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{{基礎情報 武士
[[File:Ryoun Takamatsu.jpg|thumb|高松凌雲]]
| 氏名 = 高松 凌雲
'''高松 凌雲'''(たかまつ りょううん、[[天保]]7年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1837年]][[1月31日]])- [[大正]]5年([[1916年]])[[10月12日]])は、[[幕末]] - [[明治]]の[[医師]]。現在の[[福岡県]][[小郡市]]出身。権平。荘三郎。[[箱館戦争]]においては[[箱館]]病院を開院。その後、民間救護団体の前身と言われる[[同愛社]]を創設。日本における[[赤十字社|赤十字]]運動の先駆者とされる。
| 画像 = Ryoun Takamatsu.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 高松凌雲
| 時代 = [[江戸時代]]末期([[幕末]]) - [[大正]]時代
| 生誕 = [[天保]]7年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1836年]][[1月31日]])
| 死没 = [[大正]]5年([[1916年]])[[10月12日]]
| 改名 = 幼名:権平
| 別名 = 通称:荘三郎
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 = [[江戸幕府]][[幕臣]]
| 主君 =
| 藩 =
| 氏族 =
| 父母 = 父:高松与吉、養父:''川原弥兵衛''
| 兄弟 = 長兄、[[古屋佐久左衛門]]、'''凌雲'''
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
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'''高松 凌雲'''(たかまつ りょううん)は、[[幕末]]から[[明治]]時代[[幕臣]]・[[医師]]。現在の[[福岡県]][[小郡市]]出身。通称は荘三郎。[[箱館戦争]]においては[[箱館]]病院を開院。その後、民間救護団体の前身と言われる[[同愛社]]を創設。日本における[[赤十字社|赤十字]]運動の先駆者とされる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 幕府に登用されるまで ===
=== 幕府に登用されるまで ===
高松凌雲は、天保7年(1836年)12月25日、[[筑後国]](現・福岡県)で庄屋のとして生まれ20歳の時[[久留米藩]]家の川原の養子となった。22歳で[[江戸]]にいる兄・[[古屋佐久左衛門]]を頼って上京し、医師を志すようになる。
天保7年(1836年)12月25日、[[筑後国]](現・福岡県)で[[庄屋]]・高松与吉3男として生まれ[[安政]]3年([[1865年]])、21歳の時[[久留米藩]][[老]]・有馬飛驒家臣・川原弥兵衛の養子となるが、安政6年には脱藩して[[江戸]]にいる兄・[[古屋佐久左衛門]]を頼って上京し、医師を志すようになる。


まず、その当時、蘭方医([[オランダ]]医学)として著名だった[[石川桜所]]の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学んだ。その後、大坂に出て全国から俊才が集まっていた[[適塾]]に入塾し、[[緒方洪庵]]の指導を受けた。凌雲はここでも頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、[[オランダ語]]を自由に操るまでになる。更に、幕府が開いた英学所で学び、英語もマスターした。
まず、その当時、蘭方医([[オランダ]]医学)として著名だった[[石川桜所]]の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学んだ。その後、大坂に出て全国から俊才が集まっていた[[適塾]]に入塾し、[[緒方洪庵]]の指導を受けた。凌雲はここでも頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、[[オランダ語]]を自由に操るまでになる。更に、幕府が開いた英学所で学び、英語もマスターした。
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[[明治]]11年([[1878年]])12月、[[医師会]]の席上、医師会長であった凌雲は、貧民を無料で診察する組織「同愛会」の設立を提案する。この提案は支持を集め、翌明治12年([[1879年]])、民間救護団体の前身と言われる同愛社が創設された。この同愛社により診察を受けた貧民は、70万人とも100万人とも言われる。
[[明治]]11年([[1878年]])12月、[[医師会]]の席上、医師会長であった凌雲は、貧民を無料で診察する組織「同愛会」の設立を提案する。この提案は支持を集め、翌明治12年([[1879年]])、民間救護団体の前身と言われる同愛社が創設された。この同愛社により診察を受けた貧民は、70万人とも100万人とも言われる。


大正5年(1916年満79歳で死去。墓地は東京都台東区の谷中墓地(乙5号2側)。
大正5年(1916年)10月12日肺結核のため、東京にて81歳で死去。墓地は東京都台東区の谷中墓地(乙5号2側)。
故郷の小郡市古飯に「高松凌雲先生誕生之地」の碑が建つ。


== 伝記 ==
== 伝記 ==
*林洋海『医傑 凌雲』([[三修社]] 2010年6月)
*林洋海『医傑 凌雲』([[三修社]] 2010年6月)
*[[吉村昭]]『夜明けの雷鳴 医師高松凌雲』([[文藝春秋]]、2000年/[[文春文庫]]、改版2016年)
*[[吉村昭]]『夜明けの雷鳴 医師高松凌雲』([[文藝春秋]]、2000年/[[文春文庫]]、改版2016年)
== 参考文献 ==
*アクロス福岡文化誌編纂委員会編 『福岡県の幕末維新』 [[海鳥社]]、2015年。


== 扱われた作品 ==
== 扱われた作品 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[古屋佐久左衛門]]
*[[佐野常民]]
*[[佐野常民]]
*[[伊東友賢]]
*[[伊東友賢]]
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.ogorimii-med.net/takamatsu 小郡三井医師会 高松凌雲]
*[http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/takamatsu_ryo.htm はこだて人物伝]


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[[Category:筑後国の人物]]
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[[Category:福岡県出身の人物]]
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[[Category:1916年没]]
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2021年1月19日 (火) 16:11時点における版

