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=== ポリス時代 === |
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2021年3月3日 (水) 21:51時点における版
クレタ島 | |
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所在地 | ギリシャ |
所在海域 | 地中海 |
面積 | 8,336 km² |
海岸線長 | 1,046 km |
最高標高 | 2,456 m |
プロジェクト 地形 |
クレタ島(クレタとう、ギリシア語: Κρήτη / Kriti ; 英語: Crete)は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。また、温暖な気候や自然景観から地中海の代表的な観光地でもある。
クレタ島は島全体で、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)を構成する。首府はイラクリオ(イラクリオン)。
名称
日本語では「クレタ」で定着しているが、現代ギリシャ語の発音では「クリティ」である。
ホメーロスの『オデュッセイア』に初めて「クレーテー」(古代ギリシア語: Κρήτη / Krētē)の名が登場するが、語源は不明である。ラテン語で「クレタ」(Creta)となった。
アラビア語ではもともと、Κρήτη をもとに「イクリーティシュ」(アラビア語: اقريطش / Iqrīṭiš)と呼ばれていたが、9世紀にクレタ首長国 (Emirate of Crete) が首都「ラブド・アル・ハンダク」(アラビア語: ربض الخندق / Rabḍ al-ḫandaq、現在のイラクリオン)を建設すると、首都と島は「ハンダクス」(Χάνδαξ / Khandhax)や「ハンダクス」(Χάνδακας / Khandhakas)として知られるようになった。この名は、ラテン語およびヴェネツィア語で「カンディア」(Candia)と転記され、ここからさらにフランス語で Candie、英語でCandyやCandiaと表記されるようになった。
オスマン帝国の支配下では、オスマン語で「ギリット」(كريت / Girit)と呼ばれた。
地理
位置・広がり・面積
クレタ島は、ギリシャ本土から約160km南に離れた地中海東部に位置し、エーゲ海の南縁をなす。島の北側(エーゲ海側)の海はクレタ海、南側はリビア海とも呼ばれる。クレタ島の西北側にはペロポネソス半島とそれに付随する島々があり、アンティキティラ海峡を隔ててアンティキティラ島が浮かんでいる。また、クレタ島の東側には、カソス海峡を隔ててドデカネス諸島に属するカソス島がある。
クレタ島の面積は8,336平方キロでこれは日本の広島県の面積(8,479平方キロ)に相当する。島の形状は東西の長さが260kmであるのに対して、南北の幅は広いところで60km、狭いところ(イエラペトラ付近)で12kmほどという、東西に細長い島である。海岸線の長さは1,046kmに及ぶ。ギリシャ共和国最大の島であるとともに、地中海ではシチリア島、サルデーニャ島、キプロス島、コルシカ島についで5番目に大きな島である。
行政区画としてのクレタ地方(Περιφέρεια Κρήτης)は、南方沖に浮かぶガヴドス島やイラクリオ沖のディーア島など、クレタ島周辺の小島嶼も範囲に含める。クレタ地方に隣接する行政区画は、ペロポネソス半島側がペロポネソス地方、ドデカネス諸島側が南エーゲ地方となる。
地勢
クレタ島の最高峰は、島の中部にそびえるイディ山(プシロリティス、2,456m)である。クレタ島は全体に山がちな地形であり、山々は西部のレフカ・オリ山地(主峰はレフカ・オリ山、2,452m)、中部のイディ山地(主峰はイディ山)、東部のディクティ山地(主峰はディクティ山、2,148m)といったいくつかのグループに分けられる。
これら多くの山々はまた、多くの盆地や谷を形成している。イディ山西南側のケドロス山 (Mount Kedros) (1,776m)との間にあるアマリ谷 (Amari Valley) や、ディクティ山北側のラシティ高原は、山間に開けた肥沃な土地となっている。また、国立公園に指定されている西部のサマリア渓谷や、同じく西部のインブロス渓谷をはじめとして、多くの渓谷・峡谷がある。
