トゥクロール帝国
トゥクロール帝国 الخلافة التجانية ティジャニーヤ・カリフ国 | |||||||||||||||
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1861年–1893年 | |||||||||||||||
1864年、ウマル・タールが亡くなった時点でのトゥクロール帝国 | |||||||||||||||
首都 | セグー | ||||||||||||||
共通語 |
アラビア語 (公用語) フラニ語 | ||||||||||||||
宗教 | スンニ派 | ||||||||||||||
統治体制 | 君主制 | ||||||||||||||
カリフ | |||||||||||||||
歴史 | |||||||||||||||
• 確立 | 1861年 | ||||||||||||||
• 滅亡 | 1893年 | ||||||||||||||
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ティジャニーヤ・カリフ国 (アラビア語: الخلافة التجانية; またはティジャニーヤ・ジハード国家、セグー・トゥクロール、トゥクロール帝国) (1861年–1890年)は19世紀中期にトゥクロール人のウマル・サイドゥ・タールによって建国された国。現在のマリ共和国に位置していた。
歴史
[編集]ウマル・タールは1836年にハッジから戻り、ハッジの称号と、スーダンのティジャニーヤ同胞団のカリフの称号を得た。 ウマル・タールはフータ・トロ(現在のセネガル)に長期間滞在した後、ディンギライェ(現在のギニアのフータ・ジャロン)に移動した。この地が1850年のジハードの舞台となった。
1857年、メディナ砦の征服に失敗した後、ウマル・タールはフランス植民地軍への攻撃をやめ、バマナ帝国への攻撃を始め、まずカアルタ次にセグーと大きな勝利を収めた[1]。 1861年3月10日、セグーの戦いで決定的な勝利を収めた後、ウマル・タールはセグーを帝国の首都と定めた。 セグーの戦いの一年後、息子のアフマドゥ・タールを指揮官にフラニ人のマシナ帝国の首都、アムダラーイに対して進軍した。 オマル・タールはトンブクトゥの征服には失敗し、ドゴン人の住むバンディアガラ付近のデグエンベレに撤退した。オマル・タールはそこで備蓄の火薬の爆発により死亡した。
トゥクロール帝国は甥のティディアニ・タールが継ぎ、トゥクロール帝国の首都をバンディアガラに移した。セグーでは息子のアフマドゥ・タールが統治を続け、近隣の諸都市が離反しようとしているのを首尾よく抑止した。アフマドゥ・タールは兄弟との対立を深めていった。
1890年、バンバラ人と同盟を結んだフランスはセグーに進駐した。アフマドゥ・タールは最初マシナに逃げ、1893年にマシナが陥落した後は現在のナイジェリアのソコトに逃げ、帝国は実質的に終焉を迎えた。
関連項目
[編集]出典
[編集]- ^ "Umar Tall", African Legends
参考文献
[編集]- Davidson, Basil. Africa in History. New York: Simon & Schuster, 1995.
- Klien, Martin. Slavery and Colonial Rule in French West Africa. Cambridge University Press, 1998. ISBN 0-521-59678-5
- Oloruntimeehin, B.O. The Segu Tukulor Empire. New York: Humanities Press, 1972. ISBN 978-0-391-00206-7
- Roberts, Richard L. Warriors, Merchants. and Slaves: The State and the Economy in the Middle Niger Valley, 1700-1914, Stanford University Press, 1987. ISBN 0-8047-1378-2