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「ソコト帝国」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2014年5月20日 (火) 15:23 (UTC)}}
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|日本語国名 = ソコト帝国
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[[ファイル:Fula jihad states map general c1830-es.svg|thumb|350px|1830年の西アフリカ]]
'''ソコト帝国'''(英語: ''Sokoto Caliphate'')は、[[1804年]]から[[1903年]]までのちの[[ナイジェリア]]北部の[[ハウサ人]]地域を支配した国家。'''フラニ帝国'''とも呼ばれる。首都は[[ソコト]]。


'''ソコト帝国'''(ソコトていこく、{{lang-ar|دولة الخلافة في بلاد السودان}})は、現在の[[ナイジェリア]]北部に存在した国家。19世紀初頭に[[ウスマン・ダン・フォディオ]]の[[ジハード]]によって建国され、1903年にイギリスの保護領となるまでおよそ100年間存続した。
[[ハウサ諸王国]]のひとつゴビールの[[イスラム神学者]]、[[フラニ人]]の[[ウスマン・ダン・フォディオ]]がゴビールで宗教改革運動を起こしたものの、ゴビール王に街を追われた。彼はそこで[[ジハード]]を宣し([[:en:Fula jihads]])、弟子に推され王に即位。自らの出身民族・フラニ人の[[騎兵]]を従え、ゴビール軍をはじめハウサ諸王国を次々と攻略し({{仮リンク|フラニ戦争|en|Fulani War}}, [[1804年]] – [[1808年]])、1809年にハウサ諸王国を統一した。


== 名称 ==
ウスマン引退後、[[1815年]]にウスマンの息子の{{仮リンク|ムハンマド・ベロ|en|Muhammed Bello}}が即位。ベロがソコトに座して東を治め、ウスマンの弟でベロの叔父[[アブドゥッラーヒ・ダン・フォディオ]]が{{仮リンク|グワンドゥ|en|Gwandu}}に座して西を治めた。この時期帝国は最盛期を迎えた。ソコト帝国は拡大を続け、東の[[カネム・ボルヌ帝国]]や南の[[オヨ王国]]に大打撃を与え、征服こそできなかったものの両国滅亡のきっかけとなった。ソコト帝国の南東にはジハードに加わった{{仮リンク|モディボ・アダマ|en|Modibo Adama}}により{{仮リンク|アダマワ王国|en|Adamawa Emirate|label=アダマワ首長国}}が建てられた。
ソコト帝国という名称は、帝国が首都を置いた[[ソコト]]から来ている{{sfn|赤阪|1975|p=37}}。ただし、このソコト帝国という名称がナイジェリアの独立後の1964年に、ナイジェリアの歴史家の間で学術的に容認されるまでは「'''フラニ帝国'''」という名称が主に用いられていた{{sfn|Last|2018|p=4}}{{refnest|group="注"|フラニとは、[[ハウサ人]]が用いる[[フラニ族|フルベ人]]の他称であり、また、英語での呼称である{{sfn|佐々木|小村|2014|p=10}}。}}。それ以外にも、「'''ソコト・カリフ国'''」や{{sfn|苅谷|2016|p=1}}、「'''ソコト太守国'''」とも呼称される{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=123}}。


== 歴史 ==
ソコト帝国は「フラニ帝国」との名の通り、フラニ人が中心となった国家であり、支配下の各都市にはフラニ人の太守が送り込まれたものの、その下の各都市国家の行政機構はそのまま残され、統治は非常に緩やかな、連邦制に近い形態であった。建国原理・統治原理が[[イスラム教]]であったため、この時期イスラム教はハウサ諸都市により浸透した。また、[[サハラ交易]]も引き続き繁栄し、ハウサ諸都市はサハラ越えの[[キャラバン]]でにぎわった。
=== 背景 ===
[[ファイル:WestAfrica1625.png|サムネイル|右|1625年の西アフリカの地図。右側にハウサ諸王国が記されている。]]
ハウサ地方(現在のナイジェリア北部)についての記録である『[[カノ年代記]]』によると、ソコト帝国が建国されることとなるハウサ地方には14世紀後半に西方より[[イスラーム]]が伝来し、15世紀中ごろには[[アラブ人]]が定住した{{sfn|赤阪|1975|p=34}}。その後イスラーム的要素の強い[[ハウサ諸王国]]が形成されたが、これらの国家は15世紀末には[[ソンガイ王国]]の支配下に置かれて朝貢を課された。16世紀末にモロッコの侵略によってソンガイ王国が衰退すると、その支配を逃れたハウサ諸王国は活発な商業活動を開始した{{sfn|赤阪|1975|p=34-35}}。


ソコト帝国建国の中心となる[[フルベ人]]は[[セネガル川]]流域を起源としている。15世紀ごろから東方に移動を開始し、18世紀ごろには西アフリカの[[サヘル]]地帯のほぼ全域にわたって分布するようになった{{sfn|嶋田|2010|p=115}}。
19世紀末になると、[[ジョージ・トーブマン・ゴールディ]]の[[勅許会社]]{{仮リンク|王立ニジェール会社|en|Royal Niger Company}}が[[ハウサ諸王国#バンザ・バグワイ|バンザ・バグワイ]]の{{仮リンク|ビダ王国|en|Bida Emirate}}と{{仮リンク|イロリン首長国|en|Ilorin Emirate}}へ探検を行なったことをきっかけに、ソコト帝国は海岸部の[[イギリス帝国]]と対立し、[[1903年]]に[[フレデリック・ルガード]]指揮下の{{仮リンク|王立西アフリカ辺境軍|en|Royal West African Frontier Force}} (RWAFF)によってソコトが陥落して{{仮リンク|ムハンマド・アタヒル1世|en|Muhammadu Attahiru I}}は殺害され、帝国は滅亡してイギリスの{{仮リンク|北部ナイジェリア保護領|en|Northern Nigeria Protectorate}}とされた。


ソコト帝国の建国者となる[[ウスマン・ダン・フォディオ]]は、1754年、ハウサ諸王国のひとつである[[ゴビール]]に住むフルベ人の熱心なムスリムの学者の家庭に生まれた{{sfn|赤阪|1975|p=35}}{{sfn|島田|2019|p=22}}。彼は弟である[[アブドゥッラーヒ・ダン・フォディオ|アブドゥラーヒ]]とともにイスラーム教育を受けた{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=103}}。20歳になった彼はジブリール・ウマルという教師の下で学び、そのなかで西アフリカで最も勢いがあった[[カーディリー教団|カーディリーヤ]]に入った{{sfn|福井ほか|1999|p=363}}{{refnest|group="注"|ジブリール・ウマルは、[[ハッジ]]やエジプト滞在の経験があり、西アフリカでは得られない最新の革新的なイスラーム諸学の知識を持っていた{{sfn|福井ほか|1999|p=363}}。}}。イスラーム聖職者となった彼は、1774年ごろから説教師としての活動を開始した。彼は、当時のゴビール王であったバワが、イスラームの教義で禁じられているムスリムの奴隷化や、教義にない税の徴収をしていることを批判した。ゴビールの国民は軍隊維持のための重税に苦しんでおり、彼は民衆からの熱烈な支持を得た{{sfn|島田|2019|p=22}}。バワはウスマンに対して[[ウンマ (イスラム)|ムスリム共同体]]の形成を認め、男は[[ターバン]]を、女は[[ヒジャブ]]を着用することを認めた。ウスマンはゴビールと[[ザムファラ州|ザムファラ]]との国境にある{{仮リンク|デゲル|en|Degel}}にムスリム共同体を設立した{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=104}}。しかし、ウスマンの力が強大になるにつれ、これに脅威を感じたバワは、ムスリムに対しターバンやヒジャブの着用を禁じた{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=104}}。1804年2月、バワの跡を継いだ{{仮リンク|ナファタ (ゴビール王)|label=ナファタ|en|Nafata of Gobir}}の後継である{{仮リンク|ユンファ|en|Yunfa}}は、ウスマンに対して国外追放令を出した{{sfn|島田|2019|p=22}}。デゲルを追放された彼は北西の{{仮リンク|グドゥ|en|Gudu}}へと拠点を移した{{sfn|赤阪|1975|p=36}}{{sfn|苅谷|2016|p=10}}{{Refnest|group="注"|この追放は信徒からはイスラームの預言者であるムハンマドがマッカからマディーナに移住した出来事となぞらえて[[ヒジュラ]]であると解された{{sfn|赤阪|1975|p=36}}{{sfn|苅谷|2016|p=10}}。}}。
イギリスはソコトの首長制を温存したので、ナイジェリア独立後の現在においても、ソコトの[[スルターン]]は存在し、ナイジェリアの[[ムスリム|イスラム教徒]]に強い影響を与えている。

