、上から下のコントロールを否定し、これが「カウンターカルチャー」となった<ref>{{Cite journal|author=Fernando Cohnen|year=2018|title=Nace una sociedad más libre|journal=muy HISTORIA|volume=|page=}}</ref>
シカゴで1933年に生まれた歴史学者[[セオドア・ローザック]]は「[[カウンターカルチャー]]」の名づけ親となった。1969年、書籍 "[[:en:The Making of a Counter Culture|The Making of a Counter Culture]]"を出版した。この本でローザックは若者がおかれている状況、伝統的なセックス観にしばられた状況などを分析した。さらに「サイケデリック体験」はちがった意識を「行動の冒険」によって具体化させるものだとし、LSDなどの幻覚剤はこの目的にたいして有用であると考えた。彼は平和主義者、反ベトナム戦争、環境運動、セックス革命などそれまで散在していた多様なグループが、カウンターカルチャーのなかで合流していることを分析し、指摘した。若者は、「平和」や「正義」や「自由」の議論をするために大学のキャンパスを占拠し、上から下のコントロールを否定し、これが「カウンターカルチャー」となった。


== ユートピア社会主義としてのヒッピー ==
== ユートピア社会主義としてのヒッピー ==
フランスの歴史家ロナルド・クレア(Ronald Creagh<ref>{{Cite journal|date=2018-02-18|title=Ronald Creagh|url=https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Ronald_Creagh&oldid=145613158|journal=Wikipédia|language=fr}}</ref>)はヒッピー運動を「[[ユートピア]]社会主義」の最後の壮大な復活と考えた。
フランスの歴史家{{仮リンク|ロナルド・クレア|en|Ronald Creagh}}はヒッピー運動を「[[ユートピア]]社会主義」の最後の壮大な復活と考えた。


クレアはヒッピーの特徴を、これまでのような「政治的な革命」や「国によって推し進められた改革の行動」ではなく、現行のシステムのなかで、社会主義的な人格がカウンターカルチャーのクリエーションをつうじて「社会の変容」を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会のなかで理想的なコミュニティをつくりあげようとする欲求だとした{{efn2|これは1968年のフランスの[[五月革命]]と同様の精神(68年精神)であり、いわゆる「男性型」のハードな革命ではなく、「女性型のソフトな変容、ソフトな革命としてとらえるべきなのだろう。}}。
クレアはヒッピーの特徴を、これまでのような「政治的な革命」や「国によって推し進められた改革の行動」ではなく、現行のシステムのなかで、社会主義的な人格がカウンターカルチャーのクリエーションをつうじて「社会の変容」を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会のなかで理想的なコミュニティをつくりあげようとする欲求だとした{{efn2|これは1968年のフランスの[[五月革命]]と同様の精神(68年精神)であり、いわゆる「男性型」のハードな革命ではなく、「女性型のソフトな変容、ソフトな革命としてとらえるべきなのだろう。}}。


[[ファイル:GermanyPeaceSymbol.jpg|サムネイル|ピースマーク。ピースマークはもともと核軍縮のキャンペーンのロゴだったが、それをベトナム反戦デモの参加者が使用して、世界に広まるようになった。今日では「世界平和」を願うシンボルのひとつでもある。]]
[[ファイル:GermanyPeaceSymbol.jpg|サムネイル|ピースマーク。ピースマークはもともと核軍縮のキャンペーンのロゴだったが、それをベトナム反戦デモの参加者が使用して、世界に広まるようになった。今日では「世界平和」を願うシンボルのひとつでもある。]]
「ピースマーク」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちのあいだでポピュラーになった。ヒッピーはたいていは平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」([[:en:Youth_International_Party|Youth International Party]])にいたるまで幅広かった。
「ピースマーク」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちのあいだでポピュラーになった。ヒッピーはたいていは平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」([[青年国際党]])にいたるまで幅広かった。


公民権運動のリーダーでありブラックパンサ―の共同設立者[[ボビー・シール]]([[:en:Bobby_Seale|Bobby Seale]])はイッピーズのリーダーのひとり[[ジェリー・ルービン]](Jerry Rubin)とイッピーとヒッピーの違いを議論した。ルービンは、ヒッピーがまだ政治的になる必要性を感じていないので、イッピーズがヒッピームーブメントの「政治的な翼」だとし、ヒッピーの政治活動に関して、「彼らの多くは「石」を選択するが「平和」をのぞんでおり、この選択をおわらせたい思っている」と述べた。非暴力的政治デモにくわえて、ヒッピーのベトナム戦争への反対には、戦争に反対する政治的なグループの組織化、軍隊ではたらくこと、ベトナムの歴史とより大きな戦争の政治的背景を大学キャンパスで教えることなどの「拒否」がふくまれていた。
公民権運動のリーダーでありブラックパンサ―の共同設立者[[ボビー・シール]]はイッピーズのリーダーのひとり[[ジェリー・ルービン]]とイッピーとヒッピーの違いを議論した。ルービンは、ヒッピーがまだ政治的になる必要性を感じていないので、イッピーズがヒッピームーブメントの「政治的な翼」だとし、ヒッピーの政治活動に関して、「彼らの多くは「石」を選択するが「平和」をのぞんでおり、この選択をおわらせたい思っている」と述べた。非暴力的政治デモにくわえて、ヒッピーのベトナム戦争への反対には、戦争に反対する政治的なグループの組織化、軍隊ではたらくこと、ベトナムの歴史とより大きな戦争の政治的背景を大学キャンパスで教えることなどの「拒否」がふくまれていた。


1967年の、[[スコット・マッケンジー]]の歌う「サンフランシスコ([[花のサンフランシスコ]])」はそれ以降にサンフランシスコへ帰国したヴェトナム戦ベテラン兵士たちの帰国歌となった。マッケンジーはベトナムの退役軍人に「サンフランシスコ」という、逆転した意味でのアメリカ市民の思いを捧げ、2002年にはベトナム退役軍人記念館の献辞20周年を祝った。 ヒッピーの政治的表現は、しばしば彼らがもとめていた変化を実行するために、社会的な「ドロップアウト」のかたちを見せた。
1967年の、[[スコット・マッケンジー]]の歌う「サンフランシスコ([[花のサンフランシスコ]])」はそれ以降にサンフランシスコへ帰国したヴェトナム戦ベテラン兵士たちの帰国歌となった。マッケンジーはベトナムの退役軍人に「サンフランシスコ」という、逆転した意味でのアメリカ市民の思いを捧げ、2002年にはベトナム退役軍人記念館の献辞20周年を祝った。 ヒッピーの政治的表現は、しばしば彼らがもとめていた変化を実行するために、社会的な「ドロップアウト」のかたちを見せた。


ヒッピーに動機づけられ、ささえられた政治運動は、1960年代のバック・トゥ・ザ・ランド―Back to the land movement<ref>{{Cite journal|date=2018-08-09|title=Back-to-the-land movement|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Back-to-the-land_movement&oldid=854117149|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>(農村回帰)運動への企業協力、代替エネルギー、自由出版運動、有機農業などだった。ディガーズ(Diggers<ref>{{Cite journal|date=2018-09-08|title=Diggers|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Diggers&oldid=858578046|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)として知られるサンフランシスコのグループは、現代の大衆消費社会へラジカルな批判をくわえた。株式をすて、無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、お金を払って、無料の音楽コンサートを組織したり、政治芸術のパフォーマンスをおこなった。彼らは、中世英国のディガーズ(Diggers(1649-50))からその名を借りて、'''お金と資本主義のない「小さな社会」を創造しようとした。'''
ヒッピーに動機づけられ、ささえられた政治運動は、1960年代の{{仮リンク|バック・トゥ・ザ・ランド|label=バック・トゥ・ザ・ランド(農村回帰)運動|en|Back-to-the-land movement}}への企業協力、代替エネルギー、自由出版運動、有機農業などだった。{{仮リンク|ディガーズ|en|Diggers (theater)}}として知られるサンフランシスコのグループは、現代の大衆消費社会へラジカルな批判をくわえた。株式をすて、無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、お金を払って、無料の音楽コンサートを組織したり、政治芸術のパフォーマンスをおこなった。彼らは、中世英国の[[真正水平派]](Diggers)からその名を借りて、'''お金と資本主義のない「小さな社会」を創造しようとした。'''


これらの運動は、反権力主義的で非暴力的な手段によっておこなわれた。 観察者は「ヒッピーは独自のやり方で、彼らの「平和、愛、自由」という目標に辛辣で抑圧的な階層や権力構造に対抗した。彼らは自分たちの信念を他に強制することはなく、かわりに自分たちの信念を通じて世界をかえようとしたのだ」と言う。
これらの運動は、反権力主義的で非暴力的な手段によっておこなわれた。 観察者は「ヒッピーは独自のやり方で、彼らの「平和、愛、自由」という目標に辛辣で抑圧的な階層や権力構造に対抗した。彼らは自分たちの信念を他に強制することはなく、かわりに自分たちの信念を通じて世界をかえようとしたのだ」と言う。


ヒッピーの政治的理想は、アナルコ・パンク、[[レイヴ]]や[[ニューレイヴ]]・カルチャー、エコロジー政治、[[大麻|マリファナ]]文化、[[ニューエイジ|ニュー・エイジ]]ムーブメントなどに影響をあたえた。実際、アナルコ・パンクバンド、[[クラス (バンド)|クラス]]のリーダー、ペニー・ランボー(Patny Rimbaud<ref>{{Cite journal|date=2018-09-05|title=Penny Rimbaud|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Penny_Rimbaud&oldid=858253235|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)はインタビューやエッセーのなかで、自らを「最後のヒッピー」と呼んでいる。クラスは1967年にコミューンとして設立されたダイアル・ハウスにそのルーツをもっていた。
ヒッピーの政治的理想は、アナルコ・パンク、[[レイヴ]]や[[ニューレイヴ]]・カルチャー、エコロジー政治、[[大麻|マリファナ]]文化、[[ニューエイジ|ニュー・エイジ]]ムーブメントなどに影響をあたえた。実際、アナルコ・パンクバンド、[[クラス (バンド)|クラス]]のリーダー、{{仮リンク|ペニー・ランボー|en|Penny Rimbaud}}はインタビューやエッセーのなかで、自らを「最後のヒッピー」と呼んでいる。クラスは1967年にコミューンとして設立されたダイアル・ハウスにそのルーツをもっていた。


