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'''初代[[準男爵]]サー・フレデリック・チャールズ・ダブトン・スターディー'''{{仮リンク|海軍元帥 (イギリス海軍)|label=海軍元帥|en|Admiral of the Fleet (Royal Navy)}}({{lang-en|Admiral of the Fleet Sir Frederick Charles Doveton Sturdee, 1st Baronet}}, {{Post-nominals|post-noms=[[バス勲章|GCB]]}}, {{Post-nominals|post-noms=[[聖マイケル・聖ジョージ勲章|KCMG]]}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ロイヤル・ヴィクトリア勲章|CVO]]}} [[1859年]][[6月9日]] - [[1925年]][[5月7日]])は、[[イギリス]]の[[イギリス海軍|海軍]][[軍人]]。
初代[[準男爵]]サー・'''フレデリック・チャールズ・ダブトン・スターディー'''{{仮リンク|海軍元帥 (イギリス海軍)|label=海軍元帥|en|Admiral of the Fleet (Royal Navy)}}({{lang-en|Sir Frederick Charles Doveton Sturdee, 1st Baronet}},{{Post-nominals|country=GBR|GCB|KCMG|CVO}}[[1859年]][[6月9日]] - [[1925年]][[5月7日]])は、[[イギリス]]の[[イギリス海軍|海軍]][[軍人]]。


[[1914年]]、[[フォークランド沖海戦]]で[[マクシミリアン・フォン・シュペー]]提督の率いドイツ艦隊を破った。
[[1914年]]、[[フォークランド沖海戦]]で[[マクシミリアン・フォン・シュペー]]率いドイツ[[東洋艦隊 (ドイツ)|東洋艦隊]]を破った。

== 生涯 ==
フレデリック・スターディー海軍大尉とその妻アン・ホドソンとの息子として[[ケント (イングランド)|ケント]]、チャールトンに生まれた<ref name="ODNB" />。{{仮リンク|王立海軍兵学校|en|Royal_Naval_School}}に学んだのち、練習船{{仮リンク|プリンス・オブ・ウェールズ (121門艦)|en|HMS_Prince_of_Wales_(1860)|label=ブリタニカ}}付士官候補生として[[イギリス海軍|海軍]]に入隊した<ref name="ODNB" />。1876年に准尉に昇進、[[中国艦隊 (イギリス)|中国戦隊]]旗艦{{仮リンク|アンドーンテッド (フリゲート)|en|HMS_Undaunted_(1861)|label=アンドーンテッド}}乗組となる{{Sfnp|Heathcote|2002|p=238}}。1878年に少尉、続く1880年には中尉となった<ref name="EB1922" />。同年、ブリッグ船マーティン所属となったのち、翌年からは[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]所属の魚雷母艦ヘクラ乗組となる{{Sfnp|Heathcote|2002|p=238}}。1882年、[[ウラービー革命]]下の[[アレクサンドリア砲撃]]に参加した{{Sfnp|Heathcote|2002|p=238}}。

訓練施設{{仮リンク|ヴァーノン (水雷訓練施設)|en|HMS_Vernon_(shore_establishment)|label=ヴァーノン}}にて水雷課程を修了後、1886年に[[北アメリカ・西インド艦隊]]旗艦{{仮リンク|ベレロフォン (装甲艦)|en|HMS_Bellerophon_(1865)|label=ベレロフォン}}付の水雷将校となったが、1889年には教官として再びヴァーノンへと舞い戻っている<ref name="ODNB" />{{Sfnp|Heathcote|2002|p=238}}。1893年6月30日、中佐に進級し、海軍工廠局における水雷の専門家として海軍本部に移った{{Sfnp|Heathcote|2002|p=238}}。1897年には{{仮リンク|オーストラリア戦隊|en|Australia_Station}}に属する水雷巡洋艦{{仮リンク|ポーポイズ (水雷巡洋艦)|en|HMS_Porpoise_(1886)|label=ポーポイズ}}の艦長となり、1899年には[[サモア諸島]]をめぐる[[ドイツ帝国]]と[[アメリカ合衆国]]との緊迫した情勢{{#tag:ref|サモア諸島の領有権をめぐって、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国が対立した。1899年に{{仮リンク|三ヶ国協定|en|Tripartite_Convention}}が結ばれた結果、西経171度線を境として西側をドイツが、東側をアメリカが領有することとなった|group="注釈"}}への対処に見舞われた<ref name="ODNB" />{{Sfnp|Heathcote|2002|p=238}}。この功績により同年6月に大佐に進んだ。年が改まったのちの{{仮リンク|1900年新年叙勲|en|1900_New_Year_Honours|label=新年叙勲}}では[[聖マイケル・聖ジョージ勲章]]を得たほか<ref name=":1">{{London Gazette|issue=27154|date=16 January 1900|page=286}}</ref>、1900年3月には[[ウィンザー城]]で女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]より直接叙勲を受けた<ref>{{Cite newspaper The Times|title=Court Circular|date=2 March 1900|page=6|issue=36079}}</ref>。