 
高松 凌雲
高松凌雲
時代 江戸時代末期(幕末) - 大正時代
生誕 天保7年12月25日1836年1月31日
死没 大正5年(1916年10月12日
改名 幼名:権平
別名 通称:荘三郎
幕府 江戸幕府幕臣
父母 父:高松与吉、養父:川原弥兵衛
兄弟 長兄、古屋佐久左衛門凌雲
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高松 凌雲(たかまつ りょううん)は、幕末から明治時代の幕臣医師。現在の福岡県小郡市出身。通称は荘三郎。箱館戦争においては箱館病院を開院。その後、民間救護団体の前身と言われる同愛社を創設。日本における赤十字運動の先駆者とされる。

生涯

幕府に登用されるまで

天保7年(1836年)12月25日、筑後国(現・福岡県)で庄屋・高松与吉の3男として生まれる。安政3年(1865年)、21歳の時に久留米藩家老・有馬飛驒の家臣・川原弥兵衛の養子となるが、安政6年には脱藩して江戸にいる兄・古屋佐久左衛門を頼って上京し、医師を志すようになる。

まず、その当時、蘭方医(オランダ医学)として著名だった石川桜所の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学んだ。その後、大坂に出て全国から俊才が集まっていた適塾に入塾し、緒方洪庵の指導を受けた。凌雲はここでも頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、オランダ語を自由に操るまでになる。更に、幕府が開いた英学所で学び、英語もマスターした。

慶応元年(1865年)、凌雲の学才を知った一橋家が、凌雲を一橋家の専属医師として抜擢する。ほぼ時を同じくして一橋家出身の徳川慶喜が第15代将軍となったため、凌雲は幕府から奥詰医師として登用されることとなった。

フランス留学

慶応3年(1867年)、日本はパリ万国博覧会に参加することになる。幕府は、倒幕運動で国内が混乱しているなか、国際社会から認知を受け、幕府の主権を固める意図を持っていた。将軍慶喜は弟の昭武を代表に日本代表団を派遣することとし、凌雲は西洋医学の知識と語学力が評価されて代表団の随行医に選ばれた。パリ万博を終えると、留学生としてパリに残るよう言い渡される。資金は幕府負担である。

留学先は、オテル・デュウ(HOTEL-DIEU:神の家)という病院を兼ねた医学学校であった。「神の家」では麻酔を用いた開腹手術なども行われていた。しかし技術の差以上に凌雲に衝撃を与えたのは、「神の家」に併設された貧民病院であったという。ここでは、貧しい人たちに無料で診察・治療していた。無料の貧民病院とは言え、設備は十分に揃えられ、診察も「神の家」に所属している医師や看護婦が一般患者と同様に行っていた。しかもこの病院は貴族、富豪、政治家などの寄付によって成り立っており、国からの援助を受けない民間病院であった。

箱館戦争

しかし、その留学生活も1年半で幕を閉じることになる。徳川慶喜による大政奉還、そして、鳥羽・伏見の戦いの勃発など、日本が混乱状態に陥ったためである。凌雲が江戸湾に到着した時には、すでに幕府は崩壊し、江戸城薩長勢に明け渡され、主君である慶喜は水戸で謹慎中という状態であった。凌雲はパリに留学させてくれた幕府への恩義に従い、蝦夷地幕臣の国を作ろうとした榎本武揚らに合流。箱館戦争に医師として参加する。

箱館に入ると、凌雲は箱館病院の院長に就任する。これは榎本の依頼ではあったが、「病院の運営には一切口出ししないこと」という条件を榎本につけたという。ここで凌雲は、戦傷者を敵味方を問わず治療した。当然、最初は敵方の兵士と共に治療されることに対して混乱・反発が生じたが、凌雲はパリ留学で学んだ精神を胸に、毅然とした態度でこれを制したとされる。この行動は日本で初めての赤十字の活動であった。

ほどなく、箱館戦争は旧幕府軍の敗北で終結する。凌雲も榎本らと行動を共にした立場ではあったが、敵味方の差別なく治療に当たり、また高い医学知識を持っていることは新政府にも評価され、特に大きな処罰を受けることはなかった(ただし、箱館戦争の終戦処理においては、黒田清隆が「有為な人材を失うことは国家の損失」と主張したことで、皆が比較的寛大な処罰に止められており、凌雲が取り立てて贔屓をされたということではない)。

箱館戦争後

箱館戦争後、凌雲は東京に戻って鶯渓病院を開院した。新政府での役職の誘いが多数来たが、それら全てを断り、町医者として「神の家」の精神を実行する道を選んだ。この病院は成功し、また貧窮の家庭には治療費を無料にしてはいたものの、一方で自身のみで対応できることにも限界があった。凌雲は、他の医師の協力も得て組織的に無料診察を行う必要性を痛感するようになった。

明治11年(1878年)12月、医師会の席上、医師会長であった凌雲は、貧民を無料で診察する組織「同愛会」の設立を提案する。この提案は支持を集め、翌明治12年(1879年)、民間救護団体の前身と言われる同愛社が創設された。この同愛社により診察を受けた貧民は、70万人とも100万人とも言われる。

大正5年(1916年)10月12日、肺結核のため、東京にて81歳で死去。墓地は東京都台東区の谷中墓地(乙5号2側)。 故郷の小郡市古飯に「高松凌雲先生誕生之地」の碑が建つ。

伝記

参考文献

  • アクロス福岡文化誌編纂委員会編 『福岡県の幕末維新』 海鳥社、2015年。

扱われた作品

関連項目

外部リンク