なんにんかのパンクスは、ヒッピーの動きに関係していた[[クラス (バンド)|クラス]]に批判的だった。クラスのようにヒッピーに影響をうけた[[デッド・ケネディーズ]]の[[ジェロ・ビアフラ]](Jello Biafra<ref>{{Cite journal|date=2018-08-31|title=Jello Biafra|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Jello_Biafra&oldid=857434614|journal=Wikipedia|language=en}}</ref> )はヒッピーに批判的な歌をかいたが、実際、彼の政治的行動と思想に大きな影響を与えたといわれている<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
一部のパンクスは、ヒッピーの動きに関係していた[[クラス (バンド)|クラス]]に批判的だった。クラスのようにヒッピーに影響をうけた[[デッド・ケネディーズ]]の[[ジェロ・ビアフラ]]はヒッピーに批判的な歌をかいたが、実際、彼の政治的行動と思想に大きな影響を与えたといわれている。


== ドラッグ ==
== ドラッグ ==
[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]につづいて、多くのヒッピーは[[大麻]](マリファナ)を使用し、「楽しく良性」であると考えた。彼らは魂の薬学として[[ペヨーテ]]や[[LSD (薬物)|LSD]]、サイロシビンキノコ、DMT([[ジメチルトリプタミン]])などの幻覚剤に使用を拡大し、しばしばアルコールを放棄した。
[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]につづいて、多くのヒッピーは[[大麻]](マリファナ)を使用し、「楽しく良性」であると考えた。彼らは魂の薬学として[[ペヨーテ]]や[[LSD (薬物)|LSD]]、サイロシビンキノコ、DMT([[ジメチルトリプタミン]])などの幻覚剤に使用を拡大し、しばしばアルコールを放棄した。
[[ファイル:Marijuana and pipe.jpg|サムネイル|乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好するいっぽうで、しばしばアルコール類を摂取しなかった。]]
[[ファイル:Marijuana and pipe.jpg|サムネイル|乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好するいっぽうで、しばしばアルコール類を摂取しなかった。]]
ハーバード大学の教授[[ティモシー・リアリー]](Timothy Leary<ref>{{Cite journal|date=2018-09-08|title=Timothy Leary|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Timothy_Leary&oldid=858679858|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、[[ラルフ・メツナー|ラルフ・メッツナー]](Ralph Metzner<ref>{{Cite journal|date=2018-07-18|title=Ralph Metzner|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ralph_Metzner&oldid=850863791|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、リチャード・アルパート(Ram Dass<ref>{{Cite journal|date=2018-09-10|title=Ram Dass|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ram_Dass&oldid=858987629|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。
ハーバード大学の教授[[ティモシー・リアリー]]、[[ラルフ・メツナー]]{{仮リンク|ラム・ダス|label=ラム・ダスことリチャード・アルパート|en|Ram Dass}}らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。


西海岸では、作家の[[ケン・キージー|ケン・キ―ジ―]](Ken Kesey<ref>{{Cite journal|date=2018-09-12|title=Ken Kesey|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Ken_Kesey&oldid=859255550|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)がLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」とよんでいた。キージーはサイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ|メリー・プランクスター]]」とともにアメリカ大陸をツアーしメディアの注目をあつめ、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。[[グレイトフル・デッド]](元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は、「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。彼らは「世界を変えるビジョン」を持っていた。[[コカイン]]、[[アンフェタミン]]、[[ヘロイン]]などのより効果のきついハードドラッグが使用されることもあった。しかし、これらの薬物は有害で中毒性が強かったため、ヒッピーのあいだではしばしば蔑まれていた。
西海岸では、作家の[[ケン・キージー]]がLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」とよんでいた。キージーはサイケデリック集団「[[メリー・プランクスターズ|メリー・プランクスター]]」とともにアメリカ大陸をツアーしメディアの注目をあつめ、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。[[グレイトフル・デッド]](元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は、「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。彼らは「世界を変えるビジョン」を持っていた。[[コカイン]]、[[アンフェタミン]]、[[ヘロイン]]などのより効果のきついハードドラッグが使用されることもあった。しかし、これらの薬物は有害で中毒性が強かったため、ヒッピーのあいだではしばしば蔑まれていた。


== それから―より多様な社会へ向かって ==
== それから―より多様な社会へ向かって ==
現在では、一般にすべての年齢の未婚のカップルは、社会的に批難されることなく、自由に一緒に旅行し、一緒に生活することができる。カジュアル・セックスはより一般的になり、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちの権利や自分をある枠のなかだけに分類しないことを選択する人々が増えた。宗教的、および文化的な多様性がより受け入れられるようになった。
現在では、一般にすべての年齢の未婚のカップルは、社会的に批難されることなく、自由に一緒に旅行し、一緒に生活することができる。カジュアル・セックスはより一般的になり、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちの権利や自分をある枠のなかだけに分類しないことを選択する人々が増えた。宗教的、および文化的な多様性がより受け入れられるようになった。


協力的な企業や創造的な地域生活の取りきめも以前よりも受け入れられている。 1960年代と1970年代に小さかったヒッピーの自然食品店の中には、[[ヴィーガニズム]]、薬草、サプリメントなどの栄養補助食品への関心が高まっている現在、大規模で収益性の高い企業になった店もある。 1960年代と1970年代のカウンターカルチャーはある種の「グルーヴィー」な科学技術を取り入れた。例としては、サーフボードの設計、再生可能エネルギー、水産養殖、および助産師、出産、女性の健康などのクライアント中心のアプローチがあげられる。作家[[スチュアート・ブランド|スチュワート・ブランド]]とジョン・マルコフ(John Markoffは、パーソナルコンピュータとインターネットの発展と普及のなかに、ヒッピー文化によって促進された反権力主義の精神を見つけだすことができると主張している。
協力的な企業や創造的な地域生活の取りきめも以前よりも受け入れられている。 1960年代と1970年代に小さかったヒッピーの自然食品店の中には、[[ヴィーガニズム]]、薬草、サプリメントなどの栄養補助食品への関心が高まっている現在、大規模で収益性の高い企業になった店もある。 1960年代と1970年代のカウンターカルチャーはある種の「グルーヴィー」な科学技術を取り入れた。例としては、サーフボードの設計、再生可能エネルギー、水産養殖、および助産師、出産、女性の健康などのクライアント中心のアプローチがあげられる。作家[[スチュアート・ブランド]]と{{仮リンク|ジョン・マルコフ|en|John Markoff}}は、パーソナルコンピュータとインターネットの発展と普及のなかに、ヒッピー文化によって促進された反権力主義の精神を見つけだすことができると主張している。
[[ファイル:Alessandro Michele for Gucci.jpg|サムネイル|ファッションブランドGUCCIのデザイナー、[[:en:Alessandro_Michele|アレッサンドロ・ミケーレ]]。ロン毛はヒッピー以前ではかなり珍しかったが、現在ではバンドマンをはじめとして、一般化されたスタイルとなっている。]]
[[ファイル:Alessandro Michele for Gucci.jpg|サムネイル|ファッションブランドGUCCIのデザイナー、[[:en:Alessandro_Michele|アレッサンドロ・ミケーレ]]。ロン毛はヒッピー以前ではかなり珍しかったが、現在ではバンドマンをはじめとして、一般化されたスタイルとなっている。]]
彩り鮮やかな外見と服装もまたヒッピーからのじかの影響のひとつだ。 1960年代から1970年代にかけて、綿毛、ひげ、長い髪の毛(ロン毛)がひろまってゆき、服装はよりカラフルとなり、いろいろな民族服がファッション界を席巻した。そのとき以来、ヌードをふくむ、より幅のある個性があらわれ、多様な選択肢と衣服のスタイルがよりひろく受け入れられるようになった。それらすべてはヒッピー時代以前は珍しいものだった。ヒッピーはまた、1950年代から1960年代初頭にかけて男性にとって避けがたいネクタイなどのビジネス衣料品の人気を低下させた。さらに、ヒッピーのファッションそのものは、1960年代から衣服やアクセサリー、とりわけ「平和のシンボル」として長年にわたって普及してきた。
彩り鮮やかな外見と服装もまたヒッピーからのじかの影響のひとつだ。 1960年代から1970年代にかけて、綿毛、ひげ、長い髪の毛(ロン毛)がひろまってゆき、服装はよりカラフルとなり、いろいろな民族服がファッション界を席巻した。そのとき以来、ヌードをふくむ、より幅のある個性があらわれ、多様な選択肢と衣服のスタイルがよりひろく受け入れられるようになった。それらすべてはヒッピー時代以前は珍しいものだった。ヒッピーはまた、1950年代から1960年代初頭にかけて男性にとって避けがたいネクタイなどのビジネス衣料品の人気を低下させた。さらに、ヒッピーのファッションそのものは、1960年代から衣服やアクセサリー、とりわけ「平和のシンボル」として長年にわたって普及してきた。


[[占星術]]は真剣な研究から個人的な性格に関する気まぐれな娯楽までヒッピーの文化にとってなくてはならないものだった。 1970年代の世代は、ヒッピーと60年代のカウンターカルチャーから影響をうけた。ニューヨークのミュージシャンや観客は、女性、同性愛者、黒人、そしてラテン系のコミュニティにいたるまで、こぞってヒッピーとサイケデリックのいくつかの特色を採った。それらには爆音、フリースタイルな踊り、奇妙な照明、カラフルな衣装、そして幻覚剤が含まれていた。[http://www.mossfad.jp/soul/Alb_ChambersB_Time.html ンバーブラザーズ](Chambers Brothers<ref>{{Cite journal|date=2018-08-11|title=The Chambers Brothers|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Chambers_Brothers&oldid=854517018|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)やとくに[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン|スライ&ザ・ファミリーストーン]](Sly&The Family Stone<ref>{{Cite journal|date=2018-08-05|title=Sly and the Family Stone|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Sly_and_the_Family_Stone&oldid=853477188|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)のようなサイケデリック・スピリットのグループは、[[アイザック・ヘイズ]](Isaac Hayes<ref>{{Cite journal|date=2018-08-25|title=Isaac Hayes|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Isaac_Hayes&oldid=856539221|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、[http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/15692 ウィリー・ハッチ](Willie Hutch<ref>{{Cite journal|date=2018-08-07|title=Willie Hutch|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Willie_Hutch&oldid=853911988|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、[[フィラデルフィア・ソウル]](Philadelphia Soul<ref>{{Cite journal|date=2018-06-19|title=Philadelphia soul|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Philadelphia_soul&oldid=846536573|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)のようなオリジナル・ディスコ・ムーブメントに影響を与えた。さらに、ヒッピーの皮肉のないポジティブさや熱心さは、[[MFSB|M.F.S.B]].のアルバム「Love Is the Message<ref>{{Cite journal|date=2018-05-12|title=Love Is the Message (album)|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Love_Is_the_Message_(album)&oldid=840908440|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」のような原ディスコ音楽をかたちづくった。
[[占星術]]は真剣な研究から個人的な性格に関する気まぐれな娯楽までヒッピーの文化にとってなくてはならないものだった。 1970年代の世代は、ヒッピーと60年代のカウンターカルチャーから影響をうけた。ニューヨークのミュージシャンや観客は、女性、同性愛者、黒人、そしてラテン系のコミュニティにいたるまで、こぞってヒッピーとサイケデリックのいくつかの特色を採った。それらには爆音、フリースタイルな踊り、奇妙な照明、カラフルな衣装、そして幻覚剤が含まれていた。{{仮リンク|ンバース・ブラザーズ|en|The Chambers Brothers}}やとくに[[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]]のようなサイケデリック・スピリットのグループは、[[アイザック・ヘイズ]]{{仮リンク|ウィリー・ハッチ|en|Willie Hutch}}、[[フィラデルフィア・ソウル]]のようなオリジナル・ディスコ・ムーブメントに影響を与えた。さらに、ヒッピーの皮肉のないポジティブさや熱心さは、[[MFSB|M.F.S.B]].のアルバム「[[:en:Love Is the Message (MFSB album)|Love Is the Message」のような原ディスコ音楽をかたちづくった。