=== 建国 ===
1804年2月、信徒によって、「信仰の司令官」を意味する{{仮リンク|アミール・アル=ムウミニン|en|Amir al-Mu'minin}}に選ばれたウスマンは、ユンファを異教徒であると非難して[[ジハード]]を宣言した{{sfn|島田|2019|p=22}}{{sfn|赤阪|1975|p=36}}{{sfn|苅谷|2016|p=1}}{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=105}}。また、ウスマンはゴビールに限らずハウサ諸王国の全てにジハードを宣言し、ハウサ諸王国の指導者に対して改革を求めた{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=106}}{{Refnest|group="注"|ほとんどのハウサ諸王国はこれを拒絶し、ザザル国のみがこの呼びかけに応じた{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=106}}。}}。ウスマン自身はフルベ人であったが、ジハードの当初はハウサ人ムスリムや、ウスマンの影響で改宗したハウサ人農民が中心で、フルベ人は少数だった{{sfn|松下|1972|p=3}}。しかし、もともとハウサ諸王国で将軍の役を受け持っていたゴビール王は強力な兵力を持っており、これに対抗するにはハウサ人ムスリムの力では足りなかった。そこに部族の連帯によって遊牧のフルベ人たちがジハードに加わったが、彼らはムスリムではなかった。そのため{{harvtxt|松下|1972}}は、ジハードはフルベ人の支配権力奪取のための闘争となったとしている{{sfn|松下|1972|p=3}}。ハウサ人ムスリムの中にはフルベ人の支配者としての役割に愛想をつかして離反するものもいた{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=106}}。

ウスマンは拠点を{{仮リンク|グワンドゥ|en|Gwandu}}に置き、ゴビールや{{仮リンク|ケッビ|en|Kebbi Emirate}}などの連合軍を撃破したのちに囲壁を設けてグワンドゥをジハードの拠点とした。ジハード軍は1805年にはケッビの首都を占領し、次いでザムファラを征服した。1807年には[[カツィナ]]、1808年には{{仮リンク|ダウラ (ナイジェリア)|en|Daura|label=ダウラ}}やゴビールの首都であるアルカラワを征服した{{sfn|赤阪|1975|p=37}}。ジハードはハウサ地方を越えて中央スーダン全体に広がり、隣国のボルヌにも侵攻した。1809年にはカノを征服した{{sfn|苅谷|2016|p=1}}{{sfn|赤阪|1975|p=37}}{{sfn|嶋田|1985|p=273-274}}。1809年までに、ウスマンの呼びかけを拒絶したハウサ諸王国はすべてジハード軍の手に落ちた{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=106}}。

ウスマンは広大に広がったジハードを効率的に遂行するために各地域に指導者を任命し、地方のジハードの指揮をゆだねた。指導者たちは自らも各地に指揮をゆだねた{{sfn|嶋田|1985|p=274-275}}。こうした指導者たちはソコト帝国の下位国家である首長国の建設者となった{{sfn|嶋田|1984|p=59}}。旧ハウサ諸王国はソコト帝国の首長国に再編成されたが、その際に首長国の首都は新たに建設された{{sfn|嶋田|2010|p=180}}。また、[[バウチ州|バウチ]]、[[ゴンベ州|ゴンベ]]、[[アダマワ州 (ナイジェリア)|アダマワ]]などの首長国が新たに形成された{{sfn|赤阪|1975|p=37}}。ジハード初期にウスマンによって任命されたアミールは14人のうち13人がフルべ人だった{{sfn|島田|2019|p=120}}。

ソコト帝国の成立年については研究者によって見解が分かれている{{sfn|苅谷|2017|p=138}}。{{harvtxt|苅谷|2017}}は、表記の便宜上としてジハードが始まった1804年を建国年としているのに対し{{sfn|苅谷|2017|p=138}}、{{harvtxt|島田|2019}}は、ゴビール王を破った1808年を建国年としている{{sfn|島田|2019|p=22}}。

=== ベロの治世 ===
1812年、ウスマンはイスラーム神学の勉強に専念するために、ジハードで獲得した領土を大きく東西に分け、弟であるアブドゥラーヒを西部の統括者に、息子である{{仮リンク|ムハンマド・ベロ|en|Muhammed Bello}}を東部の統括者に任命した{{sfn|苅谷|2017|p=163}}{{sfn|島田|2019|p=24}}。これによってアブドゥラーヒはグワンドゥを首都とする国を、ベロはソコトを首都とする国を統治することとなった{{sfn|島田|2019|p=24}}。1817年にウスマンが死去すると、ソコト帝国の各地の有力者はベロに対して忠誠の誓いを行い、ベロは宗教指導者であるカリフかつソコト帝国のスルターンとなった{{sfn|苅谷|2017|p=163}}{{sfn|島田|2019|p=24}}。

アブドゥラーヒは当初、ベロとの間で緊張状態にあった。この緊張関係は数年後には解消したが、{{harvtxt|苅谷|2017}}は、アブドゥラーヒは自分こそカリフ位を継承する正当性を有していると考えており、ベロがソコト帝国の最高指導者となった当初、アブドゥラーヒはベロを中心とする政権を全面的には支持していなかったと推測している{{sfn|苅谷|2017|p=160}}。

ベロがカリフ位に就いてすぐ、ソコトの南東に位置するザムファラでバーナーガという人物を中心とする反乱がおこった。これを受けてベロは軍事遠征を行ったが、バクラという場所で奇襲を受けて大敗した。この反乱によってソコト帝国は打撃を受け、反ソコト帝国勢力を勢いづかせるきっかけとなった{{sfn|苅谷|2017|p=160}}。1817年の9月ごろにはアブド・アッ=サラ―ム・ブン・イブラーヒームという人物を中心とする反乱が起こった{{sfn|Kariya|2017|p=222}}{{Refnest|group="注"|アブド・アッ=サラ―ム・ブン・イブラーヒームはウスマンの配下として彼と共にジハードを行っていた{{sfn|Kariya|2017|p=285}}。}}。この反乱は1818年1月にアブド・アッ=サラ―ム・ブン・イブラーヒームが逃亡し、その後、逃亡先で死亡したために一時的に収まったものの、彼の兵士たちはソコト帝国内に広がり各地で抵抗運動を行った{{sfn|Kariya|2017|p=223}}。

[[ファイル:Fula jihad states map general c1830-es.svg|サムネイル|右|1830年の西アフリカ]]
1820年頃になるとジハードも鎮静化した。広い地域に渡った国土を統治するため、ベロは国家の辺境に[[リバート]]と呼ばれる城塞基地を築いて外部からの攻撃や侵入に備えた。また、リバートにはイスラーム導師が配置されることが多かったため、イスラーム文化の中心地となるものもあった{{sfn|島田|2019|p=24}}{{sfn|福井ほか|1999|p=366}}。そのほか、ベロは遊牧民の定住化も進めた{{sfn|福井ほか|1999|p=366}}。

1830年までにソコト帝国は国境線を確定させた。ソコト帝国の領域は、東は[[カネム・ボルヌ帝国]]に接し、西は現在の[[ブルキナファソ]]まで、南は{{仮リンク|ヨルバランド|en|Yorubaland}}に、北はサハラ砂漠の縁に達した{{sfn|Obikili|2018|p=11}}。国境線は19世紀を通してほとんど変わらず維持された{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=114}}。

のちに[[トゥクロール帝国]]を建てることとなる{{仮リンク|アル・ハジ・オマル|en|Omar Saidou Tall}}は1826年にマッカ巡礼を行ったのちにソコト帝国に7年滞在し、この間にベロの娘を妻にめとった{{sfn|赤阪|1975|p=42}}。

=== イギリスの進出 ===
[[ファイル:Map of River Niger.svg|サムネイル|左|ニジェール川の地図。]]
1823年、イギリス人探検家の[[ヒュー・クラッパートン]]らがソコトを訪れた{{sfn|島田|1981|p=36}}。彼らはベロに丁重にもてなされたが、イギリスと通商協定を結び、ソコトに領事と医者の駐在を認めてほしいというクラッパートンの要請に対してベロは反対はしなかったものの賛成もすることはなかった{{sfn|島田|2019|p=77-78}}。1825年、彼らはベロが記したイギリス国王[[ジョージ3世]]宛の親書と共にイギリスに帰国した{{sfn|島田|1981|p=37}}。帰国後、彼らは、西アフリカ内陸部に野蛮で未開な社会とは別の、秩序だった社会が存在することを報告した。しかし、彼らが報告した奴隷制度や奴隷狩りの記録は、のちにイギリス政府によるソコト征服の口実のひとつとなった{{sfn|島田|1981|p=37}}{{Refnest|group="注"|イギリスでは1807年に奴隷貿易禁止法が制定され、1833年には奴隷制廃止法が制定された{{sfn|島田|2019|p=46}}。それ以降は海軍を用いて奴隷船の拿捕と保護した奴隷のアフリカへの送還を行っていた{{sfn|宮本|松田|2018|p=311}}。}}。

1884年11月、[[ドイツ帝国]]の[[オットー・フォン・ビスマルク]]の呼びかけにより[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]が開催された。イギリスやフランスなど13か国が参加したベルリン会議では[[ニジェール川]]の自由航行が認められたほか、沿岸部を占領することが自動的に内陸部の所有権を生み出すという勢力範囲の原則と、他国の権益のない地域を新たに勢力圏に加える際には列強に通告するのみでよく、勢力に加えた地域では他国の権益を保護できる実体的権力を打ち立てるべきであるとする実効支配の原則が合意された{{sfn|宮本|松田|2018|p=315-316}}。これによってイギリスは、ソコト帝国の領域に対して権益を主張できるようになった{{sfn|島田|2019|p=92}}。

