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2021年1月24日 (日) 22:03時点における版
アブル=アッバース (英語: Abul-Abbas, ラテン語: Abul Abaz, Abulabaz)は、フランク王国カロリング朝の西ローマ皇帝、カール大帝(シャルルマーニュ)が、ときのアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードより贈られたとされる象の名。
この象の呼び名を含め、その贈与のいきさつについては、同時代に編纂されたと思われるフランク王国年代記に詳しい[1][2]。また、アインハルトの『カール大帝伝』にも「象」の贈物について、事実を違えて略述されている[3][4][注釈 1]。また、ノトケル・バルブルス『カール大帝行伝』(Gesta Caroli Magni)にも記述があるが、これはより後年に編纂された作品である[6][注釈 2])。ただ、アッバース朝側の記録には、そうした一連の事実は伝わっていない[8][9]。
当時代の記録
中近東からヨーロッパへ
ハールーン・アッ=ラシード から進呈された生きた象の運搬は、カール大帝の王命を帯びてバグダードに行きフランク王国に帰還する使節、ユダヤ人イザーク (ラテン語: Isaac)の手にゆだねられた。(以下、「イザーク」はじめ、人名はラテン読みではなくドイツ読みを用いる)。
『フランク王国年代記』によれば、カール大帝は、ときを遡ること4年(つまり797年)にバグダードに座するハールーン・アッ=ラシード へイザークを含む3人の使節団を派遣していたが、801年になって、かれら3人の消息をイスラーム教圏側の使者のつてより知ることとなった。報によれば、イザークは象を託されて帰途についたものの、のこるラントフリートとジギムントは死んだという[2][10]。報せをもたらした使者のひとりはハールーンが差し遣わした者だったが、もうひとりはアフリカ(アグラブ朝イフリーキヤ)の総督イブラーヒーム・イブン・アル・アグラブからの使者であった[2][11]。 これを聞くやカール大帝は、エルカンバルトという名の書記官〔ノタリウス〕を リグーリア州 (ジェノヴァ市のある州) に派遣して、その象などの荷を搭載するための船団を手配させた[2]。
史書いわく、このときイザークは、アフリカを経由したが[2]、研究家によってその精密な航路の再現が試みられており、エジプト沿岸にそって、イフリーキヤを経由し、 その王都カイルーアン(現今のチュニジアに所在)に座する前述のイブラーヒーム総督からの援助をあるいは受けながら、同国の港カルタゴを出港し、地中海を渡り、イタリアへたどりついたとの仮説がたてられている[12][13]。
ともあれ、『フランク王国年代記』によれば、「ユダヤ人イザークは象を伴いアフリカより帰還し(ラテン語: Isaac Iudeus de Africa cum elefanto)」[2]、ポルトヴェーネレ (ジェノヴァ市ちかく)に801年10月、帰港した[14][2]。しかし冬が迫るためヴェルチェッリに留まり、翌年までアルプス越えを延期した。そしてようやく802年7月20日にカール大帝の王宮のあるアーヘンに到着した[15][2][10]。
死
810年、カール大帝は、フリースラントを侵したデンマーク王 ゴズフレズの艦隊を迎撃しようと遠征に出た。ライン川を渡河したのち「リッペハム」(ラテン語: Lippeham)という場所で、3日間のあいだ残りの軍の結集を待っていたが、その間に「サラセン人の王アーロンから贈られた象 (ラテン語: elefans ille, quem ei Aaron rex Sarracenorum miserat)」、が急死したとしている。[1][2] 「アーロン」とは、「ハールーン」のラテン読みである。
象は王都に残されて死を迎えたのではなく、カール大帝の遠征にともなわれて「リッペハム」で死んだものと一般に解釈されている。書籍によっては、より穿った見方をして、戦象として利用するつもりであったと解説している[16][17][10]。
死に場所
象が死んだとされる「リッペハム」があった実在の場所の確たる特定はできまいが[18]、「リッペ川の河口」[18] (すなわちライン川との合流点)、言い換えれば現今のノルトライン=ヴェストファーレン州ヴェセル市あたりとするのが通説である[19][20]。この説については、すでに1746年[21] (あるいは1735年[22])に、 J. H. Nünning (Nunningus)(1675 - 1753) 他が出版した「書簡」 において「リッペハム」はヴェセル市だと指摘されており[23]、そこから出土した巨大な骨が、その(ミュンスターの?)博物館の所蔵品であり、あるいはアブル=アッバースの遺骨の一部ではないかと推察された[24]。その後1750年初頭に、ガルトロップ貴族領〔ヘルシャフト〕内では、リッペ川での漁獲で巨大な骨が見つかり、これについても当時アブル=アッバースの遺骨との憶測がなされている[22]。
アブル=アッバースの死に場所の異説として、リチャード・ホッジズなどは、リューネブルガーハイデに所在するとするが、そこは、上述のヴェセルがあるラインラント地方どころか、ライン川からは程遠い土地である[25]。
近年の著書
近年の著書のいくつかには、上述の『フランク王国年代記』などの史料に裏付されない内容や詳細も書かている。