文学におけるヒッピーの遺産には、[[ケン・キージー|ケン・キ―ジ―]]の「Electric Kool-Aid Acid Test<ref>{{Cite journal|date=2018-08-13|title=The Electric Kool-Aid Acid Test|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=The_Electric_Kool-Aid_Acid_Test&oldid=854797967|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」のようなヒッピー体験を反映した長く人気を保つ本がふくまれる。音楽ではヒッピーの中でも人気のあるフォーク・ロックやサイケデリック・ロックは、[[ACID ROCK|アシッドロック]]、[[ワールドミュージック|ワールド・ビート]]のようなジャンルに進化した。サイケデリック・トランスは、1960年代のサイケデリック・ロックの影響を受けた電子音楽の一種だ。ヒッピー音楽フェスの伝統は1965年のケン・キ―ジ―の「アシッド・テスト」にはじまった。グレイトフル・デッドはLSDのトリッピングを体験して、サイケデリックなジャミングをはじめた。その後数十年間、多くのヒッピーやニューヒッピーがデッドヘッズ(デッドの熱狂的ファン)コミュニティの一員となり、米国全土の音楽フェスや芸術フェスに参加した。グレイトフルデッドは、1965年から1995年のあいだ、ほとんど中断することなく連続してツアーをおこなった。ロックバンド、[[フィッシュ (バンド)|フィッシュ]](Phish)とそのファン(フィッシーヘッドともよばれる)は、1983年から2004年のあいだに同じように連続してバンドをツアーしてまわった。ヒッピーフェスティバルで演奏する現在のバンドは、1960年代のオリジナルのヒッピーバンドによく似た長いインストを演奏するので、いわゆる「ジャムバンド」とよばれている。
文学におけるヒッピーの遺産には、[[ケン・キージー]]の「[[:en:The Electric Kool-Aid Acid Test|Electric Kool-Aid Acid Test]]」のようなヒッピー体験を反映した長く人気を保つ本がふくまれる。音楽ではヒッピーの中でも人気のあるフォーク・ロックやサイケデリック・ロックは、[[ACID ROCK|アシッドロック]]、[[ワールドミュージック|ワールド・ビート]]のようなジャンルに進化した。サイケデリック・トランスは、1960年代のサイケデリック・ロックの影響を受けた電子音楽の一種だ。ヒッピー音楽フェスの伝統は1965年のケン・キ―ジ―の「アシッド・テスト」にはじまった。グレイトフル・デッドはLSDのトリッピングを体験して、サイケデリックなジャミングをはじめた。その後数十年間、多くのヒッピーやニューヒッピーがデッドヘッズ(デッドの熱狂的ファン)コミュニティの一員となり、米国全土の音楽フェスや芸術フェスに参加した。グレイトフルデッドは、1965年から1995年のあいだ、ほとんど中断することなく連続してツアーをおこなった。ロックバンド、[[フィッシュ (バンド)|フィッシュ]](Phish)とそのファン(フィッシーヘッドともよばれる)は、1983年から2004年のあいだに同じように連続してバンドをツアーしてまわった。ヒッピーフェスティバルで演奏する現在のバンドは、1960年代のオリジナルのヒッピーバンドによく似た長いインストを演奏するので、いわゆる「ジャムバンド」とよばれている。


グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめてしまったこと{{efn2|グレイトフル・デッドはバンドのギターリストでカウンターカルチャーの象徴的な存在だったジェリー・ガルシアが1995年に死去したこと、フィッシュは2004年に突然の解散を宣言したことによる。}}によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりをみせている。いちばん大きなものは、2002年にはじまった「[[ボナルー・フェスティバル|ボナルー・ミュージック&アーツ・フェスティバル]] {{efn2|テネシー州で毎年おこなわれている野外フェス。日本からは2004年に「東京スカパラダイスオーケストラ」が参加している。}}(Bonnaroo Music & Arts Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-09-06|title=Bonnaroo Music Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Bonnaroo_Music_Festival&oldid=858316215|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」である。「[http://cozcomuwka.kazuw.com/?eid=76 オレゴン・カントリー・フェア](Oregon Country Fair<ref>{{Cite journal|date=2018-08-05|title=Oregon Country Fair|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Oregon_Country_Fair&oldid=853542339|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。1981年に創設され、毎年開催される「スターウッドフェスティバル(Starwood Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-06-25|title=Starwood Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Starwood_Festival&oldid=847476799|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」は、メインではない宗教や世界観を探求し、ヒッピーのスピリチュアルな探求を表現する7日間にわたるイベントであり、様々なヒッピーやカウンターカルチャーについての公演や授業を提供している。
グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめてしまったこと{{efn2|グレイトフル・デッドはバンドのギターリストでカウンターカルチャーの象徴的な存在だったジェリー・ガルシアが1995年に死去したこと、フィッシュは2004年に突然の解散を宣言したことによる。}}によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりをみせている。いちばん大きなものは、2002年にはじまった「[[ボナルー・フェスティバル]] {{efn2|テネシー州で毎年おこなわれている野外フェス。日本からは2004年に「東京スカパラダイスオーケストラ」が参加している。}}である。「{{仮リンク|オレゴン・カントリー・フェア|en|Oregon Country Fair}}」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。1981年に創設され、毎年開催される「{{仮リンク|スターウッドフェスティバル|en|Starwood Festival}}」は、メインではない宗教や世界観を探求し、ヒッピーのスピリチュアルな探求を表現する7日間にわたるイベントであり、様々なヒッピーやカウンターカルチャーについての公演や授業を提供している。
[[ファイル:Burning Man 2013 )( DVSROSS (9660833400).jpg|サムネイル|2013年のバーニングマンフェスティバル。砂漠でおこなわれる現代のヒッピーたちがつどうオルタナティブ文化の祭典であり、LGBTも多く参加している。]]
[[ファイル:Burning Man 2013 )( DVSROSS (9660833400).jpg|サムネイル|2013年のバーニングマンフェスティバル。砂漠でおこなわれる現代のヒッピーたちがつどうオルタナティブ文化の祭典であり、LGBTも多く参加している。]]


「[[バーニングマン]](Burning Man<ref>{{Cite journal|date=2018-09-10|title=Burning Man|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Burning_Man&oldid=858966644|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」は1986年にサンフランシスコのビーチパーティーで始まり、ネバダ州リノの北東に位置するブラックロック砂漠で開催されている。バーニングマンはヒッピーフェスそのものではないが、ヒッピーの初期イベントと同じ精神でオルタネイティブ・コミュニティーの現代的な表現をしている。この集会は、入念な区画、ディスプレイ、デコラティブな車などからなる一時的な街(2005年には36,500人、2011年には50,000人)になった。大勢の参加者があつまる他のイベントには[[レインボーギャザリング|レインボー・ギャザリング]](Rainbow Family Gatherings<ref>{{Cite journal|date=2018-09-12|title=Rainbow Gathering|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Rainbow_Gathering&oldid=859174266|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)ザ・ギャザリング・オブ・ザ・バイブス(The Gathering of the Vibes<ref>{{Cite journal|date=2018-08-01|title=Gathering of the Vibes|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Gathering_of_the_Vibes&oldid=852916663|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)、平和フェスティバル、復活したウッドストックフェスティバルなどがある。
「[[バーニングマン]]」は1986年にサンフランシスコのビーチパーティーで始まり、ネバダ州リノの北東に位置するブラックロック砂漠で開催されている。バーニングマンはヒッピーフェスそのものではないが、ヒッピーの初期イベントと同じ精神でオルタネイティブ・コミュニティーの現代的な表現をしている。この集会は、入念な区画、ディスプレイ、デコラティブな車などからなる一時的な街(2005年には36,500人、2011年には50,000人)になった。大勢の参加者があつまる他のイベントには[[レインボーギャザリング]]の「{{仮リンク|ギャザリング・オブ・ザ・バイブス|en|Gathering of the Vibes}}、平和フェスティバル、復活したウッドストックフェスティバルなどがある。


英国では、そとからはヒッピーとして見られている多くの「ニュー・エイジ・トラベラー」がおり、彼らは彼らは自身のことを「平和コンボイ(the Peace Convoy<ref>{{Cite journal|date=2018-06-01|title=New Age travellers|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=New_Age_travellers&oldid=843991223|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)」とよんでいる。彼らは1974年に「ストーンヘンジ・フリーフェスティバル」をはじめたが、1985年に自然環境保護機関である[[イングリッシュ・ヘリテッジ]]はフェスティバルを禁止し、「ビーンフィールドの戦い( the Battle of the Beanfield)<ref>{{Cite journal|date=2018-06-21|title=Battle of the Beanfield|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Battle_of_the_Beanfield&oldid=846818305|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>」がおきた。現在では[[ストーンヘンジ]]は祭りの場として禁止されており、毎年[[グラストンベリー・フェスティバル|グラストンベリ・フェスティバル]](Glastonbury Festival<ref>{{Cite journal|date=2018-09-10|title=Glastonbury Festival|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Glastonbury_Festival&oldid=858842828|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)で新しい時代の旅行者があつまる。今日、イギリスのヒッピーは各地域に散っているが、夏になると田舎の野外フェスにあつまる。
英国では、そとからはヒッピーとして見られている多くの「{{仮リンク|ニュー・エイジ・トラベラー|en|New Age travellers}}」がおり、彼らは自身のことを「平和コンボイ([[[[:en:New Age travellers#Peace Convoy|Peace Convoy)」とよんでいる。彼らは1974年に「ストーンヘンジ・フリーフェスティバル」をはじめたが、1985年に自然環境保護機関である[[イングリッシュ・ヘリテッジ]]はフェスティバルを禁止し、「{{仮リンク|ビーンフィールドの戦い|en|Battle of the Beanfield}}」と呼ばれる暴動事件がおきた。現在では[[ストーンヘンジ]]は祭りの場として禁止されており、毎年[[グラストンベリー・フェスティバル]]で新しい時代の旅行者があつまる。今日、イギリスのヒッピーは各地域に散っているが、夏になると田舎の野外フェスにあつまる。