以降は海軍情報部副部長として海軍本部に戻り、1902年まで同職にあった<ref name="ODNB" /><ref name="EB1922" />。同年10月に防護巡洋艦{{仮リンク|ミネルヴァ (防護巡洋艦)|en|HMS_Minerva_(1895)|label=ミネルヴァ}}、翌年には装甲巡洋艦{{仮リンク|ベッドフォード (装甲巡洋艦)|en|HMS_Bedford_(1901)|label=ベッドフォード}}各々の艦長を務めた。1905年、戦艦[[ブルワーク (戦艦)|ブルワーク]]艦長・兼[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]司令長官付の参謀長に進んだ{{Sfnp|Heathcote|2002|p=239}}。戦艦[[キング・エドワード7世 (戦艦)|キング・エドワード7世]]艦長、戦艦{{仮リンク|ニュージーランド (戦艦)|en|HMS_Zealandia|label=ニュージーランド}}艦長と進み、新たに[[海峡艦隊]]参謀長の役割も担うこととなった{{Sfnp|Heathcote|2002|p=239}}<ref name="EB1922" />。1907年、国王付副官となり<ref>{{London Gazette|issue=28079|date=12 November 1907|page=7581}}</ref>、翌年には少将に昇進した<ref name="EB1922" /><ref>{{London Gazette|issue=28178|date=18 September 1908|page=6760}}</ref>。1910年に{{仮リンク|第1戦艦戦隊|en|1st_Battle_Squadron}}司令官となり、旗艦[[セント・ヴィンセント (戦艦)|セント・ヴィンセント]]に将旗を掲げている{{Sfnp|Heathcote|2002|p=239}}。翌年に海軍本部潜水艦委員会の委員長となり、以降は第3巡洋戦隊、第2巡洋戦隊の司令官(旗艦はいずれも{{仮リンク|シャノン (装甲巡洋艦・2代)|en|HMS_Shannon_(1906)|label=シャノン}})を歴任した{{Sfnp|Heathcote|2002|p=239}}。

1913年に中将となった<ref>{{London Gazette|issue=28783|date=19 December 1913|page=9338}}</ref><ref name="EB1922" />。