1885年、ソコト帝国はイギリスの商社であるナショナル・アフリカ会社 (NAC) と協定を結んだ{{Refnest|group="注"|ナショナル・アフリカ会社は、フランスに対抗するため1879年に有力商社を合併して設立されたユナイテッド・アフリカ会社を1882年に改組して誕生した商社。イギリス政府はNACの人物を副領事に任命したためNACが結んだ協定はイギリス国王が承認した協定であるということとなった{{sfn|島田|2019|p=96-97}}。}}。この協定では、[[ベヌエ川]]、[[ニジェール川]]両岸で徒歩10時間以内の距離にある領域の全ての権利をNACに譲渡することや、NACによる交易独占を認めること、条約の恒久性などが定められたほか、NACがグワンドゥに対して毎年子安貝2,000袋、ソコトに対して3,000袋を贈ることが定められた。これはイギリスがこの地域の実効的支配を裏付けるものとなった{{sfn|島田|2019|p=123-124}}。

1897年、[[植民地省|イギリス植民地省]]は西アフリカ辺境軍を創設し、[[フレデリック・ルガード]]が指揮官に命じられた{{sfn|戸田|2010|p=32}}。ルガードは同年に首長国のひとつであるビダやイロリンを占領した{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=165}}。

=== 滅亡 ===
1900年1月1日、イギリス政府によって[[北部ナイジェリア保護領]]が設置され、これの高等弁務官に就任したルガードはソコト帝国などの北部ナイジェリア全域をイギリス領にすると宣言した{{sfn|島田|2019|p=123}}{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=163}}。この頃のソコト帝国は、帝国内の抵抗勢力や、ラベ国などの外国勢力に脅かされており、イギリスはそのような多くの脅威の中のひとつでしかなかった{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=163}}。1900年にはコンタゴラが、1901年にはヨラが、1902年にはバウチがイギリス軍によって占領された。また、カノの南にあったザリアは抵抗をあきらめて1902年に降伏した。1902年、当時のソコト帝国の君主であったアブドゥルラーマンはルガードにあてて手紙を送り、戦争を通告した{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=165}}

同年、ケフィに駐在していたイギリス人事務官が地元の徴税官によって殺害された。1903年1月29日、イギリスは報復のため700人余りの軍隊を徴税官が逃げた先であるカノに送った。2月3日にはイギリス軍はカノを占領したが、このときカノのアミールであったアリユはソコトに出向いており不在だったため、イギリス軍はソコトに転進した{{sfn|福井ほか|1999|p=462}}{{sfn|島田|2019|p=124-125}}。ソコトでは、イギリスに対して服従すべきであるとする人々と、抗戦すべきであるとする人々、異教徒にとられる土地から去るべき(ヒジュラするべき)であるとする人々とに分裂していた。ソコトは3月21日に陥落し、ソコト帝国は崩壊した{{sfn|福井ほか|1999|p=462}}{{sfn|島田|2019|p=124-125}}{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=165-166}}。

スルターンであったアタヒルはソコトを脱出した。イギリスはソコトで新たなスルターンを擁立したが、領民の多くやイギリスに服従したアミールでさえも正当なスルターンはアタヒルだとしていて彼を密かに支援していたため、イギリスは彼を追うのに苦心を強いられた。しかし、ソコトの数百キロメートル東にあるブルミにおいてアタヒルは捕らえられ、戦闘の末、彼は7月27日に死亡した{{sfn|東京地学協会|1904|p=278}}{{sfn|島田|2019|p=125}}{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=166}}。

=== 滅亡後 ===
ルガードはスルターンに対してソコトの間接統治の開始を宣言した{{sfn|島田|2019|p=124-125}}。ソコトのスルターンは存続されたが、アミールの監督権はイギリスに譲渡され、宗教上の権限だけが認められた{{sfn|宮本|松田|2018|p=351}}。この間接統治によってカノなどの首長国の政府はそのまま地方政府として利用されたため、現在のナイジェリアにもこうした首長国政府が残っている{{sfn|嶋田|2010|p=197}}。

ソコトのスルターンの流れをくむものは1960年のナイジェリア独立後にも政治的に重要な役割を演じた{{sfn|福井ほか|1999|p=462}}。その一人であるアフマド・ベロはナイジェリア北部で北部人民会議と呼ばれる政党を率い、北部州の初代首相となった{{sfn|福井ほか|1999|p=462}}{{sfn|戸田|2010|p=29}}。

== 政府・行政 ==
=== 君主 ===
ソコト帝国はカリフを君主とするCaliphate(カリフ国)であると見なされている{{sfn|嶋田|1985|p=272}}。しかし、カリフは宗教指導者としての称号であり、政治的統治者としての称号はスルターンであった{{sfn|島田|2019|p=22}}。ただし、ソコト帝国の君主としての称号として最も頻繁に用いられたのはハウサ語で「ムスリムの王」を意味する「Sarkin Messulmi」か[[シャイフ]]であった{{sfn|嶋田|1985|p=275}}。

=== アミール ===
ソコト帝国はスルターンを頂点として各地にアミール{{Refnest|group="注"|アミールは文献によって「首長」{{sfn|嶋田|1985|p=272}}や「藩王」{{sfn|島田|2019|p=22}}とも訳される。}}を配置する体制を取っていた{{sfn|島田|2019|p=22}}。ジハードの時代、ウスマンは各地域に責任者を任命して地方のジハードの指揮をゆだね、さらに任命された責任者たちは自らも各地に指揮をゆだねた{{sfn|嶋田|1985|p=274-275}}。勝利を収めた彼らは占領地のアミールとして任命され、アミールはカリフに対して忠誠を誓うとともに毎年貢納義務を負ってアミールに就任した{{Refnest|group="注"|貢納品としては、子安貝や布、馬、奴隷などがあった{{sfn|島田|2019|p=121-122}}。}}。新たなアミールの就任には、スルターンを輔弼する大臣の承認を通したうえでスルターンの承諾が必要だった{{sfn|赤阪|1975|p=39}}{{sfn|島田|2019|p=23}}。また、スルターンはアミール廃位の権限を有していた{{sfn|赤阪|1975|p=39}}。

=== 首長国 ===
ウスマンによるジハードの遂行の際、各地に責任者が任命された。こうしたものたちはアミールとして首長国を創始した{{sfn|嶋田|1985|p=274-275}}。こうした首長国は15から20あった{{sfn|Last|2018|p=4}}。アミールたちはスルターンが支配するソコトをモデルにして首長国の支配体制を整備した。なかには例外的に、現地の伝統的統治組織を残して国を作ることもあった{{sfn|島田|2019|p=120-121}}。ソコト帝国の属国であった首長国には自らも属国を持つ例が見られた{{sfn|赤阪|1975|p=40}}{{Refnest|group="注"|例えば、首長国のひとつであったアダマワは自らも50以上の属国を抱えていた{{sfn|嶋田|1985|p=272}}。日本語文献において、こうした属国は「副首長国」や、「下位国家」、また、日本の徳川幕府になぞらえて「藩」とも呼称される{{sfn|嶋田|1985|p=275}}。}}。属国のアミールは首長国のアミールの承認を得て即位したが、首長国のアミールもまた属国のアミールの廃位権を持っていた{{sfn|赤阪|1975|p=40}}。

ソコトのスルターンを頂点とする体制は19世紀末までに北部ナイジェリアの広い地域で整っており、東端でわずかに従属していない地域が残るのみであった{{sfn|島田|2019|p=120}}。

=== 大臣 ===
ワジリと呼ばれる大臣または高官にはスルターンの親族や臣下が任命され、スルターンとアミールの仲介を務めた。アミールの貢納の徴収には大臣が監督責任を負っており、怠慢なアミールに対しては軍を派遣して強制的に徴収を行った{{sfn|赤阪|1975|p=40}}{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=119}}。

=== 地方の支配者 ===
カリフが征服地で影響力を強めるための政策として、「地方の支配者にカリフに忠誠を誓い、イスラム教を信仰することを宣誓させる代わりに、地方の支配者が引き続き支配をすることを認める」というものがある。これにより地方の支配者はカリフに忠誠を誓い、征服地で影響力を強めることができた<ref name=":5">{{Cite book |title=The Sokoto Caliphate : history and legacies, 1804-2004 |date=2006 |publisher=Arewa House |others=H. Bobboyi, Mahmood Yakubu |isbn=978-135-166-7 |edition=1st |location=Kaduna, Nigeria |oclc=156890366}}</ref>。