ニュージーランドでは、1976年から1981年にかけて、ワイヒとワイキーの周辺の大規模な農場でひらかれたフェスティバルに数万人のヒッピーがあつまった。「ナンバサ」と名付けられたこのフェスティバル(Nambassa festival<ref>{{Cite journal|date=2018-06-22|title=Nambassa|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Nambassa&oldid=847074126|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>)は、「平和」、「愛」、「バランスの取れたライフスタイル」に焦点を当てている。フェスと同時に、オルタネイティブなライフスタイル、自給自足、清潔で持続可能なエネルギーと持続可能な生活を提唱する実践的なワークショップと展示がおこなわれた。
ニュージーランドでは、1976年から1981年にかけて、ワイヒとワイキーの周辺の大規模な農場でひらかれたフェスティバルに数万人のヒッピーがあつまった。「{{仮リンク|ナンバサ|en|Nambassa}}」と名付けられたこのフェスティバルは、「平和」、「愛」、「バランスの取れたライフスタイル」に焦点を当てている。フェスと同時に、オルタネイティブなライフスタイル、自給自足、清潔で持続可能なエネルギーと持続可能な生活を提唱する実践的なワークショップと展示がおこなわれた。


英国とヨーロッパでは1987年から1989年のあいだ、かつてのヒッピームーブメントが大規模に復活した。このムーブメントは、主に18歳から25歳の人々で構成され、「愛、平和、自由」という初期ヒッピーの理想をたたえた。 1988年の夏は「[[セカンド・サマー・オブ・ラブ]]( the Second Summer of Love)」として知られた。その音楽は現代のエレクトロニックミュージック、特に[[ハウス (音楽)|ハウスミュージック]]と[[アシッド・ハウス|アシッドハウス]]だったが、[[レイブ (音楽)|レイブ]]の「[[チルアウト|チル・アウトルーム]]」ではオリジナルヒッピー時代の曲を聞くことができた。
英国とヨーロッパでは1987年から1989年のあいだ、かつてのヒッピームーブメントが大規模に復活した。このムーブメントは、主に18歳から25歳の人々で構成され、「愛、平和、自由」という初期ヒッピーの理想をたたえた。 1988年の夏は「[[セカンド・サマー・オブ・ラブ]]」として知られた。その音楽は現代のエレクトロニックミュージック、特に[[ハウス (音楽)|ハウスミュージック]]と[[アシッド・ハウス|アシッドハウス]]だったが、[[レイブ (音楽)|レイブ]]の「[[チルアウト|チル・アウトルーム]]」ではオリジナルヒッピー時代の曲を聞くことができた。


2002年、フォトジャーナリストのジョン・バセット・マクレリー(John Bassett McCleary)は、650ページの6,000項目もの省略されていないスラング辞書「ヒッピー辞書(The Hippie Dictionary<ref>{{Cite web|url=http://www.hippiedictionary.com/|title=The Hippie Dictionary, about the 60s and 70s|accessdate=2018-09-18|website=www.hippiedictionary.com|language=en}}</ref>)」を出版した。これは1960年代から1970年代の文化的百科事典でもある。この本は改訂され、2004年に700ページに拡大された。マクレリーは、ヒッピーの言葉の多くはビート・ジェネレーションにその源をもち、それをみじかくして使用法を普及させることによって、英語にかなりの数の単語を追加したと考えている<ref>{{Cite journal|date=2018-09-11|title=Hippie|url=https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Hippie&oldid=859066978|journal=Wikipedia|language=en}}</ref>
2002年、フォトジャーナリストのジョン・バセット・マクレリー(John Bassett McCleary)は、650ページの6,000項目もの省略されていないスラング辞書「ヒッピー辞書(The Hippie Dictionary<ref>{{Cite web|url=http://www.hippiedictionary.com/|title=The Hippie Dictionary, about the 60s and 70s|accessdate=2018-09-18|website=www.hippiedictionary.com|language=en}}</ref>)」を出版した。これは1960年代から1970年代の文化的百科事典でもある。この本は改訂され、2004年に700ページに拡大された。マクレリーは、ヒッピーの言葉の多くはビート・ジェネレーションにその源をもち、それをみじかくして使用法を普及させることによって、英語にかなりの数の単語を追加したと考えている。


== 50年後のウッドストック ==
== 50年後のウッドストック ==

2021年4月4日 (日) 01:11時点における版

ヒッピー: Hippie, Hippy)は、1960年代後半にアメリカ合衆国に登場した、既成社会の伝統制度など、それ以前の保守的な男性優位の価値観を否定するカウンターカルチャー (en:Counterculture) の一翼を担った人々、およびそのムーブメント。ヒッピーは1950年代のビートニクスの思想を継承した。

ヒッピーの思想、哲学

ヒッピースタイルのミュージシャン

ヒッピーは、搾取的だった一部のキリスト教教派に批判的であり、「ヒューマン・ビーイン」に代表されるような、新しいムーブメント、哲学、宗教や魂(スピリチュアティ)の体験をもとめて、インドなどのヒッピーの聖地やフェスティバルを訪ね歩いた。

ヒッピーの一部は、インドなど東洋の宗教、哲学に魅力を感じ、反体制思想、左翼思想や自然のなかでの「共同体生活」への回帰を提案した。またサマー・オブ・ラブベトナム反戦運動や、公民権運動、カウンター・カルチャーとしてのロック、野外フェス、性解放、フリーセックス大麻等のドラッグ解禁、男女平等、各種差別の廃止、のちのヴィーガニズムへとつながる有機野菜の促進などを主張し、主流とは異なったオルタナティブな社会の実現を目指した。社会変革と同時に、精神世界を重んじ、ダイバーシティ(多様)な価値の尊重を訴えた。

日本においても、新しい世界的同世代の価値感への共感と同時に、自然にやさしいコミューンへの回帰や、都市のヒッピーの登場がみられた。欧米発のムーブメントでありながら、自らのルーツでもある東洋への回帰的な関心という点でわかりやすく、インドや中国などの再評価やエコロジー運動のさきがけともなった。

概要

ヒッピーの女性のヌード。保守的なキリスト教社会に対して、カウンターカルチャーであるヒッピーたちは、ヌードや性の解放を主張し自由な社会へと変革した。
マジック・バスにしてサイケデリック・バス

ヒッピー(HIPPY)という言葉はもともと「ヒップスター」に由来し、ニューヨーク市のグリニッジビレッジとサンフランシスコのヘイトアシュベリー地区に移住したビートニクスたちを意味していた。 サンフランシスコ・クロニクル紙のジャーナリストであったハーブ・カーン英語版によってひろめられた。

また、冒頭部の「HIP」とはその語源がたしかではないが、一説によると、1940年代のアフリカ系アメリカ人のあいだで流行したジャイブを踊る若者のスラングから転用されたものという説がある。当時、HIPは「飛んでいる、完全に最新のもの」という意でもちいられており、それをビートニクスが採用し一般化するようになった。初期のヒッピーはビートニクスの言葉や価値観をひきついでいた。

作家ノーマン・メイラーは1961年4月27日付の雑誌ヴィレッジ・ヴォイスの記事「J・F・ケネディカストロへの公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーのなかで、詩人ケネス・レックスロス英語版は、「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフに参加している若者を指すのにつかった。マルコムXの1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は、「黒人より黒人らしく行動した」特定のタイプの白人を表現するためにつかわれていた。 アンドリュー・ル―グ・オールダムは、1965年発表のローリングストーンズのLP「ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!」のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて 「シカゴのヒッピーたち」と称した。

1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「ヒューマン・ビーイン」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「サマー・オブ・ラブ」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「ウッドストック・フェスティバル」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「ワイト島フェスティバル」、チリでは「ピエドラ・ロハ・フェスティバル英語版」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち(ヒピテカス英語版)はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル[1]につどった。 1973年、オーストラリアでは東部の田舎町ニンビン英語版で「アクエリアス・フェスティバル英語版」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、キャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「ナンバサ・フェスティバル英語版」(1976年-1981年)を催し、オルタナティブなライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。

1970年、南米チリでおこなわれたロックフェス「ピエドラ・ロハ・フェスティバル」。スペイン語で「赤い石」という意味のフェスティバル。北米のみならず、南米でもヒッピー文化はひろまっていた。

こうした北米、南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れとして、東ヨーロッパの鉄のカーテン諸国において1960年代から1970年代初頭の若者文化に強い影響をあたえた。

当初、アメリカにおいて、彼らの多くはベトナム徴兵を逃れた学生たちであり、そのため主流社会の軍事覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や原子爆弾への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的なテクノロジーによる暴力や虐殺などに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、自然平和セックス自由巡礼の旅の愛好家として社会にうけとめられた。かれらは当時、西側の若者の間で流行したマオイストや、コミューンの形成、環境運動や動物愛護、自然食、LSD、マジック・マッシュルーム、マリファナ擁護にくわえて、ヨガインド哲学、ヒンズー教、禅、仏教などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちたユートピアを夢みた。

実社会のなかで、ユートピアはおとずれることはなかったが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーにとどまらず、欧米の主流文化のなかでより一般化されたものとなった。アップルをはじめとした米西海岸のコンピューター文化、ロックや美術、文学、舞踏、アニメといった大衆文化、ヴィーガニズム菜食主義などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけている。

ヒッピーの歴史

ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。

ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、アッシジ聖フランシスコ、さらに性の解放を歌ったコレット、フランスの作家セリーヌプルースト、不条理作家カフカ、アイルランドの哲学者アイリス・マードック、米国の実存主義作家ソール・ベロー、ユダヤ人作家バーナード・マラマッド[2]、あるいは「森の生活」の著者ヘンリー・デビッド・ソローや19世紀の詩人ウォルト・ホイットマン、「ホビットの冒険」「指輪物語」のJ・R・R・トル―キン、20世紀においてはビートニクスギンズバーグバロウズケルアック、また画家ではピカソデ・クーニングベン・シャーンレジェコクトーなどがヒッピーに好まれた[2]

19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー、「ワンダーフォーゲル」は、当時の社会や文化クラブに対するカウンター・カルチャー的な側面をもっていた。また保守的・伝統的なドイツのクラブの形式に反して、民族音楽や歌を愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。

