「悼王 (楚)」の版間の差分
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2021年3月29日 (月) 12:41時点における版
悼王 熊疑 | |
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楚 | |
王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前402年 - 前381年 |
都城 | 郢 |
姓・諱 | 熊疑 |
諡号 | 悼哲王[1] |
没年 | 紀元前402年 |
父 | 声王 |
悼王(とうおう、生年不詳 - 紀元前381年、在位:紀元前402年 - 紀元前381年)は、悼哲王(とうてつおう)ともいい、中国の戦国時代の楚の王。姓は羋、氏は熊。諱は疑[2]。
生涯
楚の声王の子として生まれた。紀元前402年に声王が賊に暗殺されたため、その後を嗣いで楚王に即位した。
紀元前400年、趙・魏・韓の三晋の軍が楚に侵攻してきたが、三晋の軍は乗丘まで進軍して撤退した[3]。紀元前399年、鄭に楡関を返還した[4]。紀元前398年、楚の郎荘平君が軍を率いて鄭に侵攻した。鄭の皇子・子馬・子池・子封が軍を率いて楚軍を迎撃しようとした。しかし楚軍が氾を渡り会戦しようとすると、鄭軍は蔑に逃げ込んだ。楚軍は蔑を包囲し、鄭軍とその4将軍を降伏させた。楚軍が郢に凱旋すると、鄭の太宰欣がまた鄭で反乱を起こし、鄭の駟子陽を滅ぼした[5]。紀元前397年、楚は鄭の4将軍とその兵民を鄭に帰した。晋軍が津や長陵を包囲して攻め落とした。悼王は長陵の報復のために平夜悼武君(昭王の子の平夜文君の子)に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は郜を降し、滕公をとどめて凱旋した。紀元前395年、韓・魏が郜の役の報復のために軍を率いて楚の武陽を包囲した。魯陽公(平王の子の子期の曾孫)が軍を率いて武陽を救援し、楚軍と韓・魏軍が武陽の城下で戦ったが、楚軍は大敗した。陳の人が叛いて王子定を陳に迎え入れるなど、楚の領邦の城は多くが離反した。悼王は平夜悼武君に命じて斉や陳に援軍を求めさせた。陳疾目は車1000乗を率いて武陽で楚軍に従った。三晋の軍と楚軍は再び会戦した。斉軍は嵒まで達して撤退した[1]。紀元前393年、楚軍は韓を攻撃して負黍を奪った。紀元前391年、趙・魏・韓の軍の侵攻を受け、楚軍は大梁・楡関で敗れた。悼王は秦に厚く賄賂を贈って仲介を頼み、趙・魏・韓と講和することができた[3]。
この頃、魏では将軍の呉起が宰相の公叔痤と対立し、武侯とも折り合いが悪くなって出奔し、楚を頼った。悼王は呉起を宰相に任用した。呉起は国政や軍制の改革をおこない、軍の強化を図ったが、楚の門閥貴族たちとの対立を深めた[6]。
紀元前381年、悼王は死去した[3]。王の死後まもなく、呉起は反対派の貴族ら70余家の軍に襲われ、悼王の遺体の前で射殺された。王の遺体にも矢が突き刺さっていたという[6]。悼王の子の粛王が王位を嗣いだ[3]。
脚注
- ^ a b 『清華簡』「繋年」23章
- ^ 『史記』楚世家による。同書六国年表では、類とする。
- ^ a b c d 『史記』楚世家
- ^ 『史記』六国年表
- ^ 『清華簡』「繋年」23章による。『史記』楚世家ではこの年に楚が周を攻撃したとするが、『史記会注考証』が指摘するように周は鄭の誤りとみられる。『史記』六国年表では、楚は鄭を攻撃し鄭を包囲した、鄭人が駟子陽を殺したとしている。
- ^ a b 『史記』孫子呉起列伝
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