== 社会・経済 ==
=== 民族 ===
ソコト帝国は多民族国家であり、フルベ人、ハウサ人、ヌペ人、ヨルバ人などで構成されていた{{sfn|嶋田|2010|p=117}}{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=107}}。フルベ人が支配的な地位にあったが、フルベ人は他の民族に比べてはるかに数が少なかった{{sfn|ラブレ|1962|p=101}}。ソコト帝国においてはフルベ人とハウサ人との混血や文化融合が進み、現在のナイジェリアにおける{{仮リンク|ハウサ・フルベ人|en|Hausa-Fulani}}と呼ばれる民族集団につながった{{sfn|室井|2003|p=24}}。

=== 通貨 ===
ソコト帝国では通貨として[[タカラガイ]]が用いられていたが、{{仮リンク|マリア・テレジア銀貨|en|Maria Theresa thaler}}などヨーロッパの貨幣も通貨として用いられた{{sfn|Last|2018|p=5}}。タカラガイ通貨5,000個がマリア・テレジア銀貨1枚に相当した。タカラガイ通貨6万個があれば1つの家族が1年十分に安楽な生活ができたという{{sfn|嶋田|2010|p=237}}。

=== 奴隷 ===
ウスマンによるジハードの時期より、非ムスリムの捕虜は身代金と引き換えに解放されるか、または奴隷とされていた。男性の奴隷化には制限はなかったが、女性や子供の奴隷化には一定の制限が設けられていた{{sfn|苅谷|2016|p=7}}。使役したり売却することのできる奴隷の存在はソコト帝国の財政基盤の強化にとって重要な意味を持っていた{{sfn|苅谷|2016|p=9}}。

1824年にソコト帝国を訪れたヒュー・クラッパートンは、カノの住民は3万から4万だが、その半数以上が奴隷であろうと記録している。また彼は、カノには一般の市場とは別に常設の奴隷市場が存在したことや、ジハードのなかで住民が捕縛され、売却されたことで荒廃した村や町が存在したことなども記している。カノの東に位置するカタグムでは奴隷が主要交易品となっており、ソコト帝国の首都であったソコトでは、他の商品は輸出のみか輸入のみであったのに対し、奴隷は輸出入ともに行われていた{{sfn|苅谷|2016|p=9}}。奴隷の値段は、少年少女、特に未婚の少女の価格が飛びぬけて高く、最も価格が安かったのは成人男性だった{{sfn|嶋田|2010|p=218}}。

布・衣服産業にはニジェール川中下流域出身の奴隷が重用されており、{{harvtxt|嶋田|1990}}によると、奴隷制が肉体労働者の売買や使役のみを目的とせず、専門技術者の獲得をめぐって機能していたという{{sfn|嶋田|1990|p=474}}。

=== 税制 ===
イギリス人探検家であるヒュー・クラッパートンの記録には、ソコトに[[ザカート]](十分の一税)や道路通行税、市場税などがあったことが記されている{{sfn|島田|1981|p=37}}{{sfn|島田|2019|p=122}}。また、家畜税や地租、染色職人に対する税が存在した{{sfn|池谷|1993|p=367}}{{sfn|島田|2019|p=129}}。そのほかにも、非ムスリムを中心としてカラジやジズヤと呼ばれる人頭税、戦利品の五分の一を収めるクムス、相続税が存在した{{sfn|島田|2019|p=122}}。

=== 産業・交易 ===
[[ファイル:Le Tour du monde-02-p225.jpg|サムネイル|1860年のソコトの市場の様子。[[:fr:Auguste Hadamard]]画]]
ソコトの商都であったカノでは布・衣服産業が発達していた。ドイツ人探検家のハインリッヒ・バルトによると、カノの商圏は、北は地中海沿いの[[トリポリ]]、西は大西洋、南はアダマワ、東はボルヌにまで達していたという{{sfn|嶋田|1990|p=461}}。バルトの推測ではカノの衣類の全輸出額はタカラガイ通貨3億個分に達しており、これによっておよそ5,000人が養われていたという{{sfn|嶋田|1990|p=461}}。

クラッパートンによると、製品には卸売業者の名が記され、もしも製品が不良品であると分かると売り手に返品され、買い手は代金の払い戻しを受けることができたという。これはカノの法律で定められた制度であり、布・衣類の信用維持には国家を挙げて取り組まれていた{{sfn|嶋田|1990|p=474}}。

=== 軍事 ===
[[ファイル:Sokoto cavalry.png|左|サムネイル|ソコト帝国の騎兵。]]
ソコト帝国は{{仮リンク|アミール・アル=ムウミニン|en|Amir al-Mu'minin}}によるジハードの時期は、常備軍・騎兵隊の2つの軍を所有していた<ref>{{Cite journal|last=Sheriff|first=Vaffi Foday|title=Transformation of Sokoto Caliphate by Sheik Usman Danfodiyo: A Social Thought Perspective|url=http://www.ijhssi.org/papers/v5(8)/G050801041047.pdf|journal=International Journal of Humanities and Social Science Invention|volume=5|issue=8|pages=41–47}}</ref>。常備軍はハウサ人とフラニ人で構成され、戦闘に向けて訓練を行い、領土拡大・領土防衛に努めた。また騎兵隊も機動力などから当時軍隊に不可欠な存在であった<ref name="Smith 1989">{{Cite book |last=Smith |first=Robert Sydney |title=Warfare and diplomacy in pre-colonial West Africa |date=1989 |publisher=Currey |isbn=0-85255-027-8 |edition=2nd |location=London |oclc=18743528}}</ref>。

その後拡大地域に首長国が設置されると、ソコト帝国における集権的な軍事組織はなくなり、各首長国が各々の軍隊を持って、自分たちの脅威に対処するようになった{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=164}}。ソコト帝国の勢力拡大を恐れていた北アフリカやサハラの勢力はソコトへの鉄砲の輸出を制限しており、ソコト帝国には滅亡に至るまで十分な鉄砲隊が存在しなかった{{sfn|宮本|松田|2018|p=232}}。そのため、ソコト帝国の軍の中核は騎馬隊であった{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=106}}。フラニ族の騎馬兵は馬術に優れていたため、騎兵に向いていたことも要因の一つとなっている<ref name=":5" />。

1890年にソコト帝国を訪れたフランスの探検家{{仮リンク|パルフェ=ルイ・モンテイユ|en|Parfait-Louis Monteil}}は、第10代ソコト帝国スルタンのウマルが{{仮リンク|アルグング|en|Argungu}}を包囲するために「4万人の塀(うち半数は騎兵隊)」を招集するのを目撃したと著書に記している<ref>{{Cite book |last=Monteil |first=P.-L. (Parfait-Louis) |url=http://archive.org/details/desaintlouistrip00monteil |title=De Saint-Louis a Tripoli par le Lac Tchad : voyage au travers du Soudan et du Sahara accompli pendant les années 1890-91-92 |date=1895 |publisher=Paris : F. Alcan |others=Smithsonian Libraries |pages=8 |language=fr}}</ref>。

一方、ソコト帝国の軍隊が山岳での活動を困難とする騎馬隊であったために、ソコト帝国は[[ジョス高原]]を支配することが出来なかった{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=114}}。

=== 司法 ===
ソコト帝国では[[シャリーア]]が施行されており、[[カーディー]]による裁判が行われていた{{sfn|落合|2021|p=27}}。司法は主に首長国のアミールによって取り仕切られていたが、ムスリムの死刑の認可はカリフのみが出すことが出来た{{sfn|Last|2018|p=4}}。

1903年にソコト帝国がイギリスの侵攻を受けた際、ワジリやカーディーは異教徒の支配を受けながらイスラームの宗教的な諸事を遂行することが許されるのかが大きな懸念であったが、この決定の際にはウスマンの著作の内容に依拠された。{{harvtxt|苅谷|2017}}は、ウスマンの思想や見解がソコト帝国の重要な規範・法規として機能していたとしている{{sfn|苅谷|2017|p=141}}。

ウスマンが記した『解明』と訳される法学書では、スンナ派の4大法学派のひとつであり北アフリカや西アフリカで歴史的に大きな影響力を持っていたマーリク学派の多数派の見解を示すほか、マーリク学派の法学者による法学書の引用を行っているが{{sfn|苅谷|2016|p=6-7}}、その一方で、18世紀半ば以降に西アフリカで宗教的・知的権威として大きな影響力を有したカーディリーヤの思想家であるマギーリーを特別視していた{{sfn|苅谷|2017|p=157}}。

== 宗教 ==
{{see|{{仮リンク|ナイジェリアの宗教|en|Religion in Nigeria}}}}ソコト帝国はイスラーム勢力圏に置かれており{{sfn|島田|2019|p=87}}、ソコト帝国のもとで数十万人が旧来より信仰していた伝統宗教からイスラームへの改宗を余儀なくされたが{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=107}}、ソコト帝国以前のハウサ諸王国時代からイスラームが浸透していたハウサ地方においては、イスラーム以前の儀礼が残されていた{{sfn|ラブレ|1962|p=79}}。ソコト帝国の建国者であるウスマンは神秘主義教団の[[カーディリー教団|カーディリーヤ]]に加盟しており、彼の後継者も同様にカーディリーヤに加盟していた{{sfn|福井ほか|1999|p=369}}。