=== 第一次世界大戦 ===
[[ファイル:HMS_'Inflexible'_at_the_Battle_of_the_Falkland_Islands,_8_December_1914,_about_13.00_-_13.20_RMG_PV0045.jpg|サムネイル|180x180ピクセル|[[フォークランド沖海戦]]にて砲撃を行う英巡洋戦艦[[インフレキシブル (巡洋戦艦)|インフレキシブル]]。|左]]
1914年、[[第一次世界大戦]]が勃発すると、スターディーは{{仮リンク|ヘンリー・ジャクソン (イギリス海軍の軍人)|en|Henry_Jackson_(Royal_Navy_officer)|label=サー・ヘンリー・ジャクソン}}の後任として、[[ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン|ルイス・マウントバッテン]][[第一海軍卿]]のもとで首席幕僚となった<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|last=Baddeley|first=V. W. revised by Andrew Lambert|id=36364|title=Sturdee, Sir Frederick Charles Doveton, first baronet|date=23 September 2004|origyear=2004}}</ref>。その在任中の同年11月、[[クリストファー・クラドック]]提督率いる英艦隊がドイツ[[東洋艦隊 (ドイツ)|東洋艦隊]](指揮:[[マクシミリアン・フォン・シュペー]]提督)への対応として派遣されたが、逆に東洋艦隊に翻弄されて[[コロネル沖海戦]]で完敗を喫した。この大敗北を受けて、新任の[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー|ジャッキー・フィッシャー]]第一海軍卿{{#tag:ref|マウントバッテン第一海軍卿はコロネル沖海戦前の10月に起こった[[アントワープ]]陥落を受けて、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]海軍大臣から詰め腹を切らされ辞職を余儀なくされた<ref>{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ペイン|en|Robert Payne (author)}}|translator=[[佐藤亮一 (翻訳家)|佐藤亮一]]|date=1993年(平成5年)|title=チャーチル|publisher=[[法政大学出版局]]「りぶらりあ選書」|isbn=978-4588021466|ref={{Sfnref|ペイン|1993}}|page=150}}</ref>。|group="注釈"}}はスターディーを新たに東洋艦隊に対応させることに決めた<ref name="ODNB" />。12月7日、スターディーの指揮する英艦隊は[[フォークランド諸島]]、[[スタンリー (フォークランド諸島)|ポート・スタンリー]]に達した<ref name="ODNB" />。翌8日、ポート・スタンリー軍港に接近した東洋艦隊と会敵した。スターディー艦隊は火力と速力に秀でた[[巡洋戦艦]]からなり、旧式の[[装甲巡洋艦]]で構成される東洋艦隊を終始圧倒した<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=20世紀の歴史{{fontsize|small|ユトランド沖海戦前後ほか}}|date=1974年1月1日|publisher=[[株式会社日本メール・オーダー]]|ASIN=B01N9URPEI|last=小山内|first=宏|author-link=小山内宏|location=[[東京都]][[品川区]]|volume=27|editor=[[原田勝正|原田 勝正]],[[針生一郎|針生 一郎]],[[山田宗睦|山田 宗睦]]・編著|page=537}}</ref>。スターディー艦隊はこの速力を生かして[[アウトレンジ戦法|アウトレンジ]]により次々と独艦を撃破した。シュペー提督も大破炎上する[[シャルンホルスト (装甲巡洋艦)|シャルンホルスト]]と運命を共にし、僚艦[[グナイゼナウ (装甲巡洋艦)|グナイゼナウ]]に「脱走して自らを救え」との信号を送りつつ沈んだ<ref name=":0" />。この海戦の結果、巡洋艦[[ドレスデン (軽巡洋艦・初代)|ドレスデン]]を除いて東洋艦隊は壊滅した<ref name=":0" />([[フォークランド沖海戦]])。
[[ファイル:Frederick_Doveton_Sturdee_1916_HMS_Hercules.jpg|サムネイル|182x182ピクセル|{{仮リンク|第4戦艦戦隊|en|4th_Battle_Squadron}}司令官時代。]]
スターディーはこの勝利によって1916年に準男爵位を授けられた<ref name=":2" /><ref name="EB1922" />。海戦後はグランド・フリートの{{仮リンク|第4戦艦戦隊|en|4th_Battle_Squadron}}司令官に就任し、戦艦[[ベンボウ (戦艦)|ベンボウ]]に将旗を掲げた<ref name="ODNB" />。[[ユトランド沖海戦]]でもこの戦隊を率いて参加している{{Sfnp|Heathcote|2002|p=240}}<ref name="EB1922" />。

=== 戦後 ===
大戦後の1917年、海軍大将に昇った<ref name="EB1922" />。1918年、{{仮リンク|ノア管区司令長官|en|Commander-in-Chief, The Nore}}に就任して1921年まで務めている{{Sfnp|Heathcote|2002|p=240}}<ref name="EB1922" />。ノア管区司令長官退任とともに海軍を退役、同時に{{仮リンク|海軍元帥 (イギリス海軍)|label=海軍元帥|en|Admiral of the Fleet (Royal Navy)}}となった<ref>{{London Gazette|issue=32394|date=19 July 1921|page=5733}}</ref>。退役後は{{仮リンク|海事研究学会|en|Society_for_Nautical_Research}}会長を務めた<ref name="ODNB" /><ref>Murphy, Hugh & Derek J. Oddy (2010), 『''The Mirror of the Seas』; p=26, A Centenary History of the [[Society for Nautical Research]]'' London, Society for Nautical Research. {{ISBN|978-0-902387-01-0}}</ref>。