気候
イラクリオン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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クレタ島は、地中海と北アフリカの気候区にまたがっている。
島の大部分は地中海性気候であり、温暖である。海との距離によって空気も湿潤であり、冬も気候は穏やかである。山岳部では11月から5月にかけて降雪がみられ、山頂では一年を通じて雪を戴いているが、低地での降雪はまれであり、降ったとしても積雪することはまずない。2004年2月には大寒波が襲来し、全島にわたって積雪したことがあるが、これは非常にまれな事例である。夏季には、日平均気温が20度台後半から30度台前半で推移するが、最高気温は30度台後半から40度台前半に至ることもある。
島の南側の沿岸部では北アフリカの気候区分に属し、一年を通じて日照時間は長く、高温である。ナツメヤシが実を結び、ツバメもアフリカへの渡りを行わずに一年中留まる。島の東南部のイエラペトラなどでは、冬季に温室で夏の野菜や果物を生産している。
主要な都市
人口1万人以上の都市には以下がある。
- イラクリオ (イラクリオ県イラクリオ市) - 130,914人
- ハニア (ハニア県ハニア市) - 53,373人
- レティムノ (レティムノ県レティムノ市) - 27,868人
- イエラペトラ (ラシティ県イエラペトラ市) - 11,678人
- ネア・アリカルナソス (イラクリオ県イラクリオ市) - 11,551人
- アイオス・ニコラオス (ラシティ県アイオス・ニコラオス市) - 10,080人
クレタ島最大の都市は、首府である中部のイラクリオである。この町は歴史上カンディアとも呼ばれた。西部のハニアがこれに続く。このほか、人口1万人以上の都市には、中西部のレティムノ、東部のアイオス・ニコラオスやイエラペトラなどがある。主要都市は北岸(クレタ海側)に集まっており、南岸(リビア海側)に位置するのはイエラペトラのみである。イエラペトラは「ギリシャ最南端の町」であるとともに、「ヨーロッパ最南端の町」ともされる。
歴史
ミノア文明
クレタ島はヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。ミノア期の遺跡には、壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備や、女王のための浴場、水洗式のトイレがあった。水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものであった。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられている。
その当時クレタ島で使われていた言語はミノア語であると考えられている。ミノア語はアルファベットとは異なる象形文字を持ち、これを線文字Aと呼ぶ。線文字Aはいまだ解読されていないが、後世に書体が簡略化された線文字Bは1952年、マイケル・ヴェントリスによって、ギリシャ語である事が判明した。 またミノア語からはクレタ語と呼ばれる言語が派生したと考えられているが、現在は死語であり、資料も地中海沿岸で発見されたものがわずかにあるだけで、これについて分かっていることは非常に少ない。
ポリス時代
ギリシャ各地にポリスが出現していた時代のものとして、クレタ島ドレロス (Dreros、現在のドリロス、アイオス・ニコラオスとプラカ (Plaka) の中間)からは現存する最古(紀元前7世紀)の成文法が発掘されている。コスモスと呼ばれる高位役職者の連続した就任を禁じ、再任の場合には10年を経ることを定めたものであり、特定の者に権力が集中することを防ぐことを狙ったものとみられる。
クレタ島のポリス時代には、他のギリシャ各地とは異なる点が多々ある。
- クレタでは葬制および宗教的慣行について、他のギリシャ各地とは異なり、暗黒時代から前古典期までの連続性がみられる。
- 祭祀が行われた場所は洞穴や山頂など野外であり、神殿のような建造物が少なかった。このことは神殿をアクロポリスに建設し、これを中心に人々が集まってポリスを形成していった他のギリシャ各地と異なっている。前8世紀末から前7世紀にドレロス、ゴルテュン (Gortyn、プリアニスでも神殿が建てられていくが、他の地域の神殿とは構造上の違いがある。)