=== キリスト教宣教 ===
19世紀後半にはイギリスからキリスト教の宣教師が訪れたが、ソコト帝国のスルターンやアミールたちは現在のナイジェリア南部においてイギリス国教会がイギリス政府と連携して宣教活動を行っていたことから彼らの進出に危機感を抱いていたため、キリスト教の布教は芳しい成果は上がらなかった{{sfn|島田|2019|p=87}}。

== 地理 ==
{{main|{{仮リンク|ナイジェリアの地理|en|Geography of Nigeria}}}}ソコト帝国が存在した現在のナイジェリア北部は空気が乾燥しているほか、標高の高い丘陵地が広がっている。こうした地理的特徴から、ヨーロッパから来たキリスト教宣教師は熱帯雨林が広がる南部より北部を好んだという{{sfn|島田|1981|p=41-42}}。

== 文化 ==
=== 言語 ===
{{see|{{仮リンク|ナイジェリアの言語|en|Languages of Nigeria}}}}ソコト帝国においてフルベ人は少数だったが、フルべ人以外の部族にも[[フラニ語]]が浸透していた{{sfn|ラブレ|1962|p=101}}{{sfn|嶋田|2010|p=117}}。しかし、フラニ語は音調言語でないため代用言語が存在せず、儀礼的な場では[[ハウサ語]]の代用言語が用いられた{{sfn|松下|1981|p=100}}{{Refnest|group="注"|音調言語を用いるアフリカの多くの言語集団では、高低調節が可能な打楽器やドラムなどで発話される代用言語を持っている。この代用言語は儀礼などには欠かせないものだった{{sfn|松下|1981|p=100}}。}}。

=== 詩・音楽 ===
{{Main|[[ナイジェリアの音楽]]}}ウスマンによる急進的なイスラーム化によって享楽的な音楽や楽器は追放された。そのかわりソコト帝国ではシャーイリと呼ばれる宗教歌の歌手が生まれ、詩や歌でイスラーム精神の普及が行われた。ただし、他の地域に比べこうした強いイスラーム化が進まなかったニジェール中流域では恋愛歌や享楽的な詩が保たれた{{sfn|江口|1985|p=78}}。

=== 衣服 ===
{{see|{{仮リンク|ナイジェリアのファッション|en|Fashion in Nigeria}}}}[[ファイル:Fulahs of Sokoto-1900.jpg|サムネイル|右|ソコト帝国の都市であるカノの住民。1900年撮影。]]
かつての[[ブラック・アフリカ]]は裸族文化であったが、裸を嫌うイスラームを信仰するソコト帝国によって、裸族文化であった地域に衣服文化が持ち込まれた{{sfn|嶋田|1990|p=466}}。衣服は[[貫頭衣]]が着用された。材質は主に木綿だったが、絹糸の刺繍が入ったものやそもそも絹糸で作られたものもあった。女性はこの貫頭衣を正装としていたが、日常的には腰巻布、胸回り布、背中に巻くショールが着用された。また、男性は頭部にトルコ式のフチなし帽子やターバンを着用し、女性はスカーフを着用した{{sfn|嶋田|2010|p=232-233}}。

=== 学問 ===
{{see|{{仮リンク|ナイジェリアの教育|en|Education in Nigeria}}}}イスラームは識字の徳を奨励しており、ソコト帝国の治世において男女問わず識字率が上昇した。また、ソコト帝国においては学者階級も急激に成長した。こうした学者が記した神学、法律学、医学、天文学、数学、歴史学、地理学の書物などは現代のナイジェリアの時代においても発見されている{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=107-108}}。こうした書物はアラビア語のほか、アラビア文字で表記したフルベ語やハウサ語で記されていた{{sfn|シュレ=カナール|1978|p=123}}。

== 歴代君主 ==
{{see also|en:List_of_sultans_of_Sokoto}}
{{harvtxt|グローダー|アブドゥラヒ|1983}}に掲載されている系図をもとに作成{{sfn|グローダー|アブドゥラヒ|1983|p=123}}。

# ウスマン・ダン・フォディオ(在位:- 1817年)
# モハメッド・ベロ(在位:1817年 - 1837年)
# アブバカール・アティク1世(在位:1837年 - 1842年)
# アリユ・バッバ(在位:1842年 - 1859年)
# アフマドゥ・アティク(在位:1859年 - 1866年)
# アリユ・カラミ(在位:1866年 - 1867年)
# アフマドゥ・ルファイ(在位:1867年 - 1873年)
# アブバカール・アティク2世(在位:1873年 - 1877年)
# ムアズ(在位:1877年 - 1881年)
# ウマル(在位:1881年 - 1891年)
# アブドゥラーマン(在位:1891年 - 1902年)
# アタヒル・アフマドゥ(在位:1902年 - 1903年)

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|25em}}

=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
* {{Cite journal|和書|author=赤阪賢 |title=<論説>十九世紀西スーダンにおける政治的領域 |journal=史林 |issn=03869369 |publisher=史学研究会 (京都大学文学部内) |year=1975 |month=jan |volume=58 |issue=1 |pages=27-66 |naid=120006596896 |doi=10.14989/shirin_58_27 |url=https://hdl.handle.net/2433/238222 |ref={{SfnRef|赤阪|1975}}}}
* {{Cite journal|和書|author=池谷和信 |title=ナイジェリアにおけるフルベ族の移牧と牧畜経済 |journal=地理学評論 Ser. A |issn=00167444 |publisher=日本地理学会 |year=1993 |volume=66 |issue=7 |pages=365-382 |naid=110000521390 |url=https://doi.org/10.4157/grj1984a.66.7_365 |ref={{SfnRef|池谷|1993}}}}
* {{Cite journal|和書|author=江口一久 |title=アフリカの口承文芸 |journal=アフリカ研究 |issn=0065-4140 |publisher=日本アフリカ学会 |year=1985 |volume=1985 |issue=27 |pages=71-90 |naid=130000730952 |doi=10.11619/africa1964.1985.27_71 |url=https://doi.org/10.11619/africa1964.1985.27_71 |ref={{SfnRef|江口|1985}}}}
* {{Cite journal|和書|author=落合雄彦 |title=第1章 植民地期の北部ナイジェリアにおけるシャリーアの適用――原住民裁判所制度の変遷を中心にして―― |journal=サハラ以南アフリカの国家と政治のなかのイスラーム――歴史と現在―― |publisher=日本貿易振興機構アジア経済研究所 |year=2021 |pages=21-54 |ISBN 9784258046461 |url=https://hdl.handle.net/2344/00052089 |ref={{SfnRef|落合|2021}}}}
* {{Cite journal|和書|author=苅谷康太 |title=19世紀初頭の西アフリカにおける不信仰者の分類と奴隷化:ウスマーン・ブン・フーディーの著作の分析から |journal=アフリカ研究 |issn=0065-4140 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2016 |volume=2016 |issue=89 |pages=1-13 |naid=130006789912 |doi=10.11619/africa.2016.89_1 |url=https://doi.org/10.11619/africa.2016.89_1 |ref={{SfnRef|苅谷|2016}}}}
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** {{Cite book|author=Nonso Obikili|title=State Formation in Precolonial Nigeria|page=1-15|doi=10.1093/oxfordhb/9780198804307.013.1|ref={{SfnRef|Obikili|2018}}}}
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== 関連項目 ==
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* [[:en:List of Sultans of Sokoto]]
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ソコト帝国
دولة الخلافة في بلاد السودان
al-Khilāfat fi'l-Bilād as-Sūdān
ハウサ諸王国 1804年 - 1903年 北部ナイジェリア保護領
ドイツ領カメルーン
フランス領西アフリカ
ソコト帝国の国旗
(国旗)
ソコト帝国の位置
公用語 ハウサ語
フラニ語
アラビア語
宗教 イスラム教スンナ派
首都 ソコト
スルターン英語版
1804年 - 1815年 ウスマン・ダン・フォディオ
1896年 - 1903年ムハンマド・アッダヒール1世英語版
宰相ワズィール
1804年 - 1817年アブドゥッラヒ・ダン・フォディヨ
1886年 - 1903年ムハンマドゥ・アル=ブハリ
面積
最大領域[1]460,000km²
変遷
ウスマン・ダン・フォディオジハードを開始 1804年2月4日
イギリスの保護領となり滅亡1903年
通貨ディルハム
現在ナイジェリアの旗 ナイジェリア

ソコト帝国(ソコトていこく、アラビア語: دولة الخلافة في بلاد السودان‎)は、現在のナイジェリア北部に存在した国家。19世紀初頭にウスマン・ダン・フォディオジハードによって建国され、1903年にイギリスの保護領となるまでおよそ100年間存続した。

名称

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ソコト帝国という名称は、帝国が首都を置いたソコトから来ている[2]。ただし、このソコト帝国という名称がナイジェリアの独立後の1964年に、ナイジェリアの歴史家の間で学術的に容認されるまでは「フラニ帝国」という名称が主に用いられていた[3][注 1]。それ以外にも、「ソコト・カリフ国」や[5]、「ソコト太守国」とも呼称される[6]

歴史

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背景

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1625年の西アフリカの地図。右側にハウサ諸王国が記されている。