1925年、[[サリー (イングランド)|サリー]]、{{仮リンク|カンバーリー|en|Camberley}}にあるウォーグレイヴ・ハウスで死去した<ref name="ODNB" />。{{-}}

== 栄典 ==
[[ファイル:Sturdee_Achievement.png|サムネイル|255x255ピクセル|スターディー家の紋章。]]
=== 賞罰 ===
'''{{GBR}}'''
* [[ファイル:Order_of_the_Bath_UK_ribbon.svg|40x40ピクセル]] - [[バス勲章]](GCB)<ref>{{London Gazette|issue=32178|date=1 January 1921|supp=y|page=4}}</ref>
* [[ファイル:UK_Order_St-Michael_St-George_ribbon.svg|40x40ピクセル]] - [[聖マイケル・聖ジョージ勲章]](KCMG)<ref>{{Cite newspaper The Times|title=New Year Honours|date=1 January 1900|page=9|issue=36027}}</ref><ref name=":1" />
* [[ファイル:UK_Royal_Victorian_Order_ribbon.svg|40x40ピクセル]] - [[ロイヤル・ヴィクトリア勲章]](CVO)<ref>{{London Gazette|issue=27908|date=27 April 1906|page=2875}}</ref>
'''{{ITA}}'''

* [[ファイル:Cavaliere_SSML_BAR.svg|40x40ピクセル]] - [[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]<ref>{{London Gazette|issue=30227|supp=y|page=8208|date=10 August 1917}}</ref>
'''{{FRA}}'''

* [[ファイル:Legion_Honneur_Chevalier_ribbon.svg|40x40ピクセル]] - [[レジオンドヌール勲章]]<ref>{{LondonGazette|issue=31182|date=14 February 1919|page=2361|accessdate=2022-03-20|supp=y}}</ref>

=== 準男爵位 ===
[[1916年]]に以下の準男爵位を新規に叙された<ref name=":2">{{London Gazette|issue=29512|date=17 March 1916|page=2932}}</ref><ref name="EB1922">{{Cite EB1922|wstitle=Sturdee, Sir Frederick Charles Doveton|volume=32|page=599}}</ref>。

* '''初代(フォークランド諸島の)[[準男爵]]'''{{Fontsize|small|(1st Baronet, of Falkland Is.)}}<br/>(勅許状による連合王国準男爵位)

== 家族 ==
1882年9月23日にマリオン・アデラ・アンドリューズ(Marion Adela Andrews、1940年没)と結婚した<ref name="ODNB" />。

* (長男)ライオネル・アーサー - 海軍少将、第2代準男爵。
* (長女)マーガレット・アデラ - 海軍士官{{仮リンク|セシル・ステイヴリー|en|Cecil_Staveley}}(のち海軍中将)と結婚した。夫妻の息子{{仮リンク|ウィリアム・ステイヴリー|en|William_Staveley_(Royal_Navy_officer)|label=ウィリアム}}も[[第一海軍卿]]を務めた提督(最終階級は海軍元帥){{Sfnp|Heathcote|2002|p=235}}。その義弟は{{仮リンク|エドワード・アシュモア|en|Edward_Ashmore}}海軍元帥<ref>{{London Gazette|issue=47160|supp=y|page=2825|date=1 March 1977}}</ref>。

== 脚注 ==

=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注釈" />

=== 出典 ===
{{Reflist}}

== 参考文献 ==

* {{cite book|洋書|last=Heathcote|first=Tony|title=The British Admirals of the Fleet 1734 – 1995|publisher=Pen & Sword|year=2002|isbn=0-85052-835-6|ref=harv}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons category|Doveton Sturdee}}
*[http://janus.lib.cam.ac.uk/db/node.xsp?id=EAD%2FGBR%2F0014%2FSDEE Biographical information from the Churchill Centre], [[ケンブリッジ大学]]
*[http://dreadnoughtproject.org/tfs/index.php/Frederick_Charles_Doveton_Sturdee,_First_Baronet ドレッドノート・プロジェクトにおけるスターディーのページ(英語)]
* [https://archivesearch.lib.cam.ac.uk/repositories/9/resources/1833 The Papers of Admiral Sir Doveton Sturdee] held at [[Churchill Archives Centre]]
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2022年3月20日 (日) 18:57時点における版