20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。若いアメリカ人の中には、ドイツ移民の思想の影響を受けた者もあらわれた。 「ネイチャーボーイズ」とよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターのエデン・アーベ英語版は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優のジプシー・ブーツ英語版からインスピレーションを受けNature Boy(1947)[3]という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった。なお、21世紀の日本のワンゲル部は、体育会系の保守的なクラブとの見方もある。

初期ヒッピー/メリー・プランクターズ、サイケデリックなど

それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。
ボブ・スタッブス、『Unicorn Philosophy』

メリー・プランクスターズ

1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家ケン・キージーとそのサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ(陽気な悪ガキども)」がカリフォルニアで共同生活をはじめる。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、ニール・キャサディスチュワート・ブランドケン・バッブス英語版らがふくまれていた。その生活は作家トム・ウルフの『The Electric Kool-Aid Acid Test英語版』という書籍にまとめられた。

1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちにグレイトフル・デッドは「メリー・プランクスターズ」のバス旅行について、『That's It for the Other One英語版』という曲をかいている。

メリープランクスターズのサイケデリック・バス「ファーザー号」。このバスに乗って、アメリカを横断し、道中、LSDによるアシッドテストが繰りひろげられた。

このあいだ、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは「フォークソング」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ、「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月、「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜おこなわれる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端のサイケデリック体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、ネバダ州バージニアシティの孤立した旧鉱山街のレッド・ドッグ・サルーン英語版でのパフォーマンスも後援した。

サイケデリック・ロック

ジェリー・ガルシア。サンフランシスコを代表するバンド、グレイトフル・デッドのギターリスト。デッドは「デッドヘッズ」という熱狂的なファンをもち、結成当初から高い人気を誇った。

1965年夏、ラフリン3世は伝統的なフォークとサイケデリック・ミュージックの融合をさらに推しすすめる若くオリジナリティあふれる才能を募集した。彼とその仲間はそれまで聞いたことのなかったグレイトフル・デッドジェファーソン・エアプレインビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニークイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスザ・シャーラタンズなどレッド・ドッグ・サルーン的で、実験精神に満ちたバンドたちを見いだした。彼らの個性的なスタイルと、ビル・ハム英語版による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆のあいだでの明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(またはアメリカ先住民族)の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初のサイケデリック・ロック・バンドとなった。

「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる、「サイケ・ロック」、「コスチュームダンス」、および「ライトショー」が組みあわされたライブをおこなった。ジェファーソン・エアプレインをはじめ、グレート・ソサエティ英語版マーブルズ英語版が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日-23日、サンフランシスコの「ロングショアマンズ・ホール[4]」で、「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。ケン・キージースチュアート・ブランドらが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。

1966年2月までに、「ファミリードッグ」は主催者チェット・ヘルムスのもとで「ファミリードッグ・プロダクション」となり、のちに有名なプロモーターとなるビル・グレアム英語版との共同作業をはじめ、「アバロン・ボールルーム英語版」、「フィルモア・ウエスト英語版」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、ラルフ・J・グリーソン英語版は、「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。

サンフランシスコのヴィクトリア朝アパート。共同生活(ルームシェア)は夢多き学生のスタンダードだった。

最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価なビクトリア朝アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。グレイトフル・デッドジェファーソン・エアプレーンビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニークイックシルバー・メッセンジャー・サービスザ・シャーラタンズらはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて、「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「ディガーズ英語版」を中心におこなわれた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。

サンセット・ストリップ・ライオット

1966年10月6日、カリフォルニア州はLSDを規制薬物と宣言し、この薬物を違法にした。サイケデリックスの犯罪化に対応して、サンフランシスコのヒッピーたちは、ゴールデンゲートパークで「ラブ・ページェント・ラリー」とよばれる集会をひらいた。サンフランシスコ・オラクル英語版の共同設立者であるアレン・コーエン英語版によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも精神病患者でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。超越意識、宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。

1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「ヒッピー暴動」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は、「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、ジャック・ニコルソンピーター・フォンダなどの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「サンセット通りの暴動英語版」のモチーフとなり、バッファロー・スプリングフィールドの名曲「For What It's Worth英語版」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった。

1967年/サマー・オブ・ラブとサンフランシスコ

『ヒューマン・ビーイン』が開かれたゴールデン・ゲート・パーク。広大な敷地をもつことから普段からヒッピーたちはよくここにつどった。
ペンタゴンを警備する兵士に意気揚々と花をさしだすフラワーチルドレンの若い女性。ハットもチューリップハットをかぶり、フラワーなイメージであふれている。

1967年1月14日、アーチストのマイケル・ボーエン英語版が企画したゴールデン・ゲート・パークでの野外フェス『ヒューマン・ビーイン』は、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークに3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日のイースターにあわせた『セントラル・パーク・ビーイン英語版』が催され、ルー・リードイーディ・セジウィックらのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。

6月16日から6月18日まで開かれたモントレー・ポップ・フェスティバルでは、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「サマー・オブ・ラブ」のはじまりとなった。スコット・マッケンジーが歌うジョン・フィリップスの曲「花のサンフランシスコ」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「フラワー・チルドレン(花の子供たち)」とよばれるようになる。

1967年6月、前述のジャーナリストのハーブ・カーン英語版は、なぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine[5]」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた[注 1]

7月7日、タイム紙は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している[注 2]

「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」

1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」、「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。

夏のおわりまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードでヒッピーの「死」を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに、「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。ビートルズジョージ・ハリソンはヘイト・アシュベリーをおとずれ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDをあきらめるようにうながした。

結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで「道徳的パニック」を助長することとなった。

1960年代末/ヒッピーの反戦思想

1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。とくに人口の多い「ベビー・ブーマー」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)にすんでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが、当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーのあいだに深いつながりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でもおなじであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった。

新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「状況のステレオタイプ」を描いている。たとえば、『ラブイン』、『ジャック・ニコルソンの嵐の青春』、『白昼の幻想』などの映画、それ以外のより誠実で評判の高い『イージー・ライダー』や『アリスのレストラン』もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル『ヘアー』は1967年に発表された。

イッピーズの指導者、アビー・ホフマン。東洋的な内面な変革を重要視したヒッピーとは違って、イッピーズはより政治的な運動を活発におこなった。彼らは強硬な政治にユーモアをもって抗議した。

一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」こと青年国際党とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の復活祭に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークのグランド・セントラル駅を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者アビー・ホフマンジェリー・ルービンは、1967年10月のベトナム戦争抗議デモで、「立ち上がり、きしょいミートボールをやめようぜ!(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンをかかげ、花をくばり、儀式によって「ペンタゴンを空中浮遊[6]」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者としてブタの「ピガスス」を指名し、広くメディアにとりあげられた。

英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部とみなされはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題にかんする幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国でおもに使用された用語だった。

1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「ピープルズ・パーク英語版」が国際的な注目をあつめた。カリフォルニア大学バークレー校は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m2)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、ロナルド・レーガン知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーのいたるところに花を植えた。

1969年8月、ニューヨーク州のベテルでロックの大祭典『ウッドストック・フェスティバル』が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、リッチー・ヘヴンズジョーン・バエズジャニス・ジョプリングレイトフル・デッドクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングカルロス・サンタナスライ&ザ・ファミリー・ストーンザ・フージェファーソン・エアプレインジミ・ヘンドリックスなど当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でおこなわれ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想をひろめる上で重要な役割をはたした。

1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初は『ウッドストック・ウェスト』と名づけられ、正式名称は『オルタモント・フリーコンサート』とよばれた。ローリング・ストーンズクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングジェファーソン・エアプレイン[注 3]らをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族のヘルス・エンジェルスは、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした。結果、18歳の黒人メレディス・ハンター英語版は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打ののち、刺殺されしまう。

1970s - 現在/ベトナム戦争の終結

ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たち、いわゆる「時代の精神医たち」は1970年代にはいると衰えたかのように見えた。

オルタモント・フリーコンサートの殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月にはチャールズ・マンソンと彼のファミリーによってシャロン・テート殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの曲『What About Me?英語版』にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「Ohio」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。

ヒッピースタイルの多くは、1970年代初めにはアメリカ主流社会に組みこまれていた。大規模ロックコンサートは1967年、KFRCファンタジーフェアとマジックマウンテンミュージックフェスティバル英語版モントレー・ポップ・フェスティバルを経て、1968年の英国ワイト島フェスティバルで基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していたニクソンは後に失脚する。

1970年代半ばには、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争終結と兵役徴集の終わりにともない、アメリカ建国200周年記念英語版に関連した愛国的感情が高まった。アメリカはゆっくり様変わりしていった。やがて、ロンドンやマンチェスターでパンクが出現し、ニューヨークとロサンゼルスでは主流メディアがヒッピーへの関心を失った。同時に、モッズのリバイバル、スキンヘッズ、テディーボーイズ、ゴシック(ゴス)などの新しい若者文化が登場して、センセーショナルな話題を振りまいた。アシッド・ロックは、プログレッシブ・ロックヘヴィメタルディスコパンク・ロックにまでつながった。ヒッピーの理想は、パンクのアナキズムやそののちの若者のサブカルチャー、特に「セカンド・サマー・オブ・ラブ」に大きな影響をあたえた。

ヒッピー運動の理想を生きようとしたヒッピー・コミューンは社会の流れとは別のところですこしづつ豊かになった。西海岸オレゴン州にはかなりの数のコミューンに住む人々がおり、幾人かは消え去り、幾人かはまだかたちをかえながらもコミューン生活を続けている。多くのヒッピーは長期的なライフスタイルへの取り組みをおこなっていたが、ヒッピーは1980年代に「売り切れ」になり、物質主義的消費文化の一部となったと主張する人もいる。実際、ヒッピーの文化は一度もちゃんと人々の目に見えていなかったが、ヒッピーやネオヒッピーは大学のキャンパス、コミューン、集会や祭りで見かけることがある。その多くは、平和、愛、そして地域社会の価値観に適応している。もしかすると、ヒッピーは世界中のボヘミアンの養護施設でも見つかるのかもしれない。

サイケデリックトランスに興じる若者たち。反戦運動なき現代ではヒッピーはテクノロジーと結びつき、むしろファッションや娯楽的な要素が強いサブカルチャーとなっている。

20世紀の終わりに向かって、1960年代のサイケデリックなカウンターカルチャーの特質のいくつかを取り入れた 「サイバーヒッピー」の傾向が浮かび上がった。ヒッピー・サブカルチャーはインドのゴア州から生まれたサイケデリック・トランスにもリンクしている。