- 中央部ギリシャで考古学上の痕跡としてみられる、前8世紀に起きた社会の再編成が、クレタ島にはそのような現象が起きていない。
クレタ島史の研究に際しては、前6世紀を通じて考古史料が激減しており、前6世紀初頭の解明が重要な課題とされている。 南クレタの都市国家ゴルテュンでは都市の法律が誰もが目にする公共広場アゴラのわきにある壁の一面に刻まれていた。このゴルテュン法典はクレタその他の南の島々で使われたドーリア方言で書かれた。壁の碑文は、人が立って読むのにちょうどよい高さ1.5メートルくらいの位置に横幅9メートルにわたって刻まれた。全部で600行からなり、商業や契約に関する法も記されていたが、大半は私法的規定である。
古代ローマ帝国から中世へ
紀元前27年、現リビアのキレナイカ地方とあわせて、ローマ帝国がキレナイカ属州を設置。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国 が領有を継承した。
5世紀ごろ、キリスト教の布教が始まる。7世紀末 - 8世紀、クリトのアンドレイが主教を務めた。
イスラム勢力の統治
824年、イベリアのイスラム教徒が侵入。カンディア (Candia、現在のイラクリオン) を建設し首都とする。以降東ローマ帝国による奪還まで、東地中海で略奪を働く海賊の拠点となった。961年、東ローマ帝国が奪回した。
東ローマ帝国の統治
ヴェネツィア共和国の統治
1204年、第4回十字軍に参加していたヴェネツィア共和国により征服される。これによりルネサンス文化が伝えられ、エル・グレコ、ニコラス・カリアキ(哲学者)、ヴィツェンツォス・コルナロス(詩人)などの活躍につながる (クレタ・ルネサンス)。
1348年、ペストが大流行する。以降、1398, 1419, 1456, 1523, 1580, 1592, 1678, 1689, 1703, 1816の各年にも大流行が見られた。これにより人口が流出することもあり、人口が2/3となったこともあった。島外へ逃れたものの中には、コンスタンティン・コルニアクトスのように大陸で大成功を収めたものもあった。
1492年、スペインのレコンキスタから逃れてきたユダヤ人がクレタ島に流入。1627年にはカンディアのユダヤ人の住民は800人、島の人口の7%を占める。
1574年、ジャコモ・フォスカリーニ (Giacomo Foscarini) による非カトリック住民への圧政が始まる。ギリシャ人やユダヤ人には高税が課せられる。この圧政はオスマン帝国による征服まで続く。
オスマン帝国の統治
1644年から1669年にかけて、キョプリュリュ・アフメト・パシャが大宰相として率いるオスマン帝国が、クレタ島の領有権をめぐって争い (クレタ戦争 (1645年–1669年)、カンディア包囲戦)、結果的にオスマン帝国領となる。これにより宗教の違いによる弾圧的な扱いは撤廃され、どの住民も経済的にほぼ等しい権利を持つとして扱われた。現地のギリシャ人がムスリムに転向する例が増える (その後の1900年では、島内のムスリム人口は11%。これらの人々は1923年の住民交換でトルコに強制移住)。オスマン帝国の支配下では、キリスト教徒による反乱が散発した。
近代
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直接の当事者であるオスマン帝国/トルコとギリシャの争いに加えて、欧州列強の介入により国際政治の上では翻弄され続けた歴史を持つ。
- 1830年のロンドン議定書により、オスマン帝国からエジプト (オスマン帝国の属州だったが、ムハンマド・アリー朝としてほとんど独立状態であった) に移される。これ以降、クレタ州成立までキリスト教徒による反乱が散発する。
- 1840年にオスマン帝国に戻される (第二次エジプト・トルコ戦争でエジプトの戦力に脅威を覚えた欧州列強の介入による)。
- 1866年、en:Cretan Revolt (1866–1869)。
- 1888年、クレタ議会選挙で急進派が多数を占めたことから、オスマン帝国がクレタ島に派兵。議会はそれ以降、ギリシャへの併合を目指す。