ダブトン・スターディー
Doveton Sturdee
フォークランド沖海戦後に撮影されたスターディー海軍中将(当時)
生誕 (1859-06-09) 1859年6月9日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ケントチャールトン
死没 1925年5月7日(1925-05-07)(65歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド サリーカンバリー英語版
所属組織 イギリス海軍
軍歴 1871年 - 1921年
最終階級 海軍元帥
墓所 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド サリー、フリムリー英語版、聖ピーター教会
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初代準男爵サー・フレデリック・チャールズ・ダブトン・スターディー海軍元帥英語版英語: Sir Frederick Charles Doveton Sturdee, 1st Baronet,GCB KCMG CVO1859年6月9日 - 1925年5月7日)は、イギリス海軍軍人

1914年フォークランド沖海戦マクシミリアン・フォン・シュペー率いるドイツ東洋艦隊を破った。

生涯

フレデリック・スターディー海軍大尉とその妻アン・ホドソンとの息子としてケント、チャールトンに生まれた[1]王立海軍兵学校英語版に学んだのち、練習船ブリタニカ英語版付士官候補生として海軍に入隊した[1]。1876年に准尉に昇進、中国戦隊旗艦アンドーンテッド英語版乗組となる[2]。1878年に少尉、続く1880年には中尉となった[3]。同年、ブリッグ船マーティン所属となったのち、翌年からは地中海艦隊所属の魚雷母艦ヘクラ乗組となる[2]。1882年、ウラービー革命下のアレクサンドリア砲撃に参加した[2]

訓練施設ヴァーノン英語版にて水雷課程を修了後、1886年に北アメリカ・西インド艦隊旗艦ベレロフォン英語版付の水雷将校となったが、1889年には教官として再びヴァーノンへと舞い戻っている[1][2]。1893年6月30日、中佐に進級し、海軍工廠局における水雷の専門家として海軍本部に移った[2]。1897年にはオーストラリア戦隊英語版に属する水雷巡洋艦ポーポイズ英語版の艦長となり、1899年にはサモア諸島をめぐるドイツ帝国アメリカ合衆国との緊迫した情勢[注釈 1]への対処に見舞われた[1][2]。この功績により同年6月に大佐に進んだ。年が改まったのちの新年叙勲英語版では聖マイケル・聖ジョージ勲章を得たほか[4]、1900年3月にはウィンザー城で女王ヴィクトリアより直接叙勲を受けた[5]

以降は海軍情報部副部長として海軍本部に戻り、1902年まで同職にあった[1][3]。同年10月に防護巡洋艦ミネルヴァ英語版、翌年には装甲巡洋艦ベッドフォード英語版各々の艦長を務めた。1905年、戦艦ブルワーク艦長・兼地中海艦隊司令長官付の参謀長に進んだ[6]。戦艦キング・エドワード7世艦長、戦艦ニュージーランド英語版艦長と進み、新たに海峡艦隊参謀長の役割も担うこととなった[6][3]。1907年、国王付副官となり[7]、翌年には少将に昇進した[3][8]。1910年に第1戦艦戦隊英語版司令官となり、旗艦セント・ヴィンセントに将旗を掲げている[6]。翌年に海軍本部潜水艦委員会の委員長となり、以降は第3巡洋戦隊、第2巡洋戦隊の司令官(旗艦はいずれもシャノン英語版)を歴任した[6]

1913年に中将となった[9][3]