ハウサ地方(現在のナイジェリア北部)についての記録である『カノ年代記』によると、ソコト帝国が建国されることとなるハウサ地方には14世紀後半に西方よりイスラームが伝来し、15世紀中ごろにはアラブ人が定住した[7]。その後イスラーム的要素の強いハウサ諸王国が形成されたが、これらの国家は15世紀末にはソンガイ王国の支配下に置かれて朝貢を課された。16世紀末にモロッコの侵略によってソンガイ王国が衰退すると、その支配を逃れたハウサ諸王国は活発な商業活動を開始した[8]

ソコト帝国建国の中心となるフルベ人セネガル川流域を起源としている。15世紀ごろから東方に移動を開始し、18世紀ごろには西アフリカのサヘル地帯のほぼ全域にわたって分布するようになった[9]

ソコト帝国の建国者となるウスマン・ダン・フォディオは、1754年、ハウサ諸王国のひとつであるゴビールに住むフルベ人の熱心なムスリムの学者の家庭に生まれた[10][11]。彼は弟であるアブドゥラーヒとともにイスラーム教育を受けた[12]。20歳になった彼はジブリール・ウマルという教師の下で学び、そのなかで西アフリカで最も勢いがあったカーディリーヤに入った[13][注 2]。イスラーム聖職者となった彼は、1774年ごろから説教師としての活動を開始した。彼は、当時のゴビール王であったバワが、イスラームの教義で禁じられているムスリムの奴隷化や、教義にない税の徴収をしていることを批判した。ゴビールの国民は軍隊維持のための重税に苦しんでおり、彼は民衆からの熱烈な支持を得た[11]。バワはウスマンに対してムスリム共同体の形成を認め、男はターバンを、女はヒジャブを着用することを認めた。ウスマンはゴビールとザムファラとの国境にあるデゲル英語版にムスリム共同体を設立した[14]。しかし、ウスマンの力が強大になるにつれ、これに脅威を感じたバワは、ムスリムに対しターバンやヒジャブの着用を禁じた[14]。1804年2月、バワの跡を継いだナファタ英語版の後継であるユンファ英語版は、ウスマンに対して国外追放令を出した[11]。デゲルを追放された彼は北西のグドゥ英語版へと拠点を移した[15][16][注 3]

建国

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1804年2月、信徒によって、「信仰の司令官」を意味するアミール・アル=ムウミニン英語版に選ばれたウスマンは、ユンファを異教徒であると非難してジハードを宣言した[11][15][5][17]。また、ウスマンはゴビールに限らずハウサ諸王国の全てにジハードを宣言し、ハウサ諸王国の指導者に対して改革を求めた[18][注 4]。ウスマン自身はフルベ人であったが、ジハードの当初はハウサ人ムスリムや、ウスマンの影響で改宗したハウサ人農民が中心で、フルベ人は少数だった[19]。しかし、もともとハウサ諸王国で将軍の役を受け持っていたゴビール王は強力な兵力を持っており、これに対抗するにはハウサ人ムスリムの力では足りなかった。そこに部族の連帯によって遊牧のフルベ人たちがジハードに加わったが、彼らはムスリムではなかった。そのため松下 (1972)は、ジハードはフルベ人の支配権力奪取のための闘争となったとしている[19]。ハウサ人ムスリムの中にはフルベ人の支配者としての役割に愛想をつかして離反するものもいた[18]

ウスマンは拠点をグワンドゥ英語版に置き、ゴビールやケッビ英語版などの連合軍を撃破したのちに囲壁を設けてグワンドゥをジハードの拠点とした。ジハード軍は1805年にはケッビの首都を占領し、次いでザムファラを征服した。1807年にはカツィナ、1808年にはダウラ英語版やゴビールの首都であるアルカラワを征服した[2]。ジハードはハウサ地方を越えて中央スーダン全体に広がり、隣国のボルヌにも侵攻した。1809年にはカノを征服した[5][2][20]。1809年までに、ウスマンの呼びかけを拒絶したハウサ諸王国はすべてジハード軍の手に落ちた[18]

ウスマンは広大に広がったジハードを効率的に遂行するために各地域に指導者を任命し、地方のジハードの指揮をゆだねた。指導者たちは自らも各地に指揮をゆだねた[21]。こうした指導者たちはソコト帝国の下位国家である首長国の建設者となった[22]。旧ハウサ諸王国はソコト帝国の首長国に再編成されたが、その際に首長国の首都は新たに建設された[23]。また、バウチゴンベアダマワなどの首長国が新たに形成された[2]。ジハード初期にウスマンによって任命されたアミールは14人のうち13人がフルべ人だった[24]

ソコト帝国の成立年については研究者によって見解が分かれている[25]苅谷 (2017)は、表記の便宜上としてジハードが始まった1804年を建国年としているのに対し[25]島田 (2019)は、ゴビール王を破った1808年を建国年としている[11]

ベロの治世

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1812年、ウスマンはイスラーム神学の勉強に専念するために、ジハードで獲得した領土を大きく東西に分け、弟であるアブドゥラーヒを西部の統括者に、息子であるムハンマド・ベロ英語版を東部の統括者に任命した[26][27]。これによってアブドゥラーヒはグワンドゥを首都とする国を、ベロはソコトを首都とする国を統治することとなった[27]。1817年にウスマンが死去すると、ソコト帝国の各地の有力者はベロに対して忠誠の誓いを行い、ベロは宗教指導者であるカリフかつソコト帝国のスルターンとなった[26][27]

アブドゥラーヒは当初、ベロとの間で緊張状態にあった。この緊張関係は数年後には解消したが、苅谷 (2017)は、アブドゥラーヒは自分こそカリフ位を継承する正当性を有していると考えており、ベロがソコト帝国の最高指導者となった当初、アブドゥラーヒはベロを中心とする政権を全面的には支持していなかったと推測している[28]

ベロがカリフ位に就いてすぐ、ソコトの南東に位置するザムファラでバーナーガという人物を中心とする反乱がおこった。これを受けてベロは軍事遠征を行ったが、バクラという場所で奇襲を受けて大敗した。この反乱によってソコト帝国は打撃を受け、反ソコト帝国勢力を勢いづかせるきっかけとなった[28]。1817年の9月ごろにはアブド・アッ=サラ―ム・ブン・イブラーヒームという人物を中心とする反乱が起こった[29][注 5]。この反乱は1818年1月にアブド・アッ=サラ―ム・ブン・イブラーヒームが逃亡し、その後、逃亡先で死亡したために一時的に収まったものの、彼の兵士たちはソコト帝国内に広がり各地で抵抗運動を行った[31]

1830年の西アフリカ

1820年頃になるとジハードも鎮静化した。広い地域に渡った国土を統治するため、ベロは国家の辺境にリバートと呼ばれる城塞基地を築いて外部からの攻撃や侵入に備えた。また、リバートにはイスラーム導師が配置されることが多かったため、イスラーム文化の中心地となるものもあった[27][32]。そのほか、ベロは遊牧民の定住化も進めた[32]

1830年までにソコト帝国は国境線を確定させた。ソコト帝国の領域は、東はカネム・ボルヌ帝国に接し、西は現在のブルキナファソまで、南はヨルバランド英語版に、北はサハラ砂漠の縁に達した[33]。国境線は19世紀を通してほとんど変わらず維持された[34]

のちにトゥクロール帝国を建てることとなるアル・ハジ・オマル英語版は1826年にマッカ巡礼を行ったのちにソコト帝国に7年滞在し、この間にベロの娘を妻にめとった[35]

イギリスの進出

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ニジェール川の地図。

1823年、イギリス人探検家のヒュー・クラッパートンらがソコトを訪れた[36]。彼らはベロに丁重にもてなされたが、イギリスと通商協定を結び、ソコトに領事と医者の駐在を認めてほしいというクラッパートンの要請に対してベロは反対はしなかったものの賛成もすることはなかった[37]。1825年、彼らはベロが記したイギリス国王ジョージ3世宛の親書と共にイギリスに帰国した[38]。帰国後、彼らは、西アフリカ内陸部に野蛮で未開な社会とは別の、秩序だった社会が存在することを報告した。しかし、彼らが報告した奴隷制度や奴隷狩りの記録は、のちにイギリス政府によるソコト征服の口実のひとつとなった[38][注 6]

1884年11月、ドイツ帝国オットー・フォン・ビスマルクの呼びかけによりベルリン会議が開催された。イギリスやフランスなど13か国が参加したベルリン会議ではニジェール川の自由航行が認められたほか、沿岸部を占領することが自動的に内陸部の所有権を生み出すという勢力範囲の原則と、他国の権益のない地域を新たに勢力圏に加える際には列強に通告するのみでよく、勢力に加えた地域では他国の権益を保護できる実体的権力を打ち立てるべきであるとする実効支配の原則が合意された[41]。これによってイギリスは、ソコト帝国の領域に対して権益を主張できるようになった[42]

