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[[初平]]年間に[[曹操]]に付き従い、初平3年(192年)に寿張で[[黄巾の乱|黄巾賊]]を破った。初平4年(193年)の[[袁術]]攻撃、[[徐州]]征伐にも従った。 |
2021年3月1日 (月) 05:09時点における版
李 乾(り けん、生没年不詳)は中国後漢末期の武将。子は李整。甥に李典がいる。曹操に仕えた。
正史の事跡
雄々しい気質を有しており、食客数千家を擁して兗州済陰郡乗氏県にいた。
初平年間に曹操に付き従い、初平3年(192年)に寿張で黄巾賊を破った。初平4年(193年)の袁術攻撃、徐州征伐にも従った。
興平元年(194年)、張邈ら兗州の諸将が呂布を招き入れて曹操に反旗を翻すと、曹操は李乾を一族の本拠地である乗氏県に帰し、諸県を慰労させた。李乾は呂布の将である兗州別駕の薛蘭・兗州治中の李封から共に叛くよう促されたが、拒んだために殺害された。子の李整が兵を引き継いだ。
小説『三国志演義』には登場しない。