ヒッピーの特徴

サンフランシスコのヒッピー文化の前身であるビートニクスはコーヒーハウスやバーにつどい、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまでグレイトフル・デッドのマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire[7])はヒッピー文化の大きな貢献は、「よろこびの表現」だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く、冷笑で冷たかった。

ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。

初期には、その彩り豊かなファッションをつうじて、たがいにたがいを認識し、その個性を尊重しあった。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずにあらわし、社会の「まっすぐさ」と「硬さ-スクエア」から距離をおいて、「利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力」という価値を重んじた。

やがて、多くの思慮深いヒッピーは、特にチャールズ・マンソンのようなカルト宗教のリーダーが表面的にヒッピーファッションを取りいれはじめたり、警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンのフランクザッパは、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ。」と聴衆に忠告した。

アートとファッション

サンフランシスコのロックバンド、ジェファーソンエアプレインのポスター。ドラッギーに歪んだ文字がこの時代多用され、いわゆるサイケデリックイメージと結びつく。

アート

1960年代のサイケデリック・アート運動の主役は、リック・グリフィン英語版ビクター・モスコソ英語版ボニー・マクリーン英語版スタンリー・マウス&アルトン・ケリー英語版、そしてウェス・ウィルソン英語版[要リンク修正]など、サンフランシスコのポスターアーティストだった。彼らのロック・コンサートのポスターはアールヌーボーヴィクトリアン様式の美術(ビアズレ―など)、ダダイスムポップアートからインスピレーションをうけていた。フィルモア・ウェストのコンサート・ポスターはもっとも注目された。鮮やかなコントラスト、華やかなレタリング、強く対称な構図、コラージュ要素、歪み、ちょっと奇妙な画像、豊かな色彩などがその特徴で、このスタイルはおよそ1966年から1972年のあいだ人気を保った。

彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気をかもしだした。

また、「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。ザップ・コミックス英語版はそのオリジナルのひとつであり、ロバートクラムS・クライ・ウィルソン英語版、ビクター・モスコソ、リック・グリフィン英語版ロバート・ウィリアムス英語版らの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。ギルバート・シェルトン英語版の『ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ英語版』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。

彼らに先行するビートニクス、すぐ後につづいたパンクのように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「浮浪者スタイル」の反映だった。男も女もジーンズを履き、どちらも長髪だった。サンダルは、やがて裸足へと移行した。スティーヴ・ジョブズも大学生時代は裸足だったという。男性はひげを生やすことが多く、女性は化粧をほとんど、もしくはまったくせず、ノーブラジャー。ほかの白人中産階級のムーブメントと同じようにヒッピーたちは時代の「男女差」に挑戦し、ユニセックスだった。 ヒゲをはやした若者も多かった。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダードだった。

ヒッピーはしばしば明るく鮮やかな色を選び、ベルボトム、ベスト、しぼり染めの衣服、ダシキ(アフリカの民族衣装)、農民風のブラウス、長い丈のスカートなど、当時としては風変わりな服を着た。ネイティブアメリカン、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをモチーフとして使用した非西洋的な服飾文化にインスピレーションを受けたデザインも人気があった。ヒッピーの多くは、企業がつくる消費文化に反対して、手づくり、または古着を着た。

男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー、「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、だぼだぼなルーズフィットで反対した。

また衣服の手づくりは自己肯定感を高め、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶していた。

ラブ&セックス―アメリカのセックス革命

ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは、「フリー・セックスを好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちはセックス革命を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは平和のためのベッド・イン、ラブ・インで、反戦平和を主張した。 1966年、研究チーム「マスターズ・アンド・ジョンソン英語版」によってセックスの臨床研究 "Human Sexual Response" が出版された。しばらくの小康状態をへて、1969年、精神科医デビット・ルーベン英語版が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。 1972年には、イギリス人科学者アレックス・コンフォート(Alex Comfort)によるセックス・マニュアル『ジョイ・オブ・セックス』が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらくまえから進行中だった。

ヒッピーたちは、ビート・ジェネレーションから性や愛情に関するさまざまなカウンターカルチャー的見識と実践を受け継いだ。ビートニクスの著述はヒッピーに影響をあたえ、より開かれたセックスをし、罪悪感や嫉妬の感情を減らそうと試みた。当時、登場したヒッピーのスローガンの1つは、「もしそれが気持ちが良ければ、それをやろう!」だった。それは多くの場合「あなたがうれしいときはいつでも、あなたが喜べる人とは誰とでも、自由に愛してもかまわない」という意だった。

このスローガンは自発的な性行動やその実験をうながした。グループセックス、野外セックス、公共の場でのセックス、ドラッグを服用しての同性愛、それ以前にはタブーだったさまざまなセックスの実験がおこなわれた。彼らはストレートなセックスや一夫一婦制を認めないわけではなかった。 むしろそれを認めていながらも、オープンな恋愛関係はヒッピーのライフスタイルに受け入れられた。

一人の主要パートナーと恋愛関係をもつことができるが、別の異性の存在が彼、彼女を引きつけた場合、彼、彼女は暴力や嫉妬になやまされることなく、べつの恋愛関係を探求することがゆるされた。つまり「フリーセックス」と「フリ―ラブ」(性愛の自由)である。

ヒッピーは、以下のような、古い時代の急進的な社会改革者が唱えた「自由恋愛主義」のスローガンを受け入れていた。

「自由な愛がすべての愛をつくる。恋愛、結婚、セックス、出産のパッケージは時代遅れのものとなった。愛はもはや一人だけに限られたものではなく、あなたはあなた自身が選んだ人を愛することができる。実際、愛はセックスパートナーだけとのものではなく、だれとでも分けあうことができるものだ」

ヒッピーは旅好きだった。お金、ホテルの予約、その他の旅行の必需品を持っていくかどうかはあまり心配せず、気ままに旅をした。彼らはファミリーネットワークをもっており、突然の一晩宿泊客を歓迎したので、さまざまな場所への自由な移動が可能となり、お互いのニーズを満たすために協力しあった。このような生活様式は、レインボー・ファミリー英語版グループ、ニューエイジ・トラベラー、そしてニュージーランドの「ハウス・トラッカー(移動住宅生活者)たちのあいだでは今でも見られる。

ハウストラッカー。住居が移動できる。

この「フリー&フロー(Free&Float)」なスタイルでの旅行は、一部のヒッピーたちのトラックとバスに派生した。1974年に出版された「Roll Your Own: Complete Guide to Living in a Truck, Bus, Van or Camper」に記述されているように、彼らは遊牧民(ノマド)的な生活習慣を実践するため、トラックやバスの車体を手作りの「移動住宅」に改造した。これらの移動住宅の中には、ベッド、トイレ、シャワー、調理設備を備えた非常に凝ったものもあった。

西海岸では、フィリリス・パターソンとロン・パターソン英語版が1963年に組織したルネッサンス・フェア英語版で独自のライフスタイルが生まれた。夏と秋のあいだは家族全員が移動住宅トラックとバスで一緒に旅し、カリフォルニア南部と北部の開催地につどい、1週間ものあいだ工芸品を製作、週末はエリザベス風のコスチュームを着用してパフォーマンスに参加、それから会場のブースにて製作したハンドメイドの工芸品を売った。多くの若者たちはこれまでにない特別なハプニングを体験した。このライフスタイルのピークは、1969年8月15日から18日にかけて、ニューヨークのベテル近郊のウッドストックフェスティバルで、40万〜50万人が集まった。

ヒッピーの道

1969年から1971年の間に数十万人のヒッピーがおこなった旅行は、「ヒッピー・トレイル(ヒッピーの道)」と言われた。ほとんど荷物を持たず、少額の現金で、だいたいみんな同じルートをたどった。ヨーロッパを越えてアテネとイスタンブールに行き、つぎにトルコの中心部からエルズルムを経由して列車で、バスでイランへ、タブリーズ経由で、テヘランからマシュハドへ、アフガニスタンとヘラート、南アフガニスタンからカンダハル経由、カブール経由、キーバー・パス経由でパキスタンへ、ラワルピンディとラホール経由でインドのフロンティアに到着した。インドでは、ヒッピーは多くの異なる目的地へいったが、トリヴァンドラム(ケーララ州)のゴアとコバラムのビーチに大量に集まったり、国境を越えたネパールのカトマンズで数ヶ月過ごしたりした。カトマンズでは、ほとんどのヒッピーたちがカトマンズ・ダルバール広場の近くにまだ存在するフリーク・ストリート(Freak Street)という静かな環境の中で時を過ごした。

精神と宗教

多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた仏教ヒンズー教、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。

ネオペイガニズム(復興異教主義)のシンボルである五芒星。日本の漫画やアニメでもよく登場するおなじみのシンボルでもある。

なんにんかのヒッピーはネオ・ペイガニズム(復興異教主義)、特に多神教的魔女崇拝の一派「ウイッカ」を信仰していた。ハーバード大学教授の心理学者ティモシー・リアリーは、オカルティストのアリスター・クローリーをヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。

1991年、宗教学者ティモシー・ミラー英語版はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」のなかで、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教とおなじように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めをおこなうための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。

「ヒッピーの旅(The Hippie Trip)」の著者ルイス・ヤブロンスキードイツ語版は、ヒッピーたちのあいだでもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学のスティーヴン・ガスキン英語版教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまでふくらみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えからみちびきだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1,500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。

ティモシー・リアリーはアメリカのハーバード大学の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、ドラッグのLSDを「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「スピリチュアル・ディスカバリー同盟英語版」(略称LSD))」を設立した。信仰の自由にもとづいてLSDや他のドラッグを瞑想などにもちいるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、ビートルズのアルバム「リボルバー」のジョンレノンの曲「トゥモロー・ネバー・ノウズ」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「ヒューマン・ビー・イン」に招待され、そこで有名な「Turn on, tune in, drop out」というフレーズを唱えた。

英国のオカルティスト、悪魔崇拝のアリスター・クローリーは、およそ10年ものあいだロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のカバースリーブの登場人物の一人として彼をえらんだ。1970年代のハードロック・バンド、レッドツェッペリンもクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、ドアーズもコンピレーションアルバム「13」の裏表紙でジム・モリスンや他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。

ヒッピー時代の思想家

  • ティモシー・リアリー

ティモシー・リアリーは60年代の若者に強い影響力を持っていた。カリフォルニア州知事選挙に立候補を表明したこともある。ジョン・レノンが作曲したビートルズの曲「カム・トゥゲザー」は、リアリーの選挙キャンペーンのために書かれた曲だが、結局、リアリーは選挙に出馬することができなかった。

