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2021年3月1日 (月) 05:11時点における版
張 龍(ちょう りゅう、? - 1397年)は、元末から明初の軍人。濠州(現在の安徽省鳳陽県)の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。
生涯
姓名 | 張龍 |
---|---|
時代 | 元代 - 明代 |
生没年 | 生年不詳 - 1397年(洪武30年) |
字・別名 | - |
本貫・出身地 | 濠州(現在の安徽省鳳陽県) |
職官 | 花槍所千戸→威武衛指揮僉事→鳳翔衛指揮 →僉大都督府事→世指揮使 |
爵位 | 鳳翔侯(明) |
諡号 | - |
陣営・所属 | 朱元璋 |
家族・一族 | 子:張麟 |
1355年6月、渡江に従った。
1361年8月、江州攻略に都先鋒として参加した。
1366年3月、淮東を攻略し、海安を守った。張士誠軍と海口で戦い、彭元帥を捕らえ、捕虜数百を得た。
1367年7月、通州に侵攻し、賊将を斬った。威武衛指揮僉事に抜擢された。
1368年(洪武元年)、山東・河南平定に参加した。5月、潼関を攻略し、副留守として、これを守った。
1370年(洪武3年)、鳳翔衛指揮となり、鳳翔を守った。賀宗哲が鳳翔を囲んだ。張龍は固く守った。賀宗哲が北門を攻め、張龍は兵を出して戦った。矢傷を右肘に受けたが、動じることなく戦い続け、敵軍を大敗させた。鳳州を攻略し、李参政等20余人を捕らえた。5月、徐達が沔州を攻め、張龍は一軍を率い、鳳翔を経由して興元を攻めた。興元の守将の劉思忠は降伏した。金興旺と共に興元を守った。7月、夏の将の呉友仁が興元に侵攻し、張龍が迎え撃った。呉友仁軍は3万、興元の守備軍は3千であり、守備側が不利な状況にあった。呉友仁は繰り返し攻撃をしかけた。張龍は北門から突出し、敵軍は武器や防具を捨てて敗走した。以後、再び興元を攻めることはできなくなった。僉大都督府事となった。
1378年(洪武11年)、副将として李文忠に従い、洮州を攻略した。鳳翔侯に封ぜられ、禄2千石を賜り、世指揮使となった。
1382年(洪武15年)2月、七星関・大理・鶴慶を攻略し、諸洞の蛮族を平らげた。禄5百石を加えられた。
1387年(洪武20年)1月、馮勝に従い、6月、金山でナガチュを降伏させた。
1388年(洪武21年)、馮勝に従い、雲南へ遠征した。常徳が叛き、軍を去った。張龍は重慶まで追いかけ、これを捕らえた。
1390年(洪武23年)1月、唐勝宗と共に平越・鎮遠・貴州の屯田を行い、龍里衛を置いた。都勻で反乱がおきたときには、藍玉を補佐して、これを平定した。
1397年(洪武30年)、亡くなった。