- 1896年、在アテネの民族協会とギリシャ海軍がクレタに派兵(el:Κρητική Επανάσταση (1895-1898))。欧州列強(英仏露独伊墺)がクレタ島を封鎖し、これを阻止。
- 1898年、列強の圧力により、オスマン帝国の宗主権の元で自治権を持ったクレタ州 (Cretan State) が発足。司法顧問にヴェニゼロスが着任。ゲオルギオス1世の次男ゲオルギオス王子が1898年から1906年までクレタ総督の地位にあった。
- 1905年、en:Theriso revolt。
- 1913年、第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国が領有権を放棄し、ギリシャ領となる。
- 1922年、第二次希土戦争の結果ローザンヌ条約が締結され、これにより翌1923年からギリシャとトルコの住民交換が開始された。イスラム系住人の多くはアナトリア半島沿岸部、シリア、レバノン、エジプトに移住させられたが、その一部は現在から見るとギリシャ人であったとされている。同時にスミルナをはじめとする小アジアからはギリシャ人が移住してきたが、彼らは習慣、方言、食生活等、以前からクレタ島にいた住人とは大きな相違があった。結果的に、クレタ島の民族構成は非常に大きく変わった。
- 1936年、ギリシャ本土のクーデター(八月四日体制)に反抗し、暴動が発生。戒厳令が敷かれる。
- 1941年、第二次世界大戦中にイギリス軍が進駐。本土がドイツ軍に占拠されたため国王、首相がクレタに避難。5月にドイツ軍はクレタにも侵攻し、激しい戦闘(クレタ島の戦い)の末に、駐留していたイギリス連邦諸国軍を追い出した。ドイツ軍の勝利が明らかになってから、ドデカネーズ諸島のイタリア軍がラシティ県に侵攻し占拠した。国王と首相はカイロに逃れた。クレタ市民の相当が、防衛戦で武器を取って戦った為、占領後、ドイツ軍は報復として、1000人以上のクレタ人を処刑したので、クレタ人の反独感情は強く、島の中央部の山間地帯は、イギリスの秘密作戦部に支援された種々のクレタ人抵抗組織が蟠踞しており、ドイツ軍の支配は不十分であった。
- 1943年、イタリアでムッソリーニ政権が失脚すると、島のイタリア軍司令官は、イギリス軍に連絡を取り、イギリス軍による占領・保護を望んだが、イギリス側にはクレタ島侵攻計画はなく、ドイツ軍は先手をとって残りの東部も占領し、イタリア軍を武装解除した。
- 1944年、4月には、クレタ人武装組織の支援を受けたイギリス軍秘密作戦部工作員により、ドイツ軍司令官クライペ少将がエジプトに拉致された。10月には、クレタ人武装組織の圧力により、イラクリオンからドイツ軍は撤退を余儀なくされた。
- 1945年、5月のドイツ降伏に伴い、島のドイツ軍もイギリス軍に降伏。ギリシア政府の要求で、2名の歴代クレタ島ドイツ軍司令官は、連合軍からギリシア政府に引き渡され、戦争犯罪で死刑判決を受け、1945年と1946年にアテネで銃殺された。
戦後、ギリシャ本土は共産党系と反共のせめぎ合いで内戦状態であったが、クレタの住民は、共産党も王家も支持せず、本土とは距離を置いていた。本土で1967年に起きた軍事クーデター以降は、本土との交通、通信の発達の寄与もあり、政治的距離は縮まっている。
社会
宗教
なお、ギリシャ共和国の主要宗教はアテネに大主教座を置くギリシャ正教会であるが、クレタ島だけは同じ正教会でもトルコのイスタンブールにあるコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。
生活
オリーブオイルの世界一年間個人消費量の多いギリシアの中でも消費量が多く。東南部のクリッツァ村は、年間個人消費量が50リットルもある。[1]
行政区画
クリティ地方 Περιφέρεια Κρήτης | |
---|---|
国 | ギリシャ |
首府 | イラクリオン |
所属県 |
ハニア県 レティムノ県 イラクリオン県 ラシティ県 |
知事 | Σταύρος Αρναουτάκης |
人口 | 621,340人 (2011年現在) |
面積 | 8,336 km² (3,219 sq.mi.) |
人口密度 | 75人/km² (193人/sq.mi.) |
公式サイト | www.crete-region.gr/ |
島全体で一つのペリフェリア(地方)である。
県