  • ラルフ・ネーダー

ラルフ・ネーダー環境問題や消費者の権利保護運動のリーダーで思想家だった。ヒッピー運動が終わった後も活動を続け、独立系や緑の党の候補として、複数回大統領選挙に出馬している。なお、60年代の若者対象の世論調査で、ティモシー・リアリーやラルフ・ネーダーはベスト10に入ったが、マルクーゼやローザックがベスト10に入ることはなかった。

  • ヘルベルト・マルクーゼ

ユダヤ系ドイツ人のヘルベルト・マルクーゼは1934年ナチス台頭によって、アメリカへの亡命を余儀なくされた。ドイツでフランクフルト学派だったマルクーゼはニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとり、資本主義分析と批判を展開し、「エロス的文明」(1955)、「一次元的人間」(1964)などの著書を出版した。彼の思想は、現代工業社会は人間の「リビドー」や欲望の昇華、性的な本能を低下させ、それらを身体性の残りの部分として鋳型にいれてしまっている。人間の原始的なエロス、欲望や本能、身体性を取りもどさなくてはならないというものである。なお、マルクーゼが影響を与えたのは新左翼であって、ヒッピーに対する影響は小さい。60年代にマルクーゼに影響を受けた人物にはアンジェラ・デイヴィス、アビー・ホフマン、ノーム・チョムスキーらがいた。彼の考えは「セックス革命」と、欧米のカウンターカルチャーに影響をあたえた。

  • セオドア・ローザック

シカゴで1933年に生まれた歴史学者セオドア・ローザックは「カウンターカルチャー」の名づけ親となった。1969年、書籍 "The Making of a Counter Culture"を出版した。この本でローザックは若者がおかれている状況、伝統的なセックス観にしばられた状況などを分析した。さらに「サイケデリック体験」はちがった意識を「行動の冒険」によって具体化させるものだとし、LSDなどの幻覚剤はこの目的にたいして有用であると考えた。彼は平和主義者、反ベトナム戦争、環境運動、セックス革命などそれまで散在していた多様なグループが、カウンターカルチャーのなかで合流していることを分析し、指摘した。若者は、「平和」や「正義」や「自由」の議論をするために大学のキャンパスを占拠し、上から下のコントロールを否定し、これが「カウンターカルチャー」となった。

ユートピア社会主義としてのヒッピー

フランスの歴史家ロナルド・クレア英語版はヒッピー運動を「ユートピア社会主義」の最後の壮大な復活と考えた。

クレアはヒッピーの特徴を、これまでのような「政治的な革命」や「国によって推し進められた改革の行動」ではなく、現行のシステムのなかで、社会主義的な人格がカウンターカルチャーのクリエーションをつうじて「社会の変容」を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会のなかで理想的なコミュニティをつくりあげようとする欲求だとした[注 4]

ピースマーク。ピースマークはもともと核軍縮のキャンペーンのロゴだったが、それをベトナム反戦デモの参加者が使用して、世界に広まるようになった。今日では「世界平和」を願うシンボルのひとつでもある。

「ピースマーク」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちのあいだでポピュラーになった。ヒッピーはたいていは平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」(青年国際党)にいたるまで幅広かった。

公民権運動のリーダーでありブラックパンサ―の共同設立者ボビー・シールはイッピーズのリーダーのひとりジェリー・ルービンとイッピーとヒッピーの違いを議論した。ルービンは、ヒッピーがまだ政治的になる必要性を感じていないので、イッピーズがヒッピームーブメントの「政治的な翼」だとし、ヒッピーの政治活動に関して、「彼らの多くは「石」を選択するが「平和」をのぞんでおり、この選択をおわらせたい思っている」と述べた。非暴力的政治デモにくわえて、ヒッピーのベトナム戦争への反対には、戦争に反対する政治的なグループの組織化、軍隊ではたらくこと、ベトナムの歴史とより大きな戦争の政治的背景を大学キャンパスで教えることなどの「拒否」がふくまれていた。

1967年の、スコット・マッケンジーの歌う「サンフランシスコ(花のサンフランシスコ)」はそれ以降にサンフランシスコへ帰国したヴェトナム戦ベテラン兵士たちの帰国歌となった。マッケンジーはベトナムの退役軍人に「サンフランシスコ」という、逆転した意味でのアメリカ市民の思いを捧げ、2002年にはベトナム退役軍人記念館の献辞20周年を祝った。 ヒッピーの政治的表現は、しばしば彼らがもとめていた変化を実行するために、社会的な「ドロップアウト」のかたちを見せた。

ヒッピーに動機づけられ、ささえられた政治運動は、1960年代のバック・トゥ・ザ・ランド(農村回帰)運動英語版への企業協力、代替エネルギー、自由出版運動、有機農業などだった。ディガーズ英語版として知られるサンフランシスコのグループは、現代の大衆消費社会へラジカルな批判をくわえた。株式をすて、無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、お金を払って、無料の音楽コンサートを組織したり、政治芸術のパフォーマンスをおこなった。彼らは、中世英国の真正水平派(Diggers)からその名を借りて、お金と資本主義のない「小さな社会」を創造しようとした。

これらの運動は、反権力主義的で非暴力的な手段によっておこなわれた。 観察者は「ヒッピーは独自のやり方で、彼らの「平和、愛、自由」という目標に辛辣で抑圧的な階層や権力構造に対抗した。彼らは自分たちの信念を他に強制することはなく、かわりに自分たちの信念を通じて世界をかえようとしたのだ」と言う。

ヒッピーの政治的理想は、アナルコ・パンク、レイヴニューレイヴ・カルチャー、エコロジー政治、マリファナ文化、ニュー・エイジムーブメントなどに影響をあたえた。実際、アナルコ・パンクバンド、クラスのリーダー、ペニー・ランボー英語版はインタビューやエッセーのなかで、自らを「最後のヒッピー」と呼んでいる。クラスは1967年にコミューンとして設立されたダイアル・ハウスにそのルーツをもっていた。

一部のパンクスは、ヒッピーの動きに関係していたクラスに批判的だった。クラスのようにヒッピーに影響をうけたデッド・ケネディーズジェロ・ビアフラはヒッピーに批判的な歌をかいたが、実際、彼の政治的行動と思想に大きな影響を与えたといわれている。

ドラッグ

ビートニクスにつづいて、多くのヒッピーは大麻(マリファナ)を使用し、「楽しく良性」であると考えた。彼らは魂の薬学としてペヨーテLSD、サイロシビンキノコ、DMT(ジメチルトリプタミン)などの幻覚剤に使用を拡大し、しばしばアルコールを放棄した。

乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好するいっぽうで、しばしばアルコール類を摂取しなかった。

ハーバード大学の教授ティモシー・リアリーラルフ・メツナーラム・ダスことリチャード・アルパート英語版らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。

西海岸では、作家のケン・キージーがLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」とよんでいた。キージーはサイケデリック集団「メリー・プランクスター」とともにアメリカ大陸をツアーしメディアの注目をあつめ、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。グレイトフル・デッド(元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は、「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。彼らは「世界を変えるビジョン」を持っていた。コカインアンフェタミンヘロインなどのより効果のきついハードドラッグが使用されることもあった。しかし、これらの薬物は有害で中毒性が強かったため、ヒッピーのあいだではしばしば蔑まれていた。

それから―より多様な社会へ向かって

現在では、一般にすべての年齢の未婚のカップルは、社会的に批難されることなく、自由に一緒に旅行し、一緒に生活することができる。カジュアル・セックスはより一般的になり、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちの権利や自分をある枠のなかだけに分類しないことを選択する人々が増えた。宗教的、および文化的な多様性がより受け入れられるようになった。

協力的な企業や創造的な地域生活の取りきめも以前よりも受け入れられている。 1960年代と1970年代に小さかったヒッピーの自然食品店の中には、ヴィーガニズム、薬草、サプリメントなどの栄養補助食品への関心が高まっている現在、大規模で収益性の高い企業になった店もある。 1960年代と1970年代のカウンターカルチャーはある種の「グルーヴィー」な科学技術を取り入れた。例としては、サーフボードの設計、再生可能エネルギー、水産養殖、および助産師、出産、女性の健康などのクライアント中心のアプローチがあげられる。作家スチュアート・ブランドジョン・マルコフ英語版は、パーソナルコンピュータとインターネットの発展と普及のなかに、ヒッピー文化によって促進された反権力主義の精神を見つけだすことができると主張している。

ファッションブランドGUCCIのデザイナー、アレッサンドロ・ミケーレ。ロン毛はヒッピー以前ではかなり珍しかったが、現在ではバンドマンをはじめとして、一般化されたスタイルとなっている。

彩り鮮やかな外見と服装もまたヒッピーからのじかの影響のひとつだ。 1960年代から1970年代にかけて、綿毛、ひげ、長い髪の毛(ロン毛)がひろまってゆき、服装はよりカラフルとなり、いろいろな民族服がファッション界を席巻した。そのとき以来、ヌードをふくむ、より幅のある個性があらわれ、多様な選択肢と衣服のスタイルがよりひろく受け入れられるようになった。それらすべてはヒッピー時代以前は珍しいものだった。ヒッピーはまた、1950年代から1960年代初頭にかけて男性にとって避けがたいネクタイなどのビジネス衣料品の人気を低下させた。さらに、ヒッピーのファッションそのものは、1960年代から衣服やアクセサリー、とりわけ「平和のシンボル」として長年にわたって普及してきた。

占星術は真剣な研究から個人的な性格に関する気まぐれな娯楽までヒッピーの文化にとってなくてはならないものだった。 1970年代の世代は、ヒッピーと60年代のカウンターカルチャーから影響をうけた。ニューヨークのミュージシャンや観客は、女性、同性愛者、黒人、そしてラテン系のコミュニティにいたるまで、こぞってヒッピーとサイケデリックのいくつかの特色を採った。それらには爆音、フリースタイルな踊り、奇妙な照明、カラフルな衣装、そして幻覚剤が含まれていた。チェンバース・ブラザーズ英語版やとくにスライ&ザ・ファミリー・ストーンのようなサイケデリック・スピリットのグループは、アイザック・ヘイズウィリー・ハッチ英語版フィラデルフィア・ソウルのようなオリジナル・ディスコ・ムーブメントに影響を与えた。さらに、ヒッピーの皮肉のないポジティブさや熱心さは、M.F.S.B.のアルバム「[[:en:Love Is the Message (MFSB album)|Love Is the Message」のような原ディスコ音楽をかたちづくった。

