「襄公 (斉)」の版間の差分
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襄公3年([[紀元前695年|前695年]])1月、襄公は[[魯]]の[[桓公 (魯)|桓公]]、紀侯と黄(斉の地)で盟を結び、衛を撃つことを謀った。5月、斉が魯の国境を侵したため、奚(魯の地)で両国が衝突した。10月、[[鄭]]で[[高梁弥]]が主君である[[昭公 (鄭)|昭公]]を殺し、[[侯嬴|公子亹]](び)を鄭君に立てた。 |
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襄公4年([[紀元前694年|前694年]])1月、襄公と魯の桓公が濼水(斉の川)にて会合し、魯の桓公夫妻が斉にやってきた。襄公は以前、魯の桓公夫人(自分の異母妹・[[文姜]])と私通したことがあり、今回もまた密通してしまい、魯の桓公にそれが知られてしまった。4月、そこで襄公は魯の桓公と酒を飲み、彼が酔っているすきに公子彭生に命じて彼を殺した<ref>[[劉向]]『[[列女伝]] 3』([[平凡社]]、2001年)169ページ ISBN 978-4-582-80689-2</ref>。このことに魯の国人が責めてきたが、襄公は殺害を実行した彭生に責任をすべて押し付け、彭生を処刑して陳謝した。襄公はこの後もたびたび文姜と密通し続けた。7月、襄公は[[会盟]]の招集をかけて鄭の公子亹を誘き寄せ、高梁弥とともに彼を殺した。 |
襄公4年([[紀元前694年|前694年]])1月、襄公と魯の桓公が濼水(斉の川)にて会合し、魯の桓公夫妻が斉にやってきた。襄公は以前、魯の桓公夫人(自分の異母妹・[[文姜]])と私通したことがあり、今回もまた密通してしまい、魯の桓公にそれが知られてしまった。4月、そこで襄公は魯の桓公と酒を飲み、彼が酔っているすきに公子彭生に命じて彼を殺した<ref>[[劉向]]『[[列女伝]] 3』([[平凡社]]、2001年)169ページ ISBN 978-4-582-80689-2</ref>。このことに魯の国人が責めてきたが、襄公は殺害を実行した彭生に責任をすべて押し付け、彭生を処刑して陳謝した。襄公はこの後もたびたび文姜と密通し続けた。7月、襄公は[[会盟]]の招集をかけて鄭の公子亹を誘き寄せ、高梁弥とともに彼を殺した。 |
2021年3月22日 (月) 03:37時点における版
襄公 姜諸児 | |
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斉 | |
第14代公 | |
王朝 | 斉 |
在位期間 | 前697年 - 前686年 |
都城 | 臨淄 |
姓・諱 | 姜諸児 |
諡号 | 襄公 |
生年 | 不詳 |
没年 | 前686年 |
父 | 釐公 |
襄公(じょうこう、? - 紀元前686年)は、斉(姜斉)の第14代君主。釐公の子。
生涯
釐公33年(前698年)、釐公が薨去したため、子の諸児(しょげい)が立って斉君(以降は襄公と表記)となった。
襄公元年(前697年)、生前父が寵愛していた従弟の公孫無知の待遇が良すぎるため、襄公は彼の俸禄と服飾を引き下げた。
襄公3年(前695年)1月、襄公は魯の桓公、紀侯と黄(斉の地)で盟を結び、衛を撃つことを謀った。5月、斉が魯の国境を侵したため、奚(魯の地)で両国が衝突した。10月、鄭で高梁弥が主君である昭公を殺し、公子亹(び)を鄭君に立てた。
襄公4年(前694年)1月、襄公と魯の桓公が濼水(斉の川)にて会合し、魯の桓公夫妻が斉にやってきた。襄公は以前、魯の桓公夫人(自分の異母妹・文姜)と私通したことがあり、今回もまた密通してしまい、魯の桓公にそれが知られてしまった。4月、そこで襄公は魯の桓公と酒を飲み、彼が酔っているすきに公子彭生に命じて彼を殺した[1]。このことに魯の国人が責めてきたが、襄公は殺害を実行した彭生に責任をすべて押し付け、彭生を処刑して陳謝した。襄公はこの後もたびたび文姜と密通し続けた。7月、襄公は会盟の招集をかけて鄭の公子亹を誘き寄せ、高梁弥とともに彼を殺した。
襄公7年(前691年)秋、紀季(紀侯の末弟)が紀から分かれて酅(けい)を斉に献上し、斉の属国となった。
襄公8年(前690年)夏、斉が紀を攻撃し、紀侯が国を棄てて去ったため、紀は斉に併合された。
襄公9年(前689年)冬、襄公は斉にいる衛の恵公を復位させるため、宋・陳・蔡・魯とともに衛を攻撃した。翌年(前688年)、衛の恵公は復位できた。
襄公12年(前686年)、前年に襄公は連称と管至父の2人に葵丘の守りにつかせ、その1年後に交代の者を送ると言っていた。しかし、1年たっても交代の者が送られてこないので、襄公に問い合わせたところ、襄公は交代を許さなかった。このことに怒った2人は、公孫無知を奉じて反乱を起こそうと考えた。12月[2]、公孫無知らは宮中に押し入り、宮中の人々や襄公の寵臣らを殺した上、隠れていた襄公を見つけ出して殺し、公孫無知が立って斉君となった。