陳列と死亡
たとえばアブル=アッバースがやってきたとき、それを目の当たりにした民衆を驚かせながらドイツ・フランスの町々に見世物として行進した[17]、具体的にシュパイエル、シュトラスブルク、ヴェルダン、アウクスブルク、パデルボルンなどを通り皇帝の威光を誇示した[16]、象はやがて(現今の南バイエルンの)アウクスブルク市に飼育小屋を与えられた[17]、などとする諸書籍がある。
また、象が死んだとき40歳を超えていた、だとか、カール大帝の遠征に連れて行かれた時にはリウマチの既往症があった、などとも書かれている[16]。こうした書籍によれば、「冷涼で雨勝ちな天候」 のさなか、 アブル=アッバースは肺炎を発症したのだという[16][17]。その世話係たちは、ようやく象をミュンスターまでたどり着かせることができたが、そこで象は倒れて息絶えた、などとしている[16]。
白象
近著のなかには、アブル=アッバースがアルビノもしくは白象と断ずるものがある。早い例では、アメリカのWillis Mason West の著作(1902年)に「白い象」だとの記述がある[26]。さらに1971年、ニュージーランドの歴史学者ピーター・マンツが著した大衆向けの本にやはり「白い象」だったとの記述があるが、ある書評者はこれを誤謬としており、自分の知るかぎり白象であるという証拠はないとしている[27]。 また、「白象」への言及は、2003年にアーヘン市で開催された展示会に付帯する出版物『Ex oriente : Isaak und der weisse Elefant』の題名にもあるが、そこに収録された Grewe 、Pohle 共著の寄稿では「カール大帝への有名な贈物のひとつに(白い?)象があった」と、疑問符を加えている[28]。
インド象
近著のなかには、アブル=アッバースがインド象だと[16]断じている書がある一方で、アフリカ象の可能性も十分にあり、どちらかは判じかねると説く文献もある[29]。
関連項目
脚注
補注
- ^ 事実を違えているのは、たとえば「カール大帝が、.. 聖墳墓教会へ派遣した使者たちが、ハールーンのもとへやってきて.. (聖墳墓)がカール大帝の管轄に置かれることに同意した」という部分。実際はハールーンにではなくエルサレム総主教庁へ遣わせたのであり、聖墳墓とゴルゴタの丘の鍵を託したのは、恭順ではなく敬意を示したに過ぎない。また、アインハルトによれば、ハールーン・アッ=ラシードは、自分が持っているたった1頭("quem tunc solem habetat")の象を差し出した、とあるが、これはアインハルトの創作とされる[5]。
- ^ ノトケルはハールーンが象と何匹かの猿を贈ったとするが、801年の象の贈答を807年にあった別の贈答の事件とないまぜにしている[7]
出典
- ^ a b 『フランク王国年代記』ラテン語原典'Annales regni francorum 801年、802年の項 (Kurze 1895, p. 116, Monumenta Germaniae Historica 版)
- ^ a b c d e f g h i 『フランク王国年代記』英訳(Scholz 1970, p. 81-2)
- ^ 『カール大帝伝』英訳(Thorpe 1969, p. 70)
- ^ 『カール大帝伝』英訳(Thorpe 1969, p. 70)
- ^ Thorpe 1969, p. 184 (巻末註)
- ^ 『カール大帝行伝』英訳( Thorpe 1969, p. 145-6)。
- ^ Thorpe 1969, p. 195 (巻末註)
- ^ a b Sherman, Dennis; Salisbury, Joyce. The West in the World, Volume I: To 1715. 1 (3 ed.). New York: McGraw-Hill. p. 220. ISBN 0-07-331669-5. OCLC 177823124, "Chroniclers of the 'Abbasid caliphate, on the other hand, never mentioned these interactions"
- ^ ハールーンのもとへカール大帝が使節団を送ったことも、ハールーンが象を贈答した事実もイスラム教徒側の当時の史料にない。これは、ハールーンにとってカール大帝が少王侯だったから、だという書籍もある[8]。
- ^ a b c d Kistler, John M.; Lair, Richard (2006). War elephants. Greenwood Publishing Group. pp. 187–188. ISBN 0-275-98761-2
- ^ Scholz 1970, p. 82, "..and the envoy of Emir Abraham, who ruled on the border of Africa in Fustât"; Scholz 1970, 801年の注4, "Harun al-Rashid, emir al Mumenin.. appointed Ibrahim ibn al'Aghlab governor of Africa about 800. Fustât, his place of residence is Abbasiya near Kairwan in southern Tunis.."