文学におけるヒッピーの遺産には、ケン・キージーの「Electric Kool-Aid Acid Test」のようなヒッピー体験を反映した長く人気を保つ本がふくまれる。音楽ではヒッピーの中でも人気のあるフォーク・ロックやサイケデリック・ロックは、アシッドロックワールド・ビートのようなジャンルに進化した。サイケデリック・トランスは、1960年代のサイケデリック・ロックの影響を受けた電子音楽の一種だ。ヒッピー音楽フェスの伝統は1965年のケン・キ―ジ―の「アシッド・テスト」にはじまった。グレイトフル・デッドはLSDのトリッピングを体験して、サイケデリックなジャミングをはじめた。その後数十年間、多くのヒッピーやニューヒッピーがデッドヘッズ(デッドの熱狂的ファン)コミュニティの一員となり、米国全土の音楽フェスや芸術フェスに参加した。グレイトフルデッドは、1965年から1995年のあいだ、ほとんど中断することなく連続してツアーをおこなった。ロックバンド、フィッシュ(Phish)とそのファン(フィッシーヘッドともよばれる)は、1983年から2004年のあいだに同じように連続してバンドをツアーしてまわった。ヒッピーフェスティバルで演奏する現在のバンドは、1960年代のオリジナルのヒッピーバンドによく似た長いインストを演奏するので、いわゆる「ジャムバンド」とよばれている。

グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめてしまったこと[注 5]によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりをみせている。いちばん大きなものは、2002年にはじまった「ボナルー・フェスティバル [注 6]である。「オレゴン・カントリー・フェア英語版」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。1981年に創設され、毎年開催される「スターウッドフェスティバル英語版」は、メインではない宗教や世界観を探求し、ヒッピーのスピリチュアルな探求を表現する7日間にわたるイベントであり、様々なヒッピーやカウンターカルチャーについての公演や授業を提供している。

2013年のバーニングマンフェスティバル。砂漠でおこなわれる現代のヒッピーたちがつどうオルタナティブ文化の祭典であり、LGBTも多く参加している。

バーニングマン」は1986年にサンフランシスコのビーチパーティーで始まり、ネバダ州リノの北東に位置するブラックロック砂漠で開催されている。バーニングマンはヒッピーフェスそのものではないが、ヒッピーの初期イベントと同じ精神でオルタネイティブ・コミュニティーの現代的な表現をしている。この集会は、入念な区画、ディスプレイ、デコラティブな車などからなる一時的な街(2005年には36,500人、2011年には50,000人)になった。大勢の参加者があつまる他のイベントにはレインボーギャザリングの「ギャザリング・オブ・ザ・バイブス英語版」、平和フェスティバル、復活したウッドストックフェスティバルなどがある。

英国では、そとからはヒッピーとして見られている多くの「ニュー・エイジ・トラベラー英語版」がおり、彼らは自身のことを「平和コンボイ([[[[:en:New Age travellers#Peace Convoy|Peace Convoy)」とよんでいる。彼らは1974年に「ストーンヘンジ・フリーフェスティバル」をはじめたが、1985年に自然環境保護機関であるイングリッシュ・ヘリテッジはフェスティバルを禁止し、「ビーンフィールドの戦い英語版」と呼ばれる暴動事件がおきた。現在ではストーンヘンジは祭りの場として禁止されており、毎年グラストンベリー・フェスティバルで新しい時代の旅行者があつまる。今日、イギリスのヒッピーは各地域に散っているが、夏になると田舎の野外フェスにあつまる。

ニュージーランドでは、1976年から1981年にかけて、ワイヒとワイキーの周辺の大規模な農場でひらかれたフェスティバルに数万人のヒッピーがあつまった。「ナンバサ英語版」と名付けられたこのフェスティバルは、「平和」、「愛」、「バランスの取れたライフスタイル」に焦点を当てている。フェスと同時に、オルタネイティブなライフスタイル、自給自足、清潔で持続可能なエネルギーと持続可能な生活を提唱する実践的なワークショップと展示がおこなわれた。

英国とヨーロッパでは1987年から1989年のあいだ、かつてのヒッピームーブメントが大規模に復活した。このムーブメントは、主に18歳から25歳の人々で構成され、「愛、平和、自由」という初期ヒッピーの理想をたたえた。 1988年の夏は「セカンド・サマー・オブ・ラブ」として知られた。その音楽は現代のエレクトロニックミュージック、特にハウスミュージックアシッドハウスだったが、レイブの「チル・アウトルーム」ではオリジナルヒッピー時代の曲を聞くことができた。

2002年、フォトジャーナリストのジョン・バセット・マクレリー(John Bassett McCleary)は、650ページの6,000項目もの省略されていないスラング辞書「ヒッピー辞書(The Hippie Dictionary[8])」を出版した。これは1960年代から1970年代の文化的百科事典でもある。この本は改訂され、2004年に700ページに拡大された。マクレリーは、ヒッピーの言葉の多くはビート・ジェネレーションにその源をもち、それをみじかくして使用法を普及させることによって、英語にかなりの数の単語を追加したと考えている。

50年後のウッドストック

1969年のウッドストックフェスティバルから50年後の2019年、ウッドストックのオーガナイザーのひとりはメモリアルフェスティバルを企画した。しかし、医療体制や食や水の問題、さらには米国内で頻発する大量銃撃事件に関連して、会場探しが難航し、結局中止となった。1960年代の牧歌的なヒッピーの夢はより暴力的な傾向を強める社会状況という現実に直面せざるをえない状況になっている。

長年警備にたずさわってきたニューヨーク市警の元巡査部長は社会構造の変化にともない、フェスティバルのユートピア感覚は失われ、「60年代を知る人々が、同じ経験をすることはもうないだろう」と述べた[9]

日本のヒッピー

1960年代後半の日本においては、オリジナルのヒッピーという呼び名のほかに、新宿を中心に呼ばれた「フーテン」という呼称もあった。

ただし、自らフーテンであったと自称する作家の中島らもは、「ヒッピーとフーテンは違う[10]」との自説を述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し、「フーテンは思想がないんよ。ラリってるだけやん[10]」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に、「自由ほど不自由なものはないんだよ[10]」と述べ、ヒッピーの思想自体に懐疑的な立場を表明している。

ヒッピームーブメントに関連する項目

Hippie

地名

北米
ヨーロッパ
オセアニア
アジア(日本以外)
日本
  • 長野県諏訪郡富士見町 - 日本のヒッピー文化の発祥の地
  • 新宿 - 1960年代にヒッピーによく知られた喫茶店風月堂が新宿東口に存在した。
  • 国分寺 - かつてヒッピーコミューンが存在し、「ほら貝」という店は国際的拠点でもあった。現在でもナチュラル系の店舗が多い。
  • 西荻窪 - 短期間に終わった国分寺コミューンの崩壊後、ヒッピーらは主に中央線沿線各地に散らばっていった。その拠点のうちの一つに西荻窪の「ほびっと村」がある。
  • 滋賀県高島郡朽木村 - かつてヒッピーコミューンが存在し、2010年代の現在でもかつてのヒッピー文化を彷彿とさせるイベントが開催されている。
  • 京都 - ゲーリー・スナイダーら欧米からのヒッピーが多く居住し、ほんやら洞京都大学西部講堂、磔磔などヒッピー文化の本拠地が多くあった。
  • 鹿児島県諏訪之瀬島 - 山尾三省ななおさかきやゲーリー・スナイダーら、コミューン「部族」が集団移住し、1960年代末~1970年代にかけてヒッピーの聖地とされた。
  • 鹿児島県大島郡宇検村 - 諏訪之瀬島に住んでいたヒッピーが1973年、東亜燃料工業(後の東燃ゼネラル石油)による宇検村の技手久島の石油備蓄基地建設計画を知り、反対運動に加わるため作ったコミューン「無我利道場」が1989年まで存在した。

文化・芸術・思想・サブカルチャー

Flower-Power Bus

政治運動

ヒッピー達の集会

人物・グループ(文化人、思想家)

この項目では、ヒッピーとして行動した人、ヒッピー・ムーブメントに関わったか、影響を受けた人々、グループを記述している。

人物・グループ(音楽)

人物(個人のトラヴェラー、その他)

ヒッピーに関連する主な作品

映画
小説
演劇

薬物

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ カーンのこの認識は住民と若者の認識の「ズレ」や「ギャップ」のようなもので、当然どこの国にもある問題だとおもわれる。
  2. ^ この倫理規定にはある程度「ニューエイジ思想」の価値観と通底したものがみられる。
  3. ^ 「あなただけを」「ホワイト・ラビット」などがヒットした。
  4. ^ これは1968年のフランスの五月革命と同様の精神(68年精神)であり、いわゆる「男性型」のハードな革命ではなく、「女性型のソフトな変容、ソフトな革命としてとらえるべきなのだろう。
  5. ^ グレイトフル・デッドはバンドのギターリストでカウンターカルチャーの象徴的な存在だったジェリー・ガルシアが1995年に死去したこと、フィッシュは2004年に突然の解散を宣言したことによる。
  6. ^ テネシー州で毎年おこなわれている野外フェス。日本からは2004年に「東京スカパラダイスオーケストラ」が参加している。

出典

  1. ^ Usón, Víctor (2017年11月27日). “Avándaro, el festival que cambió la historia del rock mexicano” (スペイン語). El País. ISSN 1134-6582. https://elpais.com/cultura/2017/11/26/actualidad/1511678428_196506.html 2018年9月7日閲覧。 
  2. ^ a b 「カトマンズでLSDを一服」植草甚一、195ページ。晶文社。
  3. ^ “エデン・アーベ Nature Boy by Eden Ahbez” (日本語). Audio-Visual Trivia. http://www.audio-visual-trivia.com/blog/2006/09/nature_boy_by_eden_ahbez.html 2018年9月8日閲覧。 
  4. ^ Longshoremen's Hall | Grateful Dead” (英語). www.dead.net. 2018年9月10日閲覧。
  5. ^ Distinguished Magazine - Premier Lifestyle & Art Coffee Table Magazine | D Mag” (英語). Distinguished Magazine. 2018年9月10日閲覧。
  6. ^ Manseau, Peter. “Fifty Years Ago, a Rag-Tag Group of Acid-Dropping Activists Tried to "Levitate" the Pentagon” (英語). Smithsonian. https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/how-rag-tag-group-acid-dropping-activists-tried-levitate-pentagon-180965338/ 2018年9月11日閲覧。 
  7. ^ Jon McIntire 1941 - 2012 | Grateful Dead” (英語). www.dead.net. 2018年9月17日閲覧。
  8. ^ The Hippie Dictionary, about the 60s and 70s” (英語). www.hippiedictionary.com. 2018年9月18日閲覧。
  9. ^ 相次ぐ銃乱射に苦しむ米国、ウッドストック再来は望み薄”. www.afpbb.com. 2019年8月17日閲覧。
  10. ^ a b c 中島らも『異人伝』(講談社文庫)pp.77-78