「劉夢庚」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m lintエラー修正 |
m Bot作業依頼: 「エン州」→「兗州」などの改名に伴うリンク修正依頼 (井陘鉱区) - log |
||
22行目: | 22行目: | ||
陸軍軍医学校を卒業。以後、[[直隷省 (中華民国)|直隷]]督軍署軍医課課長、保定陸軍病院院長、直魯豫三省巡閲使署軍医総監などを歴任した。[[1919年]]([[民国紀元|民国]]8年)、[[天津市|天津]]造幣廠廠長に就任する。<ref name=Xu>徐主編(2007)、2508頁。</ref><ref name=Ti>天津市河北区政務網</ref> |
陸軍軍医学校を卒業。以後、[[直隷省 (中華民国)|直隷]]督軍署軍医課課長、保定陸軍病院院長、直魯豫三省巡閲使署軍医総監などを歴任した。[[1919年]]([[民国紀元|民国]]8年)、[[天津市|天津]]造幣廠廠長に就任する。<ref name=Xu>徐主編(2007)、2508頁。</ref><ref name=Ti>天津市河北区政務網</ref> |
||
[[1922年]](民国11年)5月、京兆尹に就任し、[[1924年]](民国13年)11月までこの地位にあった。北京政府においてはこの他にも、[[井 |
[[1922年]](民国11年)5月、京兆尹に就任し、[[1924年]](民国13年)11月までこの地位にあった。北京政府においてはこの他にも、[[井陘鉱区|井陘鉱務局]]総弁、京畿司令部副司令、[[密雲県|密雲]]副都統、陸軍第26師駐京弁事処処長、直隷督軍署参議などを歴任している。また、輯威将軍と陸軍上将の位も授与された。<ref name=Xu/><ref name=Ti/> |
||
[[1934年]]([[康徳]]元年)11月、[[満州国]]の[[熱河省 (満州国)|熱河省]]省長に任ぜられる。[[1937年]](康徳4年)7月1日付で退官した。<ref>劉ほか編(1995)、1195頁。</ref><ref>「満州国退官者」『東京朝日新聞』1937年7月1日夕刊。</ref>以後、劉夢庚の行方は不詳である。 |
[[1934年]]([[康徳]]元年)11月、[[満州国]]の[[熱河省 (満州国)|熱河省]]省長に任ぜられる。[[1937年]](康徳4年)7月1日付で退官した。<ref>劉ほか編(1995)、1195頁。</ref><ref>「満州国退官者」『東京朝日新聞』1937年7月1日夕刊。</ref>以後、劉夢庚の行方は不詳である。 |
2021年3月1日 (月) 05:21時点における版
劉夢庚 | |
---|---|
北京政府時代の劉夢庚 | |
プロフィール | |
出生: | 1881年(清光緒7年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清直隷省撫寧県 |
職業: | 政治家・医師 |
各種表記 | |
繁体字: | 劉夢庚 |
簡体字: | 刘梦庚 |
拼音: | Liú Mènggēng |
ラテン字: | Liu Meng-keng |
和名表記: | りゅう むこう |
発音転記: | リウ モンゴン |
劉 夢庚(りゅう むこう)は中華民国・満州国の政治家・軍医。北京政府・直隷派に属し、後に満州国に参加した。字は炳秋。
事跡
陸軍軍医学校を卒業。以後、直隷督軍署軍医課課長、保定陸軍病院院長、直魯豫三省巡閲使署軍医総監などを歴任した。1919年(民国8年)、天津造幣廠廠長に就任する。[1][2]
1922年(民国11年)5月、京兆尹に就任し、1924年(民国13年)11月までこの地位にあった。北京政府においてはこの他にも、井陘鉱務局総弁、京畿司令部副司令、密雲副都統、陸軍第26師駐京弁事処処長、直隷督軍署参議などを歴任している。また、輯威将軍と陸軍上将の位も授与された。[1][2]
1934年(康徳元年)11月、満州国の熱河省省長に任ぜられる。1937年(康徳4年)7月1日付で退官した。[3][4]以後、劉夢庚の行方は不詳である。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 新発現並基本確認的河北区名人旧居居(三)天津市河北区政務網(天津市河北区人民政府ホームページ)
中華民国(北京政府)
| |||
---|---|---|---|
満州国
|