- ^ Grewe, Klaus; Pohle, Frank (2003), 'Der Weg des Abul Abaz von Bagdad zu Aachen, , Ex oriente : Isaak und der weisse Elefant : Bagdad-Jerusalem-Aachen : eine Reise durch drei Kulturen um 800 und heute (Mainz am Rhein: P. von Zabern): p. 66-69, ISBN 380533270X (2003年にアーヘンで開催された展示会の付属カタログのうちの一篇)にあるが、カルタゴ経由を提唱したという説明は: “Klaus Grewe - Frank Pohle, Der Weg, etc.”. Medioevo latino (Centro italiano di studi sull'alto Medioevo) XXV: 336. (2004) ., quote: "The motives for Issac's particular route from Baghdad to Carthage, via ship from Carthage to Protovenere (near Genoa, and north via Vercelli and St. Bernard's pass to Aachen, are illuminated (I. D.) |2683"に短く書き留められている。
- ^ Sypeck, Jeff (2006). Becoming Charlemagne. HarperCollins. pp. 172-3ISBN 0-06-079706-1 (この書籍も、Grewe & Pohler 2003を参考文献としいている。)
- ^ Annales regni francorum Anno 801 (Kurze 1895, p. 116, Monumenta Germaniae Historica 版)
- ^ Annales regni francorum Anno 802 (Kurze 1895, p. 117, Monumenta Germaniae Historica 版)
- ^ a b c d e f Dembeck, Hermann (1965). Animals and men. Natural History Press. p. 264. ISBN 1-598-84347-8 (参照:Dembeck, Mit Tieren leben, 1961)
- ^ a b c d Kistler, John M. (2011). Animals in the Military: From Hannibal's Elephants to the Dolphins of the U.S. Navy. ABC-CLIO. p. 91. ISBN 1-598-84347-8 (Hodges, Richard を出典としている) (参: Kistler & Lair 2006)
- ^ a b Becher, Matthias (1999). Karl der Grosse. C.H.Beck. p. 61. ISBN 978-3-406-43320-7, 引用文:"den Rhein bei Lippeham (an der Mundung der Lippe?)"
- ^ Barth, Reinhard (2005). Karl der Grosse. Buch Vertrieb Blank. p. 12. ISBN 978-3-937-50114-7
- ^ Newfield, Timothy (2012). “A great Carolingian panzootic:the probable extent, diagnosis and impact of an early ninth-century cattle pestilence”. ARGOS (46): 203. オリジナルのunknown時点におけるアーカイブ。 .
- ^ Nünning, Jodocus Hermann; Cohausen, Johann Heinrich (1746), “Epistolae IV: De osse femoris Elephantini”, Commercii literarii dissertationes epistolicae (Frankfurt am Main): p. 44, after Oettermann, Die Schaulust am Elefanten (1982) p.98, note 117
- ^ a b J.G. Leidenfrost (1750年7月7日). “Nachricht von einigen Überbleibseln des Elephanten Abdulabbas”. Duisburger Intelligenz-Zettel (XXVII) ., citing Nünning et al.
- ^ Nünning & Cohausen 1746, p. 44, "..os Elephantini femoris, ex inculto ad Rheni ripam agro haud procul Luppiae ostiis, olim Luppemunda, Luppeheim, Lippeham, Lippekant, & Lippia dictis. ubi vetus celebrisque Regum Francorum Carolingicae Stirpis olim fuit curia, hodie VESALIA dicta" (「象の大腿骨がライン川岸の野から出土したが、そこはリッペ川の河口、つまりルッペムンダ、ルッペハイム、リッペハム、リッペカント、リッピアなどとも呼ばれ、かつてカロリング王朝の歴代王が開廷した、現今のウェサリア(ヴェセル)である」
- ^ Nünning & Cohausen 1746, p. 48, Itaque os Musei nostri cum Elephantis fit,.. ad exuvias ABULABAZII Carolo M. ab Aarone Persarum Rege dono submissi"
- ^ Hodges, Richard (2000). Towns and Trade: In the Age of Charlemagne. Duckworth Publishers. p. 37. ISBN 978-0-715-62965-9
- ^ West, Willis Mason (1902). Ancient history to the death of Charlemagne. Allyn and Bacon. p. 521n, "white elephant"
- ^ Cowdrey, H.E.J. (January 1970). “Review: Life in the Age of Charlemagne by Peter Munz”. The Journal of Ecclesiastical History 21 (1): 75 .doi:10.1017/S0022046900048466。引用: "I know of no evidence that Harun al-Rashid's present to Charlemagne was literally a 'white' elephant."
- ^ Grewe & Pohle 2003, p. 66: "Zu den für Karl den Großen bestimmten Geschenken gehörte ein (weißer?) Elefant, "
- ^ "We know very little about the elephant; some accounts say it was African, others an Indian beast."[10]
参考文献
- Kurze, Friedrich, ed (1895). Annales regni Francorum (741–829) qui dicuntur Annales Laurissenses maiores et Einhardi. Post editionem G. H. Pertzii. Scriptores rerum germanicarum in usum scholarum. 6. Hannover. pp. 116-117
- Monumenta Germaniae Historica (電子版).
- Scholz, Bernhard Walter (1970). Carolingian Chronicles:: Royal Frankish Annals and Nithard's Histories. Barbara Rogers (co-translator). Ann Arbor: University of Michigan Press. pp. 81-2. ISBN 9780472061860. LCCN 77-83456
- Thorpe, Lewis (1969). Einhard and Notker the Stammerer: Two lives of Charlemagne (7 ed.). Penguin Classics. p. 184. ISBN 0-14-044213-8