1885年、ソコト帝国はイギリスの商社であるナショナル・アフリカ会社 (NAC) と協定を結んだ[注 7]。この協定では、ベヌエ川ニジェール川両岸で徒歩10時間以内の距離にある領域の全ての権利をNACに譲渡することや、NACによる交易独占を認めること、条約の恒久性などが定められたほか、NACがグワンドゥに対して毎年子安貝2,000袋、ソコトに対して3,000袋を贈ることが定められた。これはイギリスがこの地域の実効的支配を裏付けるものとなった[44]

1897年、イギリス植民地省は西アフリカ辺境軍を創設し、フレデリック・ルガードが指揮官に命じられた[45]。ルガードは同年に首長国のひとつであるビダやイロリンを占領した[46]

滅亡

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1900年1月1日、イギリス政府によって北部ナイジェリア保護領が設置され、これの高等弁務官に就任したルガードはソコト帝国などの北部ナイジェリア全域をイギリス領にすると宣言した[47][48]。この頃のソコト帝国は、帝国内の抵抗勢力や、ラベ国などの外国勢力に脅かされており、イギリスはそのような多くの脅威の中のひとつでしかなかった[48]。1900年にはコンタゴラが、1901年にはヨラが、1902年にはバウチがイギリス軍によって占領された。また、カノの南にあったザリアは抵抗をあきらめて1902年に降伏した。1902年、当時のソコト帝国の君主であったアブドゥルラーマンはルガードにあてて手紙を送り、戦争を通告した[46]

同年、ケフィに駐在していたイギリス人事務官が地元の徴税官によって殺害された。1903年1月29日、イギリスは報復のため700人余りの軍隊を徴税官が逃げた先であるカノに送った。2月3日にはイギリス軍はカノを占領したが、このときカノのアミールであったアリユはソコトに出向いており不在だったため、イギリス軍はソコトに転進した[49][50]。ソコトでは、イギリスに対して服従すべきであるとする人々と、抗戦すべきであるとする人々、異教徒にとられる土地から去るべき(ヒジュラするべき)であるとする人々とに分裂していた。ソコトは3月21日に陥落し、ソコト帝国は崩壊した[49][50][51]

スルターンであったアタヒルはソコトを脱出した。イギリスはソコトで新たなスルターンを擁立したが、領民の多くやイギリスに服従したアミールでさえも正当なスルターンはアタヒルだとしていて彼を密かに支援していたため、イギリスは彼を追うのに苦心を強いられた。しかし、ソコトの数百キロメートル東にあるブルミにおいてアタヒルは捕らえられ、戦闘の末、彼は7月27日に死亡した[52][53][54]

滅亡後

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ルガードはスルターンに対してソコトの間接統治の開始を宣言した[50]。ソコトのスルターンは存続されたが、アミールの監督権はイギリスに譲渡され、宗教上の権限だけが認められた[55]。この間接統治によってカノなどの首長国の政府はそのまま地方政府として利用されたため、現在のナイジェリアにもこうした首長国政府が残っている[56]

ソコトのスルターンの流れをくむものは1960年のナイジェリア独立後にも政治的に重要な役割を演じた[49]。その一人であるアフマド・ベロはナイジェリア北部で北部人民会議と呼ばれる政党を率い、北部州の初代首相となった[49][57]

政府・行政

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君主

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ソコト帝国はカリフを君主とするCaliphate(カリフ国)であると見なされている[58]。しかし、カリフは宗教指導者としての称号であり、政治的統治者としての称号はスルターンであった[11]。ただし、ソコト帝国の君主としての称号として最も頻繁に用いられたのはハウサ語で「ムスリムの王」を意味する「Sarkin Messulmi」かシャイフであった[59]

アミール

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ソコト帝国はスルターンを頂点として各地にアミール[注 8]を配置する体制を取っていた[11]。ジハードの時代、ウスマンは各地域に責任者を任命して地方のジハードの指揮をゆだね、さらに任命された責任者たちは自らも各地に指揮をゆだねた[21]。勝利を収めた彼らは占領地のアミールとして任命され、アミールはカリフに対して忠誠を誓うとともに毎年貢納義務を負ってアミールに就任した[注 9]。新たなアミールの就任には、スルターンを輔弼する大臣の承認を通したうえでスルターンの承諾が必要だった[61][62]。また、スルターンはアミール廃位の権限を有していた[61]

首長国

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ウスマンによるジハードの遂行の際、各地に責任者が任命された。こうしたものたちはアミールとして首長国を創始した[21]。こうした首長国は15から20あった[3]。アミールたちはスルターンが支配するソコトをモデルにして首長国の支配体制を整備した。なかには例外的に、現地の伝統的統治組織を残して国を作ることもあった[63]。ソコト帝国の属国であった首長国には自らも属国を持つ例が見られた[64][注 10]。属国のアミールは首長国のアミールの承認を得て即位したが、首長国のアミールもまた属国のアミールの廃位権を持っていた[64]

ソコトのスルターンを頂点とする体制は19世紀末までに北部ナイジェリアの広い地域で整っており、東端でわずかに従属していない地域が残るのみであった[24]

大臣

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ワジリと呼ばれる大臣または高官にはスルターンの親族や臣下が任命され、スルターンとアミールの仲介を務めた。アミールの貢納の徴収には大臣が監督責任を負っており、怠慢なアミールに対しては軍を派遣して強制的に徴収を行った[64][65]

地方の支配者

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カリフが征服地で影響力を強めるための政策として、「地方の支配者にカリフに忠誠を誓い、イスラム教を信仰することを宣誓させる代わりに、地方の支配者が引き続き支配をすることを認める」というものがある。これにより地方の支配者はカリフに忠誠を誓い、征服地で影響力を強めることができた[66]

社会・経済

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民族

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ソコト帝国は多民族国家であり、フルベ人、ハウサ人、ヌペ人、ヨルバ人などで構成されていた[67][68]。フルベ人が支配的な地位にあったが、フルベ人は他の民族に比べてはるかに数が少なかった[69]。ソコト帝国においてはフルベ人とハウサ人との混血や文化融合が進み、現在のナイジェリアにおけるハウサ・フルベ人英語版と呼ばれる民族集団につながった[70]

通貨

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ソコト帝国では通貨としてタカラガイが用いられていたが、マリア・テレジア銀貨英語版などヨーロッパの貨幣も通貨として用いられた[71]。タカラガイ通貨5,000個がマリア・テレジア銀貨1枚に相当した。タカラガイ通貨6万個があれば1つの家族が1年十分に安楽な生活ができたという[72]

奴隷

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ウスマンによるジハードの時期より、非ムスリムの捕虜は身代金と引き換えに解放されるか、または奴隷とされていた。男性の奴隷化には制限はなかったが、女性や子供の奴隷化には一定の制限が設けられていた[73]。使役したり売却することのできる奴隷の存在はソコト帝国の財政基盤の強化にとって重要な意味を持っていた[74]

1824年にソコト帝国を訪れたヒュー・クラッパートンは、カノの住民は3万から4万だが、その半数以上が奴隷であろうと記録している。また彼は、カノには一般の市場とは別に常設の奴隷市場が存在したことや、ジハードのなかで住民が捕縛され、売却されたことで荒廃した村や町が存在したことなども記している。カノの東に位置するカタグムでは奴隷が主要交易品となっており、ソコト帝国の首都であったソコトでは、他の商品は輸出のみか輸入のみであったのに対し、奴隷は輸出入ともに行われていた[74]。奴隷の値段は、少年少女、特に未婚の少女の価格が飛びぬけて高く、最も価格が安かったのは成人男性だった[75]

布・衣服産業にはニジェール川中下流域出身の奴隷が重用されており、嶋田 (1990)によると、奴隷制が肉体労働者の売買や使役のみを目的とせず、専門技術者の獲得をめぐって機能していたという[76]

税制

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イギリス人探検家であるヒュー・クラッパートンの記録には、ソコトにザカート(十分の一税)や道路通行税、市場税などがあったことが記されている[38][77]。また、家畜税や地租、染色職人に対する税が存在した[78][79]。そのほかにも、非ムスリムを中心としてカラジやジズヤと呼ばれる人頭税、戦利品の五分の一を収めるクムス、相続税が存在した[77]

産業・交易

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1860年のソコトの市場の様子。fr:Auguste Hadamard

ソコトの商都であったカノでは布・衣服産業が発達していた。ドイツ人探検家のハインリッヒ・バルトによると、カノの商圏は、北は地中海沿いのトリポリ、西は大西洋、南はアダマワ、東はボルヌにまで達していたという[80]。バルトの推測ではカノの衣類の全輸出額はタカラガイ通貨3億個分に達しており、これによっておよそ5,000人が養われていたという[80]

クラッパートンによると、製品には卸売業者の名が記され、もしも製品が不良品であると分かると売り手に返品され、買い手は代金の払い戻しを受けることができたという。これはカノの法律で定められた制度であり、布・衣類の信用維持には国家を挙げて取り組まれていた[76]

軍事

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ソコト帝国の騎兵。

ソコト帝国はアミール・アル=ムウミニン英語版によるジハードの時期は、常備軍・騎兵隊の2つの軍を所有していた[81]。常備軍はハウサ人とフラニ人で構成され、戦闘に向けて訓練を行い、領土拡大・領土防衛に努めた。また騎兵隊も機動力などから当時軍隊に不可欠な存在であった[82]