第一次世界大戦

フォークランド沖海戦にて砲撃を行う英巡洋戦艦インフレキシブル

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、スターディーはサー・ヘンリー・ジャクソン英語版の後任として、ルイス・マウントバッテン第一海軍卿のもとで首席幕僚となった[1]。その在任中の同年11月、クリストファー・クラドック提督率いる英艦隊がドイツ東洋艦隊(指揮:マクシミリアン・フォン・シュペー提督)への対応として派遣されたが、逆に東洋艦隊に翻弄されてコロネル沖海戦で完敗を喫した。この大敗北を受けて、新任のジャッキー・フィッシャー第一海軍卿[注釈 2]はスターディーを新たに東洋艦隊に対応させることに決めた[1]。12月7日、スターディーの指揮する英艦隊はフォークランド諸島ポート・スタンリーに達した[1]。翌8日、ポート・スタンリー軍港に接近した東洋艦隊と会敵した。スターディー艦隊は火力と速力に秀でた巡洋戦艦からなり、旧式の装甲巡洋艦で構成される東洋艦隊を終始圧倒した[11]。スターディー艦隊はこの速力を生かしてアウトレンジにより次々と独艦を撃破した。シュペー提督も大破炎上するシャルンホルストと運命を共にし、僚艦グナイゼナウに「脱走して自らを救え」との信号を送りつつ沈んだ[11]。この海戦の結果、巡洋艦ドレスデンを除いて東洋艦隊は壊滅した[11]フォークランド沖海戦)。

第4戦艦戦隊英語版司令官時代。

スターディーはこの勝利によって1916年に準男爵位を授けられた[12][3]。海戦後はグランド・フリートの第4戦艦戦隊英語版司令官に就任し、戦艦ベンボウに将旗を掲げた[1]ユトランド沖海戦でもこの戦隊を率いて参加している[13][3]

戦後

大戦後の1917年、海軍大将に昇った[3]。1918年、ノア管区司令長官英語版に就任して1921年まで務めている[13][3]。ノア管区司令長官退任とともに海軍を退役、同時に海軍元帥英語版となった[14]。退役後は海事研究学会英語版会長を務めた[1][15]

1925年、サリーカンバーリー英語版にあるウォーグレイヴ・ハウスで死去した[1]

栄典

スターディー家の紋章。

賞罰

イギリスの旗 イギリス

イタリアの旗 イタリア

フランスの旗 フランス

準男爵位

1916年に以下の準男爵位を新規に叙された[12][3]

  • 初代(フォークランド諸島の)準男爵(1st Baronet, of Falkland Is.)
    (勅許状による連合王国準男爵位)

家族

1882年9月23日にマリオン・アデラ・アンドリューズ(Marion Adela Andrews、1940年没)と結婚した[1]

脚注

注釈

  1. ^ サモア諸島の領有権をめぐって、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国が対立した。1899年に三ヶ国協定英語版が結ばれた結果、西経171度線を境として西側をドイツが、東側をアメリカが領有することとなった
  2. ^ マウントバッテン第一海軍卿はコロネル沖海戦前の10月に起こったアントワープ陥落を受けて、チャーチル海軍大臣から詰め腹を切らされ辞職を余儀なくされた[10]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Baddeley, V. W. revised by Andrew Lambert (23 September 2004) [2004]. "Sturdee, Sir Frederick Charles Doveton, first baronet". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/36364 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ a b c d e f Heathcote (2002), p. 238.
  3. ^ a b c d e f g h i j Chisholm, Hugh, ed. (1922). "Sturdee, Sir Frederick Charles Doveton" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 32 (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company. p. 599.
  4. ^ a b "No. 27154". The London Gazette (英語). 16 January 1900. p. 286.
  5. ^ "Court Circular". The Times (英語). No. 36079. London. 2 March 1900. p. 6.
  6. ^ a b c d Heathcote (2002), p. 239.
  7. ^ "No. 28079". The London Gazette (英語). 12 November 1907. p. 7581.
  8. ^ "No. 28178". The London Gazette (英語). 18 September 1908. p. 6760.
  9. ^ "No. 28783". The London Gazette (英語). 19 December 1913. p. 9338.
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  11. ^ a b c 小山内, 宏 著、原田 勝正,針生 一郎,山田 宗睦・編著 編『20世紀の歴史ユトランド沖海戦前後ほか』 27巻、株式会社日本メール・オーダー東京都品川区、1974年1月1日、537頁。ASIN B01N9URPEI 
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  21. ^ Heathcote (2002), p. 235.
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参考文献

  • Heathcote, Tony (2002). The British Admirals of the Fleet 1734 – 1995. Pen & Sword. ISBN 0-85052-835-6 

外部リンク

軍職
先代
サー・ジョージ・キャラハン英語版
ノア管区司令長官英語版
1918–1921
次代
サー・ヒュー・
エヴァン=トマス
英語版
イギリスの準男爵
爵位創設 (フォークランド諸島の)
準男爵

1916–1925
次代
ライオネル・スターディー