クレタ地方は、4つの行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)から構成されている。なお、下表の4つの行政区は西から順に配列している。人口は2001年現在。
2010年の地方制度改革(カリクラティス改革)以前は、自治体としての県(ノモス)であったが、2011年1月1日にノモスが廃止されて行政区となった。
行政区名 | 綴り | 政庁所在地 | 面積 Km² | 人口 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | ハニア | Χανιά Chania |
ハニア | 2,376 | 150,387 |
2 | レティムノ | Ρέθυμνο Rethymno |
レティムノ | 1,496 | 81,936 |
3 | イラクリオ (イラクリオン) |
Ηράκλειο Iraklio |
イラクリオ (イラクリオン) |
2,641 | 292,489 |
4 | ラシティ | Λασίθι Lasithi |
アイオス・ニコラオス | 1,823 | 76,319 |
市
クレタ地方には、基礎自治体である市(ディモス)が24ある。
交通
道路
島の北岸を東西に走る GR-90 が幹線であり、欧州自動車道路にも指定されている。
- E65号線 (European route E65) : 〔… - カラマタ〕 - キサモス - ハニア
- E75号線 (European route E75) : 〔… - アテネ〕 - ハニア - イラクリオン - シティア
- 主要な高速道路・自動車道路
- GR-90号線 (Greek National Road 90) : キサモス - レティムノ - イラクリオ - シティア
- GR-97号線 (Greek National Road 97) : レティムノ - ゴルティナ - イラクリオ
空港
港湾
- イラクリオ港
- ハニア港
- キサモス港
- スダ港
- レティムノ港
- アイオス・ニコラオス港
- シティア港
- パレオホラ港
- スファキア港
- ガヴドス港
文化・観光
神話
ギリシャ神話には、「クレーテー」(古代ギリシア語: Κρήτη / Krētē)としてしばしば登場する。
赤子のゼウスは、クレタ島のアドラステイアとイーデーによってアイガイオン山に匿われた。また、エウローペーが牛に変じたゼウスにさらわれ、ボスポラス海峡(牛渡りの海峡)を通ってクレタに辿り着き、その子がクレタ王となって文明が生じたとされる。この他にもホメーロスの『イーリアス』など、クレタ島に関する諸話(「テーセウスとミーノータウロス」や「ダイダロスとイーカロス」など)は多い。
観光
観光スポットとしては、クノッソス宮殿やフェストス遺跡、ゴルティス遺跡などの考古学上の遺跡、またヴェネツィア人がハニアに建てた城といった史跡や、サマリア渓谷やアイア・イリニ、アラデネなどにある渓谷など自然景観が有名である。
出身者
- エピメニデス (紀元前600-500年頃、詩人・預言者、関連項目参照)
- ネアルコス (紀元前360年頃-紀元前300年、マケドニアの将軍)
- メソメデス (2世紀頃、音楽家)
- エル・グレコ (1541年-1614年、画家)
- エレフテリオス・ヴェニゼロス(1864年-1936年、政治家)
- ニコス・カザンザキス (1883年-1957年、作家)
- オデッセアス・エリティス (1911年-1996年、詩人、ノーベル文学賞受賞)
- ナナ・ムスクーリ (1934年- 、歌手・政治家)
- ジョセフ・シファキス (1946年- 、計算機科学者、チューリング賞受賞)
脚注
- ^ エキストラバージンの嘘と真実 140頁
参考文献
- 桜井万里子編『世界各国史 17 ギリシア史』山川出版社 ISBN 4-634-41470-8
- Beevor, Antony (1991). Crete: The Battle and the Resistance. Great Britain: John Murray. ISBN 978-1-84854-635-6
関連項目
- ギリシャの島の一覧
- アルカディ修道院 - 反トルコ蜂起の舞台となった正教会の修道院。
- 自己言及のパラドックス - クレタ人が「クレタ人はすべて嘘つき」と言った…「嘘つきのパラドックス」の代表例。
外部リンク
ペロポネソス地方 | 南エーゲ地方 | |||
クレタ地方 | ||||