その後拡大地域に首長国が設置されると、ソコト帝国における集権的な軍事組織はなくなり、各首長国が各々の軍隊を持って、自分たちの脅威に対処するようになった[83]。ソコト帝国の勢力拡大を恐れていた北アフリカやサハラの勢力はソコトへの鉄砲の輸出を制限しており、ソコト帝国には滅亡に至るまで十分な鉄砲隊が存在しなかった[84]。そのため、ソコト帝国の軍の中核は騎馬隊であった[18]。フラニ族の騎馬兵は馬術に優れていたため、騎兵に向いていたことも要因の一つとなっている[66]

1890年にソコト帝国を訪れたフランスの探検家パルフェ=ルイ・モンテイユ英語版は、第10代ソコト帝国スルタンのウマルがアルグング英語版を包囲するために「4万人の塀(うち半数は騎兵隊)」を招集するのを目撃したと著書に記している[85]

一方、ソコト帝国の軍隊が山岳での活動を困難とする騎馬隊であったために、ソコト帝国はジョス高原を支配することが出来なかった[34]

司法

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ソコト帝国ではシャリーアが施行されており、カーディーによる裁判が行われていた[86]。司法は主に首長国のアミールによって取り仕切られていたが、ムスリムの死刑の認可はカリフのみが出すことが出来た[3]

1903年にソコト帝国がイギリスの侵攻を受けた際、ワジリやカーディーは異教徒の支配を受けながらイスラームの宗教的な諸事を遂行することが許されるのかが大きな懸念であったが、この決定の際にはウスマンの著作の内容に依拠された。苅谷 (2017)は、ウスマンの思想や見解がソコト帝国の重要な規範・法規として機能していたとしている[87]

ウスマンが記した『解明』と訳される法学書では、スンナ派の4大法学派のひとつであり北アフリカや西アフリカで歴史的に大きな影響力を持っていたマーリク学派の多数派の見解を示すほか、マーリク学派の法学者による法学書の引用を行っているが[88]、その一方で、18世紀半ば以降に西アフリカで宗教的・知的権威として大きな影響力を有したカーディリーヤの思想家であるマギーリーを特別視していた[89]

宗教

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ソコト帝国はイスラーム勢力圏に置かれており[90]、ソコト帝国のもとで数十万人が旧来より信仰していた伝統宗教からイスラームへの改宗を余儀なくされたが[68]、ソコト帝国以前のハウサ諸王国時代からイスラームが浸透していたハウサ地方においては、イスラーム以前の儀礼が残されていた[91]。ソコト帝国の建国者であるウスマンは神秘主義教団のカーディリーヤに加盟しており、彼の後継者も同様にカーディリーヤに加盟していた[92]

キリスト教宣教

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19世紀後半にはイギリスからキリスト教の宣教師が訪れたが、ソコト帝国のスルターンやアミールたちは現在のナイジェリア南部においてイギリス国教会がイギリス政府と連携して宣教活動を行っていたことから彼らの進出に危機感を抱いていたため、キリスト教の布教は芳しい成果は上がらなかった[90]

地理

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ソコト帝国が存在した現在のナイジェリア北部は空気が乾燥しているほか、標高の高い丘陵地が広がっている。こうした地理的特徴から、ヨーロッパから来たキリスト教宣教師は熱帯雨林が広がる南部より北部を好んだという[93]

文化

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言語

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ソコト帝国においてフルベ人は少数だったが、フルべ人以外の部族にもフラニ語が浸透していた[69][67]。しかし、フラニ語は音調言語でないため代用言語が存在せず、儀礼的な場ではハウサ語の代用言語が用いられた[94][注 11]

詩・音楽

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ウスマンによる急進的なイスラーム化によって享楽的な音楽や楽器は追放された。そのかわりソコト帝国ではシャーイリと呼ばれる宗教歌の歌手が生まれ、詩や歌でイスラーム精神の普及が行われた。ただし、他の地域に比べこうした強いイスラーム化が進まなかったニジェール中流域では恋愛歌や享楽的な詩が保たれた[95]

衣服

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ソコト帝国の都市であるカノの住民。1900年撮影。

かつてのブラック・アフリカは裸族文化であったが、裸を嫌うイスラームを信仰するソコト帝国によって、裸族文化であった地域に衣服文化が持ち込まれた[96]。衣服は貫頭衣が着用された。材質は主に木綿だったが、絹糸の刺繍が入ったものやそもそも絹糸で作られたものもあった。女性はこの貫頭衣を正装としていたが、日常的には腰巻布、胸回り布、背中に巻くショールが着用された。また、男性は頭部にトルコ式のフチなし帽子やターバンを着用し、女性はスカーフを着用した[97]

学問

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イスラームは識字の徳を奨励しており、ソコト帝国の治世において男女問わず識字率が上昇した。また、ソコト帝国においては学者階級も急激に成長した。こうした学者が記した神学、法律学、医学、天文学、数学、歴史学、地理学の書物などは現代のナイジェリアの時代においても発見されている[98]。こうした書物はアラビア語のほか、アラビア文字で表記したフルベ語やハウサ語で記されていた[99]

歴代君主

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グローダー & アブドゥラヒ (1983)に掲載されている系図をもとに作成[6]

  1. ウスマン・ダン・フォディオ(在位:- 1817年)
  2. モハメッド・ベロ(在位:1817年 - 1837年)
  3. アブバカール・アティク1世(在位:1837年 - 1842年)
  4. アリユ・バッバ(在位:1842年 - 1859年)
  5. アフマドゥ・アティク(在位:1859年 - 1866年)
  6. アリユ・カラミ(在位:1866年 - 1867年)
  7. アフマドゥ・ルファイ(在位:1867年 - 1873年)
  8. アブバカール・アティク2世(在位:1873年 - 1877年)
  9. ムアズ(在位:1877年 - 1881年)
  10. ウマル(在位:1881年 - 1891年)
  11. アブドゥラーマン(在位:1891年 - 1902年)
  12. アタヒル・アフマドゥ(在位:1902年 - 1903年)

脚注

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注釈

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  1. ^ フラニとは、ハウサ人が用いるフルベ人の他称であり、また、英語での呼称である[4]
  2. ^ ジブリール・ウマルは、ハッジやエジプト滞在の経験があり、西アフリカでは得られない最新の革新的なイスラーム諸学の知識を持っていた[13]
  3. ^ この追放は信徒からはイスラームの預言者であるムハンマドがマッカからマディーナに移住した出来事となぞらえてヒジュラであると解された[15][16]
  4. ^ ほとんどのハウサ諸王国はこれを拒絶し、ザザル国のみがこの呼びかけに応じた[18]
  5. ^ アブド・アッ=サラ―ム・ブン・イブラーヒームはウスマンの配下として彼と共にジハードを行っていた[30]
  6. ^ イギリスでは1807年に奴隷貿易禁止法が制定され、1833年には奴隷制廃止法が制定された[39]。それ以降は海軍を用いて奴隷船の拿捕と保護した奴隷のアフリカへの送還を行っていた[40]
  7. ^ ナショナル・アフリカ会社は、フランスに対抗するため1879年に有力商社を合併して設立されたユナイテッド・アフリカ会社を1882年に改組して誕生した商社。イギリス政府はNACの人物を副領事に任命したためNACが結んだ協定はイギリス国王が承認した協定であるということとなった[43]
  8. ^ アミールは文献によって「首長」[58]や「藩王」[11]とも訳される。
  9. ^ 貢納品としては、子安貝や布、馬、奴隷などがあった[60]
  10. ^ 例えば、首長国のひとつであったアダマワは自らも50以上の属国を抱えていた[58]。日本語文献において、こうした属国は「副首長国」や、「下位国家」、また、日本の徳川幕府になぞらえて「藩」とも呼称される[59]
  11. ^ 音調言語を用いるアフリカの多くの言語集団では、高低調節が可能な打楽器やドラムなどで発話される代用言語を持っている。この代用言語は儀礼などには欠かせないものだった[94]

出典

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  2. ^ a b c d 赤阪 1975, p. 37.
  3. ^ a b c Last 2018, p. 4.
  4. ^ 佐々木 & 小村 2014, p. 10.
  5. ^ a b c 苅谷 2016, p. 1.
  6. ^ a b グローダー & アブドゥラヒ 1983, p. 123.
  7. ^ 赤阪 1975, p. 34.
  8. ^ 赤阪 1975, p. 34-35.
  9. ^ 嶋田 2010, p. 115.
  10. ^ 赤阪 1975, p. 35.
  11. ^ a b c d e f g h 島田 2019, p. 22.
  12. ^ グローダー & アブドゥラヒ 1983, p. 103.
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  14. ^ a b グローダー & アブドゥラヒ 1983, p. 104.
  15. ^ a b c 赤阪 1975, p. 36.
  16. ^ a b 苅谷 2016, p. 10.
  17. ^ グローダー & アブドゥラヒ 1983, p. 105.
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参考文献

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日本語文献

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英語文